文鮮明先生のみ言集
訓教経(上)


強く雄々しくあって、失った福地を回復しよう

一九五七年六月二十三日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第二巻』


 きょう、皆さんと共に考えたいみ言の題目は、「強く雄々しくあって、失った福地を回復しよう」です。

人間堕落の結果と復帰摂理の目的

 神様の創造された園は、それ自体が福地であり、人間が永遠に楽しむことができる美の園であると同時に、永遠の幸福を享受できる園でした。ところが、人間が神様の定めた天倫の法度を破ったために、人間は怨恨が残されたままになり、彼らの当然住むべきだった福地は、「希望の福地」と化してしまいました。

 神様が被造世界を創造なさったとするならば、そこには創造理想があったでしょうし、その理想が現実に実現したとするならば、創造主はもちろん、すべての被造物までも喜びの園で楽しさを謳歌できたでしょうし、また人間も自分たちの喜びを感謝できたはずです。

 ところが、人間が堕落したために、この喜びのすべてが人間とは何らの関係もなくなってしまいました。そればかりでなく、神様と人間の前に美の象徴であった万物までも、今日まで怨恨の思いに満ちたまま、長い歴史路程を経ても、神様に感謝と栄光を帰すことができずにいるのです。

 神様には万物を創造なさった目的があり、その目的を成就すべき責任があるのですから、神様はそのみ旨を必ず成就しなければなりません。そうでなければ、神様の創造理想や復帰摂理歴史の目的も、喜びの世界を紹介するみ旨として現れることができないのです。この地に生きる万民も、生きる価値を感じることができず、全宇宙も存在価値を感じることができないのです。

 ですから神様は、創造目的を必ずや成就するために、長い歴史路程を経ながら、人間をしてこの目的を帰一せしめようと摂理してこられました。これが、六千年の果てしなく長い摂理歴史だったのです。
 アダムとエバが堕落するや否や、神様はアダムとエバを造ったことを後悔して嘆かれました。このように神様の嘆きは、あなた方の先祖によって始まったという事実を痛切に感じなければなりません。

 神様が嘆いていらっしゃるので、神様によって創造された全被造物も喜ぼうとしても喜ぶことができません。創造の中心が悲しんでいらっしゃるために、すべての被造物も悲しまずにはいられないのです。

 それでは、み旨を起こして、万民を通してそのみ旨が成就されることを願う神様が摂理する、その目的とは何でしょうか。独り悲しみ、嘆いていらっしゃる御自身の、その悲しみと嘆きを取り除いてくれる人を探すことです。これが復帰摂理の帰一点なのです。

 神様の嘆きを解怨してさしあげることのできる一人の人物、言い換えれば、六千年の果てしなく長い歳月の間神様を嘆かせてきた、人間始祖から始まる人類の罪悪歴史を食い止め、それを清算して神様の嘆きを取り除くことのできる、その一人の人物を探してきたのです。このように歴史を代表した本然の一人の人物を探し出すことが、復帰摂理の目的であるということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。

 皆さんが神様の前に立つとき、贖罪の恵みにあずかりたい心をもつことも必要です。あるいは、家庭と民族と世界の問題をめぐって贖罪の恵みを求めることも必要でしょう。しかし私たちは、自分の悲しみと嘆きを「解怨してください」とすがって哀願する段階を越え、神様の胸中に深くしみ込んだ、創造ののちに人間の過ちによって抱かされた怨恨を、解いてさしあげたいという訴えが必要であることを知らなければなりません。

 私たちをして希望の園、福地を欽慕せしめ、その園に入って、被造物の代表として父に栄光を帰すことのできる人物とは、どのような人物でしょうか。その人物は、人間が神様に対して犯したすべての犯罪を蕩減するために、悔い改めの祭物になろうと勇み立つことのできる人物であるはずです。

 さらには、その人物は、今まで人間の犯したすべての歴史的犯罪を蕩減しようとして苦労した歴史的な聖徒たちの罪にまで責任をもち、「お父様、語ることのできなかった、あなたの希望と嘆きのすべてを私にお任せください。私がお父様の望みをかなえ、あなたの嘆きを解怨いたします」と言うことのできる人物であるはずです。

 神様はこのように、本来、神様の喜びと理想と栄光の実体であった人類始祖、そのアダムの代身者たる存在が地上に現れるのを望んでいらっしゃることを知らなければなりません。

