文鮮明先生のみ言集
訓教経(上)


天を慰労しよう

一九六八年四月二十八日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第二十巻』


 今日、この地上に生きている人間は、みな慰労の中心を求めています。個人的な慰労の中心、家庭的な慰労の中心、そして国家的な慰労の中心、世界的な慰労の中心を求めています。さらには、天と地の全体を代表した天宙的な慰労の中心を求めています。

◆慰労の中心を必要とする人類

 天地が存在する限り、このような慰労の中心となる方が、必ず現れなければなりません。そうして、その方は慰労の主体となられ、万民を慰労しなければなりません。個人を慰労し、家庭を慰労し、国家と世界を慰労して、希望の世界をつくらなければならないのです。神様はそのような方を送るために人類の前にメシヤ思想を立て、今まで摂理歴史を導いてこられました。このような事実から推し量るとき、皆さんは「神様はいない」と否定することはできません。

 したがって慰労の中心として来られるその方が、単なる個人的な慰労の存在としてとどまるのではなく、その方を中心として、全体を代表した慰労の家庭が現れ、氏族が現れ、民族が現れ、国家が生まれなければならないのです。それが、この地上の歴史過程に現れた選民思想です。ヤコブが悪と対決して勝利した基台の上に、初めてイスラエルという一つの基盤を中心とした慰労の芽が芽生えたのです。その家庭から出発して慰労の氏族、慰労の民族、慰労の国家が立てられれば、そこに初めて世界的な慰労の基準が立てられるのです。こういう基準を立てるために、国家的基準の前に来られた方がメシヤです。

 イエス様は、悲痛と孤独に満ちたこの世を、慰労の世界、平和の世界へと変えるために来られました。その時に準備されていた国が、イエス様と完全に一つになっていたならば、そこで初めて人間が心から待ちわびてきた平和の起源を求めることができ、すべての人間が慰労の主体に出会い、幸福な出発をするはずだったのです。ところが、その方が来られたのに迎えることができなかったので、これが今までの歴史過程における何よりも悲しい事実であった、ということを私たちは知らなければなりません。

 ゆえに人間には、慰労の中心がなければならないのです。一つの国家、一つの氏族、一つの家庭、一つの存在。これらを国家と世界にまで連結する中心存在が現れなければなりません。そうならずしては、この地上に慰労の天国はできません。

◆神様の慰労の対象になれなかったアダムとエバ

 神様の側から見て、人間が堕落しなかったならば、アダムとエバが成長すること自体が神様の前に慰労の対象となり、造られたすべての万物が神様にとって慰労の対象になるのです。アダムとエバが生活すること、彼らと関連したすべてが、神様にとって慰労の刺激的要素になるのです。

 ところが、人間が堕落することにより、神様の慰労の対象になれなくなったことを皆さんは知らなければなりません。こう考えると、人間だけが慰労の対象を求めているのではなく、神様もやはり慰労の対象を探し求めているのです。

 それでは、神様を慰労するためにはどうしなければならないのでしょうか。神様を慰労するためには、知るべきことがあります。それは人間始祖アダムとエバが、どのような存在であったかということです。

 アダムとエバは、神様に代わってみ旨を成し遂げるために立てられた存在です。言い換えれば、神様のすべての喜びと幸福の要件に相対する存在として、すべての被造世界の中心に造られたのです。そういうアダムとエバを見つめる神様は、どれほど喜ばれたことでしょうか。そしてまた神様が、本然のみ旨を成し遂げるための理想を中心として、彼らと共に、御自身の事情を語り心情を交わしながら生きたかったかを、皆さんは考えてみなければなりません。

 ところが、アダムとエバが堕落することによって神様は、彼らを真の人類の先祖として、人類の父母として、御自身の息子、娘として接することができなくなりました。アダムとエバは、神様の前にまたとない息子、娘であるにもかかわらず、神様が息子、娘として接することのできない立場に立つことになったのです。また神様は、アダムとエバが成長したのちには、夫婦として祝福し、慰労の対象にしようとしました。ところが彼らは、息子、娘としての慰労の対象になれなかったのはもちろん、新郎新婦としての慰労の対象にもなれませんでした。

