文鮮明先生のみ言集
訓教経(上)


神様の愛と共に生きる者になろう

一九六〇年五月八日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第九巻』


 きょうは「神様の愛と共に生きる者になろう」という題目で皆さんにお話しします。

◆神様の愛を求めてきた人類歴史

 今までのキリスト教の歴史を見れば、数多くの人々が天を求めて進んでいく道で死んでいきました。その歴史は、殉教の血で染まった歴史であることを私たちは知っています。一つの生命が倒れるたびに泣き叫んで訪ねてくださった方が、完全な愛をもたれた神様でした。

 人間が堕落したその日から悲しみの歴史は始まりました。それでその歴史を通過する人間は、悲しみと苦痛と闘わねばならず、もっている力をすべて出しても駄目なときは、自らの血を注ぎながら闘っていかなければなりませんでした。

 ですから、今まで神様の息子、娘も悲しみと苦痛に対して抵抗してきましたが、それで終わらないのでついには血を流し、生命を捧げてまでも抵抗してきたのです。

 では、そのようにした目的はどこにありますか。神様の愛を所有するところにあります。神様の愛の花を咲かせるために彼らが倒れていったことを、私たちは知らなければなりません。イエス様がゴルゴタで血を流して三十余年の生涯を終えたことも、神様の愛を残し、神様の愛を蒔くためであったことを、私たちは忘れてはならないのです。

 このように蒔かれた神様の愛が広がり、この地全体が愛を中心とした勝利の基台になるべきであったのに、そのようになれなかったので嘆くのです。そういう地にならない限り、再び聖子が死に遭い、聖徒が涙を流し、血を流さなければならないということを私たちは知らなければなりません。

 本来、神様が天地万物をある遊び道具や趣味で造られたのではなく、ある目的も方向もなく、ある理念的な内容もなく、ただ造られたのでもありません。これは皆さんが常識的に考えてもよく分かるでしょう。壮大な目的と大宇宙の理念をおいて造られました。それで極めて小さな物からものすごく大きい宇宙に達するまですべての存在物には、神様の心情に通じた理念が宿っています。

 では、このような理念をおいて造られた目的とは何でしょうか。神様の愛を中心とした理念の世界、すなわち愛と共に通じ、愛と共に楽しみ、愛と共に生きられる世界を目的とされたはずです。

◆大宇宙の運行の原則

 私たちが眠りから覚めて目を開ければ、目の前に広がった万象を見ることができます。私たちはその万象を通して何か知らない間接的な印象を受け、その反応する感覚で生活での感覚を高めていっています。

 私たちの周辺にある極めて小さな物でも、必ず私たちと因縁があり、関係しています。私たちが無視しても、そのごく小さい物はその日その日に天倫の理念によって、存在の価値を現して人間と共に因縁を結んでいるのです。こういう事実を、私たちは知らずに生きてきました。

 極めて小さな存在物から万物を主管することができる万物の霊長という人間に至るまで、その存在目的を中心として見れば、みな神様の大宇宙の理念に通じ得る愛の理念圏内に入っているのです。

 それで、小さい物は大宇宙の目的を達成するのに、大きい分野を受け持っているものに吸収されて動くのです。このようにして宇宙は動くようになっています。小さな物は大きい物に吸収され、その材料になり、一つの要素になリ、大理念を中心として一つの目的に向かうようになります。歴史はこのように進展してくるのであり、存在世界は天倫という原則の軌道によって、一つの目的のために動いているというのです。

 それは万物のみではありません。それから相対的にだけ推し量るのではなく、主観的に自分自身を中心として見るとき、皆さん自身はどのようになっていますか。皆さん自身も同じです。皆さんが生活するのに一〇〇パーセント活用しない身体の極めて小さな部分があるとしても、それも生の目的のために、離そうとしても離せない共同理念圏内で動いているというのです。私たちの指一つも、大宇宙のその何かを象徴的に表していると見ることができるのです。極めて小さな細胞一つも、やはり大宇宙の理念のもとで、使命的な一片をもって動いている、という事実を私たちは知らなければなりません。

 存在世界を法則的に推し量って公式化し、こうやって知識の一部を成し遂げたのが科学です。けれども、科学が全部ではありません。私たちが自分の皮膚を触れば、体温があり、触感もありますが、そのほかに感じられる他の何かがあるということを知らなければなりません。宇宙の理念は、私たちの生活を収拾していきながら、私たちが反対方向へ行こうとするときには、「宇宙の目的と一致する方向へ行け」と言います。こういう忠告を受けて生きる自分ですから、間違いないということをもう一度考えなければなりません。

 ですから、大きい物でも、小さな物でも、どんな物であっても、それらは全部天地を創造なさった神様の大理念圏内にあります。また神様は、それらを愛を中心として造りました。

 そのようにして造られた大宇宙は、神様が最高の喜楽を感じ得る平和の世界にならなければなりません。その目的が成されて神様が、「私は幸せだ」と言うことができなければなりません。そのような目的を終結させるために、この大宇宙圏内に神様の理念があると同時に、愛が宿っているということを皆さんは知らなければなりません。

 ところが私たち人間は、今嘆いて、悲しんで、苦痛だと、死ぬとか生きるとかと大騒ぎです。それは、私たち人間が堕落したゆえです。自分がどのような価値をもっているのか、自分がどのような位置に置かれているのかを知らず、自分が行くべき方向と行くべき目的地を知らないためです。

 どのような苦痛と悲しみ、そしていかなる困難にぶつかっても、大宇宙の理念圏内にある自分自身の位置がそれぐらいの困難に揺れてはならないということを知っている者は、その苦痛の峠を越えていくでしょう。また、これぐらいの苦痛に耐えられない私ではなく、これぐらいの死の峠の前に屈服する私の生命ではないと感じる者がいるとするなら、彼は人生行路において成功した人でしょう。「いかなる迫害と死の峠が差し迫っても、私の行く方向を変えることはできない。私の価値は地上のその何とも変えることができないのである」と言う者がいるなら、彼は地上にいても天の人です。地で死んでも、天の人だというのです。

