文鮮明先生のみ言集
訓教経(上)


幸福な群れ

一九六〇年五月一日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第九巻』


 きょうは「幸福な群れ」という題目をもってお話しします。

◆不幸な人間

 今日、数多くの人間は幸福になることを望んでいます。きょう皆さんがここを訪ねたのも、今生きている以上の幸福のためです。言い換えれば、日常の生活的な幸福を超えて、心情の世界と因縁を結ぶために訪ねてきたのです。きょうよりはあす、あすよりはあさって、今年よりは来年、一つの生涯を越えて永遠に幸福であることを待ち焦がれるのが、私たち人間の欲求です。

 神様がいらっしゃるとするなら、その神様は、被造物がどうすることを願われたでしょうか。神様のいらっしゃる所に、その造られたものも共にあることを願われ、神様が喜べば、その造られたものも共に喜ぶことを願われ、神様が幸福ならば、その造られたものもやはり共に幸福であることを願われました。このような立場で、あらゆる被造物を造られたのです。

 私たちは、どのような因縁があってなのか分かりませんが、この地上に生まれました。このような私たちを、宗教の名詞を借りれば、「造られた私たち」と簡単に言うことができます。このように私たちが被造物であるならば、これを創造なさった絶対者がいなければならないのですが、その方を称して「神様」と言うのです。

 ところが、その神様と神様に創造された私たち人間はいったいどのような関係があるために、今日の人間がこのようになっているのでしょうか。神様が不完全に私たちを造ったのか、そうでなければ造った神様が不完全なのか、このように考えてみることもできます。

 神様は至高至善な方だといいます。「至高至善」という言葉を話そうと思えば、そこに私たちの生涯の理想的なあらゆる要素が内包されていなければなりません。それだけでなく、人間の心から流れ出る、知情意の感情が満たされるような内容が備えられていなければなりません。

 そうしてこそ、神様が私たちの絶対的な主体者であり、絶対目的の中心にいることができ、さらには実体として存在できるというのです。ところがここに、人間が至高至善の存在、最高の絶対の基準にいらっしゃる存在と因縁を結ぶことができないある条件が介在するようになったですが、その条件を「悪」と言い、その条件が生じたことを「堕落」と言います。

 神様が造られた天地万物の中に、目的なく存在するものはありません。どんなに小さな細菌でも、ある目的のためにその生を営むようになっているというのです。私たちも父母の血肉を受けて生まれたその時から、自分は知らないとしても、大天倫の目的を成し遂げるための一つの材料として存在してきたという事実を、私たちは認識しなければなりません。

 ある目的のための材料と、ある目的の実体と一つになり得る時が来るならば、その時に初めて材料として一〇〇パーセントの価値を発揮するはずであり、その時に初めて材料として自らの要求条件と、自らの目的とするところを充足させることができるのです。これと同様に、人間にもそのような時が来てこそ初めて「幸せだ」と言うことができるのです。

 ところが今日、私たちは心情をかきわけて生活の一部分を細かく分析してみると、「幸福」という名詞はあっても、自分自身が幸せだと自ら自慢するその何ものも持ち合わせていないだけでなく、他人が幸福だと思える、その何ものももつことができずにいます。

 神様が大宇宙の目的を立てて被造万物を造られたというのに、造られた人間に、その目的を達成したのちにも悲しみと苦痛が介在するならば、それは間違ったことです。ですから、創造目的が成し遂げられたのちに、たとえ悲しいことや苦痛なことがあったとしても、それは悲しみや苦痛ということはできません。むしろ喜びを刺激することのできる材料になり、生命を形成できる一つの要素にはなっても、生命を支配して幸福を蹂 躙する要素にはなり得ないというのです。

 そのような立場に処した人がこの地上に一人もいないことを考えてみるとき、「地上に生きている人々は全部不幸だ」と結論づけることができます。このような位置に立てられた自分たちであることを考えるとき、私たちは何かをもっているようだけれども、実は何ももっていません。自分を自慢してはいるけれども、自分を自慢する何ものももっていないというのです。私の生命があるといっても、その生命が大宇宙の理念の前に材料になり得ていないというのです。私が備えた人格と理念と誇るその何かをもっているとしても、それらが大宇宙の理念とは何ら関係がないために、私たちは不幸にならざるを得ないというのです。

◆人間が失ったもの

 私たちは、すべてを失ってしまいました。天地間に自分自身を立てることのできない無価値な存在です。幸福を探して進んでいく最後の願いとは何でしょうか。失ったものを再び探すことです。私の心に、善のようなものがあるとしても、最高の善はありません。愛のようなものがあるとしても、最高の愛はありません。真のようなものがあるとしても、最高の真はありません。

 もし私たちが最高の真をもっているならば、どのような環境にとどまっても、私たちを歓迎して喜ぶというのです。ところがそうなっていないことを考えてみるとき、私が善良であり得る要素をもっているとしても、善意の本体にはなっておらず、私が幸福であり得る要素をもってはいるとしても、本当に幸福な私ではないというのです。私たちは、永遠の最小の幸福を中心として見るとき、すべてを失ってしまったのです。

 創造主、すなわち神様がいらっしゃるということを当然知っていなければならない被造物が、神様を知らずにいます。創造主の知情意を与えられて生まれた人間ならば、その創造主と情が通じ、み旨が通じ、心が通じなければなりません。ところが私たちは、何を中心として因縁を結んでいるのでしょうか。もしこの体が幸福の主体である神様と因縁があるならば、この体は満足すべきであるのに、満足できずにいます。心も満足できていません。心情も満足できていません。

