文鮮明先生のみ言集
訓教経(上)


神様の祝福の最大の願いとは何か

一九六〇年四月二十四日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第九巻』


 堕落以前、私たちの先祖は、万物の主人公としての資格を与えられました。神様から「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、……すべての生き物とを治めよ」(創世記一・二八)という祝福を受けたのです。

◆人類歴史は神様の救いの歴史

 そういう祝福が昔、私たちの先祖に与えられたのに、今日までこの地には、神様のその祝福どおりにすべての天地を主管した者がいなかったのです。もしその祝福が成されたとするなら、この世界は嘆息の世界にならなかったでしょうし、苦痛の世界にならなかったでしょうし、人類は恨みの世界でさまよわなかったことでしょう。

 ところがその祝福が成されなかったがゆえに、今日まで人間は悲惨な歴史路程をさまよってきました。どのような歴史をさぐってみても、そこには悲しみと苦痛の事情がつづられているということを私たちはあまりにもよく知っています。このように人類歴史は、神様の祝福を成し遂げてきた過程ではなかったのです。

 これを見るとき、人は幸せな立場を失って、幸せでない立場に落ちたというのです。あなた方も、幸せな立場でなく、幸せでない立場に処しているのです。私たちは、幸福な立場で生きているのでなく、不幸な立場で生きているというのです。平和の世界で生きているのでなく、その反対の世界で生きているということを否定する道がありません。

 皆さんの存在意識において、生涯の価値を尊重視すればするほど、何と縁を結ぼうとするのでしょうか。喜びの要素、幸福と自由の要素、無限の解放の要素と縁を結ぼうとします。これは、皆さんが実生活において、良心生活において、誰でも体験できる、拒否できない事実の中の事実です。

 歴史的な聖賢たちと多くの道主たちも、これを開拓するために闘ってきましたが、このような真の理想の要素とともに楽しむことができる、絶対的な基準を探すことができなかったのです。まだこういう基準を探し立てていない私たちは、悲哀と嘆息の生活を続けるしかないのです。

 このようなことが天地万物を造られた神様の創造目的ではなく、また人間を立たせておいて、あらゆる被造万物を主管して暮らすよう祝福してくださった目的ではないことを、皆さんが感じなければならないのです。目的としない世界が成されたので、なるべき世界になれず、人類歴史は、その本然の世界を再び回復しようという救いの歴史となりました。

 人間に「救い」という名詞が必要であるのは、人間が正常な状態にいないということを意味します。なぜなら、本然の状態にいない者を再び本然の状態に戻すことが救いであるからです。

 人間は、神様が願う目標のもとで漠然とですが、ある目的の世界を願ってきました。ですから、神様が願う目標と私たち人間が願う目標が私たちの心情基準で完結され、喜んで唱詠を差し上げることができる一場面がこの天地間で行われるならば、その時から人類の幸福の世界が始まるはずです。

 その時とはいつでしょうか。そのような場所とはどこでしょうか。そのような世界がいつでも成されるでしょうか。人間はそのような時と所に向けて随時、自分たちも知らない闘いを続けてきました。私たちは、そのような先祖たちの悲しい子孫です。

 反面、天は失った人を再創造し、失った世界を回復する役事をしてこられました。エデンの園でいとおしく懐に抱き、願いをもって心情を傾け、きょうかあすかと見つめてこられた私たちの真なる先祖、罪を知らなかった彼らと共に夢を抱き、彼らと共に創造理念を成し遂げる日を思い焦がれた神様の心情、その心情は今日、人間世界で行く所なく、消えてしまいました。

 神様の心情と理念と世界観は、私たちが夢にも推し量ってみることのできない驚くべき心情であり、驚くべき理念です。また驚くべき世界観であるにもかかわらず、私たちはそういう理念的な心情の世界とは何ら縁がないような立場、その世界は永遠に行ってしまったような立場に置かれたまま、さまよう人間になったのです。

 ゆえに神様は、堕落する前のアダムとエバを立て祝福なさったその祝福を再び回復するために、今日まで人類歴史を抱き締めて、ひっくり返していらっしゃるというのです。

◆目的世界に向かって歴史を引っ張っていかれる神様

 人類歴史は、人間だけで動かしてきた歴史ではありません。私たち人間が、ある目標をもって、ある計画のもとに引っ張ってきた歴史ではないのです。時期と時期、時代と時代、世紀と世紀を経てきながら多くの革命もありましたが、その革命理念により何十年あるいは何百年で成された世界は、みな消えてしまいました。それは人類歴史が、人間の見た夢によって成される歴史ではなく、人間のいかなる創造的な計画のもとでも成される歴史ではないためです。

 人類歴史は、大天倫の目標と計画のもとで、一つの理念的な目的地に向かって進んでいく歴史です。このように人類歴史には、苦難の歴史過程をたどり、自然な形態の世界を展開させようとする天のプログラムが含まれているのです。歴史にこういうプログラムがないとするなら、神様は存在しないはずです。

 私たちは、堕落しないアダムとエバを祝福なさった神様の祝福の恵みを懐かしく思うことができなければなりません。神様が堕落しないアダムとエバを立てて手を取って祝福なさったとするなら、祝福なさった神様のその手は、どこへ行ったのでしょうか! 祝福なさったその祝福の権限は、どこへ行ったのでしょうか! 祝福とは楽しくて幸せな因縁の条件であるはずですが、その条件を中心として見つめてこられた世界理念は、どこへ行ったのでしょうか! みなどこかへ行ってしまったというのです。

 ですから天は、人間中心のこの世界を収拾して、遠くの見解の世界を近い見解の世界へ、遠くの感覚の世界を直接的な感覚の世界へ引き込むのです。外的な世界を内的な心情の世界と結びつけて、「私」という一つの存在価値と全体価値の絆を謳歌することができる世界へ連結させるために、その目的のもとで歴史は回り、曲がりくねりながらこの世界を成してきたことを知らなければならないのです。

 ふっと見てみると、目的なく流れる歴史のようですが、過ぎてみればある目的意識のもとで一つ一つのことが処理されてきたことが分かります。このようなことを見るときに、全歴史は私たちが知ることのできないある目的意識、絶対的な計画によって動く歴史であることが分かります。

