文鮮明先生のみ言集
訓教経(上)


神様の所有と私たちの所有

一九五八年十一月九日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第五巻』


 きょうお話しする題目は「神様の所有と私たちの所有」です。

◆主人を失った被造物

 私たち人間の堕落によって被造物は主人を失いました。万物もそうであり、私たち自身もそのような立場に置かれています。堕落することによって人間は神様に絶対的に所有されることができず、また、万物とこの世界を絶対的に所有することができずにいます。そして今日まで、絶対者であられる神様も、造った万物を自信をもって主管することができずにいらっしゃるというこの悲しい事実を私たちは知らなければなりません。

 それゆえ、今までの歴史路程は、一人の主人の前に所有されるための路程であったというのです。時代を超え世紀を超えて、今日までその目的を成し遂げるために、波瀾と曲折の闘争歴史を経てきたという事実を私たちは念頭に置かなければなりません。

 このすべての被造万物が存在するという事実が否定できないものであるからには、この被造物を主管する主人、何らかの絶対者がいなければなりません。そうして、その絶対者の主管のもとに誰にも讒訴されないような絶対的な安定点を求めない限り、この世界は闘争の歴史を免れることはできないのです。

 神様が造られた万物を、御自身のものだと主張できない事実を今日の信者たちはよく知っています。神様は全精力を傾けて造られた万物を、み意のままに主管することができず、み意のままに活用することができない立場にあられます。それで本来の立場を回復するための神様の摂理歴史が存在するようになり、今まで信仰者というものはどの時代でも、悔しくも命を落とし、悔しくも迫害を受けながら神様のみ旨を求めてきたのです。

 数多くの子女が天のために忠誠を尽くし、天のために生命を捧げ、その一つのみ旨を成し遂げてさしあげるために戦ってきました。しかしながら、天が善の理念を中心として、勝利の栄光を中心としてその子女を主管することができないというのも、また神様の悲しみです。そして真の信仰路程を行こうとする真の人々の悲しみです。

 神様が御自身の実存的な所有の価値を全宇宙の前に誇ることができるその一日は、神様の摂理の総決算の日であり、すべての被造物の願いの焦点であり、イエス様と今まで生まれては死んでいった聖賢、賢哲が願う基準点なのです。

 今日、皆さんが生きている生活環境を考えてみたとき、皆さんのもっている所有物や皆さん自身、皆さんの属する家庭、皆さんの属する社会、そして皆さんの属する国家と世界は誰のものだと声を大にして言うことができるでしょうか。それらが天の所有だということもできず、皆さんのものだということもできません。これが今まで堕落した人類にとって悲しみだったのです。

 神様は救援摂理という標語を立てて、御自身に従おうとする人に対し、「この世のものをみなもって私のために生きなさい」と言うことはできなかったのです。このような神様の悲痛な事情を私たちは感じなければなりません。人を万物の主管者の立場に立てるべき神様でありながら、所有しているものをみなもって御自身に従いなさいと勧告することのできない神様の事情を、私たちは感じなければなりません。

 それゆえ、修道の路程を行く人ならば、どの時代、どの民族、どの世界に属しているにせよ、自分の持っている所有物まですべて完全に切り捨てて従いなさいと言われる神様の悲しい心情を、身にしみて知るべきであり、身にしみて感じるべきであり、身にしみて体験しなければならないのです。それができない人は、神様の所有権が取り戻される時が来れば、神様と何らの関係ももたないことになるのです。

 今日、宗教を信じる人は「救いを受けたい」と言います。「天の人になりたい」と言うのです。また天国の民になり、選ばれた第三イスラエルの名を名乗ろうとしています。そういう心をもつのは良いけれども、自分自身がそれをもつための基準と資格をもっているかどうかが問題なのです。

 この地には数多くの立派な人が生まれては死んでいきました。しかしながら、天が万物を主管することのできない立場に置かれているがゆえに、この地を完全に主管し、自分のものとして決定づけることのできる勇者が現れることはありませんでした。

 それではこのような歴史路程はいつまで続くのでしょうか。この地は永遠に私のものだと主張できる一人の主人公が決定されるその日まで、歴史は曲折の路程を経ていくことでしょう。

 今日まで人間は文化、あるいは政治権力であるとか宗教、そのすべてを自らの所有であるかのように誇ってきました。しかし、時代の変化によって、ある民族が誇った文化は、その中心が他の所に移され、ある主義主張を中心としてきた政治権力もみな変わり、宗教までも変わってきたのです。歴史路程を考察してみると、このような事実がよく分かります。すなわち、そのいかなる動きも決定的な所有権をもつ立場に立つことができなかったという事実を、私たちは歴史路程を振り返って知ることができます。

◆人間が守るべき道理の基準

 神様が完全に主管することができない時に自分勝手に行動したのが堕落の発端でした。神様が完全に主管することのできる時を迎えた上で人間始祖が行動したとすれば、堕落することはありませんでした。

