文鮮明先生のみ言集
訓教経(上)


真のお父様の真の息子、娘になろう

一九五七年九月十五日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第三巻』


 きょう、皆さんにお話ししようとするみ言の題目は「真のお父様の真の息子、娘になろう」です。

◆人間に対する神様の望み

 万物を創造された神様は、堕落したこの世界をお捨てになることができず、今までサタンとすさまじい闘いを展開されながら、独り責任を負ってこられました。

 このような神様が望まれる最高の目的とは何であり、何を願っていらっしゃるのでしょうか。また、今まで数多くの悲しみの歴史過程を経てこられながらも、人類をお捨てになれず、抱いてこられた内容とは何でしょうか。それは神様が人間に対して、「お前は私の実の息子、娘だ」ということです。このような理想を実現するために、神様は今まで闘ってこられました。

 神様の善の園で、神様の栄光の中で、神様の愛を中心としてすべての万物が和動する中で、万物の主人の資格を備えて、神様の前に「我が父よ! 栄光をお受けください」と言うべきアダムが堕落することによって、そのような価値を喪失しました。それで神様は創世以後、本然の息子、娘が現れて「父よ」と呼ぶその一声を聞きたいと思っていらっしゃることを、皆さんは知らなければなりません。

 今日、私たちが呼んでいるその「父」は、罪悪の立場から呼ばれるそのような父ではありません。ですから、私たちは罪悪の世の中から抜け出し、善の理想の園に入らなければなりません。この理想の園とは、人間たちが神様の栄光を現すことができると同時に、喜びに陶酔して生きることのできる世界です。

 言い換えれば、人間が動ずれば万物が動じ、人間が静ずれば万物が静じ、人間と万物が動じ静ずると同時に、創造主、神様も動じ静ずることのできる世界です。そればかりでなく、相対的な神様と人間の関係を超越して、一致することのできる理想の園なのです。

 神様は人間たちがこのように御自身と一つになることを願われ、一つとなった中で素晴らしい愛を中心として喜びに酔うその一場面を描かれながら、そのような世界を創造してこられたのです。ところが人間たちが堕落することによって、これが自分たちの怨恨となると同時に、天倫の怨恨となり、堕落以後今日まで、この怨恨に怨恨を重ねる悲しみの歴史をたどってきたのです。

 では神様が今日、この地に対されて、摂理される最大の希望とは何でしょうか。それは堕落の父母をもっている人類を再び神側に立て、「私はあなた方の永遠の父であり、あなた方は私の永遠の息子、娘だ」と呼ぶことです。そうすることのできる日を迎えることが、堕落した人間たちの歴史的な望みであり、天倫に対する天的な望みです。

 今日自らを反省し、天倫の前に自分たちを立てて推し量ってみるとき、今まで神様の愛を中心として和動したことがなかったと感じることでしょう。また、お父様の前に真の息子、娘として「父よ!」と言えなければならず、天の主管を受ける生活をしなければならなかったのに、自らはそうできなかったと感じることでしょう。

 今、私たちはある一時、ある時間を中心として、神様に対して「我が父よ!」と呼びながら自らを変え、お父様の心情を誘発させ、愛を中心として神様と新しく父子の関係を結ぶ立場にまで行かなければなりません。

◆神様の悲しみと嘆息の原因

 このようなことを人間たちに体 恤させ、人間たちと父子の関係を結ぶために苦労していらっしゃるお父様であられることを、皆さんは心において、生活において感じなければなりません。私たちの最後の望みとして残っていること、すなわち神様の恩賜の中で私たちが召命を受けることも、何を基準としてなされるのでしょうか。

 それは創造の理念である神様と人間の父子関係を回復するために、地上でどの程度実践したかにかかっています。私たちの生活圏で、どの程度実践したかによって、自分たちの価値を見いだすことができるのです。

 また、神様がこの地に対して悲しんでいらっしゃるのは何ゆえでしょうか。神様が地上に対して嘆息されているのは何ゆえでしょうか。神様はサタンのゆえに悲しまれているのではありません。悪が憎いからといって悲しまれ、罪人が多いというだけで嘆息されているのではありません。

 本当の神様の悲しみと嘆息は、神様がいまだに人間たちに対して「私の愛する息子、娘たちよ」ということが言えず、その息子、娘たちが「私の父よ」と呼ぶのを聞くことができないところにあるのです。歓迎され得る環境を備えられないことが、神様の本当の悲しみであることを、皆さんは知らなければなりません。