 神様の抱いた願いが大きいだけ、彼らに無限な価値を与えて望んでいらっしゃったのですが、彼らが堕落することにより、神様は子女としての慰労の心情を感じることができず、新郎新婦、すなわち夫婦としての慰労の心情も感じることができなかったのです。神様はアダムとエバが将来、希望の先祖として、全人類の前に唯一の王として、神様の前に忠孝の道理を立てる立場に立つことを願われました。しかしながら、神様の前に彼らが慰労の対象になれなかったという事実を、皆さんは知らなければなりません。

◆神様を慰労してさしあげるには

 それでは、このような立場にいらっしゃる神様を慰労してさしあげるには、どうすればよいのでしょうか。堕落したアダムとエバ以下の基準では、神様の前に慰労の対象となることはできません。真の息子、娘として神様の前に立てなかったがゆえに、真の息子、娘となって初めて神様を慰労することができるのであり、真の新郎新婦になれなかったことが恨と悲しみになったがゆえに、真の新郎新婦になってこそ慰労の対象となることができるのです。

 天と地をすべて主管できる一人の主人公として、万国あるいは万民を主管できる一人の王として責任を全うすべきアダムとエバが、責任を全うできなかったという立場に立っているがゆえに、それ以上の立場に立たなければ、いくら神様を慰労しようとしても、それは慰労にはならないのです。

 それゆえ、このような慰労の責任を担って、この地上に誰かが来なければなりません。もしその全体的な責任を担う人がいないとすれば、他のいかなる個人でも現れなければなりません。

 人類始祖が堕落し、再創造の原理過程を通過せずしては復帰されないため、まず男性が現れなければなりません。男性が現れなければ、女性が現れることができません。いくら神様の娘として、神様を慰労してさしあげたくても、男性がまず現れなければ、女性一人では娘の立場の責任を負うことはできません。それゆえ、今までの復帰摂理歴史において責任を担ってきた人物は、女性ではなく男性だったのです。

 それでは男性がこの地上に来てすべきこととは何でしょうか。それは、アダムが神様を慰労してさしあげることができず、真の息子の立場で孝行ができなかった基準を蕩減復帰して、人類を神様に連結させることです。そのために、先祖たちが歴史的な責任を担ってきたという事実を皆さんは知らなければなりません。

 この世界は、サタンが主管する悪なる世界であるために、そのような責任を負った人々が現れたならば、彼らを中心としてこの世を整理しなければなりません。それゆえアダム家庭からノア、アブラハム、モーセ、イエス様以後、今まで六千年間の長い歴史路程においても、天のみ旨を担ったのは女性ではなく、男性でした。このように責任を担った男性が尽くした精誠を総合して、その精誠の基盤の上に真の息子が現れなければならないのです。神様が「お前は私を喜ばせる息子だ」と称賛できる人が現れなければなりません。

 このような一つの中心存在として、この地上に来られた方がイエス様でした。イエス様がヨルダン川のほとりで洗礼ヨハネから洗礼を受けて、水から上がるとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(マタイ三・一七)という神様の声がしました。これは、ようやく天と地が喜ぶことのできる一人の存在を探し求めたという意味です。これが、どれほど大きい神様の喜びだったのかを皆さんは知らなければなりません。

◆神様の慰労の中心

 それではイエス様は、神様の前にいかなる慰労の対象となるべきなのでしょうか。サタンの侵犯を受けた悲しい歴史を整理し、これを越え本然の神様の熱い心情と和合した立場で、神様を慰労してさしあげることのできる息子の使命を果たさなければなりません。

 したがって、神様がイエス様を御覧になって、お前は堕落した子孫であり復帰された二番目の息子だという印象をもたせてはならないのであり、探し出すのに苦労した息子だという印象を残してもならないのです。お前は私を喜ばせる者、私の愛する者であると言える息子でなければなりません。言い換えれば、この地上に最高の息子として慰労の主体となるべきであり、その価値においては堕落前のアダムとエバ以上の基準をもたなければならないのです。

 神様はアダムをまず造られ、そのアダムを通してエバを造られたために、まず息子を迎えてこそ女性が登場できるのです。ところで、イエス様はこの地に来られて神様の前に息子として対象の立場に立ちましたが、神様の娘として対象の立場に立つことができる一人の存在を見いだすことができませんでした。したがってそのような存在を探し求めなければならなかったのですが、それが新婦理念なのです。

