文鮮明先生のみ言集
訓教経(上)


幹と芽と泉

一九六六年十二月二十一日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第百五十六巻』


 きょうは「幹と芽と泉」という題目で簡単にお話をしようと思います。

 人の生活は日々変わっていきます。もちろん自分が目的とする標準は変わらないでしょうが、生活環境は変わります。このように次々に変わっていく環境がつながって、自分の追求する目的が達成されるのです。その標準になる範囲が大きければ大きいほど、すなわち目的が大きければ大きいほどその環境的な範囲も広くなるのです。

 一つの国も発展するためには、その大きさに比例する環境的要素をもたなければなりません。また、どんなに多くの要素をもっていたとしても、それをどのように適材適所に動員し、適応させて、目的を達成するかということが問題になります。

◆新しい文化創造の要件

 それでは皆さん、「私」という存在を一度考えてみましょう。この「私」という存在自体はどこからきたのでしょうか。そこには曲折が多いことでしょう。「私」という存在は、どこから来たのでしょうか。

 二十代、すなわち青年期の人がいるとしましょう。そうすると、彼は過去から今までどのように歩んできたのでしょうか。幼稚園から、小、中、高等学校を経て、大学まで来たとすると、そこからどこへ行かなければなりませんか。現時点では、どこから来てどこへ行くという過程がありますが、そういう過程はいずれ人生においても通過しなければならないものです。

 それでは、不幸な人と幸福な人との差はどこで生じるのでしょうか。どこから来たのかという自分の歴史的な因縁が正常な環境、正常な生活舞台につながっている人は幸福な人です。また、そういう背景をもった国家もやはり幸福な国家です。その歴史的な因縁が切れると、それだけ不幸になる条件が多くなるのです。

 今日まで続いた歴史は、数多くの先祖たちの生活によってつくられてきたものです。この先祖たちの生活過程、その活路が一つの変わらぬ目的に向かって進み、また継続的に発展してきたとすると、先祖たちは不幸な立場にいたことにはなりません。しかしそうではなく、その因縁が次々に切れていく過程で生活したとするならば、彼らは発展できずにその場で回り、その場でぶつかり、その場で割れて、千差万別の悲哀の曲折をつくり出したのです。歴史の背後にはそのような曲折が隠れています。

 皆さんも、各自が歩んできた歴史的な背景はそれぞれ違うことでしょう。また、これから行くべき未来の道も違ってくるはずです。ここで今日の「私」を考えてみるとき、この「私」から千秋万代の子孫が連結されるということを思えば、「私」という存在は宇宙に一つしかない存在だということが分かります。

 それでは、このような「私」の未来はどうなり、どのように終結するのか、また、今後私につながる後孫の未来はどうなのかを考えるとき、「私」の行く道が明確な目的に向かって一貫した方向に進むとすれば、その後孫も幸福であるに違いないのです。

 ところが、もし私がきょうはこうしながらも、あすはああするというようにしきりに変わって、上がったり下がったりし続けるならば、結局その後孫は悲惨になることでしょう。そうなれば皆さんは、今後の新しい理念世界に貢献できる後孫を残すことのできない先祖となってしまうのです。

 この世界は長い歴史を通して一つの目的を追求してきました。存在するものはどのようなものでも目的なしに存在することはありません。すべては目的なしには存在できないのです。また、存在するには、必ず相対的な要件が必要なのです。相対が出会えば、それぞれの目的もあるでしょうが、その二つが合わさって、新しい目的を追求するようになります。誰かのことが好きだというのは、一人で好きなのではなく、相手と私が好きだということです。また、その心的作用は二人きりで好むのにとどまらず、全体にとって良いように作用するのです。

 このように見ると、人間はより大きな目的を追求するものなのです。生まれつきそのような因縁の中にいたがゆえに、私たち人間はより大きな目的と関係を結ぶことを要求するのです。

 また、存在するにも、ひっきりなしに変わり、覆るような場で存在しようとはしません。安定した場で生きようとするのです。安定し、かつ発展する場で生きようというのが、存在するものが要求する欲望なのです。

