天一国時代の祈祷
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第三章 摂理の発展と祈祷の変化

第一節 統一教会時代の祈祷

一 イエス様の名で祈祷する理由

 今日、堕落した人間始祖の子孫たちは、本心に従って我知らず天に向かって進んでいます。倒れて転がりながらも進んでいます。

 今までも個人、氏族、民族、国家的に倒れ、ひっくり返るような歴史路程を経てきました。しかし、その中でもありかたいことは何でしょうか。神様を失って、このように多くの転倒路程を経てきましたが、今に至るまで神様の名が人間の心の中に残っているという事実です。神様という名でも残っているということが幸いなのです。

 また、イエス様は亡くなりましたが、イエス様の名が残っていることが幸いなのです。皆さんはイエス様の名によって祈祷していますが、先生は昔からそのようには祈祷しませんでした。イエス様の名によって祈祷しなかったのです。(一三−二一九、一九六四・三・二二)

 私たちが祈祷するとき、だれよりもイエス様が神様に近いので、イエス様の名によって祈祷するのです。「イエス様がこれを願ったはずなので、イエス様のためにしてくださいませ!」と言うのです。そのようにイエス様の名で「私に福を下さいませ」と言うのは、イエス様を売り飛ばすことです。今までそのように祈祷してきました。(二九−二七三、一九七〇・三・一)

 一九六〇年までは、説教するときの祈祷はイエス様の御名によって祈祷せず、簡単に主の御名によって祈祷すると言っていました。「主」という字は「王」の字の上に点が一つあって、万王の王を表します。(二九五−二七〇、一九九八・九・八)

 今日私たちにとって恨めしいこととは何ですか。イエス様のみ言にしがみついて泣き叫んで生きていかなければならない立場にあるということです。皆さんが祈祷するとき、イエス様の名によって祈祷するでしょう?そのように、イエス様という名詞に縛られて生きるという事実は哀れなことなのです。それゆえ、私たちにとっての希望は何かというと、イエス様の理念をもって祈祷することではなく、イエス様の実体を探さなければならないということです。(一九−二四五、一九六八・一・一五)

 これからはイエス様の名前で祈祷する段階を越えて、イエス様の実体で祈祷しなければなりません。そして、み言は人格の後ろに隠れなければなりません。み言は新郎として来られるイエス様が神父の前に送った手紙です。しかし、そのみ言の主体であられる実体が現れたならばその手紙は何の意味もなくなるようになるのです。(一九−二五〇、一九六八・一・一五)

 神様は人類に対して父母の立場であられるので、今日多くの人々は、自分たちが神様の子女だと言っています。しかし、理論的にのみそうなのです。私たちは養子の立場にあります。では、私たちはどのようにしなければならないのでしょうか。み言を中心としてイエス様に会わなければなりません。

 そのためには山の中や密室、あるいは死の場までも訪ねていかなければなりません。イエス様も山中での祈りの時間を経て、密室の路程を経て、死の峠も越えました。ですから、皆さんもそのような路程を通過しなければならないと覚悟しなければなりません。聖書を見るとき、イエス様のそのような事情を知らなければなりません。(一三−六一、一九六三・一〇・一六)


二 統一教会では真のご父母様の名で祈祷する

 今までキリスト教ではイエス様の名によって祈祷しましたが、統一教会では真の父母の名によって祈祷します。そのように祈祷するには深い内容があります。統一教会の人々はそのような内容をよく知っているのです。

 そのように祈祷するといって、キリスト教徒たちは、「ああ、異端だな」と言います。しかし、だれが異端だと思いますか?私たちはすでに十段、三十六段、すべて越えたのに、彼らは一段上がってきて、「あれは私が習っていないことなので異端(注・韓国語で“二段(イダン)”と同じ発音)だ」と言います。本当にあきれ返ります。ですから相手にもならないというのです。

 私たちは世界的な水準に行かなければならないのに、そのような人たちとけんかするでしょうか。ですから、先生は耐えるのです。(二一−一五〇、一九六八・一一・一七)

 統一教会ではイエス様の名によって祈祷しません。統一教会に初めて入った人々は、「あれ、真の父母が何だ?どうして真の父母の名で祈祷するのだろう?」と考えるでしょう。

 皆さん、真の父母というのはどういう意味か知っていますか?真の父母とは、エデンの園で堕落しないで、神様が千年万年誇ることができなければならなかった私たちの先祖のことを意味します。

 ところが人類の先祖が堕落したので、新しい先祖が必要なのであり、神様もまた新しい先祖を中心として摂理されるので、新しい先祖の名によって祈祷するのです。理致がぴったりと合うのです。

 イエス様お万人では通じず、イエス様と聖霊を通じなければなりません。すなわち、イエス様は父なる神であり、聖霊は母なる神なので、堕落したアダムとエバの子孫である人間たちは、だれもがそのような父母の因縁を通じることなくしては、天国に行くことができません。

 イエス様は父なる神なので、母なる神がなくては、完全なる救世主になることができないというのです。このような事実も知らないで、イエス様の名で祈祷して、福を祈ってよいでしょうか。皆、知らずにいます。(二〇−二六八、一九六八・七・七)

 統一教会では、祈祷するとき、「イエス様の御名によってお祈りいたします」と言いません。片方だけなので嫌だというのです。それで「真のご父母様の御名によってお祈りいたします」と祈祷します。

 堕落が何かといえば、偽りの父母をもったということです。皆さんは、偽りの血筋を受け継いで生まれました。ですから、皆さんを正しい立場に立てるには、真の父母が再び来て生んであげなければなりません。それで統一教会では、祈祷するとき、真のご父母様の名前で祈るのです。(四〇−三一六、一九七一・二・一一)

 統一教会ではイエス様の名前で祈祷しません。つまらなくそのようにはしないのです。父母を尋ねていくのです。父母も真の父母と言います。すべてばらして直さなければなりません。礎石を正さなければならないのです。(四八−二二六、一九七万九・一九)

 イエス様の最高の願いとは何でしょうか。だれでも国をもつ前にまず何をもたなければならないのでしょうか。子どもをもつ前にまず何をもたなければならないでしょうか。まず妻を迎えなければなりません。しかし、イエス様はそうすることができなかったので、伝道することができなかったのです。息子、娘を立てることができなかったというのです。必ず父母の資格で来たならば、父と母にならなければなりません。

 ですから、統一教会では祈祷するとき、「真の父母の御名により祈祷します」と言います。既成教会とは違います。新婦がいない、独り者のイエスの御名で祈祷するのは、気分が悪いというのです。統一教会では本当にすてきな祈祷をするでしょう。真の父母の御名で祈祷するのです。「先生」と言うと先生の夫婦が良いですか、万人が良いですか?どちらが良いでしょうか。ペアが良いですか、一人が良いですか?

