天一国時代の祈祷
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第四節 どのような祈祷をしなければならないか

 大部分の人々は、「私の思いをかなえてくださいませ!」と祈祷します。私たちはそのような祈祷をしてはなりません。かえって「私の思いよりも、神様のみ旨が成就するようにしてください!」と祈祷しなければなりません。天のみ旨が成就されれば、私の思いも成就するのです。それゆえに、「私の思いを成就させてください!」という祈祷をしてはなりません。私たちは、精誠を尽くして「アバ、父よ! 私を立てられたので、私をお呼びになったので、この私を通じて父のみ旨を成就してくださいませ!」と言わなければなりません。(一−一四六、一九五六・七・一)

 皆さんは、「神様、私を通じてあなたの悲しみを解いてくださいませ!」と祈祷しながら、神様を慰労してさしあげ、イエス様を慰労すべき立場にありますが、今までそのような祈祷をすることができませんでした。皆さん自身だけのために祈祷したというのです。それゆえに、そのような自分だけの立場を越えるべき責任が皆さんに残っていることを知らなければなりません。(四−五四、一九五八・三・二)

 皆さんが「ああ、私たちの息子、娘に万福を下さいませ!」と祈祷する前に、国と世界のために祈祷し、「お父様、私が死ぬときに代を継いで使命を果たすことができるようにしてください!」と祈祷しなければなりません。そのような祈祷は、神様も喜ばれます。(一〇一−二五〇、一九七八・一一・一)

 皆さんが息子、娘のために祈祷する前に、今まで苦労した歴史的な先祖たちのために祈祷しなければなりません。自分自身が豊かに暮らすことを願う前に、この地上の人類が豊かに暮らすことを願う心を抱かなければならないのです。私が踊りを踊る前に、嘆息圏内にある万民を見つめて心配することができなければなりません。そして、喜ばしくても喜びの表情を浮かべることができず、楽しくても楽しい行動を取ることができなかったイエス様の心情に代わりうる心を、皆さんが抱かなければなりません。終末時代に置かれている今日、この地上にそのような人が現れて、神様とイエス様の悲しみを慰労してさしあげ、宇宙の悲しみをなだめてあげることができなければなりません。(四−一二四、一九五八・三・二三)

 大部分の人々は、神様が血を流しても流さなくても、汗を流しても流さなくても、かわいそうな場におられてもおられなくても、自分だけを平安にしてくださいと祈祷します。先生は、そのような祈祷をしません。また、「お父様、この体が死ぬほどの罪を犯しました。私の罪を赦してください!」という祈祷もしないのです。

 だれであっても「お父様、歴史的に人間たちが犯した罪を赦してくださいませ! 私もその罪人の万人であり、この民族の一員です。ですから、この民族の罪をまず赦してくださいませ!」と言って祈祷しなければなりません。それでこそ正しい祈祷です。ところが、何も知らないで、「神様は無限なる愛と言われたので、私の罪を赦してくださいませ! 神様が私の重荷を背負ってくださり、私は天国に送ってくださいませ!」と祈祷しています。それは本当に嘆かわしいことです。(九−一四八、一九六〇・五・一)

 皆さんは、数千年間を一日のように耐えてこられた神様に侍るべき立場にあるので、皆さんの一身の苦痛を苦しいと考えてはいけません。苦しいという考えさえも捨てなければなりません。皆さんが祈祷するとき、皆さん自身を中心として祈祷してはなりません。「私にこのようなことは避けさせてくださいませ!」といった祈祷はしてはならないというのです。「私が受ける苦痛があなたのみ旨の前にふさわしい苦痛となるようにしてください!」と祈祷しなければなりません。私がある境遇に置かれるのは、神様のみ旨があるためであり、そのみ旨の成就のためであるという心を抱かなければなりません。(一一−九九、一九六一・二・一二)

 皆さんの根本的な観念を抜いてしまわなければなりません。今まで神様を信じた人々が、神様を一度でも慰労してさしあげたでしょうか。何かを下さいとだけ言いました。そのような泥棒根性がどこにおるでしょうか。そのような祈祷は、いくらしても成し遂げられません。「あなたの願われることは何でしょうか」、このように祈祷しなければなりません。

 ところが、堕落したアダムとエバの子孫である群れは、福を下さいとばかり言います。「あなたが願われることは何でしょうか? 私の一身が患難を経てあなたのみ旨が成就するならば、患難を経るようにしてくださり、私の体が裂かれてあなたのみ旨が成就するならば、裂かれるようにしてくださいませ! 福と栄光は、あなたがお受けになり、罰と苦痛は私に下さいませ!」という祈祷を捧げなければなりません。(一一−九九、一九六一・二・一二)

 祈祷をしたとしても、堂々と「お父様、あなたが呼ばれていた息子、娘が参りました。あなたが会いたがっておられた息子、娘が参りました」と言うことのできる環境を設けておいて祈祷しなければなりません。(一一−一三二、一九六一・三・二六)

 今後、皆さんが祈祷するとき、皆さん自身のために祈祷してはなりません。「神様、私が参りました。福をくださいませ。今の私の身の上がみすぼらしく、おなかがすいているので何とかしてください!」などというつまらない祈祷はしてはならないというのです。「神様の恨を解いてさしあげるために、この場に来ましたので、その方法を教えてくださいませ!」と言いながら祈祷しなければなりません。そのように祈祷すれば、聞いてくださらないでしょうか。皆さんが善なる行いをなすことのできる条件さえ提示すれば、無事通過するようになっています。(一四−二二、一九六四・四・一九)

 最近、信仰する人々をじっと見てみると、「神様! 私の罪を赦してくださり、私たちの家庭の罪を赦してくださり、民族と世界の罪を赦してくださいませ!」と祈祷しますが、そのような祈祷は絶対に通じません。(一七−一六六、一九六六・一二・一八)

 個人の目的のためとか、自分自身の息子、娘だけのために祈祷してはなりません。そのような祈祷は、いくらしても成し遂げられません。かえって、そのように祈祷をする人の息子、娘がごろつきになったりします。

 それゆえ、自分自身のためとか、自分の家庭や息子、娘のために祈祷する精誠を、民族と世界の万民のために向けなさい。統一教会では、そのような内容をすべて知っているので、自分のために祈祷をしないのです。(一九−一四三、一九六八・一・一)

 皆さんが十字架の苦難に遭うようになっても、お父様の愛を感じて、お父様の愛の圏内に皆さん自身がいることを感じるならば、祈祷することができないでしょう。先生は、そのようなことを感じてみました。肩に千トンにもなるかのような重荷が乗せられても、「お父様、これを軽くしてくださいませ!」と祈祷しませんでした。そのように祈祷してはならないのです。(一−三一八、一九五六・一二・二三)

 父母の心情で兄弟を愛し、親戚を愛し、氏族を愛し、民族を愛し、世界を愛するという心で祈祷するようになれば、世界のための祈祷になります。(一八−一二七、一九六七・五・二八)

 皆さんは、心霊が暗いときがあっても、皆さん自身を中心として、「お父様、私を哀れに思われて、私の暗闇を取り除いてくださいませ!」という祈祷をしてはいけません。かえって人のために奉仕しなさい。統一教会員の中で、最もかわいそうな人のために涙を流せば、暗かった心霊が明るくなります。このような方法を知らなければなりません。

 結局、人のために生きる心です。神様が同調なさることができ、神様と同じ立場を取ることができる立場は、人のために生きる立場です。それゆえ、人のために生きなければならないのです。(四二−二六〇、一九七一・三・二一)

 涙を流すにしても、つまらなく自分自身が救われるために涙を流してはなりません。そのような涙の祈祷はしなくてもよいのです。一生の間、自分白身のためには祈祷を一度もしないで、涙をひとしずくも流さなくても、人のために祈祷し、人のために涙を流していく人は、天国の中でもいちぱん上層の天国に行きます。

 国に困難があるとき、その困難な問題を中心として祈祷するのは許されますが、統一教会ならば統一教会のような宗教団体の困難な問題を中心として祈祷するのは許されません。

 それゆえ、統一教会の文先生は、そのような祈祷はしません。「神様、私を打つ怨讐たちの首を皆切ってくださいませ!」という祈祷はしません。「私を打つ怨讐もこの国に尽くすときは一人の民であり、一人の民族であり、一人の同族なので、そのときに彼を愛する心で愛さなければなりません!」と言うことができてこそ、真なる愛国者と見るのです。観点が違うというのです。(五一−一〇八、一九七一・一一・一八)

 国家的な使命を考えるべきこの時において、「ああ、国がどうなっても私は知らない! 世界がどうなっても私は知らない! ただ、私が楽であればよい! 私の父と母の言うとおりにしなければならない!」と言えば、それで終わるのです。先生について来ることができません。

 そのような人は、先生の心に記憶されようといくら祈祷しても、神様が聞いてくださらないのです。そのような祈祷をしてはなりません! 国家を越え、世界に尽くそうとする心で、「神様、私の力が足りませんので助けてくださいませ!」と言わなければなりません。(六四−八三、一九七二・一〇・二四)

 皆さんが祈祷するとき、「ああ、私の息子、娘が良くなるようにしてくださいませ!」という祈祷はしてはならないというのです。「ああ、私の夫が良くなるようにしてください!」というつまらない祈祷はしてはならないのです。統一教会は、統一教会のために戦うのではなく、国のために戦うのです。他の宗教とは違うのです。今後、大韓民国が神の国となる日には、大韓民国のために戦うのではなく、世界のために戦わなければなりません。

 そのように犠牲になる人は、自然と中心存在になります。家庭で犠牲になれば、その家庭の主人になります。夫が妻のために犠牲になれば、その妻は完全に夫に隷属されるのです。そのような道理を私たちは知らなければならないのです。そうすれば、神様の求める人々は、どのような人か大体分かるはずです。(六四−一一一、一九七二・一〇・二九)

 世界を心配して神様のみ旨に沿って祈祷する教団があるならば、その教団は繁栄するものと見るのです。既成教会と私たちを比較するとどうですか? 既成教会の信者は祈祷するのにどれほど忙しいでしょうか。生活を中心として祈祷しなければならず、食べることのために祈祷しなければならず、商売のことについて祈祷しなければならず…。ああ、どれほど複雑でしょうか。

 世界の中では、それらのことは何でもありません。葉のようなものです。時が来れば落ちてしまうのです。枝となり根となりうる祈祷をしなければなりません。ですから、特別に祈祷をしなくても、そのような考えを抱いて、一日に一回ずつ自分が神様と問答すれば、それが祈祷になりうるのです。(一六一−一四二、一九八七・一・一八)

 統一教会員は、「地上天国を建設しよう、建設しよう! お父様、地上に天国を成就してくださいませ!」と言ってたくさん祈祷したでしょう? 神様の耳がどれほど痛かったか分からないのです。キリスト教徒の祈祷というのは、「神様! 私は、天国に行かなければなりません。ああ、天上天国よ!」と言うでしょう? 天上天国に行くと言う群れよりも、地上天国を建設しようという群れが多くいてこそ、天国が地上に移されるのです。(七四−二五七、一九七四・一二・三一)

 だれであれ苦労を喜びで消化して越えていかなければなりません。そうしてこそ、サタンは侵犯することができません。先生はそれを知ったので、監獄で拷問されて血を流して死んでいく場でも、「神様、安心してくださいませ! 私は弱者ではなく、サタンのいかなる威圧にも勝利することのできる男です」と言って神様を慰労してさしあげたのです。そのようなことを知ったので、「神様、私を救ってくださいませ!」というようなつまらない祈祷はしませんでした。今も自分の努力により死の境地まで越えていこうと考えるのです。(九一−一七九、一九七二・二・六)

