天一国時代の祈祷
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第一章 祈祷と信仰

第一節 祈祷の本質と目的

一 祈祷とは何か

 祈祷は、自分を対象の立場に立て、その対象に対する主体を立てるためにするのです。したがって、その主体の基準に合わせていくのが信仰の道です。(一七−二五七、一九六七・二・一二)

 祈祷とは縦的な絆を結ぶためのものであり、精誠は横的な絆を拡大するためのものです。(二−九−二一六、一九九一・八・二九)

 祈祷は天に対する誓約であり、宣誓であり、そして宣言です。(二四〇−三五、一九九二・一二・一一)

 祈祷は、神様と対話をすることです。ですから、特別な場所に座って祈祷するよりも、日常の生活の中で、天とともに同化することができる時間をもたなければなりません。そのような時間が祈祷の時間となりうるのです。このように見るならば、言葉でする祈祷よりは、歌でする祈祷のほうが感動的です。そのような祈祷を通して、自分自身が神秘境に引き込まれていくのを体験することができます。(二七〇−一七、一九九五・五・三)

 感動して歌う歌が最高の祈祷です。そのような歌を歌う人たちの目をじっと見つめると、感動のような何かがあります。それで「ああ、ここから新しい歴史が始まるのだな」ということを感じることができます。(一七−二一、一九六六・一一・六)

 祈祷をするというのは「私は神様の人である。サタンは私にタッチできない」と宣布することです。それゆえ、「絶えず祈りなさい」(テサロニケ一五・17)と言ったのです。(二七九−一七三、一九九六・八・四)

 祈祷というものは、自らの意識を忘れてしまうのです。そのようになると、縦的な世界の波長が影響を及ぼすのです。(二九六−二〇一、一九九八・一一・九)

 バイオリン奏者は、自分のバイオリンを磨いて触り、数多くの練習をしたために、そのバイオリンの音がすべて分かります。それで、そのバイオリンと一体となった立場で演奏するので、その音が神秘的になるのです。同様に、だれでも天のために真心を込めることができなければなりません。祈祷はそのように真心を込めることのうちの一つです。(二四一−一七九、一九九二・一二・二四)

 祈祷というのは、心と体を神様の前に捧げることです。神様に物を捧げるのではなく、心と体を捧げる時間が祈祷の時間です。(二八−二五、一九七〇・一・一)祈祷する時間というのは、供え物を捧げる時間です。「神様、あなたに悲しみがありましたら、その悲しみを私によって蕩減してくださいませ。それのみならず、教会のすべての悲しみまでも私によって蕩減してくださいませ」と言いながら、供え物になることを誓う人がいるならば、神様はその人を訪ねてこられるはずです。必ず、神様はその人を中心として因縁を結ぽうとなさるのです。天の役事は、そのような人を通じてのみ前進することができるので、神様は、そのような人を中心として因縁を結ばざるをえないのです。(四二−七〇、一九七一・二・二一)

 祈祷は、精神を浄化するために必要なものです。精神を浄化し、統一をするために必要なのです。(一八一−三二二、一九八八・一〇・三)

 人々が精誠を捧げるとき、山の上でよく祈祷をします。谷間で祈祷する人はいません。海辺で祈祷する人もいません。山頂のような高い場所でするのです。それはなぜでしょうか。縦的な極点により近い所へ行こうとするためです。(二一二−七〇、一九九一・一・二)

 祈祷はなぜしなけれぱならないのですか? 縦的な刺激を受けるためです。(一七一−一九、一九八七・一二・五)

 すべてを愛の心で克服することができる人は、祈祷を完成した人です。そのような人には、祈祷が必要ありません。(一一二−五二、一九八一・三・二九)

 有能な医者は、患者の顔色を見ただけでも、何の病気か分かります。同様に、皆さんも霊的に鑑定することのできる能力がなければなりません。そのためには、精緻を捧げなければなりません。祈祷しなさいというのです。祈祷は恐ろしいものです。それは言葉なく環境を占領することができるのです。(二〇七−三四九、一九九〇・一一・一一)

 祈祷しなさい。祈祷は心情の補給庫です。祈祷する時間がなければ、自分の仕事を通じてでも祈祷することができなければなりません。(二七−八五、一九六九・一一・二六)

 心情がグーグー鳴るときは、ご飯を食べなければなりません。そのご飯は何かといえば三つあります。第一に何でしょうか? 祈祷することです。祈祷するのは、呼吸するようなもので、ご飯を食べるのと同じです。その次には何でしょうか? 伝道すること、み言を伝えることです。その次には愛です。(一二七−一四四、一九八三・五・七)

 祈祷をたくさんしなさい。祈祷をたくさんすれば、一人で生活しても絶対に孤独ではありません。祈祷は呼吸をするのと同じです。祈祷をたくさんすれば、霊的に明るくなります。また、善悪に対する分別力が生じます。(三〇−二八二、一九七〇・四・四)

 掃除をしなければなりません。心の掃除をしなければならないのです。そのために祈祷しなければならないのです。(二七−八五、一九九六九・一二・一四)


二 祈祷の目的

 皆さんは「終りの日」を迎えて、この地である指導者を求める前に、まず本然の心を求めなければなりません。それで、キリスト教では、祈祷を通して神様の心情を求めていき、仏教では座禅を通して人間の本然の心を求めていくのです。(四−一六一、一九五八・四・六)

 私たちが祈祷する目的、あるいは仏教徒が座禅を通して無我の境地に入っていく目的は何でしょうか。それは、心の核心を求めようということです。皆さんがその心の核心を見いだすならば、神様に出会うことができるようになるでしょう。(二−一九三、一九五七・五・一九)

 神様がそこにいたいと思い、イエス様もそこにいたいと思う、その所は、天の宝座ではありません。イエス様も祈祷をするとおっしゃいました。そのようにイエス様が祈祷する理由は、まだ清算しなければならない条件が残っているからなのです。そして、神様もそのような祈祷を受けてくださらなければならない立場におられます。なぜでしょうか。まだ神様の心情が清算できていないからです。

 地上に神様の実体を立てられず、イエス様が使命を果たせなかったので、神様とイエス様のその問題が解決されるまで、神様は祈祷を受けてくださらなければならず、イエス様は祈祷をしなければならない責任があるのです。このようにして、二千年という歴史が流れました。(八−一〇一、一九五九・一一・二二)

 祈祷というのは、願いと希望が成されることを願う心でするものです。神様に、自分自身がそれを成就することができるよう、能力を満たしてくださるようにお願いするのです。(二一−一八一、一九六八・一一・二〇)

 祈祷を通じて霊界を動員しなさい。(一三−一六一、一九六四・二・一七)

 自分が多くの怨讐たちと戦って勝利するには、どのようにしなければなりませんか? 非常作戦を展開しなければなりません。奇襲作戦や誘導作戦を展開しなければならないのです。そうではなく、正面から戦おうとすれば、力が強くなければなりません。ところが、自分の力が足りないので、神様の力を借りなければなりません。それで祈祷するのです。その戦いが神様のみ旨にふさわしいとき、その祈祷は成就するのです。ですから、祈祷する者は、苦難の中で災い転じて福となすことができるようになるのです。(一九−一四五、一九六八・一・一)

 皆さんの心と体は、一つにならなければなりません。今まで、皆さんの心が願わないのに、口がブツブツ言いました。それゆえ沈黙の時間が必要です。「この口のやつ、閉じろ!」と言わなければなりません。神様のみ言に代わることができる者になってから、口で話すことを願うのが本然の願いです。ですから、祈祷は何よりも自分白身の統一のために必要なのです。(一八四−三〇一、一九八九・一・一)

 すべての宗教家が祈祷する目的は一つになるべきです。自分たちの教派よりも、世界のために祈祷して願い、進んでいかなければなりません。(二五−四五、一九六九・九・二八)

 今まで宗教家たちの祈祷は、「神様! 恵みを下さいませ! 祝福してくださいませ!」と言うだけでした。彼らの祈祷は、神様の目的を成就するためのものではなく、自分自身の欲望を満たすためのものでした。そのようにして神様を利用してきました。そのような人々の宗教は、歴史とともに消えていくということを先生ははっきりと知っています。歴史とともに消えない宗教を立てなければなりません。(二二九−一〇六、一九九二・四・一一)

 祈祷には主題がなければならず、目的がなければなりません。祈祷をするとき、だれのためにしますか? これが問題です。だれのために祈祷しますか? 神様は、どのような祈祷を喜ばれるでしょうか。神様のために祈祷するのを喜ぱれるでしょうか、祈祷する人自身のために祈祷するのを喜ばれるでしょうか? 神様のために祈祷するのを喜ばれるのです。ですから、神様のみ旨に従っていく自分自身とならなければなりません。自分自身を先頭に立たせることはできないのです。

 神様が東におられれば、自分も東に行こうという祈祷、神様が西に行くことを希望されれば、自分も西に行くという祈祷をすべきなのです。神様が西に行くのを願われるとき、いくら自分が東にいるのだと祈祷してみても通じません。神様を中心として、神様のみ旨を成し遂げるために祈祷すべきであって、自分白身を中心として自分の思いを果たすために祈祷してはいけないのです。

 ところが、今日一般の既成教会の人々が祈祷するのを聞いてみると、全部自分の息子、娘、自分の家、自分の国のために祈祷します。神様を中心として宇宙を考え、世界を考え、万民を考えながら祈祷する人はいません。祈祷の方向が間違っています。主題が違います。主題が違うのです。目的が違うのです。(一六一−一四二、一九八七・一・一八)


三 祈祷をする理由

 私たちは、神様を失ったと同時に、真の父母を失ってしまいました。あるとき、「神様、なぜうちの父は、私の救い主になれないのですか? どうして、私を生んでくれた父母は、私の救い主になれないのですか?」と言いながら祈ったことがあります。この地上にそのような父母をもつ人間がいるなら、イエス様は信じず、救いを受けなくても幸福であるでしょう。本来はそのようになるべきでした。ところが、エデンの園で堕落した人間始祖の子孫であるので、救い主が必要なのです。(九−一三六、一九六〇・五・一)

 なぜ祈祷をしなければならないのでしょうか。主体を確定するために必要なのです。人間は、絶対的な主体を願っているのです。その主体がだれかといえば神様です。ですから、皆さんが祈祷するとき、絶対的な主体を確定したのか、神様は本当にいらっしゃるのか、主体意識が確定されたのかという問題が重要です。自分自身は絶対的な主体に対する絶対的な対象なのです。ですから、絶対的な主体の前に服従しなければなりません。(一〇八−八〇、一九八〇・六・二二)

