文鮮明先生のみ言集
訓教経(上)


万民の願いは統一世界

一九六七年八月十三日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第十八巻』


 これからお話しする話の題目は「万民の願いは統一世界」です。

◆千秋万代の願い「統一世界創建」

 万民の願う統一世界というものは、過去の人はもちろん、現在の人、また未来の子孫に至るまで誰しもが憧憬する世界です。そういう世界を千秋万代に至るほどに憧憬しない人は、たった一人もいないでしょう。きょうは、そういう世界についてお話しします。

 千秋万代の万民が願う統一世界を築くということは、大きな課題とならざるを得ません。そういう統一は過去においても、誰もが希望として願ってきたことです。それで数多くの王たちは、弱小民族を吸収し、一つの統一した王国をつくろうと自らの版図を拡張するのにあくせくしてきました。

 彼らのすべてが、一つの統一した世界をつくろうという計画から出発しました。そのようにして現れたのが今までの歴史過程であったということを、私たちは知っています。そういう歴史を見ると、過去や現在の誰彼を問わず、みんな統一を願っているということが分かります。それは統一教会の信徒だけでなく、韓国人もアメリカ人も、そしてアフリカの黒人もやはり統一を願っているのです。このように誰しもが願っている統一を、どのように成し遂げるかということが問題です。

 皆さん、世の中で一番近い関係とは何でしょうか。国が近いでしょうか。国も近いことは近いですが、一番近いものではありません。何が一番近いかというと、ある人は「夫婦の関係が一番近い」と言うでしょうし、またある人は「親子の関係が一番近い」と言うでしょう。もちろん夫婦の関係も近いですし、親子の関係も近いですが、そのような関係よりもっと近いのは、まさしく自分自身なのです。

 最近の人々は、父母ゆえに切ない、兄弟ゆえに切ない、あるいは息子ゆえに切ないという話をよくします。その「切ない」という言葉も、結局は自分を中心として言っている言葉です。「うれしい」ということも同じです。もちろん相対的な与件によってこそ、そのような結果は出てくるのですが、結局それも自分の観念でもって「うれしい」と言うのです。したがって世の中で一番近いものも、一番切ないことも、一番うれしいものも、結局は自分自身によって決定されるのです。

◆宇宙統一を願う前に自己統一を完成しなければならない

 今、世界の万民は統一を願っています。しかし、どんなに世界が統一されて、天宙が統一されたとしても、自分自身が統一された喜びを感じることができず、統一された自分を見いだせないならば、その統一は自分と何の関係もないのです。すなわち、外的な世界が統一されて幸福の夢の国に浸ることができるユートピア的な世界が展開されたとしても、その世界は自分とは何ら関係がないというのです。

 こういう観点から世界の歴史を考察してみれば、今まで人々は、自分自身の統一よりは世界の統一にだけ力を注いできたということが分かります。けれども、どんなに世界を統一したとしても、自分自身が統一できていない限り、その統一は不幸な結果として現れるだろうし、結局は壊れてしまうでしょう。もし、神様も単にこの世界だけを中心として統一しようとするなら、「愛の神様だ」と言うことができないでしょう。

 歴史の変遷に拘束されず、時代の存亡にも影響されない確固不動の統一の主体をもっていない限り、「完全に実現された統一世界だ」と言うことができないのです。そのような観点から見るなら、神様もそうですから、子女として造られた人間もやはりそうなのです。

 今日この民族が新しい世界に対する統一基準を立てておくことができなければ、統一のための解決点を見いだすことができません。また、その構成された集まり自体が一つの統一的な実体として糾合できる形態を整えるまでは、どんなに努力したとしても無駄になるのです。一つの国がそうであるように、この世界も同じです。

 それゆえ、宇宙統一を願う前に自己統一を完成しなければなりません。そして、宇宙主管を願う前に自己主管を完成しなければなりません。問題はそこにあります。結局「私」に問題があるというのです。皆さんが統一教会に入って、統一教会自体が統一されているか、されていないかということを考えるのではなく、まず皆さん自身を統一できるか、できないかということを考えなければなりません。それは決して簡単なことではありません。

 皆さんは統一するにおいて、どのような統一を願っていますか。自分自身を統一するには、悪い方向に統一することと、良い方向に統一することの二種類の方向があります。悪い方向に統一するには研究も必要ないし、考えることも必要ないし、工夫もする必要がありません。その統一は早くできます。けれども、良い方向に統一するには、多くの研究と、考えと、工夫を必要とするだけでなく、非常に大変なことです。

