文鮮明先生のみ言集
訓教経(上)


神様の一線に立つ私たち

一九六〇年十二月十一日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第十一巻』


 この時間、皆さんと共に考えようと思うみ言の題目は「神様の一線に立つ私たち」です。

 この天地に中心がなくてはならないということを、私たちは切実に感じています。個人において見ても、誰でも自分の人格が、人にあれこれ言われることのない、絶対的な思想や主義を中心として維持されることを願っています。

 家庭においても、同じことがいえます。ある団体を見ても、やはり中心と一つになり、中心が動けば共に動きながら、闘争の路程を経て一つの目的に向かって進んでいます。さらには国家も同じなのです。いかなる力によっても動かされることのない、磐石のような中心をもった国家だとすれば、誰もその国家をのみ込んでしまうことはできないのです。

◆絶対的な中心と関係を結ぶことができずにいる被造世界

 この世界に生きているすべての人々は、共に良心を持ち合わせています。歴史的に見ても、人間はこの良心を中心として善に従っていく生活をしてきました。また、新しい歴史を探すために努力してきました。

 それにもかかわらず、私たちは、人間が悪の関係から抜け出すことができず、善を追求しながらも苦痛を受けている実情を見ることができます。これを見る時、世界を動かすある不変なる中心があって、その中心が人間を絶対的に一つの基準に連結しようとしていることが分かります。

 小さな私という個人から、広くて大きなこの世界に至るまで、その中心に連結される形態と現象は各々違ったとしても、原則的な方向は一致していなければなりません。一致した立場に私たち自身が置かれていなければならないし、また、この世界が置かれていなければならないというのです。

 それゆえ、この地に生きている世界人類と宇宙は、変わることのない一つの不変なる中心と不変なる基盤を備えてその位置をつかむことで、問題の解決点を見つけることができるのです。世界がこのようであるならば、天地を創造された絶対者も同様なのです。被造世界は、「絶対者の理念が反映された世界である」と言えるからです。

 したがって、この被造世界は創造したその主体と渾然一体となって、不変の中心と一つとなり永遠なる位置を定め、天が良ければ良しとし、天が動けば動くことができなければなりません。被造世界が、そういう一つの絶対的な不変なる中心を探す日には、私たちの良心が位置を定め安息の基盤を探して、考えもしない中であっても結果的な目的を成し遂げるようになり、楽しむことができます。

 今日、この世界、さらには天と地、天宙に存在するあらゆる個体が、不変の中心をもってその位置を定めて生活路程においてその価値を表しているでしょうか。そのようにはできていないのです。極めて、小さな分子を見ても、中心と相対的な関係を結んで存在しています。このような絶対的な原則は、誰も否定することはできません。絶対者が主体として被造物を創造したとするなら、その主体である絶対者と相手となる被造物は、離そうとしても離すことのできない不変の関係になければならないのです。それは必然的な事実です。

 最初から天地がそのようであったならば、今日私たち人間は、苦痛な環境とは何らの関係もなかったであろうし、不安と恐怖という単語さえも私たちとは関係がなかったのです。また、悲惨な歴史や惨めな戦争、闘争史も存在しなかったはずです。

 そうであったならば、目的とする価値も結実され、その価値と共に楽しむことのできる環境に入っていったでしょう。また私たちには、限りなく平和で自由な理想世界が広がっていたはずです。しかし、そうではない現実に置かれている私たちであり、家庭であり、社会であり、国家であり、世界なのです。

◆人間が置かれている実状と絶対者

 摂理のみ旨を成し遂げていく中において、涙の峠を避けられないこの悔しい事情があるのは、どうしてでしょうか。それは人間が、絶対者が指向する一つの位置をとらえることができず、変わらない位置で変わらない関係を結ぶことができなかったためなのです。そのために、このような結果となったとしか断定することができないのです。

 どんなに天下に名声を得、号令できる者がいたとしても、ひっくり返すときには、彼も倒れる運命に置かれているというのです。それゆえに、歴史路程において民族を指導した中心人物、あるいは愛国者、天を中心としてこの世界人類の前に善に接近することのできる真理を表明する多くの聖賢、賢哲がいましたが、彼らも歴史的な批判の対象となり、また歴史の祭物となって消えていったのです。

 私たちがもっている現在の主義や思想、私たちがもっている観念、また私たちが立てている生活の目標等は、どのようなものでしょうか。それらもやはり、変わることのない徹頭徹尾原則的な中心が現れるまでは、一つの過程的なものにすぎません。過程的なものは一つに合わさることはありません。

 完全無欠な中心が立てられるときには、自分のそろえたものを天下に自慢すればするほど、かえって恥ずかしいということを知らなければなりません。天下を動かすことのできる成功者だとしても、何かが自らの心を揺さぶっているということを感じざるを得ないのです。それは、ある絶対的な一つの完全な存在、変えようにも変えることのできない明確な一つの核心存在がこの世界に侵入して、この時間も動いているためです。良心をもった善なる人々は、それに向かって前進しています。

