文鮮明先生のみ言集
訓教経(上)


人類の結実

一九六二年十月二十八日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第百五十一巻』


 今日この地上の、堕落した人類始祖の子孫である私たちは、多くの刈り入れの日を迎えてきました。春に種を蒔けばそれが真夏を通して育ち、秋を迎えてその結実を自分のものとして刈り入れてきました。そして刈り入れたその結実を収め、再び植えることのできる日を待ってきました。

 このように人間は刈り入れの喜びと、蒔く喜びを味わいましたが、神様はいまだ刈り入れの喜びを味わっていません。その蒔いた種から、望みの刈り入れの日を神様はもつことができなかったのです。

 このことを考えてみるとき、刈り入れの結実に接するごとに、皆さんは過去に刈り入れたのと同じ立場で刈り入れてはならないというのです。私の手で刈り入れた一束の穀物、一粒の種は、この天地万物を創造された父の願いを私が代行するという立場に立って刈り入れ、蒔くことのできる皆さんにならなければなりません。そのような心情的な基準を整えられなければ、神様から喜ばれる人にはなれないのです。

◆本然の真の先祖をつくっておこうとするのが救援摂理

 今日人間も、一つの種を蒔き、その種が育ち、一つの結実を収めるのと同様な歴史路程を経てきています。神様がエデンの園に私たち人類の始祖であるアダムとエバを創造し、種として蒔いておかれました。そのアダムとエバが育つ過程で花が咲き実を結ぶべきでしたが、その過程で折られてしまいました。それが堕落です。

 それゆえに、神様が種を蒔いたけれども取り入れられない結実の因縁を抱いて、今日まで再び蒔くことができる望みの一日を日久 月 深(注:願いごと、恋しさなどが歳月の流れとともにますます強くなる様子)の思いで、忘れずに願ってきた日が審判の日です。

 審判の日は、人類の収穫の日です。人類が今まで、蒔こうとしたものが、育っている途中で折られてしまったので、これを神様が生かす役事をなさろうというのです。すなわち、今まで神様は世界に散在している数多くの人類の代わりをすることのできる、二つの結実的存在を刈り入れるべき望みの一日を立てて歴史を導いてきました。その日が正にキリスト教でいう再臨の日です。

 今日キリスト教徒は主を新郎と言い、自分たちは新婦であるということを知っています。主が来られるならば婚姻の祝宴が行われ、新郎新婦が現れて「小羊の婚宴」をすると思っています。その日がまさしく、神様が本来の創造理想を立て、種を植えて花が咲き、実を結ぶことのできる一つの因縁を立てようとした日です。

 それが壊れたために神様は六千年の間、血と涙と汗を流してこられました。そうして終わり日に至り一日を立てて、ここにそういう本然の真の先祖となる夫婦をつくっておこうというのです。それが救援摂理歴史であり、復帰歴史であり、終わり日の審判歴史なのです。

◆大審判のとき

 そこで、きょう皆さんに話そうとするのは、正に「人類の結実」という主題です。

 今日この時はどのような時でしょうか。大きい波がぶつかり、ここに一つの波が突き入ることのできるのが終わりの日です。終わりの日とは、地上で起こる思潮の恐怖が問題ではなく、この思潮の恐怖をせきたてて超えることができる高気圧的な台風圏が来襲する時なのです。

 というのは、この地上の人類は堕落した始祖の子孫であるゆえに、正しくない種になっているので、これを取り除かなければならないというのです。それゆえ、聖書を見れば、雑草や穀物という言葉が出てくるのです。神様の救援摂理から見るとき、本来は神様が穀物を植えたのに、サタンがこれを雑草にしてしまいました。そのため今日この地上に生きている人々は、雑草のような立場に落ちているのです。

 それゆえ修道の道は、自己否定の道です。体を打つ道です。このように世の中を否定することから修道は出発するのです。ここで否定の度合いが強ければ強いほど高次的な宗教です。そうして、最高の心情世界まで否定して進むようになれば、最高の宗教になるのです。

 ですから道人たちは、人生行路において逃走者でした。皆さんがそのような生活をしてみれば実感するはずです。道人たちは、寝ても覚めてもこの世をどのように突破しようかということが骨身にしみる心でいるのです。そういう道を開拓するのが修道の道であり、その道を行くようにと叫んできたのが神様の事情なのです。

◆サタンの鉄条網を除去するための行事が正に大審判

 神様の事情とはどのようなものでしょうか。神様がその鉄の窓を切って入っていき、むちで追い出すようにはできません。人間がそのように鉄の窓を作ったので、人間はそれを越えて出てこなければなりません。その鉄条網を切って出てくる人がいなければならないのです。そのような人がいないため、今まで人類はあえいでいるのです。その鉄条網をみな撤去する日に、人間はよみがえるのです。その日が正に大審判の日です。

 審判というのは、今日キリスト教でいうように、全部焼き殺してしまうことではありません。鉄条網を取り除いて、行きたい所に行きなさいというのです。豆粒ならば豆俵を探していかなければならないし、米粒ならば米俵を探していかなければならないし、粟粒ならば粟俵を探していかなければならないように、同じ者同士探していきなさいというのです。

