文鮮明先生のみ言集
訓教経(上)


真を探してさまよう人類

一九五八年十二月二十一日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第五巻』


 きょうこの時間に皆さんにお話しする題目は、「真を探してさまよう人類」です。

◆人間の実像と絶対的な善の基準の必要性

 人間は体と心から成っているので、心には心が願うある目的があり、私の体をその目的の本体に無限に吸収しようという力の動きがあります。何かは知らないけれど、私をある一定でない方向に無限に導いています。そのような生活与件内に置かれているのです。

 こういうことを感じるならば、皆さんは自分に再び返り、自分の体と心を鑑定してみなければなりません。今日人間が知らないある理念的な無形の世界があるとするなら、その霊的な世界の霊を中心として、なお一層、自分自身を再鑑定してみなければならないのです。

 そうしてその霊と私とは、ある観念とか、思想とか理念圏内で一体的な関係を成し遂げて、一つの方向に進むことができる自分を探そうというのです。そのようにしなければ、皆さんの心情には平和があり得ないのです。その何を要求するにしても、皆さんの幸福と願いは成就されません。

 原理を通して見れば、人間は本来善なる存在でした。その善なる人間が一日の過ちによって善でない存在になったのです。それは歴史が証明していて、宗教人たちも証しています。また、皆さん自身もその事実を否定できないはずです。

 その善の基準は、私たちの生命と、それ以外の全体が追求する理念と願いの基準です。また、心と心の中に動いている永遠の愛の中心であり、情的な理念の焦点です。そしてそれは今日、私の心を率いて、ある絶対的な安息所を追求するようになります。また時間と空間を超越して、私の肉的欲望を除去しようという力として作用しています。

 今日私一人を中心として見る時、すなわち体を中心として見るのか、心を中心として見るのか、あるいは霊を中心として見るのか、それが一つ一つの中心にならなければならないのです。それで、それに自由に対することができて、それと自由に和することができて、個人の生活的な感情が全体の感情に連結することができる、そのような環境を成し遂げなければなりません。そうでないとするなら、皆さんは心と体、あるいは霊的な動きの全体の価値を探すことができないのです。

 堕落によって、怨恨が今日こういう悲しみの場を醸し出し、堕落による悲しみが人類をこういう逆境の中に追い出したのです。それによって人類が行きつつある歴史路程は、堕落に起因された行路をそのまま歩いており、またそういう立場でさまよっているというのです。

 ここで皆さん、自身の姿を第三者の立場に立って考えてみてください。皆さんの体はいかなる方向に動いていて、皆さんの心はいかなる方向に動いているのでしょうか。絶対的な理念の本体であり、生命の本体であり、愛の本体であるその何かを必然的に探さなければならない人間であるのに、私自体は今さまよっているのです。

 このような私の姿が絶対的な善に比べて、いかなる方向と角度をもっていますか。私の心は右へ行こうとするのに行けないという限界的な宇宙観をもっているのは、どういう理由ですか。このような立場から抜け出し、本然の自分自身を探すために復帰の行路を歩いているのが、今日の人類です。

 これから皆さんの姿を、いま一度冷静な立場で観察してみなければならない時が来ました。そして皆さんは、その何かを探すためにさまよっている自分自身の姿を眺めることができなければならないのです。さらにまた、皆さんの心と霊が実体で和して、一つの栄光の価値の代わりをすることができる姿にならなければならないのです。

 ところが創世以後、そういう姿は一度も現れなかったのです。したがって何か知らずに訪ねなければならない道、運命の道を歩くべき私自身であることを悟らなければならないのです。

 私自身には体があって、心があって、霊があります。私たちは、この体と心と霊を統合した一つの姿にならなければならないのです。この地上に、ある創造的な主人がいるならば、その主人の前に引かれ抱かれて、私自身が人を抱いてあげることができる姿、これが創造主が探している姿なのです。また、今日私たち人間が探している姿でもあります。

◆真の人間になるには

 私の心は体に、「真実なものを探せ」と命令しています。「まず真の体を探せ」と命令しているのです。それで今日、世界人類は何か知らないうちに真のものを探してさまよっているのです。堕落による怨恨の中にしみているこの世界に生きているゆえに、何か知らないうちに真のものを探さなければならない、こういう運勢に巻き込まれていっています。

 これからあなた方は、探さなければならない本然の私について考えてみると、喜ぶことができない自分であることを知らなければなりません。悲しみに置かれている自分であることを知らなければならないのです。ある世界を見て悲しがるのではありません。苦痛を感じても、ある相対的な世界での苦痛だけを感じてはなりません。

 悲しみと苦痛を感じるなら、真の私を探していない悲しみ、真の私を探していない苦痛を感じなければならないのです。世の中に悲しみと苦痛がたくさんあるといっても、真の私を探せない悲しみと苦痛よりも大きい苦痛と悲しみはないというのです。