 こういう立場から見るとき、人間は中身をみな失って、うわべだけであえいでいるのです。これをどのように満たすかという問題を解決するために努力してきた人々が、修道の道を行く人々であり、聖賢や賢人、哲人たちでした。

 では、人間は何を失ったのでしょうか。最初に神様を失いました。神様を失ったことが、私たちが失ったことの中で最も大きい事件です。この天地を創造なさった主人がいるのに、人間がその主人を失ったとするなら、その時から人間はその主人の前に逆賊になるのです。人間は、心情深く因縁を結ぶことのできる本然の主人に侍るべきなのに、その方を失いました。失うことによって侍ることができなければ、天倫の前に許されない逆賊になるのです。

 皆さんの心、細胞、感情のどこかに、神様がいらっしゃることを知っていますか。知らないのです。観念的には認識できるかもしれませんが、心情的に神様を認識して、「神様が私たちの中に内在される」と言うことのできる内容を備えた立場に、皆さんが立ち得ていないというのです。

 この地上に悲しいことがあるというならば、その悲しいことの中でも何が一番悲しいことでしょうか。神様を失ったことです。また、何が一番苦しいことでしょうか。神様に会ってみたくても会えないことです。むちで打たれて手荒にあしらわれることが、一番悲しくて苦しいことではありません。見てみたいし会ってみたい、その方に自由に会えないことが悲しみであり、苦しみなのです。悲しみもそれであり、苦痛もそれであり、悔しさもそれです。会うことのできる因縁の中にあるのに、会えないこと以上に恨めしいことはありません。

 今まで人間が悲しみと苦難の歴史路程を歩んできたというけれども、それは人間に悲しみを与え苦痛を与えて悔しさを味わわせるためのものではありません。それらは本体を失い、主人を失った人間が、神様の悲しみと、苦痛と、悔しさを相続させようとするためのものです。それでは、苦痛と悲しみの由来はどこにあるのでしょうか。歴史的な由来でなく、原理的な由来はどこにあるのでしょうか。それは、神様を失ったところに原因があります。

 ゆえに、自分はよく知らないけれども、私の心の深い所には、人間と万物を創造なさった神様の創造のみ手が因縁づけられているのです。その因縁が私の肉体を超え、環境を超えて、全体的な目標に向かって私たちを収拾してきています。ですから、過去には人々が散らばって分裂したけれども、今はだんだんと心が喜ぶことのできる一つの場所を指向しているのです。それで、この世界も一つの理念世界へと収拾されているのです。

 その一つの理念世界が来る時には、心が落ち着くようになります。心が落ち着くと同時に、「無限にうれしい」と叫ぶ心の声が私たちの中で爆発してきて、天下に響き渡るようになります。そのようになる日には、どんなに鉄の窓の中に捕らわれの身になって苦痛の立場にあるとしても、「私は幸せだ」という叫び声が炸裂してくるようになるでしょう。こういうことが歴史路程に現れなければならないのです。

 それであらゆる宗教は、「苦痛を有り難く受けなさい」と言います。そのようにしながら心の世界を持ち出し、すべてを心の世界に屈服させてきたのです。ゆえにすべてを収拾し、本然の心の世界に向かって正面から突進しなければならない時が、終わりの日なのです。天を中心として二人が合わさって、一つにならなければならない時が、終わりの日だというのです。

 私たちは、幸福な人になることを願っています。私たちが幸福な人になろうとするなら、まず何をしなければならないでしょうか。失ったものを探し出さなければなりません。まず一番に、神様を探さなければなりません。失った神様を探し出すことのできる場所があるならば、私たちはすべてを犠牲にしても、そこに向けて力いっぱい走っていかなければなりません。

 人間が堕落することによって、神様を失ったと同時に、また何を失いましたか。神様の願いを失いました。では神様の願いとは何でしょうか。神様は天地万物を造られたのち、そこに万物の主宰としてアダムとエバを立たせておいて、「生育し、繁盛し、これらすべての万物を主管しなさい」と祝福されたのですが、人間がこの祝福を成就することが神様の願いでした。

 人間がこの祝福を成就する日には、神様はアダムとエバの父親になり、アダムとエバは彼の息子と娘になるのです。「神様の息子、娘」、これは架空の名詞ではありません。

◆アダムとエバに対する神様のみ意

 神様は幼いアダムとエバを造り、彼らが成長し、すべての天地万物を主管することを願われました。言葉で主管することを願われたのではなく、御自身の心情を中心とした愛で主管することを願われました。ですから神様は、アダムがエバを自らの「骨の中の骨であり、肉の中の肉だ」と言って、愛の心情をもってエバに対することを願われました。また神様は、エバがアダムを兄としてのみ認め、分別をわきまえない妹としてあがめることを願われず、彼は新郎の中の新郎であり、お父様の代身としての「体の中の体だ」と言って、アダムに心情的に侍ることを願われたのです。

 そういう望みの時を願われた神様は、アダムとエバがそのような願いの立場で、「アダムは私の永遠なる夫であり、エバは私の永遠なる新婦です。これがお父様の願いであることを知りました」と言える、真の神様の愛を成し遂げた父、母として、この大自然を主管するよう造られたのです。
 万物も、そのように主管を受けることを願っています。ローマ人への手紙第八章に、人が堕落することによって天の嘆きが生じ、人間の嘆きが生じ、万物の嘆きが生じたとあります。すべての万物は、真の神様の愛に通じ得る真の父母になったアダムとエバの手により主管されることを願うように造られたのに、アダムとエバがそのような立場に立てずに離れてしまいました。これが堕落です。ゆえに、今日この天地に数多くの人が生きていますが、骨髄が溶けゆくほど懇切な心情で神様に対して「お父様!」と呼ぶ人がいるかといえば、いないというのです。