 それゆえ、今日の世界終末時代において、文化は同じ者同士が集まる文化です。思想が違えばその民族を離れて、思想の同じ同志を探していくのです。自らの専門分野が貴ければ貴いほど、自分が今まで育った環境的な基盤が貴いほどそれを退け、自分が専門にしているその分野を探していくのです。

 ところが、今日この世界は鉄条網で遮られています。この国から他の国へ行こうとすると国境があるのです。それを誰が張り巡らしたのでしょうか。それは本来、神様がつくって置いたのではなく、人間がつくって置いた鉄条網です。この鉄条網を撤廃する運動を繰り広げなければならないのです。

 それゆえ、個人と個人が対する日には戦いが起きるのです。個人闘争時代においては個人の鉄条網があるのです。その次に、家庭を中心とする闘争時代においては家庭の鉄条網があり、氏族、民族、国家にはそれぞれの鉄条網があるのです。

 それで真を追求する人々や世界的な大学者たちは、世界的な専門分野、あるいは世界的な歴史を探しているのです。世界的な歴史を探すことにおいては、今日の人間を中心とするような歴史を探すのではありません。ここにより高く、より大きく、より無限の理念的な内容を基盤とした土台を準備することのできる、そのような歴史的な因縁を探しているのです。それを私たちは探し出さなければなりません。

 そのような歴史的な背景を探して、その背景を中心として出てきたもう一つの根源地を明らかにして、「その歴史的な背景がなぜこのようになってきたのか、そうであるとすれば、この時代とどのような関係を結んできたのか」と、このように問い掛けながら、その時代に関係を結んであげるのです。そして、その時代からどのような時代へ行くべきか、という世界へ案内するのです。一つの人類歴史がそうならば、一つの文化もそうです。一つの政治、思想、すべてが同じです。一つの理念的な和合に向けて走りゆくのです。

 このように考えてみるとき、外的に今起こっていることはなぜこのようになったのでしょうか。これは私一人の力で起こってきたのではありません。静かに考えてみると、私たちは知らないけれど、歴史にはある何かが、どうすることもできない背後の力があるというのです。こちらに行けば襲いかかってあちらに行くようにし、あちらに行けば襲いかかってこちらへ来るようにして、歴史を暴いてみると、それが一方向に向かってはっきりと進んでいるというのです。

◆心情を中心とした宗教になってこそ

 では、いかなる歴史を中心として世界が収拾されるのでしょうか。これを推し量ってみるとき、その内容と及ぼされた因縁が広くて大きい歴史観をもった民族ならば世界を支配するはずだ、という結論が出てきます。こういうことを考えてみるとき、今日の歴史はアメリカを中心にしたものでもなく、ソ連の歴史を中心にしたものでもありません。今日の文化世界、この世界はどのような歴史でしょうか。キリスト教歴史を背景にした、文化歴史世界だという結論が出てくるのです。

 今日、何らかの形態を整えて自分の民族国家を動かすことができる背景は、すべて宗教的な背景になっています。このように考えてみるとき、今日の人間歴史は人間個人の歴史を中心にしたものではなく、宗教的な思想を基盤とした、歴史的な収拾目的に向かって時代が因縁づけられていて、未来も因縁をもっていかなければならない運命の途上に処しているということを知らなければなりません。

 では、世界はどのような世界になるのでしょうか。世界は一つの世界になるのです。また主義は一つの主義の世界になります。今日多くの哲学者がいますが、その時代にはそのようなものはみな壊れるのです。心情哲学、このように話すことができる哲学者が出てこなければなりません。また、宗教は心情宗教が出てこなければなりません。思想も心情思想、心情主義をもって出てこなければなりません。

 では、その心情はどこから出てこなければならないでしょうか。根源をもってして根源になることができるのです。今日この地上に生まれた人々は人間先祖の子孫であり、六千年が過ぎましたが、心情は六千年前と同じです。また、神様と人間との心情も同じです。心情の根拠地は一つです。

 それゆえ、今後教理的な教本をもって闘争する宗教時代は過ぎ去ります。宗教は、心情を中心にした宗教にならなければなりません。

◆メシヤとは、心情のよりどころを準備し得る人格者

 イエス様はこの地に来て、「私はメシヤである」とおっしゃいました。最高に良い意味で話されました。あえいでいる人間の前に「すべての重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ一一・二八)とおっしゃいました。それは、どれほど素晴らしい言葉でしょうか。

 また、「救い主である」とおっしゃったのですから、人類の中には「自分しかいない」ということではありませんか。その言葉は、数多くの人間が生きているけれども、自分だけしかいないという意味です。「私は人類の希望の本体であり、人類の生命の本体であり、人類の根源の根源体である」という意味です。それでイエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ一四・六)とおっしゃったのです。

 それ一つだけをもってしても、イエス様は救い主の資格があると先生は考えます。奇跡や不思議な事跡はさておいてもそうです。それだけ間違いないならば、彼はメシヤです。救い主です。彼は、堂々と人類に代わって一つの総結論を下すことができる度胸をもって、手を挙げて叫んだのです。