◆宇宙の運行の目的――神様の愛

 神様が造られた万物の中心が神様の愛であるというなら、その神様の愛を中心として誇ることができる価値をもった人、そのような位置で愛を永遠に主張して生きる人がいるというなら、その人は人生行路において最高の成功者でしょう。

 そこに向かって人間は動き出しています。一人の方を中心として、この地上にそのように安定しない限り世界は収拾されません。そういう理念と、そういう価値と、そういう位置と、そういう方向をもった人がいるというなら、死亡の権限も彼を支配できず、いかなる主義や思想がどんなに膨脹しても、その主義や思想が彼をのみ込んでしまうことはできません。

 そうするために天は宗教を立てられ、修道や良心や善を立てて訪ねてこられました。では、このように六千年間神様が苦労された基台の上に立てられたキリスト教が、今日そのような立場に立っているでしょうか。イエス様を信じる人々がそのような立場に立っているでしょうか。そうではありません。この仕事を終結させなければ神様の事業が成就されないのですが、皆さんはこの神様の事業を成就させるために、ある一部分でも引き受けようとしたことがありましたか。全体摂理のみ旨を完結させるのに、一つの小さい分野でも責任を負おうとしましたか。皆さん自身に問い返してみてください。

 では堕落人間が、どのようにしてこの大宇宙の理念圏内に沈んでいる神様の愛の世界を探して入っていくのでしょうか。これが問題です。

 その方法は簡単です。ある詩人が自然を見て、詩を一編書いたとき、読者がその一編の詩の中で詩人が眺めた自然環境を描くことができ、その詩人の感情までも共感できるならば、彼を偉大な詩人だというでしょう。また、ある画家が描いた絵画の一点からその作家の性格と、心情と、感情の世界と、彼の理念を推し量り得るなら、その作品は立派な作品になるでしょう。平面的に見えるある現象が問題ではなく、その形状の中に隠されていて、複雑な宇宙観が含まれている内的なものがあらゆる価値の起源なのです。

 したがって、私たちは天下万象を何げなく眺めてはいけません。神様の大創造の理念世界の存在物は、すべて一つの愛を目的として動くために、極めて微小な存在といっても、そこには神様の全精力が宿っているのです。神様がこの被造世界を六日間で造られましたが、その一つ一つの存在物、例えば一日目や二日目に造られた存在物にも、六日以後に起こる大宇宙の創造理念が連結しているのです。このように考えるとき、神様の心情を根にして造られていないものは一つもないというのです。

◆神様の創造の動機

 今日私たちは、昔の有名な人々が残した遺物を貴重に思います。彼らがもって暮らした骨董品を貴重に思います。しかし、今皆さんの目の前に砂粒が落ちているとすると、その砂粒一つにも神様の心情が関係していることを知らなければなりません。それはどんな貴い人や立派な人より、より高い創造主のみ手を経て生じた心情の結実体です。このような価値的な存在物であることを知り、砂粒一つにでも宇宙のように貴く思う者がいるなら、彼は間違いなく神様の息子になれるでしょう。

 すべての万物が、そのように因縁があるというのです。そして因縁というのは、極めて小さな所から結ばれるのです。皆さんの個体も、約百兆個にもなる細胞で神様と因縁をもっている生命体です。

 神様の愛を中心とした創造理念世界、すなわち大宇宙のあらゆる存在物は、どの一つも神様の心情の外で生まれたものがありません。こういうことを感じる人は偉大な人です。一つの木の葉が揺れるのを見て、天宙的な心情を感じてそれを表現できる人がいるなら、彼は宇宙的な人でしょう。

 今日私たちは、こういうことに対してあまりにも無視し、無関心でした。私たちの周囲に、私たちも知らずに起こっている天下万象が、神様の愛と共に存在する物であるという事実を知りませんでした。

 神霊的な境地に入ってみれば、小さな砂一粒にも宇宙の理致が入っていて、一つの原子にも無窮無尽な宇宙の調和が入っていることが分かります。存在するものをことごとくよく知ることはできませんが、ある複合的な力を通して現れた結果ということを否定できません。分子を経て原子、原子を経て素粒子のようなものが無意識的に存在するのではなく、ある意識と目的を備えて存在するのです。ですから、存在するものすべては神様の愛のみ手を経て出てきたものであり、必ず神様と心情的な関係を結んで存在しているという事実を、皆さんは徹頭徹尾知らなければなりません。

 修道者はどのような人でしょうか。一握りの草をつかんでも、「神様!」と言える心情で自らの価値と同等にその価値を認識できる人が、最高の修道者なのです。そのようにその価値をたたえる人が、最高の芸術家なのです。各種各様に存在する天地万象を見て、神様の各種各様の愛と心情の妙味を発見し、それらと友達になって一緒に楽しめる感情をもった人がいるなら、彼は全宇宙を代表できる人でしょう。そのような人が万物の霊長です。ところが、食べることしか知らない人が、万物の霊長になれますか。なれません。

 神様が被造世界を造るとき、そこには喜びがありました。造られたあと御覧になって、良しとされました。喜びがあったというのです。喜びは、ある目的を成し遂げたとき感じるのです。造られた万物に神様の目的意識が内在しているので、創造された万物を見て、神様は喜びを感じられたのです。

◆神様の摂理の目的

 では、復帰の世界はいかなる世界でしょうか。一言で話すならば、森羅万象の各個体を見ながらも神様を称賛できる心情的な因縁を、立体的に備えた人々が生きる世界です。天が見られる人格の価値はそこにあります。それで昔、聖フランシスが鳥を見て説教したという話もうそではありません。夢のような話ですが、夢でなく事実です。

 今日人間は恨めしい復帰の峠を越えて、新しい天地の主人公になりたがるのです。私たちはより一層そうなりたがる人たちです。そういう人になろうとするなら、私たちに属する一切は私たちのものでないという事実を、まず悟らなければなりません。

 自分の意識があってはなりません。私の所有観念があってもなりません。私が主体的な立場で、どんな相手の物を取ろうとしてもなりません。私は反応する個性体、つまりある主体の材料になる相対体にはなれるけれど、一つの主体として相対体をもとうとしてはなりません。見える万物も、私のものではありません。私に属する一切も、私のものではありません。「私」と主張する私も、私のものではありません。