 堕落前のアダムとエバ以上の立場に立ち、「神様! あなたの心情はこうではないですか。神様の願われた心情はこうこうでしょう」という立場で、神様に対して「お父様」と呼んだ人が、この地上にいなかったというのです。

 アダムとエバが神様の願いの祝福を成し遂げて、神様の前に出て「お父様! 私のお父様!」と言える真なる人類の先祖になることを願われたのです。しかし、神様は、そのような真の人類の先祖に出会うことができずにいます。その子孫においても神様は、そのような人に出会っていないのです。

 今日信じる人々が呼ぶお父様は、心情を通して骨髄が溶けゆく立場で呼ぶお父様ではなく、名前だけのお父様なのです。そのような懇切な立場で、お父様を呼ぶ人がいなかったというのです。ゆえに、神様はそのような人を尋ねてきました。人間に御自身の位置を明らかにすると同時に、御自身の価値と人間との関係を明らかにしてきました。そうして人間が御自身と父子の関係を結んでいるということを、堕落した人間の前に通告するために闘ってこられたのが六千年の歴史だというのです。

 キリスト教では「義の王冠」であるとか「何々の王冠」であるとか言いますが、先生はそれを願っていません。先生が願うことは堕落する前のアダムとエバの立場で、心情的に切に待ち焦がれる神様の願いを成就してさしあげた立場で、「私のお父様!」と呼ぶことです。そういう立場が、人間の願う最高の立場だというのです。そのような心情の立場は、歴史路程を探してみても、聖書の六十六巻をどんなに探してみてもありません。聖書は堕落以後の記録であるゆえに、そうなのです。

 それでは、堕落以前にあった心情の園、神様と共に楽しんで喜ぶことのできる因縁の世界は、どこへ行ったのでしょうか。これを失ったというのです。アダムとエバが神様から「汝は我の永遠なる息子、娘である」という認定を受けて愛される立場、天使長までもアダムとエバの前に屈服し、万象が彼らの命令に順応して天下を堂々と主管することができる立場で、堕落したのではありません。天使長に引きずられる立場で堕落しました。主人の息子として、息子の位置と息子の権限をそろえられない立場で堕落してしまったのです。

 サタンは、堕落した天使長です。今日この地上に生きている数多くの人類は、サタンの掌中にあるので、どこに行こうがそのあとにはサタンが付いて回り、いつもサタンに試されなければならない立場に置かれています。ゆえに、こういう世の中を塗りつぶしてしまって、サタンを支配して命令できる、さらには天使長にまでも命令できる本然の息子、娘を神様は探していらっしゃるというのです。これが神様の中心のみ意です。ところが、こういうみ意も知らないのに、今日「信じれば救われる」と言います。救いとは、そのように簡単なものではないのです。

◆霊肉の父を失った人間

 神様を失ったのは、全宇宙の大主宰を失ったことです。それだけでなく、私たちの父を失ったことです。この父は、私たちが肉身をもって生きる百余年の短い期間だけ呼ぶ、そのような父ではありません。永遠無窮に呼ぶ父です。永遠に、神様が喜べば共に喜び、悲しめば共に悲しまなければなりません。それが地上で判定づけられるのです。

 ですから、地上で神様が喜ぶことのできる修道の道、信仰の道を守り続けた人の行く所が、天国です。そして、神様が悲しむ立場で生きた人の行く所が、地獄です。ところで、私たちは神様が悲しむ立場で生きています。このような曲折が、堕落することによって生じました。

 私たちは、すべてを失った人生であることを知らなければなりません。大主宰であられる神様、すなわち私たちの永遠なる父を失ったのです。そして生涯の父を失いました。私たちには父が二人います。天の父と、私たちを生んでくれた父の、二人の父がいるというのです。この二人の父は違います。何が違うかといえば、私を創造した父は永遠の父であり、私を生んでくれた父は生涯の父、地上の父なのです。

 堕落していないアダムとエバは、人類の真の祖先であり、真の父、真の母です。肉身をもった人類の真の父母です。ところが、そのアダムとエバが堕落したがゆえに、人類がサタンの子孫になったのです。

 もしアダムとエバが堕落せず、神様の祝福を受けることのできる立場になり、神様が臨在できる家(体)になったとすれば、今日の人間は父をもった者になるのです。そうなったならば、イエス様を信じなくても、みな天国に行くことができます。宗教も必要ありません。なぜ必要がないのですか。本然の父と心情的な因縁により生まれた息子、娘は、地上の何ものも奪うことはできないからです。

 神様の心情とともに一体になった真の父母を通して生まれた息子、娘、心情から「お父様!」と呼び、走っていくことのできるその息子、娘に対しては、サタンの愛はもちろん、その何をもっても奪っていくことはできません。忠臣の心、孝子、孝女の心、烈女の心は、その何をもっても変えることはできません。このような立場に入っていってこそ、天倫の前に全面に押し出すことのできる人となるのです。

