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真の孝の生活
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第五章 孝行と忠誠と宗教は不可分の関係

 神様を占領する方法は忠誠を尽くす道理しかなく、父母を占領する方法は孝行する道理しかありません。ですから、皆さんは、神様の前に忠孝の道理を果たさなければなりません。(一九六四.六.一二)

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 家庭で本当の孝行をする人は、国の忠臣の道に直通します。国に本当の忠誠を尽くす人は、聖人の道に直通します。それを知らなければなりません。結論は何かというと、家庭において父母を絶対的に愛していこうという道が孝子の道であり、国のすべての国民と主権者を絶対的に愛していこうという道が忠臣の道であり、世界を絶対的に愛していこうという道が聖人の道です。

 国の国王も、聖人の道に従っていかなければなりません。絶対的に信じなければなりません。愛国者と忠臣は王に従っていかなければならず、孝子は愛国者に従っていかなければなりません。一つの道です。それでは、聖人は誰に従っていかなければならないでしょうか。神様に従っていかなければなりません。

 神様も永遠、不変、唯一の愛、この聖人も永遠、不変の愛、国王も永遠、不変の愛、忠臣も永遠、不変の愛、孝子も永遠、不変の愛であり、これは一つのコースにあります。いくら回り道して行ったとしても、この道に従っていかなければなりません。
 個人が行き、家庭が行き、氏族が行き、国が行き、すべてのものが行くので、父母にも孝行しなければならず、国にも忠誠を尽くさなければなりませんが、一度に二つともできない場合は、どちらを先にしなければならないでしょうか。孝子の道と忠臣の道の二つがある時は、孝子の道を捨て、忠臣の道を取るのが法度に準ずることだということを知らなければなりません。なぜならば、国の中には数多くの家庭が入っているからです。数多くの父母が入っているからです。(一九七八.七.二三)

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 友人たちがすべての秘密のふろしき包みを持ってきて、それを千年、万年保管しておいても、安心できる友人にならなければなりません。そのようにすることができる友人が一番の友人です。自分の妻や父母や兄弟をほうっておいても訪ねてくるような友人になれば、友人の中の代表的な友人になります。

 友人として、過去と現在と未来の代表者にならなければなりません。それから、家庭における代表者になりなさいというのです。それゆえに、父と母は、息子を自分の家庭の代表者として立てるために「孝行しなさい」と教えます。別の言い方をすれば、孝子になりなさいということです。

 それでは、情緒的に最初に一つになることができる道とは何でしょうか。孝子になる道です。天地が知ることのできる孝子の因縁をもった人は、その国を中心として相続することができる特権をもつのです。

 三綱五倫の教えとは何でしょうか。その家庭において、国が知り世界が知ることのできる孝行を尽くしなさいということです。そのような孝子は神様も御存じなので、神様は、その血統を通して国を納める人を送られるのです。
 孝子は家庭を中心として決定され、忠臣は国を中心として決定されます。忠臣とは、心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くして、主なる神様を愛した人ではなく、心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くして、自分の国を愛した人です。そのような人だけが忠臣になることができます。(一九七〇.七.一九)

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 どのような人が主人になるのかというと、一番の主人になる人は、至誠を尽くし、忠誠を尽くす人です。そのような人だけが主人となる資格をもちます。学士や博士が主人になるのではありません。

 もし学士や博士が来て働いて協助したとしても、彼らは労働者にすぎません。主人になることはできません。最後の帰結点は、知識が問題ではなく、学識が問題ではなく、その人に力量があることが問題ではありません。至誠と忠誠を尽くすことが問題です。

 昔を見てください。日本が三千万民族を掌握して思いどおりにしていた時に、柳寛順のような少女が日本人に反対したのですが、その当時で見れば、それは正常な人ではありません。しかし、彼女は、民族が忠誠を尽くすことができない時に、民族を代表して忠誠を尽くし、民族が精誠を尽くすことができない時に、民族を中心として精誠を尽くしたのです。それゆえに、私たち韓民族にとって、常に忘れることのできない思想的な指導的権限を彼女が占めるようになったのです。

 時でない時、環境ができていない時、その時と環境ができていない時だったので、その目的は、達成することができずに失敗したのですが、時と環境ができている時に精誠を尽くし、忠誠を尽くす人がいるとすれば、どのようになるでしょうか。誰かが捕まえて殺すでしょうか。どのようになるでしょうか。

