E-listBBSSearchRankingMusicHall-HornGo to Top


真の孝の生活
(全面表示) 戻る


第三章 忠孝の道理

一、生命まで惜しまない真の忠孝

 新郎のために自分の命を捧げれば、烈女だといいます。孝子も、父母のために命を捧げる人のことをいい、忠臣も、国のために命を捧げる人のことをいいます。

 しかし、天の基準は、永遠の命を懸けて忠誠を尽くし、孝行することです。この肉体は死にます。永遠の生命を懸け、それをすべて父のものとして、新郎のものとして、父母のものとして捧げることができる立場においてのみ、天的な烈女の基準が成立します。自らの命が動いて感じるすべてのものを傾けなければなりません。

 それゆえに、聖書にも、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくしなさい」と書かれています。それでは、尽くす基準とは何でしょうか。世界のいかなる忠臣よりも、いかなる孝子、孝女よりも、いかなる烈女よりも勝らなければなりません。

 そうでなければ、神様の威信が立ちません。今まで、サタン世界にも多くの忠臣、烈女がいましたが、そのサタン世界の忠臣、烈女の基準と同じ基準を立てた人を天が忠臣、烈女として立てれば、神様の威信が立たないというのです。(一九六〇.四.二四)

        *

 孝子は、過去から現在まで、時代ごとにすべていました。その中から一番の孝子を選ぶとすれば、どのような人を一番の孝子、孝子の標本として選ぶのでしょうか。老いて孝子の役割をして死ぬよりも、若くして老いた人以上の孝子の役割をしたとすれば、より貴いのです。孝子も千態万状です。貧しい人、裕福な人、雑役をする人、物ごいをして暮らす人、あらゆる階級がありますが、孝子はどこにもすべています。

 生きている人が真の孝子になることはできません。生命をまだ残している人が、孝子の部類に入っていくことはできません。孝行するために数多くの人々が死んだのですが、死んでいない人が孝子の表彰を受けたとすれば、孝行するために死んだ人々から讒訴されるのです。

 死んだ人の中にも、孝行するために道を行く途中で死んだ人もいるのです。父と母が病気になったので、薬を買いに行く途中で死んだ孝子もいるでしょう。

 薬を買いに行くのに、自分のお金をもって買いに行った人もいるはずであり、借金して買いに行った人もいるはずです。困難であればあるほど、その価値が大きくなるのです。忠臣も、死ぬ前には忠臣になることはできません。同じ道理です。(一九七一.一〇.一七)

        *

 孝子になろうとすれば、どのような立場に立たなければならないでしょうか。死の道、一番の受難の道に責任をもつことができる立場に立たなければなりません。孝子として行くべき道とは、何でしょうか。

 「父母である私を愛する以上に兄弟を愛し、お前が私のためにいるように、兄弟のためにいてほしい」。これが、孝子の行くべき道です。父母は、このように自らの願いを言うでしょう。(一九七二.九.一〇)
 孝子の中の本当の孝子とは、どのような人でしょうか。父母のために一生をすべて犠牲にし、七十歳、八十歳の高齢になるまで孝行を尽くした人と、若い青春時代に父母のために生命を捧げた孝子がいるとすれば、どちらをより孝子と言うことができるでしょうか。

 いくら七十、八十になるまで孝子の役割を果たしたとしても、青春時代に父母のために生命を捧げた孝子にはかないません。それゆえに、忠臣は、死んだのち、生命を捧げたのちに決定するのです。真の孝子も、生命を捧げる立場で決定するということを、私たちは歴史時代においてたくさん見て知っています。(一九七一.九.五)

        *

 忠臣の名をもって立ち上がる人も、天のために生きてこそ忠臣という称号を天から受けるのです。孝子の行く道も、やはり同様です。ですから、どれほど貴重であり、大切なものかというのです。

 私が食べるのもそのために食べ、私が見るのもそのために見て、私が話すのもそのために話し、私が行動するのもその目的のために行動しなければなりません。

 たとえそれが悲しみと涙の道であったとしても、天上の主人であられる神様が行かなければならないその道を代わりに受け持って行かなければならないので、孝子の道理と忠臣の道理を果たさなければならない責任があるということを、私たちは知らなければなりません。

 神様の涙の道をふさぎ、私が地に倒れることがあったとしても、再びその道を行かなければなりません。そこで忠孝の道理を果たさなければなりません。(一九七一.二.一四)