 いつでも男性がいれば女性がいなければならず、女性がいれば男性がいなければなりません。男性が生まれるとき、女性がいるかどうか心配して生まれましたか?考えてみてください。生まれるとき心配しましたか?あらかじめそれはすべてそろうようになっているのです。それを私が解いたのです。(四一−二二九、一九七一・二・一六)

 皆さんは祈祷するときに真の父母の御名により祈祷しますが、その真の愛が何であり、真の父母が何でしょうか。それらの言葉を先生とお母様だけを中心として考えてはなりません。より高い次元で世界を抱いて、民族的な感情や国家的な感情を越えて、万民を一様に愛することのできる真なる父と母という基準を考えなさいというのです。それで、先生も真の父母の御名によって祈祷するのです。(三三−一四一、一九七〇・八・一一)真の父母には神様の愛が宿っています。今まで私たちが考えることもできず、夢にも考えることができなかったような神様の愛が宿っています。神様の愛を中心として、父子の因縁が連結するのです。皆さんが祈祷するとき、神様を直接呼ぶのではなく、そのような真の父母を通じなければなりません。皆さんが祈祷するとき、最後に真の父母の御名によって祈祷すると言いますが、それは習慣的に感じるような簡単な内容ではないというのです。(三一−七七、一九七〇・四・一九)

 統一教会では何を教えてくれますか。父母の道理を教えてくれます。キリスト教の教えとは本質的に違います。キリスト教で教えるのは息子の道理ですが、統一教会では何を教えると言いましたか?父母の道理を教えます。これが違うのです。

 息子と父母のうちでどちらがより高いでしょうか。父母がより高いのです。ですから、統一教会ではイエス様の御名によって祈祷せず、真の父母様の御名によって祈祷するのです。一段階先を行くのです。

 神とイエスと聖霊の三位一体としておられるならば、父と子と聖霊の御名で祈祷すべきであり、どうしてイエス様の名で祈祷するのでしょうか。どうして一人のかたの名前だけで祈祷するのかというのです。「父母」と言うと、すべて含まれます。

 ですから、父母の名前で祈祷したらいいのに、どうして寂しくも一人のかたの名前だけで祈祷するのかというのです。もし、男性と女性のうちで男性だけが良いと言って、「ああ!最高だ」と言えば、女性の気分は良いでしょうか。

 三位一体と言いながら、祈祷するときはどうして聖霊を抜いて「イエス様の御名で祈祷します」と言うのでしょうか。家でもお父さんは良くて、お母さんはいてもいなくてもいいような存在ですか?お父さんの誕生日は盛大に祝ってあげながら、お母さんの誕生日は覚えてもいませんか?父母という因縁は天地の調和であるという事実を、今日の信仰のない人たちも知っています。(二一−一九四、一九六八・一一・二〇)

 統一教会では祈祷を終えるときに「真のご父母様の御名によって祈祷いたします」と言います。最初の真の父母は神様がならなければいけないでしょう?では、祈祷するときにだれを通じて祈りますか?何をするときも父の名を呼ぶようになっているではないですか。そうでしょう?(四一−二○七、一九七一・二・一七)


第二節 家庭連合時代の祈祷

一 真のご父母様の勝利圏を祝福により受け継いだ…

 真の父母はだれにとって必要ですか。個人にとって必要です。心と体の戦いを停止させうる方法は、真の父母しか教えることができないので、真の父母は数多くの人類の個々人にとって絶対に必要ない?本当ですか?私が必要だと言いましたか、言いませんでしたか。真の父母は過去と現在だけでなく、未来の人間のだれにとっても絶対に必要だというのです。

 真の父母はだれのものですか?真の父母は絶対的にだれのものですか?私のものです、私のもの!真の父母はだれものだと言いましたか?私のもの!そのように真の父母が私のものとなった男性と女性は、真のご父母様の血統を受け継いだ息子、娘です。真の父母は絶対にだれのものですか?絶対的に真の父母が私のものとなった人は完成した個人です。(三○三−二六六、一九九九・九・九)

 真の父母を私のものとするためには、地球星を売ってでも買わなければなりません。地球星を売ったとしてもだめです。地球星だけでなく霊界と肉界をすべて売っても買えないのです。(三○三−二八五、一九九九・九・九)

 特に決心しなければならないことは何ですか。真の父母は絶対的で、唯一で、不変で、永遠に私のものだという事実です。何を中心として私のものですか。真の愛を中心として私のものです。(三○三−二八六、一九九九・九・九)

 イエス様のみ言にしがみついて泣き叫び、イエス様のみ言にしがみついて生きなければならない立場にあることが、私たちの恨であり悲しみです。キリストの名前でもって祈祷することが悲しみなのです。皆さん、祈祷するとき、「イエス様の御名によりお祈りいたします」と言うでしょう?このような仕方で、ある名詞にしばられて生きる自分がかわいそうなのです。これからは、自分の名によって祈祷する時が来なければなりません。その日が希望の日です。(七−二六八、一九五九・九・二七)

 第四次アダム圈を準備するためにイエス様の名で祈祷して、真のご父母様の名で祈祷してきた時代を過ぎて、祝福を受けた家庭の名で祈祷することのできる時代を迎えました。ですから、これからは祝福を受けた家庭は、堕落しない父母の名で息子と娘を祝福してあげることができます。(三〇四−一五七、一九九九・一〇・一〇)

 今まで皆さんが祈祷するとき、「何々をしてくださいませ。成し遂げてくださいませ」と言ったのです。ところがすでに成し遂げてくださったのです。それで今まで先生がサタン世界で戦って勝ってすべて知っているように、皆さんもすべて知っているのに何を祈祷するのですか。