 今日、私たちは神様に対して、「お父様」と呼んでいます。ところが、私たちの呼ぶ「お父様」の中には、真のお父様もいて、偽りのお父様もいるのです。なぜそうなったかといえば、人間が堕落したからです。

 人間たちが呼ぶべき本然の真のお父様は、永遠なる生命の主人であり、理想の中心であり、人間のすべての幸福の中心であられます。ですから、私たちが、私たちの心に侵犯してくる悪を断ち切って、心おきなく「お父様」と呼ぶことができ、お父様のみ旨を行うようになれば、天国は別途に必要なものではないというのです。ところが、人間が堕落することによって、これを失ってしまったのです。ですから、堕落した人間は必然的に本然の真のお父様を求めていくべき運命の道に置かれているのです。

 では今、皆さんがどのような価値的な内容をもってお父様と呼ぶのかということを考えてみなければなりません。そして自分が呼んでいるお父様とは、どのようなお方かということも知らなければなりません。

 私たちが真のお父様と呼ぶそのお父様は、六千年の間、お休みになることもできずに闘ってこられたお父様であられ、摂理歴史を経てくる間、数限りない苦難の峠を耐えて越えられながら、今日の私一個体を復帰するために苦労されたお父様であられるのです。また地上に生きているいかなる人間も感じることのできない、最大のつらさと悲しみを感じていらっしゃるお父様であることを、皆さんは悟らなければなりません。皆さんがこれをどの程度に実感しているかが、何よりも重要だということを知らなければなりません。

 真心を込めて「お父様」と呼ぶ人がいるなら、彼は神様のつらさと悲しみを感じることでしょう。また、神様の悲痛さがその人間に伝わることでしょう。ですから、神様と人間の間で心情が交流し、天倫の大理念を成就するために自分一身を越えるとき、初めて神様と私たちは生命を中心として永遠の因縁を結ぶことができるのです。皆さんはこのような境地を経験しなければなりません。

 現在の皆さんは、神様と完全な関係を結べずにいるということを感じることでしょう。しかし神様と私たちとは心情的に、また事実的に永遠なる因縁が結ばれています。そして私たちは、その因縁を逃れようにも逃れることができません。皆さんはこのようなことを感じながら、真の息子、娘の立場で「お父様!」と言うことのできる一時を願い、進んでいかなければなりません。

 人間たちが真の息子、娘の立場で「お父様」と呼ぶことが人類の望みであり、すべての万物の願いであり、神様の願いなのです。ですから、私たちはこの地上で神様の真の息子、娘として、復帰の運命を打開していかなければならないのですが、ここで私たちがただ一つ望むことがあるとするなら、真の愛を中心として神様と父子の因縁を回復することです。

 皆さんは神様の切ない事情とつらさがこの地上に染みわたり、神様の悲しみがこの地上に満ちあふれるほどに残っていることを感じ、お父様の立場で復帰の祭壇を積まなければなりません。

 では、神様の息子の立場を復帰すべき皆さんはどうすべきでしょうか。お父様を愛さなければならず、お父様の事情をお父様の代わりに心にかけながら、真心から心情が交流する中で「私のお父様」と呼べる時まで努力しなければなりません。

 人々が呼ぶ「お父様」の中には「他人のお父様」もいて、「義理のお父様」もいて、「真のお父様」もいます。今日、信仰する人々は、神様に向かって「お父様」と呼んでいますが、そのお父様が「真のお父様」ではなく、「他人のお父様」や「義理のお父様」の立場である場合が多いというのです。このようなことは神様の願いではありません。

◆人間の存在位置と責任

 人間に対する神様の願いは、すべての復帰の条件を越えて神様に対して「真のお父様」と呼ぶことのできる一日を実現することです。神様はこれを六千年間も願ってこられたのです。

 ですから皆さんは、神様が地に対して苦労していらっしゃるということを知らなければならないし、地のためにこの上なく悲惨な峠を越えられ、闘ってこられたということを知らなければなりません。今、私たちはそのようなお父様に侍って生きなければならないし、また永遠なるお父様のみ前に、怨 讐の立場で、自分自身のためだけの生活をしていないかと、反省してみなければなりません。

 六千年の天の苦労の末に見いだされた皆さん! 皆さんは真のお父様の息子、娘として、お父様の遺業を受け継ぎ、いつまででもサタンと闘うことのできる天の身代わりになろうという心をもたなければなりません。また、このために自らをお父様の前に差し出し、新しい使命を引き継ぎますと言うことができなければなりません。そして皆さんは、いつでもお父様の足取りが心の中に浮かばなければならず、お父様の苦痛と気掛かり全体に責任をもてないとしても、お父様に心で侍ることができなければなりません。