        *

 孝子や忠臣は、死を共にしなければ、本当の忠臣ではありません。本当の忠臣は、死ぬ前にはいません。いくら苦労したとしても、きょう、一言後悔の言葉を言えば、忠臣になることはできません。いくら忠臣であったとしても、この時間に不忠をすれば、逆賊になるのです。死の峠を越えていく時まで忠孝の道理を果たしてこそ、「忠孝を全うした」と言うことができる人になるのです。

 それゆえに、公的な道においては、忠と孝はその過程が同じです。国のために生命を捧げた人を「愛国者」と言い、父母のために生命を捧げた息子を「孝子」と言うのです。

 父母が死ぬ前まで親不孝したとしても、父母が死ぬ最後の場に置かれた時に、今まで孝行してきた子供が親不孝になり、親不孝してきた子供が転換すれば、孝行してきたその位置を受け継いで一瞬の孝行をすることによって、父母から「孝子だ」と言う声を聞くようになるのです。
 そのようになれば、その一日の行動の基準とともに孝子の称号をもって登場するようになります。
 生命が尽きる時までその目的に向かっていく人の前に、栄光の相続がなされるのです。(一九七二.一〇.二四)

        *

 長く苦労するよりは、本当に忠誠の心をもって、重大な問題と世界的な問題に身を捧げて死んでしまいましょう! 爆発してしまいましょう! このような覚悟をもつことが、堕落した人間としては素晴らしいことだと先生は思っています。もし神様の前でそのような最期を遂げたとすれば、既にその人は素晴らしい所に行くように決定されているのです。(一九六七.六.一二)

        *

 父母は、孝子、忠臣、聖人、聖子のような前進的なことを教えてあげなければなりません。孝子、忠臣、聖人、聖子の道理を果たし、そののちに神様まで行かなければならないことを自分の息子に教えてあげなければなりません。

 そのように教える人がいるとすれば、神様が御覧になる時、「やー、あの人は父母の役割を果たしている。あの人は先生の役割を果たしている。あの人は主人の役割を果たしている」と思われるでしょうか、思われないでしょうか。

 「あなたには、父母の資格があり、先生の資格がある」とおっしゃる時は、主人の資格があり、さらには王になることができる父となることができるのです。西欧の人々に孝子という概念がありますか。忠臣の概念がありません。聖人の概念がありません。聖子という概念がありません。ですから滅びるのです。

 神様は、聖子になることを願っていらっしゃいます。それならば、聖人は誰が願うのでしょうか。世界が願います。国は何を願うかというと、忠臣を願います。家庭は孝子を願うのです。これがまさしく真の真理の道です。(一九九七.五.一九)

        *

 真の父母がいるとすれば、「あなたは孝子になったので、忠臣になってはいけない。忠臣の道を行ってはいけない」と言いません。真の父母は、その孝子に「あなたは、家庭を犠牲にし、忠臣の道を求めて国に仕えなければならず、聖人の道理を果たさなければならず、聖人の道理を犠牲にして天が願う道を行かなければならず、天地を犠牲にして神様を訪ねていかなければならない」と教えてあげなければなりません。

 そのようになろうとすれば、個人は家庭のために犠牲にならなければなりません。家庭のために犠牲になってこそ、孝子になるのです。また、国の愛国者になろうとすれば、その家庭全体を犠牲にしてでも国を救わなければなりません。そのようにしてこそ、愛国者になるのです。聖人は、自分の国を犠牲にしてでも世界を救わなければなりません。

 聖子は、世界を犠牲にしてでも、天上天国と地上天国を築かなければなりません。このような概念があるということを知りませんでした。投入して犠牲にならなければなりません。

 そのようにしなければ、一つの世界、一つの国は永遠に現れません。(一九九七.五.一九)

        *

 キリスト教徒の数が問題ではありません。神様の体となり、神様の命令によって、いつでも、どこにでも行こうと決意する人、神様が「命令を待ちなさい」と喜んで命令したいと思われる人が要求されるのです。

 今日、何億という信者を誇るキリスト教徒の中から、果たしてそのような人を探すことができるでしょうか。わき腹に剣を突きつけて、「あなたを天の祭壇の犠牲物として捧げようと思うが、生命を捧げることができるか」と尋ねた時に、その峠を越えることができなければ何にもなりません。命を懸けて神様を愛する孝心に燃える人、天に対して身もだえすることのできる群れがこの時代に必要です。私は、そのような群れが終わりの日の天の革命軍だと思っています。