 神様は創世以来、今日まで主管的な権限を行使することができませんでした。それゆえ、歴史的に数多くの人が民族を動かそうとし、国家を動かそうとし、世界を動かそうとしながらも、その時代の総責任をもつ位置にとどまることはできなかったのです。

 個人のみならず氏族、部族、民族、国家、そしてさらには天地までも神様が主管する時が来なければなりません。天と地、霊界があるとすれば、その霊界まで神様が主管するようになる必然的な動きが歴史的終末時代に現れなければ、神様が主管する全体の理念は成就されないのです。

 それゆえ天は、人間に対し、自分のもっている物をすべて捨て、自分の生命を捨て、自分のもっている理念を捨て、この地の喜びである情までも捨てろと要求していらっしゃるのです。これが人間に向かって主張される神様の道理の基準です。

 それでは神様は、なぜこのように要求され、条件を私たちに出されたのでしょうか。それは絶対者の所有の権限が現れる時が必ず来るので、その時に私たちを神様の前に立つための十分な資格をもった者とするためでした。ですから、これが今まで神様に従って善のみ旨を求めていく人が守るべき必須条件になってきたのです。

 キリスト教の歴史を振り返ってみても、神様は、人に喜びを与える前に苦痛を受けるようにされ、何かを誇らせる前に迫害を受けるようにされ、自ら楽しい環境を避けて休まず祈祷しなさいと言われました。神様がこのような修道の基準を人間に示されたのは、ある一時を契機に人間が神様の完全な所有となるようにするためでした。

 聖書のみ言を見れば、「(あなた方はすべてを捨てて)まず神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ六・三三)とあります。それでは、神の国と言うことができるその国、神の義だと主張できるその義はどこにあるのでしょうか。また、神の人だと主張できる人はどこにいるのでしょうか。

 神様が所有できるのは善の国です。その国は、宗教を超越し、一国家という観念を超越し、人間の差別を超越し、主管を超越し、どのような文化や思想も超越する善の国なのです。

 ゆえに天国とは、東西を問わず、善なる人が自分たちの理想的な国だと主張した国であり、自分が住みたい所だと主張した所です。そして天国は自分のものを安心して主張することができ、所有の観念を立てることができる所です。

 今日キリスト教ならばキリスト教、ある教派ならば教派が自己中心的な所有観念に染まっているとするならば、打たれる時が必ず来ます。ある一つの国家の主義だけを中心として全体を引き寄せて糾合しようというような主義があったとすれば、それを打つ時が必ず来るのです。

 神様はサタンまでも容認なさいます。それでは、神様がサタンを打つことができずに容認される理由とは何でしょうか。そして、サタンの懇請を聞き入れ、サタンの讒訴条件を聞き入れてやる理由はいったい何でしょうか。それは、たとえサタンが神様のみ旨に反対し、従わないにせよ、神様を嫌ってはいないからです。サタンは神様のみ旨に従わなかったけれども、心の底では神様を尊敬し、神様を好んでいるからです。

 サタンが神様に向かって「神様! 私の手中にあるこの世界をあなたに捧げます。ですからアダムの代わりに私をその位置に立ててください。そうしてさえくださるならば、私も人間以上に神様に侍ります」と懇請しているのです。サタンは、神様が自分をそういう立場にさえ立ててくださるならば、人間が侍る以上に神様に侍るというのです。神様はこういう困難な立場にいらっしゃるのです。

◆神の所有とサタンの所有

 それでは天が多くの先知先烈を送り、イエス様を送って、なさろうとしたことは何だったのでしょうか。サタンが知る以上に神様の事情を知り、サタン以上に神様のために生きる人を立てて、サタンに対する所有権を行使しようとされたのです。これを完成するのが再臨歴史の目的です。

 それではサタンがサタンとなった動機はどこにあり、天倫を破綻させた動機はどこにあるのでしょうか。アダム・エバよりも神様の愛を多く受けようというところにありました。神様がアダム・エバを愛する以上にアダム・エバを愛そうとし、アダム・エバが神様を愛する以上に神様を愛そうとしたならば、サタンは堕落しなかったはずです。ここで条件が引っ掛かったのです。自分のためよりも人のために生きることができず、善に仕えることができないのが悪です。今日、堕落した人間はこの条件に引っ掛かっています。

 それでは、神様が所有できる国とはどのような国で、また神様に所有される人とはどのような人なのでしょうか。また、神様に所有される万物とはどのようなもので、その帰結点は何なのでしょうか。自分を中心とするものは、いかなるものであっても神様が所有なさることはできません。神様を中心とする立場に立った存在は、神様に吸収される存在であり、神様が所有なさることのできるものです。逆にサタン世界の法は、自分のために生きろという法です。それでサタン世界の人々は家庭、社会、国家、世界、天地のあらゆる存在が、すべて自分個人のためだけに存在すべきだという考えをもっています。これが善なる神様の法度と異なる点です。

