文鮮明先生のみ言集
訓教経(上)


すべての存在の目的意識と一つの世界

一九六〇年六月十九日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第九巻』


 きょう考えようとするみ言の題目は、「すべての存在の目的意識と一つの世界」です。

◆末世に置かれた人間が願うもの

 私たち個々人は、多くの存在物の中の一つとして存在しています。ところで、私たちがこのように存在するようになったのは、ある動機があるからです。その動機は、どのような面から見ようが、自分以上の絶対的なもので、力の源泉でなければならないことを否定できないはずです。

 小さな一握りの草にも、その背後にはそれ以上の力があり、生物体として存在させる絶対的な源泉があるというのです。さらには私たち人間、すなわち自分一個体を見ても、生理的な現象があり、感情と心情の作用があります。

 このようなことを見るとき、そういう現象を存在させる作用を起こして心情を誘発させる動機は、必ず私たちの背後にあると推論できます。

 万物の霊長である人間は、自らの存在価値も知らずに、自分をただ高く評価しようとだけします。いくら地上に知識をたくさん備えた人があるとしても、外的なことだけでは生命以上の価値を論ずることはできないのです。いくら政治、経済、文化、宗教、または他のいかなる面においても最高だと天下に誇ることができる存在だとしても、「母体から生まれながらに受けた生命以上の何かをもった」とは言えないのです。

 このような見地から見るとき、今日この世界が、果たして真実の世界であり、理想世界かという問題が台頭します。人間は、何よりも貴い生命をもっています。しかし私たちは、この生命を動かし、この生命に衝撃を与える力の対象体として生きない限り、その力の相対的世界であるこの世界で安息することはできません。

 それゆえ人間は、私の生命以上の絶対的な生命体と因縁を結ぼうとするのです。これは必然的なことです。それで、このようなみ旨を立てておいて摂理してくる方に、「絶対者」とか「神様」とかという名前を付与せざるを得ないのです。

 歴史的な終末時代のこの時を生きていく人は、知識が多ければ多いほど悩みが大きいのです。その悩みが自分の生命力を支配し、生命が安息できる福地を開拓できなくすることも、またよく知っています。このような時において、私たちに必然的に要求されるのは、絶対者による生命の安息所です。これは、民族を超え、東西の文化を超えて、すべての人が必要としているものです。

 このような境地で、私たちは絶対者と因縁を結ぶことのできる何かを懐かしがっているという事実が分かります。多くの知識を備えて人格修養をした人であればあるほど、意識を通して認識する感覚が鋭敏な人であればあるほど、自分が知っている専門分野だけでは生命の安息所を開拓することができないことをよく知っています。

 ですから、誇るものが何もない人間であるということを知らなければなりません。悩みで出発して悩みで終結するようになった人生路程なので、誇るものが何もないのです。それゆえ、このような問題を解決してくれる人が現れなければ、この世界は滅びることでしょう。これを解決することができるある主義が地上に出てこない限り、人類は後退も前進もできない絶望状態に置かれるようになるという事実を、私たちは切実に感じなければならないのです。

 人間はこのような事実を知りませんでしたが、昔から今日まで人間を通じて一つの生命の門を全天地間に開放するために苦労してこられた方がいらっしゃいます。その方が正に絶対者であられる神様なのです。また、このような神様の実存を認め、その解決方法を探してくるのが正に宗教なのです。

 ところが、今までの宗教は観念的なものにしがみついてさまよってきました。ですから、この観念的な宗教の形態をどのように生命的な宗教の形態に転換させるべきかということが問題になります。宗教指導者たちは、この問題に対して最大の情熱を傾けるべきでしょう。この問題は、天上に絶対者がいるならば、その方から直接解答を得るべき重大な問題なのです。

◆目的意識によって造られたすべての存在物

 創造主がいらっしゃり、その方によって造られた被造物ならば、その被造物には必ずある目的を達成しようとする目的意識や目的性があるのです。一つの微生物もそれを作った主人公がいるというなら、その微生物にも必ず主人公から与えられた目的意識ないし目的性があるのです。それ自体がもっている目的意識や目的性よりも、それを作られた絶対者が賦与してくれた目的意識や目的性が先に存在しているというのです。

