文鮮明先生のみ言集
訓教経(上)


懐かしきエデン

一九五九年六月二十八日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第六巻』


 この時間にお話ししようとするみ言の題目は「懐かしきエデン」です。

◆本然の世界を懐かしがる人間

 堕落がなかった本然のエデンの園を考えるときに、誰でも思い浮かべるのは何かというと神様です。神様が思い浮かぶと同時に、神様が六日間の創造を済ませ、祝福なさったアダムとエバが思い浮かびます。また、神様を中心として、罪のない本然の私たちの先祖がいたということが思い浮かぶと同時に、罪悪の侵犯を受けない万物が思い浮かびます。

 万物があるのは人間のためであり、人間がいるのは神様のためであったということを考えてみるときに、天を中心とした人間になれず、本然の人間を中心として和動できる万物になれなかったという事実は、エデンを思う人間にとってとても大きい悲しみであり、わびしさであり、あるいは悔しさとして残り、今日の私たちの心と体を捕らえています。

 本然の世界と本然の園で生きていた私たちの先祖と、その先祖を率いていた善だけを中心として動いていらっしゃった神様について深刻に考えるときに、その方と今日の私たちはあまりにも遠い距離に置かれていることを自認せざるを得ません。そして、ある最高の善であられるその方と絆を結ぼうという切なる心情があればあるほど、自分がその最高の善、すなわち神様と遠い距離にあるという悩みを抱えざるを得ないのです。

 このような悩みを解決しようという真の人がいるならば、その人は、神様を中心として生きるアダムとエバと共に和動できた万物や、善だけを中心に善だけをたたえることができた本然の世界、それらを壊してしまった堕落の痕跡に対して、より憤慨し、強い敵愾心を抱くまいとしても抱かずにはいられません。

 善を指向して真の本然の世界を描いている一方、これが自分と絆を結び、時間性を超えて永遠の天的な心情と絆を結ぶべき仕事が残っているために、私たちの心は我知らず、随時その天的な心情と因縁を結ぶ道に沿って動いています。ところが、その動く心情をつなげ得る外的環境を整えることができず、そうすることができる内的な事情を備えられないことは、私たち人間の嘆きなのです。

 このように見るとき、自分一個体は堕落したアダムとエバを恨まざるを得ず、今日生きているこの現実の環境を恨めしく思わずにはいられない立場で、私たちは生きています。このような環境に自分がそのまま巻き込まれて、心と体が幸福を感じることができますか。それは到底不可能です。私たちには、このような環境を打開し、越えるべき、必然的な曲折の路程を経なければならない何かが、何かは知らないけれど残っているからです。

 私たちは、今まで方向もよく知らないながら、何かを探してさまよってきたという事実を、もう一度思い出さなければなりません。今や、時が来ました。そして、私が真の良心を備え、良心の主体である天と永遠の絆を結び、永遠の幸福の基準を求めようとする切なる心がにじみ出ればにじみ出るほど、今日この地に対しては悔しさを抱かなければならず、私たちが生きているこの世界に対しては敵愾心をもたなければならないのです。この敵愾心を抑えきれない現実であるがゆえに、ここに及ぼされる苦痛以上の大きな苦痛はないということと、ここで解決すべき問題以上に大きな問題はないということを、私たちは再び感じなければなりません。

 天があるというなら、こういう苦痛の中にある私たちを愛されるだろうし、このようにかわいそうな立場にある私たち人間を訪ねてくださるはずです。このように絆を尊重して、求めてくださる関係があってこそ、私たちは天があると認めることができるのです。

 ゆえに、こういうかわいそうな立場に置かれている人間に対して神様は、人間が堕落したその日から今までの悲しい心を抑えながら、堕落した人類の足跡に沿って歩みつつ苦労していらっしゃいます。

◆エデンは天の心情が動いて暮らす所

 今日、私たちは自分を誇る前に、堕落の宗族であることを自認しなければなりません。自分の何かを表すより先に、堕落性に染まった罪悪歴史を表して、罪悪の本性を告白しなければならないのです。こういう立場に置かれているにもかかわらず、そのような場をこちらに避け、あちらに避けなどしています。このようなことがたくさん現れるのを見るようになるとき、天は必ず歴史的に染まった罪状を清算しなければならず、血統的に結ばれて降りてくる罪悪の怨恨を解かなければなりません。

