文鮮明先生のみ言集
訓教経(上)


本郷の国

一九六八年三月十日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第十九巻』


 きょうは「本郷の国」という題名でお話しします。本郷の国とは、言い換えれば復帰しなければならない国のことです。

◆本郷の世界を願ってきた全人類

 今私たちが生きているこの世界は、人間のあらゆる希望が満たされた幸福な世界ではありません。自他を問わず、そのように思っています。個人がそのような世界に生きており、家庭、民族、国家、世界がそのようであるということは言うまでもありません。

 ところで、人間が願い、探し求めてきた世界は、このような世界でしょうか。そうでなければ、もっと高くて貴い希望の国でしょうか。また、私たちの本心が願う理想的な国はあるのでしょうか。

 私たち人間は、自分が自ら生まれることはできないことをよく知っています。このような人間が今までの歴史を築き、今も築き続けています。このような人間なので、人間自体の能力では本心が望む希望の国を築くことはできないのです。

 それゆえ、私たちは「本心が願っている国を私が築くんだ、どのようにしても私が築いてやる」と主体的な立場で考えるのではなく、そのような国が早く来るのをただ願っているだけなのです。それが全世界の人々の心であることを私たちはよく知っています。

 このように、人間が主体的な立場でなく対象的な立場に立っていることを考えてみるとき、本郷の国、すなわち理想の国をこの地上に築くためには、人間の力だけでなく、背後のある絶対的な力がなければならないということが分かります。

 なぜなら、この世は、キリスト教でいうように堕落した世の中だからです。この世は、堕落した世の中であるために悲しみの世の中であり、苦痛の世の中であり、悲しみと嘆きの世の中です。それでキリスト教では、この世を審判してしまい、私たちの本心が願う本郷、すなわち新しい理想世界へと向かっていかなければならないといっているのです。

 キリスト教だけでなく、この地球上に散在している数多くの宗教も、そのような理想の国を欽慕する中心思想を立てて進んでいます。したがって、私たちは必ず、本郷の国と本郷の地を探し出さなければなりません。そして私たちは本郷の人とならなければなりません。これが全人類の願いだというのです。

◆なぜこの世界を清算しなければならないのか

 今日この世界に数多くの人々が生きていますが、実際のところ本郷の人ではありません。数多くの国家がありますが、やはり本郷の国家ではありません。一つの理想世界を指向して進んでいるこの時代を考えてみても、今の世界は本郷の世界ではないということが分かります。

 今日の世界がそのような立場にあるということを私たちが認めれば認めるほど、このような環境全体を歓迎しなければならないのか、あるいは排斥しなければならないのかということが問題となってきます。今の国と世界は、私たちを満足させるだけの本郷の条件を兼ね備えた国ではありません。「それでは、そのような世界ではないので、これをどうしたらいいのか」という問題にぶつかっているのです。

 それゆえ、次元の高い宗教は現世と妥協することを否定してきました。言い換えれば、今の世界に目的を置いてはいけないというのです。また言い換えると、自分個人を中心として自分の意志によって生活するすべてのことを、完全に否定してきました。

 このようなことを考えてみるとき、歴史上にどんなに立派な世界があったしても、その世界もやはり本郷の世界ではなかったのです。また、今後築かれる世界も、本郷の世界を待ち焦がている人にとっては容認できない環境と社会であり、国家と世界であるというのです。
 それでは、これをどのように解決すべきなのでしょうか。歓迎することもできず、どうすればいいか決めることもできない状況に置かれているのが、この地上に生きている私たち人間なのです。それゆえ、誰もが堕落圏内に立っているのであり、またこれ以上ない悲しみと、苦痛と、悲嘆の立場に立っているという現状なのです。

 その悲しみと苦痛が連続し、死亡と破壊をもたらし、結局は終末を迎えざるを得ないというのです。そうして時代を経てきながら、何かが、知らないうちに人の心を通して、この世が破壊される終わりの日を予告してくれました。

 また、ある絶対者がいるとすれば、その絶対者が、絶対者の本意と和することのできる個人と家庭と国家と世界を願うことは間違いない事実です。そして絶対者も、この地上に終わりの日が来るという事実を予告せざるを得なかったということを知らなければなりません。それゆえ、世の中に終末が来るということを自他共に認めるようになったのです。

 今日、この地上に生きている人々は、いつも自分の生活が幸福の起源となり、幸福に達することを願っています。しかし、この地上でどんなに幸福を追い求めたとしても、生まれる時に不幸な立場で生まれたために、その幸福はどこにも探し出すことができません。

 結局のところ不幸な環境をたどり、不幸な終末を迎えなければならない人生なのです。本心が待ち焦がれている本郷の家庭、本郷の社会、本郷の国、本郷の世界を築くことのできる立場に置かれていない人間なのです。ですから、そのような人間が懐かしがり、願い、要求するすべてのものは、現在置かれている生活環境を土台としては絶対に実現できないという事実を、皆さんははっきり知らなければなりません。