 では、神様の怨恨とは何でしょうか。今日、キリスト教では、神様が栄光の中にいらっしゃると思っています。しかし、そうではないというのです。人間が信じず、人間が従わなければ、神様のみ旨は成されません。それで神様は今も、人間たちが責任を果たすことを、切ない気持ちで望んでいらっしゃるのです。

 それゆえ、皆さんはこの地において天倫を立ててさしあげなければならず、栄光の天の国を成してさしあげなければならず、神様の永遠なる善の理想を、この宇宙に実現してさしあげなければなりません。神様お一人では、いくらみ旨を成そうとしても成らないのです。また、サタンも善の立場に立とうとしても立てないのです。人間が救ってあげない限り、永遠に悪の立場にとどまるほかありません。しかし、人間はそうではありません。神様の前に栄えある姿で立つこともでき、背を向けてサタン側に立って、天に敵対することもできるのです。

 ですから、神様やサタンよりも、もっと人間は恐ろしい存在なのです。人間でなければ、神様のみ旨は成されません。また人がいなければ、サタンの計略も無駄になります。このようにみ旨の成就や罪の成立が、神様やサタンにあるのではなく、人にかかっているということを、皆さんは知らなければなりません。

 神様は、このような人間をおいて、天倫のみ旨と善の理想世界に対する神様の理念を無条件に信じ成すべき人間が、どのように歩むかということを見守りながら、もどかしく思われたのです。ここに神様の悲しみと苦衷が染みわたっているということを、皆さんは知らなければなりません。

 私たちが願うことがあるとするなら、ただ真の息子、娘の立場で神様をお父様と呼ぶことです。実際、そのような人がこの民族の中に一人でもいるとすれば、この民族には生きる道が開かれることでしょう。その人を中心として、宇宙的な役事が起こることでしょう。なぜなら、哀れな民族を代表し、宇宙を代表し、真のお父様と呼ぶことのできる存在がいるとすれば、神様のみ旨を率いていくことができるからです。今日、私たちはこれを知らなければなりません。また、知ると同時に、信じなければなりません。

 これまで天使たちが、皆さんの行く道を心配した事情もあったはずです。しかしそれが問題ではありません。私たちの苦難と事情を案じられるお父様の前に、どのように出ていくかが、もっと問題なのです。自分のつらさや、自分の悲しみと苦痛、十字架が問題ではないというのです。最大の勝利の基台が成された場、人類の理念と天倫の理念が合致したその場に出るとき、それまでの難しかった事情を慰労され得る本当の自分になり得るかが問題です。

 では今日、私たちはどのような立場にあるために、神様を真のお父様と呼ぶことができるのでしょうか。真のお父様と真の息子は血統的な因縁をもっています。どんなに引き離そうとしても別れることのできない因縁、自然に一つになり得る、血肉を通した因縁があります。このような立場で見るとき、神様と私たちとは血統的な因縁があるというのです。それで私たちは神様を、真のお父様と呼ぶことができるのです。

◆イエス様の降臨目的とみ言の価値

 人間は堕落しました。人間が責任を完遂して永遠の善、天倫の愛を中心として神様の直系の子女になっていたなら、どこの誰が侵犯して堕落させることができたでしょうか。人間はこのような願いをもった実体だったということを、皆さんは知らなければなりません。

 では今日皆さんは、どのような所にとどまっているのでしょうか。皆さんは、神様と天的な因縁をもっていながら、サタン圏内にとどまっているのです。神様が許された直系の子女の因縁をもっていながら、またサタンとも堕落の因縁をもっているというのです。

 このような人間を救援するために、この地上に来られる方はどのようなお方でしょうか。このお方は人間を代表する立場にいらっしゃるだけでなく、神様と永遠に切れることのない因縁を結んで現れる主人公です。このような因縁と使命を帯びてこの地上に降臨されたお方が、正にイエス・キリストであられます。ですから、イエス様は福音を伝えられながら、「私は神様の息子である」と語られたのです。また、「神様と一体となった」と語られました。

 これは驚くべきみ言です。普通の人々からは見いだすことのできないみ言です。ですから、神様と愛を中心とした血統的な因縁をもって現れたキリストであられたので、歴史にない中心として、新しい変遷の歴史を生むまいとしても生まざるを得ないというのです。