 私たちは、罪悪の歴史から抜け出さなければならない運命に置かれています。それゆえ、あらゆる罪悪と嘆きの要素を清算し、神様に向かって「これをもってして、あなたの抱いてこられたすべての怨恨を解いてください。きょう、これ以降は、お喜びくださいませ」と言うことのできる息子、娘、歴史上になかった「生きた祭物」となり得る息子、娘の現れることを望みながら、神様は今まで復帰摂理歴史を導いてこられたのです。

中心人物を立てた目的と彼らの過ち

 神様の復帰摂理歴史を回顧してみるとき、神様はアダムが堕落して以来、千六百年という長い歳月を経て、ノア一人を立てられました。神様はこのノアを立てることによって、ノアとその家庭を救おうとされ、さらにはノアをして人類を代表する祭司長の立場に立てようとなさったのです。これが、神様のみ旨でした。

 しかし、ノアの家庭は失敗してしまいました。しかし、もしもノアが、千六百年間自分を立てるために苦労された神様の御苦労を知り、神様の悲しみを感じていたとするなら、そしてノア家庭の八人家族がそのような神様の御心情を感じていたとするなら、彼らにはハムの失敗による怨恨は残らなかったことでしょう。

 個人の嘆きと苦痛から解放されるだけで救いが完成されると思っている人々がいますが、そうではないのです。私たちは個人の罪を悔い改めると同時に、宇宙的な罪悪史を清算しなければなりません。そして、サタンによって神様の胸の奥に打ち込まれた嘆きのくぎを抜き取ったあとで、「お父様、御安心ください。今日まで復帰摂理を導いてこられた神様、あなたの怨恨をお解きくださいませ。ハレルヤ! アーメン」と言うことができなければなりません。神様はこのような勝利者が地上に現れることを、モーセ以降今日まで願っていらっしゃるのです。

 ノアの家族は、洪水審判で贖罪されたので感謝の生活をしなければならなかったのですが、習慣的な生活を繰り返しました。ですから、天倫に対して立ち上がった私たちも同様に、こういう過ちを犯しやすいのですが、私たちは自らの習慣的生活を繰り返す人になってはいけません。

 自分と家族を救ってくださった神様に、いつも新たに接するノアとなり、全人類がそのような心をもつようになる日を願いながら、父の心情を直視して立ち上がったノアになっていたなら、また神様の前に絶対的信仰を立てるノアの家庭になっていたなら、第二の堕落を成立させるような過ちは犯さなかったことでしょう。

 神様はノア家庭が失敗して以来、四百年ぶりにアブラハムを選ばれましたが、アブラハムもまた過ちを犯しました。そのため、イサクを通した祭物の条件を経てヤコブの代になり、ようやく祝福を成し遂げることのできるヤコブの二十一年路程が始まるようになったのです。

 皆さん! 二十一年間も人知れず悲しい心情を抱いたまま、ハランの地で羊を追いながら作男暮らしをしていたヤコブの事情を推測してみてください。神様がヤコブを召命した目的は、アブラハムに祝福なさったみ旨をヤコブを通して成就させることでしたが、さらには、神様と人間の間に立ちふさがった嘆きと怨恨を、解怨させるためでした。このことを、選ばれた人間たちは知らなかったのです。

 ハランで二十一年路程を終えて帰ってくることにより、ヤコブは一代復帰の基準を立て、その基準で神様の内的心情を解怨できる勝利の土台を整えました。しかし、アブラハムが失敗した条件によって、ヤコブの後孫たちは四百年間エジプトで苦役に遭うようになったのです。

モーセとイエス様の使命とユダヤ民族の不信

 私たちは、神様が摂理のみ旨を立てられ、二千年の間ありとあらゆる苦労を通過しながら探し出した一人の人物がヤコブであった、ということを知らなければなりません。ヤコブ以降四百年の歴史路程を経て、神様は、ヤコブの立てた一代復帰の基準の上に民族復帰の中心人物としてモーセを立てられました。このようにして、長い歳月の間摂理してこられた神様の全体摂理の結実体として、モーセが探し出されたのです。そのため、モーセが責任を完遂すれば人間はもちろん、神様の中にたまった怨恨まで解かれるようになるのです。モーセは、こうした条件的立場で民族の代表に立てられたのです。

 モーセは、神様が全歴史を摂理されて得た結実体であり、民族にとって換えることのできない存在でした。このように選ばれたモーセは、歴史的な怨恨を蕩減すべき責任が自分にあるということを感じて、神様のすべての悲しみを解かなければならず、民族的な悲しみにも責任を負わなければならない立場にありました。