 エデンの園で堕落した人間始祖の子孫たちは、肉身に制裁を加えてでも祈祷しなければなりません。祈祷は堕落した人間始祖の子孫たちに必要なものであって、そうでない人間には必要ありません。(一五−一五九、一九六五・一〇・七)

 祈祷は、堕落によって生じるようになったのです。したがって、人間が復帰され、完成されれば、祈祷する必要のない時代が来ます。(一〇一−一〇一、一九七八・一九・二二)

 ダイズを植えればダイズが出て、アズキを植えればアズキが出てくるのと同様に、生命を植えてこそ生命が出てくるのです。歴史の最初に植えられた生命の種を収穫しようとするなら、復帰摂理が終わるまで、投入し、努力しなければなりません。それゆえ、祈祷、精誠、修養のようなものが必要なのです。(二四五−三〇七、一九九三・三・一四)

 皆さん、なぜ祈祷をするのですか? いたずらに、なぜ祈祷をするのですか? 神様は、皆さんが祈祷してくれることを願って、皆さんをつくったのですか? 神様は、人間が自らの事情をもって祈祷することに接してくださりながら苦痛をお感じになります。ですから、悲しい神様であるという結論が出てくるのです。(一六−一一五、一九六六・三・一三)

 祈祷は何かといえば、「神よ、再創造のみ手をお収めにならないでくださいませ!」ということなのです。「私がまだ一つになるためのあなたの創造理想のとおりに完成できていないので、創造のみ手をお収めにならず、続けて私の足りないところを満たしてくださいませ!」という意味で祈祷するのです。自らの足りないところを満たしてほしいというのです。(二三七−一四三、一九九二・一一・一三)

 なぜ祈祷をしなければなりませんか? サタンを屈服しなければならないからです。サタンを追放することが問題です。神様と一つになって、サタンを追放しようというのです。人が良心と一つになれば、サタンより高い次元に上がるのです。堕落したアダムとエバより高い次元に上がるために、サタンを追放することができるのです。(二七五−三〇九、一九九六・一・一)

 宗教の役割は、人間の心にポンプで力を加えてあげようということです。祈祷は何のためにするのですか? 肉身の力よりも強い心の力を補充するためです。その心の力が補充されるためには、理念がなければならないのです、理念が。自分が、ある中心と一つになったという確固たる信念がなければなりません。(一五五−三〇、一九六四・一〇・六)

 祈祷するときは、悲しみで始めて、無限なる喜びで終わる立場、すなわち前進する立場にならなければなりません。また、喜びで始めたならば自分自身を中心として喜ぶのではなく、より大きな次元を中心として喜べなかったことに対して悲しみを感じる立場とならなければなりません。そのような立場は、新しい熱意を抱いて出発していく立場です。

 自分を中心として喜びで出発したとしても、その立場がより大きな次元を中心として考えてみるなら、言葉では言えない悲しい立場になりうるのです。そのような立場で、悲しみを感じながら、新しい出発の動機を見いだすことができなければなりません。したがって、そのような立場では、神様と一つにならなければなりません。(三六−一一三、一九七〇・一一・二二)

 人間は有限な存在です。しかし、無限な次元にどのように入っていくことができるかということが問題です。このように有限な人間が無限の次元に入っていくことができるためには、固着した意識観念をもっていてはいけません。それゆえ、仏教を信じる人々は、座禅を通して無の境地に入っていこうとするのです。

 人間は何かということを考える前に、まず人間の心が何であるかを考えなければなりません。自分が何かということよりも、心が何かということがもっと大きな問題です。「私」は、心と体でできています。では、体を離してしまった心はどのようなものでしょうか。それがどのようなものであるという認識が自分によって意識されたものであるならば、それは完全なものではありません。無我の境地の純粋な立場で意識されたものであってこそ完全なのです。そのような超自我的な境地に入らなければなりません。

 そのような境地に入っていくことができる人は、予言をすることができるのであり、未来を透視することができます。そのような人は、堕落した立場に置いておいても、自ら飛び出すことができます。そのような人格があるのです。皆さんがそこに到達するためには、熱意がなければなりtせん。新しい熱意がなければならないのです。ですから、そのような熱意を育てなければなりません。それは、何によって育まれるのでしょうか。祈祷によって育まれるのです。(三六−一一四、一九七〇・一一・二二)

 祈祷するときの姿勢はどのようにするのが望ましいでしょうか。できるだけひざまずいて座って祈祷するのがいちばん良いのです。そのように体を拘束しなければなりません。それで、体の苦痛と不便さを克服することができる深刻な何かがなければならないのです。そうしてこそ天の側の人となり、その祈りが神様の前に届くのです。

 イエス様も夜を徹して祈祷し、過去に天の仕事をした人々も祈祷せずしては大きなことはできなかったのです。そのような姿勢で祈祷した後に、その祈祷の内容が成就しうる時を待つ心がなければならないのです。皆さんは祈祷をしておいてすべて忘れてしまうでしょう。それではいけません。(一〇四−一一〇、一九七九・四・一五)

 祈祷することよりも、その時間に人のために犠牲となり、奉仕するほうがもっと貴いのです。祈祷は、精誠を尽くしても能力が足らないときにするものです。自分自らできることに対して、どうして祈祷が必要でしょうか。ですから、祈祷をするなら、神の国と神の義のためにしなさいというのです。世界と神様のために祈祷するのです。そのような祈祷は、いつも神様が祝福してくださいます。(一〇四−一〇七、一九七九・四・一五)

 祈祷とは祈ることです。その祈るということは何かというと、主体と対象の関係を築くことなのです。何の主体と対象の関係を築くのでしょうか。愛の主体と対象の関係を築くのです。そのような主体と対象の関係を中心として祈らなければなりません。自分自ら、何かをすることができる自信がなければ祈祷するのです。自分自ら何かをしなければならないという刺激を受けることができなかったならば祈祷するのです。「死ぬことがあっても、私はこの仕事をします。死んだとしても、私は神様にしがみついて死んでいきます」と言わなければなりません。

 ですから、祈祷は誓いです。宣言なのです。「私がこのようにします」と言うのです。そうすれば神様が、「うーん、そうか。そのようにしてみなさい!」と言われるのです。皆さんが祈祷したとおりに実践しながら、峠を一つ越え、二つ越えて、三つ越えるようになれば、神様もじっとごらんになって、「こいつは合格だ!」と認めてくださるのです。祈祷して実践しない人は偽善者になります。次第に神様の前から遠ざかるのです。先生も神様のみ旨のために行動する際に、自信がないとき、「神様、私に力をくださいませ!」と言いながら祈祷すれば、神様が九十五パーセント協助してくださいます。(一一二−五四、一九八一・三・二九)

 何か問題が生じて困難になったら祈祷するのです。一人で心配しないで、困難なときは神様の前に祈祷するのです。「私には神様の愛の道に従っていくべき運命があるのではありませんか。しかし、妨げとなるものが多いので、助けてくださいませ!」と言うのです。それはどれほどすてきかというのです。「私がそのように歩むのを、父母が願い、兄弟が願い、世界が願い、神様も望まれるのではないでしょうか」と言うとき、神様は「そうだ」とおっしやるのです。

 そのようなとき、「ならば私に力をくださいませ! 一度だけ、私をもっと押し出してくださいませ!」と言いながら夜を徹して、四時、五時まで祈祷して出て行きなさい。そのように祈祷したので、明け方から飛び出していかなければならないのですが、外はまだ暗いのです。それで東の空を見上げながら、「太陽よ、早く昇れ!」と言いながら座っている姿はどれほどすてきでしょうか! 神様がごらんになるとき、その姿がどれほど美しいだろうかというのです。皆さんが祈祷をするときいその祈祷の味を知らない人は発展することができません。ご飯を食べる以上に、祈祷をおいしいものと思わなければなりません。(一一二−六三、一九八一・三・二九)

 あらゆる努力を傾けても成就しないときに祈祷するのです。眠らず、食べなくても努力することができるのに、「神様、助けてください!」と言うことができますか? 神様は皆さんの僕ですか? それはサタンが讒訴するのです。先生は難しい問題が生じても祈祷しないのです。「お父様、心配しないでください! 私は堂々と、男らしく行きます。私は正義の血が沸き立つ男です。このように生涯を戦ってきたとおりに、最後まで行きます。私は自力で行きます! 私自ら蕩減復帰のために先頭に立たなければならないのではありませんか」と言うのであり、「神様、助けてください!」とは言いません。

 努力もしないで、どういう祈祷をして、何を願いますか。祈祷というものは、努力を尽くした後にすることができるのです。自分の努力が及ばず、倒れるときに祈祷しなければならないでしょう。昼寝をしながら、休みながら、ありとあらゆることをすべてやりながら祈祷するのは、附いてくださいません。そのような祈祷を聞いてくださる神様ではありません。先生の知っている神様はそのようなかたではありません。正義の神様なのです。歴史に恥を残さない神様なのです。

 皆さんがそのような立場で祈祷するのを聞いてあげれば、歴史に恥ずかしい神様となるのです。剛直な性格と強靭な心をもった者だけが、天のための身代わりとなり、後継者となることができるのです。そのような自分自身となることができるかというのが問題です。(四二−一二四、一九七一・二・二八)

 今日、数多くの宗教家たちが祈祷をします。しかし、私はむやみに祈祷することはできません。「ああ、私は監獄に入れられて、死ぬようになったので生かしてください!」という祈祷をすることができないのです。監獄に入れば、口を閉じてじっとしているのです。神様に申し訳なく祈祷ができません。

 しかし、祈祷しないというのも何なので、祈祷を捧げるべきであるとするならば、国と世界のためにするのです。「あなたが願われる国と世界を求めていくにおいて、私がその足場となることができるようにしてくださいませ」と祈れば、神様も「おお、使えるな」と言われます。

 しかし、「ああ、私は死にそうです。私が統一教会の先生になって忠誠を尽くしましたが、このような姿、このようなありさまになりました」と言えば、神様は見向きもされないというのです。「おい、こいつ! おまえは落第だ」と言いながら、落第の烙印をボンと押されるというのです。

 今日、あらゆる人たちが祈祷するのをじっと聞いてみると、「ああ、神様! 生きておられる神様! 愛があふれ、能力が豊かで、無所不在であられ、万能であられるので、うちの息子、娘、うちの夫、うちの親に福を下さいませ!」と言います。そのような祈祷はする必要がありません。(一二七−二六、一九八三・五・一)