 それゆえ、すべての存在物は絶対者のある目的意識により造られたということを、私たちは否定できないのです。それで人は、学んだことが多く、見識が広くなればなるほど目的意識がより強くなるのです。もっている権限が大きくなればなるほど、目的意識も大きくなるのです。ある主権者がいるとき、彼がその主権を中心として目的とするところの価値を大きく感じれば感じるほど、より新しくて広い範囲のことを成し遂げたくなるのです。それゆえ私たち人間は、個人から家庭を超えて、社会、国家、世界に至るまで、皆がこういう問題ゆえに悩んでいます。

 では、六千年という歴史路程を経ながら人間が願ってきた世界が、このような世界へ終結されるのでしょうか。そうであるなら、あまりにもむなしいのです。これを超えて、完全無欠な世界はないのだろうか、宗教を超越して東西の差を超えて、さらには天地が一つの生命体に接ぎ木をして動くことができる目的意識が実現された世界はないのだろうかと、学のある人ならば誰でも考えるはずです。

 私たちが生きながら感じる感覚の一切は、私たちがある目的の世界へ向かっていくように追い立てているのです。その目的の世界を自分がすべて知ることはできませんが、五官を通じて感じられる感覚は、より大きい目的の世界へ向かって進むように自分を追い立てているということが分かります。

 では、神様は何を基準に私たちを追い立てるのでしょうか。人間は、理念と意識を通して認識された観念を立てて生活しています。ここで神様は、全体の目的意識から感じて入る感覚と生命を基盤に追い立てるのです。

 では、意識とは何でしょうか。意識とは易しく言えば、実際に私たちが体験できる一切の経験や現象です。心理学者たちは、「意識には経験が内包されていて、表象が内包されていて、感情が内包されている」と言います。これは人間の五官を通して体験されるというのです。私たちは、このような意識を通して絶対目的を追求するのです。

 しかし、この絶対的な目的意識で生命を支配することはできません。哲学や心理学では、この問題を解くことはできないのです。すべての学問は、この問題に逢着しているのです。

 私たち人間の体は、たとえ小さくても、この心は、時間と空間を超えて無限な世界へ伸びていきます。ところで、この心が生活の中で世界的なある目的意識とつながるべきであって、そうでなければ脱線してしまいます。悪の穴に落ち込んでいき、絶望状態に陥ってしまうことでしょう。

 人間には環境を収拾できる良心があります。また、その良心を収拾してくれる倫理と道徳があります。この倫理と道徳がより高い理念とつながり、人間はその理念を基盤として、より高いことを追求しているのです。にもかかわらず、今日人類は生命的な問題には手をつけられずにいます。

◆目的の世界に向かって再び進まなければならない人間

 神様がいらっしゃるならば、その神様はすべての存在の目的と価値を立てておかなければならないでしょう。そうするには、一つの存在を立て、生命的基準を完結し、目的意識をもったあらゆる存在が神様の生命と関係を結んで、解放の歌を歌うことができるその日が来なければならないのです。その日が来ない限り、人類には真の解放があり得ず、真の自由の生活があり得ないのです。

 それゆえ、宗教は生命を主張してきています。私たちが目的意識を分析してみれば、二種類の方向があることが分かるのです。第一は、体が食べて生きるための生活的な方向であり、第二は、それを超えて良心を基盤として動く生命的な方向です。今日、どの哲学家もこの両者の境界線を超えることができずにいます。

 宗教人たちは生命的な方向に、世の中の人々は生活的な方向に重点を置いて、目的意識に向かって進んでいるのです。このように、互いに他の方向を取ってきたのが今までの現象です。

 では、これをいつ糾合させるのでしょうか。神様は、道義の道を歩んでくる人、心霊がせいてあらゆる精誠を尽くして天についてくる忠誠の息子、娘を、よく食べて豊かに暮らす方向に導きませんでした。

 堕落したその日から、人間が再び目的の世界に向かって前進しなければならないのを御存じである神様です。この世界を内的な意識を基盤として再び立てるためには、無限の闘争と無限の苦衷をたどらなければならないのを御存じです。それで結局は生命を基盤にした世界を立てなければならないと、人間に対する愛の心情をもたれた神様であられるので、人間によってこの世界を否定させ、この世界の進むべき道を開拓させざるを得ないのです。また、そのような方向に導かずにいられないというのです。

 このような観点から、神様は人類を収拾するために宗教を立ててこられたのです。

 それゆえ、宗教についていく人々は、外的な一切を否定してきたのです。「外的で環境的なあらゆる因縁と事情が絡まっているすべてを捨て、進んで心情問題まで超えて、天涯孤独の生命の目的地に向かって走っていきなさい」と忠告してきたのが、今までの宗教の足跡です。

