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真の孝の生活
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第四章 神様に対する忠孝

一、神様の願い

 神様はどのような方ですか。神様は人類の父母でもある方であり、神様は人類の王の中の王でもある方であり、すべてのものの中心でもある方です。その神様の息子になるために、個人的には一対一の立場で、一つの家庭を中心として見るならば孝子にならなければなりません。それも、世界的な孝子にならなければならないのです。

 そして、孝の中でも最高の孝であり、忠の中でも最高の忠であり、聖の中でも最高の聖を代表することができる、そのような位置を占有した者だけが神様に侍ることができるならば、それらを別々にしてはいけないのです。神様の願いは、この三つを一度に成し遂げた人です。孝子にもなり、忠臣にもなり、聖人の中の聖人にもなる、そのような人を願うはずです。

 このような観点から見る時、神様は、そのような方であることに間違いありません。私たちは、その神様を父母として侍り、子女の名分を備えるために努力しています。そのように、最上になることができる孝子の行くべき道を訪ねて、それを守ろうと努力する群れになろうという者たちが、あるいは宗派が、あるいは民族がいるならば、彼らの行くべき道は楽な道ではありません。楽な道を求めていくところには、そのような孝子は生まれてくることができないのです。

 それは、正常な形態として現れることはできません。見ればすべての人が「間違っている」と言うでしょう。他の人々は東に行こうとするのですが、この人は、西だけではなく、南にも行き、東にも行き、北にも行き…。

 誰かがついてこようとしてもついてくることができない、そのようなことをさせるはずです。そのようなことをする宗教が出てこなければならないというのです。それは、私たちが常識的に判断しても、そのような結論に到達します。(一九七二.九.一〇)

        *

 今まで、歴史的に国王のための忠臣、孝子、烈女は多かったのですが、それに比べて神様のみ旨のための忠臣、孝子、烈女はいませんでした。

 しかし、今日の私たちは違うというのです。彼らは、すべて地の基準に立脚した自由解放のために捧げてきたのです。ですから彼らは、神様の前に心配の対象にはなったとしても、慰安や喜びの対象にはなることができませんでした。「忠臣、孝子、烈女だ」と神様が誇った人は今までいなかったというのです。

 神様の前に忠臣、孝子、烈女になることが人間の正道ですが、そのような人はいなかったのです。国王と父母にはそうであっても、神様の前にそのような人はいなかったというのです。

 神様は、世の中の忠臣、孝子、烈女を見つめながら、彼らが神様のための忠臣、孝子、烈女になることをどれほど慕い願われたでしょうか。(一九六一.一.二九)

        *

 神様は、すべての人々が孝子、孝女、忠臣になることを希望していらっしゃいます。また、神様は、その中でも最上の基準にある人を願っていらっしゃいます。忠孝を尽くす道しかないという人を神様は願っていらっしゃいます。

 父母の生命と財産に責任をもって家庭に平和と発展をもたらすことができない者は、孝子になり得ないというのです。父母の財産が崩れる時は、自らのすべてのものを投じることができなければなりません。

 神様の創造理想が破綻したので、生命、財産、平和、理想を蹂躙する位置では、忠臣、孝子にはなり得ないのです。私がいつ神様のために自分のことのように悔しく思い、私がいつお父様の生命に対して偉大さを感じ、私がいつお父様の家庭の平和と統一のために苦闘してみたでしょうか。

 そのようにしようとはしましたが、それが神様の前に忠孝になることができず、不忠、不孝になったのです。(一九六七.一〇.一)

        *

 神様は、忠臣、孝子を立て、彼らを通して御自身の恨をサタンに譲り渡そうというのです。しかし、この恨を無条件に渡すことはできなかったので、忠臣、孝子を立てて、個人的に歴史的な苦痛の道を歩むようにすることによって、その恨をサタンに譲り渡そうとされるのです。(一九六三.一二.二〇)

 神様も解放して、愛自体も解放する、そのような孝子が存在し得るだろうかという問題が重要なのです。神様もその場に入ってきて、「私も一度孝子になってみることができれば良い」と言われ、真の父母も、「一度孝子になってみることができれば良い」と言い、神様と真の父母が一つになって、愛の前に孝子になることができるそのような道があるならばどれほど良いですか。