 それゆえ彼は、パロ宮中生活の四十年、ミデヤン荒野四十年、合計八十年の間精誠を尽くしながら、先祖から受け継いできたイスラエル選民権を失わずに志操を立ててきました。

 モーセは、パロを相手にして闘ったその当時も、天の願いであるみ旨のみに対することのできる志操をもっていました。また、モーセは民族にとって換えられないほどの資格を備え、サタン側と対決できる資格を備えましたが、彼の代身者となり得るイスラエル民族になれなかったために、神様がパロをかたくなにされたことは、あなた方もよく知っているはずです。

 それでは、モーセに接するイスラエル民族は、どのような心情をもつべきだったのでしょうか。彼らは、神様が数千年間苦労し、また先祖たちが数千年間努力し、何もかも与え、何もかも犠牲にして探し出され、立てられた一人の中心人物がモーセであるということが分からなければならなかったのです。イスラエル民族は、神様がすべてを犠牲にし、その代価として探し出されたのがモーセであるということが分かりませんでした。それゆえ荒野で、六十万の民衆が倒れるようになったのです。

 もしイスラエル民族が、国家と世界を代表して立てられたモーセ個人の価値を民族全体の価値として、あるいは人類全体と同等の価値として感じ、彼と一つになっていたなら、その民族は荒野で倒れはしなかったでしょう。

 モーセ以後、数千年の歴史を経ながら預言者たちがこの地上に送られた目的、また世界を代表してイエス・キリストがこの地上に来られた目的とは何かといえば、神様の御苦労と嘆きを代わりに負うことであり、人間と万物の嘆きを代わりに負うことであったのです。ところで、どこの誰が、イエス様が万民を代表して現れた条件的な方であることを知っていたでしょうか。イエス様が、四千年間嘆いてこられた神様に代わって、サタンに対して勝利の条件を立てる方だということを誰も知らなかったのです。

 それでは、今日あなた方が求めるべきこととは何でしょうか。神様の嘆きと人間の嘆き、そして万物の嘆きを解怨してあげられる、その一人のお方を求めなければなりません。そうして皆さんがその方と一体の関係を結ばなければならないのです。もしそういう者になれなければ、皆さんから希望も、神様の栄光も見いだすことはできません。

 このような使命をもって来られた方がイエス様だったのに、神様が四千年の間苦労して選んでおいたイスラエル民族、ユダヤ教団は、どうしたのでしょうか。神様の名前を呼びながら、「神様のためだ」と言う彼らが、来られたメシヤ、天と地にたまった嘆きを解怨する一つの中心を不信して、その方の前に罪悪の反旗を翻した事実を皆さんは知らなければなりません。

 イエス様が来られるまでの悲しい歴史と、この悲しい歴史を解怨しなければならない天倫の内容を知っていた民だとするなら、イエス様を十字架にかけはしなかったのです。また、イエス様が十字架にかけられるようになったときに、右側の強盗がイエス様を神様の息子として証すのではなく、そばで仕えていた聖徒たちがイエス様を証して助けなければならなかったのです。ところが、当時そのような責任を果たした弟子がいなかったために、今日私たちがそのような責任を果たさなければならないのです。

 今日まで神様は、人間の嘆きを解怨し得る一人の方をこの地に送るために苦労され、人間はそういう方が現れることを望んできました。これが、神様の摂理歴史であると同時に人類歴史なのです。

 今日こういう使命的な摂理観から見るとき、モーセは、エジプトからイスラエル民族を率いてカナンの地に入っていき、カナン七族を滅ぼさなければならない運命に置かれていました。また、イエス様はモーセが立てたその民族復帰の基台の上に世界復帰の目的を完遂するために来られた、ということを知ることができます。

 今日、砂漠や荒野のようなこの地、パロ宮中のようなこのサタン世界にも、そういうイエス様のみ旨が現れているのです。しかし、イスラエル民族がモーセを指導者として完全に立てることができなかったために、モーセと共に神様の権能をもってヨルダン川を渡り、カナン七族を滅ぼして天国を建設しなければならないにもかかわらず、それができずに荒野にとどまるようになりました。それと同じように、今日、天国を建設する使命を十分に果たせない人は、カナンの地に入っていくことができず、荒野にとどまるようになるという事実を、キリスト教徒たちは知らずにいます。

 それでは、荒野路程にあったイスラエルの六十万の民衆が、モーセと一つになれなかった怨恨の条件とは何だったのでしょうか。それは、イスラエル民族の中に、怨讐の懐で暮らしていたエジプトでの生活を懐かしがる群れが現れて、モーセの行く道を遮り、天倫の道を遮ったことだったのです。