 ですから神様を探し求めようとするなら、私を否定しなければなりません。一言で話せばそうです。私を否定しなさいというのです。堕落の存在意識が残っていて、堕落の所有観念が残っているそのままでは、神様と関係を結ぶことができないからです。一切を否定しなければなりません。私は私のものではありません。

 では、私は誰のものでしょうか。私は国のものであり、世界のものであり、天宙のものです。さらには、私は神様のものです。人間は必ずこういう関係を完結しなければなりません。人間は造られたときからそのような因縁をもっていましたが、堕落することによってその関係の通路がふさがりました。ふさがったこれを再び開放するためには、私を否定しなければならないのです。その道を開放させるためのものが、六千年間苦労された神様の歴史です。氏族から部族、民族、国家を経て、今日、世界を引っ張ってこられる目的がここにあるのです。

 今後世界を支配できる民族は、民族を越えて世界をつかむ民族です。今日世界を指導しようという国があるなら、自分たちの個体的な国家理念をもって動いてはなりません。一国家の次元を超えてこそ、世界を指導することができるのです。

 神様は堕落した人間に対して、「すべてを否定しなさい」と言われます。これは人間を大宇宙の理念圏内に追い込むためです。それゆえに修道の道では一切否定です。一切自分を中心としたことは受け入れないのです。これは先生の話ではなく、聖書がそのようになっています。世の中の理念と主義を否定して、家庭的な環境を否定して、個体を否定しろというのです。さらには、心を否定して、心情まで否定しろと教えます。

 なぜそうするのでしょうか。神様は堕落しないものだけを愛することができるからです。堕落の要素と因縁を結んだものは、一切受け入れられないのです。私たちを堕落しない本来の世界へ移すために「否定しなさい」と言われたのです。

 人間が堕落しなかったなら、全天下が私たちのものであり、神様も私たちのものになったのです。ところが、堕落することによって、所有できる資格を失ったから、私たちがもっているすべてを捨てなければなりません。「見える世界も私たちの世界ではなく、造られたあらゆる万物も私たちのものではありません。これらすべてのものは神様のものです」と神様に返さなければなりません。そのような立場で再び神様と因縁を結んで生まれ変わったのち、あらゆる万物を主管する位置に立てようというのが救いの目的です。

 こういう路程を経ていくべき私たちにおいて、最も重要なこととは何でしょうか。心情です。私の心情基準をどこに立てるかということが問題です。私が見聞きして喜ぶ一切は私のものではなく、サタン圏に属しているのです。これらすべてのものを引っ張って天の圏内に移すために、堕落した人間を今日まで率いてきたのです。これが歴史の目的であり、天の摂理の目的であり、創造の目的です。

◆本然の世界と本然の人間

 皆さん、心の扉を開いて、もう一度堕落しない本然の世界を回想してみましょう。本来、神様とアダムとエバは親子の関係でした。ところが、アダムとエバはそれを知らずに堕落しました。それで、人間は神様が誰なのかを知らないのです。

 神様には、アダムとエバを万物の主人公に立てて願われた目標がありました。彼らに神様の愛の感情がしみ込み、万物を造られた神様の創造の感情がしみ込むのを願われました。皆さん、思春期に入れば、万物に対するときに神秘感を感じるでしょう。そのように情熱が最高潮に燃え上がるとき詩を書けば、驚くべき詩を書くことができます。

 それと同じように、神様は大宇宙の心情をもった人間として完成することを目標に設定して人間を造られました。そして、人間がその目標どおりに成熟することを非常に待ち焦がれました。時を待たれたのです。彼らが成熟すればするほど男性が女性に、女性が男性に対する時、それぞれがお互いを大宇宙全体の実体として感覚することを願われたのです。彼らの感情世界に神様も入っていき、万物も入っていくことができる程度まで、人間が成熟することを願われたのです。

 アダムとエバがもし、そういう立場に入った夫婦として神様と心情的に和合し、全宇宙と心情的に和合しながら、神様から「お前たちを造ることによって、すべての願いと目的が完結した」というみ言を聞くことができたとすれば、今日この天地はこういう姿にならなかったのです。私たちが神秘的な境地、修道の道を探し求めて入っていけば、そのような感情がしみ込むことを感じることができます。

 毎日呼吸する空気の中にも、打つ脈拍にも、天宙の感情があふれ出るのを感じながら、自らの手を見ても笑うことができ、無限な感情を感じることができる人は、素晴らしい人です。このように、素晴らしい人にならなければなりません。

 もしアダムとエバが堕落せず、そのような境地に行ったとするなら、万物と天と共にどれほど美しく暮らしたでしょうか。アダムとエバが堕落する時に、そんな事実を知っていたでしょうか。知りませんでした。ですから、彼らの子孫として生まれた私たちも、それを分かるすべがないというのです。ですから神様が、「祈祷しなさい、修道の道を行きなさい、すべてを否定して出ていきなさい、出ていって上がってきなさい」と言われるのです。どこまで上がらなければならないのでしょうか。アダムとエバが堕落する以前の地点までです。これが、神様が人間世界に要求する道の標準です。

 皆さんは、本然の世界と、本然の人間と、心情を慕わなければなりません。では、皆さんの心がそうですか。「神様!」と呼ぶ瞬間、神様と和して愛することができ、説明を聞かなくても、その存在価値を一〇〇パーセント認め得る世界が心情の世界であり、愛の世界です。説明を必要とする世界は理知の世界です。今日この世界は新しい理知を論じ、哲学を立てて出てきますが、心情をもった人間は絶対に支配できません。

 最後には、ある理知で解明できる心情ではなく、ある理知で解明できない無限な愛の心情世界、そのような絶対的なものを探し求めなければなりません。ある論理で解明できるものならば、人間も創造できます。私たちは神様を解明できません。神様の愛も解明できません。しかし、神様は生きていらっしゃるのです。

 皆さんが、皆さんの生命を解明できますか。皆さんの良心を解明できますか。天的な無限な宇宙の感情と和することのできる境地に入ったとするなら、そのような人間になったとすれば、今日人間はこのように生きはしなかったのです。今日のような二十世紀の文明の科学世界は、とうの昔にすべて
 成されたというのです。何千年前に既にすべて成されたというのです。現在二十世紀の文明は、四百年かかって成し遂げた文明です。文芸復興以後の文明なのです。