 この罪悪の怨恨を解くことが天の願いであり、私たちの願いですが、そのすべてを表す日がないならば解怨の一日がないはずであり、解放の一日がないはずです。解怨と解放の一日がないならば、神様が摂理なさるみ旨が成就される一日はあり得ません。また、その成就の一日がないならば、人間に対して摂理してこられた神様の栄光の一日がないはずであり、摂理を後押ししてきている人間も、栄光の一日を迎えることはあり得ないのです。

 それゆえに、これから私たちは心と体で、あるいは心霊で、自然のあらゆる神性を感じることができなければならず、人間の本性で天の心情の感触を感じなければならず、本性稟を通じて体に体恤されて入ってくるいかなる天心や天情をも感じることができなければならないのです。もしそういう人がいるならば、その人はこの地上に誰よりも幸福な人であらざるを得ません。

 堕落前の人類の先祖は、神様の心情と通じることができる心をもち、神様が造られたあらゆる万物を収拾しなければなりませんでした。そして万物を天の前に栄光の条件、喜びの象徴的な対象、美の対象、刺激を起こすことができる一つの外的な対象として立て、その万物から来る刺激を通じて内的な刺激を起こし、天性の心情に対して栄光の実体であることを誇らなければならなかったのです。しかし、そうできなかったので、それが何よりもの悲しみとなったのです。

 本然のエデンは、天の心情で動いて暮らすことができ、善と和することができ、天のその理念とともに生活でき、見聞きして感じるすべてが善の象徴であり、善を刺激させないものがない所です。私たち自らが、そこで天の心情と和し、善なる立場に立って父を父と呼ぶことができる栄光の時間をもつことができるならば、それは私たちにおいて最大の幸福です。また、天がそういう人間と絆を結ぶことができるならば、それ以上の絆を要求しないはずです。

 神様の創造過程をたどってみれば、神様には真の神様の形状に代わり得る、真の善の父母になるべき私たち人類の先祖のアダムとエバを造るために、五日間あらゆる万物を造っておかれました。この主人公を造っておいて、神様はいかなる心情で見つめていらっしゃったのでしょうか。これをもう一度回想しながら、父を心から呼ぶことができるこの時間になるように願います。

 私たちは、私たちの視線に刺激を与える森羅万象に毎日のように接しています。しかし私たちは、いつも同じ心情、あるいは同じ感情で森羅万象に接しているかどうかは分かりません。もし人間が堕落しなかったならば、善を中心とした本然の自然になったことでしょう。そうであったならば、私たちの先祖はこの自然を見てどのように感じ、また私たちを造られた神様はどのように感じたのかを、もう一度考えなければなりません。

◆私たちが探すべき心情

 野原にある小さな草一握りでも、そこには神様の手がかかっていないものはないということを私たちは考えなければなりません。育っていく木の一株を見ても、そこには神様の無限な内的心情の絆を通じた事情を経由しています。

 草木だけでなく、野原で跳ねているいかなる獣や昆虫、あるいはいかなる鳥類も、何げなく造られているものは何もありません。それらはすべて、徹頭徹尾神様の内的な心情を通じて、実体の手を経て造られたということを、私たちはもう一度感じなければなりません。

 造られた万物を神様が愛されるとするならば、私たちはどのように考えるべきでしょうか。神様が万物を造っておいて、すべて「善であれ」と言われましたが、その中でも一番愛するものは何でしたか。草なら草の中でも、神様が一番愛する草が何であるかを考えるべきです。私たちが時間を惜しまず考えることができる、そのような立場にとどまることができるならば、私たちは人を造る前に万物と通じることができた神様の恵みと接することができるのです。

 そして、一握りの草をつかんでもうれしがりながら、これが一日の願いの対象になるという事実を知って、喜びの心情をもたなければならず、神様が手をかけてできた草だということを体 恤しなければなりません。そのような人がいるならば、彼は堕落した人間であっても、初めに天地を創造なさった神様の心情世界では、神様の友人の立場に入っていくことができるのです。