 今まで六千年間、神様は世界を救うための勝利の外的な基盤は準備しましたが、世界を完全に救うことはできなかったのです。したがって神様は外郭的な基盤を築きながら、たとえ内的には堕落した世の中であったとしても、その中でアダムとエバが堕落せずにエデンの園で成すべきであった基準を立てなければなりませんでした。すなわち愛の対象、慰労の対象の基準を神様の本心の中に立てるべきだったのです。それを成さずには、この世界を、復帰することができません。それを成すための基盤を準備するために、神様はイスラエル民族を育ててこられたのです。

 そうして、神様はヤコブを立てて、二十一年間ハランで苦労させ、故郷に帰ってくる途中、ヤボク川で天使と組み打ちをさせたのです。ここでの天使は、サタンの象徴でした。この闘いは、天使長によって天倫が行き違ったのを復帰するために、復帰の責任を担っていたヤコブが天使と闘って勝利できるか否かを決定する闘いでした。神様の心中にしみ込んだ恨を取り除くために、天使長の代わりの天使とヤコブが闘ったのです。一晩中闘って、「私の命が消えることがあっても勝利する」という心情で、天使に「私を祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」と言ったとき、「祝福してやらない」と天使が言ったならば、果たしてイスラエルという民族は現れたでしょうか。

 ヤコブが故郷へ帰るときに、天使と闘って勝てば帰れますが、負ければ帰ることができないのですから、正に生死の決戦でした。ヤコブが二十年余り精誠を尽くして一つの志を立て、イスラエルの起源、言い換えれば、祝福を受けた血統を残すために闘うその瞬間は、すべてを懸けた生きるか死ぬかの決戦でした。

 ヤコブが天使と闘ったその瞬間は、二十一年間に築き上げたすべてを合わせ、主管して余りある信念と心情がぶつかる瞬間でした。ヤコブが直面した試練はどれほど大変なものだったでしょうか。ラバンは十数回も欺き、「娘をやる」と言っては、あれこれと苦しめはしなかったでしょうか。ヤコブは、「お前に私の行く道を遮らせはしない、たとえお前が最高の力をもっていたとしても私を負かすことはできない」と、困難な環境をはね飛ばして勝利の基準を立ててきたのです。

 このような起源からサタンを分立したのであり、勝利したという意味で、「イスラエル」という祝福を受けることになったのです。そうしてヤコブ自身、ヤコブの家庭から氏族になったので、その一族は勝利した一族とならなければなりません。祝福を受けた氏族が、みな没落してはならないのです。

◆神様がイスラエル民族を立てた目的

 では、神様が祝福した目的はどこにあり、イスラエルを立てた目的は何だったのでしょうか。それは、神様の慰労の対象となる息子を送ったときに、その息子を中心として完全に一つにさせることでした。ヤコブがヤボク川で天使と闘ったのとは反対に、本郷の故国を創建する主人公を迎えて一つになれということでした。

 主人公であられるイエス様が山に行けば山へついていき、海へ行けば海へ行く、そのようにイエス様と一つとなれる民族であったならば、イスラエルは苦難の道を行きはしなかったことでしょう。

 神様がイスラエルを立てたのは、イスラエルという囲いをつくり、サタン圏の中から慰労の対象である息子を探し出すためであったのですが、彼らにはそれが分からなかったのです。神様が慰労の対象としてその息子を立てたとすると、神様はその息子に「お前は私の息子だ」と言って、何を贈り物に下さるでしょうか。愛の神様は、四千年の間準備した贈り物としてイスラエルを与えようとされたのです。

 イエス様は、神様の慰労の対象であり、すべての人間の前では勝利した一人の慰労の中心者です。このようなイエス様は、神様の息子の中の息子であり、骨の中の骨であり、神様の心情に通じる慰労の対象であるので、その勝利した基盤の上に世界を与えたかったのです。それゆえ一つの国、すなわちイスラエルの国が必要だったのです。

 四千年の間準備した国を中心として、やっと選ばれた民族であるイスラエルをイエス様が贈り物として受け取っていたならば、どのようになったことでしょうか。イスラエルは責任を果たさなければならないにもかかわらず、メシヤを抜きにして「自分たちだけ良ければいい」と思ったのです。そうなれば、みな滅びていくのです。