 それでは善なる人とはどのような人でしょうか。自分が所有しているすべてのもの、観念までも他人のものとし、あるいは全体のものと感じて全体のために使うことのできる人です。

 そうして人間世界でどのような堕落の現象が起きたかというと、万物と世界と神様までも自分を中心とした生活の中に引き込もうとする現象が起きました。これが正にサタンの役事によって生じた堕落の現象です。

 それでは善の役事とは何でしょうか。私個人に革命を起こし、神様のために、世界のために、人のために新しい方向の路程を開拓していく役事です。これは正に宗教の目的でもあります。
 それゆえキリスト教の歴史を振り返ってみると、時代や世紀を問わず神様の使命を担い、神様のみ旨に従った人の中には、自分のために生きた人間は一人もいませんでした。

 今日まで、サタン世界で自分を中心として「自分のために生きよ」と言った英雄豪傑はみな消えていきました。そういう人は歴史が過ぎれば、みな批判されるのです。

◆イエス様が主張された主義

 イエス様がこの地に来られた目的は何だったのでしょうか。神様が所有できる国、神様が所有できる人、神様が所有できる万物を回復するためでした。またイエス様が主張した主義とはどのような主義だったのでしょうか。イエス様の主義は「自己を犠牲にし、民族と世界と宇宙のために奉仕しよう」という主義でした。宇宙のために多く奉仕し、多く犠牲になった人はその宇宙の主人公となるのです。

 今日、悪の世界でもそのような人々をたくさん見かけます。無言で忠誠を誓い、無言で奉仕する群れは、いかなる国家、いかなる社会、いかなる所へ行っても主人になれるのです。
 神様が個人と家庭、社会、国家、世界、天宙を所有なさるための権限を取り戻してさしあげるべき責任が、今の私たちにあるということを感じなければなりません。この所有権は神様御自身が立てるのではなく、人間が立てて解決しなければなりません。このような重大な義務が残っているがゆえに、歴史的な摂理を代表してきた多くの聖賢や賢哲たちは、この義務を完遂するために命を落としてまでも行くしかなかったのです。

 イエス様は、三十年余りの生涯をヨセフの家で働きながら、「私は神様の息子である」と主張できませんでした。「私は天の全権大使のごとき存在だ」と主張することができなかったのです。なぜならば神様もまた、長い歴史の中で、そのような主張を一度たりともなされなかったことをイエス様は知っていらっしゃったからです。それで、ゲッセマネの園で十字架を前に最後の祈祷をする場でも、自分の願いを中心として「父よ! 我が願いをかなえ給え」という祈祷はなさらずに、「父よ、私の思いではなく、み意のままになさってください」と祈祷されました。

 イエス様は、救世主として地に対する使命感と責任感が大きければ大きいほど、強ければ強いほど、自身の存在意識と所有観念も強いはずです。しかし、御自身は自分のためだけに生きてはならないということをあまりにもよく御存じでした。

 また、イエス様はあくまでも自分は神様のものであり、神様に所有されるべき自分であることを知っていらっしゃったがゆえに、神様の心情を体恤すると同時に神様のみ旨を求めていくことができたのです。それで神様の心情を自らの心情とし、神様のみ旨を自らのものとすることができる立場に立つようになりました。それゆえ、被造万物と、天のみ旨と心情に従うべき人間の前に、救い主としての資格を備えることができたのです。

◆天国の民としての資格

 それでは、天国の民とはどのような人でしょうか。自分が率先して万民の前に奉仕の旗を掲げて立ち上がる群れです。今日私たちが一つの民族を救うためには、自分の所有物をすべて、その民族のために分けてあげなければなりません。それでも足りないならば、自分の生命をも捧げることのできる人にならなければなりません。このような人が天国の民になることができるのです。このような民を集めて、天国理念を成就しなければならない神様の事情があるのです。

 イエス様が、一つの所有的な価値をこの土地から決定されようとした事実を知っているならば、自分を中心において考えてみなければなりません。イエス様は、「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな」(マタイ六・三一)と言われました。これは、その時代の人々には矛盾する警告のみ言でした。

 それでは、どうしてこのようなみ言を語られたのでしょうか。それは六千年間、飲まず、食わず、着ずにでも回復すべき天的な所有の理念が残っていたからなのです。

 神様は、たとえ飢えて哀れな民族があったとしても、その民族以上に哀れな立場にあられ、たとえ悔しい立場に置かれた民族があったとしても、その民族以上に悔しい立場にいらっしゃいます。

