文鮮明先生のみ言集
訓教経(上)


本郷を尋ねいく人生の道

一九五八年七月五日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第七巻』


 きょう皆さんと共に考えてみようと思うみ言の題目は「本郷を尋ねいく人生の道」です。

◆本郷を尋ねいく途上にある人類

 今この世界の人類は平和を待ち焦がれています。さらには、自由を享受する個人になって、自由の社会、自由の国、自由の世界で生きることを誰彼を問わず願っています。

 私の心に平和がなく、自由がなくては真の幸福はあり得ません。真の人生の道を歩もうとする人がいるならば、彼は真の平和の中で、真の自由を謳歌して真の幸福を享受することを願うでしょう。

 では、皆さんは自分自身と、真の人生の道を歩もうとするこのような理念的な条件とを考えてみるとき、どのような立場にいますか。ここで、相 衝(注:相いれないこと)的なのか、そうでなければ相応的なのかをはっきりと明らかにすべき時が、終わりの日になるのではないかと考えます。

 今日、優れた人もそうでない人も異口同音に、「この世界は平和な世界になっていない」と言っています。自由を唱え叫んでいるけれども、心情からわき出して生きられる自由な環境になっていません。それゆえに、私たち人間は理念的に待ち焦がれている幸福な自我になっていないという事実を否定できません。

 このような私と私たちであり、このような社会、このような世界であり、このように歩んできた歴史路程であり、現実であるということを私たちはあまりにもよく知っています。

 それで、私たち自体は、私が喜ぶことのできる本郷の世界で暮らせずにいるのであり、幸福を謳歌できる本郷の園で暮らせず、私の思いのままに動き主管できる本然の世界で暮らしていないというのです。

 ですから、幸福を待ち焦がれなければならず、平和と自由を待ち焦がれなければならない私たちの心的な動きが自分を促し、環境を促しているという事実を、皆さんは生活圏内でよく感じるはずです。

 このように内的に見ても外的に見ても、私たち人類が願う本郷の世界が築かれず、人類がその世界で生きるようになっていないために、今日私たち人類は、本郷を尋ねいく道で、あえぎ苦しんでいるのです。このような境遇にある人類であるということを、私たちははっきりと知らなければなりません。ゆえに、優れた人も本郷を探すためにあえぎ苦しんでおり、そうでない人もやはり同様だというのです。

 人間の姿をした存在は、誰彼を問わず、本郷への道を探してさまよう歴史的な思潮圏内を抜け出すことができずにいるという事実を、皆さんはこの時間はっきり感じなければなりません。

◆本郷へ行く道をどこで見つけるのか

 今までこの地上に聖賢あるいは賢人や哲人が現れ、人生の行く道を教えてくれました。「このように行きなさい」、あるいは「このような主義を中心として生きなさい」と言いながら、ある方向性を示してくれたりもしました。ところが、ここには哲学が指向する方向性もあるでしょうし、ある主権者が唱えた理念を通した道もあるでしょうし、あるいは社会的な倫理観を通して行く道もあるでしょう。さらには、外的な世界を引き出して、ここに永遠の理念を連結しようとする宗教的な方向性もあるでしょう。大きく見ればそうでしょうし、小さくは「個人を中心とするとこのように行くべきであるし、家庭はこのように行くべきであるし、対人関係ではこのようにすべきだ」という方向性もあります。

 このようなすべては、全体的で宇宙的な理念が指向する幸福の一つの時に備えて動く、位置になければなりません。そういう位置に立てないでいるならば、そのすべては、天倫を解き明かし天のみ旨を完全に立てるその日には、必ず天倫に引っ掛かる立場になるというのです。

 そうすると、宗教の行く道、倫理を中心として行く道、あるいは哲学が指向する真理の道で、幸福の世界を紹介できる平和と自由を、どのように探さなければならないでしょうか。人の心情は、誰もみな同じです。数千年前にもっていた心情も、億千万年後に現れる心情も同じです。心情の世界には発展がないのです。

 同じ基盤で動く心情を引き出して、幸福の園を築くことのできる世界、幸福を感じることのできる社会的な基準、幸福感を味わうことのできる宗教的な儀式、このようなことがこの地上にはないのでしょうか。もしないと断定するならば、神様はどこへ行っていらっしゃるのでしょうか。そのようになれば、その神様は人類と共にいることができないという結論になるでしょう。

 人類を胸に抱いて摂理し、倫理と道徳を立てて善を指向するようにする天倫があるというなら、天は必ず私たちと関係し、因縁を結んだすべてを解き明かしてくれることはもちろんであり、さらに男女を問わず、これを心情的に肯定できる一日が来るはずです。

 そのような場で和し動じながら、「この幸福が私たちの幸福であり、この平和が私たちの平和であり、この自由が私たちの自由だ」と声高らかに言える一時が現れなければならないのです。そうでないとするなら、神様はもちろん、どのような偉大な思想家でも私たちとは何らの関係もないという事実を、皆さんは知らなければならないでしょう。

 私たちが人を分析してみようとするとき、内外から分析できるでしょう。社会の実情を推し量ってみるときにも、表に現れる社会の組織があり、表に現れない計画された組織があるのです。このように、すべてが内外に展開していくというのです。

 人もやはり同じです。人間は外的な事情をもって生きると同時に、内的な事情をもって生きるために、お互い内外の事情に通じ、同じ立場で心と心が通じて幸福を謳歌することのできる環境にならなければならないでしょう。また、その環境を探してさまようことが、正に私たちの人生行路なのです。

 今日まで歴史過程で数多くの聖賢や、賢哲が生まれては亡くなりましたが、自らの人生行路をたたえながら勝利的な一つの標語を立てて、「万民よ! このように行きなさい」と訴えた人は一人もいませんでした。また「私を頼って、私の心情と私の愛とともに君はこのように生きなさい」と言った人もいなかったというのです。イエス様も愛を説きましたが、愛を中心とした幸福観、愛を中心とした平和観、愛を中心とした自由理念に対しては、解き明かせずに亡くなりました。「私について来なさい、私を信じなさい、私を見つめて来なさい」とは言われましたが、自らの心情を打ち明けて「私の心情と共に動き、天情を中心としてたたえながら暮らそう」とは言えませんでした。