 私たちは、神様がお好きなものが草ならば草の中でどのような草が一番お好きか、花ならば花の中でどのような花を愛されるのか、造られた木の中ではどのような木をより一層愛されるかを考えなければなりません。鳥はもちろんのこと、飛ぶ昆虫などの下等動物から高等動物に至るまで、すべて神様の心情を通じた存在ですが、その中でもどれを天の父が一番愛されるのかを考えなければなりません。

 天の心情を敬い慕い、天の理念を待ち焦がれ、天の復帰の園を見つめる真の心をもったという人の中には、神様をたたえながら栄光の立場、楽しむことができる立場で喜びを体得するために努力する人は多いかもしれませんが、小さな草木から昆虫に至るまで、さらには全体に及んでいる天の父の内的心情の絆を想起しながら喜ぶことができる人は少ないのです。御自身の精力をすべて傾けて、ある昆虫を造ったというとき、その方が傾けた以上の精力をもって愛そうという人が現れ、心の底からその昆虫を愛してくれるならば、その昆虫を造った方にとってそれ以上の満足はないでしょう。

 では、二千年前、イエス様は神様の前に民を探し立ててさしあげる前に、何を探そうとなさったのでしょうか。彼の心情は何を探してさまよいましたか。民を抱き締めて、彼らが天の嘆きの圏内にとどまっていると気をもまれたイエス様であり、彼らのために夜を明かして涙を流しながら祈祷してくださったイエス様であったことに間違いありません。

 もしイエス様が、人間始祖の堕落によって本然の心情的因縁を蹂躙された万物が嘆息圏内に置かれていることを眺めて、泣いて夜を明かしながら悲しまれた方でなかったとすれば、彼は全宇宙を統治でき、救うことができる救い主になれなかったでしょう。

 人から万物の要素を除けば、その生命を維持することができません。それゆえ、自分自身が貴い限り、自らの本質を成す要素を供給してくれる万物に対して、人間は喜悦の媒介体にならなければならないのです。こういう心情を全面に出していく人ならば、彼はどこへ行こうとも自然の正道を備えることができ、いかなる環境に置かれようとも正道の立場、万物と通じる立場に立って、神様の前に栄光を返してさしあげられるというのです。

 自然を見つめられたイエス様は、多くの草の中でも神様はどのような花を一番愛されるだろうか、さらにある木なら木、山河なら山河を見て、どのようなものを一番愛されるだろうか、このように考えられたことでしょう。そのようなイエス様の愛の心情を、皆さんがもう一度回想してくださることを願います。

 では、私たちは今までの生涯路程においてどれほどの責任的な感情をもち、神様が情を傾けて造られたこの万物、あるいは山河に接したでしょうか。一塊の土をつかんで、「土を造られた神様の心情がどうだろうか」と考えてみたことがありますか。ないとするなら、皆さんは創造理想を立てられた神様の心情とは関係のない者になります。

 
◆自然を離れては考えられない人類文化

 今日この被造世界の原理と法則、公理と公式を解明するために努力する分野が科学です。そして、自然に深く隠れている情緒的な分野を表したのが文学です。自然に現れていたり隠されている美しさを、ある形態で構想して表現したのが芸術です。そして、自然の根本理致を釈明しようという分野が哲学です。こういう段階の上にあるのが宗教です。

 では、真の宗教と宗教家が解明することがあるならば、それは何でしょうか。それは自然の中に深く流れている情的な内容を釈明することです。そういう責任を宗教が担わなければならないと見るのです。

 人類の文化は自然を離れては考えることができません。人間がどんなに堂々とその威勢を誇り、権勢を享受したとしても、自然を無視するならば、そのすべては成立しません。

 これとともに、私たちの生活を価値あるものにしてくれるのが自然です、私たちの生涯において必ず必要なものが自然です。それゆえ、自然万象に流れている心情を感じることができる人になれないなら、真の幸福を享受することができず、天と絆を結び得る栄光の立場に進んでいくことができないのです。

 これから私たちは、一つの草を見つめても神様の立場で見つめることができなければならないし、花を見つめても神様の心情に代わった立場、神様の心情と通じることができる立場で見つめなければなりません。昆虫や鳥、あるいはある動物を見つめるときにも、神様の心情と絆が結ばれるような内的な感情を体得できなければならないのです。

