文鮮明先生のみ言集
訓教経(上)


本郷を探して

一九六七年五月二十八日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第十八巻』


 故郷は、自分がいた所、離れれば懐かしい所、行きたい所、住みたい所です。

◆本郷を懐かしんできた人間

 今日、この世の中には多くの人が住んでいますが、すべての人に、真の故郷、真の本郷があるかと尋ねてみれば、「ある」と答えられる人はいません。「ここは私たちの先祖のころから願った所であり、世界万民が懐かしがり、来たいし住みたい所であり、千秋万代の子孫がここを離れては生きられない」と言える所、そのような本郷がどこにあるのかというのです。

 昔イエス様はユダヤの国に生まれましたが、本当の意味において、ユダヤの国はイエス様の本郷にはなれませんでした。ユダヤの国がイエス様の真の本郷になったとすれば、そこを永遠に懐かしがり、そこに住みたかったはずですが、イエス様はその地をあとにして四方八方へ放浪しなければなりませんでした。

 では本郷に行って、何をするのでしょうか。本郷に行って、闘おうというのではありません。本郷に行って、客のようにしようというのではありません。愛を中心として生きようというのです。父母の愛、夫婦の愛、子女の愛、兄弟の愛、親戚たちの愛を中心として生きようというのです。

 私たちは故郷を訪ねていき、その親戚たちが好む自然とともに、愛の原則を伝授しなければならない使命をもっています。人が強い愛の力をもとうとすれば、故郷と因縁をもたなければなりません。ですから、故郷は懐かしい所です。故郷を懐かしむことのできる圏内で生きている人は自信に満ちています。

 もし、その故郷が万民が懐かしがることができ、喜びに満ちあふれる本郷であれば、私たちは他の所を探そうと努力しなくても、そこで家庭を中心として父母の愛と兄弟の愛を楽しみながら、その愛の中に浸って生きる生活をするでしょう。

 今まで歴史が流れいく間、数多くの人々が生まれては死にました。その中には数多くの預言者もいて、また預言者を代表する聖賢もいました。ところで、その中に「万民が永遠にとどまることのできる本郷の地はここだ」と宣布した人がいたでしょうか。あらゆる聖賢が過ぎ去り、その聖賢が生まれた故郷も忘れられてしまいました。

 さらにさかのぼり、人類始祖のアダムとエバに「あなた方には真の本郷があるか」と尋ねれば、彼らもやはり「本郷をもつことができなかった」と言うでしょう。本郷というのは、幸福を謳歌し、父母の愛に浸り、天地万物を主管しながら、天地が喜ぶ中で永遠に生きたい所なのです。

 人類始祖が本郷を見ることはできなかったので、その子孫も分からないのです。それゆえに、人間世界は堕落した世界であり、悪の世界なのです。

◆本郷とはどのような所か

 本然の地とはどのような所なのでしょうか。悪がとどまる所ではなく、悪から完全に切り離され、あふれる本然の愛を中心として永遠無窮に幸福を謳歌して生きる、永遠の統一世界なのです。ところがそのような所で生活した人がいたでしょうか。一人もいませんでした。歴史上で数多くの人々がそのような世界を追求しましたが、その世界はこの地上に立てられませんでした。その世界がどのような世界であるのかを話した人はたくさんいましたが、自ら実践してその世界を築いた人はいませんでした。

 孔子も同じであり、イエス様も同じです。イエス様も本郷の地を創建するために来られましたが、本郷を創建できずに逝かれたのです。「天国はあなたの心の内にある」と語られましたが、イエス様も天国を直接見ることはできませんでした。したがって、すべての人は本郷を探すために行くのです。

 では、その世界はどのような世界なのでしょうか。互いに憎み合いながら、人がうまくいけば腹痛く、人がうれしがれば死にそうだという、そのような世界ではありません。一人がうまくいくことは、全体を代表してうまくいくことであり、一人が喜ぶのは全体に代わって喜ぶことであるので、一人が喜ぶことは全体が喜ぶことであり、一人が喜べば全体がついて喜ぶ世界です。それが本郷です。

 修道の道を行く人々、あるいは信仰生活をする人々が、環境の難しさを顧みず、迫害の矢を受けながらも探そうと内的に外的に決心して確かめていく目的は、より良い所を探していこうということです。

◆良心はなぜ絶えず命令するのか

 世界の各民族ごとに文化背景が違い、社会制度が違い、生活習慣が違うので、本郷の世界を構想する方向もみな違います。古今東西の文化圏をつくり出してきた観点でも、同じ環境圏内に住む人々の指向する方向がそれぞれ違うので、その願う本郷、目的地もやはり違うのです。しかしながら、すべての人間がもっと良い所を探しているということには違いありません。

 私たちが生活で体験せざるを得ないことは、一日二十四時間を過ごす中で、個人生活でも社会生活でも、生活においてぶつかるすべてのことに心がいちいち干渉するということです。そのようにしてはならない、そちらへ行ってはならない、こちらに行かなければならない、その人を寝かせてはいけない、その人を起こさなければならないというふうに、良心はいちいち干渉するのです。