 私たちは中心を失った人間です。これを宗教的な用語で言うと、「堕落の報応」だと言うことができます。恨めしく、悔しい堕落の報応です。これは創造以後、堕落の歴史路程をたどってきた私たちの先祖も願わないことであり、現在の人間も願わないことです。また、未来においても願わないことなのです。このような嘆かわしい汚点と、嘆かわしい堕落の報応として、人類は四方に追いやられ、あちこちに倒れ、敷かれながら死の道を歩んできました。このような中に生まれた人間であるために、苦痛を感じるのです。

 天が願わないのに堕落してしまいました。これをどうすればいいでしょうか。もしこれを解決できる神様がいらっしゃらないとしたら、極めて悲しいことです。今日私たちは、左右二大陣営に分かれて対決していますが、いまだこの歴史的な苦痛を解決できずにいます。

 私たちは一つの新しい世界を生み出さなければならない立場に置かれているのですが、人間が構想し計画したものをもってしては、理念に染まり、思想に染まり、主義に染まっている私たちの心を元に戻すことはできません。私たちは、自ら自分の体のあらゆる細胞と神経を動員して、全力で新しい園、新しい理念世界に向かって走っていくようにすることはできません。このことは、人間ではない絶対者、天宙の中心価値を決定することのできる一人の方を通さずには、解決できないのです。

 有り難いことには、それは、この世のどのような主義でもなく、どのような団体でもなく、どのような指導者でもないのです。こういう惨めな環境を解決できる方法をもった絶対者が、いらっしゃるのです。中心を失い、本郷を失って、何らの価値も見いだすことのできない破滅した人類を、救い出すことのできる神様がいらっしゃるという事実以上に、有り難いことはありません。ゆえに、主義や思想を越えて、自分の人格と価値を越えて、神様を尊重しなければなりません。良心がある限り、これを否認することはできないでしょう。

◆私は誰のために存在するのか

 歴史は、ひっくり返ってきました。左が右になり、右が左になり、前が後になり、後が前になり、上が下になり、下が上になりながら、四方八方にひっくり返ってきたのです。一日の生活もそのような生活であり、一生もまた同様だというのです。家庭生活や社会生活も、そのような環境でひっくり返っているのです。左が右になり、右が左になり、上が下になり、下が上になり、前後がひっくり返りながら変遷してきた歴史路程において、天は一つの解決点を探しています。

 私たちは誰のために生きていて、誰のために働いているのか、ということが問題なのです。上が下になり、下が上になり、前後が替わり、左右が反対になるというような恨みがあったとしても、また右に立たなければならないのに悔しくも左になってしまうような恨みがあったとしても、天のために存在する人とならなければなりません。

 何度も何度も倒れながら、この作戦をなしてこられた神様がいらっしゃる、という事実を人間は知りませんでした。それゆえ善を指向してきた人々、すなわち道に従ってきた善なる人々は、その時代時代ごとに残酷な目に遭ってきました。彼らは、位置が変わるたびに肥料となり、時代が変わるたびに肥料となりました。時代の変遷に従い、悔しくも、多くの血と汗と涙を流したのです。彼らは、当時においては滅びた者であり、かわいそうな者であり、恨まれて当然な者として、民族の怨 讐として消えていくかのように見えました。

 けれども彼らの目標、彼らの中心、彼らの生活感情は、ただひたすら一つの理念を探し出し、摂理の中心に向かっているものであり、ひいては神様に向かったものでした。このようなことを徹頭徹尾担ってきた人々が、歴史をひっくり返したのです。滅びるかのように思われた者が歴史を目覚めさせ、失敗したかのように見えた者が歴史を収拾したことは、歴史路程が立証する事実なのです。

 今日、私たち自身はどこにいるのでしょうか。どんなに中心を定めることのできない混乱した環境に面したとしても、いかなる死の立場に陥ったとしても、自分自身が誰のために存在するのかということを知っていなければなりません。これを教えてあげたいと思うのが、神様の心なのです。これを万民の前に教えるために神様は、宗教の歴史を通して、メシヤと救援思想などを前面に押し出してこられました。

 それゆえ私たち自身は、誰のために存在しなければならないでしょうか。天のために存在しなければならないのです。死んでも天のために死に、生きるとしても天のために生きなければなりません。死んでも天のために死に、生きるとしても天のために生きなければなりません。そのような者は、死んでも死んだ者ではありません。

 どうせ歴史はその世紀、時代時代を経てきながら前後が変わり、砕けてしまうのです。その時代にどんなに大きな成功を収めたとしても、それが天地の中心と接することもなく、神様の目的と通じないとするならば砕けるのです。また、その当時には砕けなかったとしても、時間的な差があるだけであって十年、百年、あるいは何世紀かのちには必ず砕けてしまうのです。このように、前後がひっくり返る歴史路程に置かれている私たちなのです。