 それにもかかわらず神様は、私たちが自分で自分のことを案じるよりも、もっと私たちのことを心配していらっしゃるのです。ところが、知るべき人がこれを知らずに、自分個人を中心として思い煩っているのを見て、イエス様はこのように語られたのです。

 したがって今日、イエス様のこのみ言どおり、神の国とその義とを求めようとする人であるとするならば、その人は自分が飢えていることに関し、「この地で私のように飢えに苦しむ善なる群れがどれほど多いことでしょうか」と、憂えつつ天の前に訴えるべきなのです。善なる立場に立っていない者が飢えに苦しむのは当然であって、善の立場にある人が飢えてはならないというのです。そのように善なる人々のことを案じなければなりません。私たちはこのような運命を背負っているのです。

 ゆえにイエス様は、人が着るに着られず、食べるに食べられない立場にあっても、神様が所有できる国と民をつくるために苦労してくれることを願って、このように語られたのです。

 それでは神様がいらっしゃるとすれば、どのような人を御自身の子女として選ばれるでしょうか。自らの飢えと困難を乗り越えて、手を挙げて人々を祝福してあげることのできる人を選ばれることでしょうし、自らの悔しさと悲しみを乗り越えて、神様の悔しさと悲しみを思いやって泣く人を探し求められることでしょう。

 そうしてイエス様は自分自身の死が間近に迫っている十字架上でも、怨讐を見つめて「天よ! 永存なさる天よ! 彼らの前に永遠の罰を下し給え」と言うことはできず、むしろ手を挙げて彼らの幸福を祈られました。そのようなイエス様の心情が天国の民の心情であり、神様の心情なのです。

 このような原則に基づいて、今日の私たちの信仰生活と、神様を信じているというキリスト教徒について考えると、天国に残ることのできる民がどれほどいるでしょうか。さらには、神様が所有し、永遠に主張できる民族はどこにあり、神様の国だと主張できる地はどこにあり、そういう人はどこにいるのかというのです。

 皆さんの誰もが天国へ行くことを願っています。それどころか今日、「天国は私のものだ」と自信ありげに主張する人を時々見かけます。そのような人を見ると、どうして所有的な面に関して、神様以上にそれほど堂々と言うことができるのかと思うことがあります。神様御自身も、イエス様も、いまだ天国は私のものだと主張できる立場に立っていらっしゃらないのに、どうしてそう言えるのでしょうか。イエス様は今でも天に向かって祈祷する立場にいらっしゃいます。また、神様もいまだに苦労していらっしゃいます。

 霊界にいる数千億の霊人が地上に協助はしても、解放された立場、栄光の場で楽しく暮らすことができないのは、なぜなのでしょうか。どうしてこのような立場に立たなければならないのでしょうか。それは神様が創世以来、天国をつくっておきながらも、御自身のものだと主張できない立場にいらっしゃるからです。神様がこのような立場にいらっしゃるにもかかわらず、今日この地上の聖徒の中には、天倫の原則に反する立場に立って、先ほどのような主張をする人がいるのです。

◆聖徒が苦労の道を行かなければならない理由

 神様は六千年間、この地に神の国と民を求めてこられました。そのために苦労された六千年間の歴史的な借金が積まれています。したがって私という個人が満足と喜びを得たからといって、天国を所有していると言うことはできません。

 自分が天の息子、娘ならば、神様に代わって思い案じ、神様に代わって保護すべき責任のある地が残っていて、世界が残っています。これらが神様の所有となっていない限り、自負することのできない自分であるということを感じなければなりません。

 ゆえに、イエス様は天の王子として、主導的に行使する心的な基準を備えてこの地に来られましたが、それを一度も行使できなかったのです。弟子の足を洗ってあげるかと思えば、行く所行く所で病にかかった人を治してあげました。イエス様の生涯路程で、自分のために暮らした日は一日たりともありませんでした。

 その生涯を振り返ってみると、ひたすら「ため」に生きる生活でした。「ため」にさまよい、「ため」に涙を流し、「ため」に非難を受け、「ため」に裂かれ、「ため」に命を落とす悲しい生活でした。

 いつの日か、神様をこの悲しみの鎖から解放してさしあげなければなりません。そして、神様が、全天地は私のものであると主張し、手を挙げて、万民に向かい、「共に楽しもう!」と言うことができるその日が来るまでは、自分の立場を主張できないのです。このような曲折があったがゆえに、キリスト教では愛を強調し、犠牲と奉仕を強調し、迫害を受け、さげすまれる生活を強調したのです。

 それでは、私たちが神様に所有されるためには、どうすればよいのでしょうか。神様のために涙をたくさん流さなければなりません。神様の悲しみを自分の悲しみとし、神様に代わってその苦労を担った分、神様の所有となり、神様の代わりにサタンの讒訴を受けた分、神様の所有となるのです。したがって皆さんが行い、忠誠を尽くした分だけ、神様に所有されるのです。