 その良心に「何のためにそのように干渉するのか」と尋ねれば、その良心の返答は簡単でしょう。「私がより良くなるために、より良い私がより良い環境で暮らせるように、昼も夜もなく命令するのだ」と答えるでしょう。

 では、良心はどの程度良いことを願って命令するのでしょうか。自分が一銭もない貧しい旅人のような身の上にあるからといって、自分が直面している衣食住の問題を解決することだけで満足することはできないのです。たとえその場では満足だとしても、それが一週間は続かないのです。その場では喜び、「良かった」と言うかもしれませんが、自分の人生全体において見るとき、良心は決してそこで「休め」とは言わないのです。「それが内外に永遠に安息できる所だ」と言わず、行け、また行けと命令するのです。

◆欲の深い神様

 宇宙の中で欲が最も深い方は誰でしょうか。神様です。園に行ってじっと見れば、小さな虫がいて、鳥たちがさえずり、土のにおいが漂いますが、自然に潜んでいる神秘が本当に美しいということを感じて「神様は欲が深くて、たくさん創造なさったんだなあ」と考えることができます。芝生のような所に行ってじっと眺めれば、小さい虫が行ったり来たりする通路があります。平べったい虫、真ん丸い虫、とがっている虫など、あらゆる虫が行ったり来たりします。

 ところがそのようなことも知らずに、私たちが「ふかふかして良い」と言って芝生に腰を下ろせば、そこで行ったり来たりするお兄さん虫、お嬢さん虫が哀れにも「ああ! 死にそうだ」と言って、生かしてくれと叫ぶでしょう。

 虫たちも人間と同じく、呼吸器官、消化器官などよく見えませんが、人間が備えている調和したすべての器官を備えています。その世界は単純だと考えるかもしれませんが、決して単純ではありません。今後、先生は世界的な研究者を立てて、そのような世界を探求させようと思います。

 神様に欲がなければ、そのようなものをお造りにはならなかったのです。この世を造られた神様は、欲が無限に深いのです。そのような神様が、イエス様をこの地にお送りになったので、イエス様も欲が無限に深かったのです。それでイエス様はこの世界に無限に与えようとされました。神様は欲が深い方なので、胸に抱いていた欲をすべて満たす場合には「仲むつまじくしなさい」と言ってひとしきり楽しまれるでしょう。

 宇宙の多くの惑星の中で太陽系を見れば、多くの惑星によって成されていますが、その多くの惑星は、自分勝手に動くのではありません。太陽を中心として、ある惑星は一年に何周、またある惑星は十年に何周、百年、千年に何周かずつぐるぐる回っているのに、互いにぶつからず、また、自分の位置を離れてどこかへ行ったりもしません。

 そのようなことに比べれば、この地球に生きている人々の暮らしは、子供たちのままごと遊びのようなものです。ほこりほどにもならない極めて小さなものです。そのような地球にしがみついて生きている人々の姿を想像してみると、おもしろいのです。

◆大きな心をもった人間は貴い存在

 全天下の万物にはそのような素質と欲がありません。宇宙万象の中で永遠に生きる人間だけがそのような欲をもっています。そのような人間の心を広げておけば、全宇宙まで詰め込んでもいっぱいにならないでしょう。そこに最も欲の深い神様までもそっと迎えて、楽に横たえてさしあげることのできる雅量をもっているのが人間の心なのです。人間にはこのような貴い心があるので、万物の霊長だというのです。もし人間にそのような心がなければ、人間は悲惨です。

 人間はこのような心をもっているために貴い存在なのです。では、この心は何を命令するのでしょうか。悪の立場では、死ぬようなことがあっても「入るな」と命令します。悪は必ず滅びるようになっていて、善はいくら迫害を受けても滅びずに勝利するようになっています。

 歴史上に現れたすべての聖人賢哲は、善なる立場で、世間的に見れば滅びる道を行きました。しかしながら、一時代を導いていく時代的運勢と世界的運勢は天運の行く道を防げることはできないので、天運圏内で働く人は、世界的な運勢や時代的な運勢を飛び越えることができるのです。世界を心のままに動かすことのできる世界的な運勢も、天地を創造した神様の目標圏内で動くのです。

◆人間の欲望の末

 世界を見れば、台風が吹く所、津波が起きて大騒ぎする所、雨が降る所、雪が降る所など、ありとあらゆることが起きる所があるはずです。しかし、そのような現象は地球の大気圏内で起こる現象です。

 ところが、このような小さな地球星を越えて巨大な宇宙を眺めれば、宇宙にはどのような現象が起こっているのでしょうか。私たちが想像もできないことが、絶対的で奥妙な調和の中で千態万状に起こっているはずです。