 そのような人がいるならば、彼がある公式と正義で、すなわち科学的な論理でそれを解明することができなくても、あるいは文学的にその情緒を表現することができなくても、あるいは芸術的にその美を表現することができなくても、情操的に愛を体恤する力がなくても、彼は偉大な科学者であり、偉大な文学家であり、偉大な芸術家であり、偉大な哲学者であり、偉大な宗教家であることに間違いありません。

◆天が探し立てようとする本然の人間の姿

 今までの科学的な論理と公式と法則をもって宇宙を見つめて感じるその段階を越えて、そこで我知らず秘密に通じている心情的な感応がない人は、それ以上発展がありません。文学もそうであり、芸術もそうであり、哲学もそうであり、宗教も同じです。

 本当に世界的に偉大な学者がいるとするなら、その学者の心情の奥深くには、自然の心情と和することができる感性があり、自分が研究するその分野以上に随時つながる感性があるので、思いもしない暗示や幻像、あるいは夢のお告げのような現象があるのです。そしてそれは、自分の専攻分野に夢中になっている状態でのみ起こる現象です。

 情が豊かな人であればあるほど大きい仕事をしたということは、歴史を見ても否定できません。また、そのような感情と和して一握りの草に向かっても「神様!」と呼ぶことができる宗教家がいるならば、彼は正に偉大な宗教家です。

 今日仏教では、仏像に仕えて幸福を祈っていますが、主体と対象が外的には天と地の差があるとしても、心情の世界においては差がありません。そこに感じられる感情を通じてすべてを天と共に知り、信じて接するならば、天はその心をお捨てにはならず成し遂げてくださるので、ここから所願成就という言葉が生まれます。

 このように考えるとき、今まで私たちが生きてきた過去の生活と、今日私たちが生きている現実の生活はあまりにも無感覚的であり、あまりにも無情緒的であり、あまりにも没落した宇宙観をもっています。私たちはこれを悲しまなければなりません。もしこれを悲しむことができる人になるならば、彼は新時代の人物として召命されるでしょうし、新しい時代の使命を受け持つことができるのです。

 私たちは今日の自分の周囲の環境を見つめ、顔をしかめて嘆いたり、社会の矛盾を見つめて落胆せず、育っている一握りの草を見つめてその楽しみによって、自らの悲しい感情を忘れてしまうことができる人にならなければなりません。もしそのような人がいるなら、彼は新時代に残る人になれるのです。ある理想的で心情的な世界を指向する人がいるなら、彼は必ず神様とある絆を結ぼうとする人に違いありません。

 育っている一握りの草を見つめ、どうしようもない心情を感じてごらんなさい。そこには無限な生命があり、神様がいらっしゃいます。そびえ立つ一つの山の頂を眺めるときに、きのう見た感情と、きょう見た感情は違います。春夏秋冬の四季の変化に従って、自分の心情に感じられる感情の違いを歌うことができるなら、どれほど高尚なことでしょうか。その人はすべての自然と和動できる人です。堕落しない本来の人は、そのような人であるに違いありません。

 流れる水辺を、広い原野を流れる小川を、そびえ立っている山脈を、浮び上がる太陽の朝の日ざしを、東から照らす月の光を、このすべての万象に向かって、ある時期を区別せず心から歌うことができ、心から楽しむことができる人がいるとするなら、彼は神様が万物を造りながら夢見て理想とされた、造られたその万物を任せようとなさった、神様が立てようとされた真の本然の人間の姿です。神様はそのような人間を望まれました。

◆人間と共に自然を歌ってみることができない神様

 では、本然のエデンの園で、神様はアダムとエバと共に自然を歌い、自然に対する感情を表現する一つの時間をもたれたかといえば、そうではありませんでした。神様は「私の息子よ、あの山を眺めてみなさい、あの山は私がこのようにして造った」、あるいは「あの草木を見つめてみなさい、あれは私がこのようにして造った。これらのすべてはお前の幸福のために造ったのだ」とおっしゃりたいに違いないのです。

 しかし、神様は実際にそのように言うことはできませんでした。なぜできなかったのでしょうか。アダムがまだ十分に成長していなかったからです。しかし、神様はアダムを見つめながら言いたかった切実な内的心情がありました。アダムが情的に未熟であったために、アダムに対して言うことができなかった神様の事情を、私たちは知らなければなりません。