 ところが人の心は、絶対に一人でいることはできません。心は必ず体と共になければなりません。体がない所には心もあり得ないというのです。すると、体がなければ心はどこへ行きますか。仕方なく霊界へ行くしかないのです。したがって、心は体と完全に一つになることを願っているのです。そうしてこそ、心が存在できるわけです。

 心がどこから出てきたのか分かりませんが、皆さん一人一人に心があるということは皆さん自身がよく知っています。では、心と体はお互いに友人になるでしょうか、けんか相手になるでしょうか。もし友人になれず、けんか相手になるならば、どちらが争いの主人公になるでしょうか。皆さんはこのようなことを確実に知らなければなりません。心と体が争うようになれば、いつでも体が心にまず争いを仕掛けるというのです。心はじっとしているのに、体は心をいたたまれないほど振り回すのです。男性の体でも、女性の体でも、その体のほうがまず心を困らせるのです。

 それゆえ、私という一個体において、心と体の統一を成し遂げなければなりません。統一を成し遂げる秘訣とは何でしょうか。皆さんが「心よ、体よ、君たち一つになりなさい」と命令をしたとしても、心と体が統一されることはありません。それゆえ、私たちは統一できる方法を知らなければならないのです。

◆神様の目標は人間の完全な救い

 では、神様は人間をなぜ救おうとされるのでしょうか。万民を全部分裂させて、この世を戦場にして救おうとされるのではありません。神様は、万民が統一され、お互いに好み、お互いが一つの目的のもとで和同して、お互いがお互いを必要とする世界を構想していらっしゃいます。このような世界をつくるために、神様は万民の救いを目的としていらっしゃるのです。

 しかし、どんなに神様が平和を待ち焦がれていらっしゃったとしても、いつも問題ばかり起こすこの体をそのままにしておいて、統一するということは絶対に不可能です。万民が願っている理想世界、統一世界を成し遂げるためには、必ず体と心をまず統一させなければなりません。体と心が分離した状態のままでは統一できません。

 人間の体と心、この二つのうち、一つはならず者です。皆さん、ならず者が好きですか。ならず者といえば誰もが気を悪くします。戦いのない平和主義を誰もが好みます。しかし、体の中にはならず者的要素があるのです。これが存在するようになった原因は堕落したためです。

 私という個体をおいて見ると、善と悪の二つの目的を指向する要素が私の体の中にあります。善を指向する心があるかと思えば、それに反して悪を指向する体があります。これを解決することができなければ、数万年の歴史の中でいつも体は怨 讐の利用物となり、いつもその状態で残っているの
です。

 ですから、人間の完全な救いを目標とする神様であられるとするならば、人間の腐った部分を取り除くことができなければなりません。それでこそ立派な神様なのです。皆さんはどのような神様を願いますか。「体よ、罪深い世の中でこれくらいでも残るためにどれほど苦労したことか。大きな功労を立てた」と背中をたたいてくれる神様を願いますか。そうでなければ、無慈悲にこの体を打つ神様を願いますか。どのような神様が良いでしょうか。

 この体を一気に打ってしまいたいのが神様の心情です。私たち人間の体は、堕落世界と連絡できるアンテナになっています。また、この体は人間世界の罪の根源です。こういう話を聞いて気分を悪くする人は贖 罪しなければなりません。そのような贖罪の歴史が地上で展開されるようになれば、統一は自動的に成されるのです。したがって、統一はそれほど難しいことではありません。ただ体を打てばいいのです。

 もし神様が、人間を二つの目的をもった者として造ったとするならば、その神様は論理的な神様ではありません。この地上に存在するものの中で、目的なく存在するものがないように、二つの目的をもっては生きることができないのです。同時に二つの目的をもっては存在することができず、滅びるようになります。皆さんの心が二種類の目的地をもって、一つの体が二箇所に同時に行くことはできないので、まず二つの目的がお互いけんかをしなければなりません。

 人生の行路をなぜ「苦海」と言うのでしょうか。それは正に人間がこの二つの目的世界の岐路に立って、どちらか一箇所に決定して行かなければならない宿命的な存在になってしまったためです。このような悩みを打開するための戦いが残っているために、人生の行路は苦海となったのです。