 初め、モーセを先頭にしてイスラエル六十万の大衆がアマレクと戦う時には、モーセが手を挙げればイスラエル民族が勝ち、モーセが手を下ろせばイスラエル民族が敗れるようになり、モーセと人々は一体の関係を成しましたが、あとで変わってしまったのです。

モーセとイエス様が直面した苦難と試験

 歴史的に考察してみれば、神様のみ旨を掲げて歩んでいく人は、まず見えないサタンとの闘いがあり、次に見えるサタンとの闘いがあります。その次には物質の困窮を通じた闘いがあるのです。そのためにイエス様にも、パンで試練を受ける個人的な試練があり、次に聖殿を中心とした環境的な試練があり、また山頂に立てられ世界をめぐっての象徴的な試練があったのです。このようなことが、闘いがなければならない原則のもとで現れるようになりました。

 それでは、神様のみ旨を掲げて歩んでいたモーセは、いかなる心をもっていたのでしょうか。彼も神様のみ旨を掲げるために怨讐と闘うことができる心、そして荒野に出ては、アマレク族と戦うことができる心、飢えと闘うことができる心、死を覚悟して堂々と出ていく勇気がありました。

 モーセは、パロ宮中生活四十年、ミデヤン荒野四十年、合計八十年間をサタンと闘い、自分自身と闘い、飢えと闘いました。そういう闘いに勝利したとき、神様はモーセを召命されたのです。

 このような道を行った者はモーセだけではありません。イエス様もそのような道を行かれたのです。そのため、イエス様御自身においても、サタンとの対決を象徴するサタンの試練がありました。まず自分自身を克服するために、自分自身を一つの供え物にして飢えと闘った四十日の断食期間がありました。その次には物質の条件を越えるために、「石をパンにかえよ」という試練がありました。

 なぜイエス様がこういう過程を経なければならないかというと、人間が堕落したことにより神様を失い、息子、娘の威信を失い、万物を失ったために、これらを再び捜し出すための条件が必要だったからです。

 そのため、今日聖徒たちが歩む路程にも、個人や民族、国家、世界を問わず、悪の世界を代表するサタンからの試練があります。また、神様の息子、娘の栄光ではなく、十字架の路程が残っています。その次には万物を失ったために、飢えの苦難を経なければならないのです。

 エジプトにあったイスラエル民族は、モーセのような心であったので団結してサタン的な試練を撃退しましたが、彼らがイスラエル民族を代表する立場で荒野に出てアマレク族と戦う際には、飢えにも直面するようになりモーセを恨むようになりました。

 彼らがモーセを恨むようになったその原因とは、どこにあったのでしょうか。何ゆえに恨むようになったのでしょうか。彼らが荒野で生まれ、そこにとどまりながら神様のみ旨に対していたなら、モーセを恨まなかったでしょう。しかし四百年間エジプトで生活してきたその習慣、彼らの生活的な環境が荒野で引っ掛かるようになったのです。今日皆さんは、これを肝に銘じなければならないのです。

 別の言い方をすれば、モーセを信じて出発したイスラエル民族であったのに、彼らは出発する前の生活環境に対する未練を捨てることができず、滅びるようになったのです。また、それがモーセの進む道を破壊してしまい、モーセとイスラエル民族を分離してしまったのです。

 ですから、今日世界カナン復帰の全体的な理念を掲げて歩む第二選民、すなわち世界的なイスラエルを代表する全世界のキリスト教徒たちは、第一イスラエル民族が経た苦役時代のような時代に直面したとしても、神様の選民らしく志操を立てなければなりません。同時に彼らは、民族に代わって一人で現れた指導者の立場をくみ取ることができずに、四十年荒野時代において飢えに直面し、すべてを恨み不信して滅びたイスラエル民族の二の舞いを演じてはならないのです。

 イエス様の前途を台無しにしたのは誰だったのでしょうか。それは、神様のみ旨に代わり、歴史性の代わりに、全体の価値の代わりに選ばれた民族でした。彼らは、神様のみ旨を成し遂げるための生活をしなければならず、そこに信仰の基準を立てなければならなかったのに、そのようにできませんでした。すなわち、モーセのみ旨を担うべきイスラエル民族が、彼を荒野で倒れさせたのと同じように、イエス様のみ旨を担うべきイスラエル民族が、イエス様を信じず、十字架にかけて殺してしまったのです。