 これからは「このようなことが分かったので、私がします」というように祈祷しなければなりません。そして、真の父母の御名によってするのではありません。「真の父母の御名により祝福を受けただれそれの名によって祈祷します」と祈るのです。「真の父母の功労によって真の息子、娘となっただれそれの名により祈祷いたします」と言って祈らなければなりません。祈祷ではなく「報告いたします」というようにしなければなりません。祈祷までは構いません。

 先生も二十年余りの間祈祷しませんでした。完全に知っているからです。私自身がサタン世界を屈服させて、天の願う基盤を築いたのです。皆さんもそうすべきです。何を祈祷して何をしてほしいと言うのですか?そのように祈祷する時代は過ぎ去ったのです。すべてくださいました。すべて知っているではないですか。

 今や、真の父母の勝利的基盤を相続した息子として、責任を全うするというのです。個人・家庭・氏族・民族・国家における息子、娘の責任を果たさなければなりません。そして孝子と忠臣の家庭にならなければならないのです。すべてくださいました。ですから、接ぎ木しなさいというのです。(三〇四−一二八、一九九九・九・一四)先生は、もう道をすべて築いておきました。私のすべきことは、すべてしました。蕩減復帰摂理を完結しておいて、第四次アダム圏を宣布しました。皆さんは、イエス様の名によって祈祷せず、真の父母の名によって祈祷しません。神様は後回しで、イエス様も後回しで、そして真の父母も後回しです。皆さんを前面に押し出すのです。だれの名によって祈祷するのですか?「真のご父母様の勝利圏を祝福により受け継いだ祝福家庭だれそれの名によって祈祷します」と言わなければなりません。(三〇四−二〇三、一九九九・一一・四)

 今から自分の名前で祈祷するのです。そのように自分白身の名で祈祷する家庭は、自分の息子、娘を祝福しなければなりません。自分の息子や娘がいればその息子、娘から祝福してあげなければならず、お兄さんの息子、娘がいればその息子、娘も祝福してあげなければなりません。そしてその次にはおばさんだけでなく、三代を中心としてすべて祝福してあげなければなりません。(三〇四−一五四、一九九九・一〇・一〇)


二 家庭連合時代における祈祷の実際

@ 祝福家庭の場合(一世、二世を含む)

 (例1)夫(妻)が祈祷するとき:真のご父母様の勝利圏を祝福により受け継いだ祝福家庭○○○の名前でお祈りいたします。アーメン。

 (例2)子女が祈祷するとき:真のご父母様の勝利圏を祝福により受け継いだ祝福家庭○○○家庭の息子(娘)○○○の名前でお祈りいたします。アーメン。

 (例3)大衆を代表して祈祷するとき‥真のご父母様の勝利圏を祝福により受け継いだ祝福家庭○○(祈祷者の職責)○○○(祈祷者の名前)の名前でお祈りいたします。アーメン。

A 祝福家庭でない場合は以前と同じように祈祷する。

 (例)真のご父母様の御名を通じてお祈りいたします。アーメン。


第三 節天一国時代の祈祷

一 祝福の中心家庭、だれそれの名前で報告

 新千年、新しい三千年が始まる日が近づいています。これから私たちの世界になるのです。私たちの世界。正月からどのように拍車をかけて自分自身を天宙と連結させるかという各自の責任があります。

 今や先生が皆さんの家庭と関係を結ぼうとすることのできる時代は過ぎ去りました。皆さんが先生と関係を結ばなければならず、皆さんが神様と関係を結ぶべき時に入ったのです。これが第四次アダムの心情圈時代です。真の愛も私が主人となって、真の生命も私が主人となって、真の血統も私が主人とならなければなりません。(三四〇−九四、二〇〇〇・一二・二四)

 二〇〇一年の元日から祈祷が変わります。「祝福の中心家庭、だれそれの名によって祈祷します」というようになります。すべて蕩減して、長子権、父母権、王権を復帰しました。ですから、堕落しないアダムとエバの立場で主体的な家庭を築くことができなければ脱落するのです。

 アダムとエバが堕落したとき、即刻処罰されました。皆さんもそうです。夫や妻が誤れば、即時に関係を切ることができる時代に入っていくのです。男女問題においてはなおさらです。(三四〇−九四、二○○〇・一二・二四)

 祝福とは何ですか?結婚式をすることではないですか?旧約時代と新約時代はどうなったのですか?旧約の約束というものは、結婚することでしたが、その約束が崩れてしまいました。それで、新しくまた約束したのです。それも果たされませんでした。

 再臨時代、成約時代には、祝福をしました。その祝福の基準を立てるようになることによって、すべてアダムとエバが堕落せずに祝福を受けたのと同じ立場となって、自分の家庭を中心として、祈祷でない報告をしなければなりません。それゆえ、善なることができなければ、祈祷することができません。

 今の皆さんはそうではないですか。皆さんの国家を世界につなげ、天国につなげるべき責任があります。そのように、皆さんがすべきことが山のように生じたのですが、そこに一握りの砂で、p加えなければならないのです。そうでなければ、報告することができません。報告なのです。祈祷するのではありません。

 祝福の中心家庭だれそれの名前で何ですか?「報告しお捧げ申し上げます」と言って、切に報告しなければなりません。切に祈祷していた時代は過ぎたのです。そうするためには、毎日のように報告するものがなければならないのです。(三四〇−九四、二〇〇〇・一・二・二四)

 今や、二〇〇一年一月十三日から祈祷の内容が変わりました。「祝福の中心家庭、だれそれの名前により」祈祷するというのです。それをはっきりと知らなければなりません。その前は何と祈祷しましたか?「真のご父母様の勝利圏を祝福により受け継いだ祝福家庭だれそれの名前によって祈祷します」と言いました。

 そうです。ご父母様の祝福を受けただれそれの家庭です。それはサタン世界と区別されるのです。サタン世界とは関係がありません。「真のご父母様の勝利圏を祝福により受け継いだ」と祈祷するとき、その祝福は何かといえば、サタン世界と隔離されているのです。堕落以後のサタン圏との関係が完全に整理されたということです。

 その前は何の名によって祈祷しましたか?「真のご父母様の御名により」祈祷しました。自分の名によって祈祷しませんでした。自分の主体性がありません。そこで祈祷するのは、真のご父母様の勝利圏を祝福により受け継いだだれそれの名なのです。ところが、これが変わるのです。それはサタン側と完全に断絶されたということです。内的だけでなく、外的にも何の関連もありません。(三四三−一〇六、二〇〇一・一・一六)