◆高次的な宗教が行く道

 人間に必要なことは、一つの目的を完結できる所へ行くことです。それだけが、本来人間が存在する目的と一致するものであり、人間を造られた神様の創造目的に一致するものです。しかし、人間は堕落したので、二つの目的に引きずられて生きているうちに、いつの間にか白髪になり、平和を保つことができず、幸福が宿ることができない人生になったのです。ですから人生は、苦海であるだけでなく、苦痛と悲哀、そして悲惨と嘆きだと感じるのです。このように堕落人間の歴史がつながってきたために、神様はこの地上の人間に対する処理方法を講じざるを得ないのです。

 その処理方法として前面に押し出したのが、正に宗教です。他の方法では、絶対に解決することができません。金と権勢で解決できるものではありません。ですから神様は、これを解決し得る一つの方法として地上に宗教を立てざるを得なかったのです。

 それでは、その宗教というものは万民に必要なものなのでしょうか。それとも、ある特殊な人にだけ必要なものなのでしょうか。どうですか。ある人が老いて死ぬ時になって教会を訪ねて、ただイエス様を信じれば天国に行くことができるようになるのでしょうか。神様は統一された神様として数千年をつないでこられたがゆえに、神様の善の要素と一致していない人は、統一された世界である天国に行くことができないのです。

 どのような手段や方法を使っても、その世界に接近できないのが天理です。それゆえ、神様が人間世界の痛手を解決して、人間を救うための一つの方便として立てておいたものがあるのですが、それが正に宗教だというのです。

 それでは、宗教はどのような人に必要なのでしょうか。宗教は特別な少数の人にだけ必要なものではなく、万民に必要なものです。また、現在の人にだけ必要なのではなく、過去の人にも必要だったのです。しかし、彼らはこのような内容を知らずに死んでいきました。また、未来の人々も知るべきであり、彼らも必要とするはずです。

 宗教の教えは人の良心を育て、人の中にある悪い要素、すなわち悪を屈服させるものであることを確実に知らなければなりません。怨 讐は外にあるのではなく、正に私たちの中にあります。それが歴史的な怨讐なのです。

 それでは、高次的な宗教とはどのようなものでしょうか。世の中と妥協する宗教は、取るに足りない宗教です。そのような宗教は、結局は滅びてしまいます。世の中と妥協することなく、世の中の峠道を全部清算できる道理を教えてくれる宗教であるほど、善に近く接する高次的な宗教です。

 それで仏教やキリスト教では、心が願うままに体を打って主管しなさいと教えます。自らの肉身を否定し、生活を否定し、悪の世の中を否定していかなければなりません。外的な全体を否定して進め、というのが真の宗教の教えであるということを確実に知らなければなりません。

 ですからキリスト教では、聖書で神様以外の何ものをもあがめてはならないと教えています。世の中の肉情に従う生活から抜け出し、独身生活をするように教えてもいます。このように人間世界に宗教というものが現れ、肉身を打って主管しなさいと教えているのです。

 そのようなことを見ると、絶対的な善を立てることができる一人の主人が人類歴史の終末に現れなければならない、という結論が出てくるのです。したがって、歴史の終末には善の世界が来なければならないのです。それゆえ、すべての宗教には再臨思想があり、天国を憧憬する理想世界との接点をもたせるようになっているのです。なぜならば、宗教はすべて同じ目的を追求するからです。

 それでは、神様が願う世界とはどのような世界なのでしょうか。心が肉身を完全に主管することによって善なる立場で生きることができる一人の個人が立てられ、そのような個人が集まって家庭、氏族、民族、国家、世界を成すならば、その世界が正に地上天国であり、神様が願われる世界です。それゆえ、神様がいらっしゃる限り、その世界は必ず実現されなければならないのです。歴史上のあらゆる戦争は、正にそのような世界を成すための過程的な現象として現れたものです。

 人類歴史に宗教が必要だとするならば、その宗教がすべき最初の任務は肉身を征服することです。なぜならば、肉身によって歴史が滅び、肉身によって社会が滅び、肉身によってこの人類が滅びたからです。したがって、この肉身は怨 讐の母胎であり、罪悪の根本であるということを知らなければなりません。

