文鮮明先生のみ言集
訓教経(上)


侍りたいお父様

一九六一年二月十二日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第十一巻』


 この地上に生きている数多くの人々は、誰であっても誰かに仕えたいと願います。体は心を中心にして仕えたいと思い、体と心は父母や恩師、あるいは指導者、あるいは国家の主権者に仕えたいと願います。すなわち、人間は対象の立場で主体者に仕えたいと思うのです。このようなことは歴史の流れに従って次第に拡大され、今は神様に侍りたいと願うところまで至っています。

◆神様に侍るべき人間

 人間が理念の世界を探し求めて絶対者に侍ることができない限り、悲しみは続きます。理念の世界には人間でない絶対者、神様がいらっしゃらなければなりません。しかし、私たちはまだ絶対者に侍ることができないでいます。体は、心一つにもろくに仕えることができないでいます。そして、私たちは父母にもろくに侍ることができず、国家の主権者にも侍ることができないでいます。さらに、私たち人間を造られた絶対者にさえ、心から敬い侍ることができずにいることを否認することができません。それゆえ私たちはむちゃくちゃで、哀れな者たちです。

 本来、私たち人間は貴い存在として創造されました。このような存在が、心と体が一つになれず、父母と一つになれず、理念と一つとなれない人間になりました。このように無価値になったのは堕落の報いです。ですから、心と体が一つになることを願うのは、本来の天性です。

 このように無価値な人間ですが、神様はそれでも捨てることなく収拾して因縁を結ぼうとされました。しかし、人間は絶対者がいらっしゃることさえも知らないでいます。今や私たちは、私たちを無限な価値に押し上げようとする絶対者がいらっしゃるという事実を知らなければなりません。

 社会に出れば、その社会の絶対者に仕えなければならないように、理念世界では絶対者に仕えなければなりません。そうなる時、世界は一つになるのです。理念をたどり、最後には絶対者であられる神様、唯一無二の創造主であられる神様に侍ることができるなら、どれほど幸福なことでしょうか。私たちが最後に侍るべき方は、絶対者であられる創造主、神様です。その絶対者は私たちの父です。その父に侍るために、私たちは求めていっているのです。私たちはこの父と一つになるまで進まなければなりません。

 私たち人間は、世の中のことをもっては満足を感じることができません。天地を溶かし出すことができる絶対者に侍る所でのみ、最高の幸福を得ることができ、最高の価値を与えられるのです。このために人間は、きょうもあすも進んでいくのです。宗教というものは、この絶対者と内的に因縁を結ぶようにするのです。外的な面ではなく、内的な面で摂理し、出てくるのが宗教です。外的な面は悪が支配し、内的な面は善が支配しています。この善を中心として、理念の世界を成し遂げなければなりません。善の理念は内的な反映によって成り立っているのです。内的な面を無限に追求して理念の世界を探し出し、最後には創造主を探し出して、永遠にその方に侍り、その方と共に楽しみながら生きようとすることが、宗教家の追求することです。

◆神様の隠れた摂理

 今この世界は、外的なものと内的なものの相対的な二つの形態に分かれています。すなわち、外的な面を追求する共産主義と、内的な面を追求する民主主義に分かれています。ここで私たちは、何を追求しなければならないのでしょうか。無窮無尽な内的な面を追求しなければなりません。そうかといって、神様が民主主義を表面的に導いていらっしゃるかといえば、そうではありません。後ろから押していらっしゃいます。しかし、この民主主義も世界的な理念を中心として進まなければ滅びてしまいます。

 今日の民主陣営が互いに団結して新しい内的な一つの形態を整えるまでは、天がしなければならない、その何かが残っているということを私たちは認めざるを得ないのです。私たちは現時代の思潮に浸り、それで喜んで満足してはなりません。表面に現れた文化的な恩恵や社会的な享楽の踏み台を通じて楽しんで生きるのではなく、そこから一歩進んで内的な面、すなわち私たちの心と接することができ、私たちの心と因縁を結ぶことができる宗教を研究して求めなければなりません。そのようにしなければならない時が、今後迫るということを皆さんは忘れてはなりません。ですから、最後にはこの地上を捨てることなく、この世界を抱くために役事する絶対者がいらっしゃるという事実を発見した者だけが、新時代の王子になるでしょう。

 今日まで表面上に現れた宗派や教派の教理が、この生涯において全体の代わりをすることができず、創造主である神様との因縁を認めることができなければ、それとの因縁を切ってしまわなければなりません。神様がいらっしゃるならば必ず一つの目的、一つの理念を達成して、全人類が神様に侍ることができるところまで導く摂理をされなければならないのです。

 そのように見るとき、神様の摂理は表面的に現れた教派ではなく、表面的に現れた現実のいかなる主義でもありません。神様はその裏面で新時代の新しい歴史を図り、隠れた摂理をしていらっしゃることを私たちは推理で察することができます。もし、この世界をこのままほっておけば滅びてしまいます。

 では、神様が直接支配なさることがあるとするなら、それはどのようなものでしょうか。ここで私たちは人類愛を提唱しなければなりません。言葉だけではなく、自分自身が実感的に体験でき、写実的に感じることができる神様を求めなければなりません。私たちが「神様」と呼ぶ、その神様は観念的な存在ではなく、実証的な存在です。信仰の対象としての神様ではなく、生活の中心としての神様です。そういう絶対者と因縁を結んで生きる群れが、この終わりの日に現れないとするなら、この世界は正に最後の難局にぶつかると見ざるを得ないのです。