 それゆえ、時代的に数多くの先覚者が歴史上にやって来たとしても、心情を中心とした幸福を享受することのできる内容を紹介できなかったのであり、天の心情と通じる自由と平和の世界観を中心として、世界を和動させることのできる喜びの内容を紹介できなかったというのです。

 では、人類が待ち焦がれている所はどこでしょうか。前に語ったのと同様に、本郷の世界です。そこに行ったのちには永遠に帰ってきたくない世界、何度見ても嫌でない世界、一度感じた感触が永遠に忘れられない世界、笑いがあるとするならば永遠に笑うことのできる世界、その世界で一人の主人を探し出したなら、その主人を永遠に逃すことができないという世界、そのような一つの所がなければなりません。

◆本郷を慕わなければならない私たちの現実

 そこは、心情をもっている人間個々人が暮らせる所であり、人類歴史の終末時代に紹介されるべき私たちの本郷です。そうできないならば、今日この世界は、収拾しようとしても収拾できないというのです。そのすべてを紹介できるある理念や主義を、論理的な見地で立てざるを得ない時が迫ってくるという事実を皆さんは知らなければなりません。それゆえ、私たちは永遠に暮らせる本郷の世界、本郷の地、本郷の兄弟、本郷の家族、本郷の親戚、本郷の園が恋しいというのです。

 それでは、今日皆さんの中に、「私はそのような本郷を探しました」と大言壮語できる人がいますか。私たちは必然的に、その本郷を尋ねていかなければならない運命に置かれている存在です。イエス様もこの地に救い主として来られ、「私についてきなさい」と言われ、その道を提示したのですが、「私と共に暮らそう」と言える本郷の園を築いて暮らしていくことはできませんでした。神様も人類を率いてこられましたが、今日この席で「私と共に暮らそう」と語ることができずに、「私たちが願う本郷の園に行って暮らそう」と語りながら、このような摂理をしていらっしゃるのです。

 神様がそうであり、神様の息子であるイエス様がそうだったように、地上に生きている今日の皆さん自体も、同じ運命に置かれているというのです。

 本郷を望みながら歩んでいる皆さん、その日を迎えて喜んでみた人がいますか。その日を迎えて、「私は幸せだ」とたたえた人がいますか。そのような人は、まだいません。神様は、そのような日を楽しまれたでしょうか。神様もそのようにできていません。では、その日を迎えさせてくれる主義があったでしょうか。それもありませんでした。天も楽しむことができなかったというのです。天地の内容がそのようになっています。

 天地の運勢を離脱して生きられない良心をもった人は、共通的な目標と理念のもとで、方向を探していく過程の心情を体恤するようになっています。ゆえに、皆さんも行けば行くほど幸福を願う心は切実になりますが、幸福それ自体は、皆さんから遠く離れて動いているということを知らなければなりません。

 皆さんが自由と平和と幸福を心から切実に待ち焦がれて身もだえし、その目的地にたどり着いたようであるにもかかわらず、実際にはそれは、つかもうとしてもつかむことのできない遠い所で、はるかな内容として皆さんの心の世界を照らしているというのです。

 ここで私たちは、いずれにしても行くべき過程的な現象を踏まえて上がっていき、幸福の本郷をたたえることのできる個体にならなければなりません。その次に、全宇宙に対し、「私と共に和動し、私と共に歌い、私と共に幸福になろう」と言える、その一日を迎えなければなりません。それが歴史の目的であり、宗教があるとするならば、その宗教の目的となります。また創造主がいるならば、その創造主もやはりそういう目標のもとで、人間を追い立てているというのです。そういう摂理圏内を抜け出すことのできない人間であるがゆえに、どのような個人であるとしても、やはり同じ方向に進まざるを得ないのです。

 優秀な人でもそうでない人でも、みな同じ人生の道を行っているこの場で、皆さん、自分を自慢しないでください。環境が良いと自慢しないでください。自分の勢力が堂々としていると自慢しないでください。それをもって人生の行く道を解決することはできないし、本郷の世界を解決することはできません。なぜそうなのでしょうか。今日、人類が目指す方向性は人間がつくり出したものであるために、それによって解決されるようにはなっていないのです。

 天がこういう立場で摂理をしてこられましたが、道理的な面や真理的な面でだけ私たちに方向を教えてくれたのであり、心情的な面を中心として私たちの行く方向を教えてはくれませんでした。心情的な面で、実生活で実感できる幸福と、生活しながら皮膚で感じることのできる平和と自由を教えてはくれなかったというのです。それゆえ神様の摂理は、人間をしてこのようなものをはるかな願いの一焦点として見つめるようにしたのです。

 このような運命から抜け出すことができない私たちであるがゆえに、私たちは優秀だろうがそうでなかろうが、悲しかろうがうれしかろうが、一日の生活での自由があるかどうか分からず、一年の生活で感情の自由があるかどうか分からず、また一生において生活的な感情の自由があるかどうか分からないのです。しかし、自分を中心として流れている歴史的な心情と生活と理念と観においては同じです。天はそのように見るはずであり、またそのように見なければならないのです。

◆イエス様がこの地で成し遂げられなかったこと

 そのために、この人を見ても哀れであり、あの人を見ても哀れなのです。この哀れな人類の前に立ちはだかり、哀れな自分であることを教えてくれる人が必要な時が来ました。あなた自身の哀れさを嘆きなさい。哀れな自分を見て泣かなければなりません。天と地を抱き抱えて泣かなければなりません。私が行く足跡の宗団はどのようになるのか、変遷する環境の結果がいかなる内容を内包して目的地に到達するのか、こういう問題を解き明かしてくれ、「あなた自身を憂いなさい」と言うことのできる一人の指導者が出てこなければならない時になったというのです。

 今まで歴史時代に、ある革命的な新しい文化を創造する過程において、時代を経て世紀を経ながら、新しい理念、新しい目標、新しい幸福、新しい自由、新しいというその何かを携えて進んできた多くの人々は、その時代の前に立ちはだかり、哀れな自我を解き明かすために苦労してきました。しかし彼らは、その当代に影響を及ぼした使命者であり、特定の時期や時代に必要な使命者にすぎませんでした。

 今日この時代は、世界的な主の時代です。したがって、これからこの世界人類の前に立ちはだかって、「世界人類の手本になるべき君たちであるからには、君たちが行くべき所が分からず、その場にとどまっていることを悲しみなさい」と言うことのできる何かが、必ず出てこなければならないというのです。

