文鮮明先生のみ言集
訓教経(上)


真の父と子女

一九六〇年九月十八日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第十巻』


 きょう、皆さんに語ろうと思うみ言の題名は「真の父と子女」です。

◆この地に真を立てるための神様の救援摂理

 地上に存在するすべてのものは、真から始まらないものはありません。神様が真であられるために、神様のみ手を経て創造されたすべてのものは真なのです。存在するすべてのものが真であるので、この宇宙が存在する目的もまた真なのです。

 真の存在世界を創造された真の主人であられる創造主の前に、すべての被造物は真なるものとして永遠に存在しなければならなかったのです。ところが創造主は真の方として残っているのに、創造されたすべての被造物は真の価値を喪失したというのです。これは歴史的にも、また環境的にも否定できない事実です。真から始まったので、永遠にその真の価値を謳歌する天地とならなければならないのです。このような天地になっていたなら、今日私たちの人生のどの一面を取り上げてみても、真と因縁を結ばないことがないでしょう。ところが私たちの人生がそうではないので、これほど悲しく、ゆううつなことはありません。

 真なる主体の前に、真の価値を中心として時間を超越し、永遠に自分の存在価値を誇ることのできる世界、また全体と個体の価値に差のない世界になったならば、今日のすべての存在物は幸福にならざるを得ないでしょう。

 極めて真なる方、極めて真なる主人がいらっしゃる、そのような世の中が私たちの願いとしてのみ残っているので、再びそのような世の中を探し求め、極めて真なるその方の前に戻らなければならないというのが、私たちの人生行路なのです。

 それでは、真とはどのようなものでしょうか。真とは、始まったその日から終わりがあり得ないものです。真とは、それが存在する限り、永遠に時間性と空間性を超越し、その価値が光り輝くものです。ところが今日私たちは、そのような価値をもった真に出会ったこともなく、感じたこともありません。

 もしも創造主がいらっしゃるならば、人間の生活環境において、真の価値とともに、永遠に楽しむことのできる真の善なる世界を再び取り戻すために役事なさるはずです。これが救援摂理であり、救世主を送り、万民を救おうとされる神様のみ旨なのです。

 真とは、存在自体が真であると同時に、そこから現れるすべての現象や作用までも真なのです。私たち人間には存在意識があります。この存在意識までも真なるものであるとすれば、私たちは嘆くことはできないのです。

 それでは何によって嘆きが生じたのでしょうか。私たちの心は最高の目的と価値を願っているのに、生活環境においてそれが満たされないので、悲しみと苦痛が生じるのです。このような苦痛を越えることのできる真の基準、いかなる苦痛も押し出すことができる真の基準を完全に立てたところから私たちの人生が出発したとすれば、苦痛という二文字は何ら威力を発揮するものではなかったのです。真の天理原則の価値を厳格に立てた存在の前では、苦痛はいかなる威力も表すことができないというのです。今日私たちは真を探していますが、真と共に生活できていないのは、人間が堕落したからなのです。

 今日、私たちは社会環境においてどのような真を探しているでしょうか。体の真を探しています。ひいては心の世界の真を探しています。私たちの体と心がより大きな宇宙的な理念と通じることのできる因縁をもっているので、私たちの体と心は真の因縁を探しています。真の環境と真の宇宙を探しているというのです。

 私自身が真なる存在になる前には、真なるものを鑑定することはできません。相手がどんなに真の価値をもって現れたとしても、私自身が真であり得る小さな本質でももっていない限り、それを推し量ることはできないというのです。それゆえ、私たちは真を探し出すために自分の良心に基準を立て、人倫と道徳の方向へと一致させようとしています。これが歴史的な現実なのです。

 私の心が真を推し量ることのできる真の立場に立ち、私の体が生活環境において真を中心として生きるとき、そこから真は私と因縁を結び、私を通して環境と因縁を結び、環境を経てこの地と天上までもが縁を結ぶことができるというのです。

◆万物と実体を通じて真を探していく道

 私たちは、自らを振り返ってみるとき、心と体が真でないことを認めるはずです。それでは、私たちに必要なこととは何でしょうか。心と体が真であると証明できる、その何かが必要なのです。それは、私自体で解決されることではありません。相対的な真の基準が現れない限り、私の体の真を解明できず、私の心の真を解明できません。

 それゆえ、堕落した私たち人間は自体内で真を解明するのではなく、ある真なる絶対者がいるとすれば、その絶対者の原則的な基準を通して真を解明し、真の人間の位置を明らかにしなければなりません。

 今まで人間は、歴史路程をたどって時代時代を過ぎてから真の私、真の国、真の世界、真の天地を探してきました。それでは「真の私」という基準をどこから探し出すのでしょうか。哲学からですか。科学からですか。宗教からですか。いいえ違います。心の根本に通じることができる因縁を経ることなくして、真の因縁を証すことができないというのです。

 神様がいらっしゃり、真なる存在になり得ない立場に陥った人間を、真の理念の世界へ導くための救援摂理をなさるといいますが、その神様は私たちの前に、真の姿で現れなくてはなりません。そのような神様が、私たちにとって必要なのです。そのような神様が私たちの前に現れてこそ、生活感情を通じて、私たちの心と体が神様と因縁を結ぶことができるのです。それゆえ神様は、堕落世界にいる私たち人間を、真の姿をもって探し出してくださいました。