 このような面において、イエス様の血と肉は、お父様(神様)の血と肉であり、すべてのものがお父様のものだったと言えるのです。このように神様とイエス様とは、切っても切れない因縁が結ばれていたのです。

 ではなぜ、イエス様は来なければならなかったのでしょうか。堕落した人間たちは罪悪の血統を受けて生まれたので、お父様の血肉を身代わりして接ぎ木してくれる一人のお方を、神様はこの地上に送るほかなかったのです。このような摂理的な必然によって、イエス様はこの地上に来なければならなかったのです。

 ところが、召命を受けたイエス様はこの地上に来られましたが、誰もイエス様を信じませんでした。そうしてイエス様は、結局、十字架を背負うようになりましたが、その前の日に弟子たちと最後の晩餐をされながら、「あなた方は私の血と肉を食べなければならない」と語られました。この言葉は、人間たちの心と体、血と肉は、神様が動じ静じるままに、共に動じ静じなければならないという意味です。すなわち、神様との一体理想を成さなければならず、血統的な因縁を結ばなければならないが、イエス様を媒体として、そのことを成しなさいというみ言です。このようなことが皆さんの生活圏内で成されないとすれば、サタンは否応なく皆さんを讒訴することでしょう。

 人間は神様と一体となって、地上に来られたイエス様を信じ、友の立場でイエス様と対することができなければならないのですが、問題は皆さんにかかっています。

 イエス様がもっていた血と肉と骨、体と心を、皆さんも全く同じようにもっています。これはイエス様と人間が一体となり得る根拠になるのです。ですからイエス様が神様と一体となられたように、皆さんの心と体も神様と一つになって、動じ静じなければならないのです。実際、そのようになるなら、それは誰かが奪おうとしても奪っていくことができないのです。

 その次に、私たちは神様を真のお父様と呼ぶことのできる真の息子、娘にならなければなりません。そして神様が私たちに真の息子、娘だと語られ得るみ言と、私たちと共に生きていかれ得るというみ言をもたなければなりません。すなわち、神様と私たちは真の父子の因縁がなければならないという話です。血統的に神様の子女になると同時に、神様のみ言を保たなければならないというのです。

 イエス様がこの悪なる世に来られ、叫ばれたみ言は、地の言葉ではありませんでした。イエス様のみ言は、今までになかった真の真理のみ言であり、地上にあったものとはあまりにも異なる新しい理念であり、革新的な事実を提示するみ言でした。

◆私たちが立てるべき生活理念

 今、私たちは神様を真のお父様と呼ぶことのできる存在として、神様がもっていらっしゃるみ言を、私たちも語ることができなければなりません。神様のみ言が落ちる所ごとに善の実績が生まれ、復活の役事、再創造の役事が起こっています。ですから、私たちは悪を清算し、復活の役事を起こし、再創造の能力を行使できるみ言をもった人にならなければなりません。このようなみ言をもった人々が集まって暮らす所が天国です。

 今日皆さんが使っている言葉が、皆さん自身から出ている言葉か、皆さんが侍っている主が使っている言葉かということを、皆さんは考えてみなければなりません。また皆さんは主のみ言を誇れる環境にあるかどうかを考えてみなければなりません。

 イエス様のみ言は天にも通じ、地にも通じ、創造されたすべての存在に通じるのです。このようにお父様と呼ぶとき、お父様が聞かれる言葉、お父様のみ旨を代弁する言葉をもつ人間にならなければなりません。

 今日この地上には、たくさんの種類の言葉があります。言葉らしい言葉もあり、言葉ではないような言葉もあり、み言もあり、ほかの言葉もあります。今人間が探し求めなければならない最後のみ言、天倫のみ言と因縁を結ぶ私たちも、すべての被造万物と一体となるみ言をもたなければなりません。でなければ万物を主管しようにも、主管することができないのです。

 堕落は私たちが知らなければならないみ言を失ったことである、と言うことができるのです。それで私たちは、私たちがもつべきみ言が、どこにあるかを探さなければなりません。歴史過程を経てきて数多くの人類は、このみ言を復帰するために苦労してきました。人倫に通じると同時に、天倫を代弁することができるこのみ言を、私たちはもたなければなりません。この事実を、生活圏内において感じる皆さんにならなければなりません。