 その次に「わたしは『神の子』(ルカ二二・七〇)であり、『神のひとり子』(ヨハネ三・一八)である」とおっしゃいました。ひとり子というのは、あなた方は息子ではないということです。それは対象的な否定ではなく、相対的な否定でもありません。絶対的な否定です。

 また、その次に人間に対して御自身を「新郎」で象徴され(マタイ九・一五)、人間を「新郎」に仕える「おとめ」(新婦)として象徴しています(マタイ二五・一〜一〇)。烈女になりなさいというのです。聖書を見れば、新郎であるイエス様は準備していません。「ただひたすら寝ないで休まないで祈祷して、精誠を尽くしなさい」と言ったのであって、新郎が来てそうしてくれるという言葉はないのです。すべて新婦が準備するようになっているのです。

 また「わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。……わたしはあなたがたを友と呼んだ」(ヨハネ一五・一五)。また、「わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう」(ヨハネ一四・二〇)とおっしゃいました。

 それを考えてみると、心情的な内容を中心としてイエス様がこの地に来られたとき、どのような使命をもってきたのか分かります。宇宙的な大家族の一つの基準をもってきたのです。メシヤがメシヤとしての使命を完結して、メシヤがメシヤとして人類の前に必要な存在になろうとするなら、この心情的な基盤の上にすべての条件を具備して、希望的な心情の土台を準備することができる内容の人格者でなければなりません。そうでなければメシヤになることはできないのです。

 そのような見地から考えてみるとき、その方がメシヤにならざるを得ないのです。もしこういう人を「メシヤでない」と言うならば、先生はどのような恨みがあってもメシヤにしたいと考えています。

◆世の中で認められる人にならねば

 キリスト教は他の宗教のように一つの垣根の中にあって、自分の一家や種族を中心として喜ぼうというのではありません。万民が私の息子、娘であるというのです。

 その次には、イエス様は死にながらも「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ二三・三四)とおっしゃったのです。これがメシヤです。もし、イエス様が罪を他人に負わせようとしたなら、偽りの預言者になったことでしょう。

 それでは、それは何を通して話したのでしょうか。それは、世界的、歴史的な因縁を通してです。真理を宣布した自分の時代を超越し、男の一念を立てて天宙的な因縁を結ぶためでした。イエス様はそのための生活観を立ててきたのであり、生涯的な闘争路程を積み重ねてきました。その最後の結末の途上でイエス様が願う心も歴史的なものでした。

 イスラエルは反逆者です。神様が数千年間苦労して血涙を流しながら準備してこられたイスラエルがイエス様を殺そうとするのを見たとき、イエス様はイスラエルの人々を呪ったのです。非難を浴びせたのです。「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたはわざわいである」(マタイ二三・二七)と言ったのです。

 しかし、ローマの名においてイエス様を槍やむちで追いやった彼らをイエス様は許してあげました。キリスト教が異邦人の民族を通して世界的な土台を築いてきた因縁も、そこから始まったのです。

 そのような歴史的な起源を暴いてみるとき、やはりイエス様が話したことは世界的な因縁をたどったみ言であり、今日それが名実共に世界的な宗教として登場するようになった原因もそういう内容に起因しているのです。キリスト教にはこういう内容が備わっているので、今日数多くの宗教の中で最高のものとして残る宗教になり得たのです。

 皆さんにお金がたくさんあるとしても、心情を中心として対することのできる人ならば、お金は必要ないのです。「何千億のお金を今あげる」と言われて、自分が愛する人と換えることができますか。「天地をあげるから換えよう」と言われても、換えることができますか。それはできないのです。

 イエス様は「一人の生命は宇宙以上に大きい」と言いましたが、今日このサタン世界は罪悪でいっぱいになっているというのです。イエス様が、「一人の生命は宇宙以上に大きい」という価値を設定した基準は、心情世界で切ろうとしても切ることのできない因縁に連結された一人の人間について言ったのです。すなわち、御自身について遠回しに言った言葉なのです。心情的なそのような因縁をもっている自分の父母を、天地をもらったとしても売ることができますか。自分の息子を天地をもらったとしても売ることができますか。

 否定の道理において、家庭から世界舞台まで否定の闘争路程をたどり、否定したと認められ、否定したことを再び探し出したという決定を受けてこそ帰ってくることができるのです。今人間はそのような運命であえいでいるのです。

 そのようなことを考えてみるとき、今後必ず残り得る宗教は心情的なものでなければなりません。また、今日の国家主権の理念もそうでなければなりません。世界のいかなる主義、思想もその基準に行って「これでよし、我が家が一番である」と言うことができます。旅人が旅行がどんなに良いといっても、家を離れれば大変疲れるというのです。自分の家ほど楽な所はありません。我が家が一番です。お母さん、お父さんと息子、娘がいて、妻がいて、みそ汁を作って麦御飯を食べても、それが一番だというのです。

 そこで麦御飯を炊いて暮らしても、そこを静かにのぞいて見れば、食べるものはたとえ粗末なものだとしても、サタン世界の人々とは違うものがあるのです。また、違わなければならないのです。