 イエス様は二千年前に来られ、「自分は神様の息子だ」と言いました。この時、神様の選んだ選民だと自慢していたユダヤ民族は、四千年という途方もなく長い歴史路程で数多くの先知者の恩徳を奉じてきながらも、待ち焦がれていたそのメシヤが現れたことが分からなかったのです。イエス様を十字架に送って初めて、彼がメシヤだったという事実を悟り、悲しい立場に置かれるようになったのです。

 では、イエス様を救い主だと言いますが、彼は当時の人類の前にいかなる救い主にならなければならなかったのでしょうか。「君たちの悲しみを私が背負おう」という自信のある救い主にならなければならなかったのです。それでイエス様は、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ一一・二八)と語りました。有り難い感謝のみ言です。その一言は、人類のための偉大な先覚者のみ言でした。

 切ない心情をもって、みすぼらしい姿で自分自身を解き明かすために努力している青年男女があり、その一言のみ言を聞いたならば、手をさっと挙げて(降参して)その前に出て行くでしょう。そうして「二千年前に来られ、語って行かれたイエス様、ありがとうございます。イエス様を通してみ言を下さった神様、ありがとうございます」と言うようになるでしょうし、この精神と思潮を通して流れ出たみ言に対して、有り難く考えるでしょう。

 今私たちには、この世界に責任をもつことができ、この民族に責任をもつことができ、心情問題に責任をもってその心情の荷物を解いてあげることのできる、一人の主人公が必要だというのです。このような内容があるので、イエス様は、「再び来る」というみ言を残していかれたのです。

 イエス様がこの地へ来られて成し遂げられなかったこととは、何でしょうか。イエス様は人類のすべての十字架の荷を引き受けてくださるために来られましたが、人類の心情的な荷に責任をもつことができなかったのです。そうして今日、全世界の人類は心情的な荷をイエス様の前に再び任せるためにその日を待ち焦がれて、「主よ、どうか来てください」と祈りながら主を待っています。

 それゆえ、歴史的な悲惨な環境に処した私自身、私たちが生きているこの世界、または流れいく歴史の前に立ちはだかり、「お前の悲しい事情を知りなさい、お前の哀れさを知りなさい、お前の切なさを知りなさい、お前はこうこうしなさい」と言える、ある何かが出てこなければならない時が来たということを知らなければなりません。

 私たちは計り知れない人生行路を歩んでいるので、時折どのようになるか分からない恐怖の内在した世界圏内で生きています。では、私たちの行く道の目的地とはどこでしょうか。その行く道はこうこうだと、解き明かすことのできない生涯路程を歩んでいます。むやみに引っ張られて進んでいます。しかし、時折岩にぶつかるとか、絶壁から落ちるとかということを知って越えていかなければなりません。皆さんがそういう立場に立つようになれば、どのような気持ちがするでしょうか。

 皆さんの中には四十年、あるいは七十、八十年の生涯路程を歩んだ人がいるでしょう。ところで、私は幸福を見つけて幸せだと自慢する人はいるかもしれませんが、こういう人生の道を突破した人はいないでしょう。ゆえに、皆がかわいそうな人々なのです。

◆私たちが探すべき方

 したがって、これから私たちは、自らのこの哀れな事情を連結して、世界と通じることのできる哀れな事情をもった方を探さなければなりません。また自分に何か孤独さがあるというならば、その孤独さが世界に連結されるだけでなく、何だか分からないけれども息詰まり、切ない思いが私の心にしみているならば、この大変疲れた心情がこの世界とともに連結され得る時に入っています。

 こういう時にそのすべてを解き明かしてくれる方、すなわち私の不幸と私の哀れさと私の孤独と私の恨みに責任をもつことのできる方を探さなければなりません。さらには、私が待ち焦がれている以上の世界を紹介してくれ、幸福と平和と自由の世界で永遠に感じたかった心情を充足させてくれる方を探さなければなりません。その心情が永遠性と関連して、存在世界のどのようなものとも堂々と幸福をつくりだすことのできる、そのような動機の主体としての一人の方に出会う人は、人生行路において成功者なのです。

 悲しい世の中でそのような一時を感じさせ、体験できるイエス様でなくてはならず、神様でなくてはならないというのです。今日皆さんは知っているという考えをもって歩んでいる足跡を収め、いずれにしても経なければならない、その一時を越えることのできる秘法を教えてくれる方を探し出さなければなりません。

 そのためには、自分が処した事情をたどり、自分がもっている願いの基準を越えた事情を通じて心情を収拾できると同時に、内容的な面でそのような問題を解決してくれることのできる神様であってこそ、安心して信じることができるというのです。

 また、そういう心情の理念を備えて歩んでいってこそ、大変つらい人生行路で悲しみにぶつかったとしても、そのような心情の世界で感じた感情で防ぐことができるというのです。どんなに打って殴ってもより強くなり、天を裏切ることのないその何か、心情の因縁で感じるその何かがあるならば、これは地獄のどん底に追い込まれても占領されることがないでしょう。そういう所が必ずなければならないというのです。神様が人間に対して摂理される方向はその一箇所、本然の園です。

 それで、歴史を支配してきた神様の摂理は数多くの曲折の路程を経て、その一つの基準を立てるようになり、これについていくべき人間もやはり数多くの苦痛の過程を経て初めて、その一つの基準の前に立つことができるようになるのです。それが、存在世界においてすべての存在物が指向しなければならない一つの起点になっているということを私たちは知らなければなりません。このような路程を行くべき私たちは、哀れな人々です。

◆私たちが願う本郷

 本郷といえば、皆さんは何を連想しますか。本郷には自分が愛する父母いて、愛する村があり、愛する家があり、愛する兄弟がいます。私たちが故郷を離れて遠く外国にいるようになれば、その本郷の範囲は広くなり、祖国、すなわち国まで本郷に入っていくようになります。また、宇宙的あるいは天宙的見地から見れば、この世界が私の本郷になります。このように眺める範囲が大きければ大きいほど、その本郷の範囲も比例して大きくなるということを、皆さんは生活の中でよく感じるでしょう。

 それでは、私たちが願う本郷とはどのような所でしょうか。皆さんがどこどこが私の本郷だという、そのような所ではありません。心の本郷、そこは心が楽しむことのできる私の心情の安息所であり、心情世界の安息の場です。