 しかし、創造主である神様がいらっしゃる限り、決してこの世を滅びるようにそのまま捨てておかれはしないのです。したがって、滅びないようにするために、神様と私たち人間が共にする摂理の形態が、どこかに現れなければならないのです。では、まず皆さんがどのような姿にならなければならないのでしょうか。神様を創造主、すなわち主人として仕えることより、神様を心情的に父と呼ぶことができなければなりません。観念的でなく、神様は私の父であるということが、体と心にしみるように感じられなければなりません。このような体験をすることのできる摂理的な形態が、必ず現れなければなりません。

◆父子の絆を結んであげようという神様

 今まで私たちは観念的に神様を呼んできました。宗教的な主体としてのみの神様を呼んできました。しかし、そうではありません。神様は生命の主体であると同時に生活の主体であり、生活の主体であると同時に理念の主体です。しかし、どんなにその理念の主体が広く、大きいとしても実質的にそれを生活感情で分析し、体験しなければなりません。もし、生活で体験するその理念の価値を、存在している何ものとも替えることができないと自慢することができる場に立った者がいるとするなら、彼は神様が探し求めている人に違いないはずです。

 私たちが感謝すべきことがあるならば、それは神様を父と呼ぶことができ、父に侍ることができる因縁を結んでくださることです。これ以上価値あることはありません。神様は堕落した人間を収拾して最大の価値を賦与したいとされるのですが、それはこの人類に対して親しく息子とし、娘とするということです。こういう心情を抱き、訪ねてこられるということを皆さんは体験しなければなりません。言葉だけではなく、体験しなければならないのです。

 私たちはこのように訪ねてこられる神様に、必ず侍るべき運命に置かれています。皆さんがいかなる指導者に仕えているとしても、その指導者は皆さんが永遠に仕える者ではありません。今日この地上にいかなる理念を主張する代表者がいるとしても、その代表者も永遠に仕える者ではありません。私たちが永遠に仕え、永遠に共に生きなければならない方とは誰でしょうか。それは正に永遠無窮に存在される神様です。皆さんはそういう立場に立たなければなりません。一から千万事に至るまで、神様に侍って生活できるところまで進まなければならないのです。

 世の中では、ある主権者の息子、娘であると自慢しています。ある会社の社長の息子、娘であると自慢します。しかし、それは問題ではありません。それは、あとでなくなるのです。本当に自慢できるものがあるとするなら、それは善の理念を通して天地万物を造られた創造主である神様に対して、皆さんが父と呼ぶことができ、その創造主が皆さんに対して息子、娘と呼ぶことができるということです。それ以上の場がどこにありますか。

 「神様は愛だ」と言われました。やはり神様は愛の神様です。なぜ愛の神様でしょうか。人間が求めている最高のことを人間の前に約束され、人間を導いてこられたからです。私たちは神様を言葉だけで「父」と呼んでいますが、その内容を知らずにいます。実はその内容を体得しなければなりません。私たちは今まで、天にいらっしゃる真の父、全宇宙を造られた創造主を「父」と呼んできました。しかし、その父を本物の父として侍ったかといえば、そうではなかったのです。名前で満足される神様ではないのです。実体の中心として父子の絆を慕われ、来られた神様であるということを私たちは知らなければなりません。救いは名前で得るのではありません。実体によって救いを得るのです。名前で因縁が結ばれるのではなく、実体と因縁が結ばれなければなりません。創造の名前に由来した因縁は、決定的なものにはなり得ないのです。

◆神様は私たちの真の父

 それでは、皆さんは果たして絶対者に対して名前でなく、実体で神様と呼ぶことができる所に入っていますか。問題はここにあります。人間が堕落しなかったならば、神様はどのようになられたのでしょうか。人類が堕落という悲痛な運命に遭遇しなかったならば、どのようになったでしょうか。言うまでもなく幸福になったのです。その幸福は人間を中心としたものではなく、創造主を中心にしたものです。必ず創造主を中心にして幸福を主張し、善の理念を主張するということは間違いない事実です。そうなれば、皆さんの心にも体にも創造主が共にあるのです。皆さんの生活でも、皆さんの一生の路程でも同じことです。私たちの考えと感情、感覚までも創造主と共に因縁を結ばずにはあり得ないというのです。

 このようになるべき人間が堕落することによって、生活も生涯路程もそのようにすることができずに、自分を中心として生きています。堕落したこの地上で主張する主義や、国家的な理念を中心として生きています。そこで忠誠を尽くし、孝行をする人は多いのですが、絶対者であられる神様を父として仕える真の孝子、孝女はこの地上にいないというのです。神様は全天宙を創造された創造主であると同時に、私たちの真の父であるということを、私たちは知らなければなりません。

 その真の父は、私たちを訪ねてこられるのです。いかなる運命の曲折に処しても、その曲折を超えてその真の父の手をつかみ、歴史的な願いと自分の生涯の願いの心情を抱いて、「私のお父様」と、最後の一言を残すまで人間は行かなければなりません。死の道が横たわっているとしても、そこまで行かなければならないのです。終わりの日、人類の中でそういう道を走っていって創造主、絶対者、すなわち神様に対し「私の父」と呼ぶことができる群れが出てくるとき、そこから神様の新しい経綸は始まるのです。