 全世界の人類の前にそのような責任を全うしようという徹頭徹尾の思想をもった個人、家庭、民族、国家がどこにあるのかと、神様は探されるでしょう。

 神様は、早くからそのような個人を探してこられました。そのような個人は、神様の心情を慰労してさしあげ、神様の前に忠誠の道理を果たし、孝道を尽くさなければなりません。天地のあらゆる事情を解き明かさなければなりません。

 そのようにして、神様が、「この時代の前に責任を負うことができる者があなただ。あなたを見ると、あすに望みをもつことができ、あなたを見ると、きょうの闘いを勝利に導いていくことができる」とおっしゃってくださる一個人にならなければなりません。このような個人が絶対的に必要です。

 そのような個人を神様がつかまれ、「あなたは骨の中の骨であり、肉の中の肉であり、心情の中の心情だ」とおっしゃることができなければなりません。いくら歴史上の多くの先祖がいて、時代的に多くの人類がいたとしても、心情を中心として、「あなたは、歴史において、あとにも先にもない最高の先祖の立場にいる」とおっしゃることのできるお方がこの地上に現れない限り、人類始祖の堕落による悲しみの歴史は清算されないのであり、その中で生まれた私たちは、また再び、ある父母に侍らなければならないのです。(一九六五.一〇.一〇)

        *

 世界のための神様のみ旨が残らなければならず、世界を愛する神様の愛が残らなければなりません。したがって、皆さんは、死んでもそれらを残してあげなければなりません。それを残すために自らの生涯を犠牲にする人は、孝子になり、忠臣になるということを、皆さんは知らなければなりません。

 一日孝子や一日忠臣は必要ありません。一日孝子には、どれほど悪い強盗でもなることができるのであり、一日忠臣も、やはり誰もがなることができます。その場で悔い改めればなることができるのです。神様は、生まれる時から孝子、忠臣として生まれ、孝子、忠臣として生きたのち、孝子、忠臣として死ぬことができる人を願っていらっしゃるのです。

 先生と皆さんを比較すれば、先生は、神様の前に皆さんよりも孝子です。なぜならば、今まで、生涯を捧げてこのような仕事をしてきたからです。

 しかし、私が孝子の道理を果たしたとは夢にも思っていません。歩めば歩むほど足りなさを感じます。孝子の道理、忠臣の道理を果たしたと思う人は、そこで孝子や忠臣としては終わりです。

 「私は孝子なのに、私は忠臣なのに、なぜ分かってくれないのか」と言って抵抗する人は、その峠から後退する人です。歩めば歩むほど孝の道理が残っていて、歩めば歩むほど忠の道理が残っているということを発見し、その孝を果たすことを自らの生活哲学として生きる人であってこそ、天の孝子になり、忠臣になることができるということを、皆さんは知らなければなりません。(一九七〇.一一.一)

        *

 今、私たちが学ばなければならないことは、幸福の中にいらっしゃる神様を学ぶことではありません。それは、そのようにしても良く、そのようにしなくても良いのです。先に知らなければならないことは、孝子になり、忠臣、烈女になることです。孝を立てる人は、困難な中から生まれます。忠を立てるのは、その国が完全に平安な立場において成されるのではありません。

 国が泰平で、国民が安らかな立場において成されるのではありません。国の状態が最期の峠にぶつかり、「お前が死ぬか私が死ぬか。全体が死ぬか生きるか」という最後の逆境において、自らの命を懸け、あらゆる精誠を尽くして、国運を転換させ、国難を解決してあげる責任を果たした者であってこそ、その国の「忠臣」と言うことができるのです。困難な時に「忠」の名詞、困難な時に「孝」の名詞、困難な時に「烈女」という名詞が、歴史路程の中に記録されるのです。(一九六二.一二.一五)

        *

 皆さんは、妻に関心をもつよりも、南北に分断された皆さんの国を思わなければなりません。分断されている民主世界と共産世界を思わなければなりません。
 南北を一つにしたのちは、自由世界と共産世界に分立されたこの世界を一つにしなければなりません。それを一つにしたのちには、分かれている霊界と地上を一つにしなければなりません。

 これを一つにして神様を解放することが、息子の名前をもった孝子の行かなければならない道だということを知らなければなりません。(一九八一.一一.八)