 心地良い立場で所有されるのではなく、人々がみな嫌って避ける悲しみや苦痛を抱いて忠誠を尽くすときに所有されるのです。この道こそキリスト教徒が進むべき原則の道です。

 韓国のキリスト教に火がついたのは、草創期のキリスト教徒が正にこのような路程を歩んだからです。もし、「私たちは天国の民なのに、どうして死ななければならないのか」と拒む群れが現れたとするならば、神様の摂理とみ旨は韓国に伝播されなかったはずです。

 またイエス・キリスト自身が「私は神様の息子なのに、なぜ死ななければならないのか、なぜ非難され、さげすまれなければならないのか」と否定したならば、今日までの救いの路程は人類歴史上に現れなかったに違いありません。

 すべての国家で、国民を指導する方法として、愛国者を例に取りながら忠誠心を教えるのはなぜでしょうか。それは、自らの家庭を捨て、自分自身の欲望と名誉を捨てて、国の義を代表しているためです。愛国者とは、その国が受ける苦痛と悲しみを代表して受け、自分がまず悲しみ、その国の主人に代わって、すべての責任を負って立とうとした人なのです。これが天の法を守る姿勢なのです。

 今日、混乱したこの世では多くの人が自分の主張を立て、自分の権威を示そうとしています。真のクリスチャンを探し出すのも容易ではありません。神様の真の息子、神様が所有できる真の民に出会うのは一層困難です。

 今、私たちは友を迎え、一つの天国の民となり、一つの教団をつくって一つの氏族を編成しなければなりません。

 ところが神様から所有の決定を受けた聖徒はこの地のどこにいるでしょうか。その教団はどこにあり、その民族はどこにいるのでしょうか。私たちは、自らもてる限りの力を注ぎ、疲れ果てるまで叫び、倒れるその瞬間まで足を動かして、それを取り戻す時が来たということを知らなければならないのです。

◆民族と世界を救わなければならない人々

 今日皆さんは、自分の身なりを整える前にこの民族を良くしようという心、自分のことを考える前に、この地の万民のことを考えようという心に満ちていなければなりません。さらには、一握りの草をも抱いて泣いてやることができる心が、知らず知らずのうちに心の中で爆発するようでなければならないのです。このような心情をもたなければ、完全な神様の息子、娘になることはできません。

 このような人は神様の涙の結実であり、神様の苦痛の結実であり、また、神様の血の祭壇に上る祭物なのです。それにもかかわらず、このようなことを考えもせずに、自己を主張する人が多くいます。

 この民族の行く道を開拓する者は誰でしょうか。心からこの民族のために、地を打ち、胸を打って号泣する民が現れなければなりません。そしてこの分裂した教団を誰が正すのでしょうか。教団を抱こうという燃え上がる熱情をもった人々が、偽善者と対決するために地を打ち、訴えて、血を流す血闘戦を覚悟して立つことができなければなりません。

 今日では、西洋の物質文明がよく発達しています。大陸エジプトに出発して、アッシリア文明、バビロニア文明を通し、ギリシャ文明、ローマ文明を経て、今まで西欧文明を形成してきたのです。

 宗教史上、イエス様の当時、既に三千年以上の文明を誇っていたエジプトは、何を中心としてそのような文明を築いてきたのでしょうか。

 エジプトの人々は太陽神を崇拝し、オシリス(Osiris)という神を信じていました。このような信仰と思想で、彼らは精神を武装し、団結した力を発揮して、そのような文明を築いたのです。彼らはこれを政策的な理念として礼式を強化し、その理想的な標準に向けて民族を率いて、エジプト文明を誕生せしめたのです。

 そうして国を建て、支配し得る基準をもつようになったのです。この時彼らは、異邦の国に良い点があれば、その良い点を吸収すべきでした。ところがそのような道を行かなかったのです。当時、自国のいかなるものでも犠牲にして、それと引き換えに受け入れたならば、この国は滅びなかったことでしょう。

 ところで、この国家は滅びましたが、その文明は歴史に沿って発展してきました。オリエント地方ではアッシリア文明とバビロニア文明が発祥しましたが、パレスチナ地方ではユダヤ教を中心としてヘブライズムが形成され、神様を中心とした文明が発展しました。

◆宗教を中心とした歴史の発展過程に込められた教訓

 ギリシャ地方では外的な神様の理念を中心としたギリシャ文明が発展しながら、芸術を崇拝する様々な思潮と内的に調和をなしました。これが知識の王国ギリシャを経て、ギリシャ人がつくり出した独特な宗教的理念になったのです。

 そうして世界的な文明圏を形成したのですが、混乱した思想圏の時代を経る過程でキリスト教思想と融合し、その後ローマに渡り、キリスト教文明を築き上げました。

 中世のキリスト教は、その宗教理念を中心として、その理念のもとにいる人たちを、上下を問わず吸収し融合すべきでした。ところが、この目的を達成できずに世俗的に堕落してしまったので、神様もこれを打つことになりました。