 それゆえ、どのようにしてでもこの生活環境を処理しなければなりません。どこの誰であっても、この地上にいるすべての人々は、必ずこの生活環境を打破して処理しなければなりません。もしこの世界を愛し、心配する人がいるならば、これを処理できる方法を研究しなければならないでしょう。そしてこれを処理するための、社会活動や世界的な活動をしなければなりません。

 ところが、人間がどんなに生活環境を処理するとしても、一つの絶対的な基準を知ることなく処理したとするなら、それは完全な処理にはなり得ません。

 言い換えれば、現在の人間が、生活環境を自分たちなりにどんなにうまく処理しようとしても、この生活環境が本郷の世界へと移ることができる人格の基台、家庭の基台、また社会の基台を成し得る基準に至ることはできないのです。したがって、人間の力だけではどうすることもできないというのです。

 皆さんは、皆さんの心を自分の思いどおりにすることができません。「私は私のものだ」と自称する「私」になってこそ自主性があるのです。そして、その自主性をもってこそ私を主管し、私を審判することができるのです。それにもかかわらず、皆さんが自分自身を自分の思いどおりにできないというのはどうしたことでしょうか。

◆人間の力だけでは理想世界を築くことはできない

 自分自身が動機となって出発したとすると、主体性をもった私は自動的にそれに対する結果を支配することができるでしょう。ところが、自分は生まれてきたけれども、それは私の心が動機となって生まれたのではないのです。

 このように考えてみるとき、私たちの心は生まれた当時の、その場から出発したのではないということが分かります。私が主管して、私の思いどおりにできる基盤から私たちの本心が出発したのではなく、私と関係のないところから流れてきたことを知らなければなりません。すなわち、他の何かが動機となって流れてきたのです。したがって、私は主体の立場ではなく、対象の立場に立っているのです。このように私を左右し得るある生命の根源があったために、私自体がそこから流れてくることができたという事実を否定することはできません。

 私たちはここで、自分が自分の思いどおりにできない環境の中で生活している存在であることを知らなければなりません。したがって、私自身がある方法を練って世の中のことを処理したとしても、本心の基準と完全に一致して処理しなかったとするならば、処理したその問題が、また再び否定の因縁にぶつかるようになるという事実を知らなければならないのです。

 このように考えてみるとき、現在の人間がこの世界のあることを否定することができ、絶つことのできる一つの方法を練ったとしても、その方法が、永遠に私たちの胸の中に一致できる基準や新しい世界を保障する絶対的基準を成し得る基盤とはなり得ないというのです。それゆえ、人間の力だけでは新しい理想世界を築くことはできない、ということを私たちは知らなければなりません。

 この世で滅びたい人がどこにいて、不幸になりたい人がどこにいるでしょうか。しかし、今までの歴史の主流を見ると、数多くの人々が神様の意図とは関係なく不幸な目に遭い、また滅びてきました。結局、数多くの運命の中で人間がうめいているのです。言い換えれば、悲惨な境地において人間が方向を模索したとしても、その方向はあいまいで暗中模索する立場に置かれているのです。それはあたかも霧の中の虚空を切り開いて進むのと同じです。それで、歴史上に大きな志を抱いて世界と人類の将来を案じた人々は多かったのですが、いまだ根本的な解決点を見つけ出すことができずに、この歴史は流れているのです。

◆成すべき本郷の理想世界

 イエス様も、「わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか」(ルカ一二・四九)、また、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今それに堪えられない」(ヨハネ一六・一二)と語り、嘆かれました。このことを考えてみるとき、その背後に、実生活に表れる外的なものよりも、内的な裏面の深いその何かがあったという事実を知ることができます。

 これが、悪なる世の中を断つことのできる動機であり、起源であるという事実を皆さんは深く考えなければなりません。

 不幸になる条件があるとするならば、自分でそれをなくさなければなりません。そして、険しく難しいあらゆる環境が自分を包囲しているという事実を皆さんは知らなければなりません。このような環境に置かれている統一教会員は、「これを突破して進んでいくのだ」という思いがなければならないのです。

 それでは、ここで要求されることとは何でしょうか。いかに人間が平和の国を成そうとしても、人間の世の中のその何をもってしても、世界的な平和の国を築くことはできません。もし可能であるとするならば、今よりも昔の多くの道人たちが精誠を込めたものを通して、既にその世界は成し遂げられていたでしょう。今日、人々は、発達した科学文明の中で実存主義と現実主義に立脚して、その理想を探求しようとあえいでいます。

 このような時代とは違い、過去の道人たちは深山幽谷に入っていき、「心の欲求、心の本郷とはどこなのか」と求めながら内的な内容をもってあらゆる精誠を尽くしました。そうして、その人格基準を探し立て、その人格が喜ぶことのできる善の世界である、人類の地上天国を成し遂げようとしました。これを探し出すために、精誠を込めて祈祷した人々が多かったのです。