        *

 したがって、真の孝子の道を行くためには、歴史始まって以来の迫害がどれほど激しく、困難な峠道が多かったとしても、それを克服することができる余裕に満ちた男性にならなければなりません。

 艱難と試練の中で苦しめられ、後退して悲しい恨の道に行くのではなく、億千万代の苦衷と受難の道を克服して、また克服しながら、決意して誓い、あすの希望にあふれた再出発の道を促していきながら、死の道も選んでいくことができる道を残していかなければなりません。そのような歴史的要求と神様の要求があるということを知らなければなりません。(一九八八.二.三)


二、相手のころを読んで真の愛を施す真の忠孝

 人類歴史は、堕落の歴史ですが、人倫道徳を中心として流れてきました。その道徳の中心は愛です。父母の前の孝子は、父母をより一層愛する人であり、国の前の忠臣は、国をより一層愛そうという人であり、国を越えて世界に愛を教えようとするのが聖人の道です。

 自分の家庭よりも、自分の国よりも、世界を愛そうとするのが聖人の道理です。聖子の道理とは何かというと、天と地のすべての法よりも王宮法を中心として、「最高の愛を行いなさい」というのが聖子の道理だということを知らなければなりません。愛を中心として、すべてのものはこのようになるのです。

 孝子は、家庭を愛するにおいて正しく行かなければなりません。忠臣は、国を愛するにおいて正しく行かなければなりません。聖人の道理は、世界の人々を愛するにおいて正しく行かなければなりません。

 天子は、天国の王宮法を守り、天国の国法を守ることはできますが、天国の王宮法の道理までは知りません。その王宮の法まで備えて神様に侍ることができてこそ、聖子になるのです。人間が行かなければならない段階はそのようになっています。

 孝子になれば国が歓迎するのであり、忠臣になれば聖人が歓迎するのであり、聖人は聖子が歓迎するのです。聖子は神様が歓迎するのです。その核は真の愛です。不変の真の愛、絶対的な真の愛です。

 しかし、絶対的な真の愛をもって絶対的な孝子、絶対的な忠臣、絶対的な聖人、絶対的な聖子、絶対的な父の息子、娘の因縁を連結させることができるこの道を知らなかったので、さまよっているのです。どのようなことをしてでも天理と共に行かなければならない道が残っているということを知れば、さまようことはできません。(一九九〇.一〇.三)

        *

 孝子は、自分のためにいるのではなく、父母だけのためにいるのです。忠臣は、自分のためにいるのではなく、国王のためにいるのです。聖人は、神様だけのためにいるのです。それゆえに聖人は、神様の道理を教えてあげました。

 それでは、神様の願いとは何でしょうか。世界を救うことです。神様の事情とは何でしょうか。息子、娘を愛したいと思っていらっしゃるということです。神様の愛の願いとは何でしょうか。その愛に酔って暮らしたいと思っていらっしゃるのが、神様の愛の願いです。

 それゆえに、神様の願いと事情と心情に通じなければなりません。それに通じなければ、孝子になることはできません。それが統一教会の骨子となる思想です。神様の事情を知ろうという人が、神様がいるのかいないのか分からなくていいのですか。神様の願いが何なのか分からなくて、孝子になることができますか。

 神様の心情が悲しいのかうれしいのか分からなくて、孝子になることができますか。到底不可能な話です。孝子になる道は簡単です。父母のより多くの苦しみに自分が責任をもとうという立場が孝子となる道です。(一九七二.九.一〇)

        *

 食膳を立派に整えてもてなす孝子と、食膳も何もなく手ぶらで来て、何をもって来たかというと、愛をもってきた孝子がいるとすれば、どちらの孝子が良いでしょうか。愛をもってきた孝子だとしても、おなかをすかした母の前に何も食べる物を持ってこなければ、そのような親不孝者がどこにいますか。しかし、「親不孝者が参りました」と言いながら涙を流せば、食膳を整えること以上になるのです。

 それならば、御飯の釜を持って歩くのが孝子でしょうか、愛の釜を持って歩くのが孝子でしょうか。愛は、二十四時間、時間と空間を超越していますが、御飯は、時間性を超越することができません。それを知らなければなりません。(一九八八.四.一四)