 それゆえ人間たちの目的意識は、一つの世界、一つの帰結点を探していくので、神様もそのように摂理されているに違いないのです。神様は人間をして、その目的とする実体の価値を成し遂げて天下の前に誇ることのできる一つの存在として立てようと願っていらっしゃるのです。人間の行くべき道が正にこの道なので、神様が「この道を行きなさい」と言われることが、どれほど有り難いかを私たちは知らなければならないのです。

 これは漠然とした目的意識ではありません。漠然とでも周囲の環境で十字架の苦痛が加えられ、いかなる迫害があるとしても、心に感じられる意識観念を中心として精進できなければならないのです。もし、人間がこのような生命的な内容をみな備え、福地の内容を備え、生命に衝撃を与える理念をもったとするなら、それ以上願うことはないのです。その目的に向かって進んでいく人間というものを、私たちは知らなければなりません。

 では、存在するあらゆる被造物が到達しなければならない帰一点とはどこですか。意識とか観念を超えて自由に感じることができる新しい世界です。絶対者がいるならば、絶対者の創造理念があるのであり、創造理念があるならば、その理念が追求する目的の世界があるのです。創造主ならば、目的とするその世界の土台となり得る価値をもたなければなりません。そういう価値を探してこられた天であるに違いないのです。したがって、皆さんもまた、食べるのもその目的ゆえに食べ、生きるのもその目的ゆえに生きなければならないのです。

 その目的意識と生活的な観念が、価値的な因縁を結んで天の前に責任を果たすところにおいて、良心は私たちに衝撃を与えています。こういう位置にある人間だということを、はっきりと知らなければなりません。その目的意識は人類を動かし、天倫を動かし、歴史を収拾して、観念を変えていきながら理念的な宗族を選択し、その目的地に向かって進んでいます。

◆失った目的の世界

 では、神様はどのような立場にいらっしゃるのでしょうか。神様は目的意識を通して、見て、聞いて、話して、感じられます。そして、私たちに知情意があるように、神様にも知情意があります。

 では、知情意の本体であられる神様は、いかなる目的意識をもっていらっしゃるのでしょうか。創造のあとからではなく、創造の前から目的意識をもって創造されたに違いありません。もしそうでないなら、歴史を収拾することはできないでしょう。なぜなら、人間の認識では感じることのできない力が歴史の背後にあるからです。

 もし神様にそのような因縁がないなら、歴史と人類すべてが目的とする世界へ導くことができないのです。それゆえ神様は、人間が堕落しましたが、堕落しない人間に賦与すべき世界的な目的意識を骨身にしみるように感じていらっしゃるのです。目的意識を超えて成される世界は自由の世界であり、無限な幸福の世界であり、平和の世界です。それだけでなく、神様は目的意識を超えて心情の世界まで考えていらっしゃるのです。

 神様は人間を立てて、万物を主管しなさいと祝福してくださいました。万物だけでなく、天と地にあるあらゆる存在物を人間が主管するように造られました。ところが、このような創造目的を達成することができなかったのです。神様はアダムに、神様が意図する目的を成し遂げることができる創造理想世界の主義を教えたかったのです。しかし、それを教えることはできませんでした。

 神様はすべてを知っていらっしゃいますが、地は知らずにいます。それでも今まで、この地はそのような神様を数えきれないほど裏切りました。ですから、この地は審判を受けなければならないのです。世界の文化史を少し知っているからといって自らの主義、観念を前面に押し出して、社会で賢い人として振る舞えると自慢する人であっても、彼に「神様がアダムに願われたこととは何ですか」、また「アダムを通して神様はいかなる価値を立てようとされたのでしょうか」と問えば、「知らない」と言うはずです。

 人類は、原初的な目的と理念を失いました。創造理念の目的とともに、神様と人間が生きるべき一つの世界を失いました。人類は夢にもうつつにも、その世界を懐かしがらなければならないのです。それで私たちの生命は、今日も休まずその世界に向かっていこうとしますが、この生命の力が足りません。

 それゆえ、善を表すために、人類の代表として来たあらゆる修道者、あるいは数多くの聖徒と聖賢が悪なる地をその世界へ引っ張っていこうとしましたが、全部死んでいきました。彼らは、神様を生命の源泉と目的意識として体 恤し、体験したがゆえに、死の峠も超えることができたのです。そうして、この人類の前に橋渡しをしてきたのです。