 神様は心情の主体であられます。それゆえ、神様も無限に悲しい感情をもち、無限にうれしい感情をもっていらっしゃいます。神様だからといって、うれしく良い感情だけをもっていらっしゃるのではありません。悲しみであれば、人間が到達できないほどに、深くて広い悲しみの心情をもっていらっしゃる方であるということを知らなければなりません。

 人間は堕落することによって、神様に到底話すことのできない悲しみを贈り物としてしまいました。苦痛を贈り物としてしまいました。迫害を贈り物としてしまいました。死を贈り物としてしまいました。人間が最も嫌うすべてのものを、神様に任せてしまったのです。神様は今まで人間から、善の贈り物、喜びの贈り物、満足の贈り物、喜楽の贈り物を受けたことがありません。罪は人間が犯したのに、その罪を謝罪しなければならない方は神様であるというのです。恨めしい事実なのです。罪を犯したならば、その罪を犯した者が謝罪しなければならないのが原則ですが、罪は人間が犯して、罪を謝罪することは神様がしなければならないとは、これは何の縁ゆえなのでしょうか。父子の因縁があるためです。

◆神様が因縁を結ぼうとする目標

 神様は天地万物を創造され、その万物を主管できる人類の先祖を立てたのち、そこに希望を置かれました。創造理念を中心として、アダムとエバを希望の実体として眺められました。アダムとエバが成長してから、神様は彼らを訪ねたかったのです。どこにでしょうか。彼らの心の中に訪ねて入っていこうとされたのです。心だけでなく、心情の深い所に落ち着こうとされたのです。神様が人間を創造された目的は、神様の心情を人間の心情の深い所に植えることです。その心情が植えられることを願ってこられましたが、途上で折られてしまいました。これが堕落です。

 パウロは、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」(コリントT三・一六)と言いました。しかし神様は、今までそのようにしていらっしゃらなかったのです。なぜでしょうか。罪悪となったこの地、罪悪の侵犯を受けている環境だからです。神様が創造当時に立てた理念と心情を通じた生活を営むことのできない人間になったがゆえに、観念的には侍ってきたかもしれませんが、生活においては神様に侍って生きる人間になれなかったというのです。神様は、このようなすべてを清算して親しく人間の心情に落ち着き、人間と共に生きる一日を訪ねてこられるということを、皆さんは知らなければなりません。

 神様が人間を訪ねてこられるとするなら、どの程度まで訪ねてこられるでしょうか。人間の心の深い所まで訪ねてこられます。それゆえ、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ二二・三七)と言われたのです。私たちの心の小さな部分までも残しておいてはなりません。心をすべて尽くさなければなりません。神様は私たちの心の深い所まで訪ねてこようとされます。その次は、私たちの体を訪ねてこられます。私たちの体の細胞一つにまで訪ねてこられます。さらに、私たちの生活を訪ねてこられます。心と体すなわち、皆さん個人を訪ねるのはもちろんですが、私たちの生活の極めて細かい部分にまで訪ねてこられる神様であるということを、皆さんは知らなければなりません。これが神様が愛を中心として因縁を結ぼうとされる目標です。

 皆さん、愛する人を愛すれば愛するほど、その人の深いところまで因縁を結ぼうとするのが原則です。一言でも自分と反対になったり、一つでも自らの願いと対立することがあれば受け入れません。そうではありませんか。それだけに、天地を動かすことのできる根本的な心情をもった神様が私たちを訪ねてこられるとき、私たちの心の底までも、ほこりと傷がない善の場で因縁を結ぼうとされ、私たちの体とも、そのような場で因縁を結ぼうとされ、私たちの生活とも、そのような場で因縁を結ぼうとされるというのです。

◆最後の解決点は神様を中心とすること

 では、訪ねてこられる父に必ず侍るべき私たち自身は、果たして今いかなる場にいるのかを深く考えてみなければなりません。神様の前で、「私が持っているこれは良いと思いますが、神様もこれがよろしいですか」と言って「そうだ」と認定されれば、それは心配ありません。認められればそれを所有できますが、認められないときには所有できません。

 神様は私たちの体を認めることができません。なぜなら、堕落の子孫であり、堕落の血統をもって生まれた私たちの体であるからです。また、神様は皆さんが今までもっている良心を、ある程度は受け入れることができますが、全体的には受け入れられません。皆さんの良心は環境の支配を受けています。神様が立てた本然の良心の基準は、今皆さんがもっている良心の基準ではないのです。神様の良心が基準です。また、体も皆さんの体が基準ではなく、神様の体が基準です。また、生活も皆さんの生活が基準ではなく、神様の生活が基準です。この生活を通した環境があり、環境を通した理念の世界があるのです。

 人間は堕落したその日から、天と因縁を結ぶことができませんでした。私たち個人が天と絶対的な因縁を結ぶことができず、私たちの生活が天と絶対的な因縁を結ぶことができず、私たちが生きている社会、国家、世界が天と絶対的な因縁を結ぶことができなかったということを否定できません。これをそのまま抱き締めて神様の前に行ったとしても神様に認められることはなく、その方と因縁を結ぶことはできません。なぜでしょうか。天の原則がそのようになっているからです。