 では、創造主であられる神様は誰を探し出そうとしていらっしゃいますか。神様は皆さん自体、すなわち「私」を探し出そうとしていらっしゃいます。それゆえ真の私が完全に決定されなければならないのです。そのようにできなければ、一つの実体を中心とした真の家庭や、その真の家庭を中心とした社会、国家、さらに国家を単位とした一世界、世界を単位とした一天宙とは縁を結ぶことができないのです。したがって完全な私になることが、あらゆる段階の第一基準になるのです。

 神様は六千年間、人間に対して無限の悲しみの道を歩んでいらっしゃいます。愛する息子、娘をなくしたこの事実は、悔しさにおいてそれ以上悔しいことはないというのです。アダム・エバをなくすことによって、全天宙が暗黒の世界と化してしまったのです。それによって神様は、無限の苦痛と悲しみを感じていらっしゃるというのです。

 すると今日、人間がなくした自分を探そうとするなら、どのようにしなければならないでしょうか。なくした当時の神様の心情を回想しなければなりません。そうでなくては本然の私を探す道理がありません。なくした物は、なくしたその場所に行ってこそ捜すことができるように、なくした私を探すためには私をなくした時の神様の心情を回想しなければならないのです。そのような運動を提示しなくては、人間は本来の自らの姿を探すことができないというのです。

 それで天は、私たち人間を六千年間探していらっしゃいます。すなわち、私の一個体を探すために六千年の歴史路程をたどってきたというのです。その六千年の歴史路程は血と涙の道であり、迫害の道であり、死の道でした。

 このような路程を経てきながらも神様は私一人を探すために、六千年前エデンの園でアダムとエバをなくして流した悲しみの涙、苦痛の心情をなくさないまま闘ってこられました。六千年を一日のように、なくしたその時の心情で人間を探して闘ってこられました。こういう神様の心情を皆さんは知らなければならないのです。

 悲しみが六千年前の神様の心情から始まったがゆえに、今日までの歴史は悲しみの歴史として残っていて、私たちには悲しみの実が生まれました。したがって、神様の心中にしみたその悲しみを解くまでは、今日の人類の悲しみは解消させることができないのです。

 積もった曲折は、積もったその場に行って蕩減復帰しなければならないのです。これが救いの摂理の鉄則です。これが鉄則というなら、今日の私たち人間には私自身を探して立てるために、なくしたその心情を探さなければならない歴史的な終末時代、すなわち終わりの日が来るというのです。

 では、終わりの日にはどのようになるのでしょうか。一つの心情の標準を定めておいて、その心情を基準として審判するようになるというのです。

 今日皆さん自体を見る時、皆さんのすべてには六千年間流された神様の悲しみの涙の跡が染み付き、神様の苦痛の血の跡が染み付き、骨髄にまでも、悪に対する怨恨が染み付いているのを知らなければなりません。こういう怨恨の条件を取り除くための神様の悲しみと苦痛が、私の一身に染み付いているのです。

 昔、エデンで追い出された人類始祖は、神様の心情を知らずに、自分を中心として悲しみました。ゆえに今は、私の体の悲しみと苦痛を忘れて、まず神様を悲しみと苦痛から解放してさしあげなければならないのです。そういう私にならずには、歴史的な怨恨を解き、乗り越えていくことができないのです。

 したがってこれから私自身が、六千年間流された神様の涙の結晶体であることを感じなければならないのです。そして私のすべては神様の涙の結晶体であるだけでなく、神様の苦痛の結晶体であることも悟らなければならないのです。そういう場でこそ、私の存在価値が犠牲になることができるのです。

◆人間の堕落による波長と行くべき道

 堕落によって生じた悲しみと苦痛を解怨しなければならない終わりの日に処した私たちは、これから神様の心情を身代わりしなければなりません。六千年間悲しんでこられた神様に代わって悲しむことができなければなりません。六千年間苦痛を受けたその神様に代わって苦痛を受けなければならないのです。その神様に代わって打たれなければならない立場に置かれている人間なのです。ところがこのようなことを知らない人間なので、天は「審判」という名詞を掲げておいて、人間に対して涙を流しながら摂理していらっしゃるというのです。

 では、審判を避けることができる道とはどのような道でしょうか。私の体をつかんで泣くのではなく、自分自身の苦痛のゆえに泣くのでもありません。私を救うために私の苦痛よりもっと大きい苦痛をもってこられた、神様の苦痛を知らなければならないのです。私の悲しみよりもっと大きい神様の悲しみがあり、私の体のつらさよりももっと大きい神様のつらさがあったということを知らなければなりません。

 そうして私の一切を否定して、背後で歴史を動かしてこられた神様の心情にしみている、すべての苦痛を解怨してあげるのです。そのようなことに耐えることができる自分を探して、さまよわなければならない運命の中に処しているのが、今日の人類なのです。