 その次にお父様の生活を身代わりできる、真の息子、娘にならなければなりません。皆さんの生命は、現段階の環境において始まって終わるべき生命ではありません。今までの生命体は、歴史的な堕落の因縁を脱することができず、社会的な環境と因縁を脱することができないのですが、実際には宇宙の恩賜を代表し、過去の理念を代表し、未来の理念を立証させる立場にあるということを、皆さんは知らなければなりません。

 皆さんは神様の代身として生活をしなければなりません。神様の代身として栄光と幸福と喜びを享受して生きる、自分でなければなりません。最愛のイエス・キリストを死に至らしめても求めた人間たちを代表して、長子の遺業を継承させようと切ない心情を抱いて探された、神様の心情を感じる皆さんになれば、地とサタンの前に神様の息子、娘として立証されるのです。

 皆さんが神様の真の息子、娘として生きようとしても、この悪なる世の中は皆さんを全部引っ掛けて倒すのです。これは六千年の復帰歴史を見ても分かります。しかし、人間の心を通して、終末期である今に至るまで動いてきた復帰摂理歴史であるなら、皆さんは神様と同伴する生活理念を、最後に立てなければなりません。

 このような過程に入る人間、すなわち今まで神様が探し求めてきた事実を知る人間がいるなら、彼は神様が成されようとするみ旨を知っているのです。そして過去に被造世界を創造された神様の心情、より深く入れば、草一株を作られた心情までも、感じることができるのです。このような心情に触れれば、神様が万物に対してもつ心情まで知ることができるのです。そして人間に対して抱いていらっしゃる心情までも、感じることができるのです。

 このような心情を感じたのちには、どんな人間にならなければならないでしょうか。神様の代身として地上の人間たちを案じ、彼らのために泣くことができ、悲しみを抱く人間になり、また、人間たちが数多くの歴史過程を経て苦難にあえいできたことに同情できる人間にならなければなりません。

 そして神様のみ旨、神様の摂理歴史に責任を負った数多くの先烈たちの人生のすべてを、地上において一瞬間でも感じ、同情することができる人間にならなければなりません。また、昔アダムとエバが堕落したときに感じた神様の悲しみを感じなければなりません。アダムとエバを失って悲しみ、天と地を失って悲しまれたお父様の心情を感じることができる人間にならなければなりません。

◆天情と人情が通じる道

 歴史過程において摂理のみ旨を受け、イエス様の怨恨を晴らそうとする人間がいたならば、神様は彼を中心にしてさらに活発にみ旨を成されました。また、彼の悲しみを分け合う多くの人間が、彼と共に苦労してきました。

 アダム以後、ノアは百二十年間、この地上に神様のみ旨を受けていきました。百二十年の間、神様の理念を地上に現す生活をしたのです。今日神様の心情を私たちに連結させ、神様の子女であることを実証させ、私たちを中心とする生活的な環境と因縁を結ぶ土台をつくるための生活であると同時に、神様と通じる理念を現す生活であったのです。

 このような境地に入れば、皆さんはアダムの立場に対して理解することができ、神様に対して抱いてきた切ない心情をもつのです。また、ノアじいさんが百二十年の間、不信する世の中の人々に対して抱いた切ない心情、自分だけが知る心情を、無知な民の前に現すときに切なかった心情を感じるようになるのです。

 皆さんはノアの心情から、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、イエス様、そして今日まで苦労した復帰摂理の中心人物たちの心情を知り、彼らのために慟哭して涙を流さなければなりません。皆さん自体が、歴史的な内容をもつ理念を否定することができず、天倫の歴史性に背反しないならば、生活を通してこのような歴史的な悲しみを感じなければなりません。

 今日ここに集まった皆さんは、歴史的に来ては逝った数多くの先知先烈たちが、神様の生活的な理念を実践するために探し求めて体 恤したことを受け継がなければなりません。そして皆さんは死の場であっても、すべての苦難を引き受けるという覚悟をもって、すべての人々の心情に合わせて一つになり、歴史を代表してお父様の前に出て行く道を一致させなければなりません。

 復帰の運命は、歴史的な悲しみの運命であることを知る以上、皆さんは悲しみの生活をしなければなりません。皆さんが神様と因縁を結ぶために、神様のみ旨の前に涙することが天情と人情に通じる道であることを知らなければなりません。それでは皆さんは、皆さん自身を立てて、「おお、神様よ! 私はどんな立場にいるのですか」と反問して、皆さん自身を反省してみなければなりません。

 昔、先祖たちが歴史的な神様の摂理を成すための生活を体 恤した、その生活を経ていくとき、ノアの心情を知るようになり、あるいはアブラハム、イサク、ヤコブ、そしてモーセと、数多くの先知たちの心情を知るようになるのです。皆さんはこのように天に対して、万民を代表して流す涙の伝統を残さなければなりません。