 それゆえ、私たちの心はより良いことを願うのです。心が願うものはどれほどのものかといえば、神様を占領したとしても足りず、「もっとしろ、もっとしろ」と言うでしょう。神様まで占領しても安息しないというのです。

 そうであるなら、心は何を探さなければならず、何を中心として初めて永遠の安定圏に浸って安息することができるのでしょうか。怨讐を征服しても安息することができず、イエス様を占領しても安息することができず、宇宙を創造なさった神様を占領しても安息することはできません。そうかといって、心が目的なく動くのではありません。

 どのようなものでも目的なく作用するということはありません。ある分子が動くにも目的なしでは動きません。自分に損となる作用は絶対しないというのです。互いにプラスとなるように動くことが天地の法度なのです。

 お一人でいらっしゃる神様、その神様の愛をそっくり占領して、自分のすべきことを差し置いて、歴史の恨を解いて安息するときには、神様も踊るでしょうし、世の中もすべて踊るでしょう。心はそのような一日を夢見るのです。

 修道の道を行く究極的な目的も天国に行くことではなく、神様を知ることでもありません。神様の愛を占領することなのです。

 この上なく良く、この上なく高い永遠の世界へ行こうとするのが人間の本能なのです。その本能は、神様に似てそのようになっているのです。天主の欲望があり、人間はその天主の息子、娘として造られたがゆえに、人間の本能はその基準に似たのです。

 それゆえ、人間の心は永遠に神様と一つとなり、真の人の生活基準に接することを願い、真の心で生活できることを願うのです。そうして、真の心の中心が立つようになれば、真の愛に永遠に接ぎ木されようとするのが人間の欲望なのです。

◆神様と人間は父と子

 今まで世界的に多くの宗教がありましたが、その宗教は何を教えなければならないのでしょうか。どのような宗教でも、まず第一に神様について教えなければなりません。神様について教えない宗教は宗教ではありません。神様について教えるにも、漠然と教える宗教は不確実な宗教です。

 では、どのように教える宗教が真の宗教なのでしょうか。神様がいらっしゃるならばどのような方であり、神様の人格はどうか、また、神様の愛はどうかということについて教える宗教が真の宗教です。世界的な宗教の中でこのような内的な深い事情をもって現れた宗教があるならば、それはまさしくキリスト教です。

 では、キリスト教では神様をどのように教えてきましたか。父だと教えてきたのです。それで「父なる神」と呼ぶのです。地上の人間たちは、その父と同格の立場に来られる主を新郎として迎えなければなりません。そして、その新郎に侍る新婦は、神様を信じる聖徒です。このように、キリスト教はすべての家庭の中心となる基準を宣布しておきました。

 多くの宗教の教祖たちが探している所は、心が永遠にとどまることのできる所です。もし、彼らの宗教にも真理があるならば、その真理は神様を確実に教え、また神様と人間との関係を確実に教え得るものでなければなりません。また、教えるときにも、愛を中心として教えなければそれは流言飛語にすぎないのです。教える教理などの差によって、宗教の分裂が生じます。

 数多くの宗教の中でキリスト教が中心であり、イエス様はこの地に来られて、「私は神様のひとり子である、人間の世の中に神様の息子として生まれた者は私しかいない」と宣布しました。父の息子として生まれたということは、父の骨髄を受け、父の血肉を受けて生まれたということです。それは、父なる神様の血が動じ、肉が絡み合い、骨がぶつかり合って生まれたということなのです。

 親子の間柄は、子が悲しめば親はより一層悲しみ、子が喜べば親はより一層喜ぶ間柄です。そのような親子の因縁は、世の中のどのような公式や法度でも切ることができず、どのような権勢や名誉でも否定することができません。自分の父であるので、誰かが現れて刀を胸に突きつけて、お前の父ではないと答えろと脅迫したとしても、たとえその場を免れるために言葉では父を否定するかもしれませんが、内心では「私の父だ。私はその子供だ」と、より一層念を押すでしょう。このようなことは誰にも否定することはできません。宇宙を革新し、宇宙を革命し、宇宙を破綻させることのできる頭脳をもった者だとしても、これを否定することはできません。父子の因縁を否定することのできる根拠はどこにも存在しないのです。

 このような観点から、イエス様がこの地上で神様を「父」と呼んだということは、万代を治めることのできる特権的な中心的使命をもって来られたという事実を、万有の前に闡明にすることだったのです。

◆キリスト教の目的

 私たちが神様を探していく過程では、新郎新婦の立場でした。それゆえ、キリスト教は新婦の宗教なのです。他の宗教にはない、父の骨身に深く深くしっかりと込められている愛の因縁を人間の世の中に紹介すべき新郎新婦の宗教です。多くの宗教が真理として自由な、また観念的な理想を論じましたが、愛が直接的に生活の舞台に絡んで、愛によって覆す争いの歴史を経ていく宗教はキリスト教だけです。