 それゆえ、歴史的な過程で正しい伝統に基づいた基準を立て、目的に向かって行けば、希望が生じ、希望を抱けば発展するようになっているのです。発展すれば、そこから新しい文化を創造するようになるのです。このような観点から過去の歴史と今後来たるべき未来の歴史を考えると、変わらぬ自我を中心として自らの存在位置を決定し、目的に向かって一つの方向に走っていくことのできる民族や国家、世界になっていたとするならば、この世界は今日とは違っていたはずです。

◆世界を支配する主義

 歴史的な分野、あるいは思想的な分野、さらには宗教的な分野から見ると、宗教指導者、すなわち、イエス様や釈迦や孔子のような方々が主張したことは何だったのでしょうか。彼らが追求したのは、その当時だけで終わるのではなく、「この主張は誰から出てきた」というその母体がいつまでも変わらない、いつも同じ立場で存在する方でした。すなわち、ある限界圏内にとどまる者ではなく、限界圏を超えて無限な空間世界まで主管することのできる絶対者を追求したのです。彼らが追求する対象、変わらぬ絶対的存在こそ、正に神様です。結局、神様という問題に帰結されるのです。

 そのような神様を中心として、その神様が指向する目的を追求していくのが宗教です。変わらぬ神様であるがゆえに、未来の世界と因縁を結んだその神様の基準と目的も変わることはなく、その神様が追求する方向も変わることはないのです。このような意図のもとで宗教は、神様の理念を追求しているのです。このような理念を抱いて現実を舞台としてきた宗教は、歴史上のありとあらゆる波風を幾度となく越えて、今日の世界的な文化圏を創出したのです。

 歴史上に多くの宗教があり、多くの思想があり、また多くの民族がありましたが、みな流れ去りました。それぞれの位置は違っても、指向する目的は、万民が願う統一的な基準であるに違いありません。朝日が昇り、太陽さえ現れれば、一晩中暗闇に閉ざされていたすべての草木はみな、そちらの方を向きます。草木の芽はすべて太陽の光に向かうのです。草むらに隠れて退屈な夜を明かした昆虫も、太陽が顔を出し、陽光がさすとみなそちらの方を向いて羽を広げ、その時から喜ばしい一日、新しい一日を迎える準備をします。人間にあっても同じです。

 人類にも今後そのような陽光がさす日が来ることでしょう。それで、人は我知らずその方向に向かい、その何かを探し求めるのです。このように考えるとき、数多くの国家と数多くの民族がありますが、神様や、どの聖人、君子が見ても、「これこそ一番だ」と言えるものがあるというのです。言い換えれば、歴史的な願いがあるということです。

 それゆえ、今日数多くの国家がそれぞれの歴史過程を経ますが、その過程では方向が違ったとしても、いつかは一つの目的点に帰結するようになっています。歴史にかなう一つの芽があったとすれば、そこに向かって自らの生命力と自らの生活力と自らの本質をすべてそこに投入しようとするのです。そういう因縁を抜け出すことはできないのです。歴史がこのように流れてきた事実から見て、今日この現実世界が一つの世界を追求するのも、避けられない現象だと言えます。

 現在、多くの国家が一つの世界を指向しています。それでは、その国の中でどの国が中心となるのでしょうか。言い換えれば、誰が幹になるでしょうか。皆さん、木の芽になるためには最初に生まれた根と正常な因縁をもたなければなりません。その木の幹になり、芽になるためには、最初に芽を出すその瞬間から、すなわち、木が天地間に生命力を現すその瞬間から、正しい因縁をもたなければならないのです。そうしなければ幹になることも、芽になることもできないのです。

 このように、この天地の大起源があるとするならば、それは発生するその瞬間から、理念的基盤と因縁を結び、形態は小さかったとしても、その本質は全体に適応できる内容を内包した基準をもっているはずです。

 このような大起源の出発と因縁を結んで、歴史はそれとともに連綿と流れ、時代と環境の変遷をたどってきたのです。その生命力が途絶えない限り、歴史は発展して一つの統一形態に結実されるのです。そのような時に、その芽に連結されるのです。そうしなければ、芽になれないのです。