 今日労働者の家庭で豆一粒を中心として食事をするようなみすぼらしい生活をしていても、一国の大統領が「あなたをおいては生きられない」と言うようになるならば、その場がホワイトハウスよりも立派になるのです。天地を創造した神様も同じです。たとえ一杯の水を置いて御飯を食べる場でも、神様が「君なしでは生きられない」と言う場は、世界で最高に幸福な場なのです。

◆神様は最後に残る宗教の主人

 道人の中には欲張りな人が多いのです。道人たちが祈祷するのを見れば、「神様、私の所に来てください」と、こう言うのです。それは悪くはありません。それを神様は好まれるのです。神様は、最高の投機心をもち、最高の冒険家です。人間がいかに投機事業家で、冒険家だといっても、神様にはかなわないのです。

 そのような神様に「私の暮らし向きがこのようになりました。でも、父なる神様がいなければなりません」と言うとき、神様が「そうか!」と言えるようにしてさえおくならば、その人は最高の勝利者になることができるのです。

 「お前が死の境地に処するときは私が保護し、お前が戦うところでは私が戦ってあげ、お前が生きるところで私も生きる。お前が泣けば私が泣き、お前がわびしいときは私もわびしいところに一緒に行く。私はお前が死んでも共に死に、生きるのも共に生きるのだ」と言える、「麦御飯やみそ汁を食べられなくとも、共に水を飲む」と言える、環境に生きるという人が一人でもいたなら、今日の世の中がこういう姿にはならなかったでしょう。

 神様は恨が多い方です。憤りと号泣がしみた神様です。私たちが信じている神様は、今まで栄光の神様であると思っていたのに、その神様は恨の神様なのです。私たちが信じ、私たちを率いてこられた歴史的な神様は、悲しみの神様であり、苦痛の神様です。

 「父よ!」と言うときには胸がしびれてきて、そのように考えるとき、腹痛が行く手を遮るのです。涙が目頭をぬらし前をふさぐ、こういうわびしい道を尋ねてこられた神様です。

 この地球上には神様の足場が一箇所もありません。皆さんが息子、娘を生んで自分の家庭を中心として「いいな、きょうは寒いから火をもっとたこう!」というような場は、神様が共にある場になり得ません。我が家が、私の社会が、私の国家がそうであり、私が生きている世界が、天地がそうであるため、神様は最もかわいそうな神様であられるのです。

 このようなことをそのままにしておいて、神様だけが永遠に分かれて生きるようにはなっていないのです。本来の創造原理がそのようにはなっていません。

 神様は人間が飢えても共に飢え、寒くても共にあり、うれしくても共に喜ばなければならない内容をもって創造されました。人間がそのように生きるのを見るとき、神様の心情はどうでしょうか。

 このように生きることは、人間も間違ったのですが、その原因は怨 讐にあります。ですから、審判は怨讐を一つ捕まえようというのです。人を捕まえようというのではありません。

 私がどれほど怨讐の前に苦しめられたでしょうか。怨讐の前にどれほど血を奪われたでしょうか。怨讐の前にどれほど悔しい思いをしたでしょうか。どれくらい号泣したでしょうか。私の体には怨讐のむちの跡がどれほど残っているでしょうか。先生の背中には怨讐の槍の跡がどれほど残っているでしょうか。私の胸には怨讐の矢の跡がどれほど残っているでしょうか。心情の道理を立てなければならない神様は、最後に残る宗教の主人なのです。

 天宙の理念的な基準が心霊の世界を立てておかなければならない、そのような因縁を中心に結ぶようになれば、その方は誰から探し出すのかといえば、かわいそうな者から探し出すのです。「あなたを探し出すために夜寝ることも考えず、手が裂けようと、脚が裂けようと、非難を受けようと、体がどこに行って打ち込まれて死のうと、私は知りません。死ぬとき、あなたの前に誓いながら私の人生の道理を尽くし、忠誠をすべて尽くして探し出すことができなかったなら、父であるということを遺言してから死にます」と言うことのできる群れを残すためなのです。

◆結実の地に向かって歩んでこられた神様

 神様が最も悲しいお方です。皆さんはこれを知らなければなりません。最も悲しいお方です。あなた方が、死んでいく母親がかわいそうだと泣くことよりも、神様はもっと悲しいお方です。善を主張している途中で、あらゆる万民が公認するその場において民族の反逆者として追い込まれて、恨めしく死ぬ人よりも、もっと悔しいお方です。最も悔しく、かわいそうな、そのような名詞をもった主人公が神様です。それを実感するように教えなければならないのが宗教です。

 お父様(神様)の服のすそは栄光に合わせて着たような、そのような服のすそではありません。血の汗に漬かったすそです。それは、あなたの息子、娘が手でつかもうとしてもつかむことのできない、血のにじむ指で作ったすそです。そのくつは、いばらの道をかき分けてきた数多くの闘争歴史で傷を負った、そのような歩みの込められたくつです。彼の肉身は、ある個人が死んで個人の恨を探して倒れるときに、代わりに打たれて出てくるのです。彼は一民族を立てて、多くの民族が倒れるようになるとき、また民族が裏切るようになるとき、代わりに打たれるために闘争される方です。これは恨めしい事実です。