 既成教会の人々は、楽に座って「神様、何々を助けてください!」と言いながら、習慣的に祈祷します。何かどうのこうのと言いながら、安易に祈祷をします。しかし、先生は粘り強い祈祷をするのです。神様にすがって服が裂ければ裂けたで放さないのです。「どのようにするのですか?」と言いながら、けんかするのです。十年を一日のように、ひたすらすがってぶら下がるのです。一度握ったら、手首が切れるまでは放さないのです。(一〇六−一三〇、一九七九・一二・二四)

 前に先生は、ひざまずいて祈祷すれば十二時間が普通です、十二時間。この手がすべて凝り固まるのです。タコができるのです。それで祈祷の場は、数年間、涙で濡れていました。皆さんがレスリングをやって汗を流す以上に、そのような祈祷をしたのです。綿入れのパジとチョゴリに汗がしみ込んで、絞れば汗の滴が落ちるほどに祈祷しました。だれもできないことをしようとするので、そのようなことをせざるをえなかったのです。だれでもそのような中で「これだ!」と言うことのできる何かを発見すれば、それはどれはどうれしいでしょうか。そのように猛烈な人が「後に、将来よくしてあげよう!」という言葉を聞いて離れると思いますか? 決死的だったのです。(一〇六−一三〇、一九七九・一二・二四)

 祈祷は、愛を実践するために必要です。絶えず、愛を実践することができる刺激を受けるために祈祷が必要なのです。(一一二−五九、一九八一・三・二九)

 愛の心は自分よりも大きい対象を訪ねようとするのです。そのように大きなものを求めていく所に天が臨むのです。自分の家庭を守るためには、氏族と一つにならなければなりません。氏族が維持されるためには、国家と一つにならなければならず、国家が維持されるためには、世界と一つにならなければなりません。神様を中心として、地上天国、天上天国も一つにならなければならないのです。ところが、愛がなければ、それらすべては一つになることができません。

 ですから、毎日のように、祈祷をこのようにしなければなりません。「神様、わが家に臨んでくださいませ!」と言うべきだというのです。「なぜか?」と言えば「神様から大きな愛を私たちの家庭に伝授されるためです」と言うのです。そのように祈祷しなければなりません。(二八七−二九五、一九九七・一〇・六)

 神様が祝福してくださり、恵みを施してくださると、そこには必ず迫害がやって来るのです。ですから、どのように昼も夜も打たれて越えていくかを考えなければなりません。自分のために祈祷してはいけません。国と世界のために祈祷しなければなりません。すべての世界が全部み旨に合うようになれば、祈祷はしなくてもよいのです。

 しかしながら、その時はまだ来ていません。皆さんは、その時が来るまで祈祷し続けなければなりません。皆さん、今そのようにしていますか? 祈祷をしてから、なぜ自分の祈祷は聞き入れてくれないかと言うでしょうが、それが幸福なことなのです。十年間精誠を尽くし、一生の間精誠を尽くしたのに、祈祷を聞いてくださらなかったら、それが幸福だというのです。打たれないでいることができる天の保護圏内にあるというのです。そうしながら発展するのです。そうして、個人的な蕩減時代を越え、氏族的な蕩減時代を越え、民族的な蕩減時代を越えていかなければなりません。(二九−二二二、一九七〇・二)


四 祈祷の効力

 最も威力があるのが祈祷です。それは不可能を可能にすることができるからです。(九一−一〇一、一九七七・二・三)

 いつでも、難しい問題があるときは、祈祷をして解決していかなければなりません。その祈祷は、神様の心情的基準を中心として関係を結ぶのです。真の意味で国を心配し、神様を心配する心から祈祷をするようになれば、神様がすべての問題を解決してくださるようになっています。(三三−一三一、一九七〇・八・一一)

 祈祷の力は偉大なのです。涙を流しながら夜を明かして祈祷すれば、朝が来るように感じることができる偉大な力があります。(一九二−二三三、一九八九・七・九)

 だれでも祈祷生活をするようになると、大きくて偉大な力が訪ねて来るのです。ですから、祈祷する人の目はその力によって肉界だけでなく、霊界までも透視することができるのです。(一八−六六、一九六七・五・二一)

 どれほど祈祷の力が大きいかということを知らなければなりません。自分万人が祈祷して、無限な世界である霊界を動かして動員することができるというのは偉大なことです。ですから、祈祷というものは方位磁石のような作用をするのです。そのような力をもっています。それゆえ、皆さんが「成就する」と信じて祈祷すれば、そのまま成就するようになるのを見ることができるでしょう。(七六−二九八、一九七五・九・二一)

 京畿道のある都市の私たちの教会の周辺に家が七軒ありました。そこにいた人たちは、皆私たちを追放しようという人たちでした。ところが、私たちがその家々をすべて買ってしまいました。彼らがすべて滅び、荷物をまとめて逃げていったのです。

 どうしてそうなりうるのでしょうか。自分の先祖たちが夜ごとに殴るというのです。ですから、夜寝ることができないのです。「こいつ! ここにいたら皆死ぬぞ!」と言って、役事をしたのです。そのように霊界からすべての家々を売らせました。その動機は何かといえば、祈祷だったのです。それで祈祷は怖いのです。四年間の祈祷で全部苦境に陥ってしまったのです。祈祷にはそのような何かがあります。(二二七−一九六、一九九二・二・一)

 皆さんが新婦になろうとするなら、新郎が必要です。女性たちにとって、堕落した世の中の男性たちは偽者の男性で、本物の男性は先生です。その愛の道理に従わなくては天国に行くべき道が曲がってしまいます。死んでみなさい! そうすれば、私の話が合っているか、いないかが分かるでしょう。祈祷してみなさい。統一教会の皆さんはすべて体験しているでしょう? (二二七−二八一、一九九二・二一四)

 いくら世の中で恐ろしいといっても、私以上に恐ろしい人はいないでしょう。私が、だれかに死ねと祈祷すれば、三か月で終わるのです。しかし、そのような祈祷はしません。人に対して死ねという祈祷はできないのです。(二三八−三〇九、一九九二・一・二二)

 祈祷と奉仕というものは恐ろしいものです。祈祷する者や奉仕する者は、戦わずして祈祷して奉仕してあげた者のすべての基盤を譲り受けるようになります。自分が祈祷してあげた者が、その責任を全うできなければ、その人の基盤がこちらに移ってくるのです。そのように、戦わずして、すっかりできあがっている基盤を伝え受けて発展していくのです。(二五六−七七、一九九四・三・一二)

 祈祷は、心を体より二倍、三倍強くします。それで心と体が、レスリング選手と子供のようになるのです。ですから、心が体を思いどおりにコントロールすることができるようになるのです。そのようになるとき、サタン圏を越えて、天国に上がることができるのです。(二七九−一七三、一九九六・八・四)


第二節 祈祷する方法

一 体を心に屈服させなさい

 祈祷するときにどのようにしなければなりませんか? 皆さんの心を水平線のようにしなければなりません。皆さんの体を水平線のようにしなければならないのです。水平線のような所には世界があります。世界と個人が水平線のように横的に通じなければならないのです。

 皆さんが、「神様、私が参りました」と祈祷するとき、「おまえはだれか? 金氏の家庭を代表しているか?」と聞くならば、「はい!」と答えなければならないのです。それから大韓民国の人ならば、「韓国を代表しているか?」と言えば「はい!」と言い、それから、アジアの人ならば、「アジアを代表しているか?」と言えば「はい!」と言わなければならず、それから、「おまえは世界を代表しているか?」と言えば「はい!」と言って答える声がさらに大きくならなければなりません。(一七八−五六、一九八八・六・一)

 人の心と体の勢力は、ほとんど同じであるために闘うので、心にもっと強い力を与えなければなりません。それで「祈祷しなさい、精誠を尽くしなさい!」というのです。「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、あなたの神を愛せよ。これがいちばん大切な、第一のいましめである」(マタイ二二・37)と言いました。精誠を尽くしたら、天から強力な垂直の力が垂直に下りてくるのです。そうして体を約三年間、引っ張り回しながら習慣化させなければなりません。そのようにするためのものが宗教生活です。(二〇〇−一五一、一九九〇・二・二四)

 「絶えず祈りなさい」(テサロニケ一五・17)と言いました。悪魔は二十四時間皆さんを通じて活動することができます。しかし、神様は縦的なところにだけおられます。人間の心は縦的なのです。神様は縦的な場にだけおられるので、人間の心を通じることなくしては活動することができません。サタンは三六〇度どこでも活動することができるので、人間の体は打ち勝つことができないのです。

 人間の心は垂直的なものであって一つです。垂直的なものは一つです。二つはありません。平面上の一点から、垂直的なものが二つありえますか? 一つしかありえません。その垂直的な場で祈祷すれば、心に力を受けて、体をコントロールすることができます。そのように三年ないし五年の間、習慣化させなければなりません。それが宗教の目的です。(二〇一−一五五、一九九〇・三・三〇)

 私自身、心を中心として体をどのように治めるかという問題が重要です。皆さんは皆さん自身を信じることができますか? 信じることができません。どうして信じることができないのですか? 体が心よりも強いので、信じることができないのです。(二〇一−二九一、一九九〇・四・二九)

 人間の心と体の勢力がほとんど同じで行ったり来たりするので、心が体をコントロールすることができるように心に力を補充することのできるもう一つの方法を神様は求められました。それは、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、あなたの神を愛せよ」と言われたことです。そのようにして心の力を受けなさいと教えられました。(五四−二八、一九七二・三・九)

 毎朝これを祈祷するとき、神様と自分の心をつなげなければなりません。それで、神様と対話するのです。そのように対話しながら何でも聞いてみると、すべて教えてくださるのです。方向感覚を失わないようにするには、東がどこなのかを知らなければなりません。精神を集中して祈祷すれば、すべて分かるようになるのです。ですから、「心田」、心の畑を開発しなければならないのです。心田開発、このような言葉が必要です。(二七五−四二、一九九五・一〇・三〇)

 良心の命令に絶対的に服従することができなければなりません。そうすれば肉身の欲望は消えていきます。そのような生活が習慣化されなければなりません。それゆえ祈祷が嫌いで、断食が嫌いで、奉仕が嫌いでも、そのようにすることができる習慣性を付けなさいというのです。三年、五年以上そのようにしなければ、喜びを感じることができません。祈祷、断食、奉仕の味が分からないのです。(二五七−三〇九、一九九四・三・一六)

 良心を神様のように絶対視して生きるならば、間違いなく天国に行きます。そうすれば宗教は必要ありません。祈祷も必要ありません。完全な解放です。皆さん、宗教が必要ですか? 統一教会も大変でしょう? 蕩減だ何だと言ってです。蕩減して何をするのでしょうか。良心を解放するのです。