 イエス様が新婦を探していく過程では新郎ですが、婚宴が終わったのちには兄弟となります。男性には兄となり、女性には兄さんとなるのです。「お兄さん」「弟(妹)」と呼ぶときには、既に主従関係が成立しています。横的な立場で訪ねてきて、主従関係を確立するのです。

 立体的な世界だけで妄想する宗教は、理想的な宗教ではありません。立体的な世界の内容をもって、横的、平面的な世界の実像を土台とする一つの宗教でなければ、理想的な宗教にはなれません。なぜなら、人は心と体から成っているので、心は立体的な世界と関係をもち、体は平面的な世界と関係をもち、二つの世界に理想的な根拠を備えなければならないからです。それが愛の世界です。それでイエス様に会ったのちには、兄弟関係として立つようになります。

 新郎新婦の関係というのはいつも危険なものです。夫婦はいつでも離婚が成立する可能性があります。しかしながら、兄弟や兄妹関係は切ることができません。いくら切ろうとしても、血統がつながっているために切ることができない関係なのです。それゆえ、兄弟や兄妹関係がより良いのです。

 今までキリスト教が探してきたものとは何でしょうか。それは神様を知ることであり、神様が送られた新郎に侍ることであり、その新郎を迎える新婦を準備することです。また、その子女を探すことであり、彼らと共に楽しむことができる宗族を準備することであり、その氏族とともに世界を復帰できる民族を編成し、彼らと共に一つの世界国家を編成することです。

 数多くの宗教がもっとたくさん伝道をしようとする目的もそこにあります。修道を中心として世界の人を呼び集めようというのです。それで世界のあらゆる宗教は、伝道を通して選民をつくり、その次には世界を一つの故郷として、世界の人を親戚として神様の民にしようというのです。

 万民はその生きていく環境が違うだけであって、人間という点では白人でも黒人でも同じです。ですから、何としてでも世界人類が一人の父によって生まれた一兄弟という心情がにじみ出るようにしなければなりません。そうでなければ世界の人々の統一は不可能であり、万代の糾合は不可能です。

 世の中の青年男女をよく見ると、ある人を愛したとしても、その人よりもっと良い人が現れれば心が変わって、その人を愛するというのです。また内外の条件が備わった、天下のすべてが尊重できる相手が現れるようになれば、自分が今まで好きだった人よりもその人を好きになりたいのです。人の欲がそうなのです。おそらく、世の中の夫たちは自分の妻がイエス様を信じることも気にくわないでしょう。それは、自分の妻が夫よりもイエス様をもっと愛するからです。

 新郎がもっと良いのか、息子、娘がもっと良いのかというとき、新郎よりは息子、娘がもっと良いのです。夫婦は別れることはできますが、息子、娘とは別れることができません。家系図で掘り起こしたとしても、血筋を受け継いだがゆえに別れることができないのです。新郎新婦は離婚して別れれば忘れることができますが、息子、娘は時間がたてばたつほどもっと慕わしく会いたくなります。このような事実は、子女のいる人ならば誰でもよく分かるはずです。サタン世界に生きる親たちも、それだけは否定できないはずです。

 ですから、私たちは新郎の愛を踏み越えることによって父の愛、神様の愛を探していくのです。イエス様が地上に来られたのは、万民がイエス様の愛を通して神様の愛を受けるようになるためです。それゆえ、ローマ人への手紙第八章三十九節でパウロは、「高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」と言っています。イエス・キリストの中にある神様の愛を誰も切ることはできません。したがって、最後の目的は神様の愛を受けることです。

◆宇宙万象が作用する目的

 主体と対象が互いに相対基準を成して、良く授け良く受ければ力が生じるようになります。力が生じるようになれば、互いに一つとなり、一つとなれば繁殖するようになります。主体一人では絶対に作用できません。誰かを好きになるのと同様に、互いの力が作用します。誰かを好きになるということは、その人と自分の心がぴったり合ったということです。好きになれば、理由なしに心が行ったり来たりします。その心がどれほど強いのかといえば、「この人でなければ私は死ぬ」というように死を超越して体を引っ張っていきます。それは世の中でいう運命というものが、そのように作用するからです。

 善なる人は善なる人、悪なる人は悪なる人を好みます。世の中のすべてがそうなのです。例えば、運動競技をするときに、走るのが上手な人は走るのが上手な人だけで集まって競走をし、相撲では、上手な人だけが土俵に集まって相撲をします。これと同じように、私たちの心もそのままいい加減に動くのではありません。必ず主体と対象が互いにある作用をするのです。

 そして、その作用は損をするためにするのではありません。商売をするのも損をするためにする人はいません。同じように、私たちの心も損をするために動くのではありません。あらゆる存在が損をしないで何か利益を残そうとするのは、すべて神様の摂理的な作用なのです。