 私たちは、創造主の大理念を中心としたプログラムによって、開拓者の使命をもっています。しかし私たちの先知先烈、聖賢、賢哲が先にこの使命を継承して分担してきました。このように、そういう大目的世界を成し遂げるために人類が動員されただけでなく、天も動員されてきたのです。

 それでは、神様の最大の願いとは何でしょうか。神様が喜んで心情全体を掲げて祝福することができる、その願いとは何でしょうか。これが問題になるのです。神様の祝福の最大の願いとは何でしょうか。きょう皆さんと共に考えてみようと思う問題は、正にこれです。

◆神様の救いの摂理における一人の人の価値

 朝、目覚めて自然を眺めれば、その自然がわけもなく私の本性と因縁を結び、新しい理想の感情を芽生えさせます。しかし人間の世の中は、見れば見るほど絶望と悲しみの感情をかきたてます。

 本来堕落しない本然の人間が住む世の中ならば、人間の価値は、そのように眺めることによって悲しみを感じさせるはずはないのです。一握りの草や花一輪、木一株のような程度の価値で造られた人間ではありません。被造万物の何を与えても換えられない高貴な人間であり、何とも比較できない価値ある姿として、天上に代わって出るべき人間でした。

 ところが、大天宙の前に立つことのできる位置をなくし、価値をなくしたその日から、人間は間違いなく悲しみを増やす祭物となり、苦痛の橋渡しをする礎になったという事実を、この時間に私たちは知らなければなりません。

 では私たちは、いかなる姿で創造の大理念をもっている創造主の前に出るのでしょうか。対人関係において、皆さんが悲しみと苦痛を象徴する姿で現れるなら、皆さんは全体の理念を立てようとする天の前に、悲しみと苦痛の対象であらざるを得ないのです。しかし、皆さんが喜びと楽しみの象徴で現れることができるならば、ここから願いの世界が連結されるのです。

 ですから、自らがいかなる位置にいるのか自ら判断して、その位置を決定し、私がとどまる所ごとに人々が私を好み、私が動く所ごとに人々が私に従い、私によって何かが残り、全体の前に誇ることができる内容をもたなければなりません。そうできなければ、人間世界でも天上の理念世界でも、容認されない罪人になるのです。

 問題は自分自身にあります。国が悪いと恨むことではなく、社会が腐敗したと恨むことではありません。それらは第二次的な問題です。問題は「私」にあるというのです。

 天が救いの摂理をするときには、個人を離れて家庭の摂理をすることはできません。ですから、アブラハム個人を中心としてアブラハムの家庭を救おうとしたし、ヤコブという個人を中心としてヤコブ家庭を救おうとしたし、モーセという個人を中心としてイスラエル民族を救おうとしたし、イエス様という個人を立てて世界を救おうとしたのです。それで世界を救うためのイエス様、民族を救うためのモーセ、家庭を救うためのヤコブとアブラハム、彼らは皆さんのためにそのような道を行ったということを知らなければならないのです。

 今日人々は、異口同音に終わりの日だと話していますが、この時はいかなる時でしょうか。全世界を管轄なさる神様と対面する時が近いのです。全世界の統治権をもってこられる王の王である主の前に、近づくことができる時なのです。

 では、その時を迎える人は、どのような人でなければならないでしょうか。昔のアブラハム、ヤコブ、モーセ、イエス様に代わることができ、さらには世界を代表することができる人でなければなりません。それで世界が必要とするその一人、イエス様が必要とするその一人、神様が必要とするその一人、社会が必要とするその一人、家庭が必要とするその一人、私たち個体が必要とするその一人の姿を立てることができる時、その時から世界は収拾されていくはずです。

◆失望の立場で探すようになる道義の道

 今日私たちは国の中で生きていますが、国でない国で生きています。社会の中で生きていますが、社会でない社会で生きています。家庭の中で生きていますが、家庭でない家庭で生きています。イエス様はおっしゃいました。「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである」(マタイ一〇・三四)と。創造主の理念のもとでは容認されない否定的な地になったので、ここに革命を起こすためにイエス様がいらっしゃったというのです。

 では、私たちの出発の起源はどこでしょうか。私たちはどこから出発したのでしょうか。私たちは神様の愛の懐から出発したのではなく、神様が悲しみの涙をぽたぽた落とす立場から出発したのです。そのような人間なので、苦痛を受けてやるせない立場に立ち、殺しに遭い、号泣して絶望する立場に立つようになったのです。

 道義の道は、苦痛を当然として行く道であり、失望の道を正当化させて行く道であり、絶望の立場で希望をもって進んでいく道です。なぜですか。人間は反逆者であるために、反逆の種を蒔いたすべてを蕩減しなければならないのです。報いを受けなければならない人間であるので、蕩減を受けなければならないのです。

 では、今後世界を支配できる民族は、いかなる民族でしょうか。悲しみを甘んじて受ける民族、苦痛を甘んじて受ける民族、悔しさを当然として受ける民族、そうしながらも天をつかむ民族が世界を支配するのです。

 ゆえに昔からずっと善の道に従ってきた人々は、心では喜びと幸福の世界を望みましたが、実際の生活では苦痛の道を歩みました。「苦痛よ来い。お前に私の願いを取られるものか! 悲しみよ来い。お前が私の喜楽を抑えられるものか! 死よ来い。勝利の一日、栄光の一日を願う理念の世界観を奪われるものか!」という覚悟のもとで歩んできた道が、聖賢、賢哲たちの道であり、キリスト教の歴史なのです。怨讐から受ける手の苦痛、怨讐から受ける足の苦痛、怨讐から受ける横腹の苦痛をイエス様は当然として受けられました。歴史は、このようなイエス様と同じ群れを通して収拾されてくるのです。

◆落伍者を立てて摂理される神様

 天は、どうして人間をそういう環境に立てて役事なさるしかないのでしょうか。それは、世界が既にサタン圏内に入っているためです。この世界を支配しているのはサタンです。それで天は、先頭に立って人類を指導することができませんでした。今日まで後ろから役事してこられたのです。