 ですから、モーセのみ旨をヨシュアとカレブが引き継いで、二世たちを連れてカナンに入っていったように、今や第二のヨシュアとカレブがイエス様のみ旨を引き継いで、第二の使徒たちを連れて世界的なカナンの福地に入り、地上天国を建設しなければなりません。これが、イエス様の望みであり、再臨理想なのです。

 そのため、今日み旨のために召命され選ばれた私たちは、このような歴史的な事実に対する摂理的な意義を知って、民族的な犯罪を再び犯してはならないのです。イスラエル民族が歩んだ犯罪の行路を、再び歩んでいく皆さんになってはならないというのです。

◆再び来られる主とキリスト教徒の使命

 それでは、私たちはどのようにしなければならないのでしょうか。終わりの日に来られる主は、六千年間神様を嘆かせた条件を取り除き、数多くの聖徒たちの信仰の目的を達成するために来られるということを知らなければなりません。そして、イスラエル民族が最初にモーセを迎えたときに、自分たちの所有するものをすべて捨てて出発したように、荒野に出ても自分たちのすべてのものを忘れて、モーセだけを信じて従っていたなら、彼らとモーセは分かれるようにはならなかったのです。

 今日、理想の園を望みながら再臨のその日を迎えるために準備している私たちが、まずもって備えるべきものがあるとすれば、それは何でしょうか。それは、来られる主は、六千年の間神様が苦労し、先祖たちが苦労したその結実として探し出される方である、ということを肝に銘じることです。

 その方がもし、この地に来られたならば、私たちはどのようにしなければならないのでしょうか。喜んで世の中のすべてをその方に捧げ、その方だけを歴史を代表する存在として、罪悪の歴史を終結させ得る存在として、神様の代身として、侍ることのできる心を備えなければなりません。

 世界のキリスト教徒たちがそういう心をもたないならば、神様が数千年間苦労して立てられたモーセが荒野で倒れることによって怨恨が残るようになったのと、同じ結果になるというのです。したがって私たちは、再び来られる主のために苦労することができる者にならなければなりません。

 このような立場に置かれている今日の私たちは、カナン福地を望みながら歩んでいたモーセが死んだのちに、彼の後継者として立てられたヨシュアとカレブの使命を、歴史的な立場で引き継いでいるということを肝に銘じなければなりません。すなわち、イスラエル六十万の大衆を率いてカナンの地に入っていくことによって、数千年間この地にこびりついた神様の怨恨を解いてさしあげ得る祭物的な条件をもって立ち上がった、ヨシュアのような人にならなければならないのです。

 今日、私たちがヨシュアとカレブと同じような決心と覚悟をもたなければ、荒野で流浪しているイスラエル民族を収拾してカナン福地に入っていくことはできず、聖殿理想を完成することはできないのです。皆さんはこれから、神様の愛と怨恨を知ったことによって、祈る目的が変わらなければなりません。

 また、神様がモーセと不信するイスラエル六十万の民衆を荒野で一掃し、ヨシュアとカレブを立て二世たちを連れて再びカナンに向かわせた、その心情を知る者とならなければなりません。

 皆さんは今いかなる段階に到達しているかというと、先祖たちが苦難を受けて歩んできた六千年の歴史を踏み台として、審判の旗を高らかに掲げるべき立場に到達し、また、イスラエル民族に向かって「ヨルダン川を渡っていこう」と号令をかけたヨシュアとカレブの使命を代行しなければならない位置に来ているのです。

◆強く雄々しくあれ

 それでは、私たちがそういう責任と使命を引き受けようとするならば、神様は私たちに何を強調されるでしょうか。神様が荒野でモーセの使命を引き継いだヨシュアに、「強く雄々しくあれ」と言われたのと同じように、私たちにも「強く雄々しくあれ」と強調なさるはずです。これから私たちは、世界的カナン福地を見つめ、そこに入っていくことを願いながら荒野にいるという事実を知り、ヨシュアとカレブのような心と体にならなければなりません。

 すると今日、世界的なキリスト教徒たちはどのように生きなければならないでしょうか。ヨシュアとカレブのような存在が現れて、この地上のキリスト教を導いていくことを天の前に訴えなければならないのです。中心を失い混沌と混乱を起こしているこの荒野時代で、これを収拾していく方向を提示できるヨシュアとカレブのような存在が現れなければならない時になったのです。このことを今日、キリスト教徒たちははっきりと悟らなければなりません。ここでは、自らの教派が問題ではありません。私たちはそのことを知らなければなりません。