 このように見るとき、堕落した人間が自分を打ち破っていくには何をしなければならないでしょうか。私の心と体を動かすことができ、私が持っている物質を動かすことができるものとは何ですか。それは完全な愛の心情です。したがって、皆さんは霊が心をつかんで愛するのを感じることができる人、心が体をつかんで愛するのを感じることができる人、体が万物をつかんで愛するのを感じることができる人にならなければならないのです。正にそういう人が、私たち人間が探さなければならない目的地であり、終着点であるのです。

 しかし心があっても、心が体をつかんで愛しているのを感じる人がいなかったし、霊が心をつかんで愛しているのを感じる人がいなかったのです。神様が私たちの霊と心と体をつかんで愛していらっしゃいますが、それを感じることができる人がいなかったというのです。

 神様は私の霊をつかんで愛して、私の霊は私の心を、私の心は私の体を、私の体は万物をつかんで愛すれば、心情が統一されるのです。そのような世界では、万物を愛する心情は体に通じて、霊に通じて、霊を愛する心情は神様に通じるというのです。これが、人間が訪ねていかなければならない終着点です。

 皆さんをつかんで「君にいかなる使命があるのか知っていますか」と尋ねてみる人はいません。しかし皆さんが知らない間に、皆さんの行く道を遮って「君は誰か。君はどこへ行くのか、君はどんな仕事をするつもりか」と勧告していらっしゃる方がいるというのです。ところが、皆さんはこれを知らないでいます。

 人間の堕落によって神様の愛をなくしました。神様の愛をなくしたことが、人間が嘆息するようになった原因なのです。そうして人類歴史も、神様の愛をなくした中で嘆息の歴史路程をたどってきたというのです。

 神様の愛は、実体地上天国を建設できる永遠な天国理念の踏み台です。ところが人間は堕落によって、永遠な世界の理念的な基盤である神様の愛をなくしました。この神様の愛をなくしたがゆえに、神様は人間から離れました。そうして地上天国を成し遂げることができる神様の愛は、ますます遠くなってきているのです。

◆歴史展開の原型になった人間堕落のモデルと経路

 神様の愛をなくしたことを堕落といいました。ここで堕落の歴史的経路を考えてみる時、いかなる道を経たのでしょうか。最初にエバが神様の愛をなくしました。次にアダムがなくし、その次に彼らの子女がなくしました。これが堕落の経路であり、人類歴史も愛をなくす歴史だったというのです。

 すると、初めに愛を議論した者は誰でしたか。エデンの園のエバでした。その次はアダムでした。その次はカイン、アベルでした。これが、天の前に初めて現れた人類の種族が歩んできた堕落歴史の原型だというのです。この堕落歴史型が、人類歴史の始めに行われたがゆえに、人間は今までこのような歴史を経ているのです。

 愛は全宇宙を統率できる主管的な中心であり、統率的な中心であり、寛容的な中心です。これが愛の理念であるのです。この理念が歴史の基となりました。

 ゆえに、歴史路程を注意深く見れば、原始時代には母系を中心とした氏族社会でした。これは一番先にまずエバ、すなわちお母さんが愛を議論したゆえです。これが部族社会をたどりながら、父系中心の歴史に移されるようになるのです。その次に、これが今日の民主主義時代に入ってからは、兄弟を中心とした兄弟主義時代になったのです。

 このように降りてきて兄弟の立場で夫婦の理念を備えて進んでいくいかなるものも、崩れていく時期が来るのです。それで今日、天が人間と連絡できる愛の架け橋が途絶えていきつつあるというのです。それゆえ今日、私たち人類は父母の愛を失った孤児、真の夫婦の愛を失った孤児、真の兄弟の愛を失った孤児のような立場で生きています。

 まず先進国家で、このような状況が縦的に始まったのですが、現在はこういうものが世界的に、横的に行われています。

 では、堕落がどのようになされましたか。アダムとエバが神様と縦的関係を結ぶことができずに、サタンと相対的で横的な関係を結んだゆえに堕落が成立したのです。ゆえに歴史的な終末時代の今日は、民主主義を中心として平等主義を叫んでいます。

 また、堕落によってアダム家庭でどのようなことがありましたか。カインがアベルを殺すということが行われました。そのアベルはエバの代わりの存在です。それゆえ今日先進国家では、平等主義を叫ぶと同時に女性が男性よりもより権限をもっています。

 この時は横的な面をたどり、縦的な面を立てなければならない時代です。ところがここで完全に縦的な関係を結ぶことができなくて、破壊されつつある世界的な様相を眺めるようになるのです。

 今日皆さんが訪ねていくべき道は、天が提示する新しい理念の道であり、生命の道であり、愛の道です。こういう新しい理念と生命を紹介してくれる、愛の道を探していく歴史路程に立っているというのです。

 今まで皆さん自身がなくしたその父母とは、どのような父母ですか。なくしたその夫婦とは、どのような夫婦ですか。また、なくした子女とは、どのような子女ですか。彼らは堕落しない父母や、堕落しない夫婦や、堕落しない子女だというのです。