 今日までの歴史路程、あるいは信仰路程において、先知先烈たちはいかなる立場で生まれ、また死んでいったのでしょうか。それは「真の私」を探していく路程の中で、天の真なる心と体の立場で生まれ、また生きた人々なのです。このような真の心と体をもった方が、生活的に、心的に、心情的に私たち人間を探し出してくれなければ、今日の私たちは、真の因縁を探す道理がないのです。

 旧約時代には、神様は真なる万物を通して人間を探してくださいました。聖別された真の物を祭物として、私たち人間を探してくださったのです。それでは、真の物とはどのようなものでしょうか。その物は、堕落世界の物ですが、神様が干渉することができる聖なる物なのです。それを通して、神様は人間と関係を結んでこられたのです。

 そこには、万物がみな動員されました。神様は、善なる側として聖別された動物、植物、鉱物等あらゆる物を通して、すなわち祭物という条件を通して、人間と因縁を結ぼうとなさいました。そのような時代に生きていた人々は、真の祭物と一つとならなければならなかったのです。そのような時代が旧約時代なのです。真の価値の因縁を探していかなければならない、堕落の運命を背負った人間たちには、夢にも考えられなかった時に、神様は、人間たちが真の物を通じて真の価値との因縁を結ぶことができるように苦労してこられたのです。

 本来、人間は万物を主管しなければなりません。万物、すなわち物質を通して神様と因縁を結ぶ立場に立っては駄目なのです。それゆえ物質を通して因縁を結ぶことができる旧約時代を過ぎ、実体として因縁を結ぶことができる時を迎えて、一人の方を立てなければなりません。これがメシヤ思想です。

 このメシヤは、堕落した人間、死んで当然な人類の前に、堕落していない真の父母の因縁をもって現れる方です。その方は、漠然とした救い主ではありません。

◆永遠不変なる最高の善

 地上の堕落した人間たちは、真の父母との血統的な因縁を結ぶことができませんでした。このように真の父母の子女として生まれることのできなかった人間、真の父母を失った人間にとって最も貴い贈り物とは何でしょうか。父母をなくした孤児のようにかわいそうな人間にとって、父母を送ってあげること以上に貴い贈り物はないのです。そういう贈り物を待ち焦がれているのがキリスト教です。

 救い主を立てて、何をしようというのでしょうか。私たちは堕落した人間であるため、真の父母をなくした一族なのです。真の父母を失ってしまったので、真の子女になることができませんでした。創造当時、最大の善の理念で立てようとされた真の父母と真の子女がみな失われてしまいましたが、神様は、歴史的な苦労の路程、数多くの逆境と苦痛の路程をたどってでも再び真の父母の因縁を立ててくださるというのです。同時に、真の子女の因縁を立て、真の夫婦、真の兄弟、真の国家、真の世界、真の人類、真の天宙の因縁を立ててくださるというのです。

 神様は、最初から堕落した人間の心の中に入って役事をされるのではなく、遠い彼方、相対的な立場で堕落した人間に万物を連結させ、真の息子と連結させたのちに、人間の胸中に入って心情の父になろうとなさるのです。これが救援摂理の最後の終着点です。

 今日、この地において神様はどこの誰でも探し求めていらっしゃるのに、自分は優秀で、立派だと自認している人物は、神様が天地の大理念によって立てようとされる絶対的な真の原則とは関係を結べないままでいます。

 神様は、父母を失ったかわいそうな孤児のようで、夫を失った未亡人のような堕落したこの人類を救うために、どのような因縁をもって現れましたか。事情の因縁ではなく心情の因縁をもって現れました。願いとしての因縁ではなく、生活的な心情の因縁をもって現れたというのです。神様は堕落していない絶対的な価値をもった方を立てたのち、彼を通じて万物と人間の心と体、そして心情までも関係を結ぼうとされるのです。そのような存在が現れない限り、人間の完全なる救いは成立されません。

 信仰の目的とは何かというと、善なる心と体と心情を中心として世界的な舞台、ひいては善の価値を謳歌することのできる天宙的な舞台へと進むことです。人々が歴史的な偉人と先烈を敬うのは、彼らを見習って彼らと因縁を結ぼうというところからきています。すなわち、生活の中において、心と体が彼らの理念と因縁を結ぼうというのです。因縁を結ぶだけではなく、彼らと一つになって共に生きようというのです。これが、今まで様々な道や主義に従ってきた人々の姿です。

 今日、私たち自身は、いかなる立場に置かれているでしょう。神様は私たちの知らない間に、私たちが万物と因縁を結ぶことができるようしてくださり、神様の息子と因縁を結ぶことができるようにしてくださいました。それにもかかわらず、神様が立ててくださった絶対的な基準が自分の生活と心を巻き込んでいるという事実を知らずにいるのです。ですから私たちは、悔い改めなければなりません。

 歴史は個人から出発して世界にまで広がっているのですが、どこで終結するのでしょうか。絶対者、すなわち最高の善の本体が存在するとすれば、人類がその絶対者と永遠不変なる因縁を結ぶ時まで神様は働き続けるでしょう。最高の善は永遠不変なものです。それ以上の発展はありません。

 今日、この世界では生活感情がお互いに異なる民族同士が、だんだんその生活感情を共有するようになってきました。また異なる理念をもつ数多くの民族が、道や理念を共にする方向に進んでいます。根本は一つなのです。このように、絶対的な一つの価値に向かって歴史は総進撃しています。

◆真の父と真の子女

 「真の父と真の子女」と言いましたが、ここで真の父とはいかなる方であり、また真の子女とはいかなる存在であるのかを考えてみなくてはなりません。真の父とは、真の息子、娘を探し出すために、歴史路程において限りなく苦労をされた方なのです。数千年の歴史路程において善のために殉教したいかなる人よりも、もっと大きな苦痛に遭われた方です。この方は、時代的な主人公ではなく歴史的な主人公であるために、歴史的な悲しみを抱いてこられました。歴史的な苦痛と悔しさを抱いて歩んでこられたというのです。