 どこの誰がどのようなことをしても、損をするためにしていることは一つもありません。子供たちの行動も、よく見ればそうなのです。また動物もそうです。

 では、このように作用する根本目的は何でしょうか。補うためです。作用するということは、すべての利益を生むためであり、絶対に損をするのではありません。

 すべては平等です。それで根本は平和と和睦、忠、和なのです。「平等は水平だ」と言えますが、水平はそのままでは成されません。上下関係、高低関係にあるものが、ある作用を経てこそ水平になります。高低があるので、必ず高い所で受け、低い所に補う作用を経てこそ水平になります。

 では、人間について見るとき、水平になっているでしょうか。なってはいません。人間は低い所にいます。それゆえ、高い所から受けて、水平を成すのです。ですから、人間は高次的な理念を探し出さなければならず、高次的な精神の慰安所をもたなければなりません。

 水平はそのままでできるものではありません。他の所から力の補給を受けなければなりません。自分自体の内で補給を受けられないので、補給をしてくれる所がなければならないのです。その補給をしてくれる所は高い所です。高いながらも悪い所でなく良い所です。そこは万民が理想とする所です。では、その理想とは何でしょうか。よく食べることでもなく、よく寝ることでもなく、真の愛なのです。

◆人間の理想は愛によってなされる

 今まで人間は歴史過程で本然の心を中心として、本然の心が懐かしむ人を中心として、ただの一日も休んだことがありませんでした。それで「人生は苦海だ」と言うのです。

 このようなことを知るときに、人間は一つの基準を探し出さなければなりません。それゆえに愛そうというのです。愛するには二人だけでいるのは良くありません。父と息子、娘だけいてはなりません。人が互いに愛そうとすれば、人も集まらなければならず、踊りと歌も必要です。「愛するという言葉だけを言えばいいのに、何の歌が必要なのだろうか」と言うかもしれませんが、感情を込めて愛を表現するためには、歌も必要なのです。また「静かに立っていれば良いのに、なぜ踊らなければならないか」と言うかもしれませんが、踊りも必要です。

 人がいいものにうっとりして、愛する心で歌えばどうなるでしょう。一度歌ってみれば、ただ骨の中からとろとろし、細胞がかたかたとし、目がちらちらし、涙まで出てくる、動揺が起こるようになります。では、そのようなことがなぜ必要なのでしょうか。その場で天地の調和が起こるべきだからです。そのためには、神様と私、父と子、二人だけでいてはならず、付帯条件がたくさん必要です。

 父がいれば母がいなければならず、男性がいれば女性がいなければなりません。もし女性だけの世の中ならば、女性たちは女性だけで何度も会うのを嫌がるでしょう。また、男性同士で暮らすようになれば、男性たちもやはりそのようになるでしょう。それゆえ、父がいれば母がいなければならず、父母がいれば子がいなければならず、その次には兄弟姉妹がいなければなりません。

 では、「私」は誰のためにいなければならないのでしょうか。私は、正に私自身のためにいるのです。父と母も私のためにいるのです、兄弟姉妹も私のためにいるのです。皆がみな私のためにいるのです。

 人間は欲が深いです。神様の愛をふろしき包みごと受けて、誰にも与えず一人でもとうとする人々ですが、「父のために生まれ、先生のために生まれた」と言えば気分が悪くなります。何千年間、私たちの先祖が生まれては逝きましたが、すべてが私一人のために生まれて逝ったのです。ですから、私がどれほど重要なのかというのです。それでイエス様は「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」(マルコ八・三六)と語られました。

◆本郷の地を探していこうとするなら

 神様は誰のための神様なのでしょうか。「神様のための神様ではなく、私のための神様だ」と言いたいのが人間の欲です。

 道義の条件を見いだそうと前後関係を議論して審問する世界は、不安な世界です。愛を中心として前後関係が完全に一つとなって授け受けすることのできる立場に立ち、自分の周囲を見回せば、私以外には誰もいないように見えますが、いつも主体がいるということを肝に銘じなければなりません。

 それでは、全世界にいる数多くの人々は何を探していくのでしょうか。本郷の地を探していくのです。そのためには祭物を捧げなければなりません。昔、カインとアベルが神様の前に祭物を捧げたのも本郷を探すためでした。ノアが百二十年間箱舟を造ったのも本郷を探すためでした。本郷を探していく道に箱舟という条件物が必要だったのです。本郷を探していく道を短縮させることならば、何でもしなければならなかったのです。アブラハムも同じでした。人間が行くべき究極の目的地である本郷の地を探していくためには、自らの故郷の山河も祖国領土も捨てなければなりません。本郷は二つになり得ないので、自分が望む理想世界も捨てなければなりません。

 万民が共に安息できる本郷の天地に向かっていくためには、自分のすべての個性も、自分のすべての夢も捨てなければなりません。自分の夢を中心として継代を立てていこうとすれば、本郷を探すことは不可能です。それゆえ、すべてを捨ててしまって一片丹心で本郷の地を探していかなけばなりません。より一層、真の場所を探していこうという、その一念で食べて、寝て、喜怒哀楽を感じる生活をしなければなりません。