 環境ができていない時に死を覚悟して忠誠を尽くした、そのような忠誠をもって、時になり、環境ができた時に立ち上がる天の子女がいるとすれば、その子女はどのようになるでしょうか。その人は、動けば動くほど、上がっていきます。その代わり、歩んでいる途中で中断してはなりません。私が生まれたのはこのために生まれたのであり、私が働くとすればこれしかないという、このような観念をもって至誠と精誠を尽くす立場で、一年を過ごし、二年、三年と過ごしていけば、その過ごす年数に比例して、その人はどんどん上がっていくのです。(一九六五.一一.二)

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 皆さんは、李舜臣や柳寛順のような人が愛国者だということを知っています。彼らがこの国の愛国者ならば、彼ら以上に忠誠を尽くそうという心はもっているのですが、今まで、そのようにすることのできる実質的基準をもつことができなかったので、今から皆さんは、忠誠の道を歩まなければなりません。

 国を取り戻すための解放の先駆者にならなければなりません。それゆえに、この道を行く所で党派的に追われ追われて、あるいは投獄されたとしても、闘争しなければなりません。この闘争において、敵対する相手が誰かということを決定していかなければなりません。これが、統一教会の行かなければならない道です。

 「自分は父の前に孝行した」と誇ってはいけません。孝は、忠の道理を果たすための一つの土台です。父に代わって忠の道理を果たし、一つの家庭の父母を中心として愛の祝福を受けることができる私にならなければなりません。

 そして、国を中心として永遠の愛を祝福してくださろうとする父の願いに、いかにして私がその基準を突破し、成就するかということが問題です。

 これを一生の事業だと考え、国民としての道理をもって、その責任と使命を果たさなければなりません。(一九七〇.二.二五)

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 おそれ多くも、天は、父子の因縁に対するみ言を私たちに提示してくださったのですが、私が、どの程度まで父に侍ったのか、どの程度の孝子になったのかというのです。

 個人的には孝子として、国家的、民族的には忠臣の気概をもって天に対さなければなりません。東洋の三綱五倫のようなものには、すべて一理があります。それを教えてあげるためのものです。天に対する忠孝も同じです。同じことです。父母に孝行することのできない者が、天の前に孝子となることはできません。

 国に対する忠臣の志操をもつことのできない者が、天の前に忠臣となることはできません。天の前でもこの世界でも同じです。心情の世界も、内容が異なっているだけであって同じです。(一九五九.七.一二)

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 愛国心は天の理想に連結されるので、本心は忠孝の道を賛美するようになっています。しかし、日本の中心と韓国の中心では、方向が異なります。

 韓国の李舜臣将軍といえば、日本では怨讐です。また、日本の伊藤博文は、韓国の怨讐です。そのようなものです。ここにおいて、韓国と日本がお互いに中心に立とうとします。ですから、偉人は各国ごとにすべているのですが、聖人はいません。

 偉人は、国を中心として愛した人であって、世界を中心として愛した人ではありません。伊藤博文が、アジアと世界をより一層愛していれば、そのような悪いことはしませんでした。(一九九二.四.一二)

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 家庭において父母に孝行するために、毎日毎日父母の考えと一致する生活をする人と、今すぐに孝行することはできないものの国を取り戻すことができる道を求めて民族の願う最善を追及し、世界のために最善を尽くそうとしながら、ある瞬間を待ち望んでいる人を比較してみるとき、今すぐには父母に孝行できなくても、未来に孝行しようという人が、この世の中においてはより必要です。このような観点から見るとき、「宗教とは、未来を追及する立場で、未来の国のために忠誠を尽くすものであり、未来の孝行の基盤を強固にするために出てきた」と言うことができます。(一九六九.一二.二八)

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 国を愛することは、国を中心としたものではありません。父母を解放しようという愛の心をもった孝子になろうというのが統一教会の思想です。国を愛する前に、父母を愛さなければなりません。孝子にならなければなりません。

 それを通って国を愛することができるのであり、国を愛することができる道を通って世界を愛し、世界を愛することができる道を通って天を…。そのようになるのです。まず、父母の前に孝子にならなければなりません。(一九八六.一.三一)

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 宗教が追求しているある瞬間、忠孝を行うことができる未来のある瞬間とは、どのような瞬間でしょうか。
 人類が共に幸福を謳歌することができ、人類が初めて希望の起点を賞賛することができ、歴史を支配される神様が喜んで誇ることのできる時です。

 その瞬間を迎えて勝利を誓い、その一瞬に自らを全天地の中心として現すために宗教が出てきた、ということだけは間違いありません。(一九六九.一二.二八)






















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