 このような歴史路程に処した私たちなので、どんなに家庭をつかんで、息子をつかんで愛したとしても、それもやはり一度は変わるのです。六千年歴史を経てきたので、この心情の中心はいつか必ず一回は変わらなければならないのです。今まで人類歴史路程において生活を通した事情は毎年変わり、世紀ごとに変わり、時代ごとに変わってきました。全部が一度は変わってきたのです。

 終わりの日とは、いかなる時でしょうか。心情的な中心が、人間自身も知らない間に変わってしまう時が、終わりの日なのです。その時には、この世のものすべてが変わるはずです。

 今日までの人倫道徳は、父母が息子を愛し、息子は父母に孝行し、夫婦の間には区別がなくてはなりませんでした。これは三綱五倫の礎石として今まで伝わってきましたが、これもやはり変わりつつあります。このように既存の慣習と規範などが自然に変わる気勢が社会環境や、生活環境に浸透してくるのが終末なのです。世界的な指導者、あるいはメシヤがこの地に現れるとするならば、その方はこの問題を収拾しなければなりません。ですからイエス様はこの地に来て、「誰よりも私を愛しなさい」と言われたのです。

 異口同音に「終末だ」と言うこの時に、私たちは「自分は誰のために存在しているのか」を知らなければなりません。自分自身のために存在してはなりません。国のために、世界のために存在しなければなりません。ひいては、ある主義や思想を土台として、天と地のために存在しなければなりません。天と地のために存在しているのだ、という自負心をもって現れる群れとならなければならないのです。

 今日、すべての宗教は「地」を「怨 讐だ」と言っています。しかし「地」に怨讐として対するのではなく、一つの目的を遂げるための対象物として対さなければなりません。そうして、天と地が私のものであり、私は天と地のために存在していると自負できなければなりません。

 絶対者がいらっしゃるとするならば、その方が立てようとされる主義と思想、理念は、どのようなものでしょうか。天と地のために生きなさいということなのです。ひいては、「自分は神様と人類のために存在している」と言い、自らその価値を尊重し、自らその位置を評価し、自らその方向に向かって徹頭徹尾進んでいくと、自負して立ち上がる群れがこの地に出てこなければならないのです。これは天が願われ、今までの人類歴史が願ってきたことなのです。

◆神様の摂理が終結するためには

 人類歴史が一つの目的世界に向かっていく過程で、数多くの民族がばらばらになり、変わってきました。一つの帰結点を探し立てようとなさる神様の摂理も、そのような路程をたどるのです。ここで最後まで残って歴史を収拾することのできる理念は、天のため、地のため、人類のためとなる理念です。

 人類を通じ、神様を通じ、天地を通じることのできる心情基準をもった、自らの価値を天上天下に自慢することができ、謳歌することができる人々が現れなければなりません。ひいては、「地と天と神様は私たちのものであり、神様は私たちの父であり、私はその方の息子だ」と、自信をもって言うことのできる群れが現れなければなりません。

 今まで家庭をもつことのできなかった神様であり、国をもつことのできなかった神様であり、また世界を動かしてみることのできなかった神様なのです。その神様がこのような個人を探し出したとするならば、神様は、その人を中心として社会の基本となる家庭の形態をそろえ、その家庭を中心として社会を形成し、その社会を中心として民族を形成し、国家を建てるでしょう。そして、新しい主権世界に向かって出発することができるでしょう。

 神様は、この地にメシヤを送られ、彼を新郎とし、「人類は彼の新婦である」と言われました。これは、歴史路程において神様が探してこられた第一基準の父と息子、娘、すなわち真の父母と真の息子、娘の基準を立てて、新しい歴史のページを記録するための基点として立てたのです。

 今は、気を引き締めなければならない時です。自分がもっているものを再び考えてみなければならない時です。さじをつかんでもう一度考え直し、目の前に見えるすべての万象に対して再批判して、自らの生活的なすべての条件を再び収拾しなければなりません。天心を通じて、どれが正しく、どれが間違っているのかを冷徹に判断して決定し、正しいものを選択して、間違ったものは切ってしまわなければなりません。

 最後の時には、そのようなことが起きなければなりません。自分のためにではなく、神様のためにです。神様のためにするときには、自分自身が間違っていれば自分を切ってしまい、家庭が間違っていれば家庭を切ってしまい、民族と世界までも未練なく切って越えていくことができなければなりません。自分自らが誤ったすべてをあきらめ、変わることのない一つの中心と通じることのできる位置と方向をそろえ、生活の中で、目的の主体であられる神様の価値をたたえることができなければなりません。

 そのような人がいるとすれば、彼は人生行路において大勝利者なのです。人間はそういう過程を経ていかなければなりません。多くの人々が滅び、多くの民族が滅亡するようになったとしても、神様の摂理のみ旨を終結させようとするならば、そのような核心的な過程を経ていかなくてはならないのです。