 しかし彼らが、この地を整備して、この世界を解決し得る基準をいまだ探し立てていないのに、主が来られ、世の中を救うことができるのか、また皆さんは、自分の人生が願う本郷の国である理想世界を築くことができるのか、ということが問題なのです。

◆心と体の統一が必要

 私たちの人生においては、他の何よりも、心と体が一つとなることができず分かれていることが問題です。心と体が一つになっているのかというとき、この体が怨 讐なのです。心はまっすぐに行くことを望んでいるのに、体は反対の方向に行くことを望んでいるのです。

 皆さんが「その人の心がゆがんでしまった」と言うとき、心がゆがんでいるのを見て言ったのですか。人の心はその行動を見れば分かるのです。心がまっすぐだというのも、やはり行動を見て知るのです。心がまっすぐな人は、統一的な行動をします。それは、心がしようというとおりに体が動くからなのです。

 そのようになろうと思えば、心と体が一つとなり得る、敬うことのできる理想の人格、理想の良心を中心として一体化した、理想の心がなければなりません。その一体化したところで咲くのが、正に愛です。心と体が一つになったところでは、神様が永遠に臨在できる愛が花咲くのです。

 イエス様も愛を中心として、自分自身を差し出してしまうほどに人を愛する心を持ち合わせていました。どんな宗教でも、愛を中心とするとき、自分自身が犠牲になろうという心をもちました。皆さんはこのような心を、一瞬ではなく、永遠にもたなければなりません。

 あたかも、太陽系がある原則に従って限りなく回っているように、私たちの心も一体を成して回っていかなければなりません。したがって、この自然の法則の力に一致することよりも、より高次元的な一体を成すことのできる人物を探し出さなければならないのです。

 それでは、心と体が一つになって永遠に変わることのない一つの心と一つの体で和す人が、この世に現れるとしたらどうでしょうか。その人の中に存在する愛とは、どのような愛であり、またその人が考える人倫道徳とは、どのようなものでしょうか。また、その人の心の中から爆発し流れ出してくるその愛によって形成された家庭観、社会観、国家観、世界観、宇宙観とは、どのようなものでしょうか。皆さん、一度考えてみてください。

 人間が本郷を探し出し、そこで心と体が一つになり人格を形成したならば、その人格は現実世界で形成された人格の圏内に支配されることなく、現実世界を超えてそのすべてを支配し得る人格の基準をもつようになるのです。しかし、そのような基準を立てていない人は、本然の家庭、氏族、民族を立てることはできません。

◆本心の基準と本郷

 どんなに世の中において優秀な人であったとしても、心と体が和して一つになっていない限り、その家系は滅びて悲惨になるものです。すなわち、心と体を一つにできていない個人が集まり家庭を成したので、和合することが難しいのです。したがって、楽しく暮らし平穏に生きていくことができるように見えても、一つになり得ない家庭は、結局滅びていくのです。したがって、本然の基準を中心として、心と体が完全に一つにならなければなりません。

 世界のどんな苦難よりも、どんな患難よりも、どんな戦争の被害よりも、私の心と体の闘いによって生じた被害がもっと大きいというのです。この闘いで心が敗れることにより、山のように悲しみの残骸が積み上げられているということを皆さんは知らなければなりません。このようなことを考えてみるとき、皆さんがどんなに大口をたたいても、それは敗残兵の立て札を持った姿だというのです。

 しかし、本来は心と体が闘って心が勝利することによって、いつも体を主管するようになっています。ところが、そのようにできなかったために、心と体が、それぞれ他の方向を向いていくようになったのです。

 ある人を「人格者である」と言うとき、その言葉はその人の外見や、学歴、経歴、または地位を見て言うのではありません。どれだけ原理的な立場で生きているのかが重要なのです。したがって、外的に華麗で多様なことだけを強調してはなりません。心が天に侍ることにおいて、変わらない心で神様のみ旨に合わせて生活していける姿勢を備えなければなりません。そのように生きる人が人格者です。

 昔の聖賢たちが教えてくれたのは、心を中心として天を敬う敬天思想をもつとともに、万民を愛せよというものです。天を中心とし、地を愛し人間を愛せよと教えたのです。

 それでは、皆さんの心は、天と接することのできる一〇〇パーセントの要素をもっていますか。世界人類と接することができる一〇〇パーセントの要素をもっていますか。また、地を愛することのできる一〇〇パーセントの要素をもっているのかというのです。

 本心自体を分析してみると、天を愛し、地を愛し、人間を愛すことのできる本然の心があります。この本心は、どんなになくそうとしても自動的に生じるのです。このような本心があるために、歴史的に理想世界、すなわち本郷の世界を追い求めてくることができたのです。それゆえ、本心の作用が私によって始まるというのです。

◆心の宗教時代が来なければならない

 今まで私たちが生きてきたこの世界は、どのような世界ですか。心の満足のための世界ではなく、体の満足のための世界なのです。しかし、体が好むことをもってしては、心の幸福を成すことはできません。すなわち、体を主とした外的な世界を中心としては、自ら幸福をもたらすことはできないのです。お金や権力、その何をもってしても駄目だというのです。