 では、何を因縁の中心にするのでしょうか。あらゆる問題を解決することができ、処理できる中心の条件とは何でしょうか。それは私たちの良心でもなく、この地上にあるいかなる理念でもありません。それは正に神様です。神様は、神様の心情と、神様の心と、神様の体が一つになったその基準を通して、願う世界を達成されようとなさいます。絶対者がいるならば、必ずそれを中心にしてこの世界を収拾しなければなりません。今日、全世界に散在している人類が知らなければならない最後の解決点とは何でしょうか。いかなる主義でもありません。アメリカのような先進国でもありません。いかなる英雄でもありません。いかなる聖賢でもありません。最後の解決点は神様です。神様の愛、神様の生活、神様の心、神様の心情、神様の世界、神様の主権、問題はここにあるというのです。人間を通した世界ではありません。

◆復帰歴史は救いの歴史

 この地上には、数多くの人が生きています。しかし、その中の一人をつかんで、神様が「君の心は私の心でもあり、君の心情は私の心情でもあり、君の体は私の体でもある」と言うことのできる人がいないというのです。ですから神様は、「君の心は私の心でもあり、君の心情は私の心情でもあり、君の体は私の体でもあり、君の理念は私の理念でもある」と言える代表者を、この人類の前に送らなければならないというのです。そうしてこそ、そのように言えるのではないでしょうか。それでこそ神様です。それでこそ人類に対して救いの摂理のみ旨を置かれた神様になるのであり、代表者を人類の前に送ってあげない限り、神様は信じられないのです。

 その代表者として送られた方が、正にメシヤです。救い主です。どのような救い主でしょうか。私たちを死の場から引っ張り出して生かしてくれることはもちろんですが、神様に代わって私たちを神側に引き上げてくださる救い主、言い換えれば、人類全体の願いを達成させられる救い主です。

 では、神様はいかなる救い主でしょうか。心の救い主であり、体の救い主であり、心情の救い主であり、生活の救い主であり、理念の救い主であり、天宙の救い主です。復帰歴史は救いの歴史です。神様は、そのために摂理してこられます。しかし、神様は物差しをもたない無形の神様であられるので、実体をもった私たち人間と関係を結ぶために、堕落して神様がいるのかいないのかも分からない人間の前に、実体的な代表者として送られた方がメシヤです。こうしてメシヤを中心とする個人、メシヤを中心とする家庭、メシヤを中心とする世界を選び出してくるのです。そういう形態が今日の民主主義です。

 この地上にメシヤとして来られた方がイエス様だとするならば、その方は最高の中心である神様の愛の心情を人間に結ばなければならなかったのですが、それができずに亡くなりました。ですから、イエス様が全人類の前に約束されたのは、私は新郎であるからあなた方は新婦になって父のみもとに帰らなければならないということです。今日キリスト教信者は、主に会えば救われると思っていますが、それだけではいけません。主に会って、どのようにしなければならないでしょうか。父のみもとに帰らなければなりません。神様のみもとに帰らなければならないというのです。主を通さなければ、神様のみもとに進むことができないので、主が必要なのです。神様の前に行ったのちには、主も必要がありません。それでイエス様は、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ一四・六)と言われたのです。「イエス様御自身の前に来ることができない」と言われたのではなく、「父の前に来れない」と言われたのです。

 今日の世界は、神様が訪ねてこられ、外的な世界形態は整いましたが、心情の世界は整っていません。この世界は、事情を通じることができる環境にはなっていますが、心情を通じることができる環境にはなっていないというのです。これから神様が訪ねてこられるなら、何をもって訪ねてこられるでしょうか。心情をもって訪ねてこられるのです。もし、この世界を代表することができ、全世界の人類を支配できる民族がいるとするならば、その民族はいかなる民族でしょうか。神様の心情を伝統として立てて出てくる民族でしょう。また、今後世界を支配できる文化は、いかなる文化でしょうか。人の心と、人の心情を通して出てくる文化が世界を支配するのではなく、神様の心情を通して出てくる文化が世界を支配するようになるのです。最後の問題は、そこにあります。心情が通じる世界、心情の世界を成し遂げられる最後の目的の世界を探し求めるまでは、皆さんがここで荷物を広げて、永遠な安息の生活はできないというのです。

◆心情をもって訪ねてこられる神様

 それゆえ、私たちは心情を尽くして会いたい父、最善を尽くして会いたい父、み旨を尽くして会いたい父、その父を父として対し、その父と世界理想の価値を楽しむことができ、その父に直接対することのできる環境を探し出さなければなりません。その場が正に父に侍る場であることを、皆さんは知らなければなりません。

 ですから、これから皆さんは、皆さん自身を一度反省してみなければなりません。皆さんの心はどこに傾いていて、皆さんの体はどこに傾いていて、皆さんの生活はどこに傾いていて、皆さんの理念はどこに傾いていて、皆さんが侍ろうとする神様は、今いかなる場にいらっしゃるのかをもう一度反省しなければならないのです。

 これから神様は、皆さんの心と共になければならず、皆さんの体と共になければならず、皆さんの生活と共になければならず、皆さんの環境と皆さんが主張している理念と共になければならないのです。もし、そのように共にあるならば、皆さんの言葉は神様の言葉に代わるものであり、皆さんの行動は神様の行動に代わるものであり、皆さんの生活は神様の生活に代わるものですが、そう成し得ないとするならば、皆さんの心と、体と、生活は、神様と何ら関係がないということを知らなければなりません。