 アダムとエバが堕落せずに本然の神様の心情に通じ、神様が喜ぶ中で善男、善女として成礼式(婚姻式)を挙げ、人類の真の父母になったとすれば、万物はアダムとエバと和動しながら楽しみ、その家庭に必要な存在になろうとしたでしょう。このように、アダムとエバが幸福を謳歌することができ、神様を永遠なる父として侍ることのできる人類の真の父母になり、人類の標本的な真の夫婦になり、神様の前には真の子女になっていたならば、誰も彼らを奪っていくことはできないのです。なぜなら、主人は一人であるからです。心情の主人も一人であり、愛の主人も一人です。そのような方が、神様なのです。

 私たちは神様を失ったと同時に、父を失い、真の父母を失いました。先生はある時、「天の父よ、私の肉身はなぜ必要なのですか。なぜ私の父は私に対して救い主になれないのですか。私を生んでくれた父母であるのに、どうして救い主になれないのですか」と祈ったことがあります。

 そのような真の父母をもった人間がこの地上にいるならば、彼はイエス様を信じないし、救いを受けなくても幸福でしょう。本来は、そうでなければならないのです。ところが、堕落したために救い主が必要なのです。そのような世の中ならば、その世の中は幸福な世の中であり、天国だというのです。知ってみると、こういう歴史的な曲折がその昔、私たちの先祖から始まったというのです。

 そのために、今日の人類はあえぎ苦しんでいます。今日の人類は神様を失い、神様との父子の因縁を失ったと同時に、自分には真の肉身を備えた父もなく、母もないのです。

◆重生しなければならない人間

 イエス様は、後のアダムとして来られた方です。コリント人への第一の手紙第十五章四十五節を見ると、イエス様を「後のアダム」と言っています。そうすると、後のエバがいなければならないのですが、後のエバとは誰ですか。キリスト教では聖霊を象徴的にそう言ってきたのですが、聖霊が正に母神として、後のエバということなのです。人類の母であるエバが堕落したために、後のエバとして母である聖霊を送られたのです。穴が開けば、開いたその穴を埋めなければならず、失ったものがあれば、失った所に行って捜さなければならないように、エバによってこの地上の人間がすべて死亡世界に入っていったために、聖霊が来て再び産みの苦労をするのです。

 聖書を見れば、女性はお産することで救いを得ると言いました(テモテT二・一五)。これは今日、地上に生きている夫人たちに向けてした話ではありません。エバに向かって言った言葉なのです。エバが堕落せずに人類の真の祖先になったならば、この地上に善なる息子、娘を産んだであろうに、堕落してサタンの息子を産んだために、エバが再びお産しなければ人間は救いを得ることができないというのです。ゆえに、聖霊がこの使命を担い、今日全人類を抱き抱えて、全力を尽くしてお産の苦労をしていっています。そのお産がみな終わってこそエバが救われ、聖霊の使命が終わるのです。

 復活というのは再び生きることです。私たちは死んだので、再び生きなければならないのです。では重生とは何でしょうか。再び生まれることです。イエス様は、人類の父であり、新郎であり、聖霊は、人類の母であり、新婦です。人間が新婦の因縁を受けて、新郎となるイエス様を思慕してイエス様なくして生きられず、聖霊なくして生きられないというようになるとき、イエス様と聖霊が霊的な面で対面することで、永遠な生命の種が再び人間に注入されるようになれば、それが重生になるのです。

 父母の愛を通さないで息子、娘を産むことは、天地の道理の中にはありません。そのような役事をするために、神様はイエス様を送りました。アダムが父としての責任を果たせなかったために、その使命を遂行するため実体をもって、父として来られた方がイエス様です。ゆえに、イエス様は救い主であると同時に、人間の父です。実体の真の父です。人間が失ったその真の父を再び立ててのみ、天地の道理の原則的な軌道に乗って入っていくことができます。天は絶対的な原理原則を中心として法度を立て、その法度に通じることのできる基準を備えて初めて、すべての役事をしていくのです。

 私たちは地上に生きてはいますが、真の父母を失ってしまいました。聖書にも、孤児や未亡人のようなお前たちである、とあります。父母もいて、新郎もいるのに、なぜそう言ったのでしょうか。神様の創造理念から見るとき、真の父母と因縁を結ぶことができずに失ったから、孤児だというのです。また、真の新郎であるイエス様と因縁を結ぶことができなかったために、未亡人だというのです。

 このような問題を収拾しようとするなら、その原因から収拾しなければなりません。すべての宗教の根源を明らかにしようとするならば、最も頂上のアダムとエバから出発しなければなりません。これから宗教問題を解決できない神学は、滅びます。その神学は、天の逆賊をつくることもできます。どんなに準備して備えたにしても、天の前に審判を受けるというのです。

 創世記第一章にある、アダムとエバの曲折から解かなければなりません。堕落前のアダムとエバに対された神様の心情と、堕落する時のアダムとエバに対された神様の心情、堕落以後の神様の心情がどれほど切なかったかという心情の関門を、皆さんは通過しなければならないのです。

 ある病気になれば、その病気の根源から治さなければなりません。そうしなければ病気を治すことはできません。その根源を正しておけば、すべては自然に収拾されるのです。この国もそうです。根源となる中心存在が間違うと、みな滅びます。どんなに民が立派でも、彼が間違えばみな滅びます。そのような垣根の中にあるものは、みな滅びるのです。ですから、中心が問題です。