 しかし、今私たちが生きているこの世の中は、心があるのかないのかを考えもしない物質主義の世の中になってしまいました。これは教育の現状を見ても分かります。全部が物質文明中心の教育に重点を置いています。また今では、心がないと否定し、そして神様までもいないと否定するところまで来ています。

 それでは、人生において億千万の金を積んでも換えることができず、どのようなものとも換えることのできない絶対的な価値と絶対的な権威をもった心の位置がどこなのか知っていますか。そのような位置を中心として出発できる基準になっているかということが問題なのです。そういう個人による家庭、氏族、民族、国家、世界が新しくこの天地間にもう一度芽生えることなくしては、この世界を生かすことはできません。この世の中はどうせ一度は拒否され、除去されなければならない運命に置かれています。言い換えれば、一度はつくり直さなければならないのです。

 それは心と体が一つになっていない皆さん自身を見るとき、一層はっきりと分かります。心と体は大東亜戦争より危急であり、核戦争よりももっと恐ろしい戦いをしているのです。それらの戦争は休戦ということもありますが、ここには休戦もなく終戦もありません。私たちの人生がこの地で始まったその日から終わる時まで、私たちの心の中では休戦もない戦争が続いているのです。このような人々が家庭を築き、氏族を築いて互いに戦ってきました。ひいては民族と民族が、国家と国家が戦ってきたのです。

 このように、今までの人類歴史は戦争によってつながれた歴史でした。一日として戦争の終わる日はなかったのです。正にその戦いの根拠地がどこなのかといえば、それは心と体なのです。心と体が戦いの根拠地になることによって個人、家庭、氏族、国家が戦うようになったのです。そのため、終局的にはこの外的世界を清算しなければならないのです。

 それでは、私一人を中心として統一できる絶対的な安息の地はどこなのでしょうか。イエス様もそれを探すためにこの地へ来られたのであり、神様もそれを探していらっしゃるのです。その基点を探し出してこそ、この世の中を救うことができるのです。イエス様と聖霊、数多くの宗教人たちもそれをどのように探し出すべきかを苦労し考えてきました。皆さんは、それが人類が探していくべき最高の基準であることを知らなければなりません。それゆえ、自分の意志によって統一できないことも認め、自分の意志によって平和の世界を建設できないことも認めなければなりません。

 今の世の中は、他人も信じることができないし、自分自身も信じることができない世の中になりました。それでは誰を信じることができるでしょうか。宗教は「神様を信じなければならない」と漠然と教えています。しかし、神様を信じる前に、まず心を信じる心の宗教時代がなくてはならないのです。

 そういうわけで、宗教がこの世界の環境を次第に否定する力をもたなければなりません。それで、ある一瞬に、一度に清算できる力をもっている、そのような宗教が出てこなければならないのです。

 もし、何千年の間、凍りついた氷の塊の中に死なないでいて、生きて出てくる人がいたとすれば、その人は暖かい春をどれほど喜んで迎えるでしょうか。考えてみてください。今までの歴史上には数多くの峠がありましたが、人々はそのような人生の道を知らずにいます。それゆえ、この地に、そのような問題を解決できる何かが出てこなければなりません。だんだんと解決できる道よりも、急進的で爆発的に解決できる宗教が出てこなければなりません。

 人々は、家計の帳簿を整理するとき、収入と支出がいくらなのか正確に決算します。このように帳簿を整理するにも収支決算を徹底的にするのに、皆さんの人生はどうですか。一生の間に、生きてきたことを収支決算してみましたか。そうしたならば、その結果は赤字でしたか、黒字でしたか。赤字ならば、地を打って号泣しなければなりません。人は死ぬ場において楽しく歌を歌いながら死ぬことができなければならないのですが、死を前にして生きようとしてあえぐのは、赤字の人生を生きてきたという証拠です。

 私たちは絶対性を中心として、心情の世界において黒字の人生を送らなければなりません。ところが、いまだそのようになっていないために、これを解決してくれる宗教が出てこなればはなりません。その宗教は、漸進的でなく爆発的であり、瞬間的にさっと問題を引きはがしてしまうことのできる原動力をもった宗教でなければなりません。

◆人間がまず最初に探し出さなければならないもの\―本然の愛

 ここで皆さんは、根本となる人生の出発がどこから始まるのかを知らなければなりません。それは愛から始まるのです。その愛の動機から本然の愛の基準を復帰しようというのが、歴史時代の数多くの人々が願ってきた内容です。

 自分が生涯生活しながら誤ったことをどんなに是正したとしても、本然の愛を中心としないで結婚し子供を生めば、またそのような子供を生むようになるのです。したがって、本然の愛の基準によって夫婦となり子供を生んでこそ、すべてを復帰することができるのです。