 このように体を打つことが今までの宗教の根本なので、イエス様は四十日断食を通して過酷にも体を打たれたのです。体は高まることを願い、前に出ることを好みますが、宗教は体に、「服従して従順になり、死んで祭物になるように」と教えます。全部反対に教えます。なぜそうなのでしょうか。それは、心を打つためのものではなく、肉身を打つことによって世界的な綱をつたっていくためのものです。

◆無限に大きい人間の心

 皆さんは、心が善を指向するということを知っているでしょう。例えば、財布にお金が百ウォンあるのですが、かわいそうな人が通り過ぎれば心は、「おい。その金をかわいそうな人にあげなさい」と命令します。それからさらに「お前は下着を着ているのだから、その上着も脱いであげなさい」と言います。そのようにしたからといって、心がそれで終わるのではありません。

 ある気立ての良い人が、その民族全体の前にそれぞれ、二千ウォンずつあげたとしましょう。そうしたからといって心が、「おい、それくらいしたなら、お前のすべきことはみな終わったから、もう休みなさい」と言うでしょうか。心がそう言うでしょうか。とんでもありません。「お前の国を救ったならば世界があるではないか。この人類があるではないか」と言うのです。さらには霊界に行ってまでも、そのようにしなさいと心は命令するのです。

 皆さんは、心が何かということを確実に知らなければなりません。心はどれくらい大きいでしょうか。心は神様より大きいでしょうか、小さいでしょうか。心は、「世界をすべて私のものにしてしまったからもう楽に休みなさい」と言うでしょうか。考えてみると、地球よりも大きい太陽系があり、太陽系よりも大きい宇宙があり、この宇宙を造った神様がいます。ですから、心は何と言うでしょうか。「あの神様を占領しなさい」と命令するのです。このように心は、老若男女を問わずみなそうだというのです。先生の心も皆さんの心も、そのような面では同じだというのです。

 この心の目的とすることが何かということを、皆さんは知らなければなりません。心も一つの結果ですが、心が活動できる動機がなくてはそのようなことは起こり得ません。

◆愛と授受作用

 今日、科学者らはこの宇宙が物質からできているといいます。それでは、物質は何からできているのでしょうか。物質は力でできています。ここにおいて、力はそれ自体では生じ得ません。授受作用をしなければ、相対的な基準が造成されないために力が生じません。皆さんの体で作用し発生する力も、四肢五体で授受作用を通して出てくるのです。授け受けるのに比例して、力が生じるのです。

 力が存在する前に授受作用がなければなりません。それでは、授受作用をするにはどうあるべきでしょうか。一人では絶対に授受作用をすることはできません。それを否定する道はありません。授受作用をするにおいて、絶対に必要なのが相対です。これは、あらゆる存在様相にとって絶対に必要な条件です。相対がなければ授け受けることができないのです。

 それゆえ人が存在するためには、まず自身の体からやりとりする過程を経るのです。男性と女性も相対的条件を備えたうえで、互いに授け受けて初めて存在することができるのです。もしも男性が「女性は必要ない」と言い、女性が「男性は必要ない」と言うならば、百年もたたないうちにこの世界はみな滅びてしまうことでしょう。人が存在するためには、すなわち授け受けるためには相対を必要とするゆえに、今まで男性と女性が愛し合い、家庭を築いてきたのです。

 愛とは、授け受ける作用を起こす力のことをいいます。それは、男性と女性が授け受ける作用の力なのです。それゆえ、愛という力の母体が生じるためには授受作用がなければならず、授受作用が存在するためには男性と女性が絶対的に必要なのです。すなわち、相対条件が必要だというのです。

 この宇宙の最初の出発は、どのようになされたのでしょうか。それは唯物論者たちがいうように、矛盾による闘争から由来したのではなく、相対的な関係が成立するところから始まったのです。すなわち、相対的な関係を追求するところから宇宙が発生し始めたというのです。

 例えば、今ある人が道を行くときに、相対的な目的がなければ、その歩みは無意味なものになってしまいます。行き来する作用も必ず相対的な条件を中心として起こるのです。相対がなければ、絶対に作用が起こらないのです。そして作用が行われなければ力も出てこないのです。

 それゆえ、宇宙の根本もやはり相対的な条件を備えています。それでは、相対的な条件はマイナス、すなわち損をすることに作用をするでしょうか、利益となることに作用をするでしょうか。もし、どこかへ行く時に損をするために行く人がいれば、その人は正常な人ではありません。何かプラス、すなわち利益になる条件があるときに行く人が、正常な人です。ですから、相対と授受作用をするときに、損をするために動く人は絶対にいないというわけです。