 私たちは星回りが良かったからなのか、あるいは運が良かったからなのか、時代的な恩恵を受けて良い時代に生まれました。むちで打たれたとしても直接打たれ、賞を受けたとしても直接受けて、話を聞いても直接聞き、しかられるときも直接聞くことのできる時に生まれたのです。

 この地上の人間は今まで、何を支配してきましたか。物質を支配し、体を支配するのに全力を尽くしてきました。その反面、宗教は物質と体を切り離し、良心を支配してきました。これが二つに分かれた歴史路程なのです。私たちは知りませんでしたが、歴史路程において神様は、良心的な歴史の因縁を広めて一つの中心理念をもった存在を立て、人間が彼と一つとなるようにするための目的をもってこられました。

 今から二千年前、すなわち堕落以後四千年ぶりに、良心の方向を失った人間たちの前に、磁石のようにプラス的良心型で現れた人物が、イエス様なのです。彼は真の人、善なる人でした。

◆歴史の帰趨と修道の道

 歴史はこれから、どのようになるのでしょうか。何を中心として帰結されるのでしょうか。物質と体を中心とした歴史的な観や、理念、主義や思想は、世界の基盤となることができません。世の中の因縁を切ってしまい、良心に従って善を指向して立ち上がった人々、すなわち修道の道を行く人々が世界の基盤になることができるのです。彼らの進む姿は哀れなものです。顔を見ても、境遇を見ても、かわいそうな人々なのです。その道でみ旨を成し遂げられなければ、倒れて滅びるのです。

 私たちがイスラエル歴史を詳しく見ても、その道は行って、再び帰ってくることのできない道であることが分かるはずです。帰っていく日には死ぬようになります。イスラエル民族がエジプトを喜んで脱出し、荒野に向かって力強く走り出す時には語ることのできない希望と願いにあふれていましたが、その道は悲惨な道でした。ふろしき包みも持っていくことのできない道であり、楽に寝られるふとん一つも持っていくことのできない道でした。みな投げ打って出ていかなくてはならない道でした。その道は、食うに事欠く道であり、のどの渇く道であり、旅人の道であり、ぼろをまとう道であり、病んで倒れる死の道だったのです。

 今日まで人類歴史の路程を経てくる間、修道を愛する数多くの人々は、そのような道を歩んでいきました。その道は、愛する息子、娘を捨てていかなければならない道、天的な因縁をもって死んでもその道で死ぬべき道、一生を懸けていかなければならない道です。骨と身をえぐるような苦痛に涙を流しながらも、愛する家族をさて置いて、独りで行かなければならない運命の道です。そうかといって、この道を行くにおいて明確な目的があるわけでもありません。漠然とした道です。修道の道を探してさまよう人は、実に哀れなのです。同時に、そのような道をたどる家庭も、民族も哀れなのです。

 天を直接裏切ったイスラエル民族であり、天のなそうとしたことを台無しにしたイスラエル民族なのです。唯一神の理念をもって、どこに行ってもその中心だけは失わなかった彼らは、行く所行く所で虐殺され、虐待を受け、寂しく移り歩きました。天の歴史がそうなのです。その道は、二人で行くことはできません。ただ一人で行かなければならない道です。

 このような歴史路程で、世の中は世の中なりに、天は天なりに行くのではありません。「個人を立て、家庭を立てた」と言い得る基準を立てておいて、その個人を再び引き出しては帰さなければなりません。

 四千年間そのような道を行った人々、その全体の価値を代表して再び送られた一人の方が、正にメシヤなのです。このメシヤは私たちの先祖が流した血の結実体であり、犠牲の結実体であり、苦労の結実体であり、涙の結実体であり、汗の結実体です。また先祖たちの復活体であり、怨讐を打って先祖の恨みを解くべき中心存在であり、カナンの約束を受け継いだ方なのです。

◆神人平等の時代が来なければ

 今日の世界は、体と物質のために闘う世界です。いくら経済学、科学、思想が発展したとしても、それが私たち人類に平和をもたらすことはできません。心の世界に入ってこの肉体と物質を再鑑別することのできる主義や天的な動きが、歴史的な終末時代に現れない限り、この世界は滅びるでしょう。

 今や、天が間違いなく一つの中心を決定づけるべき最後の時代となりました。このような時代に生きている私たちは、この多くの問題をいかなる立場で解決し、清算すべきでしょうか。この問題が世界的に広がり二つの思潮として現れたのですが、一つは唯物史観であり、もう一つは唯心史観です。地や体と共に行くならば滅びてしまいます。それゆえ、神様と共に清算しなければならないのです。