 もしローマ教皇庁が腐敗することなく、その存在は世界と人類のためにあるという使命感をもって、自分が良いという以前に他人が良くあるように、すなわち、自分よりも人のために生きる思想を唱えたならば、教皇庁は衰退しなかったことでしょう。

 ところが、ローマ教皇庁はそれができなかったため、これをそのまま残しておくことができず、神様は外的には文芸復興(ルネサンス)を起こし、内的には宗教改革を起こして、旧教を打たれました。そしてそののちに、ピューリタンを中心としてアメリカ大陸へ渡り、そこでキリスト教理念を中心とした国家を建設するようになったのです。すなわち、ローマの政治理念、キリスト教の宗教理念、ギリシャの知性主義が融合し、今日すべての民主主義を支配する汎米主義が形成されたのです。

 それでは文芸復興運動とは何でしょうか。それはヘレニズムの復古運動、すなわちギリシャ精神に基づいて人間本性を回復し、自我意識を強調する運動でした。同じように、今日民主主義圏内にあるキリスト教はすべて、初代キリスト教精神に帰らなければなりません。外に現れたみ言だけを信じるのではなく、そのみ言に内包された思想を求めて、それを中心として再武装する運動が起こらなければなりません。もしそれができなければ、現在のキリスト教は、中世の旧教と同じ立場に立つことになってしまうのです。

 なぜそうなのでしょうか。それは神様のみ言が必要なのではなく、神様の人が必要であり、神様の民族、神様の国が必要だからです。み言はそのためにあるのです。

◆神様が所有を願われるもの

 今や、「み言絶対時代」は過ぎ、「実体絶対時代」を築く時が来なければなりません。み言通過時代を経て実体通過時代という歴史的終末時代が来るというのです。この時代は審判の時代です。

 歴史は今日の私たちに警鐘を鳴らしています。過ぎし日の先知先烈(預言者と義人)の歩みは、私たちの生活に働きかけ、その精神は私たちの思潮を背後から調整しています。ここから離脱する人は、天法によって大手術を受ける時が必ず来るのです。

 それでは、神様がその地を取り戻し、地の人を取り戻して、天のものとされたのちにはどうなるのでしょうか。神様の生命を自分のものとして誇ることのできる日を迎えなければなりません。神様の理念と、愛の全宇宙と、人類の前に誇ることのできる日を迎えなければなりません。

 それでは今日、皆さんの中に神様の生命を誇る人はいますか。また、栄光の天国をつくるために生命まで捧げようとした人はいますか。そして神様の真の息子、娘になろうと、この地に天国をつくろうと立ち上がった人はいますか。

 多くの人が復帰過程において、サタンの讒訴圏で天国を味わったかもしれませんが、サタンを除去した中で、本当に永遠の平和な祖国である天国の味を体恤した人はいません。真の天国を味わい、神様の愛を感じた人は、「サタンと戦わなければ」という刺激を受けるのです。そして真の天国の味を感じ、神様の愛を一度受ければ、二度と神様から離れることはありません。このように神様の愛を体恤した人がこの地上に現れなければなりません。

 それでは神様に所有される限界線はどこでしょうか。それは一握りの草から、一坪の土地から、一人の人から、最末端から出発して天国まで、さらには、神様の心情世界までです。

 その所有の形態が相対的であったり、観念的な形態であってはなりません。主体的で主観的な形態でなければなりません。そういう世界が建設されて初めて、神様が安息することができるのです。

 神様が好まれることを人間も好まざるを得ません。それで神様は、第七日を安息の日と決め、休むように言われたのです。ところが六千年歴史を経た今日まで、安息の日を誇りつつ休むことのできなかった神様であられることを、皆さんは知らなければなりません。

 イエス様も福音のみ言を強調し、安息の重要性を強調しながら二千年、摂理歴史の曲折の中で戦いの歴史を抱いてきましたが、勝利の栄光の一日を迎えて父の前に誇り、万民と共に安息しようとされたことはありませんでした。このように神様とイエス様が安息できない立場にいらっしゃるので、私たちも安息することができないのです。

 それゆえ、安息の日の前には戦争が起こり、安息の日の前には苦痛があり、安息の日の前には死があるのです。これを覚悟して越えて初めて、私たちは安息を味わうことができるのです。イエス様が十字架ののちに安息の一面を感じたのも、そのような道をたどったのちのことでした。

 それでは、今、私たちは何を所有すべきなのでしょうか。安息の園、幸福の園、善の園、愛の園、理想の園を所有しなければなりません。しかしこれを所有する前に、私たちはまずサタンに打たれ、天にも打たれなければならないのです。イエス様も、サタンと天に打たれました。ユダヤ教のパリサイ人がイエス様を追い立てたのと同時に、ローマ人たちも追い立てました。その次には、イエス様が十字架で亡くなる時、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ二七・四六)と切実に祈祷されたことを考えると、神様からも捨てられたのです。