 物質の構成要素である元素等の作用を調べてみても、二つの元素が合わさるには、合わさる前よりも良い条件があってこそ化合するという事実を知ることができます。すなわち自分にとってプラスになる価値を発見しなければ作用することがないというわけです。

◆授受作用の動機

 このような観点から見れば、矛盾対立して互いに作用するという弁証法は根本的に間違っているのです。道を行き来する人々が何げなく行き来しているようでも、自分たちにプラスになる条件があるために行ったり来たりするのです。一日にわずか百ウォンでもプラスするために行ったり来たりするのであって、損をするために動く人はいません。

 万物の霊長である人間の感覚がこうであるので、万物もこの法度の公式から抜け出すことはできないのです。神様の天地創造も、プラスになる条件を発見するように、喜びと幸福の内容を散りばめたものなのです。損をするために存在する人が一人もいないように、力が生じるためにも相対的な条件を必要とするのであり、その相対的な条件は必ずプラスになるところだけに作用するのです。これは鉄則です。

 私たちの心を静かに見れば心はどうしても欲張るのですが、それは損をする条件のためにそうするのでしょうか。でなければ利益となる条件を見いだす可能性があるからでしょうか。それは利益となる可能性が絶対的にあるために、何よりも強烈な心によって動くのです。ですから、心は神様を占領しても喜ばないというわけです。それゆえ、聖書には「私たちが神様の心に入っていくのではなく私たちの心に神様が入ってくる」とあります。

 人間の心は、原則的にプラス作用によってのみ動くのです。それが鉄則だというのです。そうだとすれば人の良心は、どうしてして国を超え、世界を超え、天地を超えて創造主までも超えようと作用をするのでしょうか。これは滅びるためではなく、栄えるためなのです。

 栄えるには、どうしなければならないでしょうか。神様を占領して喜ぶときに栄えるのです。神様に最も好まれるのは、人それ自体よりも、その人に隠れている愛です。人が一番好むのはほかならぬ父母の愛、夫婦の愛、子女の愛という愛なのです。

 それゆえ、人の心は神様を占領しても満足しません。神様の中に隠されている愛まで占領しようとするのです。なぜならば、心が最も高く上がってとどまることができる究極的な安息所とは、すなわち神様の愛だからです。これを知らなければ人生の幸福を見いだすことができません。

◆神様の愛まで占領してこそ世界統一が可能

 このようにおびただしい数の人の心を中心として幸福を追求するためには、神様の愛を占領しなければなりません。そうしないで世界を占領しても幸福ではなく、神様を占領しても幸福ではありません。神様の愛を占領して初めて、心がそこを永遠の安息所とするようになるのです。

 愛さえ占領すれば、その人のすべてを占領したも同然です。たとえ学歴がなく、財産のないお嬢さんであったとしても、一つの国の総理や大統領になることができるような男性の愛を占めているならば、そのお嬢さんはその国でトップを行く女性になることができるのです。小学校しか出ていないお嬢さんでも、そのお嬢さんが大統領の夫人になれば、すべて人々はそのお嬢さんを小学校卒業生として待遇するのではなく、大統領夫人として待遇するのです。それはすなわち、そのお嬢さんが大統領の愛を占領したからです。

 何が彼女を大統領と同伴的な価値をもち、その場に堂々と立つことができる権威と権限をもつようにしましたか。それは正に愛の力なのです。そのようにもし神様の愛を独占した人がいるなら、その人は堂々と神様の摂理に参与することができるのです。このように人間の心は、宇宙の根本であられる神様の愛を占領できる本質的な根拠地なのです。しかし、今まで数千年の歴史が流れてきましたが、神様の愛を占領した人は一人もいませんでした。

 それで宗教は、神様の愛を占領する方法を教えています。それは宗教の教えを通じてのみ可能なのです。一番近い神様と人間との愛の内容をより徹底的に教えてくれる宗教であるほど、高次的な宗教であり、世界的な宗教なのです。こういう観点から宗教を比較してみると、キリスト教がそのような内容を最も多くもっています。

 キリスト教では、神様を父だと教えています。また、イエス様は新郎であり、私たちは新婦だと教えます。このように神様の愛を中心として家庭を立てようとした宗教は、キリスト教しかありません。それゆえ、キリスト教は名実共に神様が立てた世界的な宗教だという結論が出てきます。