 神様御自身が、お父様として愛を完成した立場に立たれ、息子自体が、神様の愛と宇宙の根本的愛を中心として孝子の道理を果たし、父と息子が一つになって、その愛の前に、より次元を高めることができる孝子の道をどのように植えつけることができるかというのです。植えつけることができたとすれば、堕落も永遠に生じないのです。

 解放の解放圏です。それは、原理圏を凌駕したというのです。根本世界です。このようなことを考える時、今後皆さんが家庭理想と地上天国が成され、天上天国が成されればそれで終わりだと考えてはいけません。

 そこにはまだ解決しなければならない、サタンの血統によって汚された痕跡がまだ内的根に残っているというのです。数千万年の歴史を経てきたのですが、その何倍、何十倍、何百倍以上の消耗を経ても、堕落したその世界の過去の出来事を忘れることができるかというのです。それを忘れてしまい、あなたと私が一つになり、息子、娘が一つになり、愛自体の苦労を慰労することができる孝子になれればということが、神様の最高の願いだということを皆さんが予想しなければなりません。(一九九九.二.二一)

        *

 神様が手を挙げてアダムとエバを祝福なさる時に、神様は彼らの父として心で何を願われたのでしょうか。「おお! あなた方は私が造った大天宙を抱いて、私を王として侍り、忠臣になってくれ」と思われたのです。神様は、そのような心だったというのです。

 したがって、アダムとエバは、この天地間に忠臣の志操を立て、それを伝統として億千万年残さなければならなかったのです。アダムとエバが神様を真のお父様として侍り、真の孝子、孝女になっていたならば、彼らが神様の前に立てた忠孝の志操は伝統になっていたのであり、この地の役事は、連結した神様とアダムとエバの心情を中心として受け継がれてきたのです。そのようになれば、悪が主管できないのです。

 神様の心情の世界を悪が主管することができるならば、復帰歴史、救援歴史は絶対に不可能です。(一九六〇.四.二四)

        *

 神様が息子、娘であるアダムとエバに願われたことは、彼らが育って孝子、忠臣、聖人、聖子になることです。皆さんは、神様が願われるように、家庭で孝子になるという考え、国で忠臣になるという考え、世界で聖人になるという考え、そして、天地の前に聖子になるという考えをもってみましたか。

 歴史的に見る時、すべての聖人たちは、孝子になり、忠臣、聖人、そして聖子になりなさいと教えてきました。これを教えることができない宗教は、宗教として千年、万年の歴史を越えることができません。いずれ行くべき私たち人間の宿命的な路程です。宿命は、父子の関係のようなものをいうのです。宿命は分けることができません。運命は代置し得るものがありますが、宿命はそのようなことはできないのです。

 このような内容を知らなくては、家庭において真の父母の役割を果たすことはできないというのです。真の父母ならば、孝子、忠臣、聖人、聖子のような前進的なことを教えてあげなければなりません。

 自分の息子たちをして、孝子、忠臣、聖人、聖子の道理を果たすようにして、さらには神様にまで行かなければならないということを教えてあげなければなりません。(一九九七.八.一〇)

        *

 神様が理想とされた一双の夫婦は、神様に栄光をお返ししてさしあげなければならないのに、堕落によって栄光の代わりに悲しみを返してしまったというのです。ここには、アダムとエバの責任だけでなく、天使長の不忠もあるのです。天使が先に神様に忠孝の道理を立てなければならなかったのですが、その道理を果たせずに堕落したのです。したがって、復帰摂理は忠孝烈を立てることです。

 神様が忠孝烈の心的中心を立ててこられたので、すべての宗教と道もこれを立ててくるようになっているというのです。すべての道人たちは、これを探し立てるために出てきたのであって、イエス様も忠孝烈を立てるために家庭を尋ね求めてこられたのです。

 神様がイスラエル民族を立てられたのは、このような家庭を復帰するためでした。イエス様が先に忠孝烈の道を立てていなければならず、忠孝烈を立てるための祭司長になってこそ、サタンを屈服させることができたのです。

 私たち祝福家庭は、忠孝烈を立てることにおいて誰にも負けてはいけないのです。忠も、孝も、烈も家庭から始まらなければなりません。

 祝福は、お父様の希望を相続することです。今まで、神様に対する忠孝はありましたが、烈の家庭はなかったのです。「神の日」が訪れるまでは烈を立てることができず、サタンの讒訴が残っている限り烈は立てられないというのです。(一九六四.一一.四)