 ここにあって私たちが唱えるべきことは心ですが、この心の主体とは誰でしょうか。心の主体は神様です。しかし漠然とした神様ではありません。神様を中心とする時が来ました。数千年の歴史路程をたどってきましたが、神様を中心して進もうという主義や思想は出てきませんでした。どの民族、どの国家の理念や主義思想も、神様を中心にして主張することはありませんでした。今後は人権擁護時代を超え、男女平等権を主張する時代を超え、神権を擁護して、神様と私たち人間が平等であるというところまで進まなければなりません。

 神様が神様としての本分を一度として発揮できなかったのは、神様と人間が平等な立場に入ることができなかったからです。神権が擁護されなければなりません。私たちを造られた主体とは何らの関係も結ぶことができず、接しようとしても接することのできない立場では、平等とか自由などはあり得ないのです。神様と平等なところに行かなければなりません。

 その場に行くには涙なくしては行けず、深く悔い改めて胸を打たなくてはなりません。神様をまっすぐに見ることのできない立場を超えて、自由と平等を唱え「私のお父様」と呼び掛けるとき、神様が「おお」と答えられるようなところに行かなければなりません。

 イエス様が復活したのち、マグダラのマリヤが抱きつこうとしたとき「触るな」と言われたのは、まだ時ではなかったからです。終わりの日とは、神様が愛の手を伸ばし「私の息子、娘よ」と言って万民を抱くためにいらっしゃる時なのです。ゆえに、神様と人間が共に自由を天地で謳歌できる時になれば、神様の復帰歴史も終わり、私たち人類の願いもすべてなされるようになるのです。

 今まで人間は、その時のために神様が働いてこられたことを知らず、寝てばかりいました。自分の子女を愛して生きていながら、そのような人間を眺めながら涙を流される神様がいらっしゃることを知りませんでした。人間は平和な家庭、自由な家庭を謳歌しましたが、神様は涙を流してこられたのです。「お前たちは私の息子、娘であるけれども、怨 讐の家庭に入っていき平和を謳歌しているんだなあ、怨讐の祭物となって苦労しているんだな」と言って涙を流してこられたのです。

◆神様の願いと中心人物が歩んできた道

 神様が、怨讐の前に見せたいと思われるものとは何でしょうか。お前は私の愛する息子であり、愛する娘であると言い得る、人間の姿です。歴史路程のいかなる人物以上に愛の心情を抱いて、父と息子の因縁で渾然一体となった人間の姿を、サタンの前に自慢してみたかったのです。

 しかし、このような神様の願いは創世以後、今日まで果たされていません。全世界人類は、神様の息子、娘として自由と平和のあふれる幸福の園で、神様と共に神権擁護と神人平等を謳歌して楽しく生きるべきであるのに、今嘆きと絶望の中であえいでいます。願いの主体である神様を遮っている怨讐、良心の道を混乱させるその怨讐に捕らわれてあえいでいます。

 言葉なく、真と善を探して黙々と生きてきた私たちの先祖は、生涯を通して神様の喜ばれる願いの一日を待ち焦がれてきましたが、今日まで、その一日を迎えることができずにいます。その日を築く方に会うことができず、侍ることもできないならば、人類はどのようになるでしょうか。このことを考えるとき、私たちは新たに覚醒しなければなりません。悔しくて恨めしい神様がいらっしゃり、わびしくてかわいそうな私たちの兄弟がいて、神様がなそうとされた一つの主権と理念を立てることができなかった恨みが残っているというのです。皆が旅人であり、裸ん坊でした。どこかに行って一晩も楽に寝ることすらできないような道を歩んできた人々が、神様を父と呼びながら歩んできた人々です。

 ノアも悔しい思いをし、アブラハムも悔しい思いをしたのです。また事情は知りませんが、その曲折と事情の対象者に選ばれた者も、やはり悔しい路程を歩みました。神様のためだという一念で歩んでいたヤコブも、ハランに向かって出ていく時、石を枕にしながら涙を流す路程をたどりました。モーセも同じです。豪華絢爛な外的なすべてのものをそろえたパロ宮中の様々な条件も、彼の心を平和にはできず、幸福で満足なものにはできませんでした。彼が処した立場は、怨 讐の立場だったのです。

 モーセは、天に向かう心が切実に込み上げてきて、ついには宮中を捨て出ていきました。天が許される時を待ち焦がれていたモーセは、世の中のことが理解でき、前後を分別できる年齢である四十歳になった年に、イスラエル民族を尋ねて宮中を退けて出ていったのです。一片丹心(注:偽りのない真心)、目的に向かう光り輝く忠節の心にかられ、苦役に苦しんでいるかわいそうなイスラエル民族を尋ねていったのです。そういうモーセの歩みは悲壮だったというのです。

 モーセの四十年の生涯も恨めしいものでしたが、尋ねていったイスラエル民族から裏切られたことはもっと恨めしいことでした。そうして、怨讐の国エジプトに身を置くことができず、ミデヤン荒野に行ったモーセのわびしさを、私たちは考えなければならないのです。