 統一教会員が祈祷しながら、「神様! あなたの願いは、地上世界を建設することではないでしょうか。私は地上地獄にいるとしても、この体を張って成就します! 私の家庭と世界を犠牲にして、あなたの願いを成し遂げてさしあげます! そのように歩む道が堕落のどん底から抜け出すことのできる道であるという事実を知っています!」と言うとき、神様は「ほう、おまえの言うことは正しい!」と言われるのであり、「けしからん、そうではない!」と言われないのです。ですから、私は統一教会はすてきだと考えざるをえません。(一二七−二五〇、一九八三・五・一五)

 皆さんは祈祷するとき、いつも原則的な祈祷をしなければなりません。神様に祈祷を捧げるときは、自分の所属を明らかにしなければなりません。どこの地区、どこの地域、どこの場所にいるだれだと明らかにしなければなりません。そうしてから自分を中心として横的に因縁付けられている食口たちのために祈祷しなければならないのです。「私には彼らのために果たすべき責任があります。しかし、私にはそのような責任を果たすことのできる力が不足していますので、力をくださいませ!」と言うならば、そのような祈祷は通じます。(一七−二七五、一九六七・二・一五)

 私が七〇になった今まで、どれほど世界の人々が迫害したでしょうか! 私が死ぬようにと祈祷する牧師たちの祈祷の声を聞きました。本当に神様は冗談もうまいというのです。神様がすてきだというのです。「あの何々という牧師が、おまえが死ねと祈祷するのをちょっと聞いてみなさい!」と言いながら、聞かせてくださるのです。お尻を突き上げて「ああ、文総裁が死ななければ私が死にます!」と言うのです。それで、神様は「おまえのような者は死んでみよ!」と言われたのです。文総裁がいなかったならば、世界が滅びるのにです。自分が死んだからといって世界が死んだでしょうか。とんでもないというのです。そのように悪口を言われながらも生き残った理由は何でしょうか。手段方法が良いからではありません。だれが守ったゆえに生き残ったのでしょうか。神様がお守りくださったゆえに! 結論は簡単です。(一九九−二五七、一九九〇二・四)

 既成教会で祈祷するのを聞いてみると、自分の息子、娘たちは皆、天国に行かせてあげて、他人の息子、娘たちは皆、僕の暮らしをしても良いというふうに祈祷をしています。そのような祈祷が通じると思いますか? 千年万年祈祷しても通じないのです。祈祷というものは、全体のためにするものです。統一教会の信徒は、絶対に自分自身のために祈祷し、精誠を尽くしてはいけません。世界と国をつかんで祈祷しなければなりません。(三九−二〇一、一九七一・一・一〇)

 祈祷するとき、既成教会では「おお、神様! 私たちの教会の面倒を見てください!」と祈祷します。国を忘れてしまい、世界を忘れてしまい、天地を忘れてしまい、自分たちの教会のために祈祷するのです。そのような教会は、教会時代が過ぎ去れば、滅びるようになります。民族時代に教会のために祈祷すれば、神様が後退なさるようになるのです。(三四−二三九、一九七〇・九・一三)

 既成教会の牧師たちは、「ああ、神様! この家を祝福してくださいませ!」と言いますが、私はそのような祈祷をすることはできません。祈祷する気持ちがあれば、「この国を祝福してくださいませ、この世界を祝福してくださいませ、この家庭は滅びるようにしても、世界を生かしてくださいませ!」と祈祷するのです。先生はそのように祈祷することはできますが、「お父様、国が滅びて世界が滅びても、息子、娘が良くなるようにしてください!」という祈祷はできないのです。(六二−四二、一九七二・九・一〇)

 既成教会の牧師たちの中で「神様、私たち長老教会の面倒を見てください!」と祈祷するならば、その牧師は零点です。自分の息子、娘のために祈祷する牧師も零点です。皆さんのお父さんとお母さんが、「神様、私たちの息子、娘にたくさん福を下さり、人の息子、娘は犠牲にしてもかまいません」と祈祷してよいでしょうか。そのような祈祷は、いくらしても成し遂げられません。かなえられないというのです。(六三−一八七、一九七二・一〇・一四)

 既成教会の教徒が祈祷するとき、「神様、私たちの息子、娘に千福を下さり、万福を下さいませ! 大韓民国でいちばんの金持ちになり、有名な判事、検事になり、大統領になるようにしてくださいませ!」と言いますが、そのような祈祷は千万回しても、神様は喜ばれません。だれであれ、世話してくださいと祈祷するのは、神様が聞いてくださいません。先生が研究して探ってみると、そのようになっていたというのです。(八五−一五、一九七六・三・二)

 先生も同じです。私が祈祷するとき、「神様、私は困難で疲れて大変です」という祈祷は、一度もしたことかありません。私は、まだ休もうにも休むことができないのです。まだ、私が背負っている世界的な責任を完遂することができていないので、お父様の前で顔を上げることができない恥ずかしさを感じながら生きています。私の行くべき道は忙しいのです。私の行くべき道は忙しいです。

 それゆえに、「神様が私を愛されるならば、早く万民を解放させうる道に私を追いやってくださいませ!」というのが先生の祈祷であり、「万民はどうでもよいので、私を楽にしてください!」という祈祷はしないのです。(八五−一三一、一九七六・三・二)

 既成教会の信徒の祈祷を聞いてみると、すべてが何かを下さいという祈祷です。そのように借りを作るという祈祷は、いくらしても通じません。自分の息子、娘、妻、姻戚と自分たちの教会のための祈祷は、千年万年捧げても神様に通じません。

 しかし、「神様、私を犠牲にして世界の借りを清算してください!」という祈祷は、神様が耳を傾けられます。「私を犠牲にして天宙の借りを清算してください! 私にそのような胆力と勇気を下さいませ!」と言えば、間違いなく与えてくださるのです。(八五−一三一、一九七六・三・二)

 皆さんは、「ああ、神様! 私に反対する人々の首をねじって反対できないようにしてください!」という祈祷をしてはなりません。そのように祈祷するよりは、かわいそうな人々を救ってあげられるようにしてほしいと祈祷すべきでしょう。

 皆さんは、福を祈ってあげなければならないのです、福。なぜそうすべきでしょうか。いつも、カインとアベルが一つになる場を占めるためにです。そのように一つになる場を占めれば、滅びることはありません。(八九−一一二、一九七六・三・二)

 キリスト教徒が祈祷する一つの目標があるなら、それはほかでもありません。「私の息子、娘に福を下さいませ! 私の教会、私の牧師……」と、どうこうしてくださいというものですが、そのような祈祷はつまらないものです。そのような祈祷は、神様の耳にも入っていかない祈祷であるということを知らなければなりません。

 自分の息子、娘、自分の教会、自分の民族を犠牲にしてでも世界を救うと言う人が、神様のみ旨にふさわしい人です。「世界がどうなっても、国がどうなっても、私だけがしっかりと信仰して天国に行こう!」という人々は皆、地獄に行くのです。(霊界に)行ってみなさい! 間違いなく、地獄に行くのです。(九〇−一四六、一九七六・一二・二五)

 今日、キリスト教徒の数はとても多く、彼らは神様のために祈祷しますが、その祈祷は世の中が滅びるようにというものですか? 世の中が滅びるように祈祷する人は一人もいませんが、世の中は滅んでいきます。キリスト教ならばキリスト教で、「キリスト教が栄えてこそ神様のみ旨が成就します。キリスト教を栄えさせてくださいませ!」と言ってどれほどたくさん祈祷するでしょうか。しかし、キリスト教は滅んでいくのです。(一二三−八〇、一九八二・一二・一二)

 最近、キリスト教が滅びるようになったのは、「神様、私たち長老教会を祝福してくださいませ! 主よ、メソジスト派に来てくださいませ!」と祈祷するからです。そのようなつまらない祈祷は通じません。そのような祈祷は通じないのです。

 しかし、「神様、そこにいらしてください! イエス様、どこに行かれますか? あなたが願われる国を築いて、その国にお連れします!」という人がいるならば、神様は「ああ、そうしなさい! どうか、そうしなさい!」と言われるでしょうし、イエス様も、「どうか、そうしなさい」と言うでしょう。(九三−二〇、一九七七・五・八)

 キリスト教が一つになった立場で、「神様、私たちキリスト教を通じて、あなたがいちばん頭を痛める宗教の統一問題を解決してくださいませ! 私たちにその問題を解決することのできる能力を下さいませ!」と言って祈祷すれば、天が、「おまえたちの祈祷は正しい!」と言うのであって、「こいつら、欲張りだ。そのような祈祷はだめだ」と言われるでしょうか。「おまえは長老教会を信じ、おまえはカトリックを信じて…。だから教派をもって私に祈祷しなければ!」と言われるでしょうか。違うのです。それゆえに、神様は教派の壁を崩すことのできる人が出てくるのを願われるのです。すべての教派を一つにすることのできる人が出てくるのを待っておられるのです。(九八−一一四、一九七八・五・七)

 皆さん、今から万物復帰に向かうとき、「神様、きょうはよく売れるようにしてください!」と祈祷してはならないというのです! 「神様、きょう私は百ドルを稼ぎました。あなたのために私が精誠を尽くして捧げますので、歴史上のいかなる人が献金したものより貴くお受けくださいませ!」と祈祷すれば、神様は「うん! こいつは使える…」と言って喜ばれるというのです。(九三−二一、一九七七・五・八)

 ただ、働くことはしないで福を下さいと祈祷する者たちは泥棒でしょう? そのような祈祷はする必要もないのです。仕事をして力が不足しているならば祈祷しなさいというのです! 私が過ごしてみると、そのようなことを神様は好まれるという事実が分かったのです。私が知っている神様はそうです。既成教会の信徒が知っている神様は、私が知っている神様と違うのです。彼らが知っている神様は、滅びる神様です。私が知っている神様は繁栄する神様です。(一〇一−二六〇、一九七八・一一・一)

 神様に向かって怨讐に報いてくださいと祈祷する必要は絶対にありません。そのような祈祷を三度だけすれば、神様は「こいつ、おまえ白身が間違っている」と言われるのです。(一〇二−一四二、一九七八・一二・一〇)

 今日、キリスト教の牧師たちが祈祷するのを聞いてみると、「私たちの教団がよくなるようにしてください。異端教会は滅びるようにしてください!」と言うのです。そのような祈祷をするのであり、「私のすべてのものを犠牲にして、私たちの教団を犠牲にして、神様の愛のために・:」という祈祷はしないのです。そのような祈祷を神様は聞きたがるのであり、「お金をください、福をください! この飛行機が落ちないように!」というような祈祷は聞きたくないでしょう? 神様がそのような祈祷を聞かれるとき、どれほどあきれかえるでしょうか。神様に耳があるならば、その耳を覆ってしまわれたことでしょう。先生ならば、ふさいでしまったことでしょう。ですから、どれほど神様はあきれるでしょうか。(一〇四−四七、一九七九・三・二八)

 今日、キリスト教を信じる人々の中で、長老教を信じている人々が祈祷するとき、「神様、私たち長老教会だけを祝福してくださいませ!」と言いますが、そのような祈祷はいくらしても、神様は聞いてくださいません。「神様、大韓民国の中にある長老教会です。長老教会が愛する大韓民国に福を下さいませ!」と言って祈祷するとき、神様がその長老教会の信徒に向かって、「こいつ、それでも祈祷するすべは知っているな!」と言われるのです。