 今日私たちは、嘆きあえいで、死ぬとか生きるとか大騒ぎです。そうして、結局人間の進む道は修道の道です。世の中に信じるものがなく、頼るものがなくて行く道が、修道の道です。修道の道を行く人々は、ある意味で人生行路の落伍者です。社会生活で落伍して捨てられた群れです。けれども、捨てられた群れによって歴史は、今まで収拾されてきました。現代文明もまた、排斥された群れによって発展してきたのです。

◆神様の息子、娘の資格基準

 これは、なぜそうなのでしょうか。ここには、ある理由が内在しているのです。皆さん、自分の価値を知って自分を中心とした家庭と、社会と、国家、世界、天宙の価値を知る人がいるならば、神様を「お父様」と言えないでしょうか。

 しかし、現在のような立場に立つ神様を「お父様」と言えません。父母が、愛する息子、娘にあげるハンカチを作るとしたなら、どのように作りますか。心情のこもった愛する心で、真心を込めて作るでしょう。

 こうして作られた、自らの愛に代わり、自らの心情に代わったハンカチが愛する息子、娘の手に渡されるとき、「私の愛と心情も渡されるだろう」という思いで、真心を込めて作ってあげたにもかかわらず、その息子、娘が、大したことがないように受け取ったとしましょう。その時、父母の心はどうでしょうか。

 天地万物を造られた神様も同じです。父母が、愛する子女に作ってあげたハンカチ程度の問題ではありません。永遠不滅の価値をもった実存体として、その時だけではなく、子孫万代にまで永遠に「神様の心情の絆」と言える存在物として、この万物を造られました。

 それで、神様は花を見て何の要素からできているのかといって、成分を分析する人より、花を見て笑って楽しむ人を、より貴く御覧になります。科学は分析することですが、芸術は何かについて見て感じた感情を表現することです。ですから、芸術は科学より先んじるのです。

 皆さんが山や野原に行って一握りの草を見たとき、「あ、これは何の草だが、何の種から芽生えて、何の元素が符合してこのようになった」と言うのと、「やあ、美しいな」と感嘆して心情に対するのとどちらが貴いでしょうか。心情をもって対するときは、一対一で対するのではありません。全体に対することになります。分析的に対することと比べることはできないのです。

 それで、神様の愛と共に生きる人が神様の息子であり、娘です。天を主管することができ、地を主管することができる全天宙の主人公です。このように、驚くべきものが人間です。もし、そのような息子、娘がいれば、神様が、そのように立派になったと呪うでしょうか。それ以上に喜ばれるものはないでしょう。

 もし、皆さんの手で作ったものが皆さんに対して、「お父様」あるいは「御主人様」と呼び、笑って、うれしがって、喜ぶならば、皆さんはそれを見て「やあー、こいつ! 罰当たりめ」と言うでしょうか。そうではないでしょう。それ以上に良いものはないでしょう。

 こういう立場に置かれた人間なので、万物の霊長です。では、人間が万物の霊長に決定され得る本質的な内容とは何でしょうか。愛です。人間は、この愛の感情と無限世界まで因縁をもつことのできる中心位置にあるために、万物の霊長になり得るというのです。

◆侍る生活の必要性

 神様の愛と共に生きるといったので、これから皆さんの生活目標はどのようにすべきでしょうか。愛の心情をもって侍る生活をしなければなりません。そのような心でハンカチ一枚に対して敬礼しても、それは偶像崇拝ではありません。愛の心情をもって頭を下げるのに、何を支配できるのでしょうか。自らの栄光を超越して、心情で敬拝すれば、サタンが一層「そうするな」と言うでしょう。天宙の心情に通じて行く所には、偶像がないのです。

 仏教徒を、石で作った仏様を供養すると非難しますが、天の前に心情のみ通じれば、天も打つことができないのです。そのような立場に立てば、仏教を信じる人も天国に行きます。どんなに「偶像崇拝をした」と言っても天国に行くというのです。逆に、天上の法度を慕う徹した心がなければ、地獄へ行くのです。

 今日私たちが、五官を通して見聞きし対する一切は、神様の愛に根拠をおいていることを知らなければなりません。そのような心情世界に入れば、時計一つを見て「神様!」と言っても罪になりま
せん。

 皆さんは祈祷をするために山中に入って早朝祈祷をし、徹夜祈祷をすることよりも、一握りの草を見ても、それを造られたお父様のみ手、造るとき喜ばれたお父様の心情、それが恋しくて涙する人にならなければなりません。そのような人がいるとすれば、彼は天宙の大いなる主宰であられる神様の息子、娘に間違いありません。神様の前に満点を受けることができる資格者でしょう。

 皆さん、神様が天地万物を造られるとき、どのような心情で造られたのか考えてみましたか。岩を見て「岩よ、お前は神様の心情といかなる内的な因縁をもってこの天地に生まれたのか」と言ってみましたか。「神様の心情を万物を通して知るようにするために、神様は天地万物を創造なさったのに、お前を見てもこのように無感覚なので、こういう私を呪いなさい」と言わなければならないのです。

 ところが、人々は感覚が鋭敏な人を見て「理想主義だ」とか、「気が変だ」とかと言います。六感をもって感じる人を見て、「狂った」と言います。狂っても、目的のために狂えばいいのです。皆さん、踊ることは狂うことではないですか。踊るのを見るのは「良い」と言います。狂うことなら、それ以上狂うことがどこにありますか。しかし、喜べる環境を中心として狂うなら、良いというのです。「おかしい」と非難を受けて追われてもいいというのです。神様の愛を歌うことができ、神様の愛を現すことができるなら、どうあってもいいというのです。

 これから皆さんは、私たちが失った本然の基準を取り戻し、新しい理念の天国に入って生きようとするなら、どのような人になるべきなのかということを知りました。

 造られたあらゆる万物は、神様と愛の因縁を結んでいるということを知って、それをお父様の影のように感じられなければなりません。あらゆる万物は、お父様の心情の影のようなものです。お父様がもっている精力をすべて傾けて造ってくださり、お父様のみ手を経て造られたものであるので、父の代身者のように、貴く価値あるように思って愛してくれることを万物は願っています。ところが、堕落以後今日まで、誰もそのように対してくれなかったのです。ですから、嘆かずにいられますか。ですから、聖書に万物が嘆くと書かれています。