 しかし、環境が変わって自らの体が惨めで取るに足りないような状況になったとしても、彼の一片丹心は変わることがありませんでした。自分が行く道は、歴史的な祭物の道であり、道人たちが行き残した歴史的な路程であることを知ったモーセは、歴史的な道を行く民族の友となるために努力し、未来の数多くの人間が行かなければならない修道の路程を開拓する責任者の立場で、四十年間羊を追う生活をしました。草原地帯をカナンの地と見て、草を食べている羊の群れをイスラエル民族と思い、羊を抱き締めて泣いたモーセだったのです。

 その地と羊の群れを抱き締めて「神様!」と叫びながら涙するモーセを見ていた神様は、モーセの心情の基盤が祝福することのできる基準となったので「お前の立っている場所は聖なる場所である。靴を脱ぎなさい」と言われ訪ねてこられたのです。モーセはかわいそうな立場にありましたが、切実な心に満ちて叫んだので神様と因縁を結ぶことができたのです。神様のために歩む道は、このように悔しく恨めしい道であるというのです。

◆悔しく恨めしい道を行かなければならない聖徒

 イスラエル民族史を収拾し、神様の恨みを解くために四千年の結実体としてメシヤとして送られたイエス様の心は、一方ではうれしかったものの、この地に来た彼の立場は、悲しくて恨めしいものでした。それは、必然的な蕩減の路程を行かなければならなかったからです。

 これを御存じの神様は残念で悔しいけれども、イエス様を十字架に送り、聖霊を一つの中心としてこの地に送られました。地は母の象徴であるので、昇天したイエス様の代わりに母の立場の神様が来なければなりません。それでこの地に来て祭壇を設けて涙を流し、人間と母子の因縁を結んできたのが今までのキリスト教の歴史です。

 この時代において、天の恵みを受けるのはどのような人でしょうか。安楽に寝ている者ではありません。天がいまだ安らかに休んでいないという事実を知っているとするならば、私たちはここで安らかに休んでしまうことはできないのです。この世界の前に恨めしい道を行く群れは、この世界を支配することができるのです。私たちは恨めしい思いをもたなければなりません。誰のために恨めしい思いをもたなければならないのでしょうか。自分自身のためにではなく、神様のために恨めしい思いをもたならなければならないのです。

 終わりの日は、その恨みを解く時なのです。神様は、愛したいと思う心情を分け与えることができず、探そうとする民を立てることができず、探そうとする家庭を探すことができずに恨めしく思っていらっしゃるのです。私たちは、このように恨めしく思われる神様を思い、あふれる心情で世界に向かい、のろしを揚げて進みゆくことのできる群れとならなければなりません。

 歴史は、東西が一つの終結点に至るためにぶつかり合って流れています。ここで倒れないで、惨めなうず巻きの中心から飛び出し、「神様、あなたの悲しみと、苦痛と、恨みの路程に私を送ってください」と言うことのできる群れ、荒野で羊を飼っていたモーセのような節義と気概をもった群れが出てくることを神様は待っていらっしゃいます。

 カルデヤのウルで神様に忠誠を尽くしたアブラハムのような群れ、ハランで二十一年間神様に対して準備したヤコブのような群れを、神様は待ち焦がれていらっしゃるのです。

 世界の運命は、今や生死を決着づける時に至っています。私たちが住んでいるここは、私たちの故郷ではありません。必ず行かなければならない本郷があります。私たちの先祖、アダム・エバから怨 讐までも、「ハレルヤ!」と叫び得る本郷があるのです。その本郷へ行かなければならない道が残っているのです。これを残していく者は滅びます。

◆心情で装うべき私たち

 時を待っている私たちは忙しいですが、時を探してこられる神様はもっと忙しいというのです。最後まで耐えられずに疲れて倒れてしまう人よりも、そのような立場を解決してあげることができずに忍耐しなければならない立場の神様の心のほうが、もっといらだたしいものなのです。

 永遠無窮な平和の王宮を建設して生きるということは、決して容易なことではありません。今の時がそのような世界を成し遂げなければならない時なので、モーセが準備し、ヤコブが準備し、アブラハムが準備し、イエス様が準備したように、私たちも準備して出ていかなければなりません。私の国のためにではなく、世界のために、ひいては天のために準備しなければなりません。

 新郎を迎えなければならない新婦たちは、内外のすべての装備をそろえて準備しなければなりません。準備するには物質を準備するのではなく、心情を準備しなければなりません。人類の心情と、神様の心情と、主の心情で装わなければならないのです。天の心情が私の動機になり、地の心情が私の結果になっているので、私はアルファとオメガ的な心情の結実体として装わなければならないのです。