 そして大韓民国の人々も、「神様Iアメリカより、いかなる国より大韓民国をもっと愛してくださいませ!」と言うとき、そのような祈祷は億千万回しても通じません。「神様、世界のために分断された大韓民国です。三十八度線は、共産世界と民主世界が対峙する境界です。それはサタンの一線であり、神様の一線です。この国は、全人類の運命を決定づけることのできる岐路に立つ国ですから、世界のために犠牲となりうるよう導いてくださいませ! 金氏ならば金氏の一族はもちろん、私たちの家はもちろん、私も犠牲となる覚悟ができています。共産世界の悲惨でかわいそうな者たちもあなたの子女でしょう。彼らを私の子女のように生かしてあげたいので、三十八度線を開いてくださいませ!」というときは、神様は「おい、こいつは祈祷するすべを知っているな!」と言われるのです。

 そのように「彼らを私たち以上に豊かに暮らすようにしてあげます」と言うときは、神様は私たちの側に立たれるのです。私たちの側に来られるのです。私たちほどに豊かに暮らすようにしてあげると祈祷するときは、神様は様子を見られるのであり、私たちよりも多くの福を受けられるようにしてあげると祈祷するときは、神様は私たちの側に来て立たれるのです。そのように祈祷しなければなりません。(一三〇−二九八、一九八四・二・一二)

 最近、キリスト教徒の中で長老教会の信徒たちが祈祷するのを聞いてみると、「私たち長老教会に福を下さいませ!」と言います。長老教会の神様ですか? 統一教会員は、そのように祈祷してはいけません。聖潔教会の信徒たちも、じっと見ると聖潔教会の群れのために祈祷しています。世界のすべての福を神様が雷を落として奪ってきてくださったらよいというのです。そのような祈祷は、いくらしてもかなえられません。神様の目には、長老教会の信徒も息子に見え、聖潔教会の信徒も神様の息子に見えるのです。(一五四−三〇、一九六四・三・二九)

 現在のキリスト教を見ると、ご利益宗教です。「神様! 私に福を下さい、福を下さい!」と言うのです。教会に行って祈祷するのを聞いてみると、すべて滅びろというのです。長老教会で祈祷するのを聞いてみると、「統一教会も滅び、メソジスト派も滅び、聖潔教会も滅び、大韓民国も滅び、私たちの教会にだけ福を下さい!」と言いますが、そのような泥棒がどこにいるでしょうか。そのような祈祷は、いくらしても神様はお聞きになりません。そのように滅びろと祈祷する前に愛して滅びろと言うべきです。

 もしだれであれ、愛したとしても、愛の相対にならないときは、滅びろと言っても理に合います。父母が子どもを愛するにもかかわらず、誤った道を行くときは、むちを振るっても、皆が「そうだ!」と言うことができますが、毎日のように怒鳴りつけながら、父母の言うことを聞かないと言えば、それは道理に外れた父母なのです。(一六八−七八、一九八七・九・一三)


第五節 祈祷と体恤

一 信仰生活は体恤すること

 信仰生活は体恤です。体恤しなければ分からないのです。体恤しなければなりません。体験ではなく体恤なのです。その体恤というものは何でしょうか。天が悲しむときに自分がその悲しみを知らなければなりません。その悲しみが感じられてくるというのです。それが体恤です。体恤するようになれば祈祷が必要ありません。(二五五−三六、一九九四・三・二五)

 体恤信仰においていちばん重要なことは何でしょうか。それは主体と対象の関係です。神様はいつも主体であると思い、「私を愛される神様なので、私のことを傍観することはできない。私と共にあられる」ということを感じなければなりません。そのように、祈祷に先立って感謝することのできる生活をするようになるとき、神様が共にあられるのです。最初はそれが分かりませんが、ある段階に入ると感じるようになるのです。(五八−三一一、一九七二・六・二五)

 一年に春夏秋冬があるように、一日の中でも春夏秋冬があります。朝は春、昼は夏、夕方は秋、夜は冬に該当します。そして、朝の中でも、春、夏、秋、冬のようなものを感じることができます。そのように、大きなものは大きなもの、小さいものは小さいものなりに単位を備えています。

 私たちの心もそれと同じです。それゆえ、心に感じられる感覚がいつも同じではないということを知らなければなりません。しかしながら、大部分の人々は春、夏、秋、そして冬を見分けることができないのです。ですから、祈祷生活を通じて「ああ、今がどのような時なのだな!」ということをわきまえることができなければならないのです。(七六−一二九、一九七五・二二・二)

 私たち食口は、祈祷する中で役事をします。役事というものがあります。霊的な力が、電気が通じるように入ってきます。そのように私たちの意識よりも強い力が入ってきますが、そのようになるときは別世界の意識に変わるのです。そのように超自然的な意識に変われば、どのようになるでしょうか。人間の体には堕落性があるので、本然の神性と衝突を起こします。(七六−一三四、一九七五・二・二)

 体恤的な信仰、これはお金をもってしてもだめであり、努力をもってしてもだめです。精誠を尽くして祈祷しなければなりません。コップ一杯の水をもって千年の歴史をたどっていったとしても、一滴の水もこぼさないという信念を抱かなければなりません。いくら険悪で不安な世の中だといっても、自分が少しもそのような世の中の影響を受けないと考えなければならないのです。(二六−四三、一九六九・一〇・一八)

 皆さんは体恤信仰をしなければなりません。自分の信仰の結果を測定することができなければ、神様が共におられるのか、悪が共にあるのかが分かりません。その体恤信仰を育てていけば、道を進み出るときに祈祷しなくてもかまいません。第一歩を踏み出すとき、「この道はどのような道だろうか? 神様が喜ばれうる道か、残念に思われる道か?」ということが分かります。神様が残念に思われるようであるなら、行かないのです。それを鑑定することができなければなりません。そのように体恤信仰を開発するために努力しなければならないのです。(四〇−二八五、一九七一・二・七)

 外出して帰るときは、外であったすべての悲しかった条件を蕩減して、喜びの条件を抱いて帰ってこなければなりません。もし職場で悔しくて気分の悪いことがあったら、それを家に来て解こうと思ってはいけません。そのようなことがあったその場ですぐに解くか、そうでなければ他の喜びの条件で蕩減してから帰ってこなければなりません。そのようにすることのできる秘法がなければならないのです。道すがらわざと電信柱に額をぶつけてでも蕩減の条件を立てなさいということです。

 それによって蕩減されるという祈祷をするとか、そうでなければ子どもたちに与える飴玉でも買って、子どもたちの喜ぶ姿を思い描きながら帰ってきなさい。あるいは、かつて好きだった春の歌とか、秋の歌を歌いながら、きょうの悲しい感情をかつての喜んだ感情に変えて帰ってきなさいというのです。そのようにするのは、何の考えもなしに祈祷するよりもましです。そのような生活を中心として体恤的な感度をいかに培っていくかということが問題です。(四〇―二九〇、一九七万二・七)

 精誠を尽くさなければなりません。精誠を尽くすときにはむやみに尽くすのではなく、かわいそうな人について尽くさなければならないのです。先生はある人のために精誠を尽くすとき、その人がご飯を食べることができず、ぼろを着ていると思ったら、寒いときにも服を脱いでその人のために祈祷することがたくさんありました。そのような基準があるために、今日これはどの基盤を築くことができたのです。(四二−一六八、一九七一・三・四)

 伝統とは何でしょうか。第一は為に生きること、第二は投入して投入して忘れてしまうこと、そして第三は完成のために祈祷と精誠を捧げることです。そのような伝統を皆さんが一人で立てることはできません。どうして祈祷しなければならないでしょうか。主体となる天の協助を受けるためです。それから、なぜ精誠を尽くさなければならないのでしょうか。環境的な与件を受け入れることのできる基盤を築かなければならないからです。祈祷とは天との主体的な絆を結ぶためのものであり、精誠とは横的な絆を拡大するためのものです。(二一九−二二八、一九九一八・二九)

 皆さんは心門にあわせて、心田を開発しなければならないのです。心田、心の畑を開発するためには、神様を発見しなければなりません。神様を発見するにはどのようにしなければならないでしょうか。自分の心が清くなれば、方向が分かるようになります。磁石のように、プラスがあればマイナスは自然について行きます。そのような何かがあります。皆さんもそれを感じるでしょう? 私が東に向かって祈祷して、神秘の境地に入っていけば方向が違ってきます。私が北に向かって祈祷を始めたのに、いつ回ったのか分からず、方向が変わるのです。そのようになるのです。それゆえ心の門があるというのです。(七六−一四一、一九七五・二・二)

 特別に祈祷がよくできる時があるでしょう? それは皆知っているはずです。祈祷がよくできる時があるのです。私がいくら斎戒沐浴をして精誠を尽くしても、祈祷がうまくいかないときがあります。

 部屋によって違うこともあります。部屋の位置によって違うのです。そして、東西南北の方向によっても違うのです。山に行っても祈祷がよくできる所があります。そして、サタンが集まっている所もあります。それは日陰です。そのような日陰とひなたは、霊的に区別されるのです。何度か体験してみれば、だれでもそのようなことが分かります。(七六−一四二、一九七五・二・二)


二 神様の心情を体恤する道

 祈祷しなければなりません。一人で静かな所に行って月を眺めて感謝するなど、すべて自然と呼吸できる心霊的な生活、祈祷生活が必要なのです。今、先生もそうです。私が海に出て行くのも、そのような心情を体恤するためです。それは、ご飯を食べることよりも貴いのです。寝ているときに一人起きて、夜を明かすときもあります。(九四−一五五、一九七七・九・一)

 祈祷することによって、「そのことはこのようにして、あのことはこのようにする」と教えてもらうのです。皆さんはそれを知ってこそ大きなことをすることができるのです。祈祷だけでそのような道を開拓することができます。祈祷がご飯を食べることよりも重要だという事実を知らなければなりません。

 先生も自然を好み、一人でいる時間が好きです。先生は静かな夜が好きです。先生にそのような面がどうしてないでしょうか。すべての生活において豊富な底辺の基盤を築くことができるのは、祈祷以外にないという事実を知らなければなりません。そのような場で愛を体験することができるのであって、普通の場では難しいのです。

 皆さんもそのような土台の上で、力を補強することができてこそ、信仰の道を行くことができるのであって、いつもこのように、先生が導くとおりについてくるようになれば、どうするのですか? 先生がいなければどうなるでしょうか。そのような裏面の生活を備えるためには、祈祷が必要だということを知らなければなりません。(一〇四−一一一、'一九七九・四・一五)

 あるときは、神様が何かのために祈祷しなさいと言われる場合がありますが、それは公的な一時を越えるための作戦です。そのようなときは、精誠を尽くさなければなりません。その精誠は、自分の子どものために尽くすものではありません。自分の家庭が問題ではないというのです。そのように精誠を尽くすときは、夫も避け、子どもも避けなければなりません。清潔なところで、きれいなものを食べて、きれいな服を着て、清らかな心持ちで精誠を尽くさなければなりません。(三一−一六九、一九七〇・五・二四)

 精誠を尽くすときは、「絶対的に信じます」という立場に入っていかなければなりません。「神様を絶対的に信じます、み旨を絶対的に信じます」という立場に入っていかなければならないのです。そのような立場でのみ神様が協助されるのです。祈祷しながらも、その祈祷が成就するのか否か疑ってはならないというのです。「お父様! 私だけが残りました。六千年間あなたが苦労してこられた基盤の上に、私一人が残りました。あなたのみ旨の前において、近くにいる者は私しかいないではないですか? それほど私という存在が重要ですが、まだ何も備えることができていません。それでも、私に命令なさったので、私がすべての基盤を備えて、この民族に代わります。それが復帰摂理ではないでしょうか」と言うことができなければなりません。(三一−二九〇、一九七〇・六・四)