 私たちが信じて進む神様は、このようにかわいそうな神様です。ですから、人類解放を主唱しないで、神様を解放しようというのです。それが先生の思想です。

 では、その神様をどのようにするのでしょうか。私たちが小さい城でも一つあって、そういう場に行って神様を安心させてあげなければなりません。そこで野生のじゃがいもを植えて食べる恨があっても、そこで水をくんでおいて暮らす恨があっても、その父にとりすがって限りなく泣いてみたい、そのような道を探し求めなければなりません。

 そのためにさまよう人々が、真の修道の道を行く人々です。天地を創造された大主宰、主人公が大きく笑って踊りを踊らない限り、天下が喜べるはずがないのです。

 ある主権者がいて、その主権者が物思いに沈んでいれば、その主権者の統治下にいるすべての群れは悲しいのです。それが世の中の道理です。神様が悲しんでいらっしゃるのに、人間が喜べるわけがないのです。ですから道人たちは「苦労しなさい、泣きなさい、号泣しなさい、死の場にあっても耐えなさい」と言うのです。

 個人を生かすために個人的な闘争路程で、個人の死の峠を越えて、家庭を生かすために家庭的な闘争路程で家庭の死の峠を経てきたし、家庭から民族、国家、世界を経て人類、そして天宙の途上まで歩んでいかれる神様を見なさいというのです。神様を仰いでみなさいというのです。

 その方は世界的な闘争の先鋒を行きながら、残忍なサタンの数億、数千万の矢を独りで受けてこられた方です。受けてはまた行って、疲れてはまた行くというのです。なぜですか。誰を探すためでしょうか。失った息子を探すためです。サタンも本来は神様の息子、娘です。母親が生むときは神様の息子として生んだのですが、怨 讐の世界へ行ってしまったのが堕落です。この怨讐の金網を切ってしまわなければなりません。そういう捕虜収容所のような所が、正に地上地獄です。

 それゆえ、今まで善を主張してきた人、良心を立てて、真理を探究する人、そのような人々はどこの誰をも問わず、この世を変えてみようというのです。否定して進んでいくのです。否定の中に真実を尋ねてきて、今でもそのように進んでいます。

 私たちが神様に侍ろうにも、私たちの父には世の中に畑一坪もありません。家一軒もありません。洋服を着ているのではありません。じゃり畑に倒れた穀物の話だとか、あるいばらの畑に落ちた種の比喩だとか、道端に倒れた比喩のようなものは、みな神様が経てきたのです。

 道を造るためには、道端を守ることができる神様にならなければならず、じゃり畑を耕すためには、じゃり畑を守る神様にならなければならないのです。いばらの道において種を植えて育てようとするなら、いばらの畑を守る神様にならなければならないのです。そのような道端から、あるいはじゃり畑からいばらの畑を経ていかなければ沃土を探し出すことができないのです。これがみな心情世界です。天の曲折を語ったものなのです。

 道で探しさまよう神様を知らなければならず、じゃり畑の中を探してさまよう神様を知らなければならず、百倍の収穫と沃土を探してさまよう神様であるということを知らなければならず、いばらの畑の中から沃土を探してこられる神様を知らなければならないのです。そうして一番最後の日になって、一つの沃土を準備して三十倍、六十倍、あるいは千倍のこういう収穫の土地、そのような結実の土地に向けて神様は歩んでこられたのです。

 このような父を私たちが知り、その父に侍ることのできるようにするためのもの、侍ることのできる道理を教えてくれるためのものが宗教なのです。

◆直系の場を相続しようとするなら直系の父母が来なければならない

 今後、あなた方の宗教が最後の心情の世界を連結させ得る宗教であるならば、神様が最もかわいそうな方であるということを細密に教えてくれる宗教です。神様が良くて立派だというのではありません。哀れで悔しい神様、憤怒と恨にあふれた神様です。これを細密に教えてくれる宗教が出てこなければなりません。それでこそ親孝行者になることができるのです。

 皆さんの中に父母の事情を知らない者は、どんなにおいしいものを食べさせても親孝行者にはなれません。今、父親が泣き、母親にすがりついて号泣するという環境であるのに、「そんなことを言わないで肉を食べてください」と言えば、食べられるでしょうか。肉を食べてもらおうと思えば、まずその事情を母親、父親より深く理解する息子にならなければならないのです。

 母親、父親よりその事情をよく理解している息子が父母を愛する心に徹して「お母さん、お父さん、それでどうしますか。お願いですから、私を立ててでもそうしてはいけません」と、このように言えば、「そうか、そうしよう」と言うことは可能ですが、その内情も何も知らずに「これを食べて、泣かないでください」と言っては駄目なのです。

 あなた方が悲しい神様を知らないときには、解放してくれる神様を知らないし、審判する神様を知らないのです。歴史的な神様の心情に通じることができる人が出てきてこそ、歴史的な宗教の使命をみな果たすのです。時代的な神様の心情を教えられる、そのような宗教が出てきてこそ、時代的な宗教の使命をみな果たすでしょう。未来的な神様の心情を教えてくれ、そのような心情に通じることができるようにし、その心情に代わって神様を慰労することのできる宗教をつくってこそ、その宗教が終わりの日に残る宗教となるでしょう。