 このような観点からこの世界の重要な思想を一括してみると、この世界を支配することのできる主義とはどのような主義なのでしょうか。このごろは何主義だとか何だとか言って、「神は死んだ」と言う時代です。神様とは関係ない時代に入ったのです。このような時代に神様の存在を認めて、神様と因縁を結ぶ過程をたどっていくのですが、その過程で成されたのがこの歴史世界です。

 それならば、この世界の中で最初から連綿とつながり、最後まで残り得る思想体系、一つの目的が成就する時まで一貫した思想体系が現れなければなりません。どこの誰も触れることができない、完全で、かつ新しい世界観や宇宙観を内包した思想的な形態が現れなければならないのです。

 このような内容をもって現れたのが宗教です。宗教は本質に近いために、どんなに覆っても時代と世紀を超越するのです。一つの時代は年限が限られています。一世紀は百年を基準としたものです。しかし、偉大な宗教であればあるほど、元の根を土台としてその時代と世紀を超越し、長い歳月を連綿と続いてくるのです。このような点で今日のキリスト教というのは、神様の天地創造当時から因縁を結んで今まできた宗教です。このようなことから、聖書は驚くべき因縁の背景をもっているということを、私たちは推し量ることができます。

 それゆえ、世界はここで一つの実を結ばなければなりません。そうして、一つの木として育ってきた目的、すなわち、生の目的を完結しなければなりません。そうしてこそ、存在してきた自らの目的を完成できると同時に、存在せしめた創造主の目的も達成されるのです。人間について言うならば、人類が願う目的が完結すると同時に、人類を創造した創造主の目的も完結するのです。歴史の流れは必ずそのように流れていきます。

◆より大きいもののために生きるべき人間

 このような環境の中で皆さんはどのような位置にいるのでしょうか。天の歴史がこのように芽に向かって流れてきたがゆえに、私たちはどこにいようが、その目的とするところを人類や世界といった、大きなところに置かなければなりません。分かりますか。「私」を中心とする人はいけません。私を中心とした家庭だというのではいけません。家庭のための私、氏族と民族のための私、国家と世界のための私であるという観点に立ってこそ、人生において甲斐ある現在の位置を認めることができるのです。

 ところが、私のための家庭であり、私のための社会であり、私のための国家であり、私のための世界だと主張する人は、自我の方向さえも破綻させるのです。

 皆さん、自分の良心にそっと打診してみてください。そして、その良心が何と言うのか聞いてみてください。道でかわいそうな人に出会ったとき、良心が何と言うか聞いてみなさいというのです。その人は私と何の関係があるでしょうか。夢で考えたこともないし、あるいは、数千年前、私たちの先祖も考えたこともなかった人に出会ったとします。そのかわいそうな人に会い、彼がおなかをすかせているのを見ると、良心は「財布にあるお金をあげなさい」と言います。財布には三百ウォンしかなくても、それをあげなさいというのです。

 それで、そのかわいそうな人に百ウォンをあげて、財布には二百ウォンしかないのに、また道を行くと、それよりもっとかわいそうな人がいます。すると、良心はまた、「助けてあげなさい」と言います。それで、その人にまた百ウォンをあげてさらに行くと、それよりもっとかわいそうな人がいます。すると、良心はまた、「助けてあげなさい」と言います。それで、その人に残りのお金をあげて、一文無しで行くと、またかわいそうな人がいます。すると、良心は「せめてお前の服を脱いで彼に着せてあげなさい」と言います。良心とはそういうものなのです。

 ある日、善いことを一度したからといって何やかや言っても、良心は鼻で笑います。「善いことをして成功し、善いことをして目的を達成したのだから、万歳でもして、凱歌でも歌って喜べばいいのであって、他に必要ない」とは言いません。じっとさせてはおきません。心は催促し続けるのです。「しなさい、しなさい、しなさい」と言います。善いことをし続けなさいと言います。善いことには終わりというものがないのです。それが心の世界です。

 それでは、善いことをするのに、愛する友達にだけしなさいと言うでしょうか。そうではありません。家庭と環境を愛し、国のために生き、世界のために生きなさいと心は命令するのです。なぜそうするのでしょうか。授けて受ければ、因縁が結ばれるのです。天地の公法により、良く授け良く受ければ、その時与えたことは億万年たってもなくなりません。それで、人は慈善について説くのです。そういう因縁の道理を教えるのです。キリスト教では愛を説き、仏教では慈悲を説きます。