 そのように蕩減しながら、肉身を屈服させるのです。そのように肉身の屈服が習慣化されなければなりません。そのようにならなければ心が休まりません。そのような習慣性を付けて良心の屈服する肉身とならなければなりません。そのような習慣性を付けるための生活が宗教生活です。(二五七−一一六、一九九四・三・一三)

 堕落が何かといえば、長成期の完成級で堕落的な愛の因縁を結んだことです。それで長成期の完成級にあった良心よりも、堕落的な愛の力が大きくなりました。その愛の力を日常生活でどのように克服するかということが問題です。それを解決するのが宗教の責任です。

 ですから、宗教では体を打ちなさいというのです。犠牲になりなさいというのです。断食しなさいというのです。そのようなことを体が好みますか、嫌いますか? 死んでも嫌だというのです。「徹夜祈祷しなさい1情欲を断ち切りなさい。独身生活をしなさい!」ということにすべて反対なのです。

 三年ないし五年間、良心を絶対的な立場に立たせておいて、体を屈服させる習慣を付けなければなりません。そうすれば祈祷するのが面白くなります。聖書を読みながら良心の世界を求めるのが面白いというのが習慣化されなければなりません。そのように習慣化されていますか? (二五三−二一、一九九四・一・二三)

 祈祷するとき、心の姿勢を正さなければなりません。どの方向に祈祷すべきかを知って、祈祷しなければなりません。山にもひなたがあり、日陰があり、半ばひなた、半ば日陰があります。そのような場所よって方向が変わるのです。自分の心がどこを好むのかを知らなければなりません。その心が主体です。「ああ、あそこだ! あそこに行かなければ!」という気持ちに従って祈祷すると、祈祷もうまくいき、試練も受けないのです。

 濁った水をさあっと静めたら澄んだ水が浮かぶでしょう? 澄んだ水は軽いので上に浮くのです。人の心がそのようになれば、その日にいかなることがあるだろうということが分かるのです。そのように心を開発しなければならないのです。最初は分からずにしゃにむに祈祷するのです。それではどれほど大変でしょうか。こうして「神様、どこにいる?」と言えば、腹の中から「ここにいる、こいつ!」と言われるのです。(二五二−九四、一九九三・一一・一四)


二 縦的な立場に立って祈祷しなさい

 皆さんは一生の間に供え物的な祈祷の時間があるということを知らなければなりません。そのときは神様が訪ねてこられる時です。恵みが下りる時です。皆さんが祈祷してみれば分かるでしょう。不思議で霊妙な体験をするようになれば直ちに知るのです。

 そのような祈祷の方向は、人によって変わります。朝、昼、夕方だけではなく、春夏秋冬の季節と各自の素質によって、祈祷と精誠の方向が異なります。時間も異なります。朝に祈祷をしてこそ恵みを受ける人がいるかと思えば、ある人は昼に、ある人は午後に、ある人は早朝に祈祷してこそ恵みを受けるのです。そのように異なるのです。その人の素質によって異なるのです。(四八−八八、一九七一・九・五)

 すべてのものは、垂直に下りてくるものに対して水平にならなければなりません。その水平は垂直と九〇度になります。七五度になれば、どちらかに傾くようになります。しかし、垂直は変わりません。ですから、水平が垂直と九〇度になることができるように合わせなければなりません。それ以外には方法がありません。同様に、神様の愛も垂直であるために、人間がその愛とつながるためには、人間自ら角度を合わせる以外には方法がないのです。

 そうならなければ、「ああ、私の望みをかなえてくださいませ!」といくら祈祷しても、神様は動かれません。完成の路程は、垂直を通してつながるところにあるとお考えになる神様に対して、一五度や七五度の角度では、いくら叫んだとしても、相対してくださることのできない神様の立場であることを知らなければなりません。(二〇五−四九、一九九〇・七・七)

 宇宙の根本が何かという問題をもっていくら祈祷しても、神様は教えてくださらないのです。だれにでも教えてあげられない内容であるということを知らなければなりません。それは不思議でしょう? 神様が教えてくだされば、天下が一日にして統一されるでしょうに。

 それは人間が罪を犯したので、その罪を清算しなければなりません。人間が未知の立場に落ちたので、その未知の立場を克服しなければならないのです。それは、病気が治った人でなくては、病院から退院することができないのと同じなのです。そのような人でなければ、神様は何も教えてくださることはできません。(一九八−一〇四、一九九〇・一・二五)

 先生も修行する過程でいちばん悩んだのがそれです。サッと祈祷してこの角度が合いそうになると、ずれるというのです。電波で言えば、周波数を合わせるときのように、ういーんといって響くのです。そうして、これが合うときにぐるっと過ぎていくのです。これをどのように合わせるかというのが問題です。知ってみると、体の角度が違っていたのです。九〇度になるべきなのに、七〇度や六〇度になっているので、一つになることができなかったのです。(一九七−一七六、一九九〇・一・一三)

 皆さんが祈祷するとき、神様が答えますか? いくら祈祷しても、「神様、私は死にます」と言ってもお答えになりません。しかし、自分が天地を代表した者として神様と九〇度を合わせて相対的な立場に立つようになれば、自動的に答えが出てきます。(一七八−五九、一九八八・六・一)

 夜、祈りを終えてから寝ても、朝起きれば申し訳なさを感じなければなりません。そのように祈祷して祈祷しても申し訳ないという気持ちをもたなければなりません。そのような気持ちが先んじなければなりません。いくら「もう少し休もう、楽に暮らそう」と言いながら、良くなることを願ったとしても良くなることはありえません。(三〇一−一八五、一九九九・四・二六)

 一体、神様はどこにおられるのでしょうか。神様がお住まいになる所はどこでしょうか。神様は愛に定着なさいます。もし男性、女性の二人がいるなら、彼らのための神様はどこにおられるでしょうか。神様は変わらない愛の底辺におられるのです。それはどういう意味ですか? 男性と女性が一つになれば、神様が中心になられるのです。(二二四−一四八、一九九一・一一・二四)

 皆さんは祈祷するとき「ああ、天の宝座におられる天のお父様…」と言うでしょう? それは違います。間違っているというのです。人間の良心におられるのです。先生があきれ返ったことは何だったでしょうか。神様は、霊界がどうであり、愛の根本問題が間違っていることをすべて教えてくださったというのです。知ってみると、すべて神様が教えてくださったというのです。ところが、堕落のためにすべて乞食になったのです。(二五二−三一五、一九九四・一・五)

 皆さんの心は縦的で、皆さんの体は横的です。それで、縦的な立場に立って祈祷をしなければならないのです。そうすれば、心に力を得るようになります。そのように心が力を得れば、体を主管するのに何の問題もなくなります。(二〇三−八〇、一九九〇・六・一四)

 心はいつでも縦的な場に入ろうとします。そこですべてのものをさらけ出して祈祷するのです。サタン側に属するすべてのものをさらけ出すのです。地を掘って自分の体を埋葬するのと同じです。完全にここで体がゼロの状態に落ちるのです。そこから心が体をコントロールすることができます。縦的な立場で神様と一つになることによって、心が大きくなり、体をコントロールするので、何の問題もなくなるのです。

 そうでなければ体を容赦なく打たなければなりません。それで宗教世界において、犠牲になりなさいと言い、断食しなさいと言うのです。そのようにでもしてこそ、体の側がどんどん下りていって、本然の心の側でコントロールするにあたって問題がなくなるのです。(二〇五−一八〇、一九九〇・九・一)

 神様は垂直に通じるので、縦的な場に入って祈祷しなければなりません。ほのかで聖なる所がそのような場です。(二一一−二五〇、一九九〇・一二・三〇)

 「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ二二・37)とありますが、それは縦的な愛です。それが第一の戒めなのです。二つ目は何でしょうか。「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マタイ二二・39)というのです。

 どのような人に、隣人をそのように愛しなさいというのですか? 第一の戒めを守る人に、隣人もそのように愛しなさいというのです。この二つの戒めは、縦横になっています。ですから、すべてその縦横の戒めに拍子を合わせ、生涯路程を通過しなければなりません。

 ところで、祈祷が必要だというのはどういう意味でしょうか。だれでも横的なことに時間をたくさん消耗すれば、縦的な概念が弱くなるのです。それゆえに、そのように分けておかなければならないのです。これを明確にしておかなければなりません。それで、縦的な基準がいつも横的な基準に影響を及ぼすようにしなければならないのです。(一八五−一六一、一九八九・一・一七)

 今日の世の中の監獄生活よりも恐ろしいものが堕落圏内に包囲されているという事実です。この堕落世界を抜け出すということが、どれほど途方もないことであるかを知らなければなりません。世の中の監獄には刑量がありますが、サタン世界には刑量もありません。血統的な根から汚されたのです。

 この根をいかに変えるのですか? それが問題です。女性たちの産みの苦しみより数百倍大変な道を歩んでいかなければならないのです。それゆえ、イエス様も休まずに祈祷しなさいと言われました。人間の背後に途方もない包囲網が広がっているので、休まないで祈祷しなければならないのです。(二一三−九九、一九九一・一・一六)


三 祈祷の公式

 堕落した人間始祖の子孫である人間は、霊的にサタンが支配するのです。実体的にもカイン型である人間に主管されます。そのように両面にわたっているのです。神様に対してサタンが身動きできなくても、カイン型の人間は戦うことができるのです。サタンがいなくてもカイン型の人間か思いのままにすることができます。ですから、神様が選んだ人が残らなければ、神様も役事しうる方法がありません。今までそうだったでしょう? 神様も人間的な土台がなければ身動きできなかったでしょう?