 神様は極めて偉大な方であるため、最高の場にいらっしゃいます。それゆえ、皆さんの感情であれ、意識であれ、全体が父を通し、父を中心としなければなりません。

 父に侍る者とはいかなる者でしょうか。父を通して生き、父を通して死に、父を通して行動する者です。しかし、堕落した人間は、自分を通して生きています。それゆえ、神様とは何ら関係がありません。神様に侍らなければならない終わりの日の聖徒は、父を通して生活しなければなりません。御飯を食べても、寝ても覚めてもいかなる行動も、すべては父を通じてしなければなりません。これは観念的にではなく、実際的にそうでなければならないのです。皆さんは、それを体 恤できる場に入らなければなりません。

◆神様の願い

 では、父の願いとは何でしょうか。私という個体が、父の願いになっています。私という一個体が願いであると同時に、私を中心とする家庭が願いであり、家庭を中心とする社会が願いであり、社会を中心とする世界が願いであり、世界を中心とする天地が願いであるということを、皆さんが知らなければなりません。父の前に親孝行する人とはいかなる人でしょうか。細かいところまで父と共に相談する人です。大変なとき、悲しいときも、うれしいときも、父と共にする人が親孝行する人です。

 今まで神様が、なぜ不幸だったのでしょうか。今まで神様が、なぜ嘆かれたのでしょうか。それは神様が苦労するとき、共に苦労してくれる息子、娘がいなかったからです。苦労を嫌がる神様ではありません。あなたが苦労するとき、共に苦労してくれる愛する息子、娘がいるとするならば、その苦労も感謝に感じる神様です。悲しみと苦痛を共にできる息子、娘がいるとするならば、彼らが耐え難く、乗り越えにくい悲しみと苦痛の中に置かれているとき、慰労してくださる父なのです。死亡がぶつかってくる苦痛の場に参与する者がいるとするならば、その死亡を超越できる、死亡の権威を黙殺できる権限をもたれた父だというのです。

 神様の悲しみとは何かといえば、神様が苦痛を受けるとき共に苦痛を受け、神様が悲しいとき共に悲しむ人がいないことです。今まで数千年間人類を抱き締めてこられた神様は、一人で苦痛を受けられました。一人で悔しがられ、一人で悲しみに遭いました。神様が苦痛を受けるとき、その苦痛を共にした人がいなかったし、神様が悲しいとき、その悲しみを共にした人がいませんでした。それゆえ、神様は今まで苦痛が激しく、悲しみが激しかったのです。皆さんは、これを知らなければなりません。

 今日この終わりの日、この時代がどんなに悪く、どんなに死亡の波が襲ったとしても、これらのすべてのものを防ぎ、神様を慰労してあげる人、言い換えれば、神様と共に苦痛の中でこれらを覆す人がいるというならば、彼は価値的な存在になるはずであり、神様の真の孝子、孝女になることでしょう。そのような息子、娘がいるならば、神様はそのような場で失望したり悲しむのではなく、願いを抱いてそのような立場に置かれている息子、娘を勧告して、慰労してくださるはずです。

 したがって、皆さんはこれから本当に神様に侍らなければなりません。侍るにはどこから侍らなければならないでしょうか。喜びの立場で侍るのではなく、歴史的な悲しみを抱き締め、その心を思いやる場から侍らなければなりません。そのような真の息子、娘を探すことができずに、苦労する神様であるということを知って、私たちがそのような場で神様と共に悲しんで、「すべてに責任を負います」と立ち上がるとき、神様はそこで初めて希望の対象として、私たちに新しい喜びを与えてくださるのです。神様が受けられる苦痛の立場に同参して、神様の前に忠誠を尽くす者は、神様が責任を負って解決してくださるのです。

 私たちは喜びの立場で神様に侍ることができません。この地上で最も悲しい場、最も苦痛の場、人々が最も嫌がる場に出て、神様の心を知り、神様の心情をつかんで、神様と共に苦痛を受ける場で神様に侍らなければなりません。そのような場で神様から慰労され、息子という認定を受けてこそ、永遠の理想世界が成されたそのとき、神様が皆さんを永遠無窮に息子として天地の前に誇り、皆さん自身は神様に侍って生きることができます。そういう場で神様の息子と認められない限り、皆さんはあの世に行っても一面しか通じることができません。天上に行っても、最も大変な場に行きます。いかなる問題があったとしても、神様と相談できないというのです。

 神様は探していらっしゃいます。希望の中で、父に侍ることのできる息子、娘ではなく、悲しみと苦痛が波打つ場で父に侍ることができる息子、娘を。希望の中で神様に侍る息子、娘はたくさんいます。しかし、苦痛な場で神様に侍る息子、娘は非常に少ないのです。非常に少ないのです。神様に真に侍る者とはどのような者でしょうか。喜びと希望の中で侍る者ではなく、苦痛の中で侍る者です。神様の事情を察し、神様の心情を思いやることによって、神様がつかんで、「私の息子よ、私の娘よ。私がいるから耐え忍んで闘え」と慰労してくださる人です。苦痛な立場で神様に侍らない限り、神様を永遠なる私の父として侍ることができないことを、皆さんは知らなければなりません。

◆患難の時を用意された意味

 神様は終わりの日になれば、人類の前に七年の大患難があるだろうと予告されました。この患難時期は六千年の歴史路程において、天の悲しい曲折が聖徒にぶつかる時です。人間の絆がみな壊れていき、信じられない環境にぶつかる時です。自分がどんなに良心的に正しく生きたとしても、その良心で自らの生涯を主張できない時です。み旨を抱き、考えのある者であればあるほど、眺めるあちこちに苦痛を感じる時です。そのような時が、終わりの日の七年大患難の時です。