 終わりの日になれば、悪はふさがってしまうのが原則です。この歴史は、世界的な舞台に向かって出発したので、その終わりも世界的な舞台で成されます。悪は転がることで始まったので、終わりの日まで転がってきているのです。六千年間そのように転がってきました。しかし、悪は必ず途絶えるようになっています。悪の軌道は正常な軌道ではないために、ある時、必ず脱線するのです。その時が終わりの日です。終わりの日には切れるのです。

 これを知っている天は、この悪の世界を正面から防止しようとしはなかったのです。このように転がってくる悪の世界のもとで、落伍者を収拾してこられたのです。これが天の歴史です。悲しいことです。全天地をサタンにみな奪われた天は、生き生きとして凛々しい者たちを収拾するのではなく、悪に向かって駆け足をしている死亡世界の権勢の後ろで、絶望して落ちる落伍者を収拾してこられるのです。これがまた、宗教の使命です。

 ですからこの世で落伍したり、大きな絶望に打ちひしがれたり、失敗をしたり、その何かに衝撃を受けて頼ることができなくなったとき、大多数の人々は道義の道を訪ねます。悲しいことがあるというなら、これ以上悲しいことはありません。

 人間が堕落しなければ天はその直系の子女を通して、この世界を自由に主管することができたのです。ところが人間が堕落して、サタンがこの世界を主管するようになったその日から、天は落伍者をつかんで頼む立場になったのです。それゆえに天を信じる人々は、愚かな人々だと非難を受けています。

 しかし、無知で無力で何も分別できないこの者たちが、天を信じて礎石になってきています。洞穴に石を詰め入れて、また入れて、埋めて、また埋めて、その洞穴が平坦になるまで、この地の数多くの落伍者が道義の世界で祭物になってきたのです。

 天は世の中の落伍者を収拾して、この地のどのような者にも負けない個人を立てるために、無限に努力されました。このようにして立てた人が、アブラハムであり、ヤコブであり、モーセであり、イエス様なのです。ヤコブは家庭を、モーセは民族を、イエス様は世界を収拾するための代表者だったのです。個人を立てて家庭を収拾し、社会と国家、世界を収拾しなければならないために、その代表者として遣わされた方がイエス・キリストです。

 イエス様が来られて逝ったその日から今日まで、キリスト教はイエス様が再び来られるという再臨思想を抱いてきました。では、今後この地に再び来られる主は、いかなる使命をもって来られるでしょうか。世界を収拾する代表者の使命をもって来られるはずです。それで天は、愚かな人から橋渡しをし、肩と肩を連結させて、体と体を連結させて、この天地のどこの誰にも負けない一つの理念的な代表者を前面に立てるために役事してこられたのです。

 過去には、おばあさんたちがたくさん動員され、真心を尽くしました。また婦人たちが、多くの真心を尽くしました。他の見方をすれば、今日までの宗教は婦人たちの宗教でした。男性たちの宗教ではなかったのです。か弱い女性たちが悲しみに満ちた心情で真心を尽くして積み上げた土台の上に、今日のような世界的な宗教の形態を備えるようになりました。このようにして、これがだんだん社会全体に伝播され、世界を動かすことができる民主陣営を建設するようになったのです。

◆天の真の忠臣、孝子、烈女

 では、終わりの日とはいかなる時でしょうか。この世界を収拾しなければならない時です。したがってこの世界を収拾できる祝福を受けた代表者、祝福を受けた群れが出てこなければならないのです。イエス様はこの地に来られて「私は息子であり、神様のひとり子」と言われ、「私は新郎であり、あなた方は新婦」と言われました。しかしこのみ言どおり「あなたは天地を代表した私の新婦だ」と認められた人は、この地に一人もいなかったのです。

 今日全世界に散らばっている数多くのキリスト教信者は、みな自称新婦だと豪語していますが、天が「あなたは間違いなく天地を代表した新婦だ」と公認した人がいないというのです。さらには神様を「お父様」と呼んではいますが、神様から「あなたは本当に私の愛する息子、娘だ」という祝福を受けた人は、一人もいなかったのです。

 私たちは、イエス・キリストを「王の王」だと言っています。「主の主」あるいは「絶体的な主体者」だと言っています。しかしその方の前に、「忠臣である」と祝福を受けた人がいないのです。天の忠臣が出てこなかったし、天の孝子が出てこなかったし、天の烈女が出てこなかったのです。

 ある絶対的な信仰をもった人がいて、天が彼を「天地を統治できる立場に立てて祝福をしてあげたい」と言うなら、彼は最高の立場に出るようになるのです。そうするには、彼はその国の「最高の忠臣」という名前をもつべきであり、その国の「最高の孝子」という名前をもつべきであり、また信仰者を新婦だといったので、その国の「最高の烈女」という称号をもたなければならないのです。

 しかし、神様が六千年の間復帰摂理をしてこられましたが、「あなたは天地が造られたその日から今日までの歴史で二人とない私の忠臣だ」と祝福してあげた人がいなかったのです。「創世以後今日までの歴史で、あなたは私の前に真なる孝子だ」と言って祝福してあげる人がいなかったし、「烈女だ」と言って祝福してあげる人がいなかったのです。

 なぜでしょうか。天が前面に押し出すことができる国家があってこそ忠臣があり、天が前面に押し出すことができる真の新郎がいてこそ新婦がいるのです。この地の国家は、天が立てることができる主権をもった国になることができず、この地の家庭は、天が永遠に愛して守ることができる真の父母をもった家庭になることができず、この地の人々は、天が永遠に信じることができる真の新郎、新婦になることができなかったというのです。

 ゆえに、創造主は創世以後今日まで、この地上に住む人間の中で「あなたは私の愛する息子、娘だ」、「あなたは天上天下を代表した孝子だ」と言って前面に立てた人がいないのです。「あなたは私の前に忠臣だ」と立てた人がなく、「烈女だ」と立てた人がないというのです。

 神様は、大天宙を造って祝福したアダムが堕落したので、その日から限りない悲しみを抱いてこられました。神様が親しく主管しなければならないすべての天地は、怨讐が主管する世界になり、この地の家庭は、怨讐を敬う怨讐の息子、娘で成された家庭になりました。怨讐の孝子、忠臣はいても、天の孝子、忠臣はいません。怨讐の世界で、怨讐のみ旨を敬う烈女はいても、天のみ旨を敬う烈女は一人もいないというのです。