◆人間が探し出すべき真の父母

 イエス様が聖書の中心になったのは、アダムとエバが堕落したためです。もし堕落しなかったならば、イエス様が中心でなく、アダムが中心になったでしょう。堕落したために、救い主とか、祈祷とか、宗教とかいうものが必要になったのです。本来は、神様がいるのかいないのか、無神論か有神論かという論議は必要ないのです。神様がどんなに不十分だとしても、御自身の被造物に対して「やー!」と言えば、その被造物が「はい!」と言えるように造ったはずです。そうできないならば神様ではありません。

 これから、宗教を超えなければならない時期が来ます。世界を超えなければならない時期が来ます。さらには、歴史観、社会観、自分中心の心情観を超えなければならない時が来るというのです。私の息子、娘だけが息子、娘ではなく、私の家庭だけが家庭ではなく、私の国だけが国ではありません。

 今、時は既に世界的な理念時代に移ってきています。この時は、私の生活感情と人生観を超えて、私がもっている生活観を超えて天宙観をもって神様に対さなければならない時です。どんなに孝子だとしても、父母が率いる家庭や環境をうまく収拾できずに、けんかばかりしながら「お父様」と言えば、その父母が喜ぶでしょうか。

 同様に、神様が摂理されるすべてを収拾できる忠誠の立場に入っていって、心情的な基準を通過したのち、「お父様!」と言ってこそ、神様が「うむ」と言われるというのです。この地上において、人間としていかなる愛、いかなる理念、そのいかなる何をもって神様の前に進み出て、「お父様」と呼んでも、神様は「うん!」と言えないのです。

 ゆえに、この世は審判されなければなりません。終わりの日が迫りくるこの時、真の幸福を願って進むこの時に、私たちはきょうのことに向けて進むのではなく、あすのことに向けて進まなければなりません。きょうのことを否定することができると同時に、あすのことに対する価値観が、徹頭徹尾自分の心の中に深く根づいた人がいるとするならば、彼は希望の人です。歴史とともにこの地が滅びる時、神様はその人を取り出して命令なさるでしょう。

 今この時は、正に生死を判定しようという時です。たとえ私が死ぬとしても、探すべきものは探し、もつべきものはもたなければなりません。そのようになるならば、死んでも恨はないでしょう。今日私たちは、探すべきものを探すことができず、もつべきものをもつことができず、自慢すべきことをもつことができずにいるので、不幸な人々です。

 私たちがとどまっている今日の環境から幸福の基台を夢見るようになるならば、「私を助けてください」と言う時が来ます。荷物をまとめて生死を懸けた闘いが始まります。

 天は私たちに向かって叫んでいます。しかし天は歴史の真ん中に立って、「汝は我に来たれ」とは言いません。「ある一つの国家や民族圏内に入れ」とも言いません。「一人の人のところに行け」と言うのです。その人物は、太初に神様が人間を造ったその因縁と関係を知っている、心情の主人公です。「その人のところに行け」と言われるのです。

 今日数多くの道義がありますが、心情を通過できる一つの道義が、歴史路程に現れなかったのです。そういう道義が、必ず現れなければならないのです。もしそれが現れないならば、神様はいないということです。人間が守るべき社会的な倫理と道徳を教えてくれる道義もあり、無限の霊界を教えてくれる道義もありますが、倫理道徳と無形世界に対する教えを統合して、一つの心情の骨子の上に載せる宗教がなければなりません。そのような宗教を探してみたところ、キリスト教だったというのです。

 キリスト教は心情の宗教です。人間は堕落することによって神様を失い、神様が私たちの父であるということも分からなくなりました。実体を備えた真の父母を失ったのですが、キリスト教はその真の父母を紹介することのできる宗教です。

 皆さんは、夫婦を成してつましく生きていますが、神様の永遠なる天国に一緒に行くことのできる、そのような夫婦ではありません。信仰をもつ人々は、世の中の夫婦は主が来られる時に、みな分かれてしまうと話しています。これは聖書にもあり、霊的な世界に対する体験をした人はみな知っています。この地でどんなにおもしろく生きた夫婦だとしても、夫の行く所が別にあり、夫人の行く所が別にあります。本来はそうではありません。人間が堕落したためにそうなったのです。

 神様は人間に対し、祝福された真の夫婦として地上から永遠な世界まで、永遠に御自身に侍ってくれることを願っていらっしゃったのに、神様が公認できる真の父母がこの地上に現れず、神様に侍ることのできる公認を受けた夫婦がこの地上にいなかったというのです。神様が一男一女を造り、「そのように生きよ」と言われたでしょうか。

 今日の道義の基準は、独身生活です。なぜ独身生活かというと、まだ原則的な基準に到達した主人公が現れておらず、真の父母としての権威を行使できていないためです。神様の理念による真の父母がまだ立っていないために、その子孫たちが家庭を成して生きることができないのです。そのため、高次的な宗教であるほど独身生活を強調します。

◆人間はまず真の子女にならねば

 人類の先祖は愛する息子の立場には立ったけれども、天地万物を遺業として相続することのできる息子の立場に立てなかったのです。そのため、神様は御自身の代わりに全宇宙を主管することのできる永遠の一つの真の主人公を立て、彼を中心として愛の因縁を結ぼうとされました。一男一女が成熟し、万物と和動する笑いがあふれ出てくるとき、その心情の基台の上において、神様は彼らと因縁を結ぼうとされたというのです。ところが、そのような因縁を成すことができなかったために、今日まで恨めしい歴史が続いてきたのです。

 人類歴史は、失ったものを再び捜して進んでいく復帰歴史です。そうして、私たちは神様の息子と娘という名詞を経て成長し、また成長して真の父母にならなければなりません。そうするには、霊の父だけでなく肉の父と因縁を結んで、神様は永遠なる私の父だということができなければなりません。