 皆さんがたくさん祈祷をして熱心に信仰生活をしていくと、時を知るようになるでしょう。あるときは、秋のような気分がするのではなく、春のような気分がするのです。そのようになると、新しい恵みの因縁が芽生えるのです。祈祷の内容も変わるようになります。(三二−一七二、一九七〇・七・一二)

 祈祷をするとき、人知れずしなければなりません。精誠を尽くすときも、人知れず尽くさなければなりません。この世に風が吹き、揺れてすべてのものが崩れて倒れたとしても、自分自身は残ることができる因縁でも残しておいてから死ななければならないのです。これがまさに統一教会員たちが生きなければならない生涯であり、残すべき生涯路程です。(三五−三〇、一九七〇・九・二七)

 自分が生まれながらにもった人柄を消耗しながら使ってしまい、そこに加えるものがなければどのようになりますか。世の中の人々は、神はいないと言いながら、人柄だけをもって生きていきます。それで世の中の終わりになれば、一面では善なる面が大きくなります。しかしながら、そのように大きくなるものは見えません。

 社会が悪くなればなるほど、神のみ旨を心配して精誠を尽くし、昼夜祈祷する人が多くなります。世の中を救うために精誠を尽くすのです。そのような人は多くはありませんが、その基準は高まるのです。

 それでも世の中は絶えず悪くなっていきます。周囲の環境が良くなれば、その中で生きていく人々の人柄も良くなりうることがありますが、その環境が次第に悪くなるので、かつて良かった人々の人柄までも侵食されるのです。そのような社会に出て、あの人この人と会いながら酒などを飲むようになると、ゆがんでつぶれてしまうのです。(三九−三一八、一九七一・一・一六)

 人は公的な生活をしなければなりません。先生もそうです。疲れていても、このように仕事を済ませて寝床に入ってこそ気分が良いのです。何かを少しだけやり残して休むようになると、気分が悪いのです。そのようなときは、祈祷でもしなければならないのです。そのように暮らすのです。(三九−二一二、一九七一・一・一〇)

 祈祷時間を定めるときには、早朝に祈祷してみて、朝にしてみて、昼にしてみて、夕方にもしてみて、夜中にもしてみなさい。そのように数年間、祈祷生活をしてみて、何時から何時まで祈祷するのが自分白身にとって最も合った時間かを知らなければなりません。それを知って、自分自身に最も合った時間に精誠を尽くしなさいというのです。(三一−二八八、一九七〇・六・四)

 心霊基準の高い人が祈祷する時間に共に祈祷すれば、その人によって恵みを受けます。もし夫の心霊基準が高く、信仰生活でも模範になれば、妻がその夫によって恵みを受けるようになります。そのように恵みを受けるようになれば、夫がこの世にない美男に見えるというのです。そして、夫が妻を通じて恵みを受けるようになれば、その妻が本当に美しく見えざるをえないというのです。世の中の女性の中でいちばんだというのです。本来、夫婦はそうでなければなりません。(三一−二八九、一九七〇・六・四)

 自分のために祈祷してくれて、精誠を尽くしてくれる人がたくさんいればいるほど、その人は福を授かった人に違いありません。自分一人のために精誠を尽くす人をたくさんもつためには、私が多くの人々に福を譲り渡してあげなければなりません。そうするまでは、多くの人々が私に福を授かるようにと祈ってはくれないという事実を知らなければなりません。

 今までキリスト教徒の中で、世界的にキリスト教が勝利することができるよう祈祷した人々はたくさんいたかもしれませんが、「終りの日」に審判を受ける怨讐たちまでも救うために精誠を尽くして死の道を行ったキリスト教の信者たちがどれほどいるでしょうか。その数は多くないのです。これは今日のキリスト教の現実を見て分かることです。(三一−一五七、一九七〇・五・二四)

 祈祷をするときは、まずこの国とこの民族のためにしなければならず、それから教会のためにしなければならず、それから子孫たちのためにしなければなりません。自分の血筋を受け継いで生まれた息子、娘たちが、神様の心をどれほど痛めているでしょうか。それで、子孫たちのために祈祷しなさいというのです。

 自分が子孫たちのために涙を流すことによって、神様がその子孫たちに同情することができる条件を立てるのです。統一教会の信徒は、死ぬときにひざまずいて死ななければと考えます。そのようにひざまずくのは、世界的な使命を代々連結していくべき統一教会の信者として果たすべき義務であると理解しています。(二一−二七三、一九六八・一一・二四)

 皆さんはこの世界を掲げて、深刻に祈祷してみましたか? 歴史時代を通じて、今まで神様は、「私が東に行くときは世界が東に動き、私が西に行くときは世界も西に動く。私が呼吸するのは世界人類を代表して呼吸するのであり、私が食べて生きるのは、人類を代表して食べて生きるのだ」という信念に徹して信仰生活をすることができる人を待たれたのです。それゆえ、ある一時代を代表して祈祷し、その時代だけの悲運に責任をもって身もだえする人は、ある宗教ならば宗教の教祖として登場することができないのです。(四四−二三四、一九七一・五・三〇)

 船内にいるネズミがその船が沈没することを知って逃げるのに、万物の霊長である人間は自分が生きて死ぬことを知らないようになっていますか? 本来から、それが分かるようになっていますが、分からないから祈祷が必要なのです、祈祷が。人間の人格を革新し、革命するには祈祷が必要だということを知らなければなりません。

 しかし、自分白身のためには祈祷してはいけません。私が、お母様と子どもたちを連れていますが、その子どもたちのためには祈祷しないのです。いつも世界と国の問題を心配するのです。そうすれば神様は私のことを心配してくださるのです。そうだというのです。

 もし自分の家庭のために祈祷すれば、病気になったり故障したりするのです。教会や全体のことを重要視しないで、自分の家庭を重要視したら、その家庭に事故が起こるようになります。先生は家の生活は夢にも考えません。教会の生活とか全体のことを考えるのです。それはすべて神様がやってくださるのです。それを知らなければなりません。

 それが原理的な道理ではないですか。大きなことをする人々は、下のすべての人が尊敬するものであり、すべての人のために生きれば天が高めてくれるものです。天理の道理がそのようになっています。今や祈祷をいかにするのか分かったでしょう? 空虚な祈祷はしてはならないというのです。空虚な祈祷をしてはいけません。(一〇四−一一四、一九七九・四・一五)

 いつでも、祈祷しながら注意すべきことは、絶対に自分の欲をもって祈祷してはいけないということです。そうしていたら気が狂うことがあります。いつも公的なことを中心として祈祷すれば、心が澄んでいきます。そのように生活するようになれば、ある段階で何が起こるかということに対する予感がするのです。そのような予感がすることに備えて祈祷しなければなりません。(一〇四−一一四、一九七九・四・一五)

 すべて霊的な体験をしなければなりません。それで自分が行うことが成功するか、失敗するのか、分からなければなりません。祈祷を熱心にすれば、それが分かるようになるのです。そうすれば気分が良く、体が軽くなります。すでに肉体的に分かるのです。そうするには自分白身を中心とした観念をすべて洗い流してしまわなければなりません。皆さんがその戦いを克服しなければならないでしょう。(一〇四−一一五、一九七九・四・一五)


三 知的な人と霊的な人の祈祷

 知的な人は祈祷が必要であると同時に何か必要でしょうか。そして、神霊的な人は知的な面の補強が必要であると同時に、何か必要でしょうか。どちらも友が必要です。だれでも一人で信仰生活をするのは難しいのです。(七六−一四〇、一九七五・二・二)

 祈祷と真理、「霊とまこととをもって礼拝すべきである」(ヨハネ四・24)という言葉があります。それは何かといえば、平行をなして和する立場に立ちなさいということです。人間は霊界と肉界を調整しなければなりません。霊的な世界と知的な世界の中央で、左右に調整することのできる人間にならなければならないのです。

 人間の中、霊的な人と知的な人の二つの部類があるために、自分白身はどの種類の人であるかを知らなければなりません。知的な人は霊的な面を補強するためには、祈祷しなければならず、霊的な人は真理に対して研究しなければならないのです。このように両面が補強されなければならないという事実を忘れてはなりません。

 統一教会の人々は、そのような経験をたくさんしたでしょう? 何かを聞いて心霊に打撃を受けてどうしたらよいのか分からなくなるのです。そのようなときは、一人で祈祷によって解決するのは難しいのです。しかしながら、知的な友達がいれば、「おい、おまえ! このようにしろ!」と言って助けてあげることができます。

 そして、知的な人が難しい立場に処した場合には、霊的な友達が、「おい! 私が祈祷してみるとこうだ」と言いながら容易に解決することができるのです。それゆえ、信仰者には必ず友達が必要であるということを知らなければなりません。(七六−一三七、一九七五・二・二)

 知性的な人は総じて祈祷を嫌います。「ああ、祈祷が何で必要なのだろう? 父なる神ということをどうして言うのだろう?」と言って、実感がわかないのです。祈祷を思うと迷信のようであり、自分自身が否定されるような感じがするのです。

 その反面に、生まれつき「神様…!」という言葉がとても快く聞こえる人がいます。何か説明を聞く以前にただ良いというのです。「お父様…!」と言うと、ご飯を食べなくても良いというのです。そのような人もいます。(七六−一三六、一九七五・二・二)


四 祈祷と精誠

 いつも精誠を尽くさなければなりません。精誠は一度尽くして腐るものではありません。刀はいつも取り替えなければなりません。刀を一度使って取り替えなければどのようになるでしょうか。取り替えなければなりません。いつも取り替えなければなりません。同様に、一度激して怒ったならば、静かに心の位置を定めておかなければなりません。

 先生も、もっている力よりも、もっと大きい世界的な仕事をするときには深刻です。より大きい力が必要なときは、その力をどこからもってくるかということが問題になります。その力をもってこられないときには後退しなければなりませんが、そうすることはできないのです。ですから、祈祷が必要であり、神様が必要なのです。それで心情の世界が必要なのです。

 愛の世界は、いくら引き出しても終わりがありません。物質の世界も終わりが来て、知識の世界も終わりが来て、権力の世界もすべて崩壊しうるのですが、心情の世界は無限です。それゆえに、心情の世界を中心として動かなければならないのです。(一二〇−三〇六、一九八二・一〇・二〇)

 神様に侍るにおいては、言葉だけではいけません。どれだけ精誠が込められた心を抱いてお父様に待ったのかというのが問題です。私たちの五官を通じて感じるすべての感覚は、私たちの感情に直結します。そのような五官を通して、どれほどお父様を愛し、どれほどお父様の貴い価値を悟り、どれほどお父様の神聖さを慕って賛美することができるのかということが問題なのです。

 それが聴衆と共に祈祷する時間や、ある恵み深い時間に受けることのできる感覚ではなく、私たちの生活圏内で絶えず受けることのできる感覚でなければなりません。そのような感覚を中心として、天と一つにならざるをえない自分白身をいかに発見するかということが重要です。(四二−二一八、一九七一・三・一四)

 自分が捨てられ追われるときには、祈祷しなくても滅びません。自分が迫害を受ける立場にあれば、神様は離れることができないのです。しかし、栄光が訪ねてくるようになるとき、より大きなもののための環境と基盤を築くことができなくなれば、その栄光は自分にやって来ても他の人に移っていかざるをえません。自分を通り過ぎてしまうというのです。このようにやるせなく恐ろしいことが私たちの信仰路程にあるので、精誠を尽くすことにおいては限りがありません。(四二−二三一、一九七一・三・一四)

 精誠を尽くす場に祈祷の能力が現れて神様が共にあられるのです。神様が共におられることを生活の中で感じる人になってこそ、神様の恵みを相続することができるのです。神様が共におられるということを民族的な次元で感じることができる人は、世界を相続することができるのです。必ず、そのような結果が結ばれるということを知らなければなりません。堕落したアダムとエバの子孫である人間としては、精誠なくしては復帰の道を行くことができません。(四二−二三四、一九七一・三・一四)

 祈祷するときに、こう言うのです。「私はあなたの愛を学んでみたいし、あなたの愛の力をもちたいのです」と言うのです。そして、「このように混乱した歴史時代に、このような内容をご存じの真のご父母様、そのかたの愛を中心として私たちが集まったので、そのかたの伝統を受け継ぎます」と祈祷するのです。これが統一教会員の主流思想であるということを知らなければなりません。(一二四―一四六、一九八三・二・一)

 信仰者はどのようなことがあっても打撃を受けてはなりません。いかに衝撃的な言葉を聞いたとしても、打撃を受けてはならないというのです。たとえ自分自身が悔しい立場に立つようになっても、そのような悔しい立場に立つようになったのは、自分が滅びるためのものではなく、栄えるためのものとして考えなければなりません。そのような場合が生じれば生じるほど、自分の時が近づいてきたことを知らなければなりません。そして、その環境を克服するために、謙遜な心で精誠の限りを尽くして祈祷しなければなりません。(四二−七五、一九七一・二・二)

 だれでも、信仰者として考えられないような見苦しく恥ずかしいことをしたならば、罪を犯したならば、「神様の愛を感じるようにしてくださいませ!」などとずうずうしく祈祷してはなりません。私はそのような祈祷はできません。良心に呵責を受けることがあれば祈祷ができません。お父様と呼ぶのが恥ずかしくなります。皆さん、そのようなことが分かりますか?