 神様は、この地上の苦痛と重苦しさを解決するために一人の救世主を送り、人間と天的なあらゆる因縁を結ぼうとされました。ところが、このような使命をもってこの地上に来られたその方は、人間たちによって十字架上で亡くなりました。亡くなられたイエス様が、私たちが永遠に因縁を結ぶべき真の父として来られた方だったのです。

 イエス様は十字架にかけられて亡くなったとはいえ、堕落した世の中の人類を再び尋ねてこられる時、「私があなた方のために十字架を担ったのだ」という心で尋ねてこられるのではありません。かわいそうな私たち人間を愛する心で、再び尋ねてこられるのです。

 真の父はいかなる方でしょうか。億千万年かかっても解くことのできない十字架の恨みに満ちているのに、私たちのために苦労をなさる方です。悔しい立場にあったとしても、そのようなそぶりを見せることなく、かえって不幸な人類のために涙を流し、人類に先立って苦痛の道を行こうとされる方なのです。このような方が、私たちの父なのです。

 それゆえ終末に審判されるとしても、この地上の人間のためにむちで打たれ、迫害を受け、また悔しい思いをさせられ、殺されたという歴史的な恨みを抱いて審判なさる神様ではありません。過去に苦労した内容をもって審判なさるのではなく、その苦痛よりももっと大きな愛の心情をもって人間に対し、悔しさと悲しみを感じる心よりも、もっと大きい愛の心情をもって審判なさる神様であるということを知らなければなりません。

 私たちの真の父は、子女となった人間たちに千回、万回殴られてもそれを記憶されない方なのです。そのような心情の主人公であられるので、六千年の罪悪歴史の種族として生まれた私たちを許すことができるのです。私たちの父は、このような方なのです。

 それでは、真の道理の道を行く人とは、いかなる人でしょうか。真の父に侍ることのできる人が、真の道人です。天国は「罪」という名詞を記憶することのできない所です。それゆえ、罪のある人は天国に行くことはできません。

 今日の世の中は、兄弟間、夫婦間、父子間にあっても相手のためにほんのわずかなことをしただけでも、それを永遠に覚えていようとしています。私たちは、そのような垣根を取り崩してしまわなければなりません。

 この現実世界で天国の門を開放し、天的な父に侍るための子女の名分をそろえようとする者がいるとすれば、千回、万回殴られたとしたとしても愛が満ちあふれる父の心を見習わなければなりません。神様との因縁を考えて、自らのあらゆる困難を踏み越えることができる人とならなければなりません。このような人々の行く所が、善の世界なのです。

 堕落した世界とは、たった一つ人に何かしてあげたとしても、その人に十を要求するような所です。そのようにしていれば滅んでしまうのです。人を一回手助けし、人のために血一滴を流してやったことをだしに、その人を億千万年脅しながら利用しようとする輩が生きる所が、悪の世界です。その点において善の世界と差があるのです。

 私たちの父は、六千年という長い歴史路程において語ることのできない紆余 曲 折を経てこられましたが、それを記憶することなく私たちを訪ねてくださっているのです。私たちがぼろをまとい、食うに事欠き震えている時、数知れず天を裏切った種族であるという事実を記憶することなく、本来の人間に与えた因縁だけを記憶されながら、足を止めて涙を流してくださる方が私たちの父だというのです。

 皆さん、この世の中でも愛する息子が父母のひざ元を離れて、あらゆる凶悪な犯罪を犯し回っているとしても、その息子を思う父母の心は、もっと切ないものなのです。真の愛をもった父母ならば、その息子に手を上げる前に、彼にすがりついて号泣するはずです。そのような父母ならば、必ずその息子を悔い改めさせることができるのです。そのような心情で息子に対する父母は、どんなに無知でおろかで木石のような息子であったとしても、必ず善なる息子となるよう導くことができるのです。それは正に、神様がそのようにされるからなのです。

 神様にそのような心があるために、この地がいかに悪なる世の中であったとしても、この世で善なる息子、娘を探し出すことができるのです。数億、数千万に及ぶ罪があったとしても、愛する心が先に立ち、罪を記憶なさらない方を父として侍ったならば、私たちはどれほど幸福でしょうか。堕落した人間として、そのような父に一度でも会うことができるならば、もう思い残すことはないでしょう。

◆真の父母と対面する道

 イスラエルの歴史を見てください。イスラエル民族は、神様があらゆるかたちで勧告をしても聞き入れることはありませんでした。あまりにも聞き入れなかったので、その一族を打ちながら勧告しましたが、彼らは悟ることができませんでした。神様がむちを下すのは殺すためではなく、生かすためなのです。神様はこのように役事しながら、今日まで六千年という長い歳月を経てこられたのです。

 今この時代は、万物と因縁を結び、環境と因縁を結ばなければならない終末なのです。キリスト教では主のことを「新郎」と言い、聖徒を「新婦」と言います。新婦になろうとする人は主の心情を知らなくてはなりません。人々は終わりの日に来られる主を待ち焦がれてはいますが、主は二千年の歴史路程を経ながら一日一日を終わりの日のように感じてこられました。歴史はそのような時に至るのですが、現在がそのような時であるというのです。