 イエス様は、新郎であると同時に、真の父です。私たちは神様も失い、真の父母も失い、真の夫婦も失い、真の子女にもなれませんでした。ゆえに、イエス様を「神様だ」とも言い、「真の父母だ」とも言い、「新郎だ」とも言い、「子女だ」とも言いました。それは、歴史的に失った心情的なすべてのものを全部一つの目標に包んでしまい、一度にハンダづけしようとしたからです。それが復帰摂理です。

 神様を失った人間、真の父母を失った人間、真の夫婦の因縁を失った人間、真の子女の因縁を失った人間、この人間が願うことは、まず子女になることです。そうなるには、再び産んでもらわなければなりません。再び産んでもらえなかった者は、全部継子です。私たちは重生の体験をしなければなりません。「私はイエス様と聖霊を失っては生きられない、私の体の血と肉が彼の一部分なのだ」という立場に立たなければなりません。

 それで、真の子女の因縁を結んで養育を受け、聖霊の感動とともに聖霊の助けを受けて、聖霊が新郎であるイエス様に対して思慕するのと同じ感情で、和すことができなければなりません。そういう心で、今後主の来られるその時を仰ぎ見ながら、処女のような体で装い進まなければなりません。

 皆さん、この世で何が一番貴いでしょうか。何が宝物ですか。二人の者が支配できる位置にいることは喜ばしいことではありません。幸福だとはいえません。二人の者が所有しているその位置に、「幸福」という名詞はありません。天地の間で一番貴い方は、神様です。幸福な人とは、どんな人でしょうか。先ほど話したように、一番貴いものをもっている人でしょう。

 では、この天地間で一番貴いものとは何でしょうか。あらゆる存在物が、自らの生命を与えてでも欲しいものです。そのように貴いものを、皆さんはもったことがありますか。皆さん、金銀財宝が貴いのですか。自らの生命を与えてでも欲しい方がいるのですが、その方が神様です。

 皆さんがそのような価値の神様を知るようになれば、神様の息子、娘となることは問題ありません。天上天下にどんな貴いものがあるといっても、それはみな造られた相対的な存在であり、神様だけは主体的な存在です。ところが、その神様を私のものとすることができるというこの事実、それがどれほど感激的なことでしょうか! 神様が私のものになるというのです。皆さんは、その方を「私のものだ」と言うことのできる息子になり、娘になり、兄弟になれるというのです。これが救いです。

 神様はイエス様に対して、「ひとり子だ」と言いました。今までこの地上に数多くの人間が生まれ死んでいったけれども、汝だけは私の息子であると言われました。こういう事実を考えてみるとき、イエス様は最大の成功者でした。神様から「ひとり子」という、「息子」という名分を受けたのです。心情をかき分けて入っていくと、彼は真の孝子でした。彼は、神様が過去から今日までどのようにしてこられた父であるかを知り、今日の自分に対していかなる心情をもっていらっしゃる父であるかを知っていました。また、その父が、自分を立てていかなる祝福をしてくださろうとするのかも知っていました。ゆえに、彼は神様を「私の父」と言ったのです。

 それゆえに、イエス様は救い主です。天の父、真の父母、真の夫婦、真の子女を探してくれる救い主です。今まで私たちはイエス様を、生命だけ救ってくれる救い主だと思っていました。これを根本的に壊してしまわなければなりません。私たちが信じているイエス様は、失った神様を探してこられた方であり、失った真の父母として来られた方であり、真の夫婦の新郎として来られた方であり、神様の前に真の孝子として来られた方なのです。

 そのイエス様を本当に愛する人は、神様を愛する者であり、真の父母を愛する者であり、真の夫婦になることのできる者であり、真の子女になることができる者です。それでイエス様は私たちを、「友人だ」とまで言われました。

◆神様が尋ねてこられる世界

 今後、全天下に散らばっている数多くの人々が、「メシヤよ、どうか来てください」と言って泣き叫ぶ時が来るでしょう。願い頼る主権も、信じている宗教も、いかなる学問も哲学も信じられないという時が来るでしょう。なぜなら、心情で始まった人間であり、心情を経て心情に終結する人間であるためにそうなるのです。

 人間の起源は言ではありません。心情を起源とした人間なので、心情の因縁を経て心情に終結しなければなりません。そうなることによって初めて、万物から「オー! ハレルヤ」と褒めたたえてもらえるのです。そのように褒めたたえてもらえる価値を一〇〇パーセント具備しようと思えば、心情の因縁を抜け出してはなりません。

 歴史は処理の歴史です。ある国家、ある主権を手本に立てて行く途中で、その国家や主権が落ちれば処理し、それよりもっと手本になり、より良い新しい国家を立てていきます。そのように国家や主権は処理できるけれども、心情は処理できません。生活と事情は処理できるけれども、心情は処理できません。この心情問題を処理できる一人の主人公が人類の歴史路程上に現れない限り、この世界に平和の時は来ないのです。幸福の世界にはなりません。そのため、神様は心情の世界を探してこられるのです。

 このような天的な心情の世界が来る日には、人間的なすべての倫理道徳は終末を告げるようになります。古いものが壊れてこそ新しいものが出てくるからです。それで、この世界は何とも言えないほど混乱するようになります。倫理道徳観が壊れてしまいます。父母が息子を、息子が父母を殺し、夫婦が互いに刃物を振り回します。