 祝福の中心家庭は堕落世界と何ら関係がありません。アダムとエバが堕落する前に神様の心情世界と連結されていたそのような立場でした。それが祝福の中心家庭です。それは神様の創造理想を完成した家庭として堕落しないアダム家庭に代わる立場です。そのような立場で祈祷の代わりに報告するのです。

 そのように完成したアダムの家庭では祈祷する必要はなく、報告を捧げるのです。毎日報告しながら理想世界を築いていくのが完成したアダム家庭の行く道です。そのような新しい何かがなければ報告することができません。そこではメシヤも必要なく、宗教も必要ありません。すべてを知っているからです。

 皆さんもすべてを知っているでしょう?真の父母がすべて教えてあげました。毎朝、訓読会をしていますね。その時間を通してすべてのことを理解するようになります。個人・家庭・氏族・民族・国家・世界・宇宙、そして神様の心情世界がすべて分かるのです。(三四三−一〇六、二〇〇一・一・一六)

 皆が、家庭では孝子、国家では忠臣、世界では聖人、天宙では聖子の道理を果たさなければなりません。生きている間に五官ではなく十官をもって、自分が暮らしているこの地を聖なる地として築いていかなければならないのが、祝福の中心家庭の果たすべき責任です。それは喜ばしい言葉ですか、難しい言葉ですか?それを難しい言葉だと考えること自体が、恥ずかしいことです。

 そのようにできる道があるならば、どれほど良いでしょうか。ご飯を食べても、寝ても覚めても一心一念がその根に連結しなければなりません。生まれたこと、生きること、話すことだけでなく、すべての行動がそのような責任を中心としてなされたと言うことができなければならないのです。そのような自分自身を誇ることができなければなりません。(三四三−三〇、二〇〇一・一・一五)

 皆さんが祈祷するときは、「真のご父母様が残したみ旨は、間違いなく私がしっかりと成してさしあげます。私たちは神様にお仕えすることにおいては、先生がなしえなかったことまですべていたします」と言うことができなければなりません。ですから、「祝福の中心家庭、だれそれの名前で切に報告いたします」と言うのです。何かをこいねがうというのは乞食です。忠臣にはなりえず、聖人にもなりえず、孝子にもなりえません。(三四三−四五、二〇〇一・一・一五)

 「祝福の中心家庭、だれそれの名前によって」と言って祈祷しますが、そのとき祈祷という言葉を消しなさいというのです。祈るという言葉は、やめなさいというのです。祈祷ではありません。報告なのです、報告。それがぎこちなかったならば、孝子だれそれ、それ以上になれば忠臣だれそれ、それ以上になれば聖人だれそれ、それ以上になれば聖子なにがし、神様の友人だれそれとして報告するのです。神様の友となるのです。皆、自分自身の立場を知っているのです。忠臣の次には聖人、その次には聖子です。イエス様が聖子として理想家庭を築くことができずに逝かれたので、皆さんは聖子よりはましだというのです。(三四四−二五二、二〇〇一・三・二五)

 皆さんに、これ以上の教育は必要ありません。神様の心情まですべて知るのです。そのような内的な観念が、外的に真の愛を中心として一つにならなければなりません。そのように内外的に真の愛を中心として一つになれば、万物がついて来るようになるのです。

 そのように、すべての万物が、昼夜、四季を問わずついて来ることのできる中心が真の愛です。皆さんはそのような真の愛の観念を抱いて生きなければなりません。そうすれば、ご父母様も必要なく、イエス様も必要ありません。

 皆さんが祝福を受けたということは、第四次アダムの心情圈を成すようになったということです。それがどういうことかと言うと、皆さんが祝福をうけることによって、堕落する前のアダムとエバの立場に立つようになったということです。ですから、神様と一つになった立場にある祝福家庭です。(三四三−一〇八、二〇〇一・一・一六)

 皆さんが祝福の中心家庭として報告することができるようになったのですが、その報告が堕落の圏内で捧げる報告になってはなりません。真の父母まで否定して本然の神様を父として侍ることができる立場にあるので、祝福の何の家庭ですか?中心家庭です。祝福の中心家庭、だれそれの名前で報告するのであって、祈祷するのではありません。そのような時代になったということを知りなさい。

 今、先生が語ったことを覚えておいて、自分がどのような立場にあるのかをはっきりと知らなければなりません。皆、犬の糞よりも汚いものにしがみついて、国だ、何だと言っていますが、それがどれほど恥ずかしいことであるかを知らなければなりません。そのようなことをすべて踏んで立ち、祝福の中心家庭だれそれの名前で報告することができるようになったという事実を知らなければなりません。(三四三−二五、二〇〇一・一・一五)


二 神様と直接連結した息子、娘の時代

 自分の父母よりも、自分のだれよりも、所有する何よりも神様を愛さなければなりません。それが第一です。それから真の父母と一つになった生活圏を拡大して、地上に天が放棄した世界を再び探して、神様が共におられることができる環境を成さなければなりません。それが皆さんの生涯の願いとなりえなければなりません。ところが、皆さんはみ旨の道において、どれほど息子、娘と所有権を天秤にかけているかというのです。それは赦されえない罪であるということを知らなければなりません。(三四三−二四、二〇〇一・一・一五)

 先生のために生きるべきですか、神様のために生きるべきですか?だれでも救いが必要なときには、地上に真の父母がいなければなりません。真の父母を通さなければ救いは不可能です。ところが、救いがなされたあとに「神様王権即位式」を宣布したので、先生よりももっと神様のために生きなければなりません。

 神様が中心の根です。先生よりも何倍、何百倍、神様のために生きることができなければならないのです。先生をつかんで祈祷すること自体も恥ずかしいことです。そうでなければならないでしょう。ですから、皆さん自身が皆さんの家門と国と世界を再創造しなければなりません。先生のみ言をもって努力すれば間違いなくできるのです。これからは、だれでもみ言を実践できなければ、先生を訪ねてくることも難しいでしょう。(三四三−一九、二〇〇一・一・一五)