 しかし、世界がサタン世界なので、サタンはいつでも思いどおりにすることができます。それで、神様が愛する家庭が出てくれば、サタンは四方八方に飛び跳ねながら妨げることができます。ですから、神様は今まで不利な立場で作戦を立ててこられました。いつもサタンは両面作戦を立てることができますが、神様は一面作戦しか立てることができません。その一面作戦も、人間が「神様…!」と祈祷を捧げてこそ立てることができるのであって、そうでなければその作戦も立てることができないのです。(五五−二一四、一九七二・五・九)

 皆さんが祈祷する場は天に属した所ではありません。それだけでなく、皆さん自身も神様が直接主管することのできる内容を備えている人々ではありません。このように直接主管圏外にいる人が祈祷するとき、神様がその祈祷に応答してくださるというのは、簡単な問題ではないのです。そのような立場にある私たちが祈祷するとき、神様はその祈祷を聞いて訪ねてくることはできないのです。

 例えば、一つの国の大統領ならば、大統領が末端にいる民を訪ねていくには、様々な複雑な問題が持ち上がるのと同じです。それは霊的な世界においても同じです。皆さんは、至高至聖なる神様に祈祷を捧げますが、その祈祷を受けられる神様の立場と皆さんの立場の間には顕著な隔たりがあるというのです。(三二−一五六、一九七〇・七・一二)

 皆さんが精誠の限りを尽くせば、神様の力が臨むようになるのです。例えば、カエルに電気が通じるように、その能力が入ってくるようになれば、その能力に支配されるのです。それゆえ、精誠を尽くす人たちの中で天と通じない人はいないという事実を知っています。それでイエス様も、休まずに祈祷しなさいと言いました。世の中と交わってはならないと言ったのです。(五三−一二四、一九七二・二・一三)

 「神様…!」と言うとき、習慣的に呼ぶ神様になってはならないのです。何億万年が流れても、広大無辺なる大宇宙の法度と秩序が少しも違わないように操縦し、管理なさる神様です。そのような神様とつながれば、自分からでも偉大な力が爆発しうるのです。そのような信念を抱かなければなりません。いっぺんにそのすべての能力を受けることができなくても、祈祷するたびにその能力が少しずつ自分に臨むという事実を知らなければならないのです。(一二一−一九一、一九八二・一〇・二七)

 皆さんが宗教生活をしてみると、本当に神様がおられることが分かるときがあるでしょう。例えば、ラジオの周波数を合わせるとき、雑音が聞こえます。そのように雑音が聞こえてからダイヤルが合えば、はっきりした音が聞こえるのです。ぴったりとチャンネルが合うようになれば、放送局から送る音が少しも消耗しないでそのままはっきりと聞こえるようになります。その味を知った人がいるならば、神様に一日だけついて行くでしょうか。一年だけついて行くでしょうか。老いて死ぬまで従っていきたがるでしょう。それが人間の心です。(四二−二三、一九七一・二・一九)

 祈祷するとき、あるときは無限に恵み深いときがあります。すなわち、引き続き祈祷をしても、引き続き恵み深いときがあります。信仰生活をしていくと、間違いなくそのようなときがあります。なぜそうなのでしょうか。

 一日の中で朝があり、昼があり、夕方があり、夜があり、一年に春夏秋冬があるのと同じように、私たちの心もそのようになっているからです。朝は春と同じであり、昼は夏と同じであり、夕方は秋と同じであり、夜は冬と同じです。

 また、人もすべて違います。春の季節に該当する人がいるかと思えば、冬の季節に該当する人もいます。冬の季節に該当する人が夏の季節のような相対的な基準と出会えば、恵みが訪れるのです。冬の季節に該当する人が冬の季節のような相対的な基準と出会うようになれば雪が溶けません。恵みを受けることができないのです。

 人ごとにその素性が異なります。東西南北の方向により、似合うタイプがあるのです。したがって、祈祷するとき、恵みを受ける時間も違うのです。だれでも夜や早朝にだけ祈祷して恵みを受けるのではありません。ある人は朝に、ある人は午前中に、ある人は午後に祈祷してこそ恵みを受けます。そのように恵みを受ける時間が違います。また、季節によっても変わるのです。

 なぜそうでしょうか。それは宇宙の存在が回りながら存在するからです。ですから、方向が変わるのです。そのように変わる方向に従って祈祷すればその祈祷の能力も変わるのです。個々人の祈祷する立場がすべて違うというのです。(二七−一〇〇、一九六九・一一・三〇)

 祈祷をしてみると、時間によって感じが違います。早朝一時に祈祷する感じと、三時に祈祷する感じとは違います。それは皆さんが体験してみれば分かります。皆さんもそうではないですか? 朝感じるもの、真昼に感じるもの、夕方に感じるもの、夜に感じるものが違うでしょう? 四季の変化によって私たちが感じる肉体的な感情が違うのと同様に、心の世界もそうなのです。

 ですから、祈祷をする場合にも、どのような時間にうまくできるのかを知らなければなりません。うまくいく時間、それは何かというと、神様と近いということです。そのように祈祷がうまくいく時間によって深く入っていくようになれば、扉に出会うようになるのです。それで神様の心の扉と人間の心の扉がぴったり合って開くようになれば、神様の心情を体恤することができるのです。(七六−一二七、一九七五・二・二)

 各自が祈祷するのを聞いてみると、すべて自分の欲望でもって祈祷するではないですか。神様はそのような祈祷は聞きもしません。先生はそのような祈祷をしません。自分の息子、娘のために祈祷することもしないのです。世界がすべてみ旨の中に立つようになれば、息子、娘はその世界がよくしてくれるのです。祈祷する順序があるのです。

 既成教会に行って祈祷するのをじっと聞いてみると、ああ…! 泥棒たちが集まって祈祷しています。祈祷をむやみにしてはいけません。神様に必要な祈祷をしなければなりません。神様の耳に入っていくことができるように祈祷しなければならないのです。(一四四−二六九、一九八六・四・二五)

 祈祷するときは、心が好む祈祷をしなさい。そうしたら酔うのです。あるときは声を出して祈祷することのできる環境でなくても、心が声を出して祈祷するのを喜ぶようならば、声を出して祈祷するのです。あるときは、歌で祈祷するのを心が好むようならば、歌で祈祷をするのです。「かーみーさーま…♪」といって曲調に合わせて祈祷するのです。

 そのように融通性が豊かでなければなりません。心が感動してこそ自分が感動するのです。心がすすり泣くときは、体も自然にすすり泣くというのです。これは重要な言葉です。心に仕えるということです。心を無限に高めなければなりません。そうすれば心が教えてくれます。「きょうは何かがある」というようにです。(一三三−一八五、一九八四・七・一〇)

 心が清くあってこそ神様が臨在なさいます。心を最高に尊重してあげなければなりません。もどかしい心を抱いた人はどのような人でしょうか。自分の利益だけ考えれば、もどかしくなるのです。そうすれば、心がどれはどもどかしいでしょうか! 心は公的ですが、体がさかんにもどかしくなるので、心ももどかしくなるのです。自分だけを考えるのでもどかしいでしょう。心にいっぺんに不満が生じて、あらゆる考えが浮かんで、四方がすべてふさがってしまうのです。

 心が好むときは、体が好んで歌を歌ってあげなければなりません。さらに公演のようなものをするときは、そのようなものが絶対に必要なのです。心が楽しくなれば、環境が完全に回っていくというのです。説教や話をしてもそうなのです。説教のようなものは、題目に縛られたらできないのです。心が好むような話をすれば、必ずだれかが恵みを受けるのです。(一三三−一八六、一九八四・七・一〇)

 太陽を見ても、万物を見ても、良心の呵責を受けないで堂々としていられれば、太陽と通じ万物と通じるのです。すべて友になるのです。そのような人も、サタン世界、暗黒世界に陥る場合があります。神様と直結することのできる自分白身を発見してこそ、初めて安心することができます。そのようになることができれば、祈祷などは必要ありません。そうすれば神様が教えてくださるのではなく、良心がすべて教えてくれるのです。ですから、良心は神様に百パーセント代わることができるのです。(二五七−三一一、一九九四・三・一六)

 祈祷生活は良いですか、悪いですか? 未完成な人は、あの世に行っても祈祷しなければなりません。千年万年祈祷しなければならないのです。今まで堕落世界を中心として生きて霊界に行ったすべての人々は、祈祷する時間が決まっています。それは自分の修練、自分の錬磨のための祈祷です。例えば、ヘビが脱皮するのと同じです。すべて消しゴムで消さなければなりません。文字がすべて消えてこそ、紙がきれいになるでしょう? まさにそのようなものです。そのようなことを永遠にしなければならないということです。(二四二−三〇五、一九九三・一・二)


四 祈祷は神様と問答するようにしなさい

 神様は、ほかの所におられるのではありません。私の心の中におられます。それゆえ、祈祷するとき、心と対話しなければなりません。神様がどこにおられるかといえば、心の根におられます。心を絶えず抜き取ってみれば、最後に出てくる良心的な根に神様がおられるというのです。それから愛の根、生命の根、血統の根におられるのです。そのように四位基台になっているのです。(二五四−一九八、一九九四・二・六)

 神様は別の所におられません。祈祷するときは、自分と問答式でしなさい。「おい、おまえは今朝起きて話したことのうちで、あのように言ったのは誤ったな。こんなことを言ったときは体が喜び、あんなことを言ったときは体が嫌がったな」と分析して、体が嫌うことばかり行えばいいのです。そうすると、サタンはだんだん死んでいくのです。食べるご飯を与えず、息を吸うことができる空気がなくなるので、だんだん衰退していくのです。(二五二−二六一、一九九四・万一)

 祈祷をするとき、どのようにすべきでしょうか。空や空中を見て祈祷するのではありません。自分の心を見て祈祷するのです。「私の心よ、大きくなれ! 神様の愛の代表者となり、身代わりとなり、相対者となれ!」と言って祈祷しなければなりません。(二七五−三二四、一九九六・一・一)

 皆さんが祈祷するとき、愚かな祈祷をしてはなりません。皆さんの心を通して祈祷できる人にならなければなりません。皆さんが体を通して表す言葉や行動も、心の中心とつながるとき、神様やどんな人の前でも恥ずかしくなく、堂々としたものになるはずです。(二−五〇、一九五七・二・一七)

 私たちは具体的な内容をもって祈祷しなければなりません。皆さんの心情、わびしさ、苦衷、そして願いを感じるとき、未来の摂理と縁を結ぶことができるのです。(四−二三三、一九五八・五・一一)


第三節 祈祷と応答

一 祈祷の応答を受けるには

 祈祷するからといって、すべて成就するわけではありません。自分が一生を捧げて祈祷したとしても、その器がどれほど満ちているかによって、成就したり、成就しなかったりするのです。(二八〇−一一、一九九六・一〇・一三)

 神様は、皆さんがいくら祈祷をしても、知っていることが知らないことにも及ばないときには教えてくれません。(一四−九〇、一九六四・六・一二)

 皆さんが暮らしている村のために先祖たちが涙で訴えた祈祷が残っています。彼らは消えていきましたが、切迫した立場で神様にしがみついて訴えた祈祷は、神様の胸中に残っているという事実を記憶しなければなりません。(一七−二六九、一九六七・二・一五)

 自分自身を中心として祈祷したら成就しません。神様が願われる目的であるその国とその義のために祈祷しなければなりません。神の国と神の義のために前進するようになるとき、神様が、「うん! しなさい! しなさい!」とおっしゃるのです。それで非難される場に訪ねて行くようになさいます。そうして神様は、「あれは一度ぶつかればどのようになるだろうか?」と言って見守っておられてから、それを自力で屈服させるようになれば、「ああ、良いなあ!」とおっしゃるのです。ところが、戦いもせずにおじけづいているのに、神様が助けてくださるでしょうか。まったく、そのようなことがどこにありますか。ですから、善意の問題を起こしなさいというのです。(一〇四−一〇七、一九七九・四・一五)