 もしアダムが、神様がそのようにできる立場にいたとすれば、神様が彼の手をつかんで、「アダムよ、私が見たいあの園の花を見つめてみなさい、私が眺めたい山河を共に眺めよう」と言うことができたのです。私たちの先祖でもそういう生活をしていたなら、今日の人類はこのような塗炭の苦しみの死亡圏内でさまよわなかったことでしょう。

 今日私たちは、本然のエデンを懐かしがらなければなりません。そこは神様の無限の愛がある世界であり、一度始まればそのまま永遠に愛の感情に和することができる世界であり、一度歌えば永遠無窮に歌に酔うことのできる世界です。また、一度走れば神様と共に永遠に走りたい心がにじみ出る世界、一度動いて一度責任を負えば、これは永遠の価値の責任になると考えて努力できる世界だというのです。皆さんは、このような世界が恋しくて泣くことができる人にならなければなりません。そういう心情をもった人間を探せなかったことが神様の悲しみです。地に対して摂理なさる神様は、必ずそういう人を探し立てざるを得ないのです。

 私たちが歌う歌にも山河あるいは自然が入っているのは、これらすべてのもののために祈り、私たちの感情を高めるためです。もし本然の世界でアダムとエバが、神様が行きたい心情と同じ心情で行くことができたとすれば、どれほど良かったでしょうか。これから私たちはそのような心情をもたなければなりません。そのような心が豊かな者、そのような心情を体恤した者が、正に新しい理想天国時代の民として参加するようになるはずです。

 復帰の怨恨を解き、歴史の悲しみを踏み締めて栄光の神様の手をつかもうとするならば、神様はどのような人をつかむのでしょうか。神様は「この万物を私の代わりに楽しみなさい。この万物を私の代わりに感じなさい。この万物を私の代わりに愛しなさい」と言うことができる、そういう人をつかみたいと思っていらっしゃることでしょう。

 ある一時、神秘的な雰囲気、あるいは恩恵の雰囲気で、自然の花一握りを見つめて心から懐かしがったことがありますか。また、先祖の誰かに会うのと同じ切実な心で接したことがありますか。あるいは山河を眺めるとき、懐に入る刺激に自分も知らない賛美を天の前に捧げたことがありますか。それがないならば、皆さんは万物の主人になる資格がありません。人間が懐かしがるエデンの園がどんなに良いとしても、万物とそれを眺める人間が心情を通じて天を動かすことができる所でないならば、懐かしがる所になり得ないというのです。

 私たちは今まで、人間のためにだけ祈りました。けれども今は、人間のためだけでなく、天のために祈らなければなりません。イエス様のために祈祷しなければならないのです。イエス様はこの地へ来られて、私たちのために夜を明かしながら祈られたのに、私たちは今までそうしてあげたことがありませんでした。次に、今日まで苦労された神様のために祈らなければならず、さらには万民のために祈らなければならないのです。そのような感情の中に生きる人が神様と一番近い人です。

 道を歩いていて疲れて休む場でそのような感情があるなら、天が必ず共におられることでしょう。そのようになれば、一株の老いたけやきの根をつかんでも、そこで天の心情を歌うことができて、陰になった大きい岩に寄りかかっても、そこを安息のねぐらとして天の情緒を歌うことができるのではないかというのです。

◆万物に対して喜びと悲しみ、両面を感じなければならない堕落人間

 神様が自ら造られた善なる万物の中でも、神様が一番愛されるものがあると同様に、皆さんも花ならば花の中で一番愛する花があるでしょう。そういう感情がないなら、その人は心情世界での不合格者です。「花の中で何の花、木の中で何の木を一番愛し、草の中でも何の草を一番好む」と言うことができなければなりません。それでこそ自然を恋しがる心が生じるのです。