        *

 それゆえに、本来は、皆さんが天の前に完全に立つためには、韓国ならば韓国という一つの国に忠誠を尽くすことだけではいけません。それでは、天の前に完全な神様の息子、娘になることはできないのです。使徒パウロのような人は、そのような事実を知っていたというのです。自分の民族は、誰でも愛することができます。自分の民族は、誰もがすべて愛することができるというのです。
 しかし、異邦の人々までも愛さなければなりません。なぜなら、神様は、自分たちの国の人々だけ愛するのではありません。全体を同じ立場で愛する神様だということを知らなければなりません。
 その神様の心情を知るためには、逆境にぶつかり、難しい環境に置かれている一つの国を訪ねていき、私たちが因縁を結んでいかなければなりません。そのようにしなければなりません。原理的に見る時も、三カ国を経ることができる忠誠の道理を立てなければなりません。

 皆さんが今、韓国でお父様に侍り、天の前に忠孝の道理を果たそうと考えるようになる時、ここで忠誠を尽くすその忠誠は、自分自らのために忠誠を尽くすのだと思ってはいけません。「先に民族のために、先に世界のために、先に天地のためにこれを捧げ、これを残しますので、天のものとして受けてください。天のものとして、地のものとして残してください!」、このように祈祷しなければなりません。

 そのようにすれば、それは、私が死んでも必ず天のものとして残るのであり、地のものとして人類が残すようになるはずです。そうだというのです。(一九六五.一〇.三一)

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 神様の前に孝子になることができる時は、いつもあるのではないのです。孝行することができる時は、死んだのちに霊界でつくられるのではありません、永遠を中心として見る時、限りなく短い期間、チックタックという瞬間のようなこの一生の間に、神様を愛したという条件を立てなければならず、神様の前に孝行したという条件も立てなければなりません。

 また、私たちが生きている時に、神様の前に絶対必要な息子だという決定もしなければならないのです。私たちは、生きている時にそのようなことをしなければなりません。(一九六九.一〇.一九)

        *

 神様が、一時に六千年の恨の因縁を解くという目的をおいて今までつづってきた歴史の結果として私たちが因縁を結んだのです。

 それゆえに、私たちは、お互いの姓が違っても、同じ血筋をもった兄弟以上の情をもって生きなければなりません。私たちは、父母でない父母に侍っていますが、神様を中心として、自分の血肉の父母以上にその父母に侍ろうとする群れです。また私たちは、国をもっていますが、その国以上の忠孝烈をもって天国のために生きようとする群れです。(一九七一.八.一九)

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 今は最後の時が来たというのです。父母から私の国まで復帰するのです。祝福を受けた家庭が父母の代わりに横的に囲んだので、私の国を取り戻すにおいて、忠孝の道理を果たすことによって、孝子の代わりに忠臣、忠臣の代わりに聖人、聖人の代わりに聖子の立て札を持ち、天宮法を守り、天国の道、天国の法を立てなければなりません。私たちによって天国の憲法が始まるという事実を知らなければなりません。このような意味で「私の国」というのです。(一九九〇.一.七)

        *

 神様の心さえ知る日には、この民族は、天地を支配するはずです。どうしてでしょうか。数多くの子女がいて、数多くの民族がいたとしても、最高の孝子、孝女、忠臣は一人です。堕落した人間の父母も、同じ子女であっても、無念に打たれている子女をより考えるというのが誰もがもっている人情ならば、ましてや神様がそうでないということがあるでしょうか。

 神様は、ある民族を探し求められるのではなく、最も愛する孝子、孝女を探し求められます。孝子、孝女を探し立てて、その民族に誇りたいと思われます。

 世界を収拾して一つの民族を取り戻し、イスラエルを立ててここで一つの血族を取り戻し、一つの血族を収拾して一つの家庭を取り戻し、一つの家庭を収拾して一人を取り戻すのです。その一人を取り戻すことが世界を取り戻すことなので、その一人は、神様のすべての歴史的な恨を解いてさしあげることができる心を所有した孝子でなければなりません。

 そのような孝子が出てきてこそ、彼によって悪なる人々が贖罪を受けることができるのです。(一九六〇.一〇.一六)