        *

 国家に忠誠を尽くす前に、神様が臨在されるその臨在点で忠誠を尽くそうと誓わなければなりません。社会に奉仕する前に、神様が臨在される所に入っていって奉仕し、認定を受けなければなりません。そのようにしなければ、神様の内的な因縁は、結果である外的世界で実を結ぶことができません。

 これが信仰生活の本質です。皆さんは、「世界のために奉仕し、国のために忠誠を尽くす」と言うでしょう? それでは、忠誠を尽くすにおいて、その起点はどこにあるのでしょうか。

 必ず家庭におけるその父母の心と体の中から出発しなければなりません。(一九六九.一.一九)

        *

 その時のために、忠誠を尽くして歩調を合わせれば福を受けるのであり、歩調を合わせることができなければ嘆息が生じるのです。

 その命令を遂行するにおいて、「私は、私のすべての精誠を尽くしてこのような仕事をした」と言うことのできる人が統一教会の中にいるとすれば、その人々が精誠を尽くして一致化した基準がどの程度か、またその数と量がどの程度か、そして天運をどれくらい多く吸収したかに従って、地上と関係を結ぶことができる広い基盤になるか、ならないかが左右されることを、皆さんは知らなければなりません。

 広い基盤にならなかったとしても、先生は、個人を中心として、そのような足跡でも残していかなければなりません。これが蕩現復帰の道です。(一九七一.一.三)

        *

 愛国者は、国の愛を受けようという人のことです。孝子は、父と母と家族の愛を受けようという人のことです。家族の愛を受ける孝子になることも、簡単なことではありません。人が食べている時に食べずに、人が食べることができるように助けてあげ、人が寝ることができるように助けてあげ、人よりも良い服を着てはならないのです。

 遊ぶ時に遊ばずに、その国のために生き、家庭のために生きる人が孝子になるのです。自分の家だけではありません。三代を中心として、おじいさん、息子、娘、おばあさん、それから伯母さんたちがいて、母の兄弟がいて、それから何でしょうか。孫娘まで、すべての人が好きにならなければなりません。一人でも好きにならなければ、孝子になることはできません。

 そして、親戚がいれば、親戚全員が「あのような息子にならなければならない。あのような姉にならなければならない」と言うことができてこそ、その一族の中における孝子の称号をもって定着することができるのです。自分の位置が生じるのです。(一九九九.一.一六)

        *

 考えてばかりいてそのことを行わなければ、考えていない人よりも悪いのです。そのような人は、本当にどろぼうです。それがもし思ったとおりにならなければ、盗みしかできないのです。

 それでは、神様が喜ぶことのできる孝子、孝女とは、どのような人たちでしょうか。どのような人たちですか。自分のおなかを満たす人ですか。自分が食べる物までも人に食べさせてあげなければなりません。「食べない」と言えば、口を開けて食べさせてあげなければなりません。

 それでは、父に代わって、皆さんを統一教会の忠臣、烈女、孝子、孝女にするためには、どのようにしなければならないでしょうか。割かなければなりません。一年でできると思いますか。忠臣というものは、もちろんそのように生まれついたという言葉もありますが、生まれつきそのような天性をもっているのならば、死ぬ時までその志操が変わってはいけません。
忠臣になるためには、どのようにしなければならないでしょうか。苦労の道で苦労するしかありません。それが最も近い位置であり、最高の近道です。忠臣、烈女になり、孝子、孝女になることができる最高の近道とは何ですか。
公的な立場で涙を流す生活だけです。涙を流して苦労の道を行かせる方法しかありません。(一九六五.一〇.三一)

        *

 国をもっていなくても、もった以上にその国の忠臣となり、民をもっていなくても、その民以上に世界の人々を愛そうとしながら、天の忠臣と孝子の道を一生歩めば、自分に何もなく死んだとしても、滅びる人ではなく、逆にもっと価値があり、その国とその世界の忠臣になることができるということを知らなければなりません。(一九七六.七.一)

        *

 真の愛を国に与えれば愛国者になり、それが父母に向かえば孝子の中の孝子になります。世界万民の前に立てば聖人の道理を果たすのであり、神様の王国まで行けば聖子の道理をすべて果たすので、神様までも見守ってくださる息子となることができるのです。(一九八八.五.三)

        *

 真の愛でなければ、真の孝子はいないという結論です。今、誤った愛の伝統を受け継いだ人間たちによる世俗的な愛、フリーセックスなどというものが、この愛の基盤、孝子の基盤、忠臣の基盤をすべて破壊しています。