 これから、私たちは知らなければなりません。神様の愛が宿っている自然を眺めて、「世の中の王、あるいはどんな有名な人がもっている立派な物と比べられようか。骨董品と比べようもない。どんな有名な夫人が着ている豪華な服と比べられようか」という心をもたなければなりません。そうできなければ、私たちは自然世界の前に自分も知らない罪を犯していることになるのです。

 一つの生命体を見る時、「人間が作ったいかなる物と比べられようか。どんなに立派な人だといっても、神様より立派でしょうか」と言って、神様の心情を傾けて造られた万物をつかんで、何よりも貴く思う者がいるならば、これは間違いなく天の息子、娘であるのです。こういう人には、祈祷が必要ありません。神様と共に生きる人です。天が人間を、そういう立場まで追い立てるのです。

◆体 恤する立場

 人間は、自分が愛する人のものは、何でも好んでかわいがります。それなのに、最も愛すべき神様が造られた万物を、かわいがるすべを知りません。こういう人々が、神様の息子、娘になることができますか。

 嘆く万物の恨を解怨してあげるべき責任を負った皆さんは、木の一株、一握りの草にも、六千年前それらを造る時の神様の心情と、創造のみ手を体恤しなければなりません。

 ですから皆さんは、道を歩いていて一握りの草を見ても、涙を流すことができなければなりません。木の一株をつかんでも泣くことができなければなりません。「主人を失ったので、どれほど寂しいでしょうか」と言いながらです。一度そうしてみてください。先生は、岩をつかんでも泣き、風が吹くのを見ても泣いてみました。

 なぜそうすべきなのか、今はみ言を聞いたから理解できるでしょう。「神様が造られた価値ある万物が、神様と永遠な因縁を結ばれた貴い万物が、今日、いかなる王宮での国宝や宝物のように貴く思う物ぐらいの取り扱いも受けることができない悲しさを、私は分かってあげなければ。私だけは察してあげなければ」と言ってきました。「この地に生きる人類がすべて分かってくれなくても、私は分かってあげよう」という心を皆さんがもったなら、この民族は、今後世界を支配できる新しい民族になるでしょう。これは観念ではなく、事実です。

 どこの誰が万物を置いて、代々に伝わる自分の家門の宝物より、世の中で最も貴い宝石というダイヤモンドより、貴く思ってつかんで離さないようにしますか。そのような人が、どこにいますか。神様は、神様が造られたものを心情的に察して、それをつかんで涙を流す人を見て「うんうん」と言われます。霊妙な境地に入っていけばいくほど、そのような感情が豊富になるのです。物事の深い道理に通じるということは、そんな立場でなされるのです。心情を通じて見れば、すべては一つです。

 これから皆さんは、神様の息子、娘となると同時に、神様が喜び得る主人公にならなければなりません。男性でも、女性でも、家庭に入ってからは、その家庭を動かすことのできる主人にならなければなりません。また、その家庭は、社会を動かすことのできる主人にならなければならず、その社会は、国家を動かすことのできる主人にならなければならず、その国家は、世界を動かすことのできる主人にならなければなりません。

 先生は、天のお父様のみ手を経て造られた純粋なこの一握りの草を、何よりも価値あるように感じることができる世界になることを願っています。いかなる香りよりも、空気の味がもっといいというのです。人が空気の味を知って、日の光の味を知り、水の味を知っていれば病気になることはありません。こういう心情で生きれば、誰でも健康体になるはずです。

 万物は神様の心情からわき出たものであり、心情と共に永遠の存在の価値をたたえることができるように造られたものです。ですから、御飯一さじを食べるときも、「ありがとうございます。おそれ多いことです。堕落の子孫の前でこれは何事ですか」と言ってみてください。「何がおいしい、何がまずい。服もいいのを着れた、着れなかった。何が良い、悪い。地位が高い、低い」などと言ってはなりません。

◆神様の同伴者になる道

 天の心情圏内に入っている人は、「下さい」と言われれば無限に与えることができ、遊ぼうとするなら無限に遊んであげることができ、「行こう」と言えば無限に行ってあげられる人です。怨讐が左のほおを殴れば右のほおを出し、「上着をくれと言うなら、下着まで与えなさい」と言われたイエス様のみ言は、そのような見地で理解すべきなのです。皆さんのような立場で言った話ではありません。「失ったようだけれど私は金持ちだ、ないようだが私は金持ちだ」という宇宙観的な心情を皆さんがもたなければなりません。

 こういうことを知ったから、これから天的な理念世界を成し遂げるために努力しなければなりません。そして、各自の生活環境で天と因縁を結ぶべき立場にある私たちの生活目標は、「神様の愛と共に生きよう、神様の心情に伴って生きる者になろう」というものでなければなりません。皆さんがこういう生活真理を知っていれば、最高の詩人になります。それで人々は、複雑な都市生活よりも、海辺や山に行くことを好むのです。ですから、人間はいい景色を訪ねて、そこを懐かしがるのです。

 もし、そのような男性と女性が神様の祝福を受けて結婚をすれば、どんな息子、娘が生まれてきますか。そのような心情の息子、娘が生まれてくるというのです。

 神様は、私たちの先祖アダムとエバを造られて何を願われたのでしょうか。彼らがお互いを思慕して心情的な因縁を結んで万物を代表したアダムとエバ、神様を代表したアダムとエバ、天上天下の代わりをしたアダムとエバとして、成長することを願われました。アダムとエバが宇宙全体以上の価値を完成した姿で喜んで神様の前に立てば、神様は彼らを祝福して結婚させようとなさいました。

 ところが、そうできなかったので、今日までも修道の道を行く人は独身生活をしなければならなかったのです。天理の原則を立てることができないがゆえに、修道の世界は一人で行かなければなりませんでした。今日まで相対的な関係は怨讐でした。イエス様も家庭を成すことができず、「私は新郎であり、あなたは新婦である」というみ言のみを残していかれました。