        *

 終わりの日の私たちは、何よりも神様の心を知っている人にならなければなりません。人間には、知、情、意の三要素があり、知と意を踏み台にして情的な天情をなすべき部分が残っています。

 神様の情的な流れがあり、私たち韓民族に対して天的な摂理があるために、韓民族は、誰よりも天に対する切実さと忠孝の心が強く働いているというのです。(一九五八.六.二二)
 天の忠臣になろうとすれば、天の恨みを晴らさなければなりません。孝子になろうとするなら、父母の怨讐をそのままにしてはなることができないので、怨讐をなくさなければなりません。烈女も同じです。この恨みを晴らす日まで、永遠の命を懸けて覚悟して行かなければ、闘わなければ、皆さんは、堕落の恨に満ちた峠を越えることはあり得ないのです。

 この峠を越えてこそ、初めて神様がすべての悲しい心情を解かれ、皆さんに、「六千年間待ち焦がれた忠臣よ、孝子よ、烈女よ」とおっしゃって、両手を挙げて祝福してくださるはずであり、三位神は安息することができるのです。

 このように、心情基準が解決する前には安息できないというのです。(一九六〇.四.二四)

        *

 神様は、父母の中で一代の父母であり、王の中で一代の王であり。この天地を一人で主管することができる方であり。理想を形成することができる一代の先祖である方です。

 その方を中心として孝誠を尽くして、その方を中心として忠誠を尽くし、その方を中心として聖人の目的を達成することができる息子、娘になり、そして神様の天地創造の大偉業を相続されるにおいて恥ずかしくない位置に行こうということが、私たち統一教会の目的だというのです。(一九七六.二.二九)


二、神様を感動させる絶対忠孝

 ノアじいさんは、迫害が激しく、乱れた環境の中でも、渾身の力を出したので、その環境に勝つことができました。神様の法度の前に、子女として忠孝の道理を果たすだけだ、という謙遜な心をもっていたのです。

 神様の前に行けば行くほど、環境の非情さを感じて悲しみましたが、そのような時であるほどノアじいさんは、神様に申し訳ない心で悔い改めの涙を流していったので、彼が行く道を妨げる者はいなかったのです。

 そのようにして百二十年間を過ごしてきたノアを一度考えてみてください。ノア一人に対して、サタン世界は、打つことができるすべての方法を動員して反対しましたが、神様が中心として立てられたその基準から、ノアは少しも外れることがなかったのです。その基準は、天宙の絶対的な中心として立てたものであり、宇宙の正義の人間として立てたものであり、真の勝利者として立てたものです。

 それで、神様は、この基準に反対になるすべての怨讐の要素を清算しようとされたのです。(一九六六.六.四)

        *

 生きるためには、皆さんが一生の間、忠誠の道理に変わることがあってはならないというのです。環境が自らの立場と自分を評価すれば評価した分だけ、私たちの舞台は世界へ拡大されるというのです。今日、国内事情を中心として身もだえしていますが、環境が平安ならば平安なほど世界を中心として身もだえしなければなりません。世界のために行かなければならないというのです。

 それで、世界のために忠誠を尽くす神様の息子、娘をお迎えして、神様が祝福してくださり、神様が誇ることができるその日を迎えなければなりません。そのようにしてこそ、初めて韓国に安息が展開するというのです。皆さんが、三千万民族が世界のために忠誠の道理を果たして、世界万民が「韓国によって自分たちも神様の息子、娘になった」と言って忠誠を尽くすことができる環境の基台を迎えるようになる時、初めて韓国に安息の基台が展開するというのです。(一九六五.一〇.三一)

        *

 今まで大韓民国のために、神様が苦労してこの歴史的な環境をつくっておかれ、あるいは今日、時代的な時を私たちが迎えるようにしてくださり、そして今その時が来たとすれば、ここで忠誠を尽くす牛のような人々が出てこなければならないというのです。

 牛のような人です。アブラハムの祭壇の中に三大祭物がありますが、一つは鳩であり、一つは羊であり、一つは牛です。今の時は、象徴的な型から見れば牛の時代です。牛の時代だというのです。神様は牛を好まれるのです。