 神様が「この者は孝子の中の孝子であり、歴史過程で誇るに足る者である」と言うことのできる一人の存在が、地上に必ず現れなければなりません。そう言える一人の息子が現れなければなりません。その息子一人をもつことによって、世界を忘れて喜ぶことができなければなりません。そうしてこそサタン世界を忘れることができるのです。その一人を探し出すことによって感じる喜びが、サタン世界でつづられたすべての事情を忘れてしまうことができるほど大きくなければなりません。

 そうでなければ、エデンで堕落することによってもたらされた峠を越えることはできません。すなわち、神様の心に慰労の心情的基準を立てることができないのです。神様は、そのような一人の方を今まで探し求めてこられました。

 それゆえ、イスラエル民族は「メシヤが来られる」と言い、今日のキリスト教徒は「主が来られる」と言っているのです。それではその方はどの地に生まれ、メシヤの使命を果たされるのでしょうか。

 ここで皆さんは、来られるその方に出会うことよりも、その方を送るために神様が越えてこられた道をまず知らなければなりません。そうしてこそ、その方によって直接重生される人となるのです。言い換えれば、神様はこの地にメシヤ一人を送るために、アダム家庭から今日まで復帰の道をたどってこられたのです。のちの日に神様の絶対的な息子として、愛と慰労の実体的対象として探して立てるために、アダム家庭から今日まで六千年間歩んでこられたということを私たちは知らなければなりません。

◆神様にとって言葉にできないほどの悲しみとなったイエス様の犠牲

 それでは、その息子が人間を再び生むための開拓役事をしなければならないのですが、その息子が現れるまで、すなわちイエス様が来られるまでの四千年間は、誰が摂理されたのでしょうか。神様が直接摂理されました。この息子を探し出すために、神様がどれほど悲痛であられたか考えてみてください。怨 讐の国でいう忠臣、孝子、烈女以上の神側の人をつくらなければなりませんでした。

 しかも神様が生んで育てるのではなく、サタン世界から奪ってきて、神側のものとしなければならない神様の苦痛は、どれほど大きかったことでしょうか。サタンの息子を連れてきて、天の事情と心情を理解させ、神側の人とするのは容易なことではありません。四千年の期間も、神様にとってはつかの間でした。その息子が来るまで、すなわちベツレヘムでイエス様が誕生するまでは、神様がそれをしなければならなかったのです。

 では神様は、堕落したこの地上に何千万回往来されたことでしょうか。ヤコブがハランに行くまで、アブラハムが祭物を捧げるまで、ノアの洪水審判まで、このようにどんどんさかのぼると、アダム家庭のカイン・アベルまで行きます。神様がそこに訪ねてこられ、「アベルよ、天倫の法度が逆になってしまったのでどうかカインを自然屈服させて、元に戻してくれ」と祈られたのです。

 神様の切なるその願いは、今日堕落人間が神様を思慕し、神様の心情を知ろうと祈祷するのとは比較になりません。皆さん、何も知らない足りないアベルにすべてをかけて、見つめていらっしゃった神様の切実な姿を一度考えてみてください。

 このように切なる希望をもってこられたその方が、サタンに追い出されるしかなかったのですから、全く言葉も出ません。サタンは、「よし」とばかりに踊り、神様は、涙をのんで、来た道を戻らなければならないことになったのです。その時から神様は、後戻りをする悲惨な日々が繰り返されたということを皆さんは知らなければなりません。また、願われた基盤の中心が得られなかったために、神様はこの世界史と多くの民族を巡って、一つの中心を探し求めて降りてこられたのです。

 神様は千六百年を経て、アベルの代わりにノアを立てました。次にはアブラハムを立て、モーセを立て、洗礼ヨハネを立て、イエス様を立てました。しかし今までの結果は、完全に失敗した立場に立った神様でした。そういう侮辱と蔑視、怨 讐たちの嘲 弄と、非難と、あざ笑い、それだけではありません。血を流し死ぬことが常だったのですから、それを御覧になる神様の心情を考えてみてください。このように神様は、精誠を尽くして育てた神側の人々が、毎日のように倒れていく惨敗の悲しさを味わってこられました。神様のこのような事情を皆さんは知らなければなりません。