 もう先生を求める必要はありません。先生をすべて知ったので、これからは天のお父様に、先生より何百倍以上侍ることができなければなりません。先生は、堕落した世界で蕩減復帰の道を開拓するために力を尽くしてきましたが、皆さんは開拓するために努力する以上、神様の前に孝子となり、天国の忠臣となり、天国の聖人、聖子としての道理を果たさなければなりません。そうしてこそ、神様が失った世界を復帰なさる喜びがより一層大きくなりうるという事実を知って、そのように歩まなければなりません。(三四三−二七、二〇〇一・一・一五)

 神様の息子、娘に違いないという道を行きなさいというのです。神様に似ているという事実を神様が証し、宇宙が証し、自分が証すことができなければなりません。そうしてこそ、神様の直系の子女の名分を備えて、天国の伝統を立てることができるのです。

 先生は一生の間、僕よりも困難な生活をしてきました。皆さんは十分の一だけ努力したとしても、先生が知っている世界をすべて知ることができるのです。それほど容易だというのです。先生は知らなかったので身もだえしましたが、皆さんはすべて知っているではないですか。身もだえする必要がないではないですか。

 ただ一つ皆さんに残っていることは、息子、娘の責任です。神様の血筋を受け継いだ伝統を立てて誇らなければならないのが私たちの生涯の使命です。それが一族の使命であり、氏族と民族と国家の使命ですIアーメンです。(三四三−三二、二〇〇一・一・一五)

 だれでも本然の立場に戻って神様の心情と一致することによって、神様が悲しめば自分も悲しみ、神様が苦痛を受ければ自分も苦痛を受けるという、息子、娘に違いないと公認されうる立場を見いだすまでは、自分自身をつかんで戦わなければなりません。

 「この怨讐のやつ!神様が捨てざるをえない根拠を残すこととなったこの者たちを赦すことはできない」と言って、嘆くことができなければなりません。そのように神様を父母として侍ることのできる本然の立場を失うようになったことを嘆きながら、何としてでもその立場を取り戻さなければならないのが、私たちの生涯の願いです。すべての被造万物が堕落圈でそのような道を開拓するために身もだえしています。

 まず、人間がそのような立場を取り戻してこそ、世の中の万事が解決し、解放圈が築かれるという事実をはっきりと知らなければなりません。ご父母様を見つめながら、何かを要求してはなりません。皆さんも見て、知って、聞いて、五官を通じてすべて知っていながら、何を願うのですか?この世のことを願ってはならないというのです。願うことはほかでもありません。本然の神様から汚れなき血筋を受け継いで生まれた息子と娘であることを認識して、そのお父様に侍ろうと願わなければなりません。それが摂理史と創造史の総結論です。(三四三−二六、二〇〇一・一・一五)

 本然の父に侍り、孝子、忠臣、聖人、聖子の道理を完成してさしあげなければならないという希望の一念を抱かなければなりません。そのようになるならば、神様が皆さんを誇られるようになるでしょう。堕落したアダムよりも立派だというのです。そのように神様が誇ることのできる直系の息子、娘にならなければなりません。(三四三−三〇、二〇〇一・一・一五)


三 報告がすなわち祈祷の時代

 これからは、だれでも勝手に先生を訪ねてくることはできません。条件を提示するのです。国が築かれれば厳格になるでしょう。大韓民国の法が問題ではありません。それより十倍以上に厳格な法を中心として越えていかなければならない道が残っているという事実を知らなければなりません。

 そのような過程が残っているので、これから皆さんはどのように生活すべきでしょうか。先生を信じてはいけません。先生について祈祷もしてはいけません。祈祷の時代は過ぎ去りました。救世主が解放圈をなしておきました。

 ですから、今年の標語は何ですか?「解放された天地父母と子女が一心一体となって、真の愛の主体性である絶対、唯一、不変、永遠のみ旨が完成されますように!」です。天地父母と子女が協力するのです。

 そのように協力して報告することがしっかりできたか、できなかったか、ということが問題になるのです。それがうまくできないようになるときは、報告もできないのです。祈祷ではありません。祈祷という言葉を片づけてしまいなさいというのです。報告なのです。

 だれであれ、良い報告内容のない人たちは、このような集いの場に来ることができなくなるでしょう。今までは、どこかの教区長だ何だといいながら、伝道も万人もせず、実績もなく、自分の所属の要員たちの血を吸う吸血鬼たちがたくさんました。どこかに来いと言えば、自分勝手に旅費を使って「ああ、いいものだ!」と言って行ったり来たりする人たちがたくさんいたのです。

 そうしながらも働くことをすべて忘れ、ただで暮らす人たちが多かったのです。これからはチェックしなければなりません。ですから、実力がなければ来ることはできないのです。

 先生はみ旨をすべて知ったので祈祷をしませんでした。二十四年間祈祷しなかったのです。知っているのに何を祈祷しますか?すべて許したのに、何をしてほしいというのですか。お母様も不思議に思ったはずです。しかし、T昨年の八月からまた祈祷をしたのです。新しい時代に祈祷を中心として神様を解放してさしあげるために努力するのです。(三四一−一四六、二〇〇一・一・一)


第四節 天一国時代と祈祷の完成

一 宇宙の根本

 「宇宙の中心とは何ですか?」と祈祷すれば、それは父子の関係だというのです。答えは簡単です。父子の関係です。その父子の関係は何で結ばれますか?愛で結ばれるのです。その愛で生命を動かすことができ、血統を左右することができます。(一六七−二五六、一九八七・七・二一)

神様は本然の私たちの父です。私たちは本然の心情を受け継いだ息子、娘です。間違いありません。私は霊界をすべて調べてみて、天地の最後の秘密が何かを調べるために、数年間祈祷して得た結果が、「父子の関係」です。答えはそれです。この世的な父子の関係ではありません。お父様は、縦的な愛をもち、息子、娘は横的な愛をもちましたが、その縦横が一つの位置で連結した統一的な父子の関係を言うのです。(一七六−一二四、一九八八・五・三)

 「宇宙の根本とは何か?」と祈祷してみると、答えは簡単だったのです。その答えは何でしょうか?「宇宙の根本は父子の関係だ」ということでした。その関係の中心が何かというと愛です。その関係を結ぶために訓練する場所が統一教会であり、その関係を完成させるのが統一教会の文先生の責任です。(一〇五−一〇八、一九七九・九・三〇)