 このように宗教で教えているのは、自分がまず犠牲になって奉仕しなさいということです。誰のためでしょうか。「私」のためではありません。より大きなことのためです。

 イエス様はどうだったでしょうか。その当時は追い回されて、どこへ行っても排斥され、取り付く島がありませんでした。そのように追われに追われて、どうすることもできず十字架にかかって亡くなりました。ところが、イエス様は怨 讐に復 讐しようとはせず、彼らのために、そして世界人類のために祈りつつ亡くなっていかれました。そのような点で他の聖人とは少し違います。私が死ぬとしても世界のために死に、世界人類と縁を結び、世界の歴史と関係を結んで、永遠に責任を負うという信念をもって亡くなっていかれました。「私が注いだ血をこの時代の人々に与えよう」とされたのです。

 そのように自分が流した血を千代、万代の歴史を超越し、距離を超越して、全人類に与えたのです。与えるにも神様が公認する場で与えました。神様の認める立場で与えたのです。そのような意味で「すべてが終った」(ヨハネ一九・三〇)と言ったのです。完全に与え、完全に認められたのです。完全に与え完全に受けたので、時代が要求する時再び来ることができるのです。

 十字架にかかり命を引き取る立場にあっても世界のためを思い、世界の歴史的な因縁を握り締め、神様の心を泣かせる基準を立てていかれたゆえに、イエス様は死んでも新しい歴史を創造し、墓から復活することができたのです。

 死を超えるその場で、生死を決めるその場で、命を懸けて投機するような立場で自分の貞操を失わず、心が要求する希望峰で世界を抱き神様にすがってその道を行ったがゆえに、イエス様は死んだとはいえども、その思想とみ旨は万民のものとして現れるほかになかったのです。また、単に万民のものとして終わるのではなく、再びイエス様のものとして返っていくために、歴史上の多くの人間がイエス様を自らの最高の希望として、新郎のごとく慕うようになった動機が成立したのです。

◆皆さんは幹となり芽となりなさい

 それでは皆さんはどのような立場にあるのでしょうか。幹となり芽とならなければなりません。そのためには高いものを慕わなければなりません。高い幹になり、幹が幹として立つためには広い面をもたなければなりません。

 堅い材木、長持ちする材木は、背は低くても根元が太いのです。私が済州島の漢拏山の山頂に登った時、ならの木に似た木があったのですが、高さが二尋くらいしかありませんでした。そこは冷たい風が吹きつけるので、どれほど寒いことでしょうか。それゆえ、大きくなればなるほど自分に不利だということをその木は知っていたのです。

 木は人に劣らず、それを知っているのです。ですから、できるだけ背は伸びずに、横に広がろうとします。修業をするのですが、背が高くならないようにと修業を積むのです。横にばかり伸びようとします。それでも良いのです。しかし、芽はいつも他よりも高くなければなりません。

 それゆえ、人も偉大な人になろうとするのです。皆さん、勉強をする理由は何でしょうか。「勉強をたくさんしよう」というのは範囲を広げようということです。なぜ大学に行こうとするのでしょうか。それもなぜ一流大学に行きたがるのでしょうか。その理由は、その国の優秀な人材はみなその大学の教授であり、優秀な人がほとんどそこに集まっているからです。その人々が行き来する所は、環境的に広いからです。一流大学には出世するための広い舞台が準備されており、全体に響き渡り、全体を反応させることのできる基盤があります。そして、その基盤を短い期間に自分の活動舞台にすることができるがゆえに、一流大学へ行こうとするのです。環境が自動的に自分に出世の与件を提示してくれるというわけです。

 神様がいらっしゃるとすると、その神様とはどのような神様でしょうか。あちこちぐるりと回りながら世界中を流浪したい神様です。回りながら世界を流浪したがっていらっしゃるのです。何を見て分かりますか。太陽を見れば分かります。太陽は誰が造ったのでしょうか。神様が造られました。太陽は回りながら世界を流浪するでしょう。神様もそのような神様だというのです。