 そのようなキリスト教を信じなければならないでしょうか、信じてはならないでしょうか。悪なる心を取って捨てる自信がない人々は、信じなくてもかまいません。父母の愛をはねつけた人間であるがゆえに、その愛を再び探さなければ、人としての資格がないのです。

 宗教は、神様が存在されるということを明らかにし、神様の愛を占領する方法を教えます。それゆえ先生は、今統一教会を立ててこの仕事をしているのです。神様の愛さえ占領すれば世界の版図が変わるのです。近ごろ神様の愛をさておいて理想と幸福を議論する人々がいますが、そのような人々はすべて滅びる群れです。

 全世界のあらゆる福の根源であり、あらゆる力の総括的な中心の母体であり、絶対的な統一の実体であられる神様の愛をもった人だけが、統一世界に加担することができ、統一世界の役軍になることができるという結論が自然と出てくるのです。

 人間の心がそこまで至ったとすれば、どれほど素晴らしいでしょうか。ところが心は、どうして現実を否定するのでしょうか。否定せざるを得ないのです。それで統一教会では、現実を否定して体を打てと命令するのです。道を知っているからです。

 多くの人々が夢に願う希望峰の標準としてあられる神様の愛を占領した人々によってのみ、世界統一が可能なのです。彼らを除いては、統一は不可能です。それで、神様の愛の土台を証し占領することができる方法をもって出たのが統一教会です。

◆心と体を統一させる方法

 人の心と体を統一する方法は二種類しかありません。一つはこの体を打って占領する方法であり、もう一つは体を打たずに統一する方法です。ところで強制的に体を主管する方法は良くありません。それではどのようにすれば良いでしょうか。今まで心は、ふいごのように一度も体と対等に闘ったことはなく、いつも敗れてきました。それは心の力が弱いからです。

 この心に注射を打って、力が二、三倍に増すならば、体を引っ張っていくくらいは問題ではないでしょう。一生懸命に引っ張りながらいかなければならないのです。自動車のチューブに空気を強く吹き込めば大きく膨らむように、心にも力を強く注入すればどうなるでしょうか。力が強くなるでしょう。そうしてから、この心と体が闘えば誰が勝ちますか。このように容赦なく体を打って占領する方法と、心に力を加えるという二種類の方法があるのです。

 心の力の源泉は愛です。ですから、心が授け受けることによって生じる爆発的な力を神様に連結しさえすれば、それが何倍、何百倍、何千倍でも統一できるのであり、世界万民が待ち焦がれた願いを成就でき、永遠に共に暮らすことができると同時に、天国も私のものにすることができるのです。その秘訣が正に愛です。愛は統一に向かって上がるエレベータであり、統一を成し遂げるための絶対的な秘訣なのです。

 母親と父親の間に愛がなければ一つになることができないのです。皆さんはなぜ愛を好みますか。好むまいとしても好まざるを得なくなっているからです。父母が互いに愛する力が自分のための力よりも強いほど、より理想的なのです。父母を完全に一つに結びつけるのが愛の綱です。鎖は時間がたてばさびついて切れますが、愛の綱は永遠なのです。そして、親と子の間は御飯やお金では結びつけることができません。唯一、親子の関係の愛によってのみ結びつけることができます。

 兄弟が一つになることも、愛によってのみ可能なのです。それゆえ兄弟の間でも愛であり、一つの家庭を中心として親戚が一つになるにも愛であり、氏族、民族を一つにするのも愛であり、一つの国、あるいは世界を一つにするのも愛であり、神様と人間を一つにするのも唯一、愛しかないというのです。

 人間が愛を最も好むのも、愛が全体を統一させて私のものとする主体だからです。人々は、愛がどれほど素晴らしいものなのかを完全に知るすべがありません。それで、先生が愛を持ち出したのです。神様は、悲しむために被造物を創造されたのでしょうか、それとも、喜ぶために創造されたのでしょうか。プラスとなるために創造されました。プラスになれば喜びが生じるのです。そうすれば、喜びの対象に愛が流れていくのです。

 神様の愛は、統一の源泉になるのです。この愛をもって現れる時には、万国を消化することのできる力が生じるのであり、万国を抱いて永遠に引っ張っていっても、もっと引っ張ってあげたいという力が生じるのです。