 私たちは、神様が人間を尋ねてこられることに対して、「救援摂理をしてこられる」と言っています。天が私を尋ねてくださり人類を尋ねてくださるならば、私は神様に「事情的な条件よりも心情的な条件として私を尋ねてくださいませ」と言わなければなりません。それはなぜでしょうか。事情は千態万状であるけれども、心情はただ一つの条件しかないためです。これが真の信仰観を尋ねいく人の姿です。

 イエス様は、「天国は私の心の中にある」と言われました。自らの真の本郷は生活にあるのではなく、心にあるのです。天国は心と因縁を結ぶことのできる歴史的な背景があるために、私たちが心からその本郷を慕うのです。心から感じる感情とともに、切ろうとしても切ることのできない因縁で絡み合っているために、その本郷が恋しくなるのです。したがって、私たちの人生行路において本然の心と因縁を結ぶことのできる本郷の生活をしなければならないし、本郷の園を感じなければならないのです。

 では、今日私たちが生きている所ではなく、歴史が願っている真の幸福の園であり、真の平和と自由を紹介できるその本郷には誰がいるのでしょうか。考えてみてください。そこには高く大きく尊厳な神様がいらっしゃるでしょう。また、私たちが待ち焦がれていた主がそこにいらっしゃるはずです。その次には、聖霊がそこにいるはずであり、歴代の摂理史にやって来た数多くの功臣がそこにいるはずです。また、世界のどこの誰とも比べられない忠臣がそこにいるはずであり、世界のどこの誰とも比べられない孝子、孝女、烈女がそこにいるはずです。ところで、皆さんが心の因縁を広めて理念的なことを感じることができないならば、皆さんはその世界と因縁を結ぶことはできないというのです。

 それで、堕落の人生の道を歩んでいる哀れな人間に、数多くの聖賢たちは三綱五倫などを教え、モーセは十戒を紹介し、さらに数多くの道人もそのようなことを開拓するために苦労してきたというのです。人類が本郷への道を行くところにおいて、心田(注:心の畑・精神)を啓発できる使命をもっていない道、そのような宗教、そのような倫理、そのような理念は、この宇宙上から退くようになるでしょう。「退かない」と言っても神様が拒まれます。

 皆さんは本郷を慕い、その本郷を探しています。私たち人間が一つの実体を備え、はるかな彼岸の本郷を見つめて行っているとするなら、皆さんはその路程のどこかの地点にいるはずです。地獄から天国の終わりまでのその道は、どのような道でしょうか。本郷を尋ねていく路程であることを皆さんは知らなければなりません。

 皆さんの中に年を取って識見が老成していく人がいるならば、自分自身を見つめてみるとき、「私は本郷の園とどれだけの距離にあるか」ということが心配の中の心配であり、憂いの中の憂いであるはずです。

 では、本郷はどのような所でしょうか。そこを尋ねてきた者に対し歓喜の腕を広げて迎えてくれる、そのような所をいいます。そこが恋しいのです。

 皆さんが本郷を尋ねていく路程では悔しい事情、悲痛な思い、あるいは悔しくて我慢できない立場に立つこともあるでしょう。しかし、本郷を探すために立ち上がった体(自分)なので、そういう事情は必ずなければならないと思う人ならば、その道で背を向けることはできないでしょう。そして先祖たちが立てた歴史的なすべての偉勲を無視できないはずであり、私たちの人生の道を開拓するために努力している道主の功績を無視できないでしょう。

 私たちは行かなければなりません。年を取って気力が衰える前に、人生の行路を開拓しなければならない私たちです。ここに変わらない凛々しい姿を備えることのできる心情と、心の中心をもった人がいますか。これがきょう、皆さん自体が問答しなければならないことの中心ではないかと考えます。イエス様もこれを指摘して「天国は私の心にある」と言われました。

◆本郷を尋ねいく者がもたなければならない態度

 本郷、そこには恋しい父母がいて、恋しい兄弟がいて、恋しい山河があります。私たちが本郷を恋しがり尋ねいくならば、喜ばない存在物は一つもない所です。そこを尋ねいく自分の姿を見つめてみると「今日の私の生活は物悲しいなあ」、「今日の私の生活行路は悲惨だなあ」ということを感じるはずです。しかし、本郷を尋ねいく路程であるので、ここに悔しくて胸がふさがることがあり、腹立たしいことがあり、涙を流して生死を決定しなければならない瞬間があるとしても、本郷を思うその心を忘れて倒れてはなりません。これが、私たちの人生の道であることを忘れてはなりません。

 すべての聖賢が本郷を尋ねいく道で、心と理念の世界についてさまよいました。彼らはその世界を探し出すために人間的な事情もみな忘れてしまい、人間の世の中で情的に因縁を結んだすべての環境までもみな切ってしまいました。

 私はこう考えてみました。「かわいそうなお父様がお笑いになれる、その時を見たいです」。「私が思慕しすがりつきたかったその心情を知り、私を胸に抱いて泣いてくださるお父様に会いたいです」。そのような時、その心はどうでしょうか。

 人生の道を行くのに、どこの誰よりも悲惨な環境で傷を負い、悔しく、腹立たしい思いをする人、それが自分のためでなくお父様のためであり、本郷を探すためにそういう道を歩んでいく人がいるというなら、天はその人を抱き抱えて号泣するでしょう。

◆酔って生きるようになっているのが人間の本質

 私たちは本郷を探してさまよっています。いずれにせよ行かなければならない運命の路程、行かなければならない過程にとどまっている人々です。どんなに自分自身が賢いと大言壮語する人がいても「万民よ! すべての天宙よ! 私の言葉に呼応しなさい」と、堂々と言える人がいないことを私たちは知っています。

 それなら、今日この人生行路で本郷を尋ねいく足取りを、どこに向けなければならないでしょうか。真の愛の父母がいらっしゃり、真の愛の情的な安息の場のある所です。そこが、私たちがとどまる所であり、私たちが安息する所です。また、そこが幸福と希望のあふれる平和の世界であり、自由の園なのです。皆さんがそこを思慕する心が強くなれば強くなるほど、地に対してきれいに生きなければならないと思うはずです。過去の歴史的な人物は、みなそのように生きた人々でした。

 今日の世の中でも、失った父母を捜すためには千里の道も遠くないと言って走っていき、愛する人に会うためには万里の道もいとわず尋ねいく人がいるのに、本郷の園を尋ねいく皆さんがそれくらいもできないのであれば、反省しなければなりません。