 このような世の中をひっくり返さなければならないので、イエス様はこの地に来られて叫んだのです。イエス様は祈祷なさいました。「あなたが求める忠臣となさしめ、あなたが願われる真の孝行者となさしめ、あなたが恋しがる真の新婦となさしめてください!」と。これが、世界を収拾するために来られた、天の王子であられるイエス様の願いであったのです。

 堕落した私たちは、懐かしがります。何を懐かしがるのでしょうか。天が認める忠臣になることのできる国を懐かしがります。真の父母に侍って孝行者になることのできる世界を懐かしがるのです。真の新郎と新婦になって天の懐に抱かれる本然の世界を懐かしがるのです。これが、人間の願う最大の目標です。

◆イエス様が再臨しなければならない理由

 私たちがこの地でどんなに燃え上がる情熱に徹して、忠誠をすべて尽くしたとしても、天はそれをそのまま受け入れることはできないのです。どんなに手厚く自分の父母に孝行をしたとしても、天はそれをそのまま受け入れることはできないのです。その忠誠と孝行は、ある条件にはなるけれど、天がすべて受け入れることのできる忠誠と孝行にはならないのです。地にどんなに烈女が多くいて、彼らがどのような条件を立てたか知りませんが、天が完全に祝福できる天の烈女にはなれないのです。悲しいことです。

 イエス様も、天国の完全な忠臣にはなれなかったのです。なぜなれなかったのでしょうか。天国の真の忠臣ならば、世界的にサタンと戦って勝利しなければならないのです。怨 讐を完全に屈服させて完全にはね除け、悲しみの主人に喜びの場で侍らなければならないです。そうしてこそ、天の完全な忠臣になるのです。

 しかし、イエス様は闘って倒れました。忠臣の節義と志操を立てようとした大宇宙の目的を、みな成し遂げることができずに、残して逝きました。それゆえに、再び来なければなりません。この地を、神様を真の父母として侍って孝行する自由天地にしなければならなかったのに、その仕事をみなできなかったので、真の孝行者になれなかったのです。

 ですから、再び来なければなりません。み言では成しましたが、実体では成し遂げることができずに逝きました。「私は新郎だ」と叫びはしましたが、実体を備えた真の新郎となることができなかったので、再び来なければならないのです。このようにイエス様は、祝福は受けましたが、実体的な権限は行使することができずに逝ったというのです。これがキリスト教の悲しみです。

◆孝子、孝女の基盤で準備される忠臣の道

 神様が手を取ってアダムとエバを祝福なさる時に、神様は彼らの父として、心から何を願われたのでしょうか。「おお! お前たちは私が造った大天宙を抱いて、私を王として侍り、忠臣になりなさい」と言われたはずです。したがって、アダムとエバはこの天地間に忠臣の志操を立てて、それを億千万年、伝統に残さなければならなかったのです。

 アダムとエバが、神様を真の父として侍り真の孝子、孝女になっていたなら、彼らが神様の前に立てた「忠孝の節義」は伝統になったであろうし、この地の歴史は、神様とアダムとエバの連結された心情を中心としてつながってきたでしょう。そうすれば悪が主管できません。神様の心情世界を悪が主管することができるならば、復帰歴史、救援歴史が成就することは絶対不可能です。

 アダムとエバが神様を真の父母として侍り、孝子、孝女として神様と心情の因縁を結んだなら、今日この地は絶対にこのようにならなかったでしょう。アダムとエバが「忠臣の節義」を失い、孝子、孝女の志操をなくしたゆえに、人間は「新郎新婦」という名詞を掲げてそれを復帰してきたのです。

 もともと新郎になろうとすれば、まず忠臣の節義を立てて、国を愛する忠臣になり、父母を愛する孝子にならなければならないのです。そののちに、一人の男性として新郎になるのです。ところが堕落したので復帰しなければならないのです。

 今日キリスト教信者は、「新郎新婦」という名詞に陶酔しています。しかし、これだけではいけません。新郎新婦になろうとする目的とは何でしょうか。神様を真の父母として侍ることです。新郎新婦の愛だけではいけません。神様の愛を受けなければならないのです。家庭的な神様でなく、大天宙を主管する万軍の主、その神様の愛を受けなければならないのです。人間はそれを必要とします。

 私たちの家庭でもそうです。父母との情の因縁を基盤として、一つの夫婦の愛を基盤として、主権者に認められることが人間の生活倫理です。国なくして家庭があり得ず、家庭なくして夫婦があり得ないのです。

 今日、全世界人類は「新郎新婦」という名詞にとどまっています。しかし、私たちはここで一歩進んで「天よ! 主は新郎として来られるといいますが、新郎よりは私を再び生んでくださる真の父母を送ってくださいませ」と祈祷できなければなりません。私たちは新郎新婦の愛で終わることなく、「私は孝子、孝女としてお父様に侍ります」と言える基準を立てなければなりません。その次に、神様を万軍の主として、王の王として侍ることができる忠臣の舞台をつくらなければならないのです。

 救いとは何ですか。救いの目的は、新郎新婦として会うことではありません。新郎新婦として会い、神様の前に孝子、孝女にならなければならないのです。これが救いの目的です。さらには孝子、孝女になったのちに、忠臣になることができます。親不孝する者は忠臣になることができません。孝子、孝女になったのちに、神様の前に、または国王の前に忠臣になることができるというのです。

 それで、今日キリスト教の思想のように新郎新婦だけで終わるのではなく、新郎新婦が会ったのちに二人が共に神様の前に忠誠を尽くさなければならないのです。そして「孝子、孝女として認められるようにしてください」と、主をつかんで祈祷しなければならないのです。

 この地の嘆きとは何でしょうか。天が忠臣だと認めることができる天的な主権の国になれないことです。天が公認できる堕落の血統を脱いだ本然のアダムとエバ、すなわち真の父母を失ったことです。心情的に私たちを守ってくれる真の父母を失ったので、サタンが私たちを蹂躙しているのです。ですから私たちは孤児だというのです。