 このようなものをもっている人は、どんなに地獄に行こうとしても行くことができなくなるのです。ですから今日のキリスト信徒たちの中で、過去の歴史過程に来たが天倫のみ旨をみな完成できずに逝った人類を代表して、涙を流すことができる息子、娘にならなければなりません。このような息子、娘に、天倫のみ旨が任されるのです。また、現時代の人類の代表として、切ない心をもって涙を流す息子、娘になり、未来を案じ、万民を代表し、涙を流す息子、娘にならなければならないのです。

 神様はこのような心情を通して、現在このような立場にあり、未来にもこのような事情におかれる息子、娘を探し求めていらっしゃるのです。神様と正反対の生活をしている群れに対して泣き、歴史に対して涙することができる人間が、今日の終末に、新しい再創造の歴史を提示する主人公になるのです。

 神様の心情を抱えて涙し、新しい理念に連結して涙する夫婦がいるなら、この家庭は最高の家庭になるのです。また、神様を抱えて涙する民族があるなら、この民族は新しい理念の中心民族になるのです。この民族を通して、宇宙史的な神様の全体の愛と真理が紹介されるのです。

 過去と現在と未来を代表してお父様を抱え「我がお父様! 悲しみを預けてください」と訴えることのできるある集団や団体、あるいは社会や国家があったなら、周囲にどんな強い文化があったとしてもその文化圏は、そのような国家や団体を踏み越えることができないのです。

◆神様の理念と人間の生活

 私たちがみ旨のために行こうとするとき、何を目的として闘っていくのかといえば、より善なる歴史と、現実と未来を成すために闘わなければなりません。そうして神様の生活理念にひたるその日を復帰し、天上が喜ぶ生活的な環境を提示しなければなりません。このようになるとき、人間と万物を造られたお父様、歴史的なお父様、現在と未来を主管されるお父様が、皆さんに責任をもたれるのです。

 その次に私たちは、何をもたなければならないのでしょうか。どんな理念をもたなければならないのでしょうか。神様の理念を通過しなければなりません。私たちは神様の理念の中に立たなければなりません。私たちは個人ですが、世界と宇宙的な立場で見れば、宇宙とも通じることができ、神様の全体の天倫の理念とも通じることができる場に行かなければなりません。このような理念にひたり、この理念に率いられて闘うとき、数千万の怨 讐に対して闘う場に、堂々と立つのです。

 今日終わりの日において、皆さんが知らなければならないことは、私たちが今まで生きてきたこの地は、天倫の理念の代身となる地になっていないということです。しかし、私たちは悪によって出発したこの歴史を、悪として終結してしまうことはできないのです。そして悪の歴史を経てきた現時点において、私たちはそっくりそのままほっておくわけにはいかないのです。私たちは後代の人々のために、天倫を引き入れ、新しい理念を提示しなければなりません。

 それではイエス様側の、善の歴史とはどのようなものでしょうか。これは歴史性を経過する神様の歴史であり、天倫のみ旨に対して歩む歴史です。このように現実に現れる一つの事件には、全体の歴史が宿っているのです。ですから、私たちはこれを通して過去の歴史を学び、現実を超越して未来の希望的なものを体 恤していく理念をもたなければなりません。

 今日私たちがこの理念の中に立てば、この理念によってすべてのものと通じるようになるのです。それで私たちはこの理念によって現実生活をよく分析し、その価値を現実の生活理念と結びつけ、全体の理念と因縁を結ぶ一つの基準を得なければなりません。このような基準を得て生きなければ、神様の真の息子、娘になることはできません。

 イエス・キリストが逝ったのち、今日に至るまで、神様の摂理は完全に実を結ばないままになっています。聖書を通して示されている理念を、人々は実践しないでいるのです。それで神様はすべてのものを得させるために、黙々と六千年間準備してこられたのです。惨めな世の中と哀れな人間たちを眺めて慟哭されながらも、地上の疑心を清算しなければならない立場にいらっしゃるゆえ、不信して背を向ける人々を批判されず、耐えてこられたのです。

 神様はどうしてこの日まで耐えてこられたのでしょうか。神様はある一時、全体的な勝利の一基準を心から立てて闘っていらっしゃるので、今まで耐えているのです。しかし長い間、耐えてこられた神様の恨は、天倫的な理念と宇宙的な理念、人倫的な理念が一つになって現れるその日になれば、その場に現れるのです。この一時がいわゆる審判の時なのです。過程では愛されるのですが、終わりの日になると審判がなされるのです。神様はこのような因縁を残して、今まで役事してこられたのです。