 絶対愛を中心として真の孝子の道理、真の忠臣の道理、真の聖人の道理、真の聖子の道理を経て、神様の前に立つことによって、天国において初めてその時に相続を受けるのです。個人的家庭であるアダム家庭で堕落した内容を相続する時は、未来の国と未来の世界と未来の天国のすべてのものを合わせて自動的に大きくなったものを相続するのです。(一九九七.八.一三)


三、無条件に服従し、代価を要求しない真の孝子

 おじいさんがつばを吐こうと、おばあさんがつばを吐こうと、また母が気に掛けず、兄弟が知らないふりをしたとしても、おじいさんのことを思い、おばあさんのことを思い、家庭全体のことを思って忘れてしまう人になってこそ、歴代に残り得る孝子の班列に入っていくのです。

 「私は孝子だ。孝子になるためにこのようにしている」。それは偽りの孝子です。「ため」に生きて忘れてしまうことのできる人が、孝子の班列に入っていくのです。

 どのような人が忠臣でしょうか。すべての閣僚の中で、自分が王を愛するにおいて、餅も作り、何でもしてさしあげ、王に侍る臣下や、王妃に侍る侍女がみな責任を果たすことができない場合は、それを見てじっとしているのではなく、それに対して説教しながら、自分がそれ以上にして、その環境がそのようになるように教育し、それを忘れてしまうのです。そのようにして「もういい」と言うのではなく、「もっと良くしなければならない」と言わなければなりません。

 なぜでしょうか。大韓民国よりも大きい国の王がいるのであり、天下には天子がいるのであり、天国の王子がいるので、大韓民国という一分野の代表にしかならない忠臣では、自らの欲求を満たすことはできないのです。(一九九〇.七.一)

        *

 父母の前に孝行する人は、孝行するその天の心が、動脈に行ったのちに静脈に回ってくる血の流れのように動くのです。家庭の一番末端に立ったとすれば、天理の愛の力が動脈側に行ったのちに静脈に回ってくるのです。見えませんが、自然に動くのです。

 静脈の血は、自分で入っていきますか、押されて入っていきますか。押されて入っていくのです。それは、福を受けようとしなくても福を受けるということです。動かないようにしても、大きな心臓によって次第に回っていくのと同じです。福を受けようとしなくても福が訪ねてくるようになっているのです。

 ですから、一生懸命に孝行しなければなりません。それが統一教会の教育です。孝行しなければなりません。孝行する父母がいなければ、国ために尽くしなさい。国が危険な時に、孝行しなければならない父母を残し、父母の反対を受けてでもこっそりと荷物をまとめて一線の将兵として出ていって死んだとすれば、その人は、孝の道理の完成体になることができるのであり、忠の因縁の立場に入っていくことができるのです。(一九八六.一〇.一)

        *

 私たち人間を見れば、困難に直面した時、大概自分の悲しみでいっぱいになります。そのようなことがよくあります。しかし、忠臣はそのようにすることができません。孝子もそのようにしてはいけません。自分の子供が死に、自分の妻が死んだからといって、その子供をつかんで泣いたり、妻をつかんで泣いたりしてはいけません。

 本当の指導者は、そのようにすることができないのであり、真の忠臣ならば、自らの事情を見せたりはしません。自らの心の奥深くにしみ込ませるだけであって、表に出して泣くことはできないのです。

 国王のためにそのような一時をもつことはできませんでしたが、父母以上の心をもって、善の立場に立って、国王よりも悲しい立場に立てば、天がなすべきことを教えてくれるのです。

 そして、孝子、孝女の立場で考えるとき、私たちは、自分が悲しくても、自分の悲しみだけを中心として悲しんではいけません。また、悔しいことがあっても、その恨みを晴らそうとしてはいけません。(一九六七.六.一一)

        *

 良いことよりも、嫌なことにもっとOKすることができてこそ孝子です。自分の一生の貴重な愛を犠牲にしながら父母に孝行しようとする人は、天上世界のどこに行こうと、四方に十二真珠門があるとすれば、そこでふさがっている門はありません。完全に開くのです。

 興進が霊界に行く時、イエス様はオールド・キリスト(年を取ったキリスト)であり、興進はニュー・キリスト(新しいキリスト)だと決定して天上世界に送ったところ、そのとおりになったのです。(一九八七.五.一)