 ただ分別なくお父様の名前を呼んで「愛するお父様!」と言うのは、ほらを吹くことにしかなりません。ですから、恥じなければなりません。神様の前で自分の姿勢を正しく整える態度が必要です。

 今、先生自身もそうです。私自身が、公的な立場でどこかに行って礼拝の時間に遅れるようになれば、出てくる前に祈祷します。また、ある聖日には、礼拝時間に行くことができないこともあります。そのようなときにも必ず悔い改めの祈祷をするのです。主体的な責任を担った者として、「食口たちが、生死の問題を解決するために精誠を尽くしているのに、その時間に行くことができなかった私自身をお赦しくださいませ!」と祈祷するのです。そのような祈祷が必要です。しかし、それは簡単なことではありません。(四三−一一三、一九七一・四・二五)

 大きい枝になろうとするならば、深い根の津波を吸収することができる力がなければなりません。横にこっそりと伸びた枝はでたらめです。それは、後には枯れるようになります。それゆえ毎日のように祈祷して精誠を尽くさなければなりません。そのように精誠を尽くすところにおいては、きのうよりもきょうがましでなければなりません。昨年よりも今年がましでなければなりません。昨年、忙しかったならば、今年はさらに忙しくなければならないのです。(四六−一六九、一九七一・八・一三)

 最近、先生は霊界にいる皆さんの先祖たちを動員するための祈祷をしています。皆さんの先祖たちを動員して、蕩減の道を歩んでいる皆さんに協助させようとしています。それゆえ、今後、自分を中心として蕩減しようとしても、自分自身を中心として蕩減するのではなく、金氏ならば金氏の家門を中心として蕩減することが起こるでしょう。

 それで、み旨に対して変わらずに行くという食口たちに、ある一時に不祥事が起こるようになるかもしれません。先祖たちが早く復帰させるために子孫たちを打って犠牲にする場合が生じるのです。そのような場合は、個人的な責任を果たすことのできない統一教会の信徒たちに起こるようになるでしょう。そのようなことが起こらないか、見ていなさい! 原則はそのようになっています。(一六−三一二、一九六六・七・三一)

 先烈たちの精誠の基盤を相続しようとするならば、どのようにすべきでしょうか。驕慢であってはいけません。絶対的に謙遜でなければなりません。皆さんの先祖たちが、精誠に花を飾って模様を刻んであげるため祈祷しなさいというのです。「あなたは貴いものを探しましたが、内的に不十分だったので、私が補強して完成させます」と祈祷しなさいというのです。そうすれば、彼らはどれほど喜ぶでしょうか! (四二−二二九、一九七一・三・一四)

 「私が友のために命を捧げるのは、救いを受けるためではなく、祝福を受けるためではない。私がよくなるためのものではなく、その友を救うためにこのようにするのだ」と言うことができなければなりません。その友のために精誠を尽くしてあげなければならないのです。一つの生命を中心として命をかけて祈祷し、精誠を尽くす人が、その人を本当に愛することなのです。

 皆さんが一つの生命を握りしめて一年、二年、三年あるいはそれ以上に数年の間、精誠を尽くしてみたことがあるでしょうか。それが問題となるのです。この地上に生きている人類の中で、一つの生命のためにどれほど精誠を尽くしてみたかというのです。自分の手を経なければ、その人は間違いなく地獄に行くという思いで、万人のためにどれほど精誠を尽くしてみたかということが問題なのです。(四二−二二四、一九七一・三・一四)

 祈祷をするときは、自分自身を克服しうる祈祷をしなければなりません。もう少し楽になりたくて、もう少し幸福でありたくて、自分のすべてを中心として動機にしたがる自分自身を否定する力が足りないので、神様に助けてもらうために身もだえする場が祈祷の場であるということを知らなければなりません。

 そして、環境を克服するための祈祷と精誠を尽くすようになるとき、その精誠の分だけ悪なる環境が除去されうるのです。そうすれば喜ばざるをえないのです。なぜうれしいのでしょうか。自分の本性がこの善なる環境と授受することのできる基盤が築かれ、その基盤が拡大されることによって、そのときまで感じることのできなかった喜悦と満足を感じることができるからです。(四二−二一九、一九七一・三・一四)

 自分に悲しみがあるようになると、「お父様、私から悲しみを取り除いてくださいませ! 私の悲しみは神様のものとされ、私には喜びだけを下さいませ!」というのが、今日の私たちの祈祷です。そして、「私たちから災いをなくし、福を下さいませ! 災いがあるならば、その災いはあなたがもたれ、あなたがもっておられる福を私に下さいませ!」と祈祷します。このような信仰は必ず終わりが来るのです。そのように祈祷する人たちは、信仰の道を長く行くことはできません。(四三−二五、一九七一・四・一八)

 皆さんが信仰生活をするにおいて、暗闇が訪れてくるのを防ぐためには、為に生きなければなりません。皆さんが早朝祈祷をしようと出かけていって一生懸命に祈祷しますが、早朝祈祷ができなくてもよいので、その時間に信仰の同志のために三家庭の門の前で祈祷しなさいというのです。一分でも良いのです。これが早朝祈祷を何時間するよりもましです。それが福を受けることです。このような思想がなければ、世界を一つにすることができません。(四二−二六〇、一九七一・三・二一)

 先生は祈祷するとき、自分が孤独なとき、神様が心情的に慰めてくださったときを思います。心情の世界は時間を超越します。六・二五動乱のとき苦労した人ならば、今でもそのときの話をすれば涙を流すのです。そして、かわいそうな子どもを置いてきた親は、老いて死ぬときまで、その子のことを考えれば涙が出てくるのです。そのような境地は、人間としての限界を超越するのです。(三三−九一、一九七〇・八・九)

 皆さんの心霊状態が一様でないのは、善なる先祖と悪なる先祖の結実体だからです。今日、統一教会の信徒が祈祷するとき、「ああ、私たちは六千年の歴史的な結実体です」と祈祷するでしょう? そのように六千年の歴史の結実体ならば、善なる先祖の津浪だけでなく、悪なる先祖の津液も及んでいるのです。(五一−二五〇、一九七一・一一・二八)

 み旨を中心として祈祷をしても実感がわかず、出ていって伝道をしても実感がわきません。囲いもないのに四方がぴしゃりとふさがった立場で、なぜか実りがないようです。自分がお父様を呼ぶ声もかすれ、み旨のために生きるということもぼんやりしてくるのです。このようなぼんやりとした生活をしてみると、結局は世俗的な環境に吸収されるほかなく、自分自身を忘却するほかないのです。そのように歩んでみると、結局は思いがけない所に流れていく、とんでもない結果を招くようになるのです。(二〇−一四九、一九六八・六・四)

 皆さんは過去に恵みの生活をしたときに記録した日記を読み返したり、祈祷の中で体験したことをもう一度思い起こしたりして、心情を復活させなければなりません。そうして新たに決心しなければなりません。いま一度、そのときの心情を復活しうる身もだえをしなくては、皆さんのだらけたその立場を収拾することができません。(四一−九六、一九七一・二・二八)

 皆さんの過去と現在の生活を比較してみるとき、過去が今日よりましならば、その過去の生活を現在の生活に再現させなければなりません。いかにそのときの心情を復活させることができるかが問題です。もしそれが祈祷で不可能ならば、行動で解決しうる道を探さなければなりません。

 もし、今日皆さんがだらけたような立場にあるなら、いかにしてでもそのような立場を収拾しなければなりません。過去よりましでありうる条件を立てなければなりません。過去には一日に一度ずつ本部教会に来たならば、今は二度以上通わなければなりません。昔は祈祷すれば恵みがあったのに今は恵みがないならば、そのときに十分関していた祈祷を今は二十分、三十分、一時間以上しなさいというのです。(四一−九七、一九七一・二・二八)

 皆さんのだらけてしまった立場を収拾する方法は、統一教会の主流的な方向に歩調を合わせるのです。そして、そこに先頭に立った主体者がいるなら、その人より強力な信念をもつことです。そうすれば、祈祷しなくてもかまいません。「神様、私を助けてくださいませ!」と言う必要がないというのです。祈祷しなくても神様が助けてくださるようになっています。(四二−一二五、一九七一・二・二八)


第六節 祈祷と実践

 祈祷する目的は何でしょうか。実践するためです。ですから、実践するようになると、祈祷しなくても祈祷した以上の立場に立つことができるのです。いくら考えてみても、その道がいちばんの早道です。私は、精誠を尽くして神様に会うことができるまで、数多くの試練を経験してきました。しかし、皆さんがみ旨のために一線に出てくるようになれば、直ちに先生に会うようになるのです。(四七−一八五、一九七一・八・二八)

 だれでも祈祷をすれば実践しなければなりません。祈祷は神様との公約です。祈祷は神様に対する人間の公約であるだけではなく誓いです。ですから、祈祷をしたら必ず実践しなさいというのです。そして、一つの問題について毎日のように祈祷する必要はありません。真なる祈祷は一度だけするのです。そうしてから、十年であれ二十年であれ、祈祷する姿勢で求めていく心をもたなければなりません。そのような心をもっている人は、恐ろしい人です。

 私がお父様の前に宣誓して誓ったゆえに、十年だけでなく一生の間、そのように宣誓して誓ったとおりに進んでいく人は、祈祷を成就しつつある人です。十年間祈祷する人よりも、一度祈祷して成就していく人が賢いのです。ですから実践が問題です。祈祷だけして行うことができない人は、神様が訪ねてこられても離れられるのです。それゆえ、体恤的な信仰の基盤を生活圏内に築くことが、何よりも重要なことであるということを知らなければなりません。(四〇−二九九、一九七一・二・七)

 霊的な体験をするには祈祷しなければなりません。それだけでなく、怨讐の世界に入って戦わなければなりません。祈祷だけしてはだめなのです。み言を中心として正しいことを探して、命をかけて戦うことができる信念をもたなければならないのです。(二五−三二、一九六九・九・二一)