 ゆえに天国を所有する人、天国に所有される人は、神様を求めていく路程で、神様のために最も哀れな立場に置かれる人です。また、世界人類の中で神様を所有することのできる民族とは、最も哀れな民族です。そのような民族であればあるほど神様に近いのです。

◆神様が所有できる人と民族の責任

 終わりの日には大患難が来るといわれています。この時には自己を中心として所有しようという思いが強い者、自己を中心として楽に生きようと行動する者は、強く打たれることでしょう。これが大患難です。しかし人間にこれを経させて覚醒し、大審判を通過させようという神様であられることを思うと、私たちは神様に感謝しなければなりません。

 もしこれがないとすれば、真のために生き、真のために死のうとする人は哀れです。したがって死の墓で残る群れが、安息の園の主人公になるのです。

 このように考えると、聖書六十六巻すべてを捨てたとしても、イエス様が死に臨んで証したその真理にすがって実践した人は、イエス様の所有となり、神様の所有となるのです。

 皆さんが正義に燃える心、新しい理念の園を建設しようとする切実な心をもっているとするならば、皆さんの一挙手一投足は神様が所有されているみ旨を成し遂げるためのものでなければならないし、神様が所有されている権限を成就するためのものでなければなりません。したがって今、皆さんは自分を越え、世界を代表して戦わなければなりません。皆さんの手と足、皆さんの体がそのように動かなければなりません。

 今、この時代は神様の再創造理念を成就すべき天宙時代です。このような時に、新しい安息の園をつくる天の勇士となるためには、まず、サタンが干渉できる要素をすべて出してしまわなければなりません。そして天国にあるすべてのものを神様の前に集め、神様を慰労してさしあげなければなりません。そのためには、天のために歩まれたイエス様や、六千年の間み旨のために行った人が歩んだ道以上の困難な道が皆さんの前に横たわっていたとしても、勇ましく歩んでいくことのできる心情をもたなければならないのです。

 神様の世界と神様の理想を所有する前に、神様の苦痛と悲しみを所有し、神様が行かれた逆境までも所有しなければなりません。そのような人は天国と地獄を主管することができます。

 イエス様はどうして地獄を主管することができたのでしょうか。もし、善なる面でだけ神様のみ旨に責任をもち、神様のために亡くなったとすれば、天国は主管できても地獄を主管することはできません。イエス様は悪なる環境の中でも自らの節義と気概を守り、天的な基準を立てたがゆえに、地獄までも主管できる基準に立ったのです。

 今、皆さんは地獄の苦難の上に立ち、サタンに対し、勇んで勝利できる資格をもたなければなりません。そのためには、皆さんは神様の善を証し、神様の義を案じ、神様の全体的なみ旨を堂々と現すことができなければなりません。

 そうして初めて天の祝福を受けることができるのであり、その時に天の前に出ていくことができるのです。それゆえ、私たちは最後の審判の舞台まで、最後の決定点まで走っていかなければなりません。今、皆さんは民族と世界に向かって走り、乗り越えていかなければならないのです。ところがそれを越えていくには、個人や民族、世界がすべて打ってくる過程を勝利しなければなりません。

 そこで変わらぬ理念をもち、感謝して越えていく群れがあったとすれば、彼らは天の民となり、新しい家庭、新しい社会、新しい国家を形成し、天国を築くことができるでしょう。

 それゆえ自分のことを案じて泣く人は、哀れな人です。宗教家が断食をするのも、自分を中心としてあえぐような立場から離れるためなのです。それでわざわざ断食や試練をするのです。そのような場を避けてはなりません。それを感謝して越えなければならないのです。

 神様は、サタンをも神様の仕事をしたという基準に立たせるために、六千年間耐えてこられました。皆さんが、悪を中心として動いてきた人をみな、善で屈服させる日が大審判の日なのです。そういう立場に立って神様に誇ることができる人は、大審判を越え、神様の所有となることでしょう。
◆最初に神様のものとなるべき人間

 イエス様は「わたしが父におり、父がわたしにおられる」(ヨハネ一四・一一)と語られましたが、これは有り難いみ言です。皆さんもそのように感じなければならないのです。そうなれば皆さんは、失ったとばかり思っていた全宇宙が、より素晴らしい姿で、神様と共に皆さんの前にあるということが分かるはずです。

 「わたしがあなたにおり、あなたがたはわたしにおる」というみ言は空言ではありません。それでこそ、神様のものであるとともに、私のものとなり、神様であると同時に私となるのです。それゆえ神様は私を探し求めていらっしゃるのです。神様は人間のために万物を造られたわけですが、人間に与えた万物を再び神様に返すための焦点の対象として人を立てたがゆえに、人間がいなければ神様はどうしようもありません。