 皆さんがある一時、ある一時間、生涯のどこか一期間でも、本郷の道を探してさまよったことがありますか。このような所で、無責任な皆さんになってはなりません。そのような道で責任を負うことができ、その道に責任をもった生活の一部分を残すことができてこそ、本郷の歴史を再創造し、本郷の摂理のみ旨を立てて進む天倫の前に面目を立てられるのではありませんか。そのように歩んだ先祖が歴史的な人物になることができ、そのように歩んだ道人が宗教を形成できたのです。ですから今日、私たちも本郷の父母を恋しがり、本郷の山河を恋しがり、本郷の家庭を恋しがり、本郷の世界を恋しがらなければなりません。そういう時が来たというのです。

 今日共産主義者たちは、唯物史観を中心として世界的な本郷を夢見ていますが、それでは駄目です。

 外的な事情の通じる世界ではなく、内的な心情の通じる世界で会った人は、その人が黒人でも白人でも黄色人でも、永遠に別れたくないのです。そのような心情世界で人に会って、そのような位置の人を見つけたなら、食べることを超越し、着ることを超越して酔って生きられるのです。

 ある理想主義があるとすればその主義を通して、ある思想があるとすればその思想を通して、どの程度酔って動くことのできる人をつくったのかを見て、その主義や思想を評価し判断するのです。

 人間の本質は酔って生きるようになっているのです。今日、世界的なある大学者がいるとするなら、「私がこのように勉強してこういう学者になる」という人は、そのようになることができません。我知らず酔って熱心にしていれば、世界的な大家になるというのです。酔った感情を通さずしては、今日の既成の内容以上の、どんな法則や公式も発見できません。

◆真の指導者

 人間が探し、恋しがり、会ってみたいものとは何でしょうか。心情で感じることのできる世界、そういう幸福、そういう平和、そういう自由を紹介してくれる指導者だというのです。今日人生の道を歩んでいる私たちに、そういう心情をもって、そういう方向性を教えてくれる指導者がいるならば、彼は真の指導者であるはずです。皆さんにお話ししたいことは、そういう心情をもって人生の道を行く人が地上にいなければならないということです。

 私たちの理念と現実は、相反した面を指向して進んでいます。心と体はいつも戦いの対象になり、闘争しています。なぜなら、人間は堕落したためです。これを私たちは否定できません。

 ですから、世界的な理想世界を探している人がいるというとき、彼は地上に形成されている心の世界で落ち着くことができないのです。歴史を経てくる路程において、彼は安らかな生活をしてみることができないのです。どのような偉人を見ても、みな同じです。

 また皆さんの中に、「私は学んだものがなく、無知でつまらない人間」だと言う人がいるかもしれませんが、人生行路においては誰もが同じです。優秀だとか、そうでないとかはありません。

 なぜそうなのでしょうか。心情を基盤として動くものは、みな同じなのです。大統領が息子を愛する心も、一労働者が息子を愛する心も、みな同じです。むしろ末端にいる人が、妻子を愛する心がより強いということを知らなければなりません。彼らは、自分は足らないという思いがより強いのです。その息子や妻に対して父母の使命を果たせないので申し訳なく、夫の使命を果たせないので申し訳ないという心をもっています。しかし、我こそはと思う人は、「私のすべきことはみなしているのに」と言います。

 心情的に見る時、どちらがより高いでしょうか。むしろ末端にいる人々が、より高くあり得る立場にいるのです。ですから、私たちには人生行路において自慢するものはありません。そのような面で皆さんはその因縁とともに、本然の心情とともに酔って、「ありがとうございます」と言わなければなりません。

◆天の側に近い人

 本郷を尋ねいく人生行路において自信をもっている者がいますか。自信をもって心情的に酔って歩める者がいますか。いないというのです。これが審判であり、神様がいるならば、審判の日にこういう人を呼び出すのではないかと思います。

 人生行路で自信をもって酔って歩んだ人は、歴史が擁護してくれます。イエス様も自信をもって神様のみ旨に酔って暮らし、十字架を背負っていきました。民族的にもその民族の運命と行くべき方向を知り、自分がその責任を全うすることに酔って、死の道をも辞さず越えていった人々を「忠臣であり烈士だ」と言いました。歴史の流れがこういう動きを通じて流れるということを否定することができないように、天情を尋ねいく路程もやはり同様だというのです。

 このような本郷を恋しがる心を誰が遮ることができるでしょうか。私の心から恋しい心情がわき出るのを誰が遮ることができるでしょうか。どんなに知識が豊富で備えたものが多く、気勢が堂々としているとしても、心から心へ新しい何かを指向するこの心を拒否できないというのです。

 そうでない人は理想的な感情を内包できません。そのようなことを切実に待ち焦がれ、そのような感情に酔って話してこそ今日、ある主義、ある思想でも率いることができるのであって、そうでない人は駄目だというのです。

 では、人類の前に指導者がいるとすれば、彼はどのような人物でしょうか。人生行路において自信をもった人であるはずです。その自信は人間の前でだけでなく、神様や被造万物の前でも、自信をもって自分を立て、神様の心情に酔って歩む人であるはずです。

 そのような心情に酔った人がいるならば、誰でも彼の前に行って寄りかかって休みたがるでしょう。そのような内容を備えた人格者がいるならば、誰でも崇拝したいと思うでしょう。なぜなら、本然の心情の発露はそのような道を通るべき運命にあることを感知するので、その道が必ず行くべき路程であることを知り、心はいつもそれを指向して動かざるを得ないためです。

 同じ人生行路で惨めな姿を現している私たちの哀れな事情を知り、私たちの同族が人生行路で倒れるのを見て号泣する人は、天の側に近い人です。兄弟が人生行路で落伍者になるのを見て、「お前はいつ来るのか」と気をもむ人がいるというなら、彼は心情の指導者なのです。今日信徒はそういう指導者を、羊はそういう牧者を要求しているというのです。

 それゆえイエス様は、人間に向かって泣きました。「私のところにきなさい」と言われながら涙を流されました。エルサレムに対して嘆きながら、「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人々を石で打ち殺す者よ。ちょうどめんどりが翼の下にひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのにおまえたちは応じようとしなかった」(ルカ一三・三四)と言われながら、自分の悲しい心情を吐露なさいました。