二 神様に侍る家庭生活自体が宗教生活

 宗教の出発は、どのようになされたのでしょうか。聖人たちが皆、教祖となっています。宗教の主人となっているというのです。その人たちが皆、精緻を尽くして神様の教訓を受けることのできる立場で宗教が出発しましたが、結局は世俗化してしまいました。

 それゆえ、世界が混乱の中にある渦中にも、正しい道へと指導することのできる宗教がありません。宗教も実験済みだというのです。すべて実験済みです。政治も実験済みであり、すべての思想も実験済みであり、すべてが失望的な帰着点に到達したのです。今やさらに進もうとしても進むことができない限界線にぶつかっています。(二五三−一三、一九九四・一・一)

 理想世界は、永遠、不変、絶対的な神様を父として侍り、全人類が兄弟姉妹として為に生きながら、和睦して生きていく大家族の世界です。その世界を建設するための神様の摂理を主導する存在を救世主、あるいはメシヤといいます。真の愛の回路がふさがった世界で、為に生きる生活によって手本を示されるこのかたは、人類の理想であり、目標なのです。(一三五−二三五、一九八五・一二・一一)

 神様の前で恥ずかしくなく、子どもたちの前で恥ずかしくないと思える夫と妻にならなくては、夫婦の愛を結ぶことができません。夫婦が互いに好んで愛そうとするとき、神様が笑うことができ、その神様の愛を通じて喜びの子女をもつことのできる男性と女性でなくては、理想的な家庭をこの地上に立てることができません。(一二〇−一五七、一九八二・一〇・一三)

 真の父母の真の愛を通じて、神様の真の愛を学びながら、真の兄弟の真の愛を通じて、人類に対する普遍的な真の愛の訓練を受ける場が真の家庭です。それだけではなく、父母と子女の間の真の愛を通じて、過去と現在、そして未来が一貫した真の愛の価値観によって連結されていく歴史的な連結の輪の基本単位も真の家庭です。(二八八−一九九、一九九七・一一・二八)

 神様は、絶対に妄想的で観念的な神様ではありません。抽象的な神様ではありません。生活的な主体性をもって、いつも私たちが暮らしている生活の主人として共におられるのです。人間から侍られるだけではありません。人間と、愛を中心として生活をしておられる神様です。(一六八−一一一、一九八七・九・一三)

 どのように侍る生活をしなければならないのでしょうか。ここに私が生きているなら、「このすべてのものが神様のものであると同時に真の父母のものであり、真の父母のものであるために私のものである」という観念をもたなければなりません。この宇宙も真の父母のものであり、この家も真の父母のものであり、すべての国と世界も真の父母のものなので、自分のものだという結論が出てくるのです。自分は真の父母の息子、娘だからです。(一六一−二三二、一九八七・二・一五)

 皆さん自身はだれのものでしょうか。父母のものであって、息子、娘のものです。では、父母はだれのものでしょうか。父母は息子、娘のものであると同時に神様のものです。ですから、皆さん自身は神様のものとなり、子女のものとなった後に皆さん自身のものとなるのです。そのようになるとき、初めて完成するのです。それゆえ、父母を敬う法度が地上に残っています。ここから父母を敬い、子どもを愛しなさいという言葉が出てくるのです。

 父母がいなければ孤児です。父母の愛を受けてみて、子どもを愛してみてください。そうしてこそ、「私」という人は四方をわきまえることができ、上も下もわきまえることができるようになるのです。それゆえに、人間は万物を主管しなければならないのです。人間は、万物まで愛してこそ、自分の生が自分のものとなりうるのです。(一八−二〇八、一九六七・六・八)

 孝子、孝女とはどのような人でしょうか。自分の心と体を犠牲にしてでも、父母を愛したいという人を孝子、孝女と言うのです。愛国者とはどのような人でしょうか。国家のために自分の一身を顧みず、犠牲に犠牲を重ねる人です。

 何かのために十回投入して忘れてしまう人と、十一回投入して忘れてしまう人がいたならば、そのうち十一回投入して忘れてしまう人が主体となるのです。この原則によって、すべてが平和に収拾されるのです。いつでも為に生きる愛でなければ、そのように収拾することはできません。(二五五−一九〇、一九九四・三・一〇)

 孝子は地獄に行きません。地獄に行かなければならない場合でも、再臨主が来るまで保留されて待つようになるのであって地獄には行きません。中間霊界という所があります。では、皆さんは孝子になりますか、愛国者になりますか、聖人になりますか、聖子になりますか?両親に孝行できなかったとしても、愛国者になる場合には、孝行を完成するようになるのです。(二四六−一八八、一九九三・四・一六)

 なぜ、孝子、忠臣、聖人、聖子が必要なのでしょうか。両親に孝行したとしても長くて百年です。父母は千年万年と生きることができません。一生の間、孝行しても百年未満なのです。しかし、忠臣は一代を越えるのです。忠臣の伝統は、祖父母から父母を経て、自分と自分の子孫たちにまで相続されるのです。そうでなければ国が成立することはできません。

 聖人は、忠臣を超越します。神様は一つの国にだけ住むことはできません。ですから、聖人の道は忠臣の道を超越し、聖子の道は聖人の道を超越するのです。孝子が両親を愛し、忠臣が国を愛する以上に、聖人と聖子は地上天国と天上天国に対する愛のために犠牲となるのです。(二四六−で八八、一九九三・四・一六)

 東洋哲学の三綱五倫を中心として見ると、五倫の中では父子有親と言っているでしょう?有親が良いですか、回禄が良いですか?父子有親とは何ですか?血筋が一つになっています。愛の根と幹が連結されているのです。父子有親ではなく父子一身と言わなければなりません。夫婦一身、それから何でしょうか。君臣有義ではなく、君臣一身と言わなければなりません。

 何をもって一身となるべきでしょうか。愛をもって一身とならなければなりません。家庭でも愛を中心として絶対的に為に生きる中心存在を孝子と言うのです。国家を中心として見るときも、絶対的な愛で、国のために生きる人を忠臣と言うのです。(二〇一−四六、一九九〇・二・二八)

 なぜ神様が孝子、忠臣、聖人、聖子を好むのでしょうか。それが宇宙の核だからです。彼らだけを中心として考えてみれば、孝子は一代先祖、忠臣は二代先祖、聖人は三代先祖、そして聖子は四代先祖です。三段階です。それらが愛で連結されますが、そのような愛の天理を中心として理想圏は動くのです。(一七三−二七三、一九八八・二・二一)