 信仰生活するにおいては、漠然と精誠を尽くす祈祷よりも、実践をしながら精誠を尽くすことが必要です。神秘的な体験をしたとしても、その体験だけではだめだというのです。それはあくまでも個人的なものですが、その個人的な体験だけを中心としては、全体と関係を結ぶことはできないのです。そのような人々は、いくら祈祷して精誠を尽くしても、新しい味がしないのです。ですから、新しい方向を模索していかなければならないのです。(三〇−一二三、一九七〇・三・二一)

 祈祷するのは、自分の事情を報告するのです。そのように報告することが実績として残るのです。そのような実績の報告であるために、天が干渉して祝福するのです。それで、祈祷する人が恐ろしいのです。黙って祈祷する人が恐ろしい人です。そのような人が主人となるのです。(二三三−一〇五、一九九二・七・三〇)

 祈祷するよりも為に生きる生活をする人がもっと多くの福を受けることができます。兄弟をつかんで涙を流すことが、何時間祈祷することよりもましなのです。(二〇四−五三、一九九〇・六・二九)

 蕩減の道を行かなければなりません。一年に何回かずつ蕩減の道を歩む期間を定めて、特別祈祷をしなければなりません。そのようにしてみなければなりません。そうすればどんなことが起こるでしょうか。そのようにしなければ、訪ねてくるようになる悲しいことや、困難なことが蕩減となってしまいます。(一三一−三一九、一九八四・五・一九)

 体験が必要です。神秘的で霊的な体験が必要なのです。祈祷の中で先生に会い、幻想の中で先生に会い、夢の中で先生に会う体験が必要なのです。ずっと霊的な世界に入って、楽園にも入ってみる体験が必要なのです。(一三一−三一〇、一九八四・五・四)

 祈祷をしたら、必ず行わなければなりません。十ほどを標準として祈祷したならば、十五ほど実践しようと努力しなければなりません。そうすれば、神様が自分の後ろに訪ねてきてくっつくというのです。だれでもそのような観点でみ旨を成すために努力しますが、疲れることがありますか? 「ああ、四十になって結婚もできず…」と言うことはできないのです。何の話か分かりますか?

 どのように生きなければならないでしょうか。皆さん、家に行って祈祷しますか? だれでも、少しだけだらけても、「神様、申し訳ありません」と悔い改めて正さなければなりません。そのように正すところにおいては、ご飯を食べるのが問題ではなく、眠ることが問題ではありません。そのように暮らせば、たくさんの祈祷をしなくてもかまいません。行えばよいのです、行えば。「あなたはこのように願いませんか? ですから、私がそのようにします」と言えばよいのであって、祈祷が何で必要ですか。(一〇八−八四、一九八〇・六・二二)

 祈祷には要求の祈祷があり、報告の祈祷があります。その中で、要求の祈祷は決意の祈祷にならなければならず、報告の祈祷は感謝の祈祷にならなければなりません。(一一二−五九、一九八一・三・二九)

 祈祷は、他人のためのものです。自分自身のためのものではありません。自分自身のために祈祷するのは通じません。教会の問題、近所の問題、世界の問題のために祈祷しなければなりません。そのように祈祷すれば、そのまま実戦しなければならないのです。部落のために祈祷したら、投入しなければならないのです。祈祷だけして何をしようと言うのですか? 祈祷した分、行動しなければならないのです。(二六五−二一一、一九九四・一一・二)

 祈祷はつまらなくしないで、愛を実践するための祈祷をしなければなりません。愛を実践するための祈祷をしなければならないのです。そのように祈祷して実践し、祈祷して実践すれば発展するのです。「神様、明日はもっと前進いたします」と祈祷してからご飯を食べるとき、ご飯を見て、「おい、ご飯! おまえは私が愛を実践するためのエネルギーとなれ!」と言うことができます。また服を見ては、「おい、服よ! 私が愛を保護するためにおまえを着るのだ」と言うことができなければなりません。門を開けて出ていくとき、太陽が照らしたら「歴史的な太陽が照らすのだな! 自然が私の同志となってくれるのだな!」という心を抱くことができるのは、どれほどすてきだろうかというのです。そのような生活をするために祈祷が必要なのです。(一一二−五八、一九八一・三・二九)

 では、どうして祈祷する人たちの中で、ある人は滅び、別の人は発展するのでしょうか。どうしてですか? それは祈祷を宇宙の拍子に合わせるか、合わせられないかによって異なるからです。(九四−二〇、一九七七・六・一九)

 祈祷はどうしてするのでしょうか。どうしていたずらに祈祷をするのですか? 神様は、祈祷してくれることを願われて皆さんをつくられたでしょうか。神様は人間が自分の事情をもって祈祷する姿に向かい合われ、苦痛を感じられます。ですから、悲しみの神様であるという結論が出てくるのです。(一六−一一五、一九六六・一・二)

 祈祷するときには「神様、私は哀れな者でございます。私が神様の立派な息子となりますから、哀れに思ってくださいませ!」と祈ってはなりません。祈祷をしようとするなら、「神様、世界の万民を救うのがあなたのみ旨ではないでしょうか。この瞬間にも無念な思いで死んでいく人がいるのならば、私の生命を捧げてでも救おうと思いますので、彼らを救うことのできる道を教えてくださいませ」と言わなければなりません。そうすれば、神様はだれを必要とするでしょうか。自分を必要とされるのです。そのように祈祷しなければならないのです。(三九−二〇一、一九七一・一・一〇)

 手足が凍り、膝も腫れて、食べることができずに意識がかすみ、死の境界線を行き来するようになるときどうしますか? 「神様、私は死にそうです!」と、いくら祈祷したとしても無駄なのです。勝利した結果をもって、「お父様、私はこのようにやりました」と報告すべきであって、何の結果もなしに祈祷だけしてどうするのですか? そのような祈祷を聞いてもらって神様だけ滅びるようにでもするのですか? そうではないですか? 祈祷して実践しなければならないのです。(四〇−二五三、一九七一・二・六)


第七節 「終りの日」の聖徒たちが捧げるべき祈祷

 今日、堕落した世界に生きていることを、私たちはいま一度悔しく思わなければなりません。「神様、どうして私が堕落したアダムとエバの子孫として生まれたのでしょうか。もし神様が私を人間の先祖としてつくられたならば、私はアダムのように堕落しなかったでしょうし、エバのように堕落しなかったでしょう。神様、ですから、アダムとエバが堕落する前の心情を私に許諾してくださいませんか。神様がアダムとエバを希望の心情で見つめられた内容があったならば、そのような希望の心情を、私をして抱くことができないでしょうか?」と祈祷しなければなりません。

 堕落したアダムとエバの子孫たちの中から、そのように祈祷する人が出てこなければなりません。聖書でも、ただ無条件で下さるとは言っていません。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」(マタイ七・7)とあります。(九−一八三、一九六〇・五・八)

 私たちがみ言に従っていき、み言を守っていく目的はどこにあるのでしょうか。私たちもイエス様のように、道であり、真理であり、生命となるところにあります。そのようになって何をするのでしょうか。イエス様の新婦になるのです。それが信仰者の最高の目的です。

 それゆえ、「終りの日」にはキリストとともに王の役目を果たすとあります。イエス様と相対的な関係なのです。ですから、皆さんが祈祷するとき、イエス様の名前で祈祷するのです。(八−三一六、一九六〇・二・二一)

 涙を流してたくさん祈祷しなければならない時が「終りの日」です。涙だけでなく血を注ぎながらも祈祷しなければなりません。私たちは涙の峠、十字架の峠を越えてきました。イエス様はゲッセマネの園で血の涙を流して祈祷をしました。民族をつかまえて涙を流しました。そのような祈祷は、サタンの権限を押さえてしまうことができます。(一〇−四一、一九六〇・六・二六)

 祈祷をしたとしても、「イエス様が汗を流した谷間に私を追いやってください、イエス様が血を流したゴルゴダに私を追いやってくださいませ!」と祈祷しなければなりません。それがキリスト教の本質的な要素であり、永遠に変わりえない伝統の中の伝統であるという事実を知らなければなりません。(一〇−二八〇、一九六〇・一一・六)

 「終りの日」に置かれている聖徒たちは、天に向かって歴史的な祈祷を捧げなければなりません。どのような祈祷を捧げるべきでしょうか。モーセがシナイ山で石板を受けるために捧げた以上の祈祷、アブラハムがモリヤ山上でイサクを播祭として捧げるとき捧げた以上の祈祷、イエス様がゲッセマネの園で生死をかけて捧げた以上の祈祷を捧げなければならないのです。(五−一六二、一九五九・一・一)

 私たちにみ旨を願われる神様がどれほどかわいそうでしょうか! 皆さんは、「ノア、アブラハム、モーセ、イエス様の責任を私に少しでも私に背負わせてください!」と祈祷してみましたか? ノアの心情、アブラハムの心情、モーセの心情、そしてイエス様の心情をご存じである神様は、それ以上の心情を抱いた者が現れることを待ち望まれています。ところが、皆さんは歴史的な曲折の事情をかけて深刻に祈祷してみたかというのです。

 天地を明るく照らしながら、昇る朝日を眺めたり、暗い夜空できらきら輝く星の光を見つめたりしながら、歴史的な恨と希望を感じたことがありますか? 神様は、太陽の光や月の光を見るにも申し訳なく思われます。息子を立てて万物を主管しなさいと祝福してあげたのが逆になったので、神様としては何の面目があるでしょうか。(一一−三一九、一九六二・三・二三)

 皆さんは、どのように祈祷しなければならないでしょうか。「神様、大変です」と言ってはいけません。アダム、ノア、アブラハム、ヤコブ、モーセ、そしてイエス様に代わって祈祷しなけれぱなりません。今日の先生に代わって祈祷しなければならないのです。そのような伝統的な因縁をもって祈祷すれば、天は皆さんを見捨てません。「天が彼らの前途を開拓してあげるために、協助した基準があることが分かります。私もそのような歴史的な実体となって、現実的な責任を負ってサタンと戦おうと思いますので、神様、力を下さいませ!」と祈祷すれば、力を下さるようになっています。(一五三−一三六、一九六三・一一・一五)

 第一イスラエルは滅びて、イエス様を中心としたキリスト教が第二イスラエルです。今日のキリスト教徒が第二イスラエルの民です。ところが、第二イスラエルが責任を果たすことができないので、私たちは「主に侍って生きることができる第三イスラエルを成してくださいませ!」と祈祷しなければなりません。私たちが祈祷するのは、それしかありません。自分の息子、娘に福を与え、自分の国を愛してくださり、世界を何とかなるようにしてくださいという祈祷はしてはならないのです。この世界は、すべて滅びるはずです。一度、審判台の上に立たなければならないのです。(八−一七九、一九六〇・二・七)

 皆さん、祈祷してみてください! 祈祷すればするほど涙が目の前をふさぐでしょう。お父様の前に近く行けば行くほど悲しみを感じ、慟哭するでしょう。そのような段階を越えて、お父様のことを考えただけでも踊り出すことができなければなりませんが、まだそのようになることができていません。それゆえ、まだ皆さんは歴史的な条件に引っかかっており、時代的な条件に引っかかっています。そのような条件を清算して、天の食口として入籍しうる日を恋しがらなければなりません。その日を恋しがるにおいては、皆さんだけでなく全世界の人類が恋しがらなければならないのです。(八−一一四、一九五九・一一・二二)

 天宙に通じることのできる祈祷をしなければなりません。そのような基準を立てなければなりません。この地に数多くの人々がいて、霊界にも数多くの霊人たちがいますが、この時代には自分でなければいけないという基準を立てなければなりません。(一二−二五〇、一九六三・五・二二)