 天の天倫の大道を広げ得る法度と、秩序の世界で運行するすべての軌道を主管することができるのが、万物の霊長である人間の価値です。そういう人間の本然の価値基準に立って、神様が喜ばれ人類の始祖も喜ぶ幸福の花が咲く春を迎えて、その歓喜の天地を一度に抱こうとする心をもたなければなりません。

 それで、そのような本然の愛が起源となり中心となって、新しく生まれた本然の息子、娘たちは、その本性の心の願うままに体が動くのです。これが天にしみている(神様が人間に願う)内容なのです。それは、何かの制度で実現される内容ではありません。本然の愛から統一されていくのです。

 それでは、人生においてまず最初に探し出すべきものとは何でしょうか。愛の本郷を探し出そうというのです。このような目的のために、宗教がこの世に出てきたのです。

 本然の愛を中心として夫婦の心が一つになるとき、ここで神様の永遠な愛が始まり、永遠に万遍なく広がっていくのです。それは、彼らが取り除くことも分立することもできない力の模索圏内にあるためなのです。このように主体と対象が一つになって一致でき、天宙を支配することのできる原動力の根源となるその愛を中心として一つとなった夫婦を通して生まれた息子、娘がいたとすれば、その子供たちはどのようになるでしょうか。皆さんはこれを考えてみましたか。

 イエス様は、「私は新郎であり、あなた方は新婦である」と語られました。神様は父であり、イエス様は息子となるのです。さらには、神様の愛を中心とした本質的な家庭においてイエス様は兄であり、私たちは弟や妹として兄弟姉妹であるというのです。このように個人の基準と家庭の基準を立てていかなければなりません。そのようになったならば、これは宇宙的な祝福となるのです。

◆本然の愛でのみ統一が可能

 今日、キリスト教がなぜ世界的な宗教となったのでしょうか。私たちの人生は、本心が追求する本郷の関門を通過しなければなりません。それゆえ、その道を教えてくれる内容をたずさえてきたキリスト教が、自動的に世界的な宗教となりました。

 今日の人間の世の中は、本然の愛の包みを持ち合わせていません。人間始祖が神様のみ意どおりにうまく行っていたとすれば、神様の愛を中心として絶とうとしても絶つことのできない関係をもっていたことでしょう。

 人間の幸福と不幸の起源は、どこにありますか。お金にあるのではありません。このごろは映画を見ても、歌を聞いても、愛についての内容をたくさん含んでいます。しかし、愛を表現する形態は整ったけれども、本来の愛の内容とは異なるものです。したがって、本郷の国を築くことのできる本然の愛の出発がなされていないというのです。本然の愛をもって出発した人がいるとすれば、その人の中にある愛を、どんなに億千万の大金を与えて買おうとしても買うことはできません。

 聖書を見ると、「神はそのひとり子を賜わったったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ三・一六)というみ言があります。愛を知ってみてこそ、このみ言が理解できます。

 私たちの人間世界に本郷に行くことのできる代表的な橋を架けてくれる設計者、技術者となるその一人の方がこの地上に来られたならば、全宇宙の人間たちはその方に取りすがらなければなりません。そのようになったならば、「統一するな」と言っても統一されるのです。

 それでは、世界を何によって統一しますか。愛によってです。その愛は清算すべき堕落した世界の愛ではありません。その愛は堕落した人間が一生楽しんで共にしますが、永遠な世界とは全く関係のない愛なのです。皆さんが夫婦を成し、どんなに父母に侍り、千年、万年生きようと夢見て歌ったとしても、死ねばみな千里、万里離れ離れになってしまうのです。

 どんなに人間が幸福にすがりついて千年、万年生きようとしても、何日か過ぎれば「ああ、私はどうしてこうなんだろう」と、このようになるのです。このような不幸の状態が横的に展開して、世界化したのが今日の世界です。このような世界は、滅びの道へと向かっていくのです。

◆本郷の国を中心に生活しなければ

 けれども、先生は本郷の国を見ました。これは、考えただけでも胸がどきどきすることです。逆さに立ってもまっすぐに立っているようなその世界では、お互いにぶつかっても良いのです。一日も早くそのようにできる環境が、この世に築かれなければなりません。

 このような新しい国が、この地球に現れなければなりません。そのような愛を宗教の教理に適用するようにし、そのような観念に立脚して新しい世界観をもつようにすることによって、世界を歌い、新しい氏族、新しい民族、新しい国家を自らの生活の舞台にするようにしなければなりません。それで、自分という個体を中心として新しい家庭を築き、世界を間違いなくみ旨の前に立てるのだという設計図をもって歩む男性、女性とならなければなりません。そのような人がいたとすれば、その人は幸福な人です。統一教会の信徒である皆さんは、全員がそのようにならなければなりません。

 そのようにできるのは何かというとき、ここに宗教が必要だというのです。しかし、宗教が絶対的に必要だとしても、本郷の国に連結してくれる橋でしかありません。それゆえ、皆さんは統一教会で暮らすことよりも、本郷の国で暮らすことをもっと願うでしょう。それは、先生自身も同じです。