 それゆえ世の中には循環運動をするという理致があります。力の作用が直線方向にだけ及んでいくとすれば、消耗するばかりです。神様が被造世界を創造された原則的な目的は、直線に進む力を戻すためです。したがって世の中の理致は、回るという理致であると同時に動くという理致です。

 皆さんが化学で物質を研究し分析するときには、運動や作用といった様々な現象を観察しますが、その理致から外れた存在はありません。そのすべては三六〇度回っているのです。宇宙も回り、社会も回り、私の心も回っています。

 全宇宙の中心である神様の心情を中心として回ることができる人は、神様が回るときにはその人も回ることでしょう。神様が回る限り、この宇宙も回るのです。神様が回れば私たちが回り、万物が回ります。

 そのような立場に立って初めて、神様の心情が私たちの心情と化することを感じ、神様の心情を体恤できるのです。それでパウロも、自分が体の中にあるのか、体の外にあるのか分からない境地を強く感じただけでなく、三層天であるとか、無形実存体の存在を感じることができたのです。そこから信仰の威力が発生するのです。

 イエス様もこのような境地から主張する、その一時を待ち望んで今まで耐えてこられたのです。キリスト教信者も、そういう一時を待ち望んで今まで耐えてきました。

 皆さんは来たるべきその一時を迎えるにふさわしい心的基準ができているでしょうか。そのためには、皆さん自身がまず神様のものにならなければなりません。私の主観も神様のものであり、私の生命も神様のものでなければなりません。さらには、家庭や社会をはじめ、私たちがもっているすべてが神様のものとならなければならないのです。

 ところが、神様が御自身のものとされるとしても、サタンが主管して汚したものは取ることはできません。サタンの要素があってはならないのです。神様は罪悪の要素を除去してから、御自身のものとされるのです。人類歴史はこのように神様の悲しみに満ちた復帰歴史なのです。

 それゆえ祭物を捧げる時は、刀で二つに裂かなければならないのです。皆さんにもそういう時が来ることでしょう。それゆえ終わりの日には裂かれる役事が行われることでしょう。韓国が南北に分かれているのもこの理致から来るのです。

 皆さんがこういうことを知って、自分の生命を父に捧げようとしても、神様は何らかの条件なしには受けることができません。そのまま受けると、サタンの讒訴に引っ掛かるので、むちを取って打ってから受け取られるのです。そうしてこそサタンが讒訴できないのです。

 神様が選ばれたノアもそうであり、アブラハムもそうであり、モーセやイエス様もそうだったのです。したがって今日の私たちも、そのような道を歩んでいかなければならないのです。もしその道を避けて戻ろうという人がいるとするならば、その人は正常な門に入る群れとなることはできません。

◆神様の心と事情を知るべき私たち

 窃盗や強盗とは、他人のものを自分のものとして行使し、利用しようとする者です。皆さんはそういう人になってはなりません。このようなことをよく知って、復帰の峠を越えなければならないのです。

 このように考えると、「私の生命をお父様に捧げます」といくら祈ったとしても、「そうか、お前の生命を本当に待っていた」と言って受け取ることはできない、父の悲痛な事情を知らなければなりません。そういう事情を知る前に、私たちのすべてを父の前に捧げたとしても、父は受け取ることができないのです。

 このような事情を人間に語り、また解くべきであられたイエス様が、それができずに亡くなられたために、再臨という悲痛な事実が残されたのです。

 それでは今日、終わりの日に置かれた私たちはどうすればよいのでしょうか。「そういう父の悲痛な事情、曲折の心を私たちに知らしめ給え」と切に願うべきです。そしてさらには、自分のすべてを捧げてまでも蕩減の道を行かなければなりません。これが終わりの日の聖徒が行くべき道です。そのような所を探し求めて先に越え、勝利すべき、世界的な運命の道に置かれた私たちなのです。

 聖書では終わりの日には七年の大患難が来ると預言されています。今後試練と試験を嫌って避ける者は、天国へ行くのは難しいでしょう。しかしこのような時を喜んで、「どうか来たらしめ給え。たとえ私の生命が途絶えることがあったとしても、七年の大患難を越えさせ給え」と言うことができる息子、娘が現れることを神様には願っていらっしゃるのです。

 そうなれば六千年歴史をはじめとして、天国と神様の心情まで所有する者になることができるのです。そうして私たちが話して要求すれば、いつでも神様が応じてくださるような所有的な存在、すなわち神様に代わる絶対価値的存在として立つことができるのです。

 そうなって初めて、父は私たちのことを誇り、私たちは苦労された父の前に謹んで敬拝を捧げ、慰めてさしあげることのできる日が来るのです。


























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