 神様は宗教でいう父の役割だけをするのではありません。宗教の父にもなり、この世の父にもなり、戦場で戦う将軍にもなり、修道所へ行けば道主にもなり、競走をすればマラソンの大王にもなることができる神様は、素晴らしい神様なのです。

 神様はいつでも幹の席にいらっしゃいます。そうして、幹を中心としながら横的に世界を処理されるのです。それはどういうことかというと、神様は歴史を経ながら幹を立てると同時に、横的なこの世界を動かしていかれるのです。皆さんも芽となり幹となることのできる個人、家庭、氏族、民族、国家、世界に出会うことを願わなければなりません。

 このような観点から、人類が共に追求すべきメシヤ思想が出てこなければならないのです。ところがそのメシヤはある時突然現れて、一代でメシヤ思想を掲げることはできません。様々な歴史を経なければならないのです。メシヤの芽、すなわちメシヤの個人型が現れて、歴史をたどりつつ苦しみ、鍛錬されながらも倒れることなくあらゆる環境の矛盾を正し、困難を克服して生命力をもった一つの形態を備えて初めて、世界にまで影響を及ぼす宗教や思想を掲げることができるのです。

 そこに飛躍はあり得ません。夏からすぐに春になることはありません。また夏からすぐに冬になることもないのです。秋が過ぎ、冬が過ぎて春になるのです。そこには飛躍というものはあり得ません。同じことです。

 そうして歴史とともにまた流れていくのです。途中で離して、捨てて逃げるようなことはありません。根気よく抱いて、回りながら行くのです。そのような宗教的な形態がなければならないのです。

◆幹の行く道は全体を代表した道

 それでは現在、私たち統一教会は何を統一しようというのでしょうか。一番上に行ってキリスト教を統一しようというのです。では、そのようなことを統一教会ができるでしょうか。黙っていてもできるようになっています。できるようにする内容さえもっていればいいのです。

 神様が宇宙の中心だとすると、神様がいらっしゃるその位置は中心と中央がぴったりと合う、たった一つの所でなければなりません。それに対し、横が存在する所は多くあります。横は至る所に立つことができます。

 しかし縦が立つ所は一つしかありません。絶対不可侵です。幹が一本あると、普通その横から枝が生えますが、何本出てくるかというと三、四本くらい生えてきます。考えてみてください。幹が一つ立つためには、それを支える横枝が三、四本なければならないのです。

 これと同じように、現在世界には四大宗教がありますが、キリスト教、仏教、儒教、イスラム教がそれです。その中に幹があるのです。今後の世界は、その中で幹となる宗教によって歴史と文化の終末を迎えることでしょう。

 それゆえ、今後この世界を統一する世界的な英雄になろうという人は、政治的な力や軍事力だけでは到底不可能でしょう。宗教を統一できる能動的な内容をもって、それを外的な世界に適用しなければならないのです。

 幹の行く道は、全体を代表した道です。横から生える枝にも幹があります。枝からも芽が出るのです。それゆえ幹は、広がっていく枝全体の生活標本にならなければなりません。「あのようにさえ行けば間違いない」と言うことのできる基準を立てなければなりません。「いくら滅びた国でも彼らが共にあれば生き返る、どんなに思わしくない環境でも彼らが行くと良くなるはずだ」と言える能動力をもった人を幹だというのです。

 また、幹が立つ所は東西南北、四方から吹く風を正面から受けなければなりません。そこには垣根もありません。四方の風を受けなければならないのです。それゆえ幹は春が来るのも先に知り、夏が来るのも先に知り、秋が来るのも真っ先に知るのです。冬が来ることも同様です。何でも先に知るのです。

 それゆえ、困難な曲折もすべて一人で、そして真っ先にぶつからなければなりません。四方の横枝は一方向からの試練だけ受ければいいのです。東風が吹くと東の枝は大変ですが、西と南と北の枝にとっては、むしろ好ましく楽しいことです。そうでしょう。踊りを踊るのです。このように横枝は一方向からの風だけを受ける立場にありますが、幹はいつも四方からの風に苦しめられるのです。