◆人生路程の成功者

 今日、この世界を抱こうとする人がいますか。世界が進む道を開拓し、ある目的地に近づけてあげようとする使命をもって、それに対する責任を感じる人がいますか。そのような人がいるならば、彼は、この世界のあえぎ苦しんでいる実状を見つめ、イエス様が天に対して訴え流した涙がその民族を支え、今日まで歴史的な因縁を連結してきたという事実を知り、イエス様がされたように、この民族のために天に対して訴えなければならないでしょう。

 今日、歴史的な思潮もそうですが、今後の民族の展望もそうです。天理的な一つの時を望んでいる人類であることを否定できないというならば、そのような過程であえぎ苦しんでいる私たちであることを知らなければなりません。したがって、自分が歩む人生行路で自信をもてなければならないのです。

 その自信とともに、願いの本郷を恋しがる心情に満ちて力いっぱい走る人がいるならば、彼は「山よ遮れ、海よふさがれ、怨讐よ現れよ、私の行く道を誰が遮るか!」と言うでしょう。迫害の風が吹いてきても一時であり、試練の矢が飛んできても一時であり、死の恐怖が出し抜けに襲撃してきても一時であると思い、その一時を越えるために走る人、より大きい一時を探すために自らの小さな生涯の一時を忘れて走っていくことのできる人がいるならば、彼は人生路程における成功者です。

 先ほど話したことと同様に、皆さんの歩む姿を見てお父様が泣くことができなければなりません。そして、皆さんはイエス様が十字架上で亡くなるとき、なぜ神様が顔を背けられたのかということを知らなければなりません。好きで背けたのではありません。死の道を尋ねてきながらも本郷のみ旨を考えるイエス様の心情、本郷の父母を心配して孝誠を尽くすことができないのではないかと恐れるその心情に対する瞬間は、骨髄が溶け出す瞬間だったので顔を背けられたということを知らなければなりません。

 イエス様は彼の心情の帰一点が天地に通じることができる基準に立ったがゆえに、死線を押し分けて復活したというのです。皆さんもそのような心情が起こらなくては、死亡の世界を退け、勝利の凱歌を歌うことができないし、勝利の王子になり得ないということを知らなければなりません。

 今日、そのような方に侍らなければならないと考えるなら、私たちはもがき苦しまなければなりません。そういう感情、そういう心情に連なって酔うことのできる一片の生活内容をもつことができなかったとするなら、私たちはもがき苦しまなければならないというのです。歴史路程の数多くの先祖たちもあえぎ苦しみ、歴史を支配してきた神様もあえぎ苦しんでこられたからには、私たちがどうして動かないでいられるでしょうか。

 そのような道を開拓するためにイエス様は、「求めよ、そうすれば、与えられであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、開けてもらえるであろう」(マタイ七・七)と語られました。安らかな場ですべてを取りそろえることができるのが天の摂理ならば、そのようなみ言はなかったでしょう。

 つらく苦しい人生の道を行ってみると、自分はその目標が正しい道だと思って歩んだのに、反対に歩んだというのです。これが天の悲しみです。父母が願う方向はこのようなものなのに、放蕩息子の姿になって反対方向へ行って蹂躙される姿を眺めなければならない父母の心情を知らなければなりません。そういう息子の姿を見ている父母がいるならば、その父母は号泣するはずです。

◆人間を正しい道に戻すための神様の御苦労

 今日歴史の流れの中で人間が進んでいる方向は、天が指向する方向でなく、その反対方向です。それで、天はこのような人間を取り戻すために、これらが行く道を遮ったことは一、二度ではありませんでした。神様は、ノアを立て家庭的な基準を立てて家庭の正しい理念を探し出そうとされました。そうして、天は人類を犠牲にする恨があるとしても、誤ったすべてを遮り、天が指向する方向にノア家庭を導こうとされました。しかしハムの失敗で、その家庭を探し出すことはできませんでした。

 アブラハムはどうでしたか。本郷を探すために導き出したノアも哀れでしたが、故国の山河カルデヤのウルを離れて、祝福の地であるカナンを探すためにさまよったアブラハムも哀れだったというのです。アブラハムだけでなくヤコブ、モーセも同様でした。本然の民族を回復するために、モーセをエジプトから荒野に追い出した神様の心情はどうだったでしょうか。モーセの生活よりももっと深刻、切実であり、もっと悔しく、もっと号泣の涙にしみた中でイスラエル民族をエジプトから追い出した、神様の心情を誰も知りませんでした。どこの誰が、そのような神様の心情を知っていたでしょうか。

 そして民族を指導したモーセが神様の心情に酔って変わらないで進んでいたなら、磐石を二度打つことはなかったでしょう。ところが、モーセが天の心情と通じることができなかったために、彼の一身がむしろ民族の行く道を遮ったという口惜しく、恨めしい事実を私たちは知らなければなりません。

 本然の家庭を探し出すために天が追い出したノアもそうであったし、祝福の地を立てるために追い出したアブラハムもそうだったというのです。

 本郷の地を慕い望んでいたヤコブはどうでしたか。エジプトで死が近づいた時、自らの骨を故郷に埋めてくれと遺言しました。故郷の地がどれほど恋しくてそう言ったのでしょうか。自分が死ぬようになっても、怨讐の地にはその死体の水までも残しておきたくない心情だったのです。このような選民としての誇り、選民としての感情を大切にしたヤコブだということを知らなければなりません。

 再びモーセを見てみましょう。本然の民族を探し出すためにモーセを追い出した神様は、彼によって民族を率いて、どれほど一緒に生きたかったでしょうか。しかし、そのみ旨をモーセは成し遂げることができませんでした。

 神様のみ旨はすべての人類が本郷の家庭を探し出し、山河を探し出し、その地に民族を立て、国家を立てて世界を回復しようというのです。その立てられた人々がみ旨を奉ずることができず失敗してきたとしても、そのみ旨はみ旨なりに、より大きな範囲を備える条件的な因縁を結んで出てきたのが摂理歴史でした。そうして本然の民族を探し出そうとした神様のみ旨は延長しても、天はこれを収拾して本然の国家を立てるためにメシヤを送りました。ところがそのメシヤがどのようになりましたか。

 イエス様は、民族を中心として神様が主導することのできる国家の形態を整え、天的な主権をこの地上に立ててさしあげようとしました。その心がどれほど切実だったでしょうか。ところが民族の責任者として来られたイエス様に、イスラエル民族はどのように対しましたか。彼を中心として一つの本然の国家を建設し、サタンに向かって行軍する天軍にならなければならず、天の精兵になるべきイスラエル民族はどうでしたか。