 その時は、希望が揺れる時であり、私たちが信じている信仰の中心が揺れる時であり、信じて従った指導者が揺れる時です。主義はもちろん、宗教、良心、父母の心情までもすべて揺れる時です。

 では、神様はなぜそのような世の中をつくっておかなければならないのでしょうか。それは真の神様、歴史的に苦労した神様と同参したという価値を与えるためです。神様は六千年間数多くの惨状を見てきましたし、数多くの曲折を受けられたので、終わりの日においては良心とか、主義とか、信仰ということをもって中心を立てることのできない環境にぶつかるようにするのです。そのような患難の中でも「神様を愛する」と言う、そのような難しい場でも「神様と共に生きる」と言い得る真の息子、娘を探すために、そのような時が来るというのです。

 それゆえ皆さんは、教会が揺れるのを見て悲しむことなく、ある主義が動揺するのを見て悲しむことなく、ある主権者が倒れるのを見て悲しむことなく、自らの父母が変わったと悲しむことなく、自らの兄弟が変わり果てたと悲しまないでください。頼り、信じていた世の中のすべてが動揺しても、皆さんの心は平然としていなければなりません。神様は動揺せず、この時間も私を訪ねてこられるということを知らなければなりません。神様が私たちに苦痛を与えるのは、神様との貴い一日、神様が経てきた苦痛の因縁を私たちに結んでくださるための、大きな約束であることを知らなければなりません。そのような場で天を抱き締め、「一緒に行きましょう。共に闘いましょう。共に行動しましょう」と叫んで立つ人を探すために、そのような世の中が必要だというのです。

 ですから皆さん、進む道がふさがったと落胆しないでください。この国が乱れると気落ちしないでください。神様は死んではいません。この世界がどんなに乱れても、気落ちしないでください。神様は死んではいません。神様は必ず訪ねてこられます。すべてが動揺しても、天に対する一片丹心だけは動揺させないでください。天を頼って仰ぐ希望の心だけは変わらないでください。その心を変えようとするために、神様が皆さんをいかなる苦痛の場に追い込んだとしても、その場で父を呼ぶことができる心をもたなければなりません。いかなる場に落ちても、その場で天の心情のひもをつかんで上がろうと努力しなければなりません。地獄に落ちる苦痛を感じる恨があったとしても、父と共に参与する立場に立って父の苦痛を私が思いやって、その父は私の苦痛を察してくれることを信じて、そのような場でも行くという責任と義務を感じていくならば、皆さんは滅びないでしょう。

 今日、数多くのキリスト教徒がいますが、そういう信者が果たして何名になるでしょうか。私たちは父に侍るのに、天上の宝座に座っていらっしゃる父に侍るのではなく、死亡の波打つ中で真の息子、娘を探すために御苦労される父に侍らなければなりません。その父を私の父と知り、その父の事情を私の事情として、その父の心情を私の心情として、その父の願いを私の願いとして訪ねてこられる父の前に雄々しく立って、「あなたの息子を探すことがあなたの願いであることを知って、その息子を探し、あなたの歴史的な曲折を解くことが、あなたの事情であることを知って、失った息子を抱き締めて愛したいのがあなたの心情であることを知りました。どのような塗炭の苦しみと患難と難しさの中にあったとしても、私があなたの願いの実体であり、事情の実体であり、心情の実体です」と自信をもって立たなければなりません。このような者であってこそ父の息子であり、またその父に侍ることができる者になるということを皆さんは知らなければなりません。

◆真の仕える姿勢

 今日皆さんがこの場に訪ねてきたことは、栄光の中で空中に引き上げられて主に会うためではありません。天の宝座で数多くの天軍天使を率いて号令する、そのような父に会うためではありません。塗炭の苦しみの中で患難と闘い、苦痛と共に過ごされるその父に侍るためです。神様が公平な方なら誰を祝福するでしょうか。そういう者を祝福なさるというのです。

 では、皆さんの心が父に真に侍りたいとするならば、どのようにしなければならないでしょうか。
 皆さんが良く暮らしているからといって、良い環境で侍ることを望まれる神様ではありません。億万長者のような豪華な生活の中で侍ることを望まれるのではありません。では、どこから侍ることを望まれるのでしょうか。最も悲惨な場から侍ることを望まれるというのです。イエス様が十字架上で亡くなる直前、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ二七・四六)と言われましたが、死の場でも神様は会おうとされませんでした。死の場を超えて会おうとされました。なぜでしょうか。死亡線までサタンが侵犯したためです。イエス様はその死亡線上を超えなければなりませんでした。

 今日私たちが父と対面しようとするなら、人間が避けていくそのような苦痛以上の場で天に侍らなければなりません。そのような場で私が慰労してもらおうとするのではなく、かえって父を慰労してあげなければならないのです。私の願いのために父を呼んではなりません。父が私の願いを聞いてくれることを願う前に、私が父の願いを成し遂げなければなりません。父に会ったなら、「お父様、このようにしてください」という場に立ってはならないのです。困難な場で父に対したとしても、「私はあなたの前にこのようにいたします」と言って、父の前に差し上げようとする心をもたなければなりません。イエス様も、亡くなる当時に「我が神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」というこのみ言を聖書に残したことが、恨めしいというのです。天上に行ってみると、最後に父に対面して超えていくその場で、「お父様、栄光をお受けください」、あるいは「父の願いのみ旨を成し遂げ、感謝いたします」の一言でも言わなければならなかったのです。こういう言葉が、より素晴らしくないでしょうか。