 今や新婦になって、神様を身代わりしていらっしゃるイエス様を新郎に迎えるべき皆さんは、新婦がもつべき内的な心情的価値をどのように備え、どこから心情の問題を収拾するのでしょうか。祈祷だけすればいいですか。いけません。生活から神様の苦労された痕跡をたどって訪ねていく、神様の心情の同伴者にならなければなりません。

 そのようになろうとする人がいるなら、神様は、今まであった歴史的な苦痛に遭うように一度強く打ちます。全世界にいるサタンが、押し寄せる立場に出すというのです。しかし、そのサタンに対して、「お前が、創造の目的を身代わりできる心情の因縁を立てた私を支配するのか」と対抗できれば、サタンは退きます。

 イエス様は天国に行かれても、サタンと闘っていらっしゃいます。そして、「再び来るためにサタンと闘わなければならない」と言われました。なぜそうであるのか知っていますか。地上で、万物と人間を一つの懐で愛し得る基準を立てることができずに逝かれたためです。それで、サタンが侵犯できたのです。

 ですから、今後新しい時代の人々は、農作業をしても、一握りの草を自分の妻や息子、娘のように貴く思わなければなりません。そうなれば、天地は生命の要素で充満するようになり、心情が向かう所に生命が従うようになり、愛が動く所には自然に生命が伸びていくようになるのです。

 そのように農作業をする人がいるならば、肥料を与えないでも農作業がうまくいく時が来るでしょう。くわで掘られた土くれから手に握れる穀物の一つの葉を見てまでも、涙ぐみ、友人のように接してかわいがり、大きくなりなさいという心で農作業する人がいますか。今後、新しい国、新しい時代の人々は、そのようにならなければなりません。

 そのようになれば、天宙にあるすべて生命の動きが旺盛になるために、そこには人間の力で造られた物は必要がなくなります。そのような時が来るでしょう。皆さん、野牧(韓国京畿道)にある一人の食口がいます。彼は草取りをするたびに賛美歌を歌うのですが、三度の草取りのうち、一度しか草取りをしません。ところが、秋に行ってみると、草がうず高くあるのに、他の人が三度草取りした以上の収穫があるそうです。その地方では、とても興味ある話の種です。一つの国に衰運が寄ってくれば、その国の万物から衰運が入ってきます。一軒の家に衰運が来るか、来ないかということは、その家の息子、娘を見れば分かります。心情が幼く、その心情の度合いがだんだん少なくなる家は、いくらも続きません。何代も続かないだろうという感じがします。

◆私たちが探し求めるべき心情

 では、今後恵みを受けられる民族は、どのような民族でしょうか。心情の因縁を、生活の感情とする民族です。その民族は世界を支配するでしょう。先生は、これ一つ見て願いをかけます。大宇宙の理念と関係を結んで涙する日には、この民族は、世界を支配する民族になるでしょう。理致がそうだというのです。ですから皆さん、これからはよく知らなければなりません。一握りの草でも心情的に対し、友人とみなすことができる雅量がなければなりません。

 今日この地上に生きている人々が、たとえ罪悪の子孫でも、昔堕落する前、本然の神様のみ手を通して造られた当時は、神様の心情を身代わりできる息子、娘でした。ところが、堕落によりこういう姿になったので、いまいましく恨めしいのです。こういう心情をつかんで泣く人は、必ず歴史的な人物になるでしょう。イエス様も、そのような心情をもっていらっしゃいました。その当代は追い込まれ、追われて殺されたとしても、世界に残るのは心情の基台なのですから、そのような人々は必ず歴史的な人物になったのです。

 こういうことを考えるとき、私たちは万物が哀れで、万民が哀れで、天が哀れだということを感じなければなりません。「万物よ! 六千年の長い長い年月の間、主人を失ってどれほど悲しんだことか。人間よ! 本然の生のための安息の基台を失って、どれほど悲しんだことか。天よ! 心情の因縁を中心として万物を主管するように造られた息子、娘を失ってどれほど悲しまれたか。哀れな天よ! 哀れな万物よ! 哀れな万民よ!」という心情で訴えるようになるとき、サタンは退くようになります。

 イエス様がいかなる心情でサタンを屈服させたのか、御存じですか。神様は哀れで、万民も哀れで、万物も哀れだという心情です。「息子、娘を失った神様がどれほど哀れであられたか、主人を失った万物がどれほど哀れだろうか!」という爆発する心情があったから、サタンが退いたのです。サタンは、何か話を聞いて退くのではありません。

 イエス様は三番目の試験で、「ひれ伏して私を拝みなさい」と言うサタンに対して、「主なるあなたの神を拝しなさい」と言われました。これがどういう意味か分かりますか。これは言葉ではなく、心情です。「お前は天倫の心情を裏切った裏切り者だ。しかし、私はこういう心情基準に立って神様に敬礼する。心情をすべて尽くして捧げるこの敬礼を受けられる方は、神様一人だけである。お前もそうではないか」という意味です。そのような心情の前には、サタン世界が崩れるのです。それを知らないために、このようになったのです。

 私たちは探し求めなければなりません。歩みを変えて、この大宇宙圏内に隠されている愛の心情を探し求めなければなりません。この心情が落ち着く日には、万物も安息するのであり、天も安息するでしょう。そういう心情をどこから探し求めますか。皆さんの日常生活から探し求めなければならないのです。

◆天国を訪ねていく道

 皆さん、いい所に見物に行ってきた人が、死にそうな顔をして家に帰ってきますか。にこにこ笑って帰ってくるでしょう。皆さんがそのような心情をもって生活するなら、どんなに疲れることをするにしても疲れないでしょう。「歴史的に多くの人々は、このようなことをもって悲しんだが、よし、私はこのようなことをどれほど慕ったか」と言いながら、仕事をすれば一つも嫌気がしません。ですから、「音楽家は音楽的に生きて芸術的に死ぬ」という言葉もあるではないですか。人間はそのようになっているというのです。

 今日ここに集まった皆さんは、神様の愛と共に、神様の心情と共に生きる人にならなければなりません。皆さん、私はこうです。粗末な服を着ても、立派な人々が集まった所によく行きます。服が問題ではありません。食べて、着て、生きることが問題ではありません。外的な形はどんなによく整えたとしても、中が腐った者は、対等な取り扱いを受けることができません。ですからイエス様は、「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ」(マタイ二三・一三)と言って、叱責したのです。