◆心情に通じた天地神人の一体

 世界は、天地神人で構成されていますが、これらはそれぞれ違います。天と地、神と人が別々に分かれています。天地は天と地に、神人は神と人間にそれぞれ離れています。ですから、これを収拾しなければならないのです。

 私たちは地を離れては生きられません。さらには、良心とより高い天倫を離れて生きることはできないのです。良心は天に代わり、体は地に代わるからです。天地を和合できる一つの価値をもった存在、絶対者がいるというなら、その絶対者と心情的な因縁を結ぶことのできる代表的存在として立てられたのが人間です。ですから、地を代表した体と、天を代表した心と、神様を代表した心情が糾合する日には、あらゆる問題が解決されることでしょう。

 もし人間の体と心が、神様と人間を心情的に一体となるようにすることができるならば、世界統一だけでなく、天地統一もなされるはずです。

 では、いったい神様はこの天地と人間がいかなる関係を結ぶようにするために天地万象を造られたのでしょうか。人間はこれに対する結論を下さなければなりません。もし、この問題に対して、「天地神人は一体であり、心情的に統一しなければならない」という最後の結論を下すことができる勝利の勇者がいるならば、彼の体は神様の体であり、彼の心は神様の心なのです。そのような意味で、イエス様は「私は神様と一体だ」と言われたのです。

 神様は、心情を基盤としてあらゆる存在物を造ったので、神様の心情を離れた万物は一つも存在しないのです。それゆえ、イエス様は神様との心情の帰一点を探してその場を築いておくために、この地上に来て「私は神様の息子であり、ひとり子だ」と言われました。真にメシヤらしいみ言です。

 歴史上に数多くの偉人、あるいは預言者が生まれては死にましたが、誰もそのような話はできませんでした。誰も、自分を「新郎」と言い、人間を「新婦」と言い、「子女である」と言うことはできなかったのです。ここに意味があるのです。

 では、ある主義や思想を中心とした社会制度による家庭ではなく、神様の心情に通じ得る家庭がありますか。そのような子女がどこにいて、民がどこにいて、そのような人類がどこにいますか。また、目的意識を通して永遠なる幸福を謳歌し、命を懸けて楽しむことができる人はどこにいますか。いないというのです。ですから、救いを受けなければならないのです。私たちはそのような存在です。

 神様が目的を立てて人間に生命を下さったとするなら、その生命をそのままにしておこうとされるのではありません。生命の内容をより深く掘り下げるならば、心情が出てきます。心情は生命であり愛なのです。それゆえ、生命と愛を主張するのです。

 神様が今日まで願われたのは、御自身が生命の主体であり愛の主体として、御自身の目的意識のもとで、真の生命体となった人間と共に愛の理想世界を成し遂げることです。そのような世界がまだ成されていないのです。

◆目的の世界に到達するには

 今までの歴史は、絶対的な生命基準の前にすべてを帰結させるためのものでした。絶対的な創造目的と目的意識を通して、神様と一つにならなければならないのです。一つになるためには、理念的に接しなければならず、ひいては生命的に接しなければなりません。生命的に接したのちに、初めて神様の愛とつながるのです。それゆえ、イエス様は「私は生命だ」と言われたのです。

 イエス様は愛を残して逝きました。信仰と希望と愛、この三つは常にありますが、その中で最も大いなるものは愛だと言われました。それは、目的の世界にたどり着くには、神様の愛が必要だということなのです。

 神様の愛を一度でも受けたことがあるなら、その人は神様から離れることができません。人間も、互いに愛した人は死んでも忘れられないのに、まして目的意識の世界を超えることのできる神様の愛を体恤した人が、この地の何に降服しますか。イエス様が怨 讐を祝福することができた理由がここにあります。

 では、私たちの心の扉を開いて見つめてみましょう。感情と感触は目的を追求しています。自分のあらゆる動きが、その目的の世界に向かって前進しています。自分個人がそうであり、家庭、社会、世界がそうです。かといって、この世界がそのままその目的の世界へ超えていくでしょうか。そうすることはできないのです。ですから、天地開闢がなければなりません。聖書を見れば、また地上にあるいかなる宗教の経典を見ても、最後には天地開闢が結論として現れています。

◆永遠なる認識と体恤

 人々は、目で見るすべてを好みます。高い玉座に座っている皇帝や乞食を問わず、人ならばみな生命的なものを好むのです。その認識の水準が高い低いによって好む程度が違うだけであって、好むそれ自体は誰でも同じです。このように、見るのも一つに帰一され、聞くのも一つに帰一されるために出てきたのが芸術と文化です。