 「本郷の国」、その国はある所に限定された国ではありません。夫婦が離れ離れになっていても愛することができ、取るに足りない人であってもどこに行っても歓迎される、そういう国が本郷の国です。

 各国ごとに自分の民族の主体性と民族文化を誇っていますが、それは本郷の国に比べれば何の価値もないのです。国境を閉鎖して生きてきた民族が、両手を挙げて本郷の国を歓迎するその一時を中心として、国家に力を加えることのできる、そのような世界が来なくてはなりません。

 したがって、統一教会が問題ではなく、本郷の国が問題なのです。それでは、統一教会の信徒たちは、信仰生活を中心にすべきか、あるいは本郷の国のための生活を中心とすべきかという問題が生じてきます。どんな生活をしなければなりませんか。皆さんは本郷の国のための生活をしなければなりません。

◆統一教会の理念の根本

 太陽系も太陽のみで成り立っているのではありません。主体的立場にある太陽と相対的立場にある惑星が、膨大な宇宙圏内で太陽を中心として太陽系を構成しているのです。もし神様の法度圏内で損害が生じれば、お互い一つになるということはありません。皆さんも自分が損をする所ならば来ないでしょう。皆さんは心と体が一つになるという二重の利益を得るために、ここに来たのです。それと同様に、家庭を破壊してはなりません。一つでも犠牲にしてはならないというのです。

 すべてのものは相対的に存在しています。相手が決まれば目的観は自動的に生じます。その目的は二つを合わせたものより、もっと大きな価値を帯びるのです。二つが一つになるのは、共同の目的を達成するためなのです。これが、統一教会の理念の根本を成しています。

 個人の小さな目的と大きな目的があるとき、小さいものを捨ててより大きな目的を追求すれば、ここにはプラス要因が発生し、小さな目的にも利益になるし、より大きな目的もまた成し遂げることができるのです。

 私たち人間には、生まれた時から成すべき目的があります。人は、全体のための目的と自分個人のための目的、すなわち二重目的をもつ存在なのです。ある国家の目的が、全世界の国家をすべて征服し経済的に略奪し奴隷化しようという、すなわち帝国主義的なものであるとすると、世界的な運勢圏でその国家は滅びるしかありません。

 二重目的の世界が築かれなければならないという観点から見れば、本然の天道を立て、世界の目的を達成するためには、国家の目的は犠牲になるのが原則なので、宇宙の目的を達成するために国家や個人が滅びるのは問題ではありません。

 個人の運がどんなに良いとしても、家庭の運のために犠牲にならなければなりません。言い換えれば、個人は家庭の前に吸収され、家庭は氏族の前に、氏族は民族の前に、民族は国家の前に吸収されなければなりません。その国家が個別的に世界の前に立てば、永遠に存続することはできませんが、世界のための国家と民族になれば、永遠に存続できるのです。しかし、世界の運が終われば、彼らの存在価値はなくなります。世界の運が終わるその場で、天宙の恨みを解かなければなりません。

 個人復帰の目的は、私個人がうまくいくためではありません。キリスト教を信じている人々は「イエス様を信じて救われて天国に行こう」と叫んで回っています。しかし、天国はそのようにして行くのではありません。生命は隠密な所に立てられるのです。

 神様が御覧になるとき、民族の内的心情を泣かせることができ、天宙の内情を見抜くことのできる人にならなければなりません。神様と通じることのできる愛情をもった孝子、孝女は、深い悲運が垂れ込めた場においても、その悲運の主人公になった王ならば王、父母ならば父母の心を解いてさしあげ、その背後のすべてを一人で防ぎ、解決しなければなりません。こういう忠孝の因縁をもった人が天国に行くのです。

◆大きな目的のためには、小さな目的が犠牲にならなければならない

 神様の摂理歴史が遅れることによって、今日統一教会が現れました。漆黒のような夜が過ぎて朝になれば、光り輝く太陽が世の中すべてを照らすのです。私たちはその明るい光を携えて、本郷を訪ねていかなければなりません。死を克服できる生命の原動力を身につけなければなりません。

 春の光が訪れれば、その春の光を方々で吸収できる生命の自主性、生命の吸収力をもたなければなりません。そうすれば、どんな春の季節より先に花を咲かせることのできる、春の季節の王子となるでしょう。これが、神様の願いでもあります。

 もし国家に運勢が来たならば、自分の国だけのために用いてはいけません。すなわち、一つの国だけのための世界ではなく、世界のための国とならなければならないのです。言い換えれば、世界から歓迎される国家を建設しようというのです。

 今日、国連が創設され、世界のための共同的な目標を中心として大きな目的を達成し、幸福な世界の環境をつくるために努力しています。これは人間の内心の本郷に対する懐かしさが、天と共にその何か知らない事情に合わせることができる基盤を通して、数多くの人々をつなげ統一するためのものなのです。