 愛は、このように父母が子供を愛するごとくに、愛すれば愛するほど喜びが増すのです。愛は一つになるものなのです。もしも神様の愛と一つとなった愛があったとすれば、その愛を誰も取り去ることはできないのです。ですから、どれほど素晴らしい愛でしょうか。

 このような愛を失ったのが堕落です。それゆえ、統一教会が教えてくれる真理によって、まずは神様の愛を知るべきであり、その次には神様の愛を私のものとしなければなりません。さらには、その愛によって私を見て喜ばれる神様を知らなければなりません。これを知らなければ、愛があったとしても、それは私にとっては必要のない愛です。

 私を好きなのか嫌いなのかを知らなければ、その愛は壊れやすいのです。特に女性には、夫の愛が最も重要です。「愛している」という言葉は何度聞いてもまた聞きたいのです。なぜそうなのかといえば、人間始祖が時ではない時に愛の種を蒔いたからです。

 統一教会は、神様の愛を紹介し、その愛を所有して、自分がその愛の前で喜ぶことができる座へ行くための道を教えてくれる所です。「統一」というのは引きずられていくのではなく、引っ張っていくのであり、私によって統一することなのです。愛らしい人がいれば四方から押し寄せてきます。天下一品の美人がいれば、天下のあらゆる男性が関心をもって寄ってくるようになっています。それで、皆さんが統一教会に一度入れば、くっつくようになっているのです。

 人間は、堕落することによって神様の愛を失いました。神様の愛がない状態で関係を結んだことが堕落であるがゆえに、今日私たちが世の中で結ぶ愛の因縁は、本性の人間が慕うことのできない愛です。その愛はすべて、地上で溶けてなくなる愛です。

 それゆえ霊界に行けば、地上でどんなに仲の良かった夫婦も、赤の他人となってしまいます。間違いなく別れます。しかし、本来堕落せずに神様の愛で結ばれて出発した夫婦ならば、永遠に別れることはないのです。

◆天国に行くことができる人々

 天国は、神様の愛を中心に完全に一体となった夫婦が入っていくところであり、その一体となった夫婦から生まれた子女、すなわち神様を中心として一体となった家庭、氏族、民族をすべて率いて入っていくところです。それゆえ、地上で家庭をもつことができなかったイエス様は、今まで天国に入ることができずに楽園にとどまっていらっしゃるのです。

 神様の愛を中心として結ばれた夫婦でなくしては天国に入ることができません。天国は相対的な理念の世界です。それで、家庭がすべて入らなければならず、自分の氏族と国がすべて入らなければならないのです。そうしてこそ天国が建設されるのです。

 今までは誰も天国に入ることができませんでした。みな天国へ行く待合室で待っているのです。神様の愛の門がまだ開いていないので、天国の門が開かないのです。

 それで、この天国の門を開けるためにイエス様がいらっしゃったのですが、地上でその相対的な実体に会うことができませんでした。すなわち、イエス様の愛にプラスになることができる相対的な主体が現れなかったのです。それゆえ、イエス様は今まで二千年間、苦労の路程を歩まれながら天国の門が開くその日を待ちわびてこられたのです。再臨する日に万民の中から一人の新婦を選んで、神様の愛の門を開けて入ろうとされたのです。

 統一教会員たちは、何の力がなければならないでしょうか。心をポンプでもって強くして、体を引っ張っていくことのできる力を養わなければなりません。そういう力を養って、既にこの世にいる人々を統一することが問題なのです。

 神様の愛を中心としてのみ統一することができます。それゆえ統一教会の真理は、世界万民に神様の愛を知らしめ、その愛を、もつようにしてくれます。そして神様の愛の中で、自分がどのような位置にあるのかを知ることができる内容を教えてくれます。黒人や白人、黄色人を問わず、人ならば誰もがみな同じ心をもっています。それゆえ世界の万国は、統一されるべきだという結論が出てくるのです。

◆万民の願いである統一世界

 人々は、統一教会の文先生といえば、高い席に座って号令でもかけているというくらいに考えています。けれども、統一教会に来たことのある人は、「雰囲気があまりにも自由で、上が下のようでもあり、下が上のようでもある時があるので、とまどいを感じる」と言います。このように私たち統一教会の雰囲気は、本当に自由な雰囲気です。正に解怨された所です。それゆえ、家庭でも解放であり、国においても解放です。