 天の心情を動かすことのできる内容を備えた人は、どこへ行っても、水辺に行っても、山に行っても何ら問題がありません。どこに行こうが友達がいます。私はそのような生活を少ししてみましたが、冷たい岩の上に横になって眠ることになったとしても、「よし」と言わなければなりません。

 「労働に行ってかますを担いだ」と言って、「昔はどうだったのに、きょうはこのようになった」と言って気落ちをしてはなりません。「このような私の心情は誰も奪えない」という心情をもたなければなりません。そのような人にならなければならないのです。そのような人は地上の悪という要素、悲しいという要素、いかなるサタンの要素をもっても触ることができません。そんな人は、間違いなく天国の民になります。

 今日、私たちはそのような心情を探し求めて、さまよう開拓の先鋒者にならなければなりません。ところが、今私たちが生きている世界は、どのような世界ですか。堕落した世界です。それで反対の歴史が起こります。堕落圏内にある限り、私たちは、この心情を中心としていかなる困難が近づいても、それを越えて勝利したという基準を立てなければならないのです。

 そのような者でこそ、民族の前に立つことができ、世界の前に立つことができ、また天宙の前に立つことができるのです。これが鉄則です。そういう基準を超えるまでは駄目です。赤く紅を塗り、てかてかさせて歩き回ってもいけません。いい物を食べて、美しいものを着てもいけません。

 自分は食べられなくても、食べたい人を探し求めたい心、自分は着れないながらも着れない人をかわいそうに思う心、自分は家がないながらも高楼巨閣に住む人を見て涙を流し得る心をもってこそ、勝利したという基準を超えることができます。

 天国に行こうとする人々よ!

 地獄を征服したのちに、天国に行けるということを知りなさい! 原則がそうです。地獄に行く道は世俗的な満足を訪ねる道であり、天国に行く道は世の中が好まない所を訪ねる道です。簡単です。地獄行きを願うならば、この世の幸福な立場を訪ねてください。天国行きを願うなら、この世の不幸な立場を探し求めてください。

 
 心情の因縁を通した救いの道

 今日私たちは、堕落した世界に生きていることをもう一度はっきり感じなければなりません。「神様、私がなぜ堕落したアダムとエバの息子、娘に生まれましたか。どうして私が堕落の子孫として生まれましたか。もし、神様が私を人間の先祖として造られたとしたなら、私はアダムのように堕落しなかったでしょうし、エバのように堕落しなかったでしょう。ですから、神様、堕落する前のアダムとエバの心情を私に許すことができないでしょうか。アダムとエバに、希望の心情で願われた内容があるというなら、その心情の内容を私に現してくださることができないでしょうか」という祈祷をしなければなりません。地上で、堕落の子孫の中から、このような祈祷をする人が出なければなりません。聖書にもそのまま下さるとは言っていません。門をたたけば開けてもらえ、求めれば与えられるであろうと言いました。イエス様はそのような祈祷をされたのです。

 イエス様は来られて、まず地を主管する万王の王になろうとされたのではありません。悲しい者の王になろうとされ、泣く者の王になって苦痛を受けて死んでいく者の王になろうとなさり、地上でサタン世界を征服するための開拓の道に出られたのです。今日の信徒たちはイエス様を見て、神様のひとり子であり、私たちの新郎だと話しますが、それはすべて結果的な名詞です。

 イエス様の新婦になろうという人々は、イエス様の心情を見習わなければなりません。イエス様は心情の勝利者になられた方であり、心情をもって悲しい者の王になるために泣かれた方であり、苦痛を受ける者の王になるために苦痛を受けられた方でした。イエス様は心情をもって死ぬ者の王になるために亡くなったがゆえに、彼を信じれば救いを得るというのです。しかし、心情的な因縁を結ばなければ、救いと何ら関係がありません。天地の理致がそのようになっています。

 この大宇宙に心情世界を再び立てようというのが救援歴史なのですから、その救援歴史の路程で、私たちは一片丹心、私がある程度その材料になることができるかどうかということのみ考えなければならないのです。

 この万物を材料として、人類を材料として、霊界の億千万の聖徒を材料とすべきなのに、私が動けば万物がある程度動いて、人類がある程度動いて、天上の億千万の聖徒がある程度まで動いて、私が地上で叫ぶことが、この宇宙にどの範囲まで心情の反応を呼び起こすかによって、天上で私の価値が決定されるのです。イエス様が死ぬ瞬間の悲しみは、天に反映されて全宇宙に反映されました。ゆえにイエス様は、心情の救い主なのです。

 こういう境地で皆さんは万物に対し、「面目がないな。本然の人間の先祖と共に神様の心情を歌いながら、永遠にその懐に抱かれて生きるのをどれほど待ち焦がれたか。待ち焦がれた一次的な願いは壊れてしまい、恨めしい堕落の子孫を迎えて、今まで嘆息圏内で再び第二の人間の先祖を迎えるための歴史路程を経てくるのに、どれほど苦労したか」という心をもたなければなりません。

 喜びの世界にあるべきなのが、人間によって悲しい世界、嘆息圏内にあるようになった万物を眺めて、その中に無窮無尽な悲しみが内在しているということを感じる者でこそ、神様の心情の同伴者になることができます。どうしてでしょうか。神様がそうだからです。

 人に誇ることが何かありますか。ありません。したがって、イエス様は高慢になるな、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マタイ二三・三九)、「わたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(同一六・二四)と言われました。どうしてこのような話をされたのでしょうか。今までのあらゆる曲折を、一度に蕩減しなければならないためです。そのために逆説的な話をされたのです。

◆神様を慰労してあげることのできる息子、娘

 「救い」という言葉は悲しい名詞です。私にとって「救い主」という言葉は、どのような意味をもっていますか。救い主がいなかった、エデンの園のアダムとエバはどこへ行ったのですか。本然のアダムとエバも救い主が必要だったのですか。イエス様に救い主が必要だったかというのです。堕落したがゆえに救い主が必要になったのです。堕落しなかったなら、祈祷とか、宗教とか、道徳であるとか、修養であるとか、何の世界観であるとかいうのは、みな必要ありませんでした。堕落しなかったなら、アダム主義が世界主義であり、神主義なのです。