 私の生命が躍動すると同時に、その生命を抱いてあげることができ、自然を引き込むことができる心情の因縁をもっている人は志のある人であり、むやみに生きられない人です。

 今日、私たちが見つめるこの自然はいかなる自然であり、自分が踏んでいるこの地はいかなる地でしょうか。悲しいことに、喜ぼうとして悲しむべき地になりました。万物を見つめるとき、心に良いと感じられる反面、悲しい事情が残っている嘆息圏にある万物であることを感じなければなりません。景色の良い名勝地があり、そこを眺めて良いと感じても、無限に悲しい感情を感じて父とつなげることができる人になるべきなのが、今日の堕落した人間の立場です。

 これから私たちは一握りの草をつかんで喜びを感じる代わりに、悲しんで泣くことができる自分になり、喜びを元に戻して一本の木をつかんで泣くことができる自分となり、山河あるいは万象を眺めても、深いため息をつくことができる姿にならなければなりません。それはエデンが恋しくなる心をもっているからです。そういう心情に浸っていらっしゃった方が神様であり、そういう心情の因縁をまだ抜け出すことのできない人間であるということを知らなければなりません。

 そのような心情をもった人ならば、自然を眺めてもエデンを懐かしがることができます。「懐かしきエデン」と言うならば、自然も恋しくならなければなりませんが、またその中ですべての被造万物を主管することができる本然の人間も恋しがらなければなりません。

◆神様と万物が恋しがる真の人

 イエス様は怨讐に対して幸福を祈りました。両手と両足にくぎを打ち込んで、頭にとげの冠を被せた彼らに対して幸福を祈りました。槍で横腹を刺す無知な怨讐に対して幸福を祈りました。なぜそうしたのでしょうか。それはイエス様が、最大の精力を傾け、心中に切ない事情をたどられた御苦労の結果として神様が造られた人間だという事実を、よく御存じであったからです。

 イエス様はこの地へ来られて三十余年の生涯を経ながら、瞑想あるいは心の中で神様と完全な関係を結んでいました。それゆえ彼は本然の真の人でした。彼は万物が恋しがる人であると同時に、神様が恋しがることができる人でした。

 今日、人間も自分が作る物に対して、きょう完成せずに途中で終われば、あすその残りを続けて、完全に仕上げをしようとするのです。神様もやはり同じです。神様が人を造っておいてどれほど喜ばれたのか、その心情世界に入って体恤した人がいて、その人が踊るならば何十年でも踊りたいというのです。

 今日信仰者が言っているように、そのように簡単な法則の価値を通じて現れるような人間は必要がありません。人間は法則で測ることのできない無限の伸縮性をもった絶対的な原則を通じて造られたので、その価値を測れないのです。そのような人を見てみると、神様は御自身の全体の属性を感じることができ、全宇宙の感情が流れているのを感じることができました。それを見つめるようになるとき、神様は限りなくうれしかったというのです。

 神様が見つめて喜び、恋しがられ、そして万物も主人になってくれることを待ち焦がれながら願った対象が、アダムとエバでした。このように神様が恋しがり、万物が恋しがったアダムとエバはどのようになりましたか。堕落によって落ちてしまったのです。それによって恋しさが恨みと化し、幸福と願いが嘆きと絶望と化し、生命が死亡と化し、愛が号泣と化したという事実は本当に悲しいことです。

 このような恨めしい先祖に仕えているという事実に、言うに言えないほど嘆かなければならない立場に置かれているにもかかわらず、私たちの中には嘆かわしい事実がどこから出発して今日の私たちと関係を結んでいるかを知らない人がたくさんいます。これをけ飛ばし、嘆かわしい心情を掃き捨て、人間本然の心情を探し、歓喜の声を高める群れはこの地上にいないのだろうかと、天は探していらっしゃるのです。

 天が恋しがることができ、万物が恋しがることができる価値的な人が今日こういう姿になったので、審判を受けなければなりません。これから私たちが審判を避けようとするならば、「父を恋しがる心情の合格者になるよう願います。エデンにアダムとエバを造り楽しんでいらっしゃった心、行ってみたくて、会ってみたいその心、その心情に合格することによって審判を避けて歌うことができる一つの勝利者になれるよう願います」と祈らなければなりません。天はそういう私たちになることを望んでいます。

 天倫を恋しがることができる私自身になると同時に、人が恋しくなる自分にならなければなりません。神様が神様の心情を体恤できるようにするために一男一女を造ったことが、どれほど有り難い恩賜かを考えなければなりません。