 皆が終わりの日に主の前に新婦として立ち、栄光を受けることを願っています。しかしそれが容易にはなされません。イエス様はこの地上で新婦に出会う望みを、新婦に対する懇切なる心的な基準を一瞬たりとも失ったことがありません。これが新郎の心なのです。皆さんの中に「私は数十年間イエス様を信じてきた」と言う人もいるでしょうが、その数十年間、イエス様をどれぐらい慕い求め、来られるイエス様に侍るために、どれくらいの準備をしましたか。

 終わりの日が来るとすれば、その終わりの日には必ず永遠なる最高の善を中心として価値を立てなければなりません。その価値は天宙的な価値として現れなければなりません。そのような価値として現れる時は、真の父と真の子女が出会う時なのです。そのような時が、必ず来るはずです。

 真の父と真の息子、娘とは、じっとしていてそうなるものではなく、探し求めなければなりません。神様は、世の中を一つの世界へと帰結させるために、必ずそのような役事をしなければなりません。このような目的の世界を成し遂げようという核心が神様であるならば、この神様と天地全体が一つとなり、「永遠」という名詞のもとに、同一な価値として生活感情を通じ合うことができる世界をつくっておかなければならないのです。

 あなた方がこのような目的の世界を探していこうとするならば、どのように行かなければならないでしょうか。神様が私たちをみ言によって呼んでくださっていますから、私たちはそのみ言どおりに行かなければなりません。真の父母と真の子女が対面することのできる道は、真のみ言によって可能なのです。そのみ言は、父のみ言です。父のみ言を知らなくては子女となることはできません。父のみ言は絶対的であり、真のみ言であるからには、全く同じみ言を千年、万年聞いても嫌気がさすようなことはありません。終わりがないのです。

 私たちは、そのようなみ言を探していかなければなりません。そのみ言は、ある論理的な条件にちょうど合うものだとしても、それで終わるようなものではありません。大原則でありながら、聞いて聞いてまた聞いて、永遠に聞いても生命となることができるみ言なのです。そのようなみ言を探さなければなりません。

 愛する父母のみ言は永遠であるため、時間と空間を超越します。それゆえ神様のみ言は、歴史と時代を超越し、主義と思想を超越します。したがって、どこの誰のみ言よりも貴いのです。このみ言は夜聞いても昼聞いても、また夜見ても昼見ても、皆さんの心の中に無限に流れ込んでいくのです。そのようなみ言を探さなくてはなりません。

 今日キリスト教では、「そのみ言が聖書である」と言っています。ところが聖書は比喩と象徴から成っています。なぜなら、私たちが生きているこの地には、怨 讐であるサタンがいるためです。

 人間は堕落して、すべて台無しになってしまいました。神様がいるのかいないのかさえも分かりません。「神様は存在しない」と叫んでいる人が、どれほど多いことでしょう。神様は、父を父として知らず、子でありながら子であることを知らない堕落した人間に対し、父として心情を通わせることのできるみ言を一言も語ることができなかったのです。語られたとしても目くばせしたり、世の中のことをもじって語られたのです。

◆父母を感動させることができる子女

 真の父のみ言であるならば、永遠に通じることができる内容でなければならないし、私たちの生活環境を越えることができなければなりません。悪なる生活環境は、真のみ言をのみ込んでしまうことはできないのです。父の真のみ言であるならば、悪なる世の中の何ものによってもそのみ言を制裁することができないのです。み言をもって悪なる環境を何度も何度も越えていくことのできる心を誘発させなければならないのに、そのようにできないために、今日全世界のキリスト教が混乱状態に陥っているのです。

 それでは、愛の心をもってこられる父が、愛する息子、娘たちに対し、真のみ言を語ることのできる場所とはどこでしょうか。どこかにそのような所が、必ずあるはずです。そこを探さなければなりません。万一、そういう場所を探し出してみ言を聞くのであれば、千回聞いても新しく感じるのです。その内容は、真の善なる価値として永遠に通じる内容だといえるでしょう。皆さんがそのようなみ言を探し出すことができなければ、真の子女となることはできません。

 イエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ一四・六)と語られました。先生が考えるには、そこに愛という名詞を一つ付け足して「私は道であり、真理であり、命であり、愛であるので……」と言うのがいいと思います。「わたしによらないでは父のみもとに行くことはできない」と語られたので、問題はそのみ言を語られた本体です。語られるその方自体が必要であるというのです。その方とは誰でしょうか。正に真の父なのです。その真の父の前に真の子女としての立場で立とうとするならば、真のみ言を探し求めていかなければならないのです。

 皆さんは、真の父母を探し求めていくにおいて、真の父母のみ言、永遠の価値と因縁を結んでくれる真のみ言の価値を感じてみましたか。感じてみたことがなかったとすれば、真の価値について語られる父が来られたとしても分からないのです。このような真のみ言の価値をはっきりと知るためには、心からの祈祷をしなければなりません。

 この地上の人間は、真の父のみ言を探し求めていかなければなりません。真の父のみ言、真のみ言を探していかなければならないのです。そのみ言は、イエス様の心情を揺り動かすことのできるみ言であり、また六千年間摂理してこられた神様の心情を揺り動かすことのできるみ言です。そのみ言がこの地上に出てくるようになれば、六千年の紆余曲 折の歴史を明らかにしてくれるでしょうし、神様の残念で、悔しくて、恨めしい心情を明らかにしてくれるはずです。ですから、神様の心情が動かざるを得ないのです。