 ヨハネの黙示録第十一章では、二本のオリーブの木に対する預言をしています。これは何を意味しているのでしょうか。世界的なカナン復帰の路程を出発するのに先立ち、ヨシュアとカレブのような存在が現れることを予告しているのです。モーセの代わりに現れたヨシュアとカレブがユダヤ民族を導いてカナンの地に入っていったのと同じように、今日にもイエス・キリストの福音をもったヨシュアとカレブのような人たちが現れて、神様の民を率いて世界的なカナン福地、新しい希望のカナン福地に向かうようになるでしょう。

 またヨシュアとカレブに従ってカナンに入っていった群れが、カナン七族を滅ぼしたように、皆さんにはサタンを滅ぼさなければならない責任があるのです。そういう天の勇士になり、そのような路程を歩むべき責任が、皆さんにあることを肝に銘じなければなりません。

 そして、新しいみ言を主張するヨシュアとカレブがこの地のどこに現れようとも、人々の心の扉を開いて、み言を聞かせ、天のために生きられるようにする私たちにならなければなりません。
 ヨシュアとカレブの行く道は、冒険の道でした。彼らが歩いた道は、難しい開拓の道であり、闘いの道でした。行く先々で開拓者の使命を果たさなければならない、厳しい道でした。時には個人的に、あるいは環境的にぶつかってくる試練と闘わなければならない路程が、彼らにはあったのです。

 モーセがイスラエル民族を率いてカナン福地に向かって出発しようとする時、パロ王がモーセを殺そうとし、イスラエル民族の中にもモーセを不信して反対する人が多かったのと同じように、ヨシュアとカレブの時にもそのようなことがありました。このようなことをよく御存じの神様は、ヨシュアとカレブに「強く雄々しくあれ」と語られたのです。「強く雄々しくあれ」、このみ言は何を意味しているのでしょうか。それは、「人間的なすべての条件を乗り越えなさい」という意味です。

 それで、イエス様も三大試練を通して、人間的なすべての条件を乗り越えて勝利されました。したがって、二千年が過ぎた今日の皆さんも、人間的なすべての条件を乗り越えていく途上において、強く雄々しくなければなりません。

 ヨシュアは個人の闘いの路程から最後の瞬間まで、勝利の路程を歩まなければならないモーセの代わりの立場に立てられたために、神様は彼に「強く雄々しくあれ」というみ言とともに「対する個人を怨讐と思い、対する民族を怨讐と思い、対する土地を怨讐の土地だと思え」という忠告のみ言を語られたのです。

 今日、ヨシュアのような立場に立つ私たちであろうとするなら、私たちにも行く先々で個人的な怨讐があることでしょう。環境も私たちを打ってくるでしょう。民族も、国家も私たちを打つでしょう。しかし、選ばれた私たちが団結し、死ぬ覚悟で最後まで闘う第二のヨシュアとなり、死ぬ覚悟でイエス・キリストに従い、世界のキリスト教に責任を負うことができる聖徒たちになるならば、私たちは目の前に展開するいかなる闘いの道も乗り越えることができます。それゆえに神様は、私たちが強く雄々しくあることを願っていらっしゃるのです。

 それでは、私たちは自分自身においてどのようにしなければならないでしょうか。まず強く雄々しくなければならない立場にある私たちは、自分自身を正しく見つめることができなければなりません。自分に間違った点があれば、自ら批判することができなければなりません。また、三十年あるいは四十年の生涯を経た自分であるとだけ考えてはいけないし、現在生きている自分ということだけを考えていてもいけません。

◆人間の存在意義と使命

 それでは、私たちはどのような存在でしょうか。私たちは、今日の私が存在するようになるまでに神様が六千年の間、世界的な闘いを経て苦労されたことを知らなければなりません。このような神様の苦労により、探し出された自分なのです。したがって皆さんは、育ててくださった神様の恵みを忘れてはなりません。また、皆さんは神様の苦労を代わりに負った祭物であるということを、自ら感じることができなければなりません。

 そして、皆さんが存在するようになるまでには、皆さんを探し立てるために苦難の道、険しく厳しい闘いの道を経てこられ、語ることのできない神様の怨恨と嘆きがあったということと、数千、数万の先祖たちの血の犠牲があったという事実を知らなければなりません。それだけでなく、私たちを救うために苦労された神様の愛の心情を感じることのできる息子、娘にならなければなりません。