 信仰は何を要求しているのでしょうか。悔い改めを要求しています。それはどのような悔い改めでしょうか。歴史的な悔い改めと時代的な悔い改めです。天は歴史的な悔い改めと時代的な悔い改めを願っています。それを知って「過去のすべての罪も私の罪であり、この時代のすべての罪も私の罪ですから、お父様、赦してくださいませ!」と祈祷することができる人にならなければなりません。(八−三二一、一九六〇・二・二一)

 祈祷をするにしても、だれよりもたくさんしなければならず、精誠を尽くすにしても、だれよりもたくさん尽くさなければなりません。六千年間、精誠を尽くした烈女たちが頭を下げうる権威をもたなければなりません。霊界にいる烈女たちも、「あなたの精誠を天宙に賛美するでしょう!」と言うことができなければならないのです。そのように公認されなければなりません。

 そのような新婦であってこそ、天がサタン世界の矢面に立てて誇ることができます。今日の大部分の人々のように、ただ信じれば天国に行くと思っていてはいけません。礼拝堂に献金でも少しずつしながら行ったり来たりして、牧師や長老になればもう良いものと思っていますが、とんでもないことです。私の知るところではそうではないのです。(九−一〇八、一九六〇・四・二四)

 歴史的な神様は悲しかったのです。六千年間、悲しかったのです。私たちの不信した先祖たちによって無念に思われました。ですから、私たちは無念で悲しい神様を慰労してさしあげる祈祷をしなければなりません。

 今、世界に広がっている第二イスラエルに対する神様の心情はやるせないのです。その神様のそでをつかんで、「お父様、どうしてあなたの心情がこのように痛々しくて無念となったのでしょうか」と言うとき、神様がその手をつかんで、「そうだ、私の息子、娘たちよ!」と言うことのできる群れが出てこなければなりません。(一〇−三四九、一九六〇・一一・二七)

 私たちが倒れることがあったとしても、天的に立てようとする忠孝の伝統は立てなければなりません。忠男、息女の伝統、烈男、烈女の伝統、孝行息子、孝行娘の伝統さえ立てておけば、統一教会は使命を果たすのです。伝統を立てるにおいても、「こういうこともある」ではなく、「こうだ」という公式的な伝統を立てなければなりません。

 心情が慕わしくてさまよう人類は、どのみちその伝統の門を経なければなりません。いくら背を向けて反対したとしても、その門を経ざるをえないというのです。ここで話している人は、そのように信じています。また、そのように実践しています。

 私たちは涙を流さなければなりません。そのような心情が体恤できなければ、涙を流さなければなりません。その心情が体恤できなければ、夜を徹して祈祷しなければなりません。断食をしながらも祈祷しなければならないのです。その心情を体恤することができる者だけが、最後の勝利を収めるでしょうし、最後の審判で残るでしょう。

 そのような皆さんになるというならば、神様は皆さんを通じて安息の場を築かれるでしょうし、世界は皆さんによって動くでしょう。皆さんがそのようなことを感じて知ったならば、今から全人類の前で言うべきことがなければなりません。(九−一二二、一九六〇・四・二四)

 私たちは、過去から現在までの歴史的なすべての罪悪を蕩減するための民族的な試練を、どのように越えていかなければならないのでしょうか。「この民族が天国の血族として立てられましたので、この民族を犠牲にして歴史的な罪悪を蕩減してください!」と祈祷しなければなりません。皆さんはそのように祈祷しなければなりません。必ずそうすべきです。

 皆さん個人のために祈祷してはならないというのです。「お父様がこの民族を通じて成し遂げようとされるみ旨があると思いますので、その責任を私たちに任せてください!」と言うことができなければならないのです。「左手では過去を悔い改め、右手ではこの時代を収拾しようとする供え物です。一方は歴史的な供え物であり、もう一方はこの時代の供え物ですので、天よ、お受けくださいませ!」と祈祷することができなければなりません。そうしてこそサタンが屈服するようになります。(一三−二六五、一九六四・四・一二)

 主の新婦になろうとする人は、一日たりとも平安な生活を送ることができません。そのような人は、天地にわだかまっている歴史的な恨を解くため、世界を代表して「お父様、私を打ってすべてのことを赦してくださいませ!」という祈祷をしなければなりません。

 世の中でもそうではないですか。孝子というのは、弟が過ちを犯して父母がむち打つならば、「お父さん、お母さん! 私を打って、弟を赦してください!」と言うのです。(一四−二二五、一九六四・一二・二七)

 ゲッセマネの園でイエス様が「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください!」と言ったような祈祷をしないで、「神様とすべての天軍天使たちは、私を踏んで世界に向かって出ていってください!」と祈祷しなければなりません。ですから、神様と霊界の協助を世界に拡散させうる皆さんになってこそ、世界の復帰が早まります。(一五−二二七、一九六五・一〇・一〇)

 霊的な体験をした人々は、祈祷するときに自分のための祈祷はいちばん最後にします。神霊の世界に入っていって祈祷すれば、だれのために祈祷しなければならないでしょうか。まず神様のために祈祷しなければなりません。主人に出会う時間なので、主人の福をまず祈らなければならないのです。そうしてから、イエス様のために祈祷することができなければなりません。神様のために祈祷してこそ、歴史的な神様の心情を知るようになります。イエス様のために祈祷してこそ歴史的なイエス様の心情を知ることができます。その次には、今までキリスト教界でみ旨のために戦ってきた数多くの人々のために祈祷しなければなりません。(七−三二八、一九五九・一〇・一八)

 私たちの先祖たちを思うと、「私を救ってください!」というのは妥当ではありません。かわいそうな民族のために泣いた預言者たちでした。民族のために泣いたイエス様であり、教団のために泣いたイエス様でした。ですから、まともな生涯路程を歩む人ならば、世界をつかんで泣き、天地をつかんで泣き、民族をつかんで泣き、教会をつかんで泣き、自分の食口をつかんで泣き、いちばん最後には、「私に責任を下さいませ!」と祈祷しなければなりません。(七−三二八、一九五九・一〇・一八)

 イエス様が「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ二六・39)と祈祷しましたが、それは気分が悪い祈祷だというのです。皆さんは、そのような祈祷をしないでしょう? 皆さんは三十八度線を越えて人民軍に捕まって、イエス様が十字架で経験したよりも五倍もの死の苦痛を経験してみなければなりません。そのようになっても恐いものがあってはなりません。

 皆さんは、そのように困難な立場になるとしても、「先生のみ旨は私のみ旨です。私のみ旨のゆえに先生が苦労しておられます。悔しくて恨めしいです。私一人でもみ旨のために行きますので、私について心配しないでください!」と祈祷して歩まなければなりません。(二八−一七五、一九七〇・一・一一)

 今までの誤った信仰態度を捨て、自らの十字架を神様の前に振り向けるのではなく、自分が甘んじていくという心を抱かなければなりません。それだけでなく、民族と世界の十字架まで責任を負うことができなければなりません。

 そのような立場で、「お父様、私に免じてでも、この民族を救ってくださいませ! 私がこの民族を思うのは、お父様がこの民族を救うことを望まれるからです」と言わなければなりません。そのような心情を抱いて泣かせる祈祷は神様に届きます。

 ところが、皆個人のために祈祷します。皆さんは先生のために祈祷しますか? 私のために祈祷することは、私が望みません。皆さん自身のためにも祈祷してはいけません。(三一−五四、一九七〇・四・一二)


第八節 祝福家庭の祈祷生活

一 子女たちに手本となる生活

 今は横的に蕩減すべき時代なので、だれでも失敗すれば、いくら祈祷しても、その子どもたちが正しく立つことはできません。牧師の息子、娘たちが失敗する理由も、牧師がアベル的な責任を果たすことができなかったからです。それゆえ、先生は責任を果たすことのできない人を、一つの立場に長くは置きません。(一八−九四、一九六七・五・二四)

 一間の部屋であっても、いつも精誠を尽くす一つの場所を備えておかなければならないのです。それで、父母に侍ることのできる一日が訪れたならば、服を着るのも準備された服を着て、靴を履くのも準備された靴を履いて、きれいにして侍る準備をしなければなりません。そこは、ほうきを祷って掃除するときにも、ほかの所よりもさらにもう一度掃かなければならないのです。そうしながら、父母を千回万回、思わなければなりません。

 皆さん、そのようにしてみましたか? 教会も、生きた教会になるには、そうでなければならないのです。教会には、お父様が訪ねて来て祈祷することのできる所がなければなりません。常日頃、心情のろうそくをともして精誠を尽くさなければなりません。(一七−二九一、一九六七・二・一五)

 聖日礼拝のときには、必ず斎戒沐浴をして神様の前に敬礼を捧げなければなりません。また、聖地を訪ねていって祈祷しなければなりません。神様が共にいて監督することのできる心情的な基盤を築いておかなければならないのです。神様に祈祷しながら涙を流すその場では、絶対に孤独ではありません。神様が共にあられるので、孤独ではありません。三年以上皆さんが精誠を尽くしたにもかかわらず、訪ねてくれる人がいない町は滅びるのです。(一七−二九三、一九六七・二・五)

 真の夫とは、どのような夫でしょうか。結婚初日から年老いて死ぬまで、妻のために投入して忘れてしまう夫が真なる夫です。真の夫の反対は何ですか? 真の夫人です。真の妻でしょう? 真の妻は、夫が死ぬほどまでに世話を焼かせても、すべて忘れてしまい、その夫が復活して新しい人になりうるように引き続き祈ることのできる妻です。そうすれば、数年しないうちにその夫は屈服するようになります。サタンが打つとしても、数理的な限界を永遠に越えることはできません。原理的な数以上を打つことができないのです。(二二九−二二八、一九九二・四・一二)

 夫婦がけんかをするようなことがあっても、けんかできないのです。夫婦がけんかをするようなことがあれば、ご父母様にお伺いしてみてけんかしようと言いながら、部屋に入って祈祷しなければなりません。そのように祈祷するとき、妻は泣きながら、「うちの夫がこのような気持ちを抱いており、私はこのような気持ちを抱いています」と言い、夫も、「私はこのような気持ちを抱いていますが、妻はこのような気持ちを抱いています。妻とけんかすべきでしょうか、してはならないでしょうか?」と尋ねてみるのです。そうしたら、けんかをしなさいという答えをもらうでしょうか。絶対にそうではないのです。ですから、夫婦どうしでけんかするようなことがあれば、「あなた、一緒に祈祷しましょう」と言わなければなりません。まず、ご父母様にお伺いしてみて、けんかをしようと言わなければならないのです。(四四−一六九、一九七一・五・六)

 統一教会の家庭は、祈祷をするときも一人で祈祷してはいけません。祈祷の題目も夫婦が相談して定め、祈祷を捧げるのも夫婦が共に捧げなければなりません。エデンの園で、アダムとエバも一人で堕落しませんでした。人間始祖が堕落の種をまいたのも、一人でまいたのではなく二人でまいたのです。したがって、復帰の愛も一人ではいけないのです。(四四−二八五、一九七一・五・二四)

 夫婦が礼拝に参加するとき、子女たちがうらやましくてついて行きたがるように、仲良く出ていかなければなりません。有史以来、すべての人間たちの祈祷の実が、家庭で結ばれなければなりません。家庭を復帰しなければならないのです。それ以上の伝道はありません。夫婦が早朝に起きて子女の手を握り、涙を流しながら祈祷しなければなりません。そうして、お父さんやお母さんがどこかに行っていないとき、子どもたちが待ちながら、恋しい歌を歌うことができなければなりません。(二一−八六、一九六八・一一・三)