 そのためにアブラハムは、自分の故郷であるカルデヤのウルを捨て、モーセもやはり自分の民族の本郷の地カナンの福地を目指すために、万民がとどまることのできる本郷の土台を準備するために、豪華絢爛なパロの宮中と王子の座をすべて捨てて荒野生活をしました。そして、イスラエル民族が四十年間荒野でさまよったのも、彼らの故郷、本郷の地を探し出すためであり、今まで数千年間、国なき世界をさまよってきたのも、やはり希望の本郷の地を探し出すためでした。

 世界に散在している数多くの民族が移動したり、革命を起こして歴史が変遷してきたのも、やはり本郷の地を探し出すためであり、本郷の世界に行くためでした。このように、その道は世界人類が行くべき共同運命の道であるので互いに区別することなく、みなその運命の道を行くようになるのです。その道には神様が共にいらっしゃいます。その神様を中心として修道の道に責任を負っていく指導者たちと修道の道に従っていく人々が、そのような責任を負わなければなりません。彼らには本郷の地を世界的に準備しなければならない使命があります。それゆえ、信仰者として世の中を導くことができない人々は、人間世界の人倫的な宗教人にしかなりません。

 人は、心と体が一つになってこそ一つの人格を完成することができます。その人格は、体それ自体だけでは現れることができません。人格が現れるためには、心を通して体が反応しなければなりません。したがって、人格は心と体を通して平面的な環境での人間関係を中心として、社会性を通して現れるようになります。

 宗教は内的な分野、すなわち観念の世界に対して教えていますが、それを実践できる社会的な実践場が必要です。今までの宗教は、霊的な面、すなわち来世だけを追求してきましたが、人は来世に行く以前に現実で生きています。現実世界を通して来世に入っていくようになっています。

 ところが、今まで宗教は内的世界を通して外的世界、現実を描き出してきました。なぜそうなのかと言えば、外的世界ができていないからです。外的世界は、既にサタンによって占領されたので、逆に内的世界をまず準備して外的世界を追求してきたのです。

◆信仰者の責任

 本郷の地を探し出すには、一人では行けません。必ず歴史的な因縁を経なければなりません。それゆえ、私たち人間は歴史的な因縁をもっていくのです。きょうがあるのは、あすを準備するためであり、きのうを輝かせるためです。したがって、過去の事実を否定する立場に立つのではなく、過去の事実を認める立場に立たなければなりません。

 歴史路程で過去を真に認めることができるものは何でしょうか。これを探ってみると、真の道を探すようになり、真の道を探ってみると、真の宗教を探すようになっているのです。そして、真の宗教の基盤の上で本郷を紹介するためには、決して愛を除いてはいけません。こういう観点から見れば、キリスト教はとても重要な位置に立っています。

 キリスト教の使命とは何でしょうか。信じている人を生命視して、互いに愛して生き、愛によって和し、愛を伝えることです。また、その愛はすべての生命の源泉です。では、キリスト教を信じる人々はどのような立場に立つべきでしょうか。愛の本郷を探していくところに影響を与える立場に立たなければなりません。

 そのような立場に立って信仰生活をしなければなりません。こういうことを見れば、愛によってのみ和平がなされ、愛によってのみすべての人が平等になるのです。それには愛がなくてはなりません。

 愛には、どのような愛があるのでしょうか。内的愛と外的愛、すなわち精神のための愛と物質のための愛があります。人も内的な人と外的な人に区分できます。これは五色人種の誰でもみな同じです。

 それでは、私たちが愛するには、どの程度愛さなければならないのでしょうか。神様が万民を兄弟のように愛し、万民を子女のように愛するのと同じように、私たちもその父のような立場に立たなければなりません。

 父母の心情をもつためには、父母の心情がどのようなものなのかを知らなければならず、父母の心情を探すためには、本郷の地へ行かなければなりません。他の所では見いだせません。今日この地に住む多くの人々は、結局本郷に行き、父母の心情を見いださなければならないのです。いくら修道を追求し、世の中のことに熟練し、精通していても、父母の心情に通じなければ子になることができません。

 人は父母の愛によって生まれます。私たちは父母の愛を通して生まれるには生まれましたが、偽りの父母の愛を通して生まれました。これは、本郷の原則を中心とした正常的な父母の愛を通して生まれなかったということです。本郷の地に入り、安息したのち、父母の愛を中心として生まれなければなりませんでしたが、そうはできませんでした。それで、私たちは父母の愛を探すために本郷へ行かなければなりません。このように、父母の愛を探すために本郷を探していかなければならない人生だというのです。

◆復活し重生してこそ本郷の息子、娘になる

 では、堕落によって愛はどこまで落ちてしまったのでしょうか。父母の愛から徐々に落ちていき、子女の愛、兄弟の愛、知人の愛、友人の愛を経て、僕の愛、僕の僕の愛にまで落ちていったのです。それゆえ、父母の愛を探して本郷の道を行くには、再び逆に探して上がらなければなりません。ですから、修道生活を通して神様を中心とし、僕の僕の位置まで入っていかなければならないのです。