 神様が人間を創造するときに、六日間で創造したすべての万物は、人間一人を探し立てるためのものでした。この全天下を主管するようにするための、その人間一人の自由舞台を造るために創造されたのです。今日、神様が造られたのは真の息子、娘、すなわち、人類の収穫の結実として刈り入れることのできる真の父母でした。人類の真の父母です。皆さん、真の父母を失いましたね。みな偽りの父母の息子です。この怨 讐の血を受けて生まれた息子です。

 ここで神様の心情の実体、神様の事情に通じることのできる実体、神様の望みを成就できる実体、そのような実体が必要なのです。これは歴史的な神様と同伴できる心情の因縁をもった人であり、時代的な心情と神様の天の心情と同伴できる心情的な因縁をもった人であり、あるいは未来的な神様の心情と同伴できる因縁をもった、そういう方です。

 したがって、すべての人間がみな孤児です。お母さん、お父さんはいるけれど、サタン世界のお母さん、お父さんです。血統的な因縁が違います。それゆえ私たちは、僕の息子です。しかし、実は僕の息子にもなれないのです。それで養子になるのです。

 怨讐の僕としてしか取り扱われなかったものを、僕として取り扱い、僕の因縁を立てて、養子の因縁を立ててきたのが摂理歴史でした。それで、キリスト教が今養子になるというのです。「あなたがたは……奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしは『アバ、父よ』と呼ぶのである」という内容がローマ人への手紙第八章にあります。養子になるためにあえいでいるのが今のキリスト教徒たちです。養子になって、それでいいでしょうか。養子から直系の位置を相続しなければなりません。この直系の位置を相続しようとするなら、直系の父母が出てこなければなりません。

 父母を失った堕落した人間が、反対に落ちたので、その反対に訪ねて上がっていかなければならないのです。僕から、養子から、その次には兄弟を立てて子女の位置に上がって、そして父母の位置まで上がらなければならないのです。

◆神様の願いは世界的な結実を収めること

 今後、終わりの日に人類の刈り入れの結実として現れる方がメシヤです。そのメシヤは、人類の総結実の実体です。孤独な神様が六千年間涙を流し、探してこられた一つの実体です。神様がひどい傷を負いながら闘争し、探してこられた一つの実体なのです。彼を立てて自らの理想とする理念を実践するための希望の実体であり、彼を立てて生活するための生活の実体であり、彼を立てて永遠無窮に安息するための心情の実体なのです。

 その方は神様の息子、娘であると同時に、神様が手放すことのできない方であると同時に、人類が失った真の父母です。来られる主によって、父母をなくした孤児のような人類が真の父母を探し出して、神様を中心とした本来の基本的な足場をこの地球上につくり、出発するようになればそれが新時代です。その時、初めて新しい天と新しい地が始まるのです。

 今日この世界を見つめてみるときに、この世界はサタンの手中に置かれています。それゆえ、外的な形はありますが、人間を創造していない世界と同じです。六千年の文化世界を発展させて、外形的に一つの完全な神様の息子、娘が生まれれば、良く生活できる環境を磨いて入ってくるのであり、この内的な世界においては、アダムの子女を育ててくるのです。

 カインとアベルの時も、ノアの時にも、人間はアダムの子孫でした。六千年ぶりにアダム一人を育てたのです。それが復帰歴史です。今日、地上に神様の創造理想で立てた真の父母となることのできる夫婦を、一人の子女を立てて置くことができなかったのです。

 真の父母と神様を中心とする大家族理想主義社会が、地上天国です。今後、世界はそういう世界に向かって進んでいくのです。

 今日、文化もそのような方向へ行っており、またすべてがそれによって審判を受けるのです。心情的な面において、今日の民主主義思想は、それをどれだけよく表現したでしょうか。その表現したすべては文化財ではないでしょうか。ここにおいて、歴史的な価値が決定されるのです。

 今後こういう一つの心情世界が出てくれば、必ずこういう宇宙的な結実体として歴史的な結実の家庭が出てくるはずであり、このような歴史的な家庭の基準が出てくると同時に、氏族の基準が現れ、民族と一つの国家が出てくるのです。そのようになる日には、天下は息を吹き返すのです。

 では、神様は何を願われるのでしょうか。一つの結実を立てて何をするのでしょうか。世界的な結実を収めるのです。百倍、千倍繁殖して何をするのでしょうか。この世界をすべて抱こうというのです。そのような父だというのです。皆さんがこのような見地から考えてみるとき、今日私たちが行く道において何をしようとしてここに集まってきたのかというのです。

 燦爛と美しく花が咲き、結実する秋の季節が近づいてきました。近づいてきたので、皆さんは死んだ野生のオリーブの木をみな切ってしまい、秋になる前に接ぎ木して再び繁殖しようというのです。これが復帰です。