 歴史過程で神様を信じ奉る中で、幹のような試練を経てきた民族がイスラエル民族、ユダヤ民族です。それゆえ、今日世界的な経済版図の中心的立場に立つユダヤ民族が、今後一貫した思想さえもつようになれば、あっという間に世界を手中に収めることでしょう。

 彼らはどこへ行くにも、神様を抱いて行きました。それゆえ、枯れ木のような立場にあっても、死にはしなかったのです。ところがどのような過ちを犯したかというと、イエス様を殺すという過ちを犯しました。彼らがイエス様を殺したがゆえに、つまり幹を折ってしまったがゆえに、その幹は今、キリスト教を通してつながってきているのです。けれども、それはまだユダヤ民族にはつながっていません。それゆえ、イエス様が再び来られる時までユダヤの国が回生することはないでしょう。ですからイエス様が再び来て幹を連結し、人々を接ぎ木して、再び世界を動かすことのできる時代が来なければならないし、また来るはずです。

 では、統一教会は何をするのでしょうか。その幹の役割をしようというのです。それで第一イスラエル、第二イスラエル、第三イスラエルということを論ずるのです。そうして韓国を昔のユダヤの国のように、神様の愛を最も多く受けることのできる幹の立場に立てようというのです。このような思想を掲げてきた統一教会であるがゆえに、世界的な波風に苦しめられなければならないのです。

 世界的な波風が一度に押し寄せたからといって、そこに巻き込まれ、折られ、引きちぎられてしまうようでは幹としての資格がありません。誰でも、「私がその世界的な責任と使命を果たそう」と言うならば、神様は世界の波風を寄せ集め、世界的な暴風もすべて呼び集めて、四方から風が一度に吹きつけるようにされることでしょう。

 私たちは四方から吹いてくる四方風を受けなければなりません。横から吹いてくる横風だけでなく、上から下から容赦なく吹きつける直上風、直下風を受けなければならないのです。地も私たちを苦しめ、天も私たちを苦しめることでしょう。私たちはそのような中で自分の位置を確保しなければなりません。そうしてこそ、天下のいかなるサタンも讒訴できないのです。

 そのようにして完全勝利をするのです。そうしてこそ、来たるべき新しい時代に芽の立場で生命の権限をもち、すべての生命を配下に率いて支配する、主導的な国家の主導的な理念をもった主導的な群れになることができるのであって、そうしなければなれないのです。これは天理の動きからして、否定できない事実です。

◆芽になるための要件

 統一教会は芽にならなければなりません。そして皆さんは「前進的克服」をしなければなりません。「前進的克服」、これをしなくては芽になることができません。芽だからといって、「ああ春の園は本当にいいな。私が一番先に芽を出したし、本当にいいな。私は春さえあればいい」というのではいけません。芽は冬でも夏でも常に生命力をもって、先に行く立場で患難と試練を克服した位置に立たなければなりません。そのような立場で「前進的克服」をしなければならないのです。

 このごろの若者の中には、社会が腐敗すると「ああ滅びる世の中だ」と言って自暴自棄になり失望する人は多いのですが、そこで失望せずに突き進んでいく若者は多くありません。ここで皆さんは新しい生命力をもってこの社会に向かい、一歩前進することができる克服の大王にならなければなりません。腹が減り、ひもじくても前進するのです。冷たい風や吹雪が吹きすさぶ中でも前進するのです。生きているものであれば大きくなるのが正常です。前進しなければなりません。前進できないのは、衰退するか死んでいく過程にあるということです。

 また、人間はほとんどの者が、「私は今後何になりたい」と言います。その人は寝る時もそのような立場にいるべきであり、目覚める時もそのような立場にいるべきであり、起きて動く時もそのような立場にいなければなりません。

 前に置かれた困難を克服して前進するためには、闘争をしなければなりません。すべての環境的な内容を吸収し、克服しなければならないのです。環境に押されるのではなく、主体性をもって環境上に立たなければなりません。芽になるには全体的な試練を克服しなければならないのです。そうしなければ芽になることができません。前進的な克服をしなければならないのです。