 僕には主人がいますが、僕の僕には主人がいません。私たちはそういう僕の僕の位置から僕の過程を経たのちに、養子の位置まで探して上がらなければならないのです。そのような養子の位置まで上がり、直系の子女から接ぎ木されなければなりません。

 また、愛を中心として見るとき、僕の僕の愛から僕の愛、養子の愛、直系の子女の愛を経て、夫婦の愛、父母の愛にまで上がらなければなりません。そうして次に、父母の愛を通して子として復活しなければなりません。これがキリスト教でいう重生です。

 父母の心情に通じるにはどのようにしなければならないでしょうか。人の生命は必ず父母の愛を経て生まれるので、父母の愛を受けたという基準があってこそ、父母の心情に通じることができます。ところが、真の愛の主人公は神様なので、神様を中心とした真の父母の心情、真の父母の愛の過程を経ずには重生することもできず、復活することもできません。

 愛を中心として見れば、大慨、私たちは相対の愛だけを恋しがっています。しかし、それだけではいけません。それを越えて、父母の心情を中心として復活し重生されてこそ、ここに初めて本郷の地を占有することができるのです。単純に父母の愛を受けるだけではいけません。その父母の愛を中心として再び生まれてこそ、本郷の息子、娘になれるのです。

 では、再び生まれるには誰がいなければならないのでしょうか。父母がいなければなりません。私たちの生命を救うには、お母さんの胎中で十カ月を経るのと同じ立場を経なければなりません。そうして、胎児がお母さんのあらゆる栄養素を受けて育つように、皆さんも育たなければならないのです。

 単純に父母に会い、父母の愛を受けて再び生まれるのではありません。堕落した世界から捜し出された人々なので、父母が堕落したのと同じ峠を越えなければならないのです。そのようにしなければ、本郷の地に永遠に入っていくことはできません。ここで一度ひっくり返し、もう一度お母さんの胎中に入って出てくる重生の過程が起こらなければならないのです。そうして天真爛漫な子供のような立場から育たなければなりません。再び生まれるには、お母さんの胎中に入っていく立場に立つ前に、父の骨髄に入っていく立場に立たなければなりません。

 いくら自分が本郷を探していく人であっても、完成級に至れば、相対と会わなければなりません。しかし、完成級まで行くにはまだ距離があるのです。堕落したがゆえに、蘇生級以下から出発するのであり、完成級から出発したのではありません。したがって、どんなによく信じ、信仰生活を良くする人であっても、蘇生級から上に上がっていかなければならないのです。

 では、どのようにして完成級までつながるかということが問題です。世間一般の人生は、倒れてもまた立ち上がって行くことができますが、私たちが行く道は、一度倒れれば再び立ち上がって行くことはできません。いくらよく信じて、いくらうまくやると大口をたたく人でも、完成の峠を越えなければなりません。そうでなくては、本郷の地で落ち着いて暮らすことはできないのです。その本郷の地に入っていくには、父母の心情を基盤として生命体が復活しなければなりません。そのためには、父母の心情が中心になるべきであって、自分が中心となってはいけません。

 どの道、私たちは、本郷の地を探していかなければならないのです。真の本郷を探すために、堕落した人間はどのようにすべきでしょうか。アダムとエバが堕落する前の立場にまで上がらなければなりません。しかし、まだ人間は堕落前の立場に完全に復帰できていないのです。

 本来人間が堕落しなかったなら、三段階の成長過程を経て完成し、そこで生きていたのですが、堕落によってそのようにできなかったのです。

◆キリスト教の接ぎ木する真理は本当の真理

 キリスト教では、「終わりの日になれば主が来られる」と言います。主が来られるならば、男性として来なければなりません。今まですべての人々が生まれるには生まれましたが、誤って生まれました。種が違ったのです。それゆえ、自分のすべてを否定して新しく接ぎ木されなければなりません。種類が似ているために、接ぎ木をすることができるのです。このようなことを見るとき、キリスト教の接ぎ木する真理が本当の真理なのです。

 接ぎ木するには、今までのすべてをばっさり切り捨てて、新しい芽をもってきて接ぎ木しなければなりません。したがって、新しい思想と新しい生命力と新しい氏族を接ぎ木して、自らの生命全体をも維持する中心としなければならないのです。それゆえに、今までキリスト教は「ため」に与える宗教として、そのような役割をしなければならなかったのです。

 では、人間個人はどのようにすべきなのでしょうか。新郎として来られる主は人間の父です。そして新婦は母です。天は男性を象徴し、地は女性を象徴するので、地上に女性が出てこなければなりません。