 祈祷は必ず成就します。それが私個人のためのものではなく、神様の義とみ旨のためのものであるなら、必ず成就します。それが成就しなければ、人間はサタンを屈服させることができません。六千年間神様を泣かせてきたサタンを屈服させるために祈祷が必要なのです。(一〇四−一〇七、一九七九・四・一五)

 私が祈祷するとき、神様と一つになり、神様の目的と神様の方向と一致し、そして神様の相対的な位置を確定するために祈祷すれば成就します。しかしながら、十年、二十年、一生の間、死ぬまで祈祷したのに成就しなくても心配するなというのです。必ず私たちの子孫が福を受け、統一教会が福を受けるでしょう。大きなことが成就するのを願うならば、それなりに待たなければなりません。(一〇八−八二、一九八〇・六・二二)

 神様も祈祷されるのです。皆さんの両親も愛する子どもたちのために、心の底からつぶやいて、「こうしたら良いなあ」と言いますが、それが祈祷です。それはだれのためにするのですか。神様も人間のためにそのような祈祷をなさるのです。(一〇四−一〇九、一九七九・四・一)

 十年後のために祈祷をすれば、十年間その祈祷を中心として実践していかなければなりません。そのような姿勢をもたなければなりません。そのような姿勢で祈祷すれば、必ず成就します。だからといって祈祷が早く成就するといって喜んではならず、遅く成就するからといって悲しんではならないというのです。待てば待つほどさらに大きな福を得て、さらに大きく成就するのです。(一〇四−一〇九、一九七九・四・一)

 一度祈祷して三、四十年待つことができる切実な心をもたなければなりません。三、四十年過ぎても忘れてしまわない心で祈祷して待ってみなさい。そのような心で祈祷することは成就します。多くの祈祷は必要ありません。(七−九四、一九五四・七・一九)

 祈祷することによって、今後の展望に対して教えを受けることができます。「あることはこのようにして、あることはあのようにするのだ」と教えてくれるのです。そのようになることができてこそ、皆さんは大きなことをすることができるのです。祈祷だけで前途を開拓することができるのです。祈祷がご飯を食べることよりも重要であるということを知らなければなりません。(一〇四−一一一、一九七九・四・一五)

 聖書で、「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ一八・20)と言いましたが、なぜ万人でいる所には共におられないのですか? 男性が祈祷するのを聞いてみると、自分の思いを果たそうとする祈祷をするのであって、女性の思いを果たそうとする祈祷はしないのです。しかしながら、一人の男性でも、「神様、私よりも、あの女性を祝福してください!」と祈祷すれば、神様は即刻共におられ、成し遂げてくださるのです。(一一八−二二、一九八二・四・二六)

 西洋の女性たちも男の子、東洋の女性たちも男の子を生みたがります。そのようにすべて男の子ばかり生めばどのようになりますか? 女性たちのおなかが膨れると、「神様、私に息子を生ませてくださいませ!」と言って祈祷するでしょうが、神様がその祈祷を聞いてあげたら、世の中はどのようになりますか? すべての女性たちが、男性だけ生めるようにしてあげたら、どのようになるかというのです。ですから、そのような祈祷はいくらしても、神様は聞き入れてくださらないのです。神様は、そのような祈祷を聞き入れてはならないのです。そのように考えるとき、そのような祈祷はする必要もないと考える人が賢いのです。(一一七−一九、一九八二・一・三〇)

 お嬢さんたち、少し不細工でも金持ちの家の息子ならばどうですか? お嫁に行きますか? そのようにお嫁に行くのは、お金を見て行くのであって、男性を見て行くのではないのです。同様に、皆が神様を求めるのを見ても、神様のために求めるのではありません。神様の祝福、神様の福を奪うために泥棒根性で祈っているのです。そのような祈祷は、いくらしても聞いてくださいません。そのような祈祷では通じないのです。(一二一−八五、一九八二・一〇・二四)

 忠臣が死につつ、「神よ、私が死ぬことによって、わが大韓民国をアジアと世界を連結し、天の福を受けることができる国にしてくださいませ」と言うとき、その祈祷は直ちに伝わるのです。大韓民国に怨讐がどれほど多いかというのです。自分が血を流したとしても、「すべて分からなくてそうしたのですから、分かるまでは災いを下さないでください!」と言って祈祷すれば、神様は、そのように死んだ忠臣が大韓民国で死んでも、世界を歩んで死んだと思われるのです。世界を歩んで犠牲になったと称賛なさるのです。(一三〇−三〇〇、一九八四・二・一三)

 自分が困難なとき祈祷して、「お父様、明日お金をちょっと使わなければなりません」、「おお、そうか。やろう!」そのように利用する自信がありますか? 先生はそのようなことをたくさんしています。今も大きなことをするのに、先生はお金が一銭もありません。むやみに、だれかがお金を持ってきてくれるのも嫌です。それでも祈祷はしません。うんうん、うなっているのです。すると立体的な世界を通して、思いがけない人が支えてくれます。「おまえのタンスの中に何かあるだろう? 今先生にお金がいくら必要だから、おまえがそれを処分して先生に持っていってさしあげなさい!」という夢のお告げを受けるのです。神様の命令なので、しないでしょうか。(一五三−二九八、一九六四・三・二六)

 神様を求める道は、どれほど大変でしょうか。神様を求めることも大変ですが、神様を求めて出会い、神様の愛をすっかり自分の愛として受けるのは、どれほど難しいことでしょうか? ところが既成教会の信徒は、「愛する神様、娘が来ました。福をお与えくださらなければなりません。これを成し遂げてくださらなければ、私は死にます」と言うのです。そのような祈祷は、百回死んでも神様は聞き入れてくれません。そのように祈祷する人々の宗教は滅びます。滅びるようになっています。神様とは関係ないかちです。(一四〇−三一、一九八六・二・一)

 母が真心込めて作ってくれた綿入れのズボンを履いて、血の汗を流し、涙を流して祈祷して、ズボンから汗と涙を絞り出すというようなことがたくさんありました。腰が曲がり、骨が砕けるような、そのような環境でも耐えて、み旨のために、神様のみ旨を解怨成就してさしあげるために苦闘して祈祷するときは、神様が見舞って慰労してくださいました。(二一二−三九、一九九一・一・一)

 聖人の祈祷は世界を感動させます。天国を泣かせることができ、すべての人間の心霊世界を引き込むのです。そのようになれば、どの国に天の愛する人がいるかが分かるのです。(一八〇−二九六、一九八八・八・二二)

 神様の前で「私が誤りましたのでお赦しくださいませ!」と祈祷したからといって、赦されうるものではありません。その祈祷がいくらよく通じたとしても、しばらくの間蕩減期間を経なければ、赦されないということを知らなければなりません。(二四−一三二、一九六九・七・二〇)

 祈祷して早く成就するからといって、喜んではなりません。私はそのようなことを願いません。祈祷が早く成就すれば、終わってしまうのです。聖人の祈祷は、あの彼岸の世界が戻ってくるまでは解決しないのです。そうすれば、その民族は滅びないのです。アブラハムでいえば、自分の子孫が天の星と地の砂のように栄えることを願いました。そのように千年万年を中心として祈祷したことのゆえに、イスラエルの民が滅びえなかったのです。(一八〇−三〇五、一九八八・八・二二)

 今、先生は祈祷するときに千年後に実現することを祈祷しています。だれも考えることのできないことについて祈祷しています。その祈祷が成就するまで、統一教会は発展しなければなりません。イエス様がゲッセマネの園で祈祷するとき、再び来るときまでのことのために祈祷したので、再臨主が来るようになれば終わるのです。

 神様の理想を中心として、統一教会は千年万年続かなければなりません。万世の子孫のための根として残らなければならないのです。そのようになりうる動機が必要です。何でも動機がなければ過程もありえず、過程がなければ結果もありえません。(一八〇−三○五、一九八八・八・二二)

 千年、万年後のために祈祷しなければなりません。いつまでこの立場にいるでしょうか。いつまで統一教会はこうしているでしょうか。困難であるほど未来のために祈祷しなさい。先生は、獄中に入っていくときは、すでに世の中から排斥され、隔離されたのです。そのようなときに、千年万年の後代のために祈祷したのです。統一教会の文先生がそのように祈祷したことは、永遠の立て札として残るようになるでしょう。その立て札を取り除くためには、すべての霊界が協助した基盤がなければいけません。その基盤がなければ、それを取り除くことはできません。だれでも、そうなることができてこそ愛国者、聖人の境地に至ることができるのです。そのような道は天国の王子王女たちが行く道です。(二一〇−二九一、一九九〇・一二・二五)


二 深刻な立場で祈祷しなさい

 人にとって最も深刻な時間は、ご飯を食べるときと眠るときです。おなかがすいてご飯を食べるときと眠くなって眠ろうとするときは、すべての神経がそこに集中するからです。その反面、目覚めるときはすべての神経が解かれた状態なので深刻ではないのです。したがって、一日の生活の中で、三度の食事の時と眠る時がいちばん深刻な時間です。それほどまでに深刻な立場で、み旨のために祈祷しなさいというのです。そのようなときに一度祈祷することは、普通のときに数回祈祷するよりましなのです。(四二−一六四、一九七一・三・四)

 だれでも結婚相手を決定するというのは深刻な問題です。統一教会員は、先生がしてあげるのでそうではないですが、それを皆さんが決定すると考えてみなさい。深刻な問題なのです。そのように深刻でなければなりません。それ以上に深刻でなければならないのです。それ以上に深刻な立場で祈祷することは成就します。

 また、自分の父母が亡くなろうという瞬間は、どれほど深刻かというのです。それ以上に深刻でなければならないのです。ですから、夜を明かしてでも、うとうととすることのできない立場で祈祷しなければなりません。そのような祈祷は、必ず成就します。神様が役事してくださるというのです。(一〇四−一〇七、一九七九・四・一五)

 今からでも、皆さんが涙を流し、骨髄が溶け出すような深刻な境地に入って、一対一の決着をつけなさい。自分が涙ぐむとき、神様が涙ぐまれ、神様が涙ぐまれるとき、自分が涙ぐむ境地に入らなければなりません。そのように神様と授け受けすることのできる境地に入らなければならないのです。何でもそのような境地でやっていかなければなりません。そうするためには、祈祷をしなければなりません。根がなければならないのです。その根が祈祷です。(三一−二九〇、一九七〇・六・四)