 それゆえ、今は堕落の種族になったそのエデンの悲しみを退けて、エデンの喜びを獲得できる一つの群れがこの地上に現れなければならないのです。そういう群れが現れないとするなら、神様の六千年の復帰摂理は根本的に破滅の危機に処するはずです。

◆堕落人間を救うための蕩減歴史

 堕落した人間を救うための人類歴史は、蕩減原則による歴史でした。お母さんからお父さん、お父さんから子女と、このように主管権が移されてきた歴史でした。

 今や歴史的な大転換時代を迎えました。それで天地の運勢が犠牲になっているというのです。蕩減復帰の必然的な運命路程に置かれている人類であることを、皆さんは知らなければなりません。

 ゆえに現在においては男女平等権を主張しています。女性が男性から待遇を受ける時が来たというのです。これはエデンで、お母さんのエバがアダムを支配したのを逆に蕩減復帰するのです。

 堕落によって流れてきた歴史は正常な歴史ではなかったし、平面的な歴史ではなかったし、相対的な歴史ではありませんでした。分別的で、一片的で、一方向の歴史でした。したがって、これが戻らなければならないというのです。

 天は、堕落して落ちた人間を回して、一つは左側、また一つは右側に置く摂理をなさいました。このような左右の分立形態は男性と女性間でも行われて、男性は男性同士、国家は国家同士でも行われているのです。ここで左というのは誤ったものを象徴し、右というのは正しいものを象徴するのです。

 人間は天性をもって生きることができたのに、堕落したがゆえに天性を失いました。それで、良心の声により善の道を歩んできました。

 今日皆さんは、天の前に強硬に立たなければならないし、全宇宙を主管する主人公にならなければなりません。それでは、万物の主人公として決定することができる一つの本質とは何ですか。それは生命力でもないし、理念でもなく、愛です。ゆえにコリント人への第一の手紙第十三章十三節を見れば「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」とあります。すなわち、愛の道こそ人間が歩まなければならない道だというのです。このような道を歩まなければならない人間であるがゆえに、使徒パウロがそういう話をしたのです。

 イエス様は内的な霊と外的な肉を合わせて、子女の立場を表すことができる一つの基準を立てなければなりませんでした。ところがユダヤの民が不信したことにより、その基準を立てることができなかったのです。

 人類歴史は再創造歴史であるがゆえに、復帰過程が再び展開しなければならなかったのです。それで霊的なイエス様は天に上がって、地上の人間を相手にしなければならない聖霊が地に来るようになったのです。

 この聖霊は地上にいる霊的な子女を抱いて、エデンの理念を再び成就しなければならないのです。そのために聖霊が天から来られたのです。

 それゆえ私たちは聖霊と子女の名分をもって、新郎である救い主を探さなければなりません。ところが救い主を探してさまようところにおいて、キリスト教徒らは霊肉を合わせて探すことができなくて、理念的な面だけをもって探しています。今日、修行の道や、信仰の道を行く人々も、肉を打つ生活をしています。このように信仰者たちは心の世界、霊の世界を探してさまよってきたのです。

 そして今日、子女格である聖徒たちは、霊肉を合わせた形態を備え、霊的なお母さんである聖霊を中心として復帰を願いながら行かなければならないのです。

 エデンで父(アダム)を主管したお母さん(エバ)は、逆に主管を受けなければならないのです。そこでお母さんの立場をつかまなければなりません。そうして子女を主管しなければならないのです。

 そのエデンでの願いは、霊と肉を合わせて成されなければなりません。人間が堕落することによって霊と肉が断絶されたために、霊と肉が一致した立場に立たなければならないのです。そして縦的な立場にだけ立つのでなく、横的な立場にも立たなければならないというのです。四方性を取らないで一方的な面だけをつかんで出てきたために、人間は体と心が分かれ、心と霊が分かれたのです。

 では、イエス様の所願成就の日はいつでしょうか。イエス様がこの地へ来て聖霊を立てて逝かれたのですが、それだけで満足することはできないのです。再臨の約束を残していかれたために、その約束を果たすために再び来なければなりません。その再臨の理想は、エデンの園でなくした肉的なお母さんを探し訪ねることです。復帰されたそのお母さんは、堕落したお母さんを支配して、肉的父の位置を復帰してあげなければなりません。ここから、イエス様の願いは果たされるのです。
◆真の父母を探さなければならない堕落人間

 イエス様の念願成就は、霊肉を合わせることのできる一つの理念世界で可能なのです。そのようになってこそ初めて、霊肉を備えた一つの父母が天地間に現れます。摂理の法度を通して見る時、一般的な歴史観が相対性をそろえた歴史観として、相対的に定立されるその日が人類歴史路程に必然的に来なければなりません。そのような理由で、今日人類が一方的な面だけを講ずるならば、「悲しみの世界で悩まなくてもよい」と言っても、そうせずにはいられなくなります。