 そうして、神様が遠く見つめていた歴史を引っ張ってきて、近くで見つめられるようにできる人物が現れなければなりません。また、希望を探していた人類が、今までのいかなる主義や思想をもみな捨てて「あなたは世界を差し出しても換えることのできない方です」と言うことのできる人物がこの地上に現れない限り、世界は滅びてしまいます。これは空論ではありません。

 今は、生死がひっくり返る最後の時です。神様の一線の途上に立って最後の決断を下す時であり、勝敗を決定づけるべき時なのです。すなわち、今私たちは神様の一線に立っているのです。それではその戦いは、どのような戦いでしょうか。物質的、外的な戦いではありません。心の闘い、心情の闘いなのです。

◆神様の一線と、その一線をつくった目的

 百二十年間ノアは数多くの怨 讐の群れと、頼る所なく孤独な立場で闘いました。槍を持って戦うのではなく、心で闘いました。怨讐たちの槍が体を刺したのではなく、心を刺したのです。アダム以後千六百年間傷を受けてこられた神様に代わって、心に傷を負ったのです。そうして、彼が神様の同情することのできる立場に立ったがゆえに、神様は彼を訪ねてこられたのです。その後も、千六百年間苦労された神様の一線であるその箱舟の告知を、ノアはサタンに奪われることがなかったので、神様はそれを中心として天使を動員し、洪水審判をなさることができたのです。

 こうして、かろうじて神様だけが扱うことのできる第一線としてノアの箱舟を立てましたが、そこに再びサタンの一線が生じました。千六百年間悔しくも攻撃され、サタンの矢を受けなければならなかった事実をすべて整理して、一つの勝利的な一線をそろえて平和の園を立てなければならないノアの家庭に、再びサタンの一線が生じたのです。これは恨めしいことです。

 ハムの失敗は、個人的な失敗に終わるのではなく歴史的な失敗であり、ノアの悔しい思いは、個人的なものではなく天宙的なものでした。ところが、このような事実をハムは知りませんでした。一個人として選び立てられたノアも、自分がそのように大きく使われていて、そのように大きな価値のある存在であることを知りませんでした。地を審判し尽くし、数多くの民族を魚のえさにしても、ノアの八人の家族だけは生かしたという神様の限りない愛を彼らは知らなかったのです。ノアの八人の家族のいる所は、神様の愛の一線でした。

 それゆえ、ハムの失敗がそのように大きい恨みをもたらしたのです。神様の愛の一線が侵されるや、神様は侵されたその場所にいることができなくなり、彼らをみなサタンに差し出し、四百年間その民族を抱えて悔しい思いをされたのです。

 そして神様は、二千年ぶりにアブラハムを探して立てました。かろうじて立てた神様の一線に、神様の代わりに人間を立て、人間をしてサタンを屈服させようとされたのが神様のみ旨なのです。それで神様はアブラハムを立て、続いてイサク、ヤコブの三代を経て、ようやく人間に対する作戦を開始することのできる土台を立ててこられたのです。そうして、ついにヤコブの時に達し、地上に神様に代わって一つの家庭を動かすことのできる参謀を立てたのです。ヤコブ家庭が神様の一線になったというのです。

 このように個人を経て、家庭を経て、民族に至り探し立てたモーセとはどういう人であり、またイスラエル民族とはどのような民族だったのでしょうか。モーセは神様の一線の参謀総長であり、モーセに従っていたイスラエル民族は、神様の一線を守らなければならない精兵だったのです。ところがイスラエル民族は、行軍のラッパを鳴らして戦えという神様の命令を聞きませんでした。また、懇切に叫び諭そうとする参謀総長であるモーセの言葉も聞き入れませんでした。そうして、悲しみの祭物として寂しく荒野に埋められてしまったのです。

 民族を探し立てた神様は、サタンを民族に任せて、ただ見つめるだけで、御自身は戦うことを避けようとされました。ところが、民族が責任を全うすることができなかったために、神様が加担して再び歴史を引っ張ってこられたのです。サタンとの戦いの一線に神様が加担することなく、人間だけで集まってサタンの城に攻め込んで、一つの世界を築けるようにしようとされたのが神様のみ意だったのです。

 そのため、イスラエル民族は、神様が共にいてくださるからといって神の権限をもってするのではなく、最もかわいそうな民族の立場に立たなければならなかったのです。民族を指導しようと思えば、その民族の最もかわいそうな立場に立たなければなりません。サタン世界を指導しようとするならば、サタン世界の果てに立たなければなりません。神様はモーセを民族の責任者として立て、彼が最もかわいそうな立場で神様の心情を表してくれることを期待されたのです。

 千六百年の歴史を経て時を迎えた神様は、ついにノアを立てられました。次には家庭を立て、民族を立てたのちに、イスラエルの国を立てられました。そのようにされながら神様は、個人、家庭、民族、国家の一線を失わない位置にいらっしゃらなければなりませんでした。それゆえに神様は、加重された苦痛を受けてこられるのです。民族が責任を全うできない時、神様の前に家庭が責任をもち、個人が責任を全うできないことがプラスされるのです。