 祈祷するときは温と血の汗を流さなければなりません。その祈祷は根と同じであり、その涙と血の汗は咲く花と同じだというのです。イエス様もゲッセマネの園で血の汗を流しながら祈祷されたでしょう。そのような深い祈祷をしなければなりません。十分祈祷ではないのです。一時間、二時間、十時間、二十四時間を祈祷しなければならないのです。(一〇四−一一〇、一九七九・四・一五)

 祈祷をすれば、自分の意識を失うほどの境地に入っていくことができなければなりません。心情世界に接するときは、涙がなくてはならないのです。(一四−一五九、一九六四・九)

 祈祷をどのようにすべきですか? 自分の生涯において、切実で重要な問題について祈祷するためには、永遠にサタンと関係のない立場で祈祷しなければならないという事実を知らなければなりません。ある人は「どんなに祈祷してみても答えがなかった」と言いますが、そのような人々に祈祷の答えがありえるでしょうか。サタン側で祈祷するのにです。神様がそのような祈祷を聞かれるでしょうか。いいかげんに、こうでもよく、ああでもいいという立場で、そのような祈祷を聞かれるでしょうか。何でも一つのこととしてはっきりとしていなければならないのです。(一二三−八○、一九八二・一二・一二)


三 祈祷は天理と通じてこそ応答を受ける

 このような道をずっとたどってくるときにあったことを考えるようになれば、いくらおなかがすくようなことがあっても耐えることができます。そうすれば、ほかのことを考える余地がないのです。今日、天のみ旨が世界的な基盤を備えることができるようになったことを考えるとき、自分自身の忠誠の足りなさに反比例して、み旨の成果が大きいことを感じるとき、感謝の祈祷を捧げたいのです。(一五三−一三六、一九六三・一一・一五)

 このごろ面白いことが何かというと、霊界から協助することが起こっているということです。そのようなことが起こらなければなりません。皆さんは、仕事をするとき、一人ですると思うでしょう? 神様を中心として「あなたとともにこの仕事をします」と言わなければならないのにです。「あなたは私の主体です」という信念が皆さんにありますか? いつも自分万人でいると思うのです、一人。何か難しいことがあると、「ああ、これは難しい!」と言いますが、自分一人だけが難しいのですか? 神様も難しいと思わなければなりません。

 なぜ神様は大変な仕事を助けてくださることができないのでしょうか。条件があるからです。相対的な条件があるためにそうなのです。ですから、神様の助けを受けようとするには、「夜も昼も、どこに行っても私はあなたの相対です!」と言うことができなければなりません。そうすればいいのです。そうすれば、むち打たれても骨が打たれるのではなく、肉が打たれるのです。そのように考えなければなりません。「あなたより私がもっと苦労すべきでしょう!」と言いながら、眠りもしないで努力すれば、助けてくれと言わなくても神様が助けてくださるのです。(六六−二一二、一九七三・五・七)

 皆さんが祈祷するのを聞いてみると、皆、何かを下さいという祈祷をします。そのように、くれというのは、自分が必要とするのであって、神様が必要となさるものではありません。(二〇−五二、一九六八・四・一八)

 統一教会では、どのように祈祷をしなければならないでしょうか。自分のための祈祷をしてはいけないのです。自分の息子、娘のために真心を込めることより、神様のために祈祷しなければなりません。「私はあなたのために痛哭し、あなたが心配なさる人類のために痛哭します」と言うときは、動機が違い、内容も違います。神様は、悲惨な立場で死ぬのだと大騒ぎしても、そのように祈祷する場に訪ねてきて、「そうか、そうか! おまえには希望がある」と言って行かれるのです。(一〇八−三二一、一九八〇・一〇・一九)

 先生は、「神様、私をお助けくださいませ」という祈祷をしませんでした。私の行く道は、私の力で開拓しました。神様に、「あの人々を何とかしてくださいませ!」とは言いませんでした。それは私の出る幕ではありません。何か問題が生じても、絶対に先生はその問題について祈祷しないのです。私が神様に助けてもらおうという祈祷はしないのです。神様の助けを受ければ、忠臣になれず、孝行者にもなれません。神様を助けてさしあげるとき、忠臣と孝子として残ることができるのです。

 このごろ、法廷に行って争っていますが、「神様、私をお助けくださいませ!」と祈祷することはできません。統一教会の人々は、第三者のことで祈祷をすることができますが、自分自身のための祈祷をすることはできません。ですから、統一教会員はかわいそうです。いくら苦労する人々がいるとしても、その人たちよりかわいそうなのです。それはなぜでしょうか。そのようにより高い次元の絆を結ぶようになることによって、忠と孝の標本となりうるからです。(一〇八−三二一、一九八〇・一〇・一九)

 祈祷をするときは、神様を説得しなければなりません。ですから、神様がその祈祷に耳を傾けるようにしなければなりません。そのためには神様が耳を傾けることができる材料をもたなけれぱなりません。(二〇−五〇、一九六八・四・一八)

 何か気分の悪いことがあったからと、「ああ、私は悔しくてたまらない!」と言いながら自分の感情を神様に訴えるそのような祈祷はしてはならないのです。これを克服して、み旨のために死ぬという立場にまで進まなければなりません。いつでもそのようにできると考えてこそ、み旨の前に立つことができるのです。その条件に引っかかる人は欲張りな人です。そのように欲張りな人は、目の前にあるものはすべて自分のものだと考えるので、条件に引っかかるようになるのです。(一七−二八八、一九六七・二・一五)

 皆さんが恵みを受けて霊界に接してみると、祈祷の題目が自然に出てきます。自分が祈祷したものの統計を出してみると、祈祷の方法と内容が発展していくことが分かります。堕落したアダムとエバの子孫である人間たちがいちばん最初に祈祷するとき、世界的な問題について祈祷しようとすれば、どんとひっくり返ってしまいます。ですから、最初はいちばん近い人、すなわち父母と愛する息子、娘と夫を救ってくださいと祈祷しなければなりません。

 その時期が過ぎて発展するようになれば、祈祷の内容が変わります。神様のみ旨を知る人は、何のために祈祷するのでしょうか。自分の家族のために祈祷せず、世界のために祈祷します。そして、自分か置かれている立場と神様が願われる立場がどのような立場であるかを知って、神様が願われるその立場で蕩減路程を開拓しようと言うのです。そのような人が賢い人です。(一六−三○三、一九六六・七・三一)

 祈祷するときに善霊と悪霊をどのように区別するのでしょうか。祈祷する人の心が、光を反射する純粋な反射鏡のようにならなければなりません。善悪を区別すべき立場であるときは、絶対に自分自身の欲望を考えてはいけません。何もないゼロの立場に入っていかなければならないのです。それで、「私は真から生まれて、真で生き、真で動くのだ」と言うことができなければなりません。そのような境地に入るようになれば、善悪がいっぺんに分かります。(三六−一一二、一九七〇・一一・二二)

 皆さんが信仰生活で注意すべきことは、現実的な問題を中心として善悪を見分けなければならないということです。朝ぱっと出かけるときには、祈祷を長くする必要はありません。「お父様、きのうよりきょう、もっと善良でありうる道を行かなければなりません。ですから、そこに障害物があれば、その障害物を克服することのできる忍耐力を下さいませ! その障害物の前で挫折せず、神様の威信と権威を立てることのできる息子となれるようにしてくださいませ! きょう、そのようにしうる道を行きます。恥じることなく歩みます。ありがとうございます」と言えばいいのです。立て板に水のように何時間も祈ってどうしますか? 行わず、実績のない祈祷は全く無駄なのです。皆さんは、それを知って、すべてをよくわきまえて行かなければなりません。(四五−二六四、一九七一・七・四)

 祈祷するとき、「神様は世界的なので、世界を愛されるので、神様の息子である私も世界を愛さなければならないでしょう?」と言ってこそ神様が喜ばれるのであって、「神様は私を愛されているのではないですか? 私を愛されるので、私の父、母、姉、兄、姻戚縁者、そして私の国だけを愛してください」と祈祷すればどうなるでしょうか。すべての人々が一様にそのような祈祷をすれば、神様がどれほど困るでしょうか。アメリカ、ソ連、日本、韓国など、すべての国の人々が自分の国だけのために祈祷するならば、神様の立場はどれほど大変なものとなるでしょうか。そうすれば神様が数百人はおられなければならなくなるでしょう。(二二−一三七、一九六九・二・二)

 祈祷するとき、今当面している問題である南北統一のために祈祷する前に、天地の統一のために祈祷しなければなりません。東西文化の格差と南北の貧富の格差を中心として統一を追求した後に、南北を愛そうというのが天理と通じるのであって、世界は放棄し、天地は放棄して、南北だけを愛そうとすれば、そこで終わってしまうのです。(一八〇・九七、一九八八・八・七)

 祈祷は、道理に合うようにしなければなりません。盲目的な祈祷は無駄です。盲目的な祈祷は、いくらしても通じないのです。道理に合った祈祷をしなければなりません。(八三−三〇二、一九七六・二・一五)


四 祈祷は信念をもって切に求めてこそ協助される

 先生は、祈祷をするときは、世界のてっぺんと端をつかんで、地球星を回す戦いをします。そうすると五分以内に汗が出ます。それは、戦いの中で最高の戦いです。イエス様が十字架を前にして祈祷するとき、血の汗を流す祈祷をしましたが、それは戦いでした。最高の戦いだったのです。皆さんは、祈祷の必要性が分かりますか? 皆さんが祈祷して、効果がありましたか? そのような体験がなければならないのです。祈祷すれば、必ず成就するという信念をもたなければなひません。

 祈祷しておいて、「神様が聞いてくださるだろうか?」と疑ってはなりません。皆さんが先生の指示したとおりに信じ、「これはできることだ」と言えばできるのです。百年が過ぎても上がるには上がるのであって、下ることはないと思えば、神様が助けてくださるのです。ところが、皆さんはそうですか? 何年か努力してみて、「ああ…!」と言うでしょう? そのように何年間か努力すれば成就しうるというみ旨を、神様が成就しようとなさるでしょうか? 何億万年変わらないという信念がなければいけません。神様は、そのような人を願われるのです。(六六−二一二、一九七三・五・七)

 皆さんは信念を抱かなければなりません。どのような信念を抱くべきでしょうか。神様は自分の父であることに間違いはないという信念を抱かなければなりません。それで、その父が住む所に自分も住み、その父が好まれるものを自分も好み、その父が悲しめば自分も悲しまなければならず、その父が死の境地にあれば、自分もそのような立場にいなければなりません。そのように影のようについて回らなければなりません。