 ノアの審判のような時を望み見る終末において、私たちが知るべきことは、この理念を代表する自分になるということです。そして天的な理念に通じ、人倫を伝え、み言を伝え、天の宗教を伝え、天の生活を伝えて、一つの理念を伝える先知者の使命を自身がなさなければならないということです。これが宇宙的な理念を通して、神様の息子、娘たちがもたなければならない理念なのです。この理念をもって、私たちのすべてを反省すれば視野が広がるのです。

 皆さんがこのような使命を負っていくとき感じる悲しみは、宇宙的な悲しみであり、歴史的な悲しみであり、希望的な悲しみであることを知らなければなりません。自分一人のために悲しんで、お父様を呼んではならないのです。地上で、数多くの責任を独りで背負って闘っていくと覚悟し、神様の苦しみを感じて神様の宗族としての威信を立て、また天的な理念を感じて天意にかなう生活をしなければなりません。

 ですから皆さんは、血統を通して神様の息子、娘であることを証し、真理を通して神様の息子、娘であることを証し、生活を通して神様の息子、娘であることを証し、仕事を通して神様の息子、娘であることを証することのできる、一つの基準を探し立てなければなりません。この一つの基準を探し立てなければ、皆さんが教会に来て信仰生活をすることは、使い走りにすぎないのです。

◆真の息子、娘として備えるべき条件

 いまだに神様に対して「お父様」と呼ぶ立場になっていない人間は、神様の愛のみ手が差し伸べられるよう、神様のみ名を呼ぶのです。このような救援の過程を経なければ、神様に対して万人を代表する真の息子、娘として、「お父様」と呼ぶことができないのです。

 宗教的なことや血統的なことなど、地上の人倫的な生活がすべて天倫によって成されるよう、皆さんはこのような理念を通してすべてのことを批判できる心情的な価値を、皆さん自体内において立て、万民の前にその価値を誇れる一日をもたなければなりません。このようなことが起こるのを見たのちにこそ、神様が今まで闘ってこられた歴史を、終結させることができるのです。

 今までの闘いは、神様とサタンとの闘いだったのですが、今は地を中心にした人間同士の闘いです。それを天の代身として率い、この闘いに責任を負う主人公が出なければなりません。

 このような闘いの路程において、私たちは何を勝利の条件として立てるのでしょうか。私たちが本然の天に属しているか、地に属しているか、あるいは罪に属しているか、善に属しているかを知り、天的な血統の因縁をもったなら、実際に天的な勝利の生活をしなければなりません。これが重要な勝利の条件になるのです。

 天的な生活、勝利の生活を通した人格をもつなら、自身のことを予告することができ、天的な人格をもつ人々と和することができるのです。サタンも、神様が信じて任せられる一人の存在を立てるなら、これを拒否できないのです。

 神様を崇拝する者とは誰でしょうか。今日、終わりの日にある聖徒たちです。また、神様を安息させる者とは誰でしょうか。見るに堪えない私たちです。このように神様の解怨が、私たちの両肩に、体と心にかかっていることを、私たちは知らなければなりません。 

 人間歴史の中枢的な条件を前において、私たちは驚くべき天地の使命を任されているのです。皆さんの体は二つとないにもかかわらず、地上の問題に苦しむ立場にあってはいけません。今や自身のための安逸な生活理念が立てられない過程に来ているのです。

 私たちが地上に天の法度を提示して勝利したのちには、安息することができるのです。今日皆さんは、このような過程に置かれているのです。このようなことがどこに起こるのでしょうか。今日、民族的な優越性を現す先進国家がありますが、彼らが誇るよりも誇らしいことは、どの民族が神様と近いかということです。

 今日私たちが知るべきことは「私は神様の民族だ」、「私は天の民だ」、「私は天の子女だ」という資格をもって生きるなら、必ず闘いの路程を経なければならないということです。この世は悪なる世の中であり、悪の歴史をもつ社会ですから、世の中はこのような人々をそのまま歓迎しないのです。

 それでここには水と火のように、一つになりにくいものを一つにする哀れみの情、すなわち自分の肉身を動かしている天的な内容をもち、真理をもち、その次には生活環境と人格をもち、そして理念を通した愛をもって、悪の世の中を貫いていかなければなりません。このような条件が、宇宙の終わりの日において、天倫を代表する宇宙の審判の条件となるのです。