 息子が父母を感動させようとするなら、自分の要求と願いをもってしては感動させることはできません。父母が息子のためにどれほど手を掛けて苦労したかを知って、父母の苦痛が私の苦痛であり、父母の苦労が私の苦労であると感じながら、父母の歴史を語らなければならないのです。そのような息子、娘になってこそ父母を感動させることができるのです。このような息子に対し、父母は胸が張り裂けるような心情になるのです。「ああ、私の息子よ」となるのです。神様も同じなのです。

 これから私たちは、神様の胸深く埋まっている恨みを、隅々まで解いてさしあげなければなりません。父が私たちを探し出すために苦労されたことを、一つ残らず知らなければなりません。そうして「私を探し出すためにこのように苦労された父よ!」と語りかけたならば、その一言に応答して神様は「ああ! 愛する私の息子よ!」と語られることでしょう。神様は、そのような神様でいらっしゃいます。

 聖書を読んでは泣き、十字架を抱き締めては涙する者は多いけれども、父の心を抱き締めて泣く者はいないのです。しかし私たちは、十字架を抱き締めて泣くのではなく、十字架までも超えながら、耐えて愛さなければならなかった父の心を抱き締めて泣かなければならないというのです。そのような人は天国に行きます。十字架が救ってくれるのではありません。十字架に打ち勝つことのできるイエス様の愛の力が救いをもたらすことを知らなければなりません。

◆父母の心情を酌み取ることのできる子女

 今日、私たちは聖書をどのように読まなければならないのでしょうか。心情的に読まなければならないのです。私たちが深い恵みに満たされて祈祷するとき、天の心情を知ることができます。ですから悔しく、耐え難い心情に満ちて「お父様! あなたの心の中にしみ込んでいる恨みとは何なのですか。聖書の歴史をつづってこられたあなたの恨みとは何なのですか」と祈祷しながら、号泣しなければなりません。

 神様には恨みがあります。堕落による恨みがあるというのです。語ることのできない紆余曲折と、恨みの内容があるというのです。人類を救うために苦闘しながら訪ねてこられた神様は、悲しい身の上なのです。

 神様が、玉座に座って天地万物に号令しながらすべてのものが思いどおりになるならば、六千年もの間、罪悪の人類を引っ張ってこられたはずがありません。最も気の毒で哀れな方なのです。主人であるにもかかわらず、主人の立場に立つことができませんでした。また父であるにもかかわらず、父としても振る舞うことができませんでした。これほど悔しくて残念なことはないのです。神様が創造されたものであるのに、神様の思いどおりにすることができず、神様の息子、娘であるのに、「私の息子、娘である」と言うことができませんでした。この壁を取り壊すために摂理してこられたのが、六千年の歴史なのです。

 私たちを尋ねてこられる神様は、六千年もの間、恨みを抱いてこられたのです。その父が息子、娘の前に現れる時の姿は、傷だらけで、何とも言えないほどみすぼらしい姿なのです。神様はこのような姿で、この地上の堕落した人間たちの前に何百回、何千回も来られては戻っていかれました。しかし、人間たちはそのことを知らなかったのです。今日、この時間にも私たちの前にそのような姿で、またそのような心情をもって尋ねてこられたとしても、私たちはそのようなことは夢にも考えられないほどの人間になってしまっているので、神様にとってそれが、どれほど悔しくて胸がふさがるようなことかというのです。

 ここで私たちに要求されるものは、神様を感動させて、神様を動かすことのできるみ言なのです。そのみ言は理想主義や理想論ではありません。豪華絢爛な環境をつくり上げ、そこで踊って生きるような世界をつくろうというのではありません。そのみ言は、まず神様の紆余曲 折を経てきた心情を表して「私のためにこのように苦労された父よ!」と叫ぶとき、父が「ああ、私の息子よ!
 今まで歴史路程おいて数多くの人がいたけれど、誰も私の心情を分かってくれる者はいなかったのに、お前は分かってくれるんだなあ」と語られるというのです。神様は、こういう息子を探していらっしゃるのです。

 豪華な席で、数多くの大衆から栄光を受ける人を探しているのではありません。みすぼらしくて、哀れで汚らしい所にいたとしても、神様の六千年もの長い間の恨みを分かってくれる息子を探していらっしゃるのです。神様は歴史的な方です。ですから、歴史的な神様の心情を知る者が神様の息子なのです。

 天国は、いかなる人が行く所でしょうか。歴史的な神様の心情を知っている息子、娘たちが行く所です。ここでの歴史は、紆余曲折を経てきた歴史のことです。この紆余曲折は楽であったり、幸福なものではなく、それとは相反するものなのです。ところで地上にいる人々は、「ただイエス様を信じて天国に行こう」と言っていますが、それは非常に道理に合わないことなのです。

◆探さなければならない新しいみ言

 それでは、イエス様を信じて何をしなければならないでしょうか。神様を慰労してさしあげなければなりません。「神様は、私の歴史的な父でいらっしゃいます。時代的な父でいらっしゃいます。また永遠なる父でいらっしゃいます」と言うことができなければなりません。それが神様が願われることなので、この地上にいる息子、娘がそのように話せば神様は、「おやっ! お前は私と共に歴史路程にはいなかったが、私の歴史的な心情を知っているので私の息子、娘だ。お前はこの時代的な摂理のみ旨の前に立ってはいなかったけれども、この時代的な摂理のみ旨の前に立つことのできる私の息子、娘であり、未来の摂理のみ旨の前にも立つことのできる私の息子、娘だ」と言われるというのです。