 牛の時代! 捕まえて食べるために好まれるのでしょうか。牛を好まれるのは、肉を食べるために好まれるのではありません。農夫が牛を好むのも、未来に食べる肉の塊が集まっているから好むのではなく、働くからです。働かせて、肉を食べて、また食べて食べて、さらに食べるというのです。そのようになっています。

 それでは、神様の息子になるためには、何にならなければなりませんか。豚にならなければならないでしょう? (いいえ)。象徴的に言えば、その方が大王の牛のような忠誠と至誠を人間のために尽くされ、子女のために尽くされたので、今日の私たちも、牛のような方の前に子女になるためには、牛の子のよにならなければならないというのです。

 だからといって、牛の子になりなさいという話ではありません。例えて言えば、そうだというのです。(一九六五.一一.二)
この全天地間に、私よりも天の前に忠誠を尽くす人がいるならば、その人は誰か、東方か、あるいは西方か、どこにいるのか、これが気にならなければなりません。

 忠誠を尽くす人がいれば、その人はどのような人なのか、気にならなければならないというのです。どのように忠誠を尽くす人なのか、その人はどのようなことをする人なのか、そのようなことが気になるべきだというのです。(一九六五.一〇.三一)

        *

 神様のために忠誠を尽くすことにおいては、一歩も譲歩できないという信念をもたなければならないというのです。どのような人、どのような忠臣、誰よりも私がより一歩、わずかでも先んじなければなりません。地上で生きていった霊人たち、地上で一生懸命に仕事をしていった霊人たち以上に、その人々が国のために忠誠を尽くして、すべての公的な仕事に一生懸命に働いたそれ以上に実践しなければならないというのです。わずかでも多くしなければなりません。鉄則がそうなのです。(一九七八.一一.二六)

        *

 僕の時代において絶対的な忠誠を尽くし、養子時代において生活面で絶対的な忠誠を尽くさなければなりません。このように二代の環境を経ることなくしては、養子として神様の直系子女と一体となることができる基準を決定できないのです。

 一つになることができる基準を決定できないというのです。地の世界を中心として天の世界との関係を結ぶことを、世界を代表して最初にした民族が第三イスラエル民族になるのです。(一九七一.六.三)

        *

 皆さんが待つ心をもって耐え、その環境において、すべての恨的な要件を皆さんの一身で蕩減、解怨しようと思って苦闘しなければなりません。そのような人は、倒れず、滅びないということを皆さんが銘記しなければなりません。倒れて、今ではもう主の前に行く道がないと考えても、天は生きているというのです。

 天は今まで耐えてきたので、そのような立場で精誠を尽くし、忠誠を尽くしている途中で倒れたそのような群れは、再び起こして天の前に祈祷だけでもし得る道を開いてくださるのであり、また今から生きて進んでいく方向を提示してくださるのであり、また彼らを起こして協助することができる人を送ってくださるようになるというのです。(一九六四.一.七)

        *

 神様が御覧になる時に、民族の内的心情を泣かせることができ、天宙の内情を貫徹することができる人にならなければなりません。神様と通じることができる愛情をもったその孝子、孝女は、深い悲運が漂う立場でも、その悲運の主人公になった王ならば王、父母なら父母の心を解いてさしあげ、その背後のすべてを一人で防いで解決しなければなりません。このような忠孝の因縁をもった人が天国に行くのです。

 イエス様を信じて一人で天国に行くという人は、天国どころかエデンの園にも行くことができません。このような人々に今まで悪口を言われて迫害されてきたことは無念で悔しいことですが、だからといって銃刀で復讐してはいけません。(一九六八.三.一〇)

        *

 皆さんが文字を書く時に、点を一つ書くにしても、その時の心の姿勢いかんによって喜ぶことができます。また、その一点が希望の象徴になり得るというのです。

 それゆえに、天地を創造された神様が、いくら小さな物をつくられたとしても、それは神様の孤独な立場を埋めて喜びを得るための対象なので、それは、神様の前においては最高の喜びの対象になるのであり、忠孝の要件にならざるを得ないのです。ここで私たちは、神様が、つくったものを鑑賞されながら、これは抜いてこれを加えればどうかという希望の中で、いつも喜びの心をもってお過ごしになったという事実を知ることができます。(一九七一.一.一五)

        *

 誰が神様を解放してさしあげるのでしょうか。忠孝の道理を誓って孝誠の道理を尽くす、限りなく最善を尽くす孝子が現れて、その方のすべての十字架の恨に責任をもたなければなりません。そのような息子、娘が現れなければなりません。