◆地上天国を成し遂げるための小羊の婚宴

 いくら立派な新郎新婦になったといっても、彼らが真の父母から孝子、孝女という祝福を受けてこそ、初めて永遠の新郎新婦になるのです。今までイエス様を信じてあの世に行っている数多くの聖徒がいますが、イエス様を新郎として侍った聖徒はいません。それはまず、孝子、孝女として真の父母との因縁を結ばなければならず、そのあとで初めて新郎新婦になるからです。原則がそうです。それでどんなに新郎新婦の縁を結んだとしても、真の父母との縁を結ぶことができなければ保留です。霊界の天使のようだというのです。

 ですから、今後この地上に来られる主は、いかなる使命を完結するために来なければならないのでしょうか。言うまでもなく、新郎の資格を完結するために来なければならないのです。しかし何よりも真の父母の内容を完結しなければなりません。そうして、天地の前に真の父母だと認められなければならず、神様の前に真の孝子、孝女だと認められなければなりません。そういう孝子、孝女として登場する代表的なお祝いが、正に小羊の婚宴です。

 天地が生じたのちに、初めて人間が神様の前に孝子、孝女になり新郎新婦として登場する日、神様が「地上の逆境の中でも天の心情を訪ね、天の父母を訪ねるためどれほど苦労したか」と言って、無形の神様の代わりに実体を備えた真の父母として、祝福してくださるお祝いが小羊の婚宴です。真の新婦の約束と理念を備えた基準と、真の孝子、孝女の基準の上に立てて、式を挙げることを小羊の婚宴というのです。この祝福を受けたその日から、真の父母になるのです。無形の神様の代身として、有型の実体を用いた人類の真の父母になるのです。

 人間は本来堕落しなければ善なる世界で成長し、神様の愛の祝福を受けて神様の心情に通じることができる子女になることができました。ところが堕落によりその絆が切れました。それで逆に、新婦の過程を経て子女にならなければならないのです。そうして神様が「あなたは私の心情を代表することができる孝子、孝女だ」と言える、心情の因縁を結ばなければならないのです。

 心情が通じないと孝子、孝女になることはできません。神様の心情がどうなのかを知り、神様がいかなる路程をあえいでこられたのかを知らなければならないのです。そうして創造理念の前に立つことができる、本然のアダムとエバの形態を備えなければなりません。小羊の婚宴は、その形態を備える式です。小羊の婚宴は人間世界に対する神様の最大の願いである新郎新婦の約束過程を経て、神様の前に真の孝子、孝女の祝福を受けて真の孝子、孝女になり、この地の全人類の代表者として立ち、孝子、孝女の先祖になるお祝いです。

 神様の心情を代表することができる真の孝子、孝女として、人類の真の父母として登場するその儀式が小羊の婚宴だというのです。このお祝いが行われたならば、家庭的な基準が立ちます。新しい家庭の基準が立ったあとには、天の主権を中心とした国家と世界の基準を立てなければなりません。そうしてこそ、初めて天の前に忠臣の道義を立てていくことができます。その次からは侍る生活です。宗教ではありません。侍る生活です。王様に仕えるように神様に仕えるのです。その時が地上天国時代なのです。

◆天の忠臣、孝子、烈女になる基準

 では、神様の心情はどこに傾いているでしょうか。聖書六十六巻の一番根本的なこととは何でしょうか。心情です。その心情がとどまることができる中心とは何でしょうか。天地が生じたのち、初めて現れる新婦、天の烈女の立場です。烈女の貞操を備えるのは、初めの段階です。

 皆さん、六千年間数多くの人々が生まれ、死にました。その中には夫のために真心を尽くした人もいるでしょうし、新郎のためにあらゆる精誠を尽くした人もいたでしょう。しかし、彼らは天の烈女の立場には立つことができなかったのです。みなサタン世界の烈女でした。善と悪がぶつかり闘う、ある一時代の善なる立場を代表した烈女の基準は立てたかもしれませんが、全体理念世界で、神様の心情と完全に通じることができる立場で、天の烈女として来て逝った人は一人もいなかったのです。

 イエス様はこの地に世界的な烈女を選出するという約束を残していきましたが、それが「私は新郎であり、あなたは新婦である」というみ言です。世界的な烈女を探して立てようとなさるというのです。

 今日地上では、新郎のために自らの命を捧げれば烈女といいます。命を捧げることも、ここに結びついています。孝子も父母のために命を捧げた人のことをいい、忠臣も国のために命を捧げた人のことをいいます。しかし天の基準は、永遠の命を懸けて忠誠を尽くし、孝行することです。永遠なる命を懸けて、それをすべて父のものとし、新郎のものとし、父母のものとして差し上げることができる立場でのみ、天的な烈女の基準が成立します。私の生命が動いて感じるすべてを、みな傾けなければならないのです。

 ですから聖書にも、心を尽くし、精神を尽くし、思い尽くしなさいとあります。ではすべての基準とは何でしょうか。世界のどのような忠臣よりも、どのような孝子、孝女よりも、どのような烈女よりも、もっと優れていなければなりません。そうでなければ神様の威信が立たないというのです。今までサタン世界にも忠臣、烈女が多かったのに、そのサタン世界の忠臣、烈女の基準と同じ基準を立てた人を、天が忠臣、烈女として立てれば、神様の威信が立たないというのです。ましてサタン世界の忠臣、烈女より足らない人を天の忠臣、烈女に立てられますか。そうすることはできないというのです。

 ゆえにイエス様も、誰よりも私を愛さなければならないと言われました。歴史的な誰よりも、昔のどのような先祖よりも、その時代のどのような立派な人よりも、誰よりも私を愛しなさいとおっしゃったのです。この「誰」というのは、自分が生きている時代的な環境の中の人だけをいうのではありません。

 過去、現在、未来のすべての人のことをいうのです。ですから「誰よりも私を愛しなさい」という言葉は、過去、現在、未来の誰よりも愛しなさいということです。そのような立場で精誠をすべて傾ける新婦が、今日全世界のキリスト教信者の中から出てこなければなりません。