 み旨にかなった生活において、父母たちが模範にならなければなりません。家庭での祈祷生活とか家庭礼拝において、既成教会に負けない信仰生活を子女たちに見せなければならないでしょう。また、敬礼時間がどれほど重要かということを認識させてあげなければなりません。その時間には、敬礼式だけで終えるのではなく、み旨を中心として父母として子女たちを教育しなければなりません。

 公式的に礼拝を捧げる聖日になれば、礼拝の時間を迎えるために早朝から精誠を尽くして、その日を神様の前に捧げるという生活を子女たちに教育すべきなのにもかかわらず、皆どのようにしていますか? み旨にかなった生活をすると言いながらも、祈祷するのも、精誠を尽くすのも、原理の勉強をするのも、伝道をするのも…。

 そうしながら、聖日の昼の礼拝の時間が十時三十分ならば、家から九時半や十時に出発してこそ礼拝の時間に遅れずに到着するのに、ほとんど十時三十分になって家から出発して、礼拝中に入ってきてこっそり座るというのです。このようになれば、いくら子女を教育したとしても入っていかないのです。(三一−二六八、一九七〇・六・四)

 二人で会えば、必ず男性がまず祈祷しなさいというのです。「お父様、きょうは天地が動じ、私の心が動じますので、女性の心も動じるようにしてくださいませ!」と祈祷して、息子、娘を生んで暮らしてみなさい。その家庭は悪くなりません。男性がその程度はしなければなりません。(三四−二〇五、一九七〇・九・六)

 息子、娘たちが、父母の行く道が民族を救う道であることを知り、その道を心から欽慕することができるようでなければなりません。それで、やっと話すことができるようになった子どもたちまでも、「神様、うちのお父さんとお母さんが願うみ旨を成し遂げてくださいませ!」と祈祷することができなければなりません。そのように祈祷する子どもたちが、統一教会の祝福家庭の中で多ければ多いほど、新しい歴史を復活させうる四位基台の土台が築かれるはずです。(四〇−一八七、一九七一・二・一)

 皆さんは、息子、娘たちを愛しているでしょう? 子どもたちは、お父さんとお母さんが行くままについて行くのです。それゆえ、皆さんの家庭で神様に侍り仕えなければなりません。子どもに向かって、お父さんは祈祷するお父さんであると教育しなければならないのです。神様のために生きるお父さん、人のために苦労するお父さんであると分からせてあげなければなりません。ですから、子どもがそれとなく親を尊敬し、立派に思うことのできる基盤を築かなければなりません。(四七−三三一、一九七一・八・三〇)

 統一教会の信徒は良心的に、罪を犯すようなことになれば、息子、娘の前に悔い改めなければなりません。神様の前で悔い改めの祈祷をするよりも、それがもっと効果的なのです。それで、子どもが父母の罪を赦してくれれば、神様も赦さざるをえないのです。そして、息子、娘が父母の前で謝罪を求めるときも同じです。その罪を父母が赦してあげれば、神様もその子どもの罪を赦してくださるのです。(九三−三三五、一九七七・六・一七)

 祈祷をするとき、「私がこのようにするので、私の子もこうするようにしてくださいませ!」と祈祷しなければなりません。自分がまず基準になった後に、子どもをそのような位置に立てることができるのです。自分自身がそのような位置に立つようになれば、神様はその子もそれと同じ方向に引っ張っていかれるのです。(一三−一〇三、一九六三・一一・一)

 既成教会の信者たちが祈祷するとき、「神様、うちの息子、娘が通う学校で一番になるようにしてくださいませ!」と言いますが、そのような祈祷をしてもよいですか7・「神様、うちの息子が悪いことをしても、良いものを下さいませ!」と祈祷をしたら滅びます。そのように祈祷するよりは、「うちの息子が間違っていました。私の息子は分別がありません。私の息子は何もとりえがありません。しかし、あなたの国を築くにおいて、いちばん大変な荷を背負ったとしても耐えられるよう、保護してくださり、愛してくださいませ!」という祈祷をしなければなりません。(四二−四八、一九七一・二・一九)

 涙を流しても、自分の息子、娘のために流してはいけません。祈祷をしても、自分の息子、娘のために祈祷してはいけません。息子、娘と夫を供え物として、民族を生かすために涙を流さなければならないのです。慕わしさが身に染みるならば、その慕わしさも自分の血縁的な関係で結実させるのではなく、民族を通じて結実させることができるようにしなければなりません。そのようにできなければ滅びるのです。

 自分の家庭を離れて、希望の心情を抱いて出発したのに、夫と子どもをその希望の帰着点だと思いながら祈祷し、苦闘する女性は滅びるのです。そのような人は残りません。そのような人は歴史とともに審判されるのです。審判の限界線を越えることができなくなるのです。

 夫に向かって心に染みるような慕わしい気持ちがあるならば、「私たちの家庭よりも国を中心としてとどまりたいのが神様の願いではないでしょうか。さらには、私たちの家庭よりも世界を中心としてとどまりたいのが神様の願いではないでしょうか。ですから、私の心を夫に置くのではなく、国に置き、世界に置こう!」と言うことができなければなりません。それで、「国と世界に私の心を与えたように、夫にもそれぐらい与えることのできる心をもたせてくださいませ!」と祈祷しなければならないのです。

 そのようなときに初めて、夫も現世に生きていますが、未来のために生きると言うことのできる立場に立てられるのです。そのような家庭は、堕落圏内にある家庭ではなく、未来まで残ることができる家庭になるでしょう。これが原理的な見解であるということをはっきりと知らなければなりません。(四三−二六二、一九七一・五・一)

 自分の息子、娘を愛するように、相対的な立場にある人たちを狂うほどに愛したくて、狂うほどに与えたくて、狂うほどに為に生きたい思いが止まらない人は、神様が共におられます。それだけでなく、霊界にいる数多くの霊人たちも、協助するようになるでしょう。彼らと何千年もの歴史的な間隔がありますが、心情世界は時間の間隔を超越します。(四三−三三八、一九七一・五・二)

 既成教会の信者は、祈祷するとき、「うちの息子、娘が福を受けるようにしてくださいませ!」と言いますが、そのような人々の息子、娘に与える福がどこにあるでしょうか。絶対に、神様はそのような息子、娘には福をお与えになりません。祈祷をしたとしても、そのようにしてはいけません。

 皆さんが祈祷するときは、「お父様、世界に広がっている人々の中で、うちの息子、娘より善なる人がいれば、彼らにまず福を与えてくださいませ! それで彼らが福を受けた恵みによって、私の息子、娘も福を受けるようにしてくださいませ!」と祈祷しなければなりません。(二1−六五、一九六八・九・一)


二 真のご父母様の教えを受けて生きなければ

 皆さんが祈祷するとき、先生の心情を通じて祈祷しようとすれば天が助けてくれます。これがいちばん早い道です。先生と共に身もだえして、先生に対するとき、胸が溶け、先生の事情を考えるとき、死も辞さないで立ち上がることのできる心が生じるのです。

 皆さんがこのような心を抱いて動くならば、世界を料理することのできる門が開くということを知らなければなりません。これが今日、この地上に生きている私たちには一つしかない贈り物、歴史時代にだれももつことのできなかった貴い贈り物の中の贈り物であり、生命の源泉であることを知らなければなりません。(三一−八三、一九七〇・四・一九)

 皆さんは生活の中で祈祷生活を重要視しながら、先生から直接指導を受けることのできる雰囲気をつくっていかなければなりません。このような霊的雰囲気をどのようにつくるかという問題を、夫婦どうしで、あるいは子女たちを集めておいて、相談することのできる環境をつくるように努力しなければなりません。(三一−二八八、一九七〇・六・四)

 皆さんの生活の中で心情を培うために、どのようにしなければならないでしょうか。たくさん祈祷しなければなりません。夢のお告げを通してでも先生の指導を受けなければなりません。そのようにして先生の指導を受ける人がいれば、すべての人の前にはっきりと現れなければならないのです。(三一−二二五、一九七〇・六・三)

 精誠を尽くさなければなりません。先生に侍る人たちは、先生が動く以上に動かなければなりません。自分が使命を果たすことができなければ、早く教会に来て祈祷する精誠でも尽くさなければなりません。(二一−三二一、一九六八・一二・八)

 皆さんは、夢のお告げを通して受ける教えについて、すごいものであるかのように思っていますが、直接教えてもらうことがどれほど貴いかということを知らずにいます。皆さんがそのように知らなければ、今まで霊的に指導を受けた人たちに福を丸ごと奪われるようになるでしょう。それを知らないというのは、神様を無視することです。金銀財宝の価値を無視する人は、その主人になることができません。

 皆さんがいくら困難な中にあるとしても、三日だけ祈祷すれば、先生が教えてあげるようになっています。そのような因縁を経た後にこそ、父子の関係を結ぶことができます。夜を徹しながら祈祷して、神様の体に代わらなければなりません。そのためには精誠を尽くさなければいけません。(二一−二三九、一九六八・一一・二四)

 私たち食口の中で、先生の近くで侍って暮らす人たちが言うには、天国で暮らす気分だというのです。聞いてみると、あたかも天国で暮らしているものと錯覚しながら暮らすというのです。実際、皆さんのすべてがそのような域まで達しなければなりません。そのためには、熱心に祈祷して精誠を尽くさなければなりません。乙女が嫁に行って夫を愛する以上、独身の男性が愛する女性に対して命をかける以上の立場にまで行かなければなりません。そうすれば、直接に通じるようになります。その場にまで皆行かなければならないのです。堕落した愛より高い愛の峠を越えなければなりません。

 そうして神様を欽慕し、思慕する心が、サタン世界のいかなる心よりも強いということができる新しい心情的な開拓地を開発しなければなりません。その場で初めて神様の愛の圏に入っていくのです。そのような場に入るようになれば、先生の命令によって死の場も恐ろしくなくなるようになります。ところが、先生の命令にああだこうだと理由を並べる人たちは皆、殼に過ぎません。(二一−二三八、一九六八・一一・二四)


三 刺激となる生活を創造せよ

 祈祷をするには、一日の日課を始める前にしなければなりません。一日において最も重要な時間がいつかというと、早朝です。その早朝が一日の勝敗を左右する重要な時間です。その時間に祈祷しなければなりません。

 その時間に祈祷をするにおいて、自分が今まで感じることができなかったあるものを感じてみるためには、自分を中心とした祈祷をしてはいけません。国家ならば国家、世界ならば世界という大きな目的を中心として祈祷しなければならないのです。(三〇−一二二、一九七〇・三・二一)

 何でも習慣的になってはなりません。習慣は凝り固まった悪い癖です。皆さんが結婚して、子どもたちを生んで育てながら習慣的な生活をするようになると、そのような生活が体にしみついてしまいます。そのような生活の中では、特別な精誠を尽くすとか、祈祷をする時間がないのです。子どもたちがそばで騒ぐので、祈祷することができる時間がないのです。

 ですから、環境を革新しなければなりません。いつも子供たちがいない静かな所とか、聖地を訪ねていって祈祷する時間をもたなければなりません。それで自分自ら刺激を受けることのできる場を備えなければなりません。そうでなく、習慣的な生活環境にそのままとどまっていては、自分自身の発展を期待するということは妄想です。常に新しい与件を介入させなければならないのです。(三〇−一二四、一九七〇・三・二一)

 刺激は何を通して受けるのでしょうか。それは祈祷しかありません。祈祷をして、それから伝道をしなさいというのです。伝道しながら、自分が心から接している人たちが自分を異端として扱い、詐欺師として扱ったとき、激憤する心を忘れてはなりません。骨のない男になってはいけません。だれよりも天を考えながら、人のためになる立場にあるときに受ける悲惨さとわびしさは、人生において忘れることができません。それが恵みというものです。(五六−五八、一九七二・五・一〇)



























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