 神様がイエス様をこの地上に送られたのは、地上の人間として神様の一線に責任をもち、霊的な戦いを実体的に繰り広げるためでした。ところが地上の人間がイエス様を殺すことにより、イエス様と聖霊が分かれて、これまで霊的戦いが続いてきました。またその上に、肉的戦いまで加重されてきました。それで「肉を打て」と言うのです。

◆最後の一線

 それ以後二千年が過ぎて、終わりの日になりました。キリスト教信者を動員し、神様が動くことのできる新しい第二イスラエルを立て、新しい時代に向かって超えていかなければならない時になりました。イスラエル民族は、イエス様のみ言を通して天国を建設する天の側の選民になるべきだったのに、その時代を取り逃がしてしまいました。それで、国家、民族、家庭、個人の苦痛を、神様とイエス様と聖霊、すなわち三位神が背負っていらっしゃるのです。

 皆さんは父の恵みを願うのですが、まずその前に、その父がいかなる父なのかを知るべきであるし、信じている主がいかなる主なのかを知るべきであるし、信じている聖霊がいかなる聖霊なのかを知るべきです。このようなことを知ったならば、自分の手に傷があるからといって「神様、これを治してください」と祈ることはできないのであり、むちで打たれて倒れたとしても神様に頼る祈りはしづらいのです。

 世界的な終末時代に、神様は再び歴史的な運命とともに勝利の基準を立てるため、最後の天的な一線を探し立てなければなりません。

 天は私たち個人に「誰それよ、お前は第二イスラエルの天民として、この地上の怨讐を占領し、勝利の地と勝利の民をもっているのか」と尋ねられるでしょう。今がそのような時です。私は偉い、お前は駄目だとけんかしている時ではありません。全世界の宗教人が動員され、イスラエルの隊列を探し出さなければならない時なのです。

 私たち自体が善悪の一線です。それが縦的に個人から家庭、社会、国家、世界まで展開してきました。今は、皆さんがこのように縦的に下りてくるものを横的に展開し、ノア、アブラハム、ヤコブ、モーセとヨシュアとカレブのような立場に立たなければならず、ひいてはイエス様のような立場に立たなければならない時なのです。

 この終末の時期に世界的なイスラエルを建国なさろうという神様のみ旨があるというなら、この最後の時代に追われ、追い込まれる祭物的な国家が現れなければなりません。飢えによる泣き声が聞こえなければならない時が来ました。のどの渇きにため息をついて泣く声が聞こえなければならない時が来ました。とどまる所がない旅人の身分になった民族が出てこなければなりません。

◆神様の一線に立った勝利兵となれ

 私たちは天国建設のための路程において、勝利の精兵として凱旋歌を歌い、神様の前に栄光を帰さなければなりません。私たちが行かなければ神様が自ら行かれなければならないので、私たちは行かなければならないのです。

 自分の生命が惜しいといってこの道に背を向ける者がいるとするなら、彼は天上にいる殉教した数千万の天の食口たちの怨讐となるでしょう。彼らが腹いせをするとしたら怨讐に向かってするのではなく、ここから追い出す者に向かって腹いせをするでしょう。だから行かないではいられない道なのです。

 「私は天の祭物として、父である神様の懐に抱かれて神様と共に赤い血を流し、神様の一線に立った精兵として同志たちの腕をつかみ、体を抱き締め涙を流しながら、死の道でも行く」と決意できる人がいたならば、彼は世界を支配するでしょう。神様を自分の父として侍り、天の前に忠心を尽くす人がいるとするならば、彼は新しい歴史の最初のページに記録される使徒になるのです。

 私たちの赤い血は、私たちも知らないうちに寝ても覚めても行く道をせきたてています。人間は行くべき運命から抜け出せない存在であり、どうせ一度は生死の問題を解決しなければならない存在です。それゆえ、どこへ行くのかを決定しなければなりません。

 歴史の恨みをもっている私たちが、残された最後の歴史を締めくくって新しい歴史を繰り広げなければなりません。天がとこしえに抱いて大事にしてこられた天の闘争歴史の偉業を私たちが受け継いで、今まで九十九回の戦いで失敗したとしても、残ったこの一回の戦いで勝利を収めなければなりません。今までの敗北の恨みを洗い流し、歴史的な勝利を誇っているサタンを引っ捕まえて降参させ、神様の前に栄光を帰さなければなりません。

 私たちが接している環境は戦場です。私たちが食べている御飯一さじ分も、着ている服一着も、目に見える天下万象すべても、戦いの条件に引っ掛かっています。これらすべてのものが私たちの手を通して、戦いの嘆きから恨みを晴らすその日を待ち焦がれているというのです。

 それゆえ、天の一線の精兵としての威信をかけて勝利兵となって、神様の祝福を受ける私たちとならなければなりません。

















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