 そのような力を起こすことができるのが最後の宗教です。イエス様も「誰よりも私を愛しなさい」と話しました。妻や息子、誰よりも私を愛しなさいとおっしゃいました。

 全部否定しなさいというのです。そうかといって、永遠にではないのです。これを切って接ぎ木すれば、切ったその枝は残しておきます。しかし、根は別の枝を持ってきて接ぎ木をするのです。少しだけ耐えれば、その価値以上の木に接ぎ木をされるのです。神様は損をする商売はされないというのです。

◆私たちは神様が泣くことができる収穫の結実体

 このような見地から見つめてみると、今後、私たちはこの歴史途上での一つの実体を探し出さなければなりません。私たちはどのような文化世界を望んでいかなければならないでしょうか。このような理念的な見地から神様の心情を紹介し、メシヤの心情を紹介し、キリスト教の間違いを、神様が摂理した歴史的な心情を通して紹介できなければならないのです。

 このような文化的な歴史観をもってこの時代的な世界を収拾することが、天下世界に広がっているキリスト教の使命です。このような使命を果たさなければならないのが、キリスト教以外の数多くの宗教の使命でもあるのです。

 では、これらを統一しようとするならばどのようにすべきでしょうか。心情的な問題においてすべての事情を分かってあげ、またあらゆる望みと一致できる一点を立てなければなりません。そのようにする前には統一することができません。

 皆さんは自分自身は不足であっても、天のためにという希望と事情がなければなりません。ですから、そのような場に入っていけば入っていくほど、「父よ、もっと骨が折れるようにしてください!」と、深く入っていけば入っていくほど、もっと深くならなければならないのです。知ってみて私が泣く立場になってみると、泣いている私の立場よりも、もっと泣いた父が私を慰労する立場にあるというのです。

 私よりもっと悔しくて、私よりももっと哀れで、私よりももっとわびしい神様ですが、皆さんはその神様の前に「神様、このふろしき包みをみな引き受け、私の罪を赦してください」と、そのように祈祷するでしょう。「福を私に下さり、難しいことはあなたが受け持ってください」と祈祷する、そのような不孝者がどこにいますか。親孝行しようという人が、そのように祈ることができますか。

 親孝行者が「父よ、酒を飲もうが、どのようになろうが、死のうが知りません」と、それではいけません。私たちは父のために裸にならなければならないのです。裸になった体で、あざのできた神様を探し出して忠誠を尽くそうという、そのような心が、どの時代の信仰する人よりも切実でなければならないのです。そうなれば、神様が私たちに引かれてくるというのです。そうすれば、そのような民族に再臨主が来ることができます。

 そのような忠誠心を一生の間、また何代まで引っ張っていくことができますか。忠誠心があれば、引っ張ってきなさいというのです。それゆえ、私たちはこういう世界に向かって探し、外的な世界を収拾して、サタン世界といえども環境的な生活舞台において、神様を中心とすべきです。民主陣営であるキリスト教の理念圏内で外的な整備をしていき、ここに心情的な内的な直系の息子、娘を立てて相続させるための日が、審判の日です。「何もない」と言って落胆するのはやめなさいというのです。

 こうして父に会うようになるときには、どこで会うのでしょうか。「私はエルサレム聖殿で位置を占めて、大きく号令するとき父に会います」と、それは不孝者です。皆さんは父にどこで会わなければならないでしょうか。ゲッセマネの園の上に現れる父に会わなければならないのです。「十字架上のイエス様を見つめて泣かれたその父にすがりついて、十字架の途上において訪ねて涙を流す、その父にすがりついて号泣できる場で父に会うのだ」と言わなければなりません。そのような人が本物の親孝行者です。こういう人々が残るようになるのです。

 その人をこの社会のどのような社会制度、どのような社会風習、どのような社会状況も巻き込んでいくことはできません。放浪する恨があったとしても、古い服を着たとしても、千万の飾りの付いた服を着た金持ちの家の息子がうらやましくはありません。どんなに飢えて座り、夜を明かして涙を流す立場だとしても、ある王宮で風流に、わびしい音楽を聞きながら詩を鑑賞することよりも、もっと貴い立場なのです。

 その内的世界においては、新しい世界が相通ずるのです。朝、夜が明けるようになるときには、もっと大きく強いのです。皆さんが集まって何をするのでしょうか。先生が願うのは、皆さんが、神様が泣くことができる歴史的収穫の結実体になることなのです。

◆心情の世界で父と息子、娘の因縁を結ぼう

 皆さんはどのような立場で孝行をして、どのような立場で忠誠を尽くすべきでしょうか。笑い、踊りを踊る場で孝行の名分、親孝行者の名を受けるという者は、間違った人間だというのです。泣く立場、寒くてわびしい立場からそうしなければ、完全に神様の津液を受ける者ではありません。完全に神様からの歴史的な津液を受けられない子女です。神様の歴史的な津液の結実を収めようとするこの収穫の秋、終わりの日において完全な収穫の結実体として登場できないというのです。

 したがって、そのような素質をもって私たちが一つのつぼみになり、秋に生まれた一つの種を結ぶことのできる因縁となって、あらゆる津液を引き寄せなければなりません。私たちは六千年の根から引き寄せるのです。引っ張ることのできる磁力をもった者になって初めて、自ら一つの結実を完備するのです。