◆神様の恨を解いてさしあげる勝利の息子が再び来なければ

 神様には、このような悔しさを抱いて恨を解くという責任を担う一人の人、一つの群れ、一つの民族、一つの国家が必要です。それができる一人の息子が現れ、神様の慰労の主体となると同時に、この恨みを晴らさなければなりません。息子と娘が堕落したために、息子と娘が慰労の対象として復帰されなければなりません。

 イエス様は、御自身を新郎たる主であるとして、その新郎の前に新婦となり、神様の愛を受けることのできる真の対象としての女性実体を求めたのですが、み旨の半ばで恨を抱いたまま逝かれました。「わが父よ。もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と祈るイエス様のこの祈祷には、四千年歴史の恨が込められています。それだけではなく、イエス様がその道を行ったならば、歴史過程で数多くの人が、血の祭壇を越えることになるという事情を知るがゆえに、想像を絶する事情を抱いて訴えたのです。

 皆さんはいくら神様に恵みを乞い、幸福の基盤を切に願って祈祷しても、神様が求めてこられた心情的な慰労の対象になれなければ、その祈祷はかなえられません。もしかなったとするならば、それが災いともなり得ます。考えてみてください。神様がイスラエルを祝福したのは、メシヤを迎えるための、囲いをつくるためでした。イスラエルが多くの国の中で栄光の国として選ばれたはずなのに、責任を果たせなかったために、祝福を受けたことがかえって災いとなったのです。

 したがって神様は、この地上の男性を代表した慰労の主体を失ったので、その主体に取って代わることのできる心情の対象が、この地上に再び現れなければなりません。アダムは素直に神様の懐に抱かれることができましたが、苦痛と悲しみを抱かせた張本人であるがゆえ、彼は再び来て、神様が過去に傷ついた歴史的な悲しみのすべてを慰労してさしあげ、人間の堕落による恨を神様の心から取り除かなければなりません。そして勝利した息子として、慰労してさしあげる立場まで行かなければならないのです。

 神様は、そのような息子としての立場でイエス様が来るまで、数千万回往来しながらその道を切り開いたという事実を知らなければなりません。神様は慰労の主体となり得る息子を立てるために、イスラエル民族を選民として選ばれ、万民を神様のもとへ導いてほしいという四千年間の願いを込めて、イエス様を送ったのです。

 ところがイエス様が十字架を負い、頭にいばらの冠をかぶり、ゴルゴタに向かうときの神様の心はいかばかりであったことでしょうか。イエス様がそのように死ぬために来たとするならば、神様は何ゆえに四千年間も準備をされたのでしょうか。イエス様が十字架上で死んだのは、純然とイスラエルの民が責任を果たせなかったためです。これを知らずに、「イエス様は万民を救うために死んだ」と言うのですか。

◆神様を完全に慰労してさしあげるには

 神様の有形の実体として立つべき存在が堕落してしまったので、それを回復するために摂理してきたのが今までの歴史でした。もし主が一人で来られ、慰労の主体となられたならば、次にはどうすべきでしょうか。

 人類が堕落した動機はアダムにあったのですが、イエス様がアダムに代わって息子の立場に立ったとしても、サタン世界にはまだ多くの人々が残っているのです。したがってアダムが失敗したがゆえに、アダムに代わって責任を完結するために来られるその息子は、世界中のすべての人を救う立場に立たなければなりません。イエス様がただ一人、神様に仕えるというのではいけないのです。ところがイエス様も、神様を慰労する立場に立てなかったのですから、イエス様がこの地上で受けられた悲しみは、どれほど悔しいものだったことでしょうか。

 当時、イエス様を中心としてイスラエル民族が一つに団結しなければなりませんでした。そうしてイエス様が海を渡るとすれば共に渡り、山に登るとすれば共に登るというように、ユダヤの国全体がイエス様に従っていたならば、そこから新しい歴史的な運動が繰り広げられたのです。その時のために神様は四千年間準備したのですが、準備した基盤は全部失われてしまいました。

 イエス様は歴史に絡みついた恨を解くために泣きました。終わりの日にメシヤが来て、悔しさと怨恨を解いてほしいと天上世界に訴えたその願いをかなえるために、祈祷しなければなりませんでした。先祖たちが流した涙がぬぐわれなかったがゆえ、イエス様は「お父様、彼らの涙をぬぐい取ってください」と祈祷しなければならなかったのです。