 それでは、統一教会が幹になるためにはどうすればよいのでしょうか。試練の途上から行かなければなりません。世界的な試練の途上でその試練を克服し、打破してしまわなければなりません。先生は今までそのような立場でやってきました。三千里半島(韓国)がどんなに反対をしても、正義に立つものは勝利するようになっています。正義が完全な勝利を収めるためには、完全な反対を必要とするのです。

 今に及んでは、「神様も死んだ」と言っています。終末です。これ以上の反対があるでしょうか。「神様が死んだ」と言うのです。最後まで来たわけです。ここで「神様は生きている」と言えば世界は統一されるのです。ここで神様が生き返ったとすれば、その神様を再び捕らえる人はいません。そう思いませんか。

 このような観点から、統一教会が幹になるためには試練を克服しなければなりません。四方からの風に苦しめられることがあっても、その節義と気概が変わってはなりません。冬でも生命力を吸収し、その凍りついた土の中で育つことができないのなら、春になって育つための万全の準備をしなければなりません。冬だからといって前進できないわけではありません。前進はできるけれども、少し休む段階なので、春を迎えたならば一時に栄えるための準備をしなければならないのです。

 今まで統一教会は本当にたくさんの試練を受けました。東南の風に、四方からの風に苦しめられました。今は前進的克服段階へと乗り越えて、発展しなければなりません。

 この芽を見ていると、いつも孤独です。いつも孤独なのです。一人で真上ばかり見ているので孤独なほかありません。横の枝には友達がたくさんいます。上にも友達がいるし、下にも友達がいます。

 ですからそれが良く見えて、とてもすてきに思われるのです。ですから「ああ、人というのはこのように生きるのか」と思うようになるのです。今日の世界人類はこのような立場にあります。今日人類は幹を失ったまま、枝だけで喜んでいるのです。

 その反面、幹には友達がありません。友達がいないのです。友達をつくるには自分につながっている生命力を分けてやらなければなりません。そうしてこそ友達になるのです。幹はそうすべきです。偶然に因縁が結ばれて友達になるのではなく、私から因縁を結んで初めて友達になるのです。そうしなければ友達はできません。

◆幹になるために行く道は高貴な道

 幹になるためには生命力をもたなければなりません。友達をつくるためには受けてから与えるのではありません。私から因縁を結んで友達をつくり、私が社会と国家的な基盤まで備えなければなりません。そのような立場に立たなければ、幹になれないのです。私たちは今その段階に真正面に向かって上がっているのです。この三つが幹になるための絶対的な要件です。

 幹になり芽になろうという皆さん、このように考えたことはありますか。死んだようなこの園が新しく蘇生する春、一つの芽として生えいでて、私からつながるこの国の未来像を考え、私を基盤として国が育つことを考え、希望と願いをもって、あるいは希望の峰となって山野をすべて見渡そうという気概をもって生きなければならないのです。

 幹はいつも固定されています。ですからそこには調和がありません。無味乾燥なのです。しかし、横枝には花が咲き、実を結びます。困難なことは芽が一身に引き受け、良いことはみな横枝のものなのです。

 今日の世の中がそうなのです。今日世界的な思想や宗教の指導者といった立場にある人は、世の中の波風にもまれながら、孤独にその道を守っていくのです。横枝のような人は友達も多く、良い暮らしをしています。「私を見ろ」と言わんばかりに暮らしているのを見ると、その人が世界中の注目を集め、世界全体の関心事となるような基準ももっているかのように思われますが、内容はそうではありません。

 統一教会に来てみると、見かけは貧弱です。けれども、その下の根を見てみると、そこには素晴らしい局面があります。これを知らなければなりません。守ってきた根には素晴らしい局面があるというのです。上から枝を眺めれば寂しいかもしれませんが、下に降りて根を見ると、そこにあるものはすべて自分のものなのです。

 いくら横枝が喜び、またそのように見えても、その多くの枝は結局、幹一つのためにあるのです。ですから自分では孤独なようでも、上下を眺めれば、それ以上の幸福はないのです。こういうことを知って、皆さんは自分自身が幹であると自認する者とならなければなりません。