 このように見る時、復帰の運命の道を歩いている私たち人類は何を探さなければならないのでしょうか。永遠に愛することができる私の真の体を探さなければならないし、この体の父母を探さなければならないのです。体の父母を探す前には心の父母、霊の父母が現れる道理がありません。なぜなら、天地の創造が外的なものからなされて出てきたためです。ゆえに皆さんが文を書く時にも、左側から書いていくのです。右から書いていかないのです。これも創造理念の存在方式を表現しているのです。

 今日、人間が苦痛の中で叫ぶうめき声はいつ終わるのでしょうか。神様の代わりに私の体を愛してくれることができる父母を探すその一日を迎えることなしには、人類の苦痛をこの地球上から除くことはできないのです。皆さんがどんなに優秀だったしても、皆さんは肉の真の父母をなくした人間です。真の父母が出てこない限り、真の子女はあり得ないのであり、まだこの世は罪悪の世の中であり、地獄の世の中であり、苦痛の世界に違いないのです。

 このような立場にいる人間を神様も訪ねてきていらっしゃいます。神様は霊を通じて私たちの霊と体を訪ねてきていらっしゃるのです。神様は人類の霊的な真の父母であり、心の真の父母です。神様はこのように霊と心を合わせた父母の立場に立っていらっしゃいますが、肉の父母を探して対面する一日を人類の前に予告なさいました。その日がキリスト教で言う「小羊の婚宴」です。

 今やそのような時になりました。ゆえに、母系時代の次に父系時代を経て、今や兄弟時代に入りました。

 人間は新しい主義、主張と制度をつくり出しますが、そこで理想的な相対、理想的な兄弟、理想的な子女、理想的な父母が出てくることができなければ、その主義、主張と制度は壊れていくのです。万物より劣る立場に押し出されていくようになるというのです。そうして審判の一日に至るようになります。

 このように見る時、今日人間は真の父母を探してさまよわなければならないのです。実体をもった真の父母は、新しい理念とビジョンをもって人間を訪ねてこなければなりません。人間がその真の父母に侍って住む世界が、正に理想世界です。そういう世界を成し遂げるために、イエス様は再び来るというみ言を残しておいてくださったのです。またそうして「再臨」という名詞が成立するのです。

 このような段階に処して、皆さん自身をこれからすべての被造世界の前に立たせておいて攻撃しなければならない時が来ました。サタンに代わって皆さんの体を、自分自身が攻撃しなければならないのです。皆さんの体をサタンに代わって自分が打って進まなければならないのが修道の道です。自分自身の体を打つべきだというのです。

 父母の道、愛の道は私一人で訪ねて越えていくことができないのです。なぜなら私の個体は、歴史的な堕落の行路を経てこの罪悪の世の中に存在するようになり、時代的な堕落の運勢圏内にとどまっているためです。それでこの道は一人で探すことができないのです。そこには歴史的な問題が絡まっています。そこには私の個人を中心とした家庭の問題があり、社会、国家、世界、さらに霊界の問題があります。

 新しい理念の世界と縁を結んで、その世界と折衷してこそ、理念的な愛の世界を探すことができるというのです。

 修道の道は、逆境の中で戦って探し出す道です。また、これが六千年間摂理してこられた神様の路程だったというのです。

◆神様が喜ぶことのできる人々

 皆さんは、六千年歴史を代表する祭物です。したがって、六千年を代表する祭物になるためには、六千年間人間をして祭物を捧げるようにした神様の心情を知って現れなければならないのです。

 エデンの園でアダムとエバが堕落して、神様の愛の圏内から追い出される時、どうしましたか。彼らは、追い出される自分を悲しがりました。それが人類の涙の起源になり、苦痛と辛苦の起源になったのです。しかし、エデンの園にはそのようなアダムとエバだけがいたのではありません。神様はアダムとエバを追い出しながら、追い出される彼らの悲しみよりももっと大きい悲しみの心情をもたれたのです。

 それで皆さんは、神様の愛の圏内から追い出された種族であり、その子孫となりました。そのような人間は、自分を中心として悲しんでいますが、神様は追われ出ていく人間を見て、今日も悲しんでいらっしゃるのです。

 それでは、自分を中心として天を裏切り追い出された人間は、どのようにして復帰されますか。私の悲しみや、私の悔しさや、私が死のうが死ぬまいが、自分のすべてを否定して神様の悲しみと神様の苦痛と悔しさをつかんで、涙を流すことができる群れにならなければなりません。そうでなくては復帰されないのです。

 それゆえ、キリスト教では「悔い改めなさい」と言いました。ここで「悔い改め」とは何を意味するのかといえば、「号泣しろ」ということなのです。すなわち、涙で出発した歴史の起源を再び探さなければならないというのです。そうしようと思うならば、自分自身の悲しみをもって泣いてはなりません。死亡線に落ちた人間を六千年間抱き、人間が知らないうちに泣き、苦痛で悲しんでこられた神様をつかんで泣くことができなければならないのです。