 ところが、イエス様が個人と民族に代わって祈祷し、悔い改めたにもかかわらず、喜びで迎えるべき民族がすべて反対しました。イエス様が体面も気にせず再び神様に「父よ、お許しください」と切に祈り、彼らの前に立つと、彼らはまた反対したのです。それで、許そうにも許す道が遮られました。そうして許しの代価として、イエス様が命を懸けて歩まれたのが十字架の道でした。イエス様の行かれた道が十字架の道だとは、とんでもないことです。

 こんなことも知らずに、イエス様を信じて天国に行くというのですか。天国とはどんな所なのか分かっているのですか。そこは精誠の限りを尽くす所であり、忠誠の限りを尽くす所であり、すべての事情に限りを尽くす所です。それでは、そのような所にはどうやって行かなければならないのでしょうか。血と涙が交差するところから行かなければなりません。アダムが堕落して追い出されたのですが、血と涙を流しながら追い出されたのです。皆さんが追い出された家に帰ろうとするならば、アダム以上になっているべきではないでしょうか。

◆背後で落伍者を収拾し摂理してこられた神様

 昔イエス様が亡くなった立場以上の立場をつくっておかなければ、また追い出されることになります。それゆえ神様は、「死亡圏を越えてでも早く行け」とキリスト教を追いやりました。多くの民族を立てるために、一つの民族が犠牲になるのも意に介すことなく追いやったのです。

 神様は、終わりの日に帰ってくる息子の恥をぬぐい去り、威信を立てることのできる立場と環境をつくって、神様の息子としてふさわしい姿で現れるその日をひたすら待ちわびてこられました。背後で犠牲になるという悲惨な立場にあるにもかかわらず、キリスト教を追いやって今日のキリスト教へと発展させたのです。このような神様の摂理を、皆さんは知らなければなりません。

 それゆえキリスト教の歴史は、殉教の歴史としてつづられてきたのです。悔しさと憤りに満ちた事実を踏まえ、天地間に立つことのできる群れをつくるために、天はそのように役事してきたのです。

 今日私たちは「天を慰労しよう」と言っていますが、どのようにして慰労するのでしょうか。皆さんは、この地に慰労の中心存在が現れるまでの歴史的事情がどうであったかを知らなければなりません。一人の人を立てるために、神様は数千万回にわたって人類の背後で敗残兵、落伍兵を収拾して摂理してきたのです。このような神様の心情を皆さんは知らなければなりません。優秀だといわれる人々は、この世と共にのみ込まれていってしまいましたが、神様は、この世の中から落伍して死の道をさまよっていた人々を率いて摂理してきたのです。

 そういう人こそ神様の心に通じる同じ事情をもった人々であるがゆえに、そのような人生の落伍者を収拾し、復帰摂理を導いてきた神様の立場は、想像を絶するものです。そればかりか若い人はみな嫌がるので、これまでの歴史上で神様の前に呼ばれた人は、みな五十代以上、六十代以上でした。今はこのように老年層をつかんで摂理しているとしても、今後は壮年層をつかんで摂理すべきなのですが、彼らをつかんで摂理をどう展開しようかと、神様は背後で苦心されてきたのです。そのような事情を抱いて歴史路程を歩んでこられた神様であられます。

 老年時代を経て壮年時代へ、壮年時代を経て青年時代へ、青年時代を経て少年時代へ、少年時代を経て乳児時代へ、このようにして皆さんは再び生まれなければならないのです。そうしなければ天国へ行くことができません。

 皆さんは純真無垢な子供のごとく、かわいがられなければなりません。ですからイエス様はニコデモに「新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ三・三)とおっしゃいました。新しく生まれなければ、すなわち新生しなければならないと言われたのです。ですから神様は、母親の腹中から救いの役事をしようとされるのです。どれほど途方もない内容でしょうか。