 立派な画家の絵を見るとき、その絵を通して何が見えなければなりませんか。世界が見えなければなりません。それでこそ世界的な画家になることができます。聞くことも同じです。一度聞いて飽きる音楽は名曲ではありません。腹が立ったとき、悲しいとき、苦痛を受けるとき、うれしいとき、皆が好むことができてこそ名曲です。すなわち、時間と時代を超越しなければならないのです。五官を通して入るあらゆる感覚は、人ならばみな同じです。その本質を分析して価値を決定するのは同様なのです。

 神様が、五官を通してすべてを感覚するように人間を創造されたのであれば、人間が感覚を通して感じた幸福が一時的なものに終わるようになるとすれば、その神様は理想的な創造主ではありません。時間的な創造主であり、限界的な創造主となるのです。

 現実的には難しいとしても、抽象的な観念で考えてみるとき、神様が創造なさった天地万物ならば、未開人や文明人を問わず、人ならば誰でも一度見ても永遠に体恤できる内容がなければなりません。

 これは聞くことでも感じることでも同じです。それでこそ理想的な神様であり、「絶対者だ」と言うことができるのです。

 そのような立場で考えてみるとき、人間には五官を通して入る意識と認識を超えて、直観的な良心を通して入るものがあります。カントもそのように言いました。もし、人間がその世界を捕捉してその世界の門を開け、そこで直感的な何か、霊感的な何かを体恤したならば、一度見たことは夢でも忘れないのです。ですから、今日神秘主義者たちは、自分が見た霊的な世界の一片を主張するところに、死ぬか生きるか知らずに生命を捧げていくのです。

 音楽も、一度聞けばその感情が永遠でなければなりません。一度陥れば最後であるように酔わなければなりません。最高の理想主義というものは、人間をそのように酔わせるのです。時間を超越し、生活環境を超えて、世界的な感情の世界までも超えなければならないのです。これが理想主義者たちが通り過ぎなければならない路程です。

 天地神人を合成した存在としてすべてを鑑定し体恤し、鑑別できるように人間を造ったとするならば、神様はすてきな創造主です。そこで道に通じるという言葉が可能です。

 神様は天と人間と地を、目的意識を通して一つの世界へ集結させるのです。それを、私たちの意識や観念を支配できる生命的な内容をもってなさいます。では、この生命的な内容をどのように内的な意識観念と接触させるかということが問題ですが、ここに必要なのが愛です。

 この地上で数多くの人々が愛を叫んでは逝きましたが、目的意識を超えて神様の愛を体恤した者はいません。これを体恤して、一番近い道で人間にその愛を自覚できるように衝撃を与えようとなさった方が、新郎として来られたイエス様です。天を代表したイエス様は、神様を所有した人だったのです。天地を支配なさる神様がイエス様に入られたので、イエス様は世界を支配し、世界をひっくり返すことができる実存体だったのです。

 イエス様の理念、これはすなわち神様の理念であり、人間の理念です。これは、国は一つの存在から帰結されるべきだということです。それゆえ、神様は生命的な基準、すなわち愛を立てて今日まで人類に対してこられたのです。

◆失った世界を探さなければならない人間

 では、今日私たちはいかなる立場にあり、どのようにしなければならないのでしょうか。私たちは目的の世界を見つめて進んでいます。それは、神様がその目的の世界へ私たち人間を追い詰めるからです。目的意識を通した生命と愛の因縁を備えた神様の息子と娘が登場するならば、目的の世界は成されるのです。

 では、その次にはどのような世界が来るのでしょうか。天地と神人が一致した世界が来るはずです。すべてが神様の心情からわき出て、その心情の帰一点を通して因縁を立てていき、収拾する世界が来るのです。創造主は父であり、人間は息子と娘という父子の因縁を結ぶ世界が来るはずです。

 天地が生じたたその日から、神様はそのような世界を願われましたが、人間の堕落によってそのような世界は成されなかったのです。神様とイエス様が愛の因縁を結び、イエス様と聖霊が愛の因縁を結んでサタン世界を滅ぼさなければなりませんでしたが、今日までそういう勝利的な基準が立てられなかったのです。