 暗い谷間、深い谷間に行っても神様に会うことができます。十字架の中の最高の十字架にかかったとしても神様に会うことができます。善を探してさまようとき、涙の谷間の果てまで追いやられたとしても、そこに神様がいらっしゃるというのです。神様は十字架の王であり、悔しさと残念さの王なのです。この地のあらゆる悪とは反対の立場にいらっしゃる方であり、追われる者の主人公なのです。

 イエス様は、死の峠を越えて天国を建設しようとされました。死の峠を越えて天国を建設してこそ、死亡世界までも主管することができます。死亡世界をのみ込んでしまって天国を建設する道、この道が最も早い道です。

 なぜならば、堕落したこの地には、いまだ神様の喜びと幸福の門が開かれていないからです。門が閉まっているために、神様と私たちの間には悲しみと苦痛と、憶測と矛盾があります。それで行く道を振り返り、神様が受けてこられたその曲折を尋ねていくことが、神様と出会う最も早い信仰の道だというのです。

 イエス様が大衆から反対を受け、追われながら訪ねていかれたオリブ山の麓は、涙を流す場であり、号泣する場であり、胸を打つ場でした。またその場は、苦痛の中にしみ込んだイエス様の涙が、神様の涙に、イエス様の悔しさが、神様の悔しさに転換される場だったのです。

 今日、私たちは真のみ言を探しています。その真のみ言に接し、神様が歴史的な事情をみなさらけ出して、神様が認める位置まで入っていかなければならないのです。そうしなければ後悔します。

 歴史的な神様であり、時代的な神様であり、未来的な神様であることを知って、歴史的な神様を感動させ、時代的な神様を感動させ、未来的な神様を感動させることができなければなりません。過去、現在、未来に通じる紆余曲 折の歴史に責任を負われた父の代わりになることはできなくとも、父の悲しい心情を知り、慰労してあげることができる息子、娘とならなければならないのです。

 そのため、皆さんが聖書を読むときには、最も悲しいことを読み取らなければなりません。天国についての内容や黙示録のようなものは除いたとしても、最も悲しいことを読み取らなければならないのです。皆さん、ある人と親しい友達になろうとするとき、その人の最も悲しい事情に通じ、それを理解してあげることが必要となるでしょう。それと同じなのです。私たちが、神様の息子、娘の位置を探していくのも同じです。そのような内容のみ言を、皆さんが探していかなければならないのです。

 そのようなみ言がこの地上に現れて、皆さんがそのみ言を聞くようになる時には、腹の中から限りない悲しみが炸裂して出てくるはずです。自分も知らないうちに腹の奥底から号泣するようになるのです。十日、百日、千日泣いても限りなく泣きたくなるようなみ言がこの地上に現れてこそ、神様の心の奥底を探し出すことができるというのです。そのようなみ言を探さなければなりません。

 表面だけ豪華絢爛な言葉よりも、心を覆し、骨が溶け入っていくような感じを与えられるみ言を探さなければなりません。みんな「そのとおりだ」と思うことのできるみ言を探さなければならないのです。「このみ言だ。兄弟よ、来い!」と言えば、その兄弟も「このみ言だ!」と言うことのできるみ言、みんなが「そうだ」と言うことのできるみ言を探さなければならないのです。血族を超え、同族を超え、民族を超えて、世界のあらゆる真の心をもった者、真の体をもった者すべてが、共鳴することのできる爆発的な力をもったみ言を探さなければなりません。

◆数え切れないほど反復しても飽きることのない世界

 神様が泣いていらっしゃるのに、天地が泣かないでいられますか。神様が大声で痛哭していらっしゃるのに、天地が号泣しないでいられるかというのです。ですから早く、神様の歴史的な悲しみの曲折の恨みを解いてさしあげることのできるみ言が出てこなければならないのです。その次には、実体が現れなければなりません。今まで、私たち聖徒たちはみ言を探してさまよってきました。何のためにですか。主、その実体に出会うためです。

 それでは、真の牧師と偽りの牧師を何で分けることができますか。真のものと偽りのものとを何で分別するのでしょうか。実は私たちは、真の牧師をすぐに見分けることができます。初めて会ったのにどこかで会ったことがあるようなのです。第一印象がそうだというのです。生命を訪ねていく路程においてみ旨があって、必要とする因縁がある人は初めて会った人であったとしても、以前に会ったことがあるような気持ちがするのです。初めて会ったけれども、自分の兄よりも、自分の周囲のその誰よりも近く感じられるというのです。そのような本心の作用を平面的に起こすことができる素質をもった者でこそ、本当の牧師なのです。そうでない人は、ある一時に現れ、皆さんを利用するだけ利用する者なのです。

 私たちが終わりの日に主に出会えば、その主の一方の目だけを見つめていても永遠に飽きることはないでしょう。主の目一つにも、天国を見た以上に喜ぶことのできる内容があるのです。千年、万年、顔を突き合わせていても飽きることがないというのです。それでイエス様は「私は道であり、真理であり、命である」と語ったのです。その方を探し訪ねる道を千年かけて歩いても、また何億万回行ったり来たりしたとしても嫌になることはないというのです。牧師がそのような内容の動きと雰囲気を漂わすことがなければ、偽りの牧師です。それはどうしてでしょうか。天国では、すべてが永遠であるからです。眺めるときの感情までが永遠であるというのです。

 天国は立体的な世界です。例えば、ハンカチを見るときには平面しか見えません。その裏面は見えないのです。しかし、霊的にその裏面を見れば限りがないのです。平和な感情で見るとすれば、平和の対象として現れます。平和な感触を伝えてくれるのです。