 それゆえ年を取った人は、神様に仕えるために涙を流して努力しなければなりません。家庭をもった人は「他の家の息子、娘たちは神様に忠誠を尽くしているのに、どうして我が家にはそのような息子、娘がいないのだろうか!」と、山を見るにつけ川を見るにつけ、恥ずかしさを覚えなければなりません。そのような息子、娘がいないので、せめて自分だけでもあちこちを訪ね歩いて、神様の恨と千年の事情を解いてさしあげようと努力しなければなりません。

 今からでも、神様の恨を解いてさしあげることのできる若者を育てなければなりません。霊界に行った数多くの霊人は、地上にいる自分の子孫が、蕩減の因縁をもって天倫の前に立つことを待ちわびています。皆さんは生きている間にその旨を知り、彼らが願う環境ができるように、たとえ責任を果たせなかったとしても、責任を果たすための因縁をつくり、責任をもとうという、せめてもの思いをもって身もだえしなければなりません。

◆慰労する人が立つべき立場

 皆さんは、イエス様が十字架に向かって進まれた以上の深刻な心で、イエス様の路程を体 恤することのできる因縁をもたなければ、イエス様と共に楽園へ行くことができません。イエス様は、十字架を背負い怨 讐のために祈祷して初めて楽園に入りました。ところが、信じさえすればいいといって他人をだましていただけの人が、天国に行くことができるでしょうか。

 神様を慰労することのできる男性が現れ、女性が現れなければなりません。そして皆さんは、そのような方に必ず会わなければなりません。息子が死んで落胆している人に、息子を三人失った人が涙を流して「あなたの事情がよく分かります」と言うならば、一粒の涙でも慰労になります。それと同じように、慰労しようとするなら、その人以上に悲しい心情をもっていなければなりません。

 したがって、この地上に来られる主は、どのような人でなければならないでしょうか。神様が愛で創造した人間が堕落するのを見つめて悲しまれたその心情を体恤し、痛哭できる人でなければなりません。そうでなくては神様の前で、慰労の対象者となることはできないのです。

 それゆえイエス様は、そのような事情を抱えて、十字架を負ってさえも彼らの罪を赦してほしいと祈祷したのです。また、そのようなイエス様の心情を知っていらっしゃったがゆえに、祈祷するその心に神様が共にあられたのです。ところで皆さんの信じる基準は、神様を慰労できる基準になっているでしょうか。また、皆さんの心と体の事情を見るときに、果たして「神様の求めている息子であり、娘である」と言うことができるでしょうか。

 神様を慰労しなくては、天国に入ることはできません。では、どのようにして神様を慰労するのでしょうか。皆さんが食べたいものを食べ、着たいものを着て、したいことをすべてして、残り物で慰労しますか。とんでもないことです。それはサタンでも嫌がります。思えば思うほど不足な自分であり、千年の事情を自分の胸中に抱いて、この環境をいかにして抜け出そうかと苦闘するにも不足な自分であることを知らなければなりません。

◆家庭理想を完成すべきイエス様

 神様の恨を誰が慰労してさしあげるのでしょうか。イエス様を中心として神様を慰労することのできる息子、娘が現れ、一組の夫婦が現れ、一人の忠臣が現れなければなりません。

 神様の心情世界には、六千年の事情のもつれたものがあるので、神様が求め出した息子もやはり、そのような息子でなければなりません。それを知った私たちは、「そのような息子になれなかったとしても、そうなろうと苦闘しますので、この泣き叫ぶ声を聞いてください。身もだえるこの姿を御覧ください」と言うことができなければなりません。このような過程をたどることなしに、神様を慰労することは不可能です。

 嘆きの歴史、嘆きの心情が解かれていない神様であるということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。私たちは、神様の心情とその嘆きの事情を慰労することのできる息子、娘にならなければなりません。そのような息子、娘を懐に抱いたお父様の姿を、おそれ多くも誰が眺めることができるでしょうか。しかしそのような神様を見つめることこそ、人間が願う最高の望みであり、そのような一時を成し遂げることが私たちの目標なのです。

 皆さんは、それができるという自信をもってその日を迎えなければなりません。また自分よりも優れた人がいたならば、立てようという思いをもたなければなりません。イスラエルはそのような思いで民族を成し、国を建て、来たるべきメシヤを全世界の中心として侍ることのできる基盤を用意すべきであったのですが、それができなかったために受難の道を行ったのです。