 堕落してすべて壊したのを繕って、また繕って、天の前面に押し出そうというのが復帰路程です。それでもずうずうしく「私はこれくらいしたらよいだろう」と威張る人は、犯罪者の中の犯罪者です。天の前に裏切り者として許されない立場にありながらも、自慢をして回るのですか。心情の世界に入っていけば入っていくほど、何も言えないほど息が詰まります。涙しか出てくるものがありません。

 愛する夫が死ねば、その夫人は果てしなく泣くでしょう。泣くその瞬間は、昔、幼い時のことから、すべてのことが思い出されるのです。愛の感情を通してこみ上げてくる悲しさは、幼い時にお母さんにののしられたことまで思い出します。したがって、夫や愛する人が死んでたくさん泣いたことがある女性が、まず悔い改めの立場で出ていくのです。夫を失い、愛した人を失って号泣するその場は、天の側に近い立場です。

 そのように、神様も愛する息子、娘を失ってから、堕落した人間をつかんで六千年間号泣してこられたということを知らなければなりません。「お前たちは堕落したが、私は栄光を受ける」という神様ではありません。そのような神様なら私たちと関係がありません。私が知っている神様は、そのような神様ではありません。一人しかない息子、一人しかない娘を失って六千年間さまよって訪ねてこられた歩みが、今までの神様の救いの摂理歴史です。

 この息子、娘を探すまでは、天地に万物がぎっしりといっぱいになったとしても、神様は誇ることができません。なぜでしょうか。万物は息子、娘のために造ったものだからです。したがって、私たち人間は、神様が私たちのために造ってくださった万物を収拾しなければならないし、私たちと共に生きるべき世界人類を引っ張っていかなければならないし、私たちを指導される天に侍らなければなりません。

 皆さんがこういう神様であることを知っていれば、涙を流さざるを得ないのです。アダムとエバが堕落する瞬間に、胸を痛められた神様の心情を考えれば、何十年号泣しても終わらないでしょう。皆さんは祈祷するとき、そのようなことを感じなければなりません。

 お父様の心情はこうだったのに、アダムとエバがその心情を分からずに堕落する時、心を痛められたその心情を感じなければなりません。彼らを救うために千六百年ぶりにノアを立てて百二十年間苦労するようにされましたが、彼の息子ハムが堕落した立場に立つのを眺めなければならなかった、その神様の心情を感じなければならないのです。

 アダムからノア、アブラハム、モーセ、イエス様の時代を経て、今までのお父様の心情を知り、体恤する立場に入っていけば、皆さんは自分がつまらない者であることを感じるでしょう。自分の存在の価値を度外視せざるを得ないのです。これから「私は百回死んでも当然で、千回滅びても当然です」という心をもたなければなりません。そうすれば天は「あなたに代わって滅びる立場に入ってあげ、死ぬ立場に入ってあげよう」と言うのです。皆さんは、こういうお父様に似なければなりません。

 イエス様はそのような立場で「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と言われたのです。そのような場はお父様と息子が体面を考えず、すがって涙する場です。訪ねてこられたお父様と探し求めていった息子が対面して、お互いを心配しながら抱き合って泣く場です。

 皆さん、神様と近い立場とはどのような立場なのか知っていますか。悔い改めの立場です。しかし知ってみると、「何の罪を犯したので許してください」と言う必要がないのです。お父様の心情を知らなかったことを悔い改めれば、すべて許されます。

 息子が両親のお金をみな使って放蕩することより大きな罪は、自分を愛するお父様の心情を傷つけることです。それ以上大きな罪がないのです。それゆえ、「お父様、これしきのことがあってもなく、なくてもあるものでしょう。しかし、お父様の心情を傷つけたこの罪がどうして許されるでしょうか」と涙する息子がいるならば、お父様は「よし、よし」と言って許してくれるというのです。堕落した父母がそうであるように、神様もそうされます。

 人々は教会に行って、「私が何の罪を犯したので、悔い改めますから許してください」と祈祷します。しかし、そのようなことよりも「天倫の原則を破壊し、天と人間の因縁を蹂躙し、人間と万物の因縁を破壊した心情問題で犯した罪を受け入れてください」と祈祷しなければなりません。そのように悔い改めることによって受け入れられ、勝利してお父様に認められるとするなら、万事解決されることでしょう。天は、そのような悔い改めをする人を訪ねてこられます。

◆心情の世界を求めるべき私たち

 心情に通じた人は、世の中のあらゆる物が自分のものになるのです。それでお父様の心情に通じた人は、世の中のいかなる物を持ってきて、持っていってもお父様には罪になりません。天国世界では隣の家に行って、何も言わずに食べたい物をちょっと食べたとしても、それが罪になりません。なぜなら、心情的に連結されているからです。

 心情を蹂躙した罪以上に大きな罪がないということを知らなければなりません。これから私たちは神様の愛の心情を推し量りながら、私たちは神様の心情を蹂躙した罪人であり、万物の心情を拒否した罪人であり、心情の世界を成し遂げることができなくした妨害者であったことを知らなければなりません。このようなことを皆さんが知り、心掛け、悔い改める人になるようお願いします。

 これから皆さんは、悲しみの立場を抜け出し、「神様、これからは悲しむのをやめ、泣くのをやめてください」と言うことができなければなりません。悲しい立場にいらっしゃった神様を、喜びの立場に変えなければなりません。そういう立場でお互いに笑い、喜んで生きる所が地上天国であり、そのような息子、娘が生きる所が私たちの故郷であり、堕落しないアダムとエバが生きた本然の世界です。

 そのような世界に入っていこうとするなら、天宙の理念と心情の因縁を探し求めなければならず、神様の創造理想の心情と、堕落直後の心情と、復帰の心情と、願いの心情を知って、神様と共に生きるために努力しなければなりません。

 その神様の心情と共に闘って、その心情と共に悔い改めて、その心情と共に死ぬ者がいるというなら、彼は死んでも生きた者であり、失っても得た人です。のちには、この世界全部が神様の懐に抱かれて、神様のものになるということを皆さんが認めてくださるようお願いします。















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