 皆さんは、数千年間を一日のように耐えてこられたその父に侍らなければならない立場にあるため、皆さん一身の苦痛を苦痛だと考えてはなりません。苦痛だという考えさえ捨てなければなりません。皆さんが祈祷するとき、絶対に自分を中心として祈祷しないでください。「こういうことは私から避けるようにしてください」というような祈祷はしてはならないのです。「私が受けるこの苦痛が、あなたのみ旨の前にしかるべき苦痛とならしめてください」と祈祷しなければなりません。私がこういう境遇に置かれるようになったのは、すべて父のみ意があってのことであり、またみ旨の成就のために、という心をもたなければなりません。

 皆さんの根本観念を引き抜いてしまわなければなりません。今まで神様を信じる人々が、神様を一度でも慰労してあげたでしょうか。「何をしてください」とだけ言いました。こういうどろぼう根性がどこにあるでしょうか。そのように祈祷しては、どんなに祈祷してもかないません。私が祈祷してみると、そうではありません。「あなたが要求することとは何でしょうか」と、祈祷はこのようにしなければなりません。ところが堕落した子孫、罪を犯した群れは恵みを下さいとだけ言います。「あなたが願うこととは何でしょうか。私の体を通して願うこととは何でしょうか。私の一身が患難を経てあなたのみ旨が成されるならば、患難を経るようにしてください。恵みと栄光はあなたが受けて、罰と苦痛は私に与えてください」と、このように祈祷しなければなりません。

◆神様に差し上げる最大の贈り物

 統一教会の信徒は、光栄の場でのみ父に侍ってはなりません。先生自身がそのようにしています。最も悲しい場で訪ねてこられる時に侍ることができなければなりません。皆さんは、悲しい心を抱いて訪ねてこられるその父の心を抱き締めて、その心の対象者になり、父から「お前は私の息子であり、私の娘である」と言われる者にならなければなりません。根本的に違います。もし、神様が地獄の底から祝福をしてくださるなら、地獄の底までも訪ねていくという心をもたなければなりません。皆さんがそういう心をもって信仰の中心を立てていくならば、絶対に地獄に行きません。霊界に行ってみれば、「天国に行く」と叫んだ人々が思っていたようにはなっていません。世の中で何かを自慢した人々は、霊界に行っても自慢できると思っていますが、霊界はそのようになっていないというのです。

 父に侍りたいし、その父に私たちは侍らなければなりません。皆さんはその父が訪ねてこられることを待ち焦がれて、会うことを待ち焦がれたことでしょう。では、皆さんはいかなる準備をして、会うことを待ち焦がれたでしょうか。豪華絢爛な良い場を準備して会おうとしますか。天はそういう場で会ってはくれません。天が探しているのは良い場ではありません。天は血を流し、涙を流す場で会うことを望まれるということを皆さんは知らなければなりません。私たちが会うその父は、笑顔の父ではなく、傷を負った父です。その父は傷を負ったとはいえ、息子が傷を負ったのを見て温情の顔で慰労され、その息子を迎えるために来られるというのです。ここからひっくり返されるのです。そういう息子、娘は最高の場に、そうでない息子、娘は最低の場に立つようになります。

 皆さんは、父の前に差し上げなければならない贈り物がたくさんあります。たとえ持っているものがなく、持ったことがなくても神様に差し上げられる贈り物がありますが、それは世の中の人々が楽しむものではなく、血を流し、涙を流し、汗を流しながら、父の前に出る一つの姿を整えることです。それが苦痛の父、悲しみの父、悔しさの父への最大の贈り物です。

 み旨に従ってくる皆さんに、神様が金銀財宝を要求するのではありません。むしろ、同じ事情に処した者の手を握り、体をつかんで、悲しむ息子を慰労する神様だというのです。そういう場で父と呼ぶことができる者であってこそ、天上天下どこへ行っても、彼に対して抵抗する者がいないのです。神様の右側に座ってもよろしいというのです。そうでない者を神様の宝座に座らせれば、天軍天使と千万の聖徒、地上のサタンまでも讒訴するのです。

 それゆえ、真のキリスト教信者が行く道は、死の道です。真の信者が行く道は、苦痛の道です。真の信者が歩んだその道は、悔しい道であり、忍耐の道であり、悲惨な道でした。けれども決して悲惨なのではありません。悲惨な場で私たちと因縁を結ぶために訪ねてこられる天は、そういう場で私たちを冷遇することなく、むしろ厚くもてなして因縁を結ぶというのです。このような因縁は、天上に行って、永遠なる神の息子、娘として雄々しく立つことができる条件になる、ということを皆さんは知らなければなりません。

 それゆえ、皆さんは涙の谷間でお父様を呼ぶとき、応答を受けられる息子、娘にならなければなりません。涙があふれる場で、「お父様!」と言うとき、「息子よ、私はここにいるので耐え忍びなさい」、血の汗を流す苦痛の場で、「お父様」と言うとき、「私が耐えたのだから、お前も耐え忍びなさい」、死が差し迫るその瞬間でも、「私がいるので安心しなさい」という言葉を聞くことができる皆さんにならなければなりません。そのような場でどれくらい父に侍ったか、どれくらい父と共に相談したか、どれくらい父と共に生きたかが問題になるのであって、栄光の場で父を呼んだとしても問題にならないというのです。なぜなら、まだ父が栄光の日を御覧になっていないからです。