 完全なプラスがあれば、完全なマイナスは自動的に生じてくるのです。物理的現象がそうなのです。完全な存在の前に、その相手は自然に存在するようになるのです。

 皆さんが天宙に通じることができる平和の心情をもって天地を眺めたならば、すべてが花となるのです。天地が花です。その美しさは、到底形容できない美しさなのです。皆さんがそのような心情で人々を眺めたとすれば、人間以上に美しい存在はないのです。霊界に行けば、初めて出会った人でも、抱き締めてキスをするほどなのです。それ以上です。

 私たちが必要として生命的な因縁を持ち合わせたもの、理想的だとか理念的な要素を兼ね備えたものは、同じ模様が繰り返されても嫌ではないのです。ある仕事をするとき、反復するからといって嫌になってしまうようであれば、それは真のものではありません。善なる世界の人は、一つの仕事を千年、万年繰り返したとしても、良くて良くて、また良いというのです。

 今後、私たちが主の実体を迎える日には、万事が解決されるのです。その方に接すれば、心の苦痛をすべて忘れてしまうことができるのです。それで主を探し訪ねていくのです。生活感情を通じて、また理想的な感情を通じたとしても、嫌な部分がない内容をそろえた方が、真の主人公なのです。善の価値とは絶対的であり、絶対的であるとは無限であるということなのです。

 それゆえあなた方は、神様を信じる路程において、主のみ言一言によって世の中のあらゆる苦痛がみな消えていくことを感じなければなりません。言葉だけでなく、実際にそのようにならなければなりません。そうして私の目、私の感情、私の生活、私のあらゆる存在価値が永遠で絶対的な実体と関係を結ぶ、その日から幸福は訪れてくるのです。皆さんは、まだ実体と永遠なる関係を結ぶことができていません。

◆代価を要求することなく、父のために汗を流す孝行の道

 神様が天地万物を創造されたのちに、人間を創造される時、まず実体を造られたのです。体を先に創造なさったように、まず実体と因縁を結ばなければならないのです。その方が死ねば死に、その方が行くように行かなければならないのです。その方は洋の東西を問わず、すべての人々に必要なのです。黒人だとか白人であることが問題ではなく、また老若男女が問題となるのでもありません。すべてに必要なのです。そのような方が現れるとするならば、世界は一つとなるのです。神様が全知全能な方であるならば、そのような調和を成していかなければなりません。私たちは、そのような実体と出会わなければなりません。

 そのような実体と出会った次には、何をしなければならないでしょうか。その方のためにすべてを与え、また与えても、それでも足りず、私の血をみな引き抜いてさしあげたとしても足りないと感じ、愛の豊かさを感じなければなりません。心情の量の無限さを感じなければなりません。その方のために犠牲となり、私のすべての血と肉をみな捧げたとしても、もっと捧げたいと思わなければなりません。神様は、そのような方です。私たちの父は、そのような方なのです。

 この世の中でも、そうではないですか。自分の父のために汗を流して疲れる仕事をしたからと、父にその代価を要求することはありません。その代価を要求するとしたら、それは親不孝者だというのです。皆さんは限りなく苦労をし、自分のすべてをみな捧げたとしても足りなくて、「もっと捧げたい」というような身にしみ入る心情を持ち合わせなければなりません。

 そのようになったとき、皆さんは神様の息子、娘になることができるのです。神様の息子、娘の標準がそれなのです。

 イエス様は、そのような位置にいらっしゃいました。イエス様は、無限な愛の境地では自分の体が死にかけているとしてもそれは死ぬことではなく、死を超えて神様の心情と因縁を結ぶことであるということを御存じでした。この地の苦痛と罪によって拘束され壊れてしまう人は、神様の心情世界を征服することはできません。いかなる苦痛やいかなる恐ろしさも、また悪を代表するものであったとしても、神様の心情から流れ出る愛の感触を防ぐ道はないのです。それゆえイエス様は、「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」と語られたのです。この言葉は、心情的な言葉なのです。

 神様は、このような内容をそろえた人をつくられなければなりません。なぜならば、神様がそのような方だからです。神様が一度語られたなら、天地が永遠に喜ぶというのです。霊界の内容を知ってみると、そうなのです。神様の声が一度響けば、すべての存在物は極めて厳粛になります。これを言葉で表現することはできません。その一言は、この世では考えられない、永遠に貴いみ言であると感じられるのです。神様の実存を認識するようになれば、そのように考えられるのです。

 神様も、人間に対してそうだというのです。人間のための道があるならば、一時間に千回、万回倒れるようなことがあったとしても、神様は語られるのです。そのような心が先んじる世界、そのような作用で因縁づけられた世界が、父がいらっしゃる世界なのです。

 したがって、皆さんがこの地上でそのような世界に入っていくことができる天のみ言を聞くならば、食べること、着ること、眠ることのすべての欲を超越でき、自分自身までも超越することができるのです。天の使命をもった人がいるならば、寝ても覚めてもその方に自分のすべてを捧げたとしても、足りないという気持ちでいっぱいになるでしょう。そのような時に、天国の息子、娘になることができます。そういう息子、娘がいるならば、その人は、天上天下のすべての万物の相続を受けるのに不足な点はないでしょう。

 私たちの信仰の標準は、それなのです。なぜそうなのかを考えてみてください。神様が、人間をいかなる姿に創造しようされたでしょうか。神様の中に入れて、また入れても足りず、永遠に愛したとしても足りないという姿にしようという心で、創造されたというのです。お母さんたちは、自分が産んだ赤ん坊がかわいくて仕方ないでしょう。抱いても抱いても、また抱いたとしても永遠にずっと抱いても嫌にならない気持ちを起こす本体が、神様なのです。それゆえに、その方の息子、娘になろうとするならば、そのような資格をもたなければならないのです。