 真の愛、真の血統、真の生命とは何でしょうか?神様は、真の血筋、真の生命、真の愛の存在ですが、何をされたのでしょうか。神様のすべてを投入して新しい理想的な世の中を建設しようと役事なさいました。同様に、人間も理想を求めていくためには、家庭ならば、家庭において自分自身のすべての生命と血筋と愛を投入しなければなりません。

 そのように家庭のためにすべてを投入する人が孝子となるのであり、国のためにすべてを投入する人が忠臣となるのであり、世界のためにすべてを投入する人が聖人になるのであり、そして天地のためにこのすべてを投入する人が聖子となるのです。(二〇五−一五二、一九九〇・八・一二)


三 神様とともに、一心、一体、一念とならなければ

 天一国の「天」というのは、二人です。天一国は、二人が一つとなった国です。主体と対象が一つとなった国、個人の心と体が一つとなった国、父と子が一つとなった国、夫と妻が一つとなった国、兄と弟が一つとなった国なのです。いつでも二人が愛で一つとならなければなりません。

 そして、三六〇度のすべての環境にいる人間たちが、神様に似ているということができる世界を成すべきなのが神様の創造理想です。その創造理想を成すために、救いの摂理の歴史が始まったので、私たちも神様に似ることができなければなりません。

 どこにいても神様を迎えて暮らさなければなりません。それで神様とともに一心、一体、一念とならなければならないのです。その一心、一体、一念は、神様ご自身を中心とした考えではありません。それは、相対のために投入して投入しようということです。

 いつでもすべてを備えて、賛美されうる存在世界の中心となるべきものが何であるかというと、個人ではありません。家庭です。新郎と新婦の二人です。その次には、父子も二人であり、兄弟も二人です。その二人は同じ価値をもっています。

 何でも高いものは低いものと平準化して同じ立場に立てるのです。その反面、低い所にあるものは、高い所にあるものを受け入れることができる受容態勢を備えなければなりません。父なら父を中心として、自分の価値をプラスさせなければならないと考えてこそ回っていくのです。

 神様には何もありません。すべて与えてしまったからです。それで、自分が受けて平準化される立場に上がり、神様と永遠に授け受けする運動をするようになることによって、永生が可能になるのです。

 一つの愛の根を中心とした万有は、すべて似ています。木を見るなら、一つの根を中心として幹も似ており、芽も似ており、枝も似ているのです。そのように、すべてのものが平準化された価値をもつために、細胞の繁殖ということが可能なのです。(二〇〇二・一〇・三、第一五回世界統一国開天日)

 神様は、一心、一体、一念で天地の万物をつくられましたが、その天地の万物は、だれのためにつくられたのですか?人間のためにつくられました。ですから、だれでも神様の心に似ることができる孝子、神様の国で神様の心に似ることができる忠臣、神様の世界で神様の心に似ることができる聖人、天宙で神様の心に似ることができる聖子の道理を果たすことができる主人とならなければならないというのが総結論です。(二〇〇二・一〇・三、第一五回世界統一国開天日)


四 愛の世界には祈祷が必要ない

 神様の全権時代が来るのです。原理的に見るとき、間違いなく来ます。今やルーシェルまで屈服させ、天地父母勝利大宣布をしておいて、地獄の門を開いて霊界を収拾しました。ですから、摂理史に見るとき、堕落したアダムとエバの子孫である人間たちを救うことができる環境は、すべて成されたのです。神様を解放し、真の父母を探し、地獄を撤廃し、サタンを追放して、そのような環境をすべて成就したのです。

 それで、何か欲しいという求める祈祷は必要ないという時が来ました。そのように祈祷する時間に何でもなしなさいというのです。実践だけが残っています。真の父母が勝利することによって、神様は私たちに背負われたのです。今までは、神様が私たちに頼まなければなりませんでした。「祈祷しなさい、祈祷しなさい!」と言って、絶対信仰の基準を立てた後に地上と天上の解放圈を成し遂げることができたのです。それで今まで、「祈祷しなさい、祈祷しなさい!」と言われたのです。(三〇二−三一二、一九九九・七・二)

 人間の幸福は、真の父母の愛と一つになることであり、真の父母の愛を中心として真の兄弟の因縁を結ぶことであり、真の父母と真の兄弟の圏内で真の家庭を成し遂げることです。ところで、真の国家、真の世界、真の天国を成して、神様まで解放してさしあげる恵みの圏内で祝福を受けたので、祈祷して望むことはなくなりました。祈祷して何を求めますか?今まで皆さんは、祈祷しながら何を求めましたか?幸福?幸福もすべて天がくれました。ですから、祈祷して切に求めるものがないという結論です。

 それゆえ、祈祷よりは、愛の実践が貴いのです。祈祷より、真の父母の愛を中心として、兄弟を愛し、国を愛し、世界を愛しなさいというのです。それから、天地を愛することが祈祷することよりましだというのです。祈祷して何をしますか?祈祷したならば、祈祷の約束どおりに実践しなければなりません。愛を実践する人が、祈祷する人よりもっと多くの福を受けることができるのです。(一八一−三二二、一九八八・一〇・三)

 皆さんは、エデンの園で生きていくのに、祈祷が必要ですか?すべて知っています。すでに、すべて知っています。皆さんの行動を、神様が好まれるのか、嫌われるのか、ご父母様が好まれるのか、嫌われるのか、食口たちが好むのか、嫌うのか分かりますか、分かりませんか?だれかが教えてあげなくても、すべて分かるようになっています。

 原理を知って両方の世界が明らかに分かるので、自分が何をすべきなのか分かるのです。ところが、やるべきことはやらないで、何の祈祷をするのですか?すべて知りながらも、祈祷だけする人は詐欺師です。

 先生は祈祷をしません。祈祷しないというよりは、祈祷の題目がありません。強いて祈祷の題目があるとするなら、「千年後にこのようにならしめてください!」というのです。「二千年後にこのようにならしめてくださいIサタンが植えておいたすべてのものが浄化されて、あなたの願いどおりにならしめてくださいませ!」という祈祷をするときは、神様は喜ばれますが、何かをくれというときは、神様は嫌がられます。(一八一−三二六、一九八八・一〇・三)