 地上に男性がいて女性がいますが、彼らは神様の全体的な性稟と性相の代わりに立てられた存在です。したがって、一人の女性を愛することができる男性にならなければならず、一人の男性を愛することができる女性にならなければなりません。神様の心情を通じて、アダムが願った基準の心情とエバが願った基準の心情をもった者として、自由を享受して天を抱擁できる夫婦が地上にあるならば、彼らにすべての宇宙を渡して安息するのが天のみ旨であることを、今日人間は知らずにいます。

 人間は、こういう心情の法度を蹂躙したので、今日心情の世界で無限の恋しさにさまようようになったのです。ある趣味をもって、芸術を通じ、学問を通じ、または地上のある愛の対象を通じて恋しさを埋めようとしましたが、埋める道がなくてさまよう姿が堕落した人類の実像です。これが歴史的な悲哀であり、悲劇です。

 そういう恋しさが皆さんの心にわき上がるとするなら、本然の園を恋しがった万物と共に、その本然の園を恋しがることができ、本然の心情を通じて神様の心を率いていた本然の人の形態を備えて、天を恋しがることができる人にならなければなりません。そのような人になれば神様は両手を挙げて「そうか。私の息子よ、私の娘よ」と言いながら捕まえざるを得ないというのです。

◆宗教の使命は宇宙万象を管轄し得る人格者を培養すること

 私たちが自らの価値を高め、天の前に進むことを願ったとしても、主のみ言を聞いて、恋しがった本然の園に生きる本然の人の価値を体恤することにより、天が恋しくなる心情に応じ、天を恋しがることができる心をもたなければなりません。そういう人が現れるならば、天がどれほど喜びますか。

 恋しさというのは愛を除いては成り立ちません。その愛は人間的な愛ではなく、永遠の安息と永遠の生命の源泉である神様の愛でなければなりません。それゆえ、他の宗教よりもキリスト教は、愛の宗教としてその使命を果たそうとするのです。宗教の目的は、心情世界の法度を活用して、生活的な感情と接している宇宙万象のすべての位置を管轄できる権限をもった人格者を培養することです。

 神様は六千年間、私たち人間を恋しがる心情の基準を立てて摂理してきました。歴史は千態万状に広がってきましたが、神様はアルファでありオメガである立場で、始終一貫恋しい心情を失うことがなかったのです。人間が神様のそういう心情と差があるなら、その人間は敗北者であり、歴史路程の落伍者です。天が「わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである」(黙示録二二・一三)と言われたのは有り難いみ言でした。それだけでなく、さらには堕落した人間に対して、神様は懐かしい心に悲しい感情が加わって、恋しがっているというのです。

 取るに足らないこの一つの体をつかんで、本然の心情に傷を負ったこの堕落した人間をつかんで、恋しがる心を天は忘れなかったのです。このように、堕落した人間に対する悲しみの痕跡を胸に抱き、悲しい感情の中で恋しがっている天がいらっしゃることを感じる人がいるならば、そのような人は間違いなく天国に行くはずです。「父よ! 私が自分の手をつかんで恋しくて泣くことができる人になりたいです」と祈ることを神様は願っていらっしゃいます。神様が本当の愛でつかむことができる手というなら、自分がその手をつかんで泣くことができる人にならなければなりません。

 堕落しないで、神様を恋しがった本然のそのアダムの手をつかんで泣くことができる人にならなければなりません。さらに、アダムとエバをつかんで泣くことができる人にならなければなりません。そのような人になれば、堕落の歴史をさかのぼるはずです。

 私たちは本然の人を恋しがり、その価値を誇るべき歴史的な責任があり、誇るべきその価値を神様の前に高めるべき責任があります。それゆえ、自分も知らないうちに自分の価値を高めようとし、自分も知らないうちに自分自身を恋しさの対象に立てようとするのです。これが人の常の情です。

 なぜかと言えば、そのような理念を人間は本来もっていたからです。しかし、自分の価値を立てようとして、下手をすると堕落した世界の価値を容認するようになり、自分を恋しさの対象に立てようとして誤ると、堕落の根拠になりやすいのです。