 祈祷をしても、昔のどの誰よりも多くしなければならず、真心を込めても、どの誰よりもたくさん込めなければならないのです。精誠をたくさん尽くした烈女、六千年間の烈女の展覧会があるとするなら、そこにいるすべての烈女が頭を下げることができる権威をもたなければなりません。霊界にいる烈女からも「あなたが精誠を尽くす新婦の貞操を千秋にわたり称賛します」という話を聞かなければならないのです。そのような公認を受けなければなりません。そのような新婦でこそ、天がサタン世界の前に立てて自慢することができるというのです。

◆神様の心情と父母の心情と夫婦の心情

 では、心を尽くし、思いを尽くし、精神をすべて尽くすという、その限界とはどこでしょうか。今まで来ては逝った数多くの烈女が、文句なく高められる忠誠のこもった新婦にならなければならないのです。それが標準です。もし新郎であるイエス様の前に、そのような真の新婦が現れたならば、この世界は既に天のみ旨がすべて成され、今日まで引きずってこなかったでしょう。

 もし、そういう方が出てくるとするなら、世の中にどんなに悪が栄えてもかまわないというのです。それは神様の心情を通して入る善の強度が、その悪の強度より何倍も強いためです。どんなに悪い世の中でも、そのような心情の基盤に流れてくる善を指向する力は、サタン世界の悪とは比較にならないからなのです。

 今日まで人間世界には、神様の心情とともに無限な善の指向力を爆発させることができる源泉が生じなかったために、新郎であるイエス様はこの地上に来ることができなかったのです。もしそういう新婦がこの地上に現れれば、イエス様は天の玉座を捨てて、地上に飛び降りてこられることでしょう。ですからイエス様は二千年間、霊界で祈祷していらっしゃるのです。

 そのような心情を通した力、すなわち悪に対して恐怖の心でなく、心情を通してしみ出る善を中心とした強烈な力、強い天的な力が今日人類世界に一面でも入るとするなら、世界はその前に征服されるのです。そうしてこそ悪を分立し、消化することができるのです。悪を消化することができる善、悪を避けないで正面から対抗し、のみ込んでしまうことができる善、心情的に爆発してしみ出る天的な善の歴史が開かれなければなりません。このような歴史を展開することができる時期が、人間が願ってきた再臨以後の時期です。

 夫婦の心情は相対的なものです。父母の心情を幹に例えるならば、夫婦の心情は葉と同じで、忠臣の心情は根と同じです。これらがすべて一つの生命圏で動いてこそ、一つの完成体を備えることができるのです。

 したがって、復帰路程を経ていくこの時に、私たちが新郎であるイエス様を慕うとき、相対的な心情だけで慕ってはいけません。幹を経て、根まで連結しなければならないのです。ですから人も、個人的な相手を備えたのちに、家庭を成し遂げて、世界と連結しなければならないのです。

 全体的に見れば、根のようなものが神様の心情であり、その神様に向けて精誠を傾けて忠誠を尽くすことや、父母に対し忠誠を尽くすことは幹を成すことだといえます。こうしてこそ完全に連結されるのです。相対的な心情は葉と同じです。恩恵を受けるのは一時です。恩恵を受けたと喜んで、「どうした、こうした」と言っていては、いくらも行かずに落ちてしまいます。幹になることができません。

 もし、この地上に新郎新婦の心情をもって、真の父母の前に真の息子、娘の心情を連結させた者がいたとするなら、今日この地上はこのようにならなかったでしょう。その世界では、一度恩恵を受ければそれまでです。その心情に一度接すれば、どんなに離そうとしても離すことができないのです。それでパウロも主に出会ったのちに、イエス・キリストの中にいらっしゃる神様の愛を語りました。「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か」(ローマ八・三五)とあります。

 ですから、終わりの日であるこの時においては、私たち自身が問題です。ここで先生が問題でなく、皆さん自身が問題だというのです。生死の意識をなくして、死に生きることを問題視せず、力いっぱい走ることができる徹した心情があるかどうかが問題です。世の中でも愛する人のためにそういう道を行くのに、まして天道を行く人にそういう心がなくてはなりません。そのような心に徹しているかということが問題なのです。

 キリスト教徒たちも「ああ、主よ!」と言っている時に主が現れたとすれば、首が折れ、足が折れたとしてもそれに気を留めず、主に向かって走っていこうとしています。ところで、皆さんにもこういう徹した心情がありますか。これが問題だというのです。その基準をたどる前には、真の孝子になれず、真の孝女になれず、真の忠臣になることができないのです。


 
 心情が通じる所に臨まれる神様

 先生はこのように考えてみました。孝子、孝女という言葉があり、忠誠を尽くした男子を忠臣という言葉はあるのに、忠誠を尽くした女性のことは何と言うのでしょうか。忠誠を尽くした女性を指す適当な言葉がありません。孝子、孝女という言葉があるならば、今後「忠男」という言葉と「忠女」という言葉がなければならないと思います。また、なぜ烈女だけあって「烈男」はないかというのです。天は忠臣となる女性も願っています。ここで孝子、孝女が中心です。この孝子、孝女が天に向かう初めの足場です。新郎新婦は二番目の段階です。東洋に三綱五倫(注:儒教で、人として常に踏み行い、重んずべき道のこと。「三綱」は君臣・父子・夫婦の間の道徳。「五倫」は仁・義・礼・智・信の五つの道義)があるのですが、これは復帰摂理のみ旨に一番近い距離にあります。

 では今後神様が祝福なさり、神様が愛することができる国とはどのような国でしょうか。烈女だけが住む国ではありません。烈男も住む国なのです。烈女にだけなりなさいという国がどこにありますか。烈男にもならなければならないのです。今後は、男性の貞操を尊重する時が来ます。男性も貞操を守らなくてはなりません。

 大創造の原則は、このように混乱するようになってはいません。男性をプラス(+)とすれば、そのプラス(+)は絶対的なのです。絶対的なので、「烈男」という名詞がないことは良いことです。しかしそうではありません。イエス様は絶対的な烈男として、二千年間神様の前に貞操を守り続けてきました。ですから、二千年間貞操を守り続けてきたその心情の前に立つことができる烈女の心情も、やはり同じでなければなりません。