 イエス様と聖霊がなさったのは、私たちを生かすことでした。生命を復活させることです。復活の目的を達成してこそ、愛の目的を達成することができるからです。このように見るとき、六千年前、神様はアダムとエバを造られ、そういう世界を成し遂げる日を恋しがり、待ち焦がれたのです。今日大部分の人々は、神様が人間を創造なさる時、馬に乗って回るほど成長した人として造ったと思っています。しかし、そうではありません。自然の法度により創造なさったのです。

 人類の先祖、アダムとエバから生まれたカインとアべルは、神様の愛を中心として生まれた息子、娘ではありません。アダムとエバは、神様のむちに追い込まれてエデンの園から追い出された私たちの先祖です。本来、アダムとエバは神様から「愛するアダム、愛するエバ、私がお前たちを造ったのは、全宇宙の創造目的の世界、愛の園を建設するためだから、お前たちは平和の王であり、幸福の王だ」という祝福を受けなければならなかったのです。

 この地上の他のいかなる存在も王にはなれません。私たちの先祖だけが王になるべきだったのです。アダムが千秋万代、永遠無窮に地上の王であり、天上の王として立つことができたのです。天地が生まれた以後に、神と人の因縁が生まれた以後に、初めて「王」の名前を付けることができた方とは誰かといえば、正に私たちの先祖アダムなのです。

 その王は、すなわち永遠の生命と永遠の愛をもった方です。神様は、アダムとエバに万物を主管することができる権限を賦与してくださいました。その目的は、アダムを神様の心情と生命と永遠に同伴できる皇太子として立てるためでした。エバを王妃につかせるためだったのです。もし、アダムとエバが永遠の生命と愛を基盤にした人間の先祖になっていたなら、私たちはすべての存在世界の前に王子として誕生していたでしょう。

 ですから、私たちは先祖のアダムとエバを恨まなければなりません。六千年間積まれてきた神様の無念さは、言葉で言い表すことができません。ここに、過去の先祖の天倫に背反した事実を今日の生活で大きく感じて激怒する者がいるならば、天はその人を祝福されるはずです。

 それゆえ、失ったものを再び捜さなければなりません。人間と天地の創造以後、天の王子が来なかったので、その王子につかせようというのが再臨思想です。信じれば天国に行くことができるというのは漠然とした信仰です。そのように、どんぶり勘定式に信仰する時は過ぎました。

 神様はこのような目的意識を通して世の中を収拾してこられ、人間をその目的の世界へ追いやるために今まで役事してこられました。ここには多くの犠牲がありました。人間を打って役事してこられたからです。ある民族を立てては撃ちます。そのように撃って役事なさらなければならないのです。

 行かなければならない路程は直線ですが、進んでいる道は曲がりくねっています。ですから、打って個人を動かし、家庭を動かし、社会を動かし、国家を動かし、世界を動かしてくるのです。

◆世界統一、天宙統一を成し遂げるべき再臨主

 このような立場で私たちは、世の中の何ものも自分の意識観念を除去できないという基準をもちながら、天を基盤として自らの価値を神様の目的意識と結びつける天的な人にならなければなりません。そうするには、個人や家庭、あるいは社会や国家や世界にどのように天的な心情を結びつけるかということが問題です。

 それで神様は、人間が寝ている間にもそのような内容で人間に衝撃を与えます。解決すべき心情的で生命的な内容をもって人間を訪ねてこられます。盲目的な信仰をする人々は、はっと驚くはずです。

 私たちは、意識世界を超えた創造目的の世界を願わなければなりません。一握りの草を見ても、そこで無窮無尽の平和の感情を感じることができ、その存在価値を称賛できるよう願わなければなりません。見るもの、感じるものがすべてそうであり、人間がたとえ小さな存在でも「一つの個体が動くごとに天地が動き、神様の心情が動き、永遠の生命が動くので驚きました」という被造万物からの称賛を受け得るその立場まで行かなければなりません。人間が行くべき所は、そのような所です。

 このような感情を爆発させて、万人に接触させてあげるというとき、世界と天宙が統一されるのです。言葉だけでそうなのではなく、再臨のイエス様は実際にこのような内容をもって来られます。それでこそ主として迎えることができます。

 このような目的意識は自分を追及しています。心の世界は自由と解放を要求しますが、環境はそうでないので、「これはいったいどうしたことですか」と訴えるのです。良心の深い所では、自由と解放、統一と帰一、無限な幸福を謳歌することができることを待ち焦がれていますが、生きている生活環境はどうですか。恐怖と威嚇が自分を束縛しています。数千年間もこのように束縛されながらも、今日まで来たことを感謝しなければなりません。