◆泉が行く道

 次は泉について話してみましょう。皆さん、泉とは何ですか。水のわく泉!
 統一教会はこの水のわく泉にならなければなりません。わき水にならなければならないのです。
 わき水が出てくるのは普通の水が出るのとは違います。滝の水や他の水は下に落ちますが、わき水はわき上がるのです。滝の下に泉があれば、そこからだけ水がわき上がります。反対なのです。このようにわき水になるためにはわき出さなければなりません。泉の水も水に変わりはないけれども、流れる方向が普通の水とは違います。泉の水は上に向かってわくのです。それゆえ先生はこの泉にとても関心をもっているのです。

 山の谷間に水がわき出る泉があれば、その山の動物はみな、夜明けにその泉のわき水を飲みに来るのです。良い山であればあるほど、そこには良いわき水があるのです。良い水があってこそ良い山といえるのです。

 すると、その山を訪れる観光客は、その泉がどんなに高い所にあったとしても、たとえ頂上にあったとしても、その一つの泉を求めてその山の頂上まで行くのです。泉の水を飲んで初めて、その山に行って観光したという資格を認められるのです。誰もが立ち寄り、誰もが関心をもって好まざるを得ないのが泉です。また、泉が流れる方向は違うのです。

 皆さんが行く道は、普通人と違わなければなりません。方向が違わなければならないのです。皆さんはわき水となって広がらなければなりません。わき水はいったんわき上がり、広がってから流れるときに、その方向を変えます。

 すると、わき水はどこへ流れていくのでしょうか。わき水はどこへ流れていきたいと思うでしょうか。白砂の浜があればそちらへ流れていきたいし、磨きに磨かれた青石が敷かれ、千年の歳月を流れても少しも汚れないような所があれば、そちらへ流れていきたいのです。わき水はそう思うのです。自らの貞潔を大切に保ち、その貞潔を失うまいとする心を深くもっているのです。

 それゆえ、自ら求めていく道が違わなければならないのです。そうあるべきではないでしょうか。ところが、そうでなければわき水といっても普通の水と変わらないのです。そのような水は、わき水として根源は良かったとしても、途中で変わってしまうのです。普通この世の人は水と同じで、心ではわき水を好みながらも、実際には嫌うという属性をもっています。

 そうして汚い水と混ざり合って暮らすのです。皆さんもそのように生きてきたのではないですか。ここにもツイストを踊り、ダンスをしたお嬢さんや男性もいるでしょう。私たちが行くべき道は、そのような道ではありません。水というのは流れることが本質ではありません。そのようなものはわき水ではありません。そのような所の水は、多くのバクテリアが生息する水です。誰もが飲める水ではありません。

 私たちはここで分析し、鑑別して、人の生命と因縁を結ぶ、わき水にならなければなりません。皆さんは十ならば十、百ならば百が一つとなって、生命となり、原動力となり、エネルギーと化することのできる、力そのものにならなければなりません。そうなるには純粋性を失ってはなりません。

 わき水がわき水として姿を現すまで、そう簡単ではありません。考えてみてください。この地面を見ると地層があり、アーム層があり、その次に地下泉があります。わき水はその磐石を突き抜けて出てこなければなりません。困難な出産の過程を通過して初めて、わき水がわき水としての姿を現すことができるのです。磐石と磐石のすき間を突き抜け、遠く遠く突き進んでわき出たものであるがゆえに価値があるのです。わき水になるのは、そうたやすいものではありません。

 それでは皆さんは、今どの谷間、どの峠にいるのでしょうか。皆さんはすべて、わき水になる道を探し求めていく過程にいるのです。ですから、その道を知る人がいて、道を開いてさえくれればどれほど良いでしょうか。

 皆さんをしてわき水になるための基礎となる道をつくらせるために、神様は皆さんの前にわき水になるための道を開いてくださいました。そして、皆さんがわき水となり、広がって、世界中の人がわき水を飲めるようになることを願っていらっしゃるのです。皆さんを通してそのような自由の園をつくろうというのが神様のみ旨です。

 私がなぜ皆さんにこういう話をしたかというと、皆さんの人生に何かを残してあげたいからです。木を見るたびに考え、水を飲むたびに考えなさいと、このような話をしたのです。そうして皆さんは、意気揚々と天下を行き来できるようにならなければならないのです。

















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