 神様の血統と心情圈を受け継いだ人には、宗教というものが必要ありません。宗教は愛をつくることはできず、愛の道を築くことはできません。宗教は愛の道についていくのです。愛の道を学びながら、ついていくというのが宗教です。ですから、愛の世界では、宗教は必要ありません。祈祷も必要ないのです。そのような論理です。(一八二−八二、一九八八・一〇・一四)

 だれでも、真の愛の主人となれば、その人に神様がついていかれるようになっています。それで、どこでも神様が共にあられるので、その人には祈祷が必要なく、宗教も必要ありません。ですから、完全な解放時代に入っていくのです。
 真の愛の主人となれば、神様と同居、同行、同参するようになることによって、祈祷生活を超越することができ、宗教生活を超越することができます。ですから、すべてのものから解放されるのです。(二四二−三〇五、一九九三・一・二)

 だれでも霊人体と肉身が神様の愛を中心として共鳴して響くようになれば、霊的な細胞と肉的な細胞が作動するようになります。そのように作動するとき、目を開くと天上天下がすべて見えます。マイクもそうではないですか。性能が良ければ百パーセント響くでしょう。同じように霊肉が愛を中心として一つになれば、スパークして光によって天上天下がすべて見えるというのです。


 それだけでなく、手もそうです。そのようになるとき、手で万物に触れると電気が走ります。それですべてくっつこうとします。そのような人が通れば神様も宇宙もついていこうとするのです。完全なプラスがあれば、完全なマイナスはついていくのであり、完全なマイナスがあれば、完全なプラスがなくても生じてついていかなければならないのです。それが宇宙の法則です。ですから、そのような人に、「ああ、神様、お越しくださいませ!」という祈祷が必要でしょうか。そのような人にとっては、祈祷は邪悪なものなのです。


 完全に、霊的な愛と肉的な愛が神様の愛に和して、「ああ、良い! このまま千年万年暮らしたい!」と言うことのできる、そのような境地で女性の最初の先祖が出てこなければなりませんでした。そして、男性の始祖もそのような立場で出てこなければならなかったのです。もし、そのような男性と女性が神様の愛の中で落ち着いたなら、だれが動かすことができるでしょうか。だれも動かせません。どこの男性がその場を離れようとするでしょうか。その場を離れても、そこにまた戻ってこようとして大騒ぎするでしょう。女性も同じです。その場を離れることができないようになっています。

 神様の愛と、男性も一つになり、女性も一つになって血筋が連結します。神様の血筋が連結するのです。私たち人間とは何ですか。神様の息子と娘だという基準をもって、横的に展開して世界に満ちるようになりました。それで人間は絶対的な愛を中心とした男性であり、絶対的な愛を中心とした女性です。最初からそのようになっていたならば、絶対的な愛を中心とした男性と女性が結ばれて、絶対基準にふさわしい夫婦となっていたはずであり、その夫婦の愛の中で生まれた子孫たちも絶対的な愛を中心として繁栄していたはずです。私が調べてみたらそうでした。

 神様は何を好まれるかというと、愛を好まれるのです。では、どうしてそのように愛を好まれるのかというのです。何をしようとしてそうなのですか?そのようなことをなさるためです。これは宇宙の秘密の中の秘密です。これは私だけが知っている秘密です。「あなたたちは知ってはならない、この者たちめ!」と言ったら気分が悪いでしょう?だれであれ、知らない人を悟らせて、そのような世界に同参させるために教えてあげるのです。アーメン!

 いつから神様の血統が人間世界に連結されたのか、だれも知りません。今日、既成教会では、「ああ、創造主は聖なるかたであり、被造物は俗で邪悪なものである!」と言っていますが、よく知らないのでそう言うのです。私ほど知りません。神様に尋ねてみなさい、だれの言葉が合っているのか。祈祷してみなさいというのです。私が、自信がないなら祈祷してみなさいと言うでしょうか。すべて露わになるのにです。そうしてこそ、どうして神様と人間が愛の因縁を結ぶようになったのかという問題を中心として、理論的な体系を立てることができるのです。(一七一−一〇三、一九八七・一二・一三)

 皆さんは真の愛の王子と王女として祈祷してみましたか?だれでも祈祷するときは、真の愛の王子と王女になって、神様に侍って祈祷しなければなりません。それから、神様の王子と王女として考え、語り、行動をしなければなりません。さあ、皆さんは神様の王子と王女ですか?真の愛で全宇宙をカバーすることができる息子、娘となってこそ、真の愛の王子と王女になることができます。そのように生きる人であるなら、どうして天国に入っていけないでしょうか。(一六二−一四三、一九八七・四・五)

 皆さんは二重構造になっています。霊と肉、心と体の二重構造になっているのです。これがいつ一つになりますか?皆さんが一人でいくら修養を積んで、いくら祈祷をして、いくら精通しても、完全に一つになることはできません。人間には五官があります。人の良心にも五官があります。その外的な五官と内的な五官の細胞が、百パーセント一つになるようにすることができるのは、神様の愛だけです。その他には不可能だというのです。それを知らなければなりません。

 愛の陶酔境、その境地に入っていくようになれば、酒が問題ではありません。食べるものを克服することができ、睡眠を克服することができます。驚くべき世界です。このような本然の価値を喪失してしまった人間であるので、その価値を取り戻すような刺激を受けるために酒に酔うのです。しかし、愛に酔って生きる人生行路とならなければなりません。なぜそうでなければならないめでしょうか。本来、人は愛から生まれたのではないですか?

 自分は何なのでしょうか。自分の起源はどこにあるのでしょうか。両親の愛から始まったのです。なぜ自分は貴いのでしょうか。父母の愛という宇宙的な核に同参したからです。そのように愛から生まれ、愛で育てられ、宇宙の核と通じることができる男性と女性として成熟して結婚し、愛を中心として生き、息子、娘を生んで愛で育てるようになるのです。

 そのように、愛を横的に分けるようになるだけでなく、縦的にも与えなければなりません。なぜ縦的にも与えなければならないのでしょうか。そうしてこそ、回るからです。運動するというのです。すべての力は円形運動をして四方に伸びる作用をしなければならないのです。そして、死ぬようになれば、神様の絶対的な対象の価値をもつので、永生することができるのです。そのように愛を中心として永生という概念を見いだすことができるのです。(一三七−六八、一九八五・一二・一八)*


2004.5.23




























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