 今や神様の時が近づいたので、この束縛を解き、一つの目的意識を通して全宇宙と引き換えることのできない生命的な存在、神様もやむを得ず心情的な因縁を結んで、彼が地獄へ行けば地獄にまでついて行くことのできる存在が現れなければなりません。そういう心情的な帰一点を備えた方がこの地上に現れなければ、天と地は滅びるというのです。

◆堕落した世界を超えて永遠の生命の世界へ

 これから世界は、心情主義世界になるはずです。その世界が成される時が、この地上に平和の王権をもって天の王子が登場する時期です。この時が正に再臨の時期です。神様が立てられた生命、心情の王子が登場するその時、彼に侍り従い、彼と父子の因縁を結び、家族の因縁を結び、民の因縁を結んで世界を再び建設しなければなりません。これが目的の世界である地上天国の理念です。

 それゆえ、私たちはその国のために祈祷しなければなりません。どこへ行っても目的意識が強くなければなりません。神様に対して「あなたは時間と空間を超越したお父様であられます」と言える衝撃を受けなければなりません。天はそれを要求なさいます。

 げんこつを握れば、天地を動かすことができる生命の源泉が連結した力が必要です。私たちは目的の世界を探していっています。生活的なものと永遠の生命的なもののためです。この地上で自らの目的がすべて果たされれば、何が問題になりますか。生死の問題です。世界を統一することができ、世界を自由自在に動かすことができる権限をもったしても、そこには永生に関する問題が台頭します。

 神様が歴史を超越し、時間と空間を超越なさる方ならば、私たちも超越的な生命をもつのです。神様と因縁づけられたある何かを地上に立ててこそ、神様が私たちにとって愛の神様となるのです。ですから、人々は無限な生命を懐かしがり、良心的に生きようとするのです。

 しかし、永遠の生命と因縁を結ぶことができず、良心の革命もできず、生命の革命もできませんでした。息子が死ぬのを見て喜ぶ父母はいません。それゆえ、自分は堕落したこの世界で堕落の血統を受け継ぎ、堕落の血が流れて死の立場に置かれても、子供たちは喜んで走り、その場を超えてくれるよう願う父母がいるならば、彼は必ず天国に行くはずです。

 イエス様がそういう方です。それゆえ、神様は干渉できません。イエス様が来られたのは私たちのためです。イエス様が来られた目的も「私」のためです、神様が天地万物を造られたのも「私」のためです。あらゆる環境を収拾して、時間性を超えて幸福であり得る人間になるならば、天地が生まれた以後に初めて神様が認めることができる息子、娘になるのです。

 それゆえ、あらゆる存在物は、必ずこの堕落の世界を超えなければなりません。恐怖が襲ってきて環境が乱れているこの世界を、心の基盤をつかんで収拾し、自由に解放していかなければならないのです。

 それゆえイエス様は、「誰よりも私を愛しなさい」と言われました。その話は、イエス様御自身を愛しなさいというのでなく、神様を愛しなさいということです。神様を愛そうという人間に橋渡しをしてあげる仲保者として来られたイエス様だったので、そのようにおっしゃることができたのです。ですから、これから私たちは、自分がある専門分野で世界的に誇るだけの何かをしたとしても、大声を張り上げてはいけません。

◆授け受けするところで繰り広げられる愛の世界

 私たちが神様のみ旨に従い、最後に勝利者となって天の前に立つ日、この世界は永遠の生命と共に愛の心情だけが存在する安息の世界になるはずです。今日まで、世界は恐怖を伴ったこの世界の認識と観念上でさまよってきました。しかし、神様が立てようとした世界が成される日には、永遠の生命と愛の因縁を歌うことができるのです。ですから、永遠の生命をもって接しなければならないというのです。そういう世界では、民族と国家が問題になりません。兄弟でない兄弟、父母でない父母、すなわちあらゆる民が一つの生命体として連結し、神様の愛と共に生きることができるのです。

 調和というのは、授け受けするところで繰り広げられるのです。言い換えれば、相対的関係で調和の妙味は繰り広げられるのです。それゆえ、天の生命と地の生命、天の愛と地の愛が互いに授け受けしなければならないのです。それは今までの歴史上に現れない、創世以後初めて存在するようになる開 闢の歴史です。神様の愛の世界が成されるのです。