 父のみ言を千年もの間繰り返して聞いたとしても、魚が水を飲むように、ただひたすらおいしいのです。同じみ言であったとしても、悲しい時に聞けば慰労となり、うれしい時に聞けば、祝賀のみ言となるのです。皆さんの心の状態、生活感情が違うことによって、そこに該当する見事な対象の価値として作用するのです。

 普遍的に見るとき、真理のみ言は同じ内容を百二十回以上聞いても嫌になることはありません。これを皆さんは体験しなくてはなりません。百回以上聞いたとしても、また聞いてみたい真理のみ言のある教会に行けば、皆さんは天国に行くことができます。また百回会い、千回会ったとしても、また会いたいと思える教会の指導者に会ったならば、そこから離れないようにしてください。そのような指導者に会えば、間違いなく天国に行くことができます。

◆神様の息子一人を登場させるための六千年の歴史

 そのような因縁を経てこそ初めて、堕落の恨みを脱ぎ去った神様の息子、娘となります。そして、堕落の恨みのない神様の心情が、私たちから作用するのです。そのような因縁をたどることができなければ、神様が堕落の感情を忘れてしまうことはできないのです。

 皆さんが神様の胸中を探し、神様に刺激を与えることのできる人となる時、ついに父が歴史的な恨みを忘れ去り、創造理想世界の本然の心情基準を立てることができるようになるのです。

 私たちがそのような基準まで進まなければ、真の父が父としての立場に立ち得ないのです。真の父の心と事情、願いと心情を通してお父様と呼ぶ息子、娘に会えない限り、神様は永遠に真の父とはなれないというのです。

 そういう息子、娘がこの地上に多く現れることはなくても、男性一人、女性一人は現れなくてはなりません。今後そのような方が来られるとしたなら、その方が人類の真の父母となるのです。私たちは父母をなくしたので、このような心情をもった父母に出会わなければなりません。

 今まで六千年の歴史は、神様が息子一人を登場させるための歴史でした。失ったアダム一人を探し出すための歴史でした。本来アダムとエバが堕落しなかったなら、人類の真の父母となって神様の心情に通じ、神様の事情に通じて、神様の願いと目的をすべて達成したでしょうが、堕落することですべてが駄目になってしまったのです。

 それゆえ、これを再び探し出すためには、再創造の歴史をたどらなければならないのです。つまり、アダムを再創造し、失った人類の真の父の立場に再び立てて、神様が彼の頭に手を載せて「お前は私が創造理念で造り出したアダムであり、私の事情と心情が分かる息子だ」と語り、祝福してくださらなければならないのです。このような責任を担って、この地上へいらっしゃる方が再臨主なのです。それゆえ六千年の歴史は、神様が探し出そうとする完成した人類の先祖一人を造るための歴史であるというのです。

 聖書にはアダムを創造したのちに、アダムのあばら骨を抜き、エバを創造したとあります。しかし、実際にあばら骨を抜いたのではなく、骨格をまねたということなのです。皆さんが本を読んで、「その本の要点を抜き出した」と言うでしょう。そのように、エバもアダムの骨格をまねて造ったのです。

 ですから、アダムが出てくる日には、エバはおのずと出てくるようになっています。完全なプラスが出てくれば、完全なマイナスはおのずと出てくるというのです。イエス様は、神様の心情に通じた実体として全宇宙の前に誇ることのできる、真のアダムの立場に立つことはできませんでした。そのようなことができる社会的環境がそろわなかったために、イエス様は亡くなったのです。

◆神様の息子、娘になる道

 しかし今日、この時代は民主主義時代です。神様が民主主義を立てるのに、六千年もの年月がかかりました。この時代には、どのような話をしても、どのような宗教を信じてもかまいません。ですから、このような時代にイエス様が来られるならば迫害は受けたとしても、必ず、失った真の息子と真の娘を探し立てるはずです。なくしたものを、反対に探し出すことができるというのです。

 神様は今まで、歴史を二つの形態で繰り広げてこられました。一つはプラスであり、もう一つはマイナスですが、これが一つとならなければなりません。アルファとオメガが、一つに終結されなくてはなりません。真の父母から出発しなければならない歴史であるのに、人間が真の父母をなくして、偽りの父母の息子となってしまいました。そのため、真の父母を復帰して、神様の前に今再び進み出せるようになるとき、平和の園が開放されるというのです。

 それゆえ、このような心情的な因縁をもたない限り、神様の息子、娘となることはできません。お金や世の中の地位、権力、私の息子、娘、これらのものはみ旨をなす条件にはなりません。何の条件にもなりません。条件になるとすれば、それらを探していけばよいでしょう。しかし、そのようにしても神様の息子、娘となることはできません。

 今後、この民族、この世界の前に、新しい理念をもって出てくる教会が現れるとするなら、全世界が反対して追い出したとしても広まっていくのです。打たれるその場から生成され、繁殖し、打たれるその場で根を下ろし、打たれるその場で希望をもって、打たれるその場で生きた姿となっていく所があるのですが、そこを訪ねていきなさいというのです。

 もし皆さんがそのような所を探し出したなら、皆さんは歴史的な心情、時代的な心情、未来的な心情を激動させ、自らのすべてを捧げて、無限に伸びていき、最大の限界を超えることができる境地に立たなければなりません。そういう境地で父を呼ばなければならないのです。「お父様」というその一言で

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