 ですから、心情を中心として主の内に掘り下げて、生活感情も主と同じであり、死ぬのも生きるのも主と共にし、喜ぶことも主と共に喜ぶことのできる絆を結ばなければなりません。そうして、父、すなわち主の内にいる息子のような立場に立たなければなりません。それで、新郎として来られた主が新婦を迎えて夫婦となれば、その新婦、すなわちお母さんを通して再び生まれるのと同じ立場に立たなければならないのです。お母さんを通るその期間が正に、女性を象徴する地を中心として苦労する期間なのです。そのお母さんを通して、自分の復活と同時に先祖を復活させ、民族と国家までも復活させなければなりません。

 このような兄弟が集まって親戚になり、このような親戚が集まって宗族になり、このような宗族が集まって民族、国家、世界になります。それによって、世界が神様の愛を中心として一つの根から生まれた世界の形態を備えます。それでこそ初めて、世界が神様を中心として一つの世界となるのであり、神様を主にした地、すなわち地上天国が実現するのです。ここが正に、私たちが永遠に暮らすことのできる本郷です。

◆すべてが自分のためにあるという自覚をすべし

 今日「私」という存在は、何をするためにいるのでしょうか。この堕落した世界のあらゆる事情を踏み越えて、個人的な復活とともに家庭的な復活、民族的な復活、国家的な復活、世界的な復活を成し遂げた立場で、神様に自由に侍るために私たちは生まれたのです。それゆえ、真の父母が来られるのも自分のためであり、真の父母の愛がなされたのも、真の父母の愛を中心とした兄弟と親戚が生じたのも、すべて自分のためです。

 それゆえ「私」という存在は宇宙的な自我であるので、万有の全体は自分一人の完成のために歴史とともに動員され、被造万物全体も自分一人の完成のために存在し、動いているのです。

 自分一人を完成させ、自分一人のために与え、自分一人の志のためにすべてが存在しているという事実を考えるときに、人の本心がどれほど大きいのかということを知ることができます。この石も、この山にある草も木もすべて自分のために存在し、数多くの民族が互いの観念が違い、文化の背景が違ったとしても、すべてが自分の理想を完成するために動いているというのです。自分一人を中心として宇宙が回っていくというのです。そのような自分自身の価値を感じることができる場は、いつも神様に感謝できる場です。

 すべての存在の始めから終わりまで、すべてが自分一人のために存在するのです。愛を中心として見るときにも、すべてがそのようにつながっています。自分が他人のために彼らを愛するのではなく、自分のために彼らを愛するのです。各自がそのような心をもって神様のために行ってこそ、神様を中心として全宇宙が一つになれるのです。また、この基準を越え、自分はどのような人なのか、自分は神様の息子、娘であるけれど、どのようにすることが神様のみ旨なのかを自分自身に尋ね、調べなければなりません。

 そうして、これと同じ立場で、父母の心情で兄弟を愛し、親戚を愛し、宗族を愛し、民族を愛し、世界を愛するという心が実感的に感じられる場で祈祷をするようになれば、その祈祷は世界のための祈祷になるのです。

◆神様の王子と王女になって暮らす所が本郷

 涙ぐましい真の愛の前に、世界が引っ張られてきました。このような愛を中心として世界が一体となる基準に入っていくことができる人は、完全な本郷の地を占有することができる人です。しかし、このような人になっていなければ、本郷の地に行くことができないだけでなく、本郷の地を探したとしても入っていくこともできません。それゆえ、神様の愛を中心として一体化した人は、その愛の圏内で永遠無窮に万宇宙を支配できる能動的な主体となり、天の王女となり、天の王子となるのです。

 神様は復帰路程を通して人間を探してきていらっしゃいます。その神様は万人の主人であり、万有の主体であられます。合わせて万国の主体であられます。そのような神様の息子、娘、すなわち天国の王子は誰で、天国の王女は誰なのでしょうか。王子は主であり、王女は主の新婦です。私たちはその主と新婦を中心として、再び生まれるのです。そのようになれば、主と主の新婦は人類の先祖になり、父母になるのです。私たちがその方の愛を通して再び生まれれば、父母の立場を相続でき、第二の王子と王女の立場に立つようになります。

 万民はすべて神様の息子、娘にならなければなりません。それゆえ、人間の欲望は神様を父として侍ろうということです。世界を征服し、宇宙を征服した人だといっても、神様の愛を懐かしむのです。これは愚か者でも優れた者でもみな同じです。このように、すべての人間の本心が神様の愛を懐かしむように作用するのは、そうし得る可能性が一〇〇パーセントあるからです。

 これと同様に、人間の心が神様の愛を中心として本然の姿勢を備えようという欲望をもっているのは、本来それができる立場にあったからなのです。したがって、神様の愛を中心として私たちが天国の王子と王女の位置を占有することができるのです。また、天国のすべての所有と天国のすべての運命が私たちのものとなって、父のものが私のものになるのです。父の事情も自分の事情です。

 そのようになれば、天下にないものはないため、そこにおいて初めて幸福であり得るのです。そこには自分が必要とするすべてのもの、すなわち愛があり、愛のほかにすべての付帯要件まで全部備えているのです。そこが初めて私たち人間が安息できる場であり、私たちの本郷なのです。


















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