 今後は、神様に祈祷するならば、「六千年前の父の御心情と六千年後の今日の父の御心情の分かる私たちにならせてください。そしてお父様の代わりをすることができる私たちとならしめてください」と祈祷することができなければなりません。また死のうが生きようが祭物になるという心の誓いがなければならないし、「既に祭物として捧げた私たちですので、お父様、あなたのみ意のままになさってください」と祈祷することができなければなりません。

 数千年の歴史を経てきながら、私たちの先祖たちは血の祭壇を築いてきました。イエス様も十字架の祭物として亡くなられ、イエス様以後二千年間、キリスト教徒たちも血の祭壇を築いてきました。したがって今私たちは、そういう祭壇の基台の上にある自分たちであることを悟らなければなりません。

 そのような立場で父を呼び、父の声を聞くことができ、神様に代わって人類を救うために父の前に訴えることができなければなりません。また六千年歴史を摂理してこられた神様の切ない心と怨恨を知って、神様を慰労してさしあげる子女にならなければなりません。このようなすべてのことは、皆さん自身が判断しなければならない問題です。

 こういう立場にある私たちは、これからどのようにしなければならないでしょうか。神様の救援摂理歴史を終結するために、数多くの先祖たちが立ててきた伝統を敬わなければならないし、神様が働かれる条件を破滅させようとする怨讐サタンがいるということを感じて、サタンを退けるために塵ほどの細胞の一分子までも動員させるという責任を感じる息子、娘にならなければなりません。

 このような立場で私たちが神様を呼ぶならば、神様は昔モーセだけに接した神様ではありません。イスラエルだけに接した神様でもありません。今日私たちとも共にいらっしゃる神様であるということを悟るようになるでしょう。その神様は、天地万物を創造された神様であり、歴史過程において先祖たちに接した神様であり、今日私に接してくださるべき神様なのです。

 特に神様は、イエス・キリストがゲッセマネの園で最後の勇断を下し、一つの祭物として自らを捧げようとしたときには、共にいてあげざるを得なかったのです。そして万民を愛されたイエス様の犠牲精神が、後世の人間たちに一つの伝統として引き継がれることにより、キリスト教の復興が起こりました。

 それでは今日、四千年歴史を代表したイエス様が残した真理のみ言を信じている聖徒たちは、これから先、どのようしなければならないでしょうか。サタンの鉄条網の中に捕らわれている人類を救うことができる、天の勇士としての姿を備えた息子、娘とならなければなりません。また、神様のみ旨を正しく悟り、昔イスラエル民族が神様のみ旨を悟ることができず、荒野でサタンの餌食になった二の舞いを踏む人になってはなりません。

 皆さんは、モーセが神様の前に再び立つ時まで荒野で四十年の間精誠を尽くした、その志操を信仰の根としなければならないし、イスラエルを代表して八十日間神様に取りすがり訴えた、その粘り強く強靭なモーセの性稟を見習わなければなりません。また、第二イスラエル選民圏を代表し、世界カナン復帰の理想を成就しなければならない再臨の宗族であるということを知らなければなりません。

 こういうことを考えて、「お父様! 六千年の摂理過程に現れた全体の闘いが私の身に現れるとしても、私は乗り越えていきます」と誓っていくことができなければなりません。それだけでなく、六千年の間に天のみ旨を立てるため死の峠を越えてきた先知先烈たちの代わりとなり、この地を支配しているサタンの群れに向かって、「私は爆弾だ。お前たちの胸を爆発させてやるぞ!」と叫ぶことができる者にならなければなりません。

 このような観点から私たちは、神様がヨシュアに「強く雄々しくあれ」と語られたみ言を私たちの教訓としなければなりません。イスラエル民族がそのみ言の意味を悟ることができなかっために、カナンの地に入ってからも十二支派を中心として再蕩減の歴史を経なければならなかったのです。そのために、今日の私たちがそういうヨシュア的な責任を果たすことができないならば、天国理念を建設するためにこの地にやって来られる主も、皆さんと共に受難の道を行くしかありません。

◆神様の福地に対する希望

 皆さんが強く雄々しい心で六千年の摂理歴史に代わって死ぬ覚悟で、怨讐たちと一大決戦をして勝利するようになれば、どのようになるでしょうか。その時初めて、天地が和合する一日を迎えるようになり、数千年間先祖たちが天に対して血の訴えをしたその怨恨が解かれるようになるのです。また創造主の喜びが現れて、永遠不変の神様の愛の圏内で数千万の聖徒たちが楽しみ、地上にいる万民たちが楽しむようになるというのです。それだけでなく、神様も皆さんをサタンの前に立てて自慢し、皆さんの先祖たちも皆さんを立てて自慢し、皆さんも兄弟になってお互いに自慢できるようになるのです。