 このような信念を抱いて「神様、ここに六千年の実を結びました」と祈ることができなければなりません。これからはそのような祈祷をしてください。「世界の万民の中で私しかいない。万世の真なる先祖が私から始まるので、子孫たちは手本とすべきである」と言うことができなければならないのです。(二六−三八、一九六九・一〇・一八)

 私はみ旨のために生まれた、み旨のために生きる、それ以外には一切他のことを要求することはできないという心の姿勢をもたなければなりません。イエス様は、「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・39)と言われたそのような祈祷で談判することのできる立場を常に私たちの生活圏内に備えていなければなりません。それで、「み旨を主管なさるお父様、み旨を中心として私に指示し、命令してくださいませ!」と言うことができなければなりません。そのような立場をどのようにして自分の生活圏内に備えることができるかという問題が、み旨を成就させなければならない立場にある私たちにおいて最も重要な問題ではないでしょうか。(二八−七二、一九七〇・一・四)

 根が深い祈祷生活をたくさんしなさいというのです。み旨に徹する生活をしなさいというのです。神様が行かれる道と本部教会の行く道に、自分がどれほど呼吸を合わせて生きるかということを常に考えなければなりません。そうするには本部の便りが気がかりで、直接訪ねていくことができなければ手紙でも出して知りたがる気持ちがなければなりません。そのような気持ちを掲げて生きる家庭であれば、神様が共にあられないはずがありません。そうか、そうでないか、やってみなさいというのです。植物は、根もなしに植えておけば死んでしまうので、植えないよりも悪いのです。このような原則を知って、生活を再整備しなければなりません。(三一−一九二、一九七〇・六・四)

 皆さんは神様が間違いなくおられるということを知らなければならず、必要なことが祈祷であるということを知らなければなりません。祈祷は習慣的にお経を読むようにするのではなく、判定を下して決着をつけるための祈祷なのです。自分の生命の脈拍が延長されうるか、されえないかを決定することのできる祈祷であるということを知らなければなりません。皆さんは、そのような談判祈祷をしてみたかということが、信仰生活において重要な問題です。(三一−三○六、一九七〇・六・七)

 「私は使命を果たしうる自信がある者だ」という心の余裕をもって祈祷を捧げることができなければなりません。そのような立場で祈祷するときには、多くの祈祷が必要ありません。そのような立場に立った者がいるならば、「お父様…!」という一言ですべて通じるでしょう。説明が必要ありません。論理が必要ないというのです。(一−三二四、一九五六・一二・二百神様が六千年の歴史を摂理なさった理由は、歴史をご自身の懐に抱かれるためでした。地上だけでなく、霊界までもご自身の愛を中心として全体が一つになりうる一日を欽慕してこられた神様です。このような神様から恵みを受けようと願うならば、「お父様! 私をお呼びください!」と祈祷しなければなりません。(一−三四三、一九五六・一二・三〇)

 神様の心情に自分自身の心情を縛り付け、「お父様! 私の血は先祖たちの血とは違います。神様を恨みながら倒れて死んだ者たちのような男ではありません。私に同情なさらず、民族と国家、そして世界の人類に同情してくださいませ! 霊界にいる霊人たちの恨を解いてあげることができるよう、助けてくださいませ! 私を前面に立てて、彼らの生きる道を開いてくださいませ!」と血を吐きながら、祈祷してきたのが先生の道でした。(二〇−一四一、一九六八・五・一)

 だれでも罪人としては神様に侍ることができません。孝子、烈女、忠臣にならなければなりません。孝子というのは、父が嫌うことはそれ以上に嫌わなければならず、父が喜ぶことはそれ以上に喜ばなければなりません。イエス様が「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・39)と祈祷したのもこのためです。(二〇−一四四、一九六八・五・二六)

 サタンより恐ろしいのが人であるということを知らなければなりません。神様は善の立場におられ、サタンは悪の立場にいますが、人間は二種類の立場を兼ねているのです。それで、神様を信じて立ち上がるときは善として現れ、サタンを中心として立ち上がるときは悪として現れます。

 皆さんは自らの立場をどのように取るべきでしょうか。皆さんの日常生活でサタンの立場を取らないようにしなけれぱなりません。サタンの讒訴条件に引っかかってはいけません。絶え間ない祈祷と精誠を通して、鋭利な刃のような知恵により善悪を分別することのできる、そのような何かをもつことができなければなりません。(二−五二、一九五七・一二・一七)


五 祈祷は率直で純粋でなければならない

 愛のない人は、人ではありません。兄弟の中にも情が豊かで他の兄弟の事情をよく聞いてあげる愛の豊かな人は、じっと座っていてもすべての兄弟たちの欠点がすべて分かります。他の兄弟たちが、兄はどうであり、姉はどうであるとすべて報告してくれるからです。

 同じように、私たちも愛が豊かな神様の前に、この地上の罪という罪はすべてありのまま告げなければなりません。「神様、私はこのような罪を犯した罪人です。過ちを犯しました」と報告しなければならないのです。皆さんが祈祷するとき、「私のお父さんとお母さんは分かりませんが、神様は知ってください! 私は罪人です」とありのままに告げますか、告げませんか? (三三−三二七、一九七〇・八・二三)

 嫁が毎日のように夜を徹して精誠を尽くしておかずをつくったのに、おいしくないというときには、舅は、三日ぐらいはご苦労だったと言いながら食べますが、その次からはご苦労だったという言葉が出てきますか? しかし、精誠を尽くさない嫁だとしても、ふらりとどこかに行って遅く帰ってきて、「お父さん、遅く帰ってきてすみません」と言いながら、簡単に食膳を準備して出したのに、百日の精誠を尽くした嫁よりも、「舅がこのようなものを好むはずだ」と考えながら、季節に合わせてこしらえて出すのならば、どうでしょうか。そのおかず一つに麦飯であっても食欲をそそるというのです。そのようなこともあるのです。

 もちろん、精誠を尽くして自分に侍ってくれる嫁も良いのですが、自分の気分を損なわないようにしてくれる嫁をもっと好むというのです。それゆえ、気分を合わせることができなければなりません。あまりにもこびへつらうようなのも良くありませんが、舅の気分を損なわないように適当に取り入ることは必要だというのです。

 神様も同じです。神様の前に問い詰めるような祈祷をすればどうですか。じっと霊的に感じてみると、あたかも重い岩が押さえつけるようです。しかし、「神様、よくなさいました。ただ、転がしてもよく、ひっくり返ってもよいです」と褒め称えるならば、神様も喜ばれるというのです。ですから、人の気分を良くするためには手段も必要なときがあります。もちろん、いつも率直であるべきですが、率直でありながらも時代の感覚に合い、環境に合うように調和の美を高めることができるならば、それこそ言うまでもないのです。(四五−二六〇、一九七万七・四)

 皆さん、祈祷するときはそうです。「私はどこそこの責任者です」という祈祷は成立しないのです。子供のような立場で、自分白身はなく、天だけがあることを望む心をもたなければなりません。外的な世界の責任者は、命令するのが常です。指示することが常なのです。しかし、内的な世界の責任者はそうではありません。どれほど命令を受けることができるかということが問題になるのです。(七二−三一〇、一九七四・七・一四)

 自分自身に対して率直にありのままを告げなければなりません。「私は本来このような人です」と率直に明らかにして、「私はこのように足りない人間ですが、あなたは善なる人なので、私のような人に同情して、行くべき道を模索することのできる方策があれば、教えてくださいませ!」と言わなければなりません。言い換えると、祈祷するような心で人に接するようになれば、自由な環境が展開されるようになるのです。ところが、そのまま踏ん張って立っているようになれば、環境を収拾することはできません。

 ですから神様にも、「私はこれこれこのような人としてあなたと関係を結びたいです。ですから、同情を施してくださいませ!」と言おうとするならば、率直にありのままを告げなければなりません。そのようにするのが祈祷です。祈祷は私が行く方向が間違ったとき、正しい方向へ導いてくれるものです。(四五−二四六、一九七一・七・四)

 神様は、前後、左右、上下に通じることのできる愛を所有しておられます。それで、自分を抱いてくださることのできる愛の神様であるという事実を知るようになるとき、祈祷もすることができ、蹟罪の悔い改めもすることができるのです。ぴたりと固定的な立場で、号令をかける神様に対することのできる人はいません。ですから、愛の神様と思って信仰生活をする人々は、低い位置でも神様の前に謝罪することのできる道があります。

 いくら失敗を犯しても、「神様、私はこのように過ちを犯しました」と率直に祈祷しなさいというのです。「父の心、母の心、師の心、民の心がこうであるべきではないですか? このような心を神様の愛と連結させようと努力する私の心は変わらないでしょう。そのような心を哀れに思われて、きょう誤ったすべてのことを赦してくださいませ!」と言えば、神様は、「うん、うん」と言われるのです。ですから、祈祷する方法も知らなければなりません。(一四九−三七、一九八六・一一・一)

 祈祷するときは、悔い改めなければなりません。率直でなければならないのです。「過去の私はこのような人でした。このような時もありましたし、このような時もありました」と悔い改めなければなりません。また、そのような罪人が祈祷することができることに対して、感謝の気持ちを抱かなければなりません。過去の過ちを考えるとき、神様の過酷な審判があったとしても、それをありがたく受けて、自分白身を神様の前に供え物として捧げようという心を抱かなければなりません。このような立場で神様の赦しを受けることができるということを知らなければなりません。

 今まで生活していたそのままの姿ではいけません。純粋で、純潔になりうる作用がなければなりません。この作用を何によってなすのでしょうか。それが祈祷というものです。純粋な祈祷が必要です。自分自身の欲望を中心として祈祷する立場では、神様は絶対に動きません。(三六−一一〇、一九七〇・一一・二二)

 皆さんが祈祷するときに、先生が霊的に、「君、どうしてこれをさらけ出さないのか?」と言いながら忠告する場合があるでしょう。すべての秘密を告白しなければなりません。その秘密は父母から始まったものではないのです。自分から始まったものです。

 その秘密が国と世界を保護する内容であるならば良いのです。夫を永遠に愛するという内容を秘密としているならば、それは話さなくても良いのです。それ以外の秘密は、全部さらけ出さなければ、絶対的な中心軸とつながることができません。

 その内容を良心はよく知っています。説明が必要ありません。さらけ出すべきことは、すべてさらけ出さなければならないのです。そのようにして祈祷するとき、神様がお赦しになれば解放されるのです。そうでなくて、死ぬまでそれを抱いていれば、霊界で引っかかるのです。そのようなことを知っているので、すべて告白しなさいというのです。(二五五−二三九、一九九四・三・一一)













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