 今日、統一教会は、民族の前に信仰生活をしっかり行っていると自慢してはなりません。それでは、統一教会員たちが行かなければならない所とはどこでしょうか。教会の居間ではありません。皆さんは統一教会で自分の人格をそろえて、家庭に入っていかなければなりません。統一教会を信じるのは家庭を救うためなのです。

 その家庭が立つようになれば、家庭は氏族を救うために、氏族は民族を救うために、民族は国家を救うために、国家は世界を救うために犠牲になることができなければなりません。大きな目的のためには、小さな目的が吸収されなければならないのです。それで、氏族を必要とするのは民族を探し出すためであり、民族を必要とするのは国家を探し出すためであり、国家を必要とするのは世界を探し出すためであるということを知らなければなりません。

 私たちは国家を復帰しなければなりません。ところで、これは一つの国だけを探し出そうというのではなく、世界を探し出し、ひいては天地すべてを復帰しようという意味です。そのようにして、神様と地上にいる人間が誰彼なしに、お互いにやりとりし得る自由の天国世界を築かなければなりません。お互いの心が通じ得る神様の愛の園まで上がっていかなければならないのです。

 その神様の愛を探し出すためには、八段階の過程を越えていかなければなりません。個人、家庭、氏族、民族、国家、世界を犠牲にしてでも行かなければならないのです。神様の愛を蹂 躙し、すべて壊して出ていった人々が、これを再び否定して、神様の愛を本然の愛として敬っていく時が来なくてはなりません。そのような時が来なければ、この世は天国を訪ねていく路程を出発し得ないことを明確に知らなければなりません。

 世界ができないことを統一教会でしなければならないのです。私たちは今まで、そのことをしてきました。私たちは追い込まれて追い出される立場であったとしても、神様の前に「私たちを救ってください」という祈祷はしませんでした。物乞いの立場でも、人のために奉仕しながら生きてきたのです。

 私たちは個人の運勢によって生きる人間ではなく、家庭の運勢によって生きる人間ではなく、氏族の運勢によって生きる人間でもなく、国家の運勢によって生きる人間でもありません。天倫の運勢と共に生きる人間です。どんなに先進国の一等国民であったとしても、天倫の運勢に逆行する時には滅びるようになります。

 この世には相応作用、相克作用があります。相応作用をなそうとすれば、お互いに一致しなければなりません。相手のためにすることが創造の原則です。それを「嫌だ」と言うのは、悪なることです。これを成してこそ永存できる起源が生じます。そこから宇宙の補償原則による存続の起源が生まれるため、全宇宙の前に人間として原理原則に合格し、生活に適用していかなければならないのです。それで「君も私のようになりなさい」と言うことができなければなりません。これが正に善なのです。これを確実になして相手を決定してこそ、霊肉が一つとなるのです。

 統一教会は、神様の愛の運勢についていこうとするのです。統一教会は、神様の愛の運に倣って心情世界、創造理想世界について語っているのです。驚くほど素晴らしいことではないですか。「良い」という言葉の根源は何でしょうか。お母さんがいて良い、息子、娘がいて良い、このように話すのですが、その「良い」と言うことの根は何でしょうか。それは正に愛なのです。赤ん坊のお母さんは、赤ん坊が大便をしてひどくくさいにおいがしたとしても、汚いと思わずに片づけます。ここに、何があってそうするのですか。それが、正に愛なのです。

◆幸福な家庭は父母に侍り生活する家庭

 それでは、人間の不幸はどこから出発するのでしょうか。愛の安息の地がなくなる時から始まるのです。幸福な家庭は、その家の垣根となる父母に侍りながら生活する家庭です。その家庭は、上には天を代表した父母に侍り、横には家庭を代表した他人同士が集まって生活するという因縁の愛を夫婦で結び、この夫婦が天倫の法度を貴び、その継代をつなぎながら生きる家庭です。

 父母を中心として生まれた息子、娘が成長して大人になると、別れて出ていきます。結婚して妻をめとったり、また嫁に行くのです。彼らが夫婦となってから別れたとしたなら、それ以上不幸なことはありません。嫁に行ったり、妻をめとったあとで別れるのは、不幸なことです。家庭で、父親が遠方に行くというのに、母親が喜んで踊りを踊るでしょうか。

 人間世界の因縁を結ぶところにあって、男性と女性は世界の平和のために進んでいかなければなりません。一人の力だけで平和が来るのではありません。男性と女性の力が合わさって、回らなければなりません。回るときには、中央に突進していかなければなりません。中央に向けて突進する力は、愛の力です。相手が現れると、愛そうとする心が生じるのです。

 すべての運動する存在には、中心に連結し得る力があります。その中心だけ決定されれば、速く回れば回るほど、そこには天地の調和がもたらされるでしょう。地球はどれくらい速く回りますか。一日に少しどころか、一回りを軽く回ってしまいます。地球が宇宙の根源を決定し得るその基準を立てて回れば回るほど、春夏秋冬の調和が取れるのです。