 その世界は、いかなる世界でしょうか。一度見れば永遠で、一度聞けば永遠の世界です。五官を通して一度感じるようになれば、全体が一つになるそういう感じが充満した世界です。また、内在された感情が自動的に爆発し、身を処して生活分野まで動くことのできる永遠で根本的な世界です。ですから、私たち人間はそういう世界を成し遂げられる内容を備えなければなりません。そのような世界を創造してこそ、神様も素晴らしい神様になるのです。

 このような世界になるべきなので、神様は両面の世界を創造なさったのです。それですべてが相対的です。目もプラス・マイナスになっています。心は天と一つになり、体は地と一つになり、神様の真理を所有し、神様の人格に似て、さらには神様の愛を通じて体恤できる世界になるべきだというのです。

 私たちが願う希望の世界がそのような世界です。そこは、いったん行きさえすれば永遠に離れたくない所です。一度聞けば、すべての細胞が動きます。一度感じれば、その感じは永遠に残ります。それでパウロは、コリント人への第二の手紙で「この人が――それが、体のままであったか、体を離れてであったか、わたしは知らない」(一二・三)と言いました。しかし、それも一部分にすぎません。

 私たち人間はこの世界を収拾し、そういう希望の世界を成し遂げていかなければなりません。私たちが神様の内在的な心情世界と実質的な外形世界を一つに感じ、万物に号令するようになるとき、初めて神様が喜ばれるのです。

 神様のみ手を経た万物がそのような主人に会えなかったので、ローマ人への手紙でパウロは「万物も嘆息する」と言いました。天の世界の内容を体恤し、実体世界の事情と環境を収拾して、その内在的な無限な世界と一度因縁を結べば、その因縁は誰も切ることができません。世の中の愛でも切ることができないのに、その世界の因縁はより一層切れ難いというのです。生死が問題ではありません。

 そういう世界と連絡できる民が出てこなければなりません。そういう民が出てきてこそ宇宙史的な価値を超え、宇宙史的な目的観念を超越した実体として認められるようになるのです。そのときに、初めて天国に行くのです。天国に行って、心情で「天のお父様!」と言えば全部が一つです。

◆末世に置かれた私たちが解決すべき問題

 それゆえに、すべての存在はこのような目的意識の観念を中心として、堕落した立場から再創造という過程を経ていくのです。堕落した人間は、割れた焼き物にも劣るというのです。割れたのでたたいて、再び作らなければなりません。「温柔謙遜であれ」と言いながら、みな捨てて死ぬようにして、再びこねて作るのです。これが再創造です。何をもって作りますか。心情をもって作ります。そうして、神様が永遠に臨在なさることができる心情の世界をつくり、この宇宙が心情をたたえ、心情の前に全部傾くようにつくらなければならないのです。

 このような歴史について見るとき、私たちが終末的なこの世界を超えて新しい世界に向かって進む過程的な立場にあるとするなら、私たちは人を批判してはなりません。批判しようとするなら、真理を中心として人格的に批判しなければなりません。自分の心を動かして、心情を爆発させることができるものを探さなければなりません。ですから、心情が貴いというのです。

 民はその国の統治者の前に、一つの心で帰一されなければなりません。心ばかりでなく、心情が帰一されてこそ孝子、烈女、忠臣になるのです。すなわち、心情が一致してこそ「忠」の字が入り、「孝」の字が入るのです。ですから、これから各分派を超え、民族観念を超え、今までの事情や人情的なすべての観念を超えることができる一大変革が、天上と地上で行われなければなりません。

 一人の主人公を中心として、そのような世界が立てられるとき、天と地、人間と神様が共に幸福の歌を歌うことができます。神様が踊ります。それで神様は、この目的意識的な感情を収拾したのち、宗教的な因縁を通じて一つの新しい思潮を準備してこられたのです。

 これからは心情的な基盤を動かし、人間を難局に陥らせ、これ以上生きる道をなくさせて神様に向けて泣き叫ぶようにしておいて、その解決点を用意してくださるというのです。そのような時が必ず来るだろうと思います。

 ですから、現実の時間的な感情を、天的な感情や意識にどのようにつなげるかということが問題です。これが末世に置かれた私たちが解決すべき重要な問題なのです。これは、千辛万苦の努力を尽くしてでも解決しなければなりません。

 信じる信徒は全世界的に動員されて、教派を超越し、民族を超越し、国家を超越して、これを探してさまよう群れにならなければなりません。そういう動きが起こってこそ、そのような人が出てきてこそ、この世界は早く収拾できるのです。




















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