 そうでなければ、神様は解放されないということを皆さんは知らなければなりません。(一九七八.一一.一)

        *

 私を見て勇気を出され、悪なる世界を押し倒そうと思いながら立ち上がることができる神様になるとすれば、その瞬間には神様の活動舞台が自分によって生じます。それは、自分にとってどのような貴い位置、玉座、栄光の位置において、一生ではなく、いくつもの生涯にわたってそれ以上のものをプラスしても達し得ない、王からの喜びの贈り物なのです。

 歴史を越えてまで迫害に対して自分が対抗する、それが永遠の歴史を代表した孝子、孝女が行くべき道ではないかと思うのです。

 それが永遠の国に対しての忠誠の道ではないかというのです。(一九九四.三.一〇)

        *

 結論的に神様は、絶対家庭、絶対忠孝を願われるのです。今までそのような絶対的な忠孝が出てきませんでした。絶対聖子、神様の息子のような世界的な基盤がなければ、神様が地上に降臨できないのです。神様お一人では、地上で何の役事もできません。ですから、私たちは、「悲しい神様、かわいそうな神様だ」と言うのです。

 今から、レバレンド・ムーンを中心として、ヨーロッパのメンバーが初めてそのような家庭を築くということは、驚くべき事実です。誰でもみな忠孝を願います。今まで神様は、この堕落した世界に対して、かわいそうな立場にいる以外になかったのです。

 その神様をどのように解放することができるのですか。それは、どのようにそのような家庭、氏族、民族、国家、世界を建設するかということにかかっています。(一九九八.一一.二〇)


三、イエス様の忠孝

 イエス様は、「どのような難しい環境にぶつかっても、その環境を克服するためには忍耐心をもたなければならない」と主張しました。「罪人が悪に対して忠誠を尽くす以上に神様のみ旨のために忠誠を尽くさなければならない」と言ったのです。これがキリスト教でいう、聖霊の九つの結実の根本です。愛の生活をするようになれば、喜楽と和平が現れ、忍耐を通して慈悲と良善が現れ、忠誠の生活をすれば柔和と謙遜が現れます。

 イエス様は、堕落圏内にいる人間たちのすべての悪の要素を除去してあげるために、天的な愛と天的な忍耐、天的な忠誠を強調したのです。これらが天国の理念を達成させ得る実践的な理念ですが、今日、皆さんの心にこのようなキリストの愛がありますか。

 また、忍耐と忠誠心がありますか。イエス様は、神様の心情に代わって顕現なされた愛の化身体であり、寂しいゴルゴタの道においても万民の苦痛を心配なさった忍耐の主人公であり、歴史上の誰よりも天に対して忠誠を尽くした忠誠の代表者でした。

 それでは、このようなイエス様の愛、忍耐心、忠誠心はどこから来たものなのでしょうか。これらは、イエス様自身が起源となったものではありません。イエス様は、神様の愛を人間に連結させる仲保の役割をするのです。無知な人間を救うために来られたイエス様は、神様の愛の化身であり、神的な価値の実体でした。(一九五七.八.四)

        *

 神様は、このように真のみ旨を成すために、御自身のような人、全体の価値の代わりをすることができる人を取り戻すために、人間が神様に対して忠誠を尽くす前に神様が人間に対して先に忠誠を尽くされたのであり、無限に忍耐してこられたのです。

 したがって、皆さんは、天倫を中心として運行なさる神様と、み旨を成就するために人間に対して無限に忠誠を尽くされたその事情を体恤しなければならず、この志を立てるために無限に犠牲になってこられた神様の心情、また未来の理念を立てるために無限に御自身を超越なさった神様の心情、無限に与えようとされる神様の愛の心情を体恤しなければなりません。(一九五七.八.四)

        *

 イエス様は、人類の父として来られ、聖霊は、人類の母としてこの地に来ました。しかし、彼らは、霊肉を中心とした父母になることができずに霊的な父母としてのみ役事してきました。

 イエス様の十字架における死は、霊肉が一つになった立場でサタンに勝利したのではなく、サタンに追い込まれて死んだのです。それゆえに、体はサタンに差し出し、霊だけが復活したのです。四十日後に復活して弟子たちを集め、霊的な基準を中心として第二イスラエルを出発しました。これが今までのキリスト教二千年歴史なのです。