 それゆえ、堕落した人類は全体が不正です。すべて捨てなければならないのです。なぜなら、アダムとエバが、すべてをもつことができない立場で堕落したからです。アダムとエバは、そのような理念をもつことができず、そのような心情問題の何ものももつことができなかったのです。自分自ら万物を主管することができる堂々とした権勢をもった立場に立つことができなかったことが堕落です。それでアダムは、万物を主管することができる立場に立つことができませんでした。

 このように、本然の人を恋しがって彼を探していかなければならない歴史的な条件にかかわっているがゆえに、人間はすべてを捨てて泣くことから出発すべき存在なのです。それゆえ、泣くことを誘発させる宗教がどこにあるのかを探してみると、キリスト教以外にはありません。キリスト教で「悔い改めよ、天国は近づいた」と言いましたが、これは痛哭しなさいというみ言です。自分自身を見て痛哭し、自分の家庭について痛哭し、自分の愛するすべての人、自分の民族、自分の国、自分が生きているこの地上の全体を見て痛哭しなさいというのです。ここには恋しさの因縁を新しく結ぶための天のみ旨が残っているがゆえに、そうであるというのです。

◆宗教を通じてのみ解くことができる人生問題

 私たちは万物を恋しがることができ、人を恋しがることができなければなりません。皆さんは人を恋しがりましたか。純粋な天の心情と結ばれ、無限に与えても忘れてしまいながら喜ぶことができる、そのような心情を体恤しましたか。こういう心情を誘発させるために、天は「宗教」、あるいは「救い主」や「新郎新婦」という標語を掲げて摂理してこられたのです。私たちはその方のためには、自己のすべてを差し上げることができなければなりません。

 神様は、心情と恋しさの事情がつながり、差し上げる万物を受けるようになる日を待ち焦がれていらっしゃいます。心情と恋しさにひたり、差し上げる家庭を受けようとなさいます。恋しさにひたり、この国、この民、この世界を捧げることを願っていらっしゃった方が神様であられます。

 今や、天の前に恋しい心情にひたり「一銭しかないこの小銭でもお受け取りください」と言うことができなければなりません。その時、その一銭は宇宙の代わりをすることができます。いくら貧しい家庭でも「不足ですが、この家庭をお受け取りください」と言うとき、その家庭は天国の偉業を受けることができます。荒野でさまよっていたかわいそうなイスラエル民族ですが、その民族が天に向けた恋しい心情に「この民族をお受け取りください」と言うとき、天はその民族に地上天国の主導的な権限を与えようとされたのです。

 国も同様です、世界も同じです。今日、この地の人類の前に与えなければならないある理想主義、または理念があるとしても、それが天を恋しくし、天を心情的に思慕させることができるそのような主義でなくては、人生の根本問題を解決することはできず、天倫の根本問題を解決することはできないのです。

 心情的な問題を探して天を恋しがることができ、本然の園を恋しがることができる一時をもつことができなかったのが堕落だったので、そのような関係に結ばれた世界を、私の一身をかけて成し遂げなければならないのが復帰の使命です。

 そのような使命を果たすという心情にひたり、父の心を慰労することができる一つの姿として、その心情的で恋しい園の理念圏内で運行なさり、万物を求め、あるいは人間を求めて動く天に対し、「父」と呼ぶことができる一人の人がいるというなら、その人は天が「知らない」とは言えません。そのような心情をもって、本然の園を探してさまよった人がいるなら、彼は神様が「知らない」とは言えず、全人類が「知らない」とは言えず、すべての被造万物が「知らない」とは言えない本然の真の人です。

 それゆえ懐かしきエデンで、そこに育っている万物と、そこに生きている人間、そこに尋ねてくださった神様が別々に事情が通じるのではなく、一人の人を中心として上には天、下には万物が和合して応じることができる、一つの楽しいねぐらを成し遂げなければならないのです。そこにいる人は、天が愛することができる人であり、人間のためになり得る人であり、万物が尊重できる真の主人に違いないのです。

 その仕事が終結しなければ、復帰摂理、すなわち天が立てられた全体のみ旨は、終わりを告げて勝利の栄光を見ることができず、私たちもやはり、堕落の悲しみを解怨して願いを成就することができないのです。それが成されないとするなら、勝利の一日を迎えた世界を、この地上に建設することはできないのです。























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