 そういう人間がいるならば、神様は「そうだ、お前が正に私の愛する息子だ」とおっしゃるというのです。したがって、このようなみ言とともに神様が喜び受けることができる人が出てくるならば、神様が人間ゆえに悲しまれ、悔やまれ、苦痛を受けられたすべてを蕩減して解怨できるというのです。

 皆さん、イエス様とはどういうお方ですか。その方は人類の真の父です。四千年ぶりに神様の代わりに、真の父母の心情をもって地上に来られた方です。四千年間哀れにさまよってきた人類と対面して、神様の代わりに彼らを抱き締めて愛するために来られた真の父でした。そのようなイエス様を人間は知ることができなくて十字架につけて殺しました。ところが殺してみると、自分の父だったのです。殺して初めて自分の真の父であることを知ったというのです。

 この地にいらっしゃったイエス様、そのイエス様は、私たちを生命へと率いてくださる真の父であられたのです。そのようなことも知らず、イエス様を殺したといっても、イエス様が本当に自分の父であることを知るようになれば、涙を流さない者はいないというのです。どんなに悪党、殺人者、強盗だとしても、木石みたいな息子だといっても、胸を打って号泣するのです。父の悲しさを知らないはずがないというのです。

 このように見る時、イエス様の十字架の死は、四千年間苦労した父母の悲しい心情を知らない人間たちに号泣させる、一つの刺激になったとも見ることができるのです。

 したがって十字架に出会った者は号泣しなければなりません。号泣するといっても、イエス様は天に代わってこの地に真の父母として来ましたから、そのイエス様を殺したことについて、まずは神様のために号泣し、来られた真の父母のために号泣して、さらに地上の人類のために号泣しなければならないのです。

 では、今日終わりの日に処した聖徒らは、どのように号泣しなければならないのでしょうか。私のために号泣する時は過ぎました。家庭のために、民族と国家のために号泣する時は過ぎました。これからは世界のために、天のために、父と子と聖霊のために号泣することができなければなりません。そうしてこそ愛を中心として創造した、全体の世界を主管する理念圏内に参加することができる聖徒になることができるのです。

 人間たちはイエス様を殺しましたが、イエス様が真の父母だったことを知りました。それで、その真の父母をなくした悲しみと恨めしさを感じて再び生きることを願いました。そういう本性が人間にあったがゆえに、神様はその願いを成し遂げてあげるために再臨主を送ってくださるのです。

 その再臨主を迎えなければならない終わり日の聖徒たちも、共に涙を流さなければなりません。すなわち歴史的な涙を、時代を代表して、代わりに流さなければならないのです。その次に喜びの涙を流さなければなりません。私たちは生きている間に、このような涙を流さなければならないのです。

 人間は今日まで、悲しみの涙は流しましたが、喜びの涙は流すことができなかったのです。ですから、この喜びの涙を流すことができる一日を人間は待ち焦がれているのです。その日が、正に再臨の日であり、なくした真の父母を探す日なのです。

◆いばらの道をたどってくる真の父母

 皆さんが待ち焦がれている真の御父母様は、ほんの何十年の間準備して来られるのではありません。その期間は、人間の一生涯でなく六千年でした。そして、来られる時は楽に来られるのではありません。皆さんが楽に寝て休んでいるその時間にも、天は皆さんを探すために骨を折られたというのです。時には乞食の姿で、貧民の姿で、放浪者の姿で、囚人、迫害を受ける者の姿で、悲惨極まりない姿をなさり、人間の一番下の立場から訪ねてこられるのです。

 皆さんが眠る時間にも天は涙の道、悲しみの道、暴風雨に巻き込まれる道、少しの間も休めない道を歩いてこられました。こういう道が、イエス様が歩んでこられた道であったし、また数多くの先知先烈たちが歩んだ道でした。

 皆さんが楽に食べて寝て、楽に休む所にも天の悲しい声が響き、天の悔しい苦痛と号泣の声が響いているという悲しい事実を皆さんが感じなければならないのです。それを感じられないとするなら、皆さんは真の父母に愛される資格がありません。

 それゆえに、皆さんは心を抱き締めて寝ながらも、御飯を食べながらもおそれ多い心をもたなければなりません。罪人の中の罪人であり、天地が認めることができない罪人であるということを感じなければなりません。私が見て感じる、あらゆる事実が足りないことを知らなければなりません。このような私を探してさまよっている神様の事情を皆さんは知らなかったというのです。

 今日聖徒はそのような事情を知って、兄弟の手をつかんで号泣することができなければなりません。道端をさまよう乞食を見て、抱き締めて号泣することができなければならないし、きつい仕事をする労働者を見ても、「どうして私の兄弟があのようになったのか……」と嘆くことができなければならないのです。

 顔を上げて彼らを眺めるとき、彼らを探し立てて、彼らを通じて私を探し立てなければならない天倫の歴史路程があるというのです。これを知って、会う人ごとに涙で対することができる、そのような感情に満ちた人間が地上に現れることを、神様は六千年間待ち焦がれていらっしゃるのです。ところが民族の飢えを見ながらも、腹いっぱい食べて横になっている者は、審判を受けるのです。民族はぼろを着ているのに、腹をたたいて踊る者は、審判を受けなければなりません。