 今日この地上には、神様が祝福してあげることができる烈女も、烈男もいません。ですからイエス様が再び来なければならないのです。天が祝福してあげることができる孝子、孝女がいません。これは小羊の婚宴が終わって、初めて現れることができるためです。また、神様が祝福してあげることができる忠臣、忠女がいません。イエス様が主権を握る世界にならなければならないのです。これが今まで神様が願われた最高の願いです。

 こういう願いどおりになって、神様が真の孝子、孝女、真の忠臣、烈女を立てて、彼らの前に六千年間心情的に絡まっているすべての恨みと、すべての思いをみな解くその時が、神様のみ旨を完結することができる時です。その時から審判が行われるのです。しかし天の公認を受けた忠臣でなくては、その前でサタンが審判を受けようとしないのです。天の公認を受けた孝子、孝女でなくてはサタンを審判することができず、天の公認を受けた烈男、烈女でなくてはサタンを審判できないのです。

 皆さん、聖書にはキリストと共に王の本分を成すという言葉があります。しかし「キリストと共に」という言葉には六千年の曲折があります。神様は、この歴史とともに来られました。イエス様も二千年間この歴史とともに来られました。その心情には血の曲折がしみています。これを理解できず心情が通じない新婦は、天の前に立つことはできないのです。

 ですから今日、私たちは決起し、出ていかなければなりません。先生が、人々が「違う」と言う道を行くようになった目的とはどこにありますか。すべての精誠を尽くし、神様の恨みを解いてあげるところにあります。それで先生は、「この地上に天の忠臣がいないので忠臣になるようにしてください。孝子がいないので孝子になるようにしてください。烈男がいないので烈男となるようにしてください」と祈祷しています。

 では、孝子になり、忠臣になり、烈女になろうとするなら、どうしなければならないでしょうか。神様の心情を知らなければなりません。心情を知る前にはなることができません。イエス様は、終わりの日について話されました。その日とその時は天使も知らず、息子も知らないと語られました。それは、主が再び来られるその時に分かることだというのです。私たちはそれを知って超えなければならないのです。

 私たちは、神様の心情を裏切って堕落した人間の子孫です。皆さん、私たちの先祖が何に背きましたか。「取って食べるな」という善悪の実一つを取って食べたのではありません。神様の心情を裏切ったのです。問題はそこにあります。どのような心情に背いたのでしょうか。創造理想の心情、希望の心情を裏切ったのです。

 皆さん、恩恵を受ける目的とは何ですか。恩恵の中に入っていけば入っていくほど、神様の心情を体恤するのです。聖書を学ばなくても、心情で解くことができる立場に入るようになるというのです。

 孝子、孝女や烈女、忠臣と呼ばれる人々は、適当にしてそうなった人はいなかったのです。そのような人は一人もいません。生命が途絶える恨みがあっても、父母のための心情を変えないという人が、孝子、孝女になることができました。天の前にも同じです。

 ゆえに今日、私たちは決起して出るべきです。先生が願うことは、この地上の怨讐の前で犠牲になって死んでも、天の忠臣の節義を残すことです。孝子の節義を残したいのです。烈女の節義を残したいのです。もしこの基準に立って「神様! あなたは私の父であり、あなたは私の主人であり、あなたは私の新郎であられます」と心情的に出る者がいるとするなら、これを審判する者がなく、これを主管する者がいないというのです。

 皆さん、お父さん、お母さんに対して何かほかの説明が必要ですか。私たちには説明よりももっと先立つ心情、どのような説明も拒むことができる心情がなければなりません。そういう心情のもつれが、天と因縁を結ばなければなりません。来られる主に会う時、そういう心の作用、制止しようとしても制止できず、爆発してわき出るという思いを心に感じることができなければ、絶対に審判の峠を越えることができません。

 神様が人間の堕落以後六千年間、この歴史を引っ張ってこられた最後の目的とは何でしょうか。天地をかけて祝福することができる息子と娘を探すことであり、忠臣を探すことであり、烈女を探すことです。この歴史は、息子と娘を探すことであり、忠臣を探すことであり、烈女を探すことです。この歴史は、地上のある地域を中心として成されるはずです。その場で、心情を通して天の代わりに宣布する言葉に天上が動くのです。その言葉が真の良心をもった人々の心に伝われば、彼らの心が激動するはずであり、その動きがこの地上に起きる日には、サタン世界は崩壊するのです。

 今日、こういう目標のもとで世界に向かって、天地に向かって前進しなければなりません。私たちは天のお父様の心情を知って、個人を通じて、家庭を通じて、社会を通じて、世界を通じて、天宙へ行くことができる内容を備えなければなりません。

 私たち人間の目標は、新郎新婦の門を開いて孝子、孝女になろうということです。孝子、孝女の門を開いて忠臣になろうというのです。ですから私たちは闘わなければなりません。神様が受け入れられない怨 讐が地上を蹂躙しているので、私たちが地上を征服しなければならないのです。

 かといって、刀や銃を持って戦おうというのではありません。真理で闘おうというのです。私たちが真理をもって行く所ごとに、心情を渇望する人はやって来るのです。天のために忠臣になりたく、天のために孝子、孝女になりたく、天のために烈女になりたい心をもった者は、増えるようになるのです。血族を超越し、東洋西洋を超越して、間違いなくそのようになるはずです。

◆忠臣の道理

 今日私たちは、多くのみ言を知っているといいますが、こちらの端からあちらの端まで通して連結させることができるのはみ言ではなく、心情です。「私はアルパでありオメガである」というみ言はどういう意味ですか。聖書がアルファとオメガになっていますか。創世記からヨハネの黙示録まで六十六巻の一ページ一ページが全部違うのに、アルファとオメガになれるかというのです。それは心情を掲げていう言葉です。心情は変わることがありません。そのまま永存します。これが、私たちの生命の根本です。

 私たちは、この心情を抱いて、新郎新婦の立場を経て、孝子、孝女の立場、忠臣、忠女の立場まで進まなければなりません。そういう立場に入っていくようになれば、天上天下どこに行ってもその人は飢えて死ぬことはありません。先生は今まで一文無しで生きてきましたが、飢えたことがありません。追われて獄中に入っている時にも、神様がどんな人を使ってでも御飯を持ってきてくれたのです。