 それでは、第一イスラエルはどこにいるのでしょうか。第一イスラエルは滅びました。第一イスラエルであるユダヤの国は、イエス様を殺した罪によって滅び、第二イスラエルが登場しました。神様は、メシヤを待ち焦がれたイスラエル民族を四千年間率いて保護し、育成し、四千年間苦労したその功績の基盤の上にメシヤを送られました。

 それにもかかわらず、この民族は、メシヤを信奉することができずに十字架の死の道に追い込んだのです。それで、この民族は、神様の前に怨讐になったのです。

 イスラエル民族は、この時から国のない民族になりました。そして、イエス様が再び来る時までは独立できないのです。イエス様を殺した罪を蕩減するために、二千年間多くの苦労をしなければなりませんでした。イスラエル民族は、万人類のために万民の先祖として来られたイエス様を、刑場に立てて血を流すようにしたので、国のない民族として苦労したのです。

 その時のイスラエルは、霊的にも肉的にも、どこに出ても堂々とした権威をもった国でした。イエス様は、このような国家圏の上に来られて、国家を収拾し、世界を復帰しなければならない責任があったのですが、イスラエル民族が信奉せずに死の位置に追い出したので、イエス様はやむを得ず霊界に行くしかなかったのです。

 しかし、イエス様は、神様のみ旨を立てることができる忠孝の道理をすべて果たしました。死の道を行きながらも、万民に代わって天倫の使命と責任を全うしようと思い、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と言いながら、忠孝の道理を立てたのです。

 ゆえにイエス様は死んだとしても、その精誠の基準はサタンが占領できません。そして、イエス様が霊的に復活することによって、霊的なイスラエルの基準がつくられたのです。(一九六八.一.七)

        *

 イエス様は、「わが神、わが神。なぜわたしをお見捨てになったのですか」という立場に出ていき、自分の体が引き裂かれて、自らの魂がずたずたに引き裂かれる犠牲の道、死亡の峠を越えていきながらも、お父様を離さずに最後まで忠孝の道理と忠臣の道理を誓うにおいて、サタン世界の誰にも負けない立場で静かに死の道を迎えていったのです。

 イエス様が、その場において、サタン世界で死んでいったどのような人よりも上に立つことができたその条件とは何でしょうか。怨讐に対して福を祈ったという事実、その条件を中心としてサタンがそれ以上は侵犯できない防波堤として決定されたというのです。

 神様はイエス様を愛して、イエス様は天を愛したので、愛を中心として復活の権限を発揮して復活したのです。(一九七一.一一.七)

        *

 イエス様は、幼いころから神様が喜ぶことができる立場でイスラエル民族の慕心を受けなければならず、神様の前に召命されたイスラエル民族は、忠孝の道理を果たす立場でした。しかし、イスラエル民族がそのような使命を果たせないので、腹中教を中心としてイスラエルの勝利的立場を再現し、そのことを再び推進させたのです。(一九六九.八.一〇)

        *

 本来、ヨセフとマリヤが、イエス様は神様が送られた真の息子であり、神様の王子であり、また万民のメシヤだということを知ったなら、彼が生まれたその日から、神様の王子として侍っていかなかればならないのです。

 毎日のようにイエス様に敬拝しなければなりません。王の王であり、永久に全天宙を支配することができる天の主権者として来られた方であるがゆえに、イエス様が生まれたその日から、ヨセフとマリヤは、彼に最善を尽くし、忠孝の道理を果たして侍らなければならなかったというのです。

 人間的に見れば、自分の息子に忠孝の道理を果たさなければならないという法がどこにありますか。しかし、天法ではそのようにしなければならないのです。(一九六五.一二.二六)

        *

 イエス様は、どうして父母、すなわち神様に侍ることができる天の法度を親しく教えてあげることができなかったのでしょうか。本来、堕落していなければ、神様がアダムの父母になっていたはずですが、堕落によって父子の因縁が途絶えたのです。それで、父子の因縁として、忠孝の道理を果たすことができなかったことを私たちが蕩減復帰するために、忠の道理と孝の道理の代わりをするのです。

 それまでは、神様が父母の位置で教えてあげることはできないというのです。(一九六五.一〇.一〇)



























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