 このように壊すことで天地が終結するならば、前もってそのような場を訪ねて、死ぬ人も出てくるのです。そのような人々のために先生は、「お父様、自殺する穴を探して入っていこうとしている人を送ってくださいませ」と祈ります。

 そのような人々は、歴史的な終末を予感した人です。「どんなに肉身は良いといっても、心は楽しくないな。どんなに行動は楽しくても、心は安らかに休むことができないんだなあ!」と、このように思う人は、心情の世界が来るということをあらかじめ知って、環境を収拾していく先覚者です。

 安息の基台は心ではないという立場ではなく、事情と都合を一時休息させる立場ではありません。心情が永遠無窮に離れたくない立場です。「非難を受けても良く、むちで打たれても良く、何かが私の生涯を奪っていっても良い」と言える立場です。これを知ったイエス様は、十字架を前に置いて「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎさらせてください。しかしわたしの思いのままにではなく、父のみこころのままになさってください」(マタイ二六・三九)と言われました。ここでの願いは、心情の願いです。「心情のみ意のままにしてください」という意味です。

◆天国に行くことのできる人

 今日、全世界の人類は探しています。慕っています。ある時、必ず解決しなければならない問題を前にして、あえぎ苦しんでいます。その問題は御飯をよく食べることではなく、主権をうまく立て、光り輝く文化を創造して喜ぶことでもありません。それは東洋と西洋の問題や、皮膚の色の問題ではありません。父母が息子を愛する心をもつのは原則です。しかし、それ以上の心をもつようにする、そのような理念が出て、この地上に起こり得るとするならば、平和と幸福の世界、天国は自然に来るでしょう。

 「何をするな、何を捨てなさい」とだけ言われ、平和と幸福をもたらすことのできない神様ならば、そのような神様を信じることができますか。しかし神様は最大の贈り物を準備したために、私たちがどんなに良いということも、受けようと思うものがあっても、「みな忘れてただ一つのものだけを待ち望みなさい」と言われるのです。

 そのような何かがあるために「何をするな、捨てなさい」と言われたのです。ですから有り難いのです。知ってみると、有り難いというのです。長い歴史路程で使徒が苦労してきましたが、苦労して何かを得れば、また失い泣かなければならないことを御存じなので、「みな捨てて、一つの時だけを望みながら耐えて待ちなさい」と言われたのです。これがキリスト教の精神です。

 私たちは、これからこの門の外に出れば、家庭を訪ねていくでしょう。ところが皆さんは、「私のお母さん、永遠にあなたの懐を離れたくありません。死んでも永遠にお母さんと一緒にいたいです。天国が他の所にあるのではなく、お母さんと暮らせる所が天国です」と言える、父母をもつことができませんでした。また夫婦が地獄にいるとしても、夫のいる所にその妻がいたいと、夫を見つめて喜ぶことができるならば、そこが天国です。

 天国は、飢えて座っていても良く、ほおを殴られても良い所です。君と私との因縁は誰も切り離すことのできない所です。君が行けば私が行って、私が来れば君が来る所、そのような因縁でお互いが共にいたい所です。天国に行くことのできる人は、そのような内容と材料をもった人々です。

 神様は公義の神様です。公義とは手続きが正しいことを意味します。一箇所にだけ通じるのでなく、四方に通じるというのです。神様と主を置いて私も喜ぶと同時に、全天下が喜ばなければなりません。「君も良き神様の息子、私も良き神様の息子だ」と言うときには、許せないことがありません。

 神様の名を掲げておけば、怨讐がみな溶けてしまいます。神様の名を掲げておけば、兄弟でない人が兄弟以上に団結でき、家族でない人が家族以上に団結できます。この地上でそういう感じのもてない者、そういう内的な体恤のできない者は、新しい国の幸福な時代に入っていくことができません。

◆本当に幸福な人

 私たちは、無限に幸福な人になることを願っています。他人の知らない多くの学問を体得することが幸福ではなく、地上の宝物をたくさんもつことが幸福ではないのです。ある権勢をもつことが幸福ではありません。そのようなものをもっていても、天倫の認定を受けられない立場に立てば滅びるのです。

 一番貴いものとは何でしょうか。全宇宙の大主宰であり、主人公であられる神様の心情的な息子、娘になることです。それ以上にもう願うものはありません。神様を父とした息子がいるとするならば、この天地が彼のものになります。人間の胸中深くそのような因縁が残っているので、神様が汝の一番願うことは何かと尋ねれば、「この世を自由に主管して、この世界を自分の土地のように遊覧することが願いだ」と言います。それが大多数の人々の心です。それが本来の心です。堕落して失ってしまったので、それを捜し出すために、もがき苦しんでいるだけなのです。

 皆さんは神様の真の息子、娘となってください。そうすればその父のものは、息子、娘である皆さんのものになります。そうではありませんか? そういう偉大な贈り物、そういう心情的な贈り物を下さろうと、天は六千年間苦労することを意に介されなかったのです。

 そのような天の父を、皆さんは何度裏切りましたか。「やー、誰それ」と血を吐きながら泣き叫ばれていたその父を、どれほど裏切りましたか。「私は知らない」と言って背を向けたその人が哀れにならなければならないのであって、神様が哀れになってもかまわないというのですか。かわいそうな神様です。かわいそうな私のお父様です。

 そのようなお父様が、私の心のお父様です。恨めしく悔しいというのです。御自身の心情のすべての痛みと悲しみを忘れ、私を抱き締めて号泣できるお父様に会いたく、「よし、私の息子、娘よ」と言いながら、長いため息とともに希望の笑みを浮かべるお父様に会ってみたいという孝子、孝女がこの地にいますか。いないというのです。