 女性が嫁に行けば父母と別れ、男性が妻をめとれば父母と別れるのですが、それは結局何をしようというのでしょうか。天地の位置を決定するためなのです。どんなに広々とした空間であっても、中心を中心として定着するのは、人がすることです。男性と女性がすることなのです。それで、夫婦がうまく生活すれば孝子、孝女が生まれるのです。

 イエス様はこの地に来られ、「私は新郎であり、あなた方は新婦である」と語られました。新婦を探し出さなければならないというのです。そのようにして結局、何をしようとしたのでしょうか。愛は男性と女性の二人に帰結するのです。宇宙史的な男性の代表者と女性の代表者は、胸を膨らませながら神様の愛を引き入れる、本然の因縁を備えていなければなりません。

 それを天宙上に成し遂げてこそ、その世界から幸福の基盤が広がってくるのです。そのため、この地に新郎として来られたイエス様が新婦を探さなければならないのです。それは、新郎新婦の独自的な救援観の位置を決定したものです。言い換えると、四方的な本性に神様も引き入れ、人倫も引き入れて、過去、現在、未来の願いを引き入れ、ここに夫婦の理念を中心として統一の基準を立てようとしたのがイエス様の思想だったのです。

◆天情をはじめめとした信仰と実践を通じて人格を成そう

 統一教会は合同結婚式をなぜ行うのでしょうか。すべてを超越して統一的圏内の先頭で、すべての人類を糾合できる群れがいなければならないからです。その群れが人類歴史に現れ得る世界になってこそ、この天地に幸福の世界を築くことができるのです。

 そこから希望の個人と夫婦で成された家庭が氏族を成し、氏族から民族、民族から国家、国家から世界を成していくようになるのです。すなわち、この地球を変えていくことのできる国が生まれるのです。

 その世界に行くためには、統一教会の運勢に沿っていかなければなりません。二十世紀の末期において霊界に通じる人の中で特に優れた一人の人物がいるとすれば、統一教会の文先生です。数多くの道人と数多くの霊通人もみな、統一教会の文先生の弟子だという立て札を首にかけ、証しています。

 先生はこういうことをみな備えて、世界を引っ張り、天下を引っ張ることのできる基準を立てています。その基準を中心として全世界的に多くの誤解を受けました。しかし滅びるためにこのようなことをしているのではありません。天情を望み、地上で知情意の法を探し出し、天情をはじめとした信仰と実践をなし、人格の道理を収拾しようというのが「統一原理」なのです。この原理を実践するようになれば、誰でも人格者になれるのです。

◆農夫は春になれば種を蒔くことを知らねば

 それでは、この途方もない事実を中心として何をしなければならないでしょうか。私たちは、本郷の国を築かなければなりません。

 皆さんは本郷の国を願うはずです。人類が願う本郷の国を築くためには本郷の個人が必要となります。そのような個人と共に家庭が一致してこそ、氏族と国家と世界と天地、そして天の愛の法度が立てられるようになるのです。

 その論理上では、どこの誰であってもそのようになれる公式的な方法をもって、今日世界各国で実を結ぶようになるのです。革命が起こるというのです。

 私たちは最終的にこの地球を生かすのだという信念をもって、民族を収拾できる人にならなければなりません。このような人々が集まった個人、家庭、氏族、民族、国家が多くなるとき、本郷の世界が創建されるのは間違いない事実なのです。そのような世界に行ってみたいならば、皆さんは自分自身を振り返ってみて、現在の自分自身と自分の立場を維持しながら、新しい方法を探していかなければなりません。

 私たちは本郷の国に行かなければなりません。おばあさんであれ、青年であれ、老若男女を問わず、天下の万民が望んでいる希望の国に行かなければなりません。自由の天国に行かなければなりません。

 自分自身に属するものだけが貴いものだと思っていましたが、そうではないというのです。春の季節が訪れれば、農夫は種を蒔かなければなりません。貴い種もみを蒔かなければなりません。蒔くことを惜しむ人は、未来が分からない人です。そして適切な時期に種を蒔くことを知らない人は、農夫になる資格はありません。

 私たちは種を蒔くにおいて、あふれんばかりの希望を抱いて、未来の結実に対して祝福することができなければなりません。そうして、現実のすべての伝統を超えて、新しい農地に種を蒔けるように守ってあげようというのです。国家の運命と世界の運命を、あの高い所に向けて出発させることができる準備をして、血と涙の苦労を気に留めないで、涙は人類のために、汗は地のために、血は天のために流す父母の心情をもって闘っていく、統一の精兵とならなければなりません。

 皆さんすべてが難しい状況から出発したのですから、ぜひ目的とした結果が偉大なものとなる位置まで行かなければなりません。すなわち、神様が指向なさり、人類が望んでいる心情世界にまで訪ねて入っていかなければなりません。神様の愛を根拠とした本郷の地へと行かなければなりません。

 あなた方は、このような本郷の国を創建する勇士にならなければなりません。新しい覚悟でみ旨の前に勇進できる精鋭部隊となってくれることを願いながら、み言を終えようと思います。


















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