 それでは今日私たちは責任を果たし、直系的な使命を完遂する自分になっているでしょうか。神様の審判を代行することができる真理、生活理念を通した人格、神様の理念を通した愛をもって、万天宙に生命の力を主張することができる私たちであるかどうかを考えてみなければなりません。

 このような人間がいたなら、彼が動じれば万物も動じ、彼が悲しめば万物も悲しむことを、感じるのです。このような実感をもって皆さんが、天の前に立っておそれる立場で「お父様、六千年の怨恨をこの一日に私を見て注いでください。六千年の間、敵対してきたサタンを、私を通して屈服させてください」と言わなければなりません。

◆人間が行くべき道

 エデンの園で万物の前に人間を造られ、「万物を主管せよ」と言われた祝福のみ言が、いまだに成就の一日を見ないのです。私たちはこのみ言を成就しなければなりません。そのようになれば、すべてのものがお父様の栄光になるのです。ここから新しい理念を通した新しい愛、新しい生活を通した新しい人格、そして新しいみ言と真理を得て、新しい血統を通した子女として出発するのです。

 皆さんが動いているのを見れば、現在は皆さん一人をおいて、希望の理念が皆さんを訪ね、歴史的な理念が皆さんを訪ねてきているのです。現実の理念が皆さんを訪ねてきているのみならず、皆さん一人を立て、天と地のために直系の息子、娘の栄光を証する一日を前にしているにもかかわらず、皆さんは事実を忘れたまま、処すべき立場を知らず、自分がとどまるべき環境、自身が闘いゆかなければならない希望的環境を、やり過ごしてしまっているのです。

 私たちが行くべき道は、どのようにしても神様の全体的な理念を実現させて、神様が安息できる天的な栄光の土台を造成すると同時に、地上のすべての争いを終結させる道です。

 そのために皆さんは、愛をもって闘わなければなりません。このような理念を得るために訪ねてきた皆さんは、宇宙を代表する愛をもたなければならないのです。また、実践的な生活理念と、実践力をもたなければなりません。このように愛と実践力をもっていくとき、今まで天に敵対してきたサタンが、自然に屈服してくるのです。

 今日皆さんは、神様の所願をもった子女が現れることを願う、神様のみ旨を知らなければなりません。そして神様の悲壮な悲しみと、悔しさと憤りをいたく感じ、これを解怨してさしあげるために、ありったけの力を注がなければなりません。そうして希望の一つのみ旨に向かって前進する人間になり、カナンの福地に向かっていったイスラエル六十万の大衆を代表する、責任者たちにならなければなりません。

 今日人間は平坦な生活環境、自由なる生活環境を成すことができないほどに争っているのですが、彼らは荒野に出て、不信するカナン七族と闘わなければなりません。皆さんも、このような闘いの路程を経なければならないのです。

 今、天は皆さん一人をおいて、皆さんが歴史的な犯罪者であるか、信仰的な変節者であるか、日和見主義者であるか、あるいは歴史と現実と未来に責任を負う実体になるか、ということを考えていらっしゃるのです。このような条件をかけて、皆さんに対していらっしゃるということを、皆さんは知らなければなりません。

 それでは今、どのようにすべきでしょうか。今日皆さんは、天の前に捧げる祭物にならなければなりません。祭物とは何でしょうか。裂かなければならないものです。歴史的に見れば裂かれるものもあり、裂かれないものもありますが、裂かれないものは祭物にはなりません。これからは国家的な祭物もあり、世界的な祭物もあるのです。

 このような祭物の理念をもっていく人々は、自分個人のために生きてはならず、社会のために、国家のために、世界のために生きなければなりません。皆さんは祭物となる場において、敗北する人間になってはなりません。このような裂かれる場、闘いの場においても、「おお、ハレルヤ! 主の栄光、六千年の神様の怨恨を解怨することができる栄光の一日だ。アーメン」と言えなければなりません。

 昔日のヨシュアとカレブの立場を代表して、大胆に出なければならず、選ばれた第一イスラエルのように荒野に出て信仰の基準を失うことなく、勝利する天の選民にならなければなりません。
 こうしてこのみ旨の中で耐え、カナンの福地に入っていき、天倫に対して再び責任を果たすヨシュアとカレブの立場に立ち、勝利しなければなりません。そうして勝利した立場で、お父様に永遠

に侍る真の息子、娘にならなければなりません。






















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