        *

 イエス様を愛することができなかった神様の恨を解くためには、一つの国の代表者として、おじいさんとおばあさんを愛しなさいというのです。私たち統一教会は、そのようにしなければなりません。

 おじいさんとおばあさんを愛するにおいては、国のおじいさんとおばあさんが愛することができず、教会のおじいさんとおばあさんが愛することができず、家庭のおじいさんとおばあさんが愛することができなかったものを愛さなければなりません。

 このような三段階の内容を代表した、忠孝の道理を備えた真の兄弟の因縁をもって愛さなければなりません。(一九七一.一.六)

        *

 孝行する父母がいるとすれば、その父母は、自分よりも孝行する息子を願うでしょう。そのようになってこそ、おじいさんが死ぬ時に目を閉じて死ぬことができるのであり、父が死ぬ時にも目を閉じて死ぬことができるのではないかというのです。息子を自分よりも苦労させることができる心情は、息子を愛しているということです。

 それは当然の考えです。そのようにして、自分と共に苦労してこられた神様を慰労してさしあげなければなりません。このような息子、娘が必要であり、そのような後継者が必要なので、死んでも忘れることができない孝行をするように教育するのであり、私よりももっと苦労させるのです。
 先生は、自分に対してはけちです。自分のためには、お金を使うことを知らない人です。おなかがすいたからといって、食堂に入っていって一人で御飯を食べる、そのような人ではありません。お母様に対しても、食べたり着たりする物まで干渉する人です。(一九七一.四.一八)

        *

 孝子をもった父母は、その孝子に対することができる父母であり、愛する孝子のための父母であって、そこには第三者が関与することはできません。

 それゆえに、天は、真の孝子をつくるために、サタンと人間がどのようなことをしたとしても、タッチし得ない最後の道を中心として深い因縁を結ぶために、愛する子供を死の場に立てながらも知らないふりをされるのです。

 それが、不孝者になった人間に再び孝行の道理を立てさせるための天の心であり、孝子を立てるための天の指導方法ではないかというのです。それは、言うまでもないことです。(一九七二.九.一〇)

        *

 孝子をもった父母よりも、その父母の前における孝子のほうが、より心配が多いということを知らなければなりません。孝子、孝女のほうが、父母よりもより多くの心配をもたなければなりません。

 孝子、孝女になるためには、父母よりも多くの心配をもたなければならず、孝子、孝女になるためには、その父母よりも各方面に多くの心配をしなければなりません。(一九六五.一〇.三一)

        *

 イエス様は、神様の前で僕の僕となり、十字架を背負いながら死んでいきました。義人とは、国のために僕の僕のような悲惨な立場で死ぬ人のことをいいます。

 自分が死ぬにしても、国のために死ぬという人が愛国者です。僕の僕の立場でも、感謝して父母のために生きようという時、その人には孝子という名称がつきます。これが、人間世界の道徳の骨子であり、核心だということを知らなければなりません。

 神様のためにより公的に僕になることが、より義人になることのできる道であり、国のために、僕よりももっと深刻な僕になることが忠臣になることのできる道であり、父母のために、より僕となった立場で犠牲になっていくことが孝子の道だということも、ここから発見することができます。(一九七六.一〇.三)

        *

 この地上の復帰摂理に対してこられた神様の前で、「神様の真の孝子」と命名できるようにするためには、また息子や忠臣として認めることができるようにするためには、どのような人でなければならないでしょうか。アメリカで一番裕福な人でしょうか。飛行機に乗ってビラをまいて回りながら、「さあ、イエス様を信じなさい!」と言う、このような人々でしょうか。飛行機に乗ってビラをさーっとまいて、「信じるならば信じ、信じないならば信じないようにしなさい」と言う、そのような人々でしょうか。

 そのような人々と、一枚を与える時も、その人をつかんでぶるぶる震えて涙を流すほどの精誠を尽くして与える人とでは、どちらの人が神様の前に近いと思いますか。(一九六五.一〇.三一)

        *

 結論的に、孝子とは特別な者ではありません。父母を絶対信仰し、絶対愛と絶対服従するのが孝子です。
 国王を中心として、国の民を中心として、絶対的に国王を信じ、絶対的に民を信じ、絶対的に愛し、絶対的に自分を投入するところからのみ忠臣が出てくるのです。(一九九五.五.二九)






















SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送