 私たちは、ここに何をしに来ましたか。救いを受けるためですか。違います。血の曲折がここから繰り広げられたので、私たちはその場を通過して、本然の心情と因縁を結んだ息子、娘にならなければなりません。また、堕落によってゆがんだ恨の心情を解くために、六千年間苦労されたお父様の心情を抱き締め、今までの歴史路程を逆に取り除いてしまい、父のアルファとオメガの心情を相続できる息子、娘にならなければなりません。この地上にそのような息子、娘が現れなければならないというのです。

 幸福な人とは、神様が願い望まれる一番貴いことを、私のものにできる者だということを、私たちは今知りました。その貴いこととは、神様を父として、神様のひとり子を父として、神様のひとり娘を母とすることができることです。そのひとり子は父であると同時に、時代的に見れば新郎格に当たります。また、神様の代わりに罪悪の人間を救わなければならない立場に立っていると見れば、息子格に当たります。その方は、歴史上のあらゆる存在が願っていた方であり、摂理的な全体目的を成し遂げる願いの中心です。

 その方を探し出すために神様は六千年間悲痛な歴史を歩んでこられ、今まで生まれては死んでいった数多くの私たちの先祖と聖徒たちも全部、そのひと方を探し出すために努力しました。そのような貴い方、一人しかいない方に皆さんが侍ることができるならば、どれほど幸せですか。その貴い方が皆さんのものになるならば、どれほど幸福なことでしょうか。それ以上幸福なことはないはずです。そのようなことが成し遂げられるならば、お金が問題ではなく、体が問題ではなく、世界の土地が問題ではありません。

 人は貴いものをもったならば、もっているだけではいけません。下さった方と共に喜ばなければなりません。そうしてこそ、下さった方も喜ぶことができるのです。その方が、「もっとあればもっとあげたい」と言うぐらい喜ばなければなりません。そのような心があふれる者は、幸福者です。

 その喜びは、瞬間的な喜びではありません。そのようなことを探してさまよう人、そのような良心をもった人には、与えてもまた与えたいのです。自慢してもまた自慢したいのです。「やー! 本当に良いな、やー! 本当に貴いな」と言う人には、世の中で本当に貴いというものまで失うとしても、すべてあげたいのです。こういう心があふれた、その貴いものを受けるようになるとき、「やー、これから苦痛も問題ないな。この喜びを誰が奪っていけるものか」と言って喜ぶならば、その喜びは個人だけの喜びではありません。万民のものです。自慢したく、与えたく、受けるのを見るとき、自分がもっているときより、もっと喜ぶことのできる心があふれる人は、幸福な人です。

 そのような原則があるにもかかわらず、大部分の人間は、貴いものがあれば「私のものだ」と言います。「これは私の物だから誰も触れることはできない」と言う人は、天倫に対する裏切り者です。天地の運勢は、そのような方向に行く者を打つようになります。

◆新しい時代の主人公

 歴史路程を綿密に観察してみると、旧約時代は物質を祭物として差し上げた時代であり、新約時代は体と心を祭物として差し上げる時代です。イエス様は神様の体を代表した方であり、心を代表した方であるために神様の理想相対です。

 今まで私たちは、聖霊が恵みをくれると思っていました。聖霊は体の祭物を捧げる方です。この体の祭物が完結すれば、新郎となるイエス様が心の祭物を兼ねて捧げるようになるのです。父と母が合わさった位置から心情問題が出てきます。過去には物質を祭物として捧げました。今日のキリスト教は、聖霊とイエス様を中心として、体と心を祭物として捧げる宗教です。ゆえに、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マルコ一二・三〇)と言いました。このように、み旨の成就は相対的です。

 それから、今後はどのようになるかといえば、物質の祭物時代、体と心の祭物時代が過ぎ、最後には心情の祭物時代が来ます。神様が恋しくて生きていられないという時代です。神様が恋しくて生きていられないという心で、彼が死ぬ場に行けば、私もその場に行くことのできる心情がなければなりません。心情の祭物時代を必ず通過しなければなりません。それは人間が堕落したためです。心情の因縁に背いて心と体を失い、世の中のすべてのものを失ったので、それをみな一人で背負って蕩減復帰していかなければならないのです。

 そのような歴史路程を経てきているので、私たちが失った最後の幸福の要素を探すところにおいては、その方と心情の一体を成し遂げて一つにならなければなりません。心情が一つになれば歴史的な距離、時代的な距離、平面的な距離は問題ではありません。どこに行っても、常にその心の中に入っているのです。

 そのようになれば、私を中心として万物と相対的な関係を結び、万物と情を通じることによって、私たちは天と関係をもつようになります。天と心、心と体、体と万物、すなわち三対象をそろえるようになります。このようになって初めて、地上でサタンを支配し、天理の原則を通過した勝利の息子、娘として立つことができます。そのような者こそ、神様の分身なのです。男性ならば真の父の分身であり、女性ならば真の母の分身です。このような因縁は、億千万のサタンが来ても切ることができません。

 いかなる苦痛があっても、神様と一体的な関係、父子の因縁を結ばなければなりません。そのような確実で実証的な内容、体験的な事実を備えた者だけが終わりの日、新しい時代の主人公になるでしょう。こういう人は、必ず公義の審判過程を超えることができるでしょうし、愛を中心とした平和の世界で、幸福な生活を営むことができるでしょう。

















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