 そのようになろうとするなら、台風が吹いてくるとき、幹ならば幹において台風が吹いてくるその幹の苦難をたどったのちに実を結ぶことのできる木になるのです。あるいは、ある日浸水という恨めしい事情にぶつかるようになるときに、一つの結実として現れた種も、やはり浸水の苦難を体験した枝にならなければならないのです。その苦難を避けては、その木において結実を見ることができません。復帰摂理の歴史路程にあっても同じです。

 神様を根とし復帰摂理の幹を中心として、枝の前において一つの結実を収めるべき場面において結実できるそれ自体は、すべての要素を吸収して、怨 讐になる要素を即座に除去し、他人が引き寄せない本質的な要素を一〇〇パーセント吸収できる力量を内在している存在でなければなりません。そうしてこそ、完全な六千年の心情の結実体として現れることができるのです。これは天理の原則です。

 そのようなわけで、あなた方は過ぎた日の歴史を知り、今日生きているこの時代を知って、迫りくる未来を知るようになれば、どのようにすべきでしょうか。神様が行かれる道を行き、神様が来られる道に侍ることのできる道を行こうというのですから、泣かなければならないのです。目を地につけて泣きなさいというのです。

 イエス様もゲッセマネの園で涙を流し、汗を流しました。汗を流しながら祈るのです。血を流しながら闘うのです。その過程でサタンが除去されます。それが第一線です。これが現在、私たちが覚悟して踏み出した道なのです。このようになってこそ、皆さんが歴史的な摂理のみ旨の前に収められる一つの結実体になることができるでしょう。

 そのような実体になれば、過ぎた日の歴史のすべての因縁が、その時を迎えるために議論してこそ因縁を結ぶようになるのです。枝が出てくるためには、その本枝に因縁を結んで、完全にすべての要素が接していなければなりません。

 そういう群れが個人に代わって、家庭に代わって、氏族に代わって現れ、この地上である集いが起これば、その集いを通して世界はすべて屈服するのです。

 心情世界にいるので、嫁に来る娘さんがどんな学識者であっても、優秀でその国の女性を代表する世の中の立派な名詞をみな取りそろえた女性だといっても、その嫁ぎ先の小 姑 が不具者であれば、立派な学識者もその不具な小姑に対して、「お姉さん」と言わなければならないのです。そうしなければならないでしょう?

 この心情をもって「この程度のもの、これは何?」と言ってしまっては、家庭の法に引っ掛かるのです。氏族を無視することであり、一族の者を無視することになるので、家庭の法が容認できないのです。原則的に孝行をすべて尽くす嫁になろうとするなら、彼女がどんなにあばた面の人で、目が不自由だとしてもみんなが、「お姉さん」と言わなければなりません。それゆえ、心情世界において父と娘の因縁を結ぼうというのです。

◆神様の心情の世界

 私たちは今、今後訪ねてくるそのような神様の心情ではなく、私たちのお父さん、お母さん、おじいさんが育った時のことをすべて知って、その時から始めなければならないのです。私がきょう嫁いできたのだけれども、昔の何代先祖のおじいさん、おばあさんが嫁に来るとき以上にもっと知っていれば、その嫁がその家を生かすのです。

 キリスト教思想が伝統を主張していますが、その中でも嫁いできた嫁がすべてのことは分からないのです。先祖の因縁をすべて掘り起こし、それを知って先祖のために福を祈り、「私たちの先祖もこのように偉大だった」と言いながら、子女のために教えることができ、責任を負うことのできる意味ある父母になるならば、その嫁を選び、自分の後代の相続者にするというのです。それが天理の原則です。

 お金がなくてもよい、博士になれなくてもよいのです。皆そのような面をもちなさいというのです。どんなに不具の嫁でも、そのような心情だけそろえて博士の嫁よりも立派になれば、心情の世界ではその不具の嫁が相続を受けるのです。

 今日サタン世界では、自分より優秀ならば首を切るでしょう。怨 讐の世界ではそうです。心情の世界では息子が父母に似るのではなくて、父母が息子に似ようというです。皆さんが先生よりも、もっとみ旨に対して号泣し、み旨に対してただ感謝しなければならないのです。み旨に対して先生がそれを見て、「ああ、君は偉いなあ。共に泣いてあげたいし、共にいたいし、共についていきたい」と、このようであればよいだろうに、反対になっているのです。神様は自分よりももっと立派になることを望まれるのです。神様が一番欲張りです。一番能力と権能が多く、数多くの欲をもったその方が、自分より立派な息子、娘が出てくればよいというのです。

 ですから、皆さんが一つの結実にならなければなりません。神様の代わりにエデンで父を称賛して、アダムとエバを立てておいて種を植え、そこで収めた種をまた持っていって天下にばらまき繁殖させようとした、その理念的な基準が成就されていないのです。

 その種を収めて、息子、娘を率いて世界をすべて神様の息子、娘として征服できる仕事を先生がするというのです。私たちは、そういう結実体にならなければなりません。
















SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送