 では、堕落した人類がしなければならないことは何ですか。私が食うに事欠いても兄弟の飢えを切なく思わなければならないのです。私が食べることができず着ることができなくても、兄弟のために、世界人類のために生きなければなりません。そうして天が世界人類のために泣かれたのを、私によって横的に蕩減復帰しなければならないのです。天は、このような聖徒を探していらっしゃるのです。

 六千年の歴史路程で、いつそのような心情をもって天に向かって父と呼んだ人がいますか。誰が天を父母と呼んで、誰が人類を真の兄弟と呼びましたか。そういう人は誰もいなかったというのです。

 今日教団を率いている教職者や、信仰の路程を歩いている教職者の心は、どこでさまよっていますか。天が六千年歴史を通して切ない思いで訪ね、天の困難と悲しみと願いを身代わりした人々もこういう道を行ったのに、皆さんの体と心はどこへ行っていますか。皆さんは、このようなことを解決すべき堕落の恨みが染みている人類なのです。

◆神様の心情と通じることができる立場

 古来、歴史に残ることができる人物は自分を主張して出る人ではありませんでした。民族史に残っている人物というならば、彼は民族をつかんで立ち上がった人であり、社会的な人物というなら社会をつかんで立ち上がった人であり、世界的な人物というなら世界をつかんで立ち上がった人であり、天的な人物というなら天をつかんで立ち上がった人でした。

 今日皆さんは、罪人の中でも父母を殺した許し難い罪人であるがゆえに、どこの誰かが悪口を言ったり迫害をしても当然なことと考えなければなりません。そういう立場でも、神様の悲しみと歴史的な悔しさを感じて感謝しなければならない皆さんです。

 それとともに、悪口を言う兄弟をつかんで涙があふれるところが、神様の心情と通じることができる立場だというのです。十字架上で自分を打つ者をむしろ心配して、彼のために涙を流しながら祈祷してくださったイエス様の心情、こういう心情を抱いていく道が真の人間が行く典型的な道であり、骨の髄まで深く刻み込んで行かなければならない道なのです。

 今日、あなた方は罪人です。私たちはみな祭物にならなければなりません。天はこのような歴史的な祭物を願っていらっしゃるのです。

 祭物は受け取る神様が喜び、万民が喜んだのちに初めて頭を上げる存在です。ところが今日、キリスト教は神様が喜ぶ前に頭を上げて、万民が喜ぶ前に頭を上げたとすれば砕けるようになっています。キリスト教が万民のために奉仕しなければならない使命を背負っているのに、そうすることができず、万民のために祭物になるべきなのに、そのようにできずにいるならば、改革しなければならない時が来たということです。

 それゆえ王の王であり、天の皇太子であられるイエス様も喜ぶことができないでいます。なぜなら祭物として来られたためです。霊界に行っても、たとえ神様が喜んで地上の聖徒が喜んでも、祭物であられるイエス様は喜ぶことができないのです。神様と万民が喜んだのちに、初めてイエス様が喜ぶことができる日が来るのです。その日が、再臨の日です。

 それでは、今日この民族が受けてきたあらゆる迫害を見つめるとき、皆さんの心はどうですか。五千年の歴史を経てきながら、私たちの民族はあらゆる苦労の道を歩んできました。悲しみがあっても、どこかへ行って訴える方法を知らなかったし、悔しさがあっても訴えることを知らない中で歩んできました。では、民族をつかんで私たちはどのようにしなければならないでしょうか。孤児のようなこの民族であっても、私たち同士で手をつかんで号泣しなければなりません。それでこそ、この民族が生きるというのです。

 兄弟に間違いがあろうとなかろうと、天が許し、同じ血筋と骨肉をもって生まれた兄弟であるなら、自分個人の事情を越えて、父母の歴史的な血統と心情に結びつくために泣くことができる雅量のある人が出てこなければなりません。今日、そのような人々が要求されているのです。

 そういう人々の血が沸く情熱があるというなら、その情熱をどこに傾けるのですか。一身の出世と欲望のためのものならば、それは一個人の限界圏内で終結されるのです。人間の本来の理念は無限大の善を越えに越えて、神様をつかんで喜ぶことを願うのです。したがって、このような人間本来の理念のためにその情熱を注ぐべきだというのです。

 今日この民族が経てきた歴史路程に神様の摂理があったとするなら、その摂理の終局に神様はいかなる群れを要求なさるでしょうか。それは神様のみ旨を成し遂げるために泣くことができる姿であるはずです。一つのみ旨に絡まって泣き、一つの心情に絡まって泣き、一つの行動に絡まって泣きながら先に祭物になるという群れです。天はそういう群れを探すのです。