 イエス様の死は生き別れです。私はそのように考えます。私たちの信仰の先祖たちは優秀だと、自慢できることが何もないというのです。イエス様を殺したことは、選民の道理ではありません。イエス様が行くべき道はそのような道ではありません。生き別れの道ではないというのです。

◆ユダヤ民族がイエス様と心情的な統合を成していたなら

 この地上には、イエス様の非業の死の恨が残っています。それで、神様はイエス様の死を通して、今日まで人間に心情的な理念で対してこられたのです。ユダヤ民族が世界で勝利できたとすれば、一時を望み見る心情的なもののゆえです。このようなユダヤ民族が、天的な目標を望み見て進む人々を動かし、心情的な統合を成し遂げていたなら、そこからこの地上に一つの宇宙観的な内容を備え、人間の心情に衝撃を与えることのできる主義が出てきたでしょう。そして、そのようになればユダヤ民族を通した一つの世界は、必ず築かれたことでしょう。

 ところが、イエス様を中心として築こうとしたその本郷の国は、どこに行ったのでしょうか。アブラハムが祝福を受けて天の前に祭祀を行ったその地、その聖殿はどこに行ったのでしょうか。神様が直接主管できたアダムや、選んだノアと箱舟の中にいた彼の家族は、どこへ行ったのでしょうか。私たちが暮らすべき、天の安息所になることのできるその本郷の世界は、ありません。ゆえに聖書にも、孤児のようで未亡人のような私たちだとあります。

 皆さんは、人生行路において進む姿がもの寂しくても、宇宙をたたえることができる感情が天と共に、万物万象と共に、その流れる心情が天情と共にできる人格者になるべきだというのです。もし、私がそのような人に出会ったなら、いかなる環境の中でも至誠を尽くし、彼に侍ったことでしょう。

 私たち人間は、悲しみの歴史を繰り返し、自ら縛り殴って、自滅する立場を繰り返してきました。ノアの時にもそうであり、アブラハム、モーセ、イエス様の時もそうでした。では今日、歴史の終末時代において人間の運命を解決し、人間が自らの使命を完遂して生命の道を開拓していかなければならないことを警告しているこの時に、神様はいかなる所に人類を追い込むでしょうか。イエス様の時代には、本郷の国を探し出すために人類を追い込みましたが、これからは、神様が願う本郷の世界のために追い込んでいるということを、私たちは知らなければなりません。

 探し出すべき本郷の世界、その世界を立てて支配するために万王(注:宇宙にあるすべてのものの王)の王が来ると言いました。彼こそ、私たちが待ち焦がれている主です。人生行路で倒れる恨があっても、本郷の国を探すために引かれ死ぬ者がいるならば、その国が建てられる時、彼は忠臣であり、功臣として残るのであり、天が立てるに違いありません。

 それで、過去にパウロも自らのすべての社会的な権威を捨て、孤独な身で惨めな死の道にまで行ったのです。彼は一時が来ることを確信していたのでそうすることができ、神様もそのような一時が来ることを確実に御存じであるので、今日こういう摂理をしていらっしゃるというのです。こういう道を行かなければならない人生であることを知り、皆さんは自信をもってこの道を行かなければなりません。

◆本然の理想の園

 私たちが行くべき所がノアが探した本郷の家庭であり、アブラハムが探した本郷の地であり、モーセが探した本郷の民族であり、イエス様が探した本郷の国です。神様とイエス様がなしていることも本郷の世界であるからには、皆さんはその世界と皆さんの感情が動く因縁を結んでいますか。そうでないとするなら、皆さんには人類歴史の落伍者の印を受ける日が来るでしょう。

 私たちは、本郷の世界を恋しがっています。善悪の出発が、一つの起点を通してなされたというのです。善悪が神様を中心として始まったので、その解決も神様を中心としてなさなければならないというのが鉄則です。失ったものを見つけようとするならば、失った所に行って捜さねばならないのと同じです。

 本然の園は、理想の園です。有無相通ずる世界であり、兄弟の感情が全宇宙のどこでも通じることのできる世界でした。今日のように民族的な感情あるいは国家の、ある主権的な違いで議論できる理想と主義の世界ではありません。民族の差別、あるいは国家の主権等そういうすべてを超えて議論する世界、人間の経済的な事情とか文化とか条件の違いで議論するのではなく、心情をもって議論する世界でした。

 ある家庭にお兄さんがいて弟がいるのですが、そのお兄さんは大統領であり、弟は労働者だとすれば、お兄さんが弟に「お前は労働者だからうちに入って労働でもしなさい」とは言えないでしょう。真のお兄さんだというなら、その弟が自分のようでないことを哀れみながら、高めてあげたい心情が起こるのが真のお兄さんの心なのです。

 神様がこのような家庭的な理念、本郷の家を恋しがっていらっしゃるがゆえに、全人類もそういう本郷の家を恋しがっているということを知らなければなりません。

 では、これが私たちが必ず行くべき運命の歴史的な解明点であり、人間的な解明点であり、摂理的な解明点であるというなら、その観点と基準は私とどのような差があるのでしょうか。その差が大きいならば、私たちは大声で痛哭しなければならないでしょう。

 したがって「神様! 哀れな私を許してください。私は何も知りませんでした。歴史の流れを知らず、歴史が指向する摂理の方向と目的を知らず、人生行路が絡み合っていることを知りませんでした。あるいは預言者や烈士、歴代先祖たちの苦衷と歴史的なその内的心情を知りませんでした。また私たちが信じているイエス様が行かれた道も知りませんでした。神様が来られた道も知りませんでした。知らなかった罪を許してください!」と祈らなければならないのです。「知っているという立場でも許されないのに、知らなかったのでより一層許してください」と言わなければなりません。

 それで宗教では「驕慢(傲慢)は怨讐だ」と言いました。「驕慢になるな。私を前に出すな、私が怨讐だ」と言いました。なぜでしょうか。私はそのように負債を負った者だからです。こういう心情で静かに目を開き自分を再び見つめてみると、ひどいものを感じるようになります。そのような歴史的な心情をもって天とともに何か感じる感情に接するとき、ひどいものを感じます。歴史的な悲哀、悲運のカーテンでふさがれているのを見つめるとき、体が身震いするというのです。