 今日までアメリカのような先進国家は、外的な使命をもって世界を主導してきましたが、今は下りていかなければなりません。お金の包みを担いて、かわいそうな民族を探して下りていかなければならないです。お金の包みだけでなく、心と心情ももって探して下りていかなければなりません。そうでなければ、他の民族がその使命を引き継ぎます。ですから援助せざるを得ないのです。ところで、お金だけ援助してあげればいいでしょうか。とんでもありません。世界のあらゆる国家を代表して、キリスト教理念を中心として立てられた国家である以上、アメリカはその理念の核心に心と心情をプラスして手助けしなければなりません。そうでなければ他の民族がその使命を奪っていくというのです。

◆統一教会員が行くべき道

 歴史的な思潮がこのように流れてきたのですから、このようなみ旨を知り、立ち上がった私たちはどこに行くべきでしょうか。栄光の立場に行くのではなく、悲惨な立場へ行かなければなりません。まだ七年の大患難が来ていなければ、現実において七年の大患難のような場所を探していかなければなりません。大患難が訪れる所とはどこでしょうか。人々が最も嫌う場から訪れます。世の中のあらゆる人々が好む場ではなく、最も嫌う場から訪れるので、そういう場で勝利する皆さんになるならば問題ないのです。

 歴史の思潮はこのような段階で動いてきています。共産主義が労働者、農民、かわいそうな者たちをつかんで事をしてきたがゆえに、急速な時日内に世界を揺るがすことができる段階まで来たというのです。けれども、それはあくまでも外的なものです。天情をもってそのような場に立ったのではなく、人情をもってそのような場に立ったのです。天情をもってその場に立つことができなかったので、今後世界を支配しようとするなら、天情をもってそのような場に立たなければなりません。そうなれば、この天地はひっくり返るでしょう。

 それゆえに、統一教会の信徒が訪ねなければならない道とはどのような道でしょうか。いわゆる人間が叫んでいる、「平和の旗が翻える」と主張する、そのような場ではないのです。人間が最も嫌がる場、人間が最も避けていく場を訪ねなければなりません。どのような姿で訪ねるでしょうか。六千年間訪ねてこられた父の姿に代わって、訪ねなければなりません。私たちが涙を流すとき、共に涙を流されながら、涙を流す私たちを慰労しようとする父であることを知らなければなりません。

 したがって、皆さんは涙を流すその心情を抱き締めて、皆さん自身がたとえ涙を流す場に置かれたとしても、涙を流すかわいそうな者を抱いて「泣かないでください。あなたの行く手には希望があるから泣かないでください」と慰労しながら、彼らに幸福を、彼らに希望を、彼らに事情を、彼らに心情を伝えてあげられる群れにならなければなりません。そうしてこそ、天の相続を受けることができます。天地の相続を受けることができるのです。それでこそ、天と地の権勢はもちろん、地獄の権勢までも支配できるのです。

 ですから、私たちは行かなければなりません。歴史的な思潮が私たちの目前に迫っているのが事実なら、皆さんは行く先々に、心と、み旨と、精誠とをすべてもっていかなければなりません。心と、み旨と、精誠とをもって行く所では、いかなる問題もすべて解決できます。世の中の問題が解決できるというのです。その他のことは問題ないのです。皆さんは父の代わりに行くからには、そういう立場を訪ねたときに人々の心を知り、人々をつかむことができなければなりません。そうしてこそ神様の真の息子、娘になることができるのであって、そうでなければ皆さんは真の神様の子女になり得ないのです。

 皆さんが行く苦痛の道は、戻っていく道です。少しの間です。希望をおいて目的に向かって進む道ではありません。希望の向こうから戻る道です。少しの間です。私たち統一信徒はこの民族に代わって、この民族が行けない道を行かなければなりません。行くには何を中心として行かなければならないのでしょうか。天情を中心として、神様の心情を中心として行かなければなりません。そうすれば、皆さんは世界を支配するでしょう。

 皆さんが叫んでいる理念と、皆さんが置かれているその位置と、皆さんが誇っているその価値が大きいとしても、それらは天宙的な価値以上の価値と因縁を結ばなければなりません。その因縁はどこから結ばれるのでしょうか。極めて悲惨な場から、極めて難しい場から、極めて悲しい場から結ばれるのです。そういう場で父と因縁を結んで、悲しみを無視することができ、悲しみを消化することができ、悲しむ人々を慰労できる人が、真に父に侍る者なのです。

 そういう心をもって行く人ならば、絶対に苦痛は長く続きません。絶対に滅びません。たとえ身は苦痛に当面しても、その場を超えれば無限な自由の世界が広がるのです。今はそのような場を超えるべき時代的な転換期に置かれているために、皆さんは必ずその場を超えなければなりません。

 それゆえ、皆さんは父の心情を抱き締めて、父の事情と、願いの実体として苦痛の開拓者となり、悲しみの開拓者となり、困難の開拓者となって、その道についてくる人々を慰労できる皆さんにならなければなりません。そのようにすれば、皆さんは間違いなく天の息子、娘になるのであり、全世界を代表するのです。また、この民族がそのような民族になれば、数多くの民族を代表して天の祝福を受ける民族になるということを知って、そのような場で父に侍ることができる皆さんになるようにお願いします。


















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