 それゆえ二千年前イエス様は人間に対して、「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない、わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイ一〇・三七)とおっしゃいました。表面的に考える時、このように矛盾するでたらめな話がどこにありますか。理解できない話のようだけれども、イエス様は、愛をなくして堕落の路程を経て現れた人類が歴史の終点では自分個人を中心としてみな壊れていくのを御存じであったがゆえに、それを防ぐためにそういうみ言を下さったのです。もしその時に、イエス様が語られたみ言を実践できる役事が起きていたなら、二千年間そのようなことはなかったのです。

◆なくした愛を取り戻そうというのが神様の摂理歴史

 今や天を中心としない父母の愛、夫婦の愛、子女の愛を壊さなければならない時代が来ました。このような愛を壊して、その代わりに天を中心とした父母の愛、子女の愛、夫婦の愛を教えてあげようというのがキリスト教です。ゆえに、キリスト教では「新郎新婦」の名詞を掲げて摂理してきたのです。

 堕落した人間は愛をなくした存在です。このような人間の前に、愛の主人公として、地上に再び天的な愛を復帰しようとして来られた方がイエス様であったのに、そうすることができなくて霊界へ行きました。そうして人間は、霊的な愛の基準を立てておいて、肉的な愛を復帰していく路程を歩いているのです。

 人間には上下があって、前後があって、左右があります。その上を代表したのが父母であり、下を代表したのが子女であり、前後を代表したのが夫婦であり、左右を代表したのが兄弟です。これが愛の原則です。人間はこの道を探していかなければならないのですが、その中で前後関係にある夫婦関係が一番重要です。それゆえ、イエス様が新郎新婦を一番強調されたのです。

 それではイエス様は新婦を探すのに、いかなる心情で探そうとされるでしょうか。神様を身代わりした新婦、子女を身代わりした新婦、兄弟を身代わりした新婦を探そうとなさいます。新郎新婦を送られ、地上に一つの基準を立てようというのが神様のみ旨です。そのみ旨は新婦を中心として上には神様、下には子女、左右には兄弟がいて、その全体が四位基台の形態をつくるのです。そのような愛を代表した、相対としての存在、新婦を探してきた歴史が二千年の摂理路程です。

 すると、これからあなた方がしなければならないこととは何ですか。男性は女性を尊重しなければならず、女性は男性を尊重しなければならないのです。お互いに尊重する心があってこそ、女性は男性に向かうことができ、男性は女性に向かうことができます。男性は父の分身であり、女性はお母さんの分身です。分身だというのです。お互いに尊重する心をもって、個々人の相対的な性質を探し出すことが、本然の人間が歩まなければならない路程なのです。息子に対する時にも、彼がどんなに自分の息子だといっても彼は父の分身であり、娘はお母さんの分身だと思って、その性質を尊重することができる心情をもたなければなりません。また、神様の理想を展開して万物を創造なさり、それを総合し万物の主人公として人間を創造なさったその理念を心に抱いて、子女を抱き締めて愛することのできる父母にならなければなりません。

 それとともに、堕落世界に立っているその子女を見つめて、神様が六千年間悲しんでこられたその感情で、「よし、お前は神様が喜び、人類が待ち焦がれ、万物が待ち焦がれた本然の人になりなさい」と涙を流すことができる真の父母にならなければなりません。このように見る時、イエス様は万物に対する、宇宙に対する資格を備えていました。それでイエス様は、自分が探す新婦は神様の代身であり、人類の代身であり、千秋万代子孫の代身存在であるという感情をもって新婦を探されたというのです。これが、新郎となったイエス様の心情であったのです。

 そのような新婦を探す日には、天と地を抱く愛の感情を感じるようになるはずです。父母に対しても同様であり、子女に対してもやはり同じです。そういう愛の主人公にならなければならないのです。

 このように父母の代わりをし、子女の代わりをすることのできる一体理想の感情をもって、実体型を備えた新郎新婦として対面する日が来なければなりません。その日が来てこそ被造世界の悲劇的なすべてのもの、また天と地にふさがったすべてのものが前後、左右、上下に和動できるのです。この日が私たち人類が願う日だというのです。

◆人間が訪ねなければならない最後の目的点

 今日人間は、その一箇所を探していかなければなりません。皆さんがその一箇所を探していこうとするなら、父母や兄弟、そして自らの相手に対してもそのような心を感じることができなければならないのです。その一つに、世界を代表する感情を感じなければならないのです。

 皆さんが、そのような愛の心情を備えて天地の前に立たなければなりません。そうしてこそ、神様が四千年を役事してイエス様と聖霊を立てたように、実体新郎の立場で実体新婦に対面するようになるのです。このような関係を結ぶのが神様の創造目的であり、このような実体的な相手を探すことが、人間が歩かなければならない目的点だというのです。

 そうすれば人間の体に神様が入って、一体に和することができる理想の園がつくられます。これが人間が探していく最後の目的点であり、人間が探さなければならない必然的な運命の標準点だというのです。


























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