 そのような峠を耐えてこられたお父様であり、そのような峠にぶつかり死にそうになりながらもその国、その世界が恋しくて、その世界の自由と幸福と平和を探し出すために戦ってきた預言者や烈士だったのです。

 そうでありながらも、行かなければならないこの道を開拓しなければならないという確固たる信念と度胸をもたなければなりません。イエス様もイスカリオテのユダの一党の前に現れる時、凛々しい姿で進んだので、その姿に彼らは頭を下げたのです。「来るなら来い」という一面を見せてくださったのです。

 どんなに難しいことも心情では往来できます。ある悪党がいて、父母と息子の間の愛を遮ろうとしても遮ぎることのできる者がいますか。いません。ある意識的な霊感によって感じるのでなく、自動的な、自然的な感情で感じることができる場があるとするなら、ここにはサタンがどんなに侵犯しようとしても侵犯できません。妨害すればサタンが大変なことになるのです。サタンが溶けてしまうのです。人生行路でそういう感情を感じる人が、天国へ行くというのです。

◆イエス様が語り尽くせなかったみ言

 私たちは、本郷を尋ねいく人生行路にあります。イエス様は、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ一四・六)と言われました。しかし、ここに一つ付け加えるべきみ言は「私は愛である」というみ言です。このみ言をイエス様は漏らしました。

 したがってここに「私は愛であり、真理であり、道であり、命であるから、私によらないでは神様に会うことができない」と言うことのできる自信をもった人、天の心情と通じることのできる人が出てきたとするなら、彼に対して「お前はこの地で天に背いた者だ」と言って、審判台に上げることはできないでしょう。神様はそういう息子、娘が地上にたくさん現れることを待ち焦がれていらっしゃいます。イエス様を高く見るのもそのためです。

 私たちには、私の体を任せることのできる所、私の心を任せることのできる所、私の心情を任せることのできる所がなければなりません。本然のエデンの園でアダムが万物の主人公だというなら、万物は彼に対し、どのように考えるでしょうか。すべての万物はアダムに対して、「どうか私の主人になってください」と言うようになっているのです。

 神様はどんな方であるために、私たち人間が「神様、神様!」と言うのでしょうか。神様はすべてのものが「私の主人になってください」と言える立場にいらっしゃる方だからです。そうでなくては理想的な主管を受けることができません。

 今日、人類は「私のすべてをあなたに差し上げようと思いますので、神様! 主人になってください」と言えなければなりません。そのようにできる歴史、そのようにできる摂理、そのようにできる内容の人格を立てる者にならなければなりません。さらに、皆さんがそのような方に地上で会ったとするなら「私の体を、私の心を、私の心情をあなたが主管してください。私の主人になってください」と言ってこそ、万物もその人を待ち焦がれていた主人として応対しようという気持ちが起こるでしょう。皆さんは、そういう存在にならなければならないのです。

◆いたくて、暮らしたくて、行きたい所

 今日皆さんが真理を通して体がそのようになり、心がそのようになり、心情がそのようになれば、この真理が世界を支配する時が来るのです。そのようになれば、この真理は世界を支配しても余りあるのです。

 これから皆さんがいたい所、暮らしたい所、行きたい所があるならば、そのような所が本然の場なのです。そこにいる食口たちは兄弟です。会っていなければ、会いたくならなければならず、傷を負っていれば、その傷を胸に抱いて泣いてあげることのできる気持ちがわき出さなければなりません。皆さんはそうでなくてはなりません。誰かが傷を受ければ、胸がふさがり泣いてあげることのできる人にならなければなりません。

 私たちの本郷の家は、いかなる所でしょうか。お父様が私を胸に抱いて泣いてくれる所です。主も共に泣くことのできる場です。心情の因縁を一部分も取り外さないで、同伴者の立場、友人の立場で、あるいは新郎の立場で対応してくださろうとする天のみ言、有り難くもったいないみ言です。

 「不肖な者をして主が泣いてくださるとは、お父様がそうされるとは、おそれ多いです。それによって私の人生行路で傷ついたすべてを忘れても余りあります」。このように考えようとしても考えられず、大きなお父様の愛をたたえる感情が先立たなければなりません。そうしてこそ、天国に行くことができるというのです。

 初めて他郷に来た人は、時折故郷が恋しくなるはずです。その心が純粋で本然の心情であれば、自分が様々な苦労をして故郷に戻り、お母さんと兄弟の手をつかんで涙しながら、自分の過ごしてきた事情を時がたつのも忘れて、夜を明かしながら打ち明けることのできるその場、その村、その山河をしのぶことができるのです。

 復帰の恨が解けていない私たちに、人生行路を歩む過程において「おお、主よ! お父様!」と言う瞬間、すべての天地万物が喜ぶ中で「そのとおりです、ハレルヤ!」と歓呼できる瞬間があったのかというのです。皆さんにはそのような瞬間がなければなりません。それがないとするなら、天が悲しい立場に、哀れな立場に置かれざるを得ないということを皆さんは知らなければなりません。

 皆さん、幸福な者とは胸に抱いて泣いてあげる人をたくさんもった人です。子供が良いというのはなぜでしょうか。父母が大変なとき、父母が涙を流すとき、共に泣いてくれるがために良いというのです。また父母が喜ぶ時、共に喜ぶというのです。それゆえ悲しみも共にし、喜びも共にすることのできる人がいる者は幸せだというのです。

 私たちの進む道の理念に責任を負った指導者、あるいは教団的な責任者がいるとするなら、彼は羊たちのために泣いてあげることができ、号泣して哀れみの心をもつことができなければなりません。そうして羊たちが自分たちのすべての事情をその指導者の前に打ち明け、それによって喜怒哀楽の感情が豊富になるとき、その人々は、真の牧者に会った幸福な人々だというのです。そういう天であるので良いというのです。

 したがって、今日私たちが人生行路で、大変疲れた体でも勝利的な一つの内容をもって現れるようになるとき、歴史的なすべての聖賢や賢哲、そして天が歓喜して迎えてくれることのできる一日が来るということを知って、その日を栄光の中で迎えることができなければなりません。

 そうしてその日を感謝し、その日に自分のすべての過ちを忘れてしまうことができ、その日に待ち焦がれた願いをみな成し遂げることができることを望みながら、進まなければなりません。そのように進む人が、今日修道の道を行く人々です。





























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