 神様が先生をこの地に送られたのは、冠でもかぶせておいて、踊りでも踊ろうとしてそうなさったのでしょうか。先生が今まで闘って開拓し建設した世界を神様のみ旨に照らしてみれば、これは先生が真実な仕事をしているという間違いない証拠だということが分かります。ある人がどんなに「うそだ」と言っても、歴史的な生きた証拠が山ほどあるために否定できません。

 神様の愛のためには夫が問題ではなく、家庭も問題ではありません。神の国とその義を求める理想に天下が泣く時が来ることでしょう。ですから、その時のために忠孝を千世、万世にたたえることができる自身として出ている人々が統一教会員です。それゆえ、統一教会員の価値はこの世的な成功や希望、幸福といったものとは比較できないということを皆さんは知らなければなりません。

 統一は私の体と心から成さなければなりません。これを教えてくれるのが統一教会です。したがって統一教会に来れば、他人のごとく疎遠だった人も、兄弟よりも身近に接するようになるのです。また、肉身の父母ではない真の御父母様に侍り、異なる兄弟と、異なる国と、異なる民族をより強く糾合することのできる高次的な愛をもっています。ですから、このような所を「万民の願いの統一世界」と言わざるを得ないのです。統一教会に入れば、このような願いの要素を備えもつことができるのです。

◆天の勇士の使命

 統一教会は理想的な神様の愛だけではなく、過去の歴史過程に現れた神様の悲しい心情を教えてくれます。歴史を知らない人が現実を知ることはできず、現実を知らない人が未来を知ることはできません。

 神様を知るということにおいても同じです。過去の神様を知らずしては、今日の神様を知ることはできません。統一勇士の姿は、神様の愛の中に潜んでいる喜怒哀楽を探して現実に表現し、神様の愛をもって人類のところへ走っていこうとする姿でなければなりません。これが、唯一の統一の絶対条件だということを確実に知らなければなりません。

 それゆえこの道を行くにおいて、ある時は世の中から迫害を受けることもあるでしょう。そして、私たちがこれを克服しなければならないことになるのです。これまでは、統一教会に通う人は非難と嘲 笑の対象になってきました。しかし、これからもう少しすれば、すべての誤った事実をマスコミを通じて宣布します。そういう時が必ず来るのです。その時に、先生にマイクを三日間だけ任せてみてください。

 皆さんは、このようにとてつもない世界を創造するための天の勇士となり、天の伝令となって、勝利だけを目的として行かなければなりません。勝利が宿るその国に行ってとどまり、勝利が宿るその世界で父に会わなければなりません。

 それゆえ、統一の勇士たちは戦いの行路がどんなに長く、その行軍がどんなに退屈なものだとしても、その道で失望してはならないということを知らなければなりません。先生は、「万民の願いは統一世界」の宿願を果たすために先頭に立って行っています。このような先生の所信は、皆さんを前に置いてしかりつけ、殴ってでもその世界に連れていこうというものです。行くまいとするならば、首をくくってでも引っ張っていこうというのです。

 この道がどのような道であるのか今はよく分からないけれども、実際に知ってみると心配の多い道です。安らかに眠ることのできる日はなく、楽に座って食事をする時間がありません。全体のために犠牲にならなければならないからです。力を残しておいてはなりません。少しでも注ぐ気力が残っているならば、しなければなりません。

 皆さんの中で先生のみ言を聞こうとする人が十人でもいたとするならば、その十人のために先生はみ言を語らなければならなかったのです。この道は単純な意識革命ではありません。統一教会は、今まで堕落した先祖から受け継いだ心情的な内容を、高次元の愛の世界へと竜巻のように引き上げようというのです。それゆえ、私たちが行く道には休む時間がありません。

 統一教会の先生のすることは、「他の誰かに代われ」と言っても代わることができません。世界のどのような有名な博士だとしても、代わることができません。先生でなければ誰もすることができないのです。このような先生であるがゆえに、皆さんを働き手として使うという話をすることができるのです。

 皆さんには、この民族を生かさなければならない使命があります。したがって皆さんは、父母の心情をもって、開拓者の使命を堅持して進まなければなりません。

 皆さんはこれから、神様がいらっしゃることのできる愛の世界と、善の世界を神様の前に立てなければなりません。そのために、世の中の困難と悪を占領することのできる天の勇士として、責任を全うしてくれるようお願いします。




















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