 したがって、神様に「彼はあなたの息子ですから彼を愛してください」と言うことができる一人の存在が、皆さんの中から現れなければなりません。真の真理によって、そのような一人の存在がこの地上に現れないならば、人間の喜びも成り立たないのです。これを皆さんは肝に銘じなければなりません。

 今日私たちがその日のために、六千年の怨恨の罪悪史を清算して「天よ、私を見てお喜びください。私を見て怨恨を解いてください。私を見て、六千年の嘆きを忘れ、創世以後、初めて笑うことのできる一日をお迎えください」、また「霊界に行っている先祖たちよ、天が喜ばれるので私たちと共に和動してください」と言うことができる存在になってこそ、許された世界的なカナン福地を回復することができるのです。そうして、堕落による六千年の怨恨をサタン圏内に受け渡し、人類に神様の愛を紹介できる私たちにならなければなりません。

 そういう者になってこそ、世界的なカナン福地でイエス・キリストの代わりをすることができ、七十門徒を代表し、神様が探そうとする息子、娘になり、神様が喜ぶことのできる息子、娘になり、神様が喜ぶことのできる家庭になり、神様が信じることのできる民族になり、神様が信じることのできる国家へと回復できるのです。ここから永遠な幸福の園、理想の福地が建設されるのです。これを皆さんは、はっきりと分からなければなりません。

 今日この時代は、六千年摂理歴史を終結しなければならない時なので、最後の勇断を下し、み旨に向けて前進しなければなりません。後ろを振り返る人になってはいけません。ソドムとゴモラが滅亡する時、ロトの妻は昔の故郷での家庭生活が懐かしく、隣に住んでいた友人たちが懐かしく、そこの環境と習慣が懐かしくて後ろを振り返ったために、途中で塩の柱になってしまったのです。

 エジプトを離れてモーセに従ったイスラエル民族も、荒野に出て苦労をするや否や、昔のエジプトを懐かしがり、カナン福地に入ることができずに途中で倒れてしまいました。彼らが荒野に出て、泊まる所も食べる物もなくなると、「エジプトにいたならもちも食べ、時々肉も食べていただろうに」と言いながらモーセを恨んで、彼に不平と不満を吐露したのです。その時イスラエル民族の中で、そのように過去を思い返しながら不平を言っていた者とは誰だったのかというと、エジプトにいる時に富裕であった者であり、人を支配していた人たちでした。

 ですから今日、皆さんはそういうイスラエル民族の前轍を踏んではなりません。これを教訓として、皆さんはこの瞬間に何を見つめなければならないでしょうか。皆さんが住んでいる家ですか。皆さんがつき合っている友達ですか。皆さんの家と友達は、皆さんが見つめなければならないものではありません。皆さんがとどまるべき家があるとするならば、それは荒れ地にある家であり、皆さんの友達がいるとするならば、それは荒れ野で流浪している兄弟なのです。

 ですから、皆さんは天のみ旨に向けて行くにおいて個人から家庭、社会、民族、国家に至るまですべてを聖別し、この世的な部分はみんな捨て、天のものとしてすべて置き換えていかなければなりません。すなわち、私の世俗的な部分を捨てて天の私を取り戻さなければならないし、家庭の世俗的な部分を捨てて天の家庭を取り戻さなければならないし、宗族の世俗的な部分を捨てて天の宗族を取り戻さなければなりません。民族の世俗的な部分を捨てて天の民族を取り戻さなければならないし、国家の世俗的な部分を捨てて天の国家を取り戻さなければならないのです。そういうものを取り戻すために皆さんは強く雄々しい心で、力を尽くし思いを尽くして前進しなければなりません。

 そういう者ならば、個人を取り戻す際に個人が倒れても感謝でき、民族、国家を取り戻す際に民族、国家が倒れても感謝できる志操をもった天の息子、娘になれるでしょう。

 今日私たちは、このような覚悟で個人に対して闘うことができ、家庭、国家、世界に対して闘うことができ、この地上のサタンに対して「退け!」と言うことのできる勇猛心を備えていかなければなりません。

 天に向かった志操をもち、生涯路程の終わりまで進んでいく者がいるならば、彼は死んでも復活してその福地に現れて栄光を享受するでしょうし、もし死ななければ第二イスラエルとして許された福地の園に住むことができるでしょう。これをきょう、皆さんが肝に銘じるように願います。






















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