 皆さん、すべての力を注いで、血の汗を流して祈祷したあと「ああ、お父様。きょう私は恵みの祈祷をしました」という心をもってはいけません。最善を尽くしても「私はこれぐらいでいいだろう」と言ってはいけません。そうすれば、だんだん恩恵がなくなるのです。ですからいつも罪人になった自分自身を考えて、歴史的な犯罪性を感じる立場に立たなければならないのです。自分が優秀だと意地を張る人は、善の心情をもって来る人、真の心情をもって来る人の前に頭を上げることができないのです。

 神様もそうだというのです。もてる精誠をみな込めて、忠誠の心情をもって来る人の前には、神様も頭を下げるというのです。真の孝子の前には、父母も頭を下げるのです。真の新婦の前には、新郎も頭を下げるのです。

 皆さん、「私が信じてこうなったのだ」と言って意地を張ってはいけません。先生も自慢しません。しかしサタン世界に対しては堂々とした自信があります。私たちは希望で築いた祭壇の前に、祭事をしても足らなさを知る姿勢をもたなければならないのです。そのような姿勢が、天の民が取る姿勢です。精誠をすべて尽くしても、「ああ、これはこのようにすれば良かった」という悔いと、悟りのない人は押し出されます。深い神様の心情の世界には入っていけないというのです。神様の心情の門を開けて、天上天下のあらゆる財宝を動かすことはできないのです。神様はそういう悔いと、悟りのある息子と娘が、この地上に現れることを期待していらっしゃいます。

 六千年間訪ねてこられた神様の最高の目的とは何でしょうか。天主権の国を建てたのち、その民に対し忠臣の道理を教えてあげることが神様の願いです。しかし、天国ではこういう人が忠臣であるからこのように行け、と教えてくれる何ものもありません。こうしてこのようにすれば、間違いなく天の忠臣になると教えてくれないというのです。天が立てようとする国はこのようなので、怨讐をこのように屈服させなければならない、と教えてはくれません。

 今日私たちは、忠臣の教訓を受けましたか。受けられませんでした。天の家庭はこうであるので、神様を代表する真の父母に侍る真の孝子、孝女になろうとするならこのようにしなければならないという、孝子、孝女の教訓を受けましたか。受けることができませんでした。さらには「君はこのようにすれば、私の愛する新婦だと天地の前に宣布できる」という新郎新婦の教訓を受けましたか。受けることができませんでした。聖書でも、こういうことを教えてくれなかったのです。

 行かなければならない道がこのような道なので、生死を意に介さずこういう道を行かなければならないのです。これが堕落した人間の運命です。ですから、私たちは喜々としてきょうを楽しむことができません。そのようなことができる人生ではありません。私たちがうれしがってきょうの時間を送ってしまえば、私たちの子孫がげんこつを振って地を打ち、審判台を恐れて嘆くのです。それが心配ならば、一時の安らかな立場を避けて、「天上の心情がどこにあるのか」と言って、それを知るためにあえがなければならないのです。

◆心から神様の祝福を受ける道

 心情を通じてこそ行くことができる所が、天国です。イエス様も楽園に行っています。楽園は、天国への列車を待つ待合室です。地上で心情問題を完結することができずに逝ったので、再び来てその責任を完結しなければならないのです。そうしてこそ、楽園の門を撤廃できるのです。それで天国の門を開けてこそ、サタン世界が屈服します。

 地上で心の天国を完成できない者は、天上の天国を成し遂げることができません。地上で心情的な永遠なる安息の福地を探すことができない人は、天上の永遠なる福地を探すことができないのです。皆さんは、そのような心情的な安息の福地を探すことができませんでした。

 その福地を探すことができないまま、孤児のようにあえいでいます。それで神様の心情を掲げて見るとき、皆さんの心情には位置がありません。位置がないので価値もないのです。価値のない存在の前に、世界がどのように縁を結びますか。

 ですから真の烈男、烈女として、真の孝子、孝女、真の忠男、忠女として、天の心情を代表して生涯の理念を楽しむことができる群れが出て、彼らがこの地に善の息子、娘を繁殖しなければならないのです。エデンの園でアダムとエバを祝福してあげたのは、サタン世界で罪悪の子女を繁殖しなさいということでしたか。違います。忠臣の節義、孝子、孝女の節義、烈女の節義をもった息子、娘を繁殖しなさいということでした。そのように生まれる第二の忠臣と孝子、孝女を神様は恋しがります。そのような息子と娘が出てこなければ、この地は永遠にサタンのものになります。

 こうすることができる息子と娘がこの地上に現れてこそ、天地がひっくり返るのです。そのような所がこの地上に生じるなら、そこは今後世界の中心地になるはずであり、そのような民族が現れるならその民族は今後世界を支配するはずです。

 これから私たちは、涙を流さなければなりません。その心情を体恤できないなら、涙を流さなければならないのです。その心情を体 恤できないなら、夜を明かして祈祷しなければなりません。断食をしながらでも祈祷しなければならないのです。そのような心情をもった者だけが、最後の勝利を収めるでしょうし、最後の審判で残るのです。そのような皆さんになるならば、神様は皆さんを通して安息の場を築くでしょうし、世界は皆さんによって動くでしょう。

 天の忠臣になろうとするなら、天の恨みを晴らさなければなりません。孝子になろうとするなら、父母の怨讐がいてはならないので、怨讐をなくさなければなりません。烈女も同じです。この恨みを晴らす日まで、永遠なる命を懸けて覚悟していき、闘わなければ、皆さんは堕落の恨めしい峠を越えることができないのです。この峠を越えて初めて、神様がすべての悲しい心情を解いて、皆さんに「六千年間待ち焦がれた忠臣よ、孝子よ、烈女よ」と言いながら、両手を挙げて祝福してくださるでしょうし、三位神は安息することができるのです。このように心情基準が解決される前には安息することができないというのです。

 こういうことを知って、今日この地上にいる皆さん自体が、どれほど貴い立場にいるのかを感じることを願います。
















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