 このような神様の事情を解いてさしあげるのが、来たるべき主の責任であるということを皆さんは知らなければなりません。来たるべき主は、その責任を果たすために来られなければならないのです。天と地の前に恨を残した慰労の実体であるアダムとエバが、失敗した人類の真の先祖としての基準を立てるべきでした。しかし、それが成されずして恨が残ったがゆえに、イエス様と聖霊が息子、娘となり、新郎新婦となり、善なる先祖となって恨を解くために、二千年の歴史過程で血と涙の開拓者の使命を負ってきたということを、皆さんは知らなければなりません。

 イエス様は、息子、娘の使命を果たすと同時に、夫婦としての使命をも果たすことを望まれました。そして忠臣の立場を願われました。イエス様は、万国を屈服させ、万国をすべて従えて「神様の前にこれを捧げますのでお受け取りください」と言うことができなければなりませんでした。そうして神様に孝の道理を尽くし、忠臣の道理を尽くさなければなりませんでした。

 メシヤが担うべき責任とは、家庭的メシヤの基準を築き、世界的な家庭の基準を築き、世界的な忠臣の道理を立てて、新しい天地に天国をつくり、天国の法度を打ち立てることです。これが主の使命です。

 ところがまだこの地に、そのような基準を完結することができずにいます。真の父母として、天地を代表して和合した姿で真の新郎新婦の因縁を結び、神様の前に慰労の対象として立つことのできる存在がなかったということです。来たるべき主は、このような基準を立てなければなりません。そうして、その家庭が忠臣の家庭となり、万国がそのあとに従っていくことのできる国家的な忠臣の位置まで築き上げなければならないのです。

 家庭から忠臣の道理を立てることのできる基盤を築き、それが万国の中心として立つようになるとき、メシヤの理想がかなえられるのです。このようにメシヤが地上で責任を全うし、この世界を神様の前に捧げたとき、メシヤの使命が終結するのです。

◆苦労の道を甘受しなさい

 来たるべきメシヤは、かわいそうな方です。四千年間準備した基盤の上に来られたイエス様に対して、十字架とは何ということでしょうか。神様の息子が十字架を背負うことは、神様の願いでもなく、イエス様の願いでもないということが分かったならば、信じていく道に死の谷間があったとしても、自分がまず行って、その谷間を埋めようという思いをもたなければなりません。今日、統一教会員たちはそのような姿勢になっているでしょうか。神様は今まで損害だらけでした。そのような神様を慰労しましょう! この身を捧げてやってみようというのです。

 ところで、堕落した人間の三大希望のうちの一つは何でしょうか。個性復帰完成。すなわち、私が完成しなければならないということです。完成するためには、神様に対する心情的な負債を清算しなければなりません。そのためには、十字架を負わなければならないのです。イスラエルは、犯した罪をぬぐうための祭物の過程を経て初めて許されるのであり、涙や血や汗といった代価を払うことなくして、絶対に贖 罪されることはありません。ですからイエス様も、「休まずに祈りなさい」と言われたのです。

 それでは祈祷するとき、楽に手足を広げて寝そべって祈祷しますか。ひざまずき、頭を石にぶつけ、鼻柱が折れても祈祷しなければなりません。安楽な立場で祈るようであっては絶対にいけません。

 ですから今も、過ぎた日を振り返ってみて、よく食べてよく遊んだことは、先生の記憶にはありません。どんなにおいしく食べても、食べて腹がいっぱいになれば負債になります。やむを得ず食べるには食べましたが、負債を負うという気持ちで食べたのです。

 一番記憶に残っているのは、追われたあげく捕らえられ、拷問を受けて血を吐いたことです。それを思い出し「父よ!」と言えば、神様の心情が大きく揺れ動くのを感じることができますが、食べるだけ食べて楽に過ごした記憶は、必要のないものです。若い時の苦労は、金をやっても買うことができないのです。また、苦労の中でも耐えることができなければなりません。

◆神様を慰労するには同じ事情に置かれなければ

 腹が減ってみなければ、腹が減った者の心情が分かりません。同じ立場を経験したことがなければ、その事情は分からないのです。皆さんがメシヤの事情とはどのようなものかを知りたいならば、メシヤと同じ立場に立ってみるべきです。聖霊ならば聖霊の立場に立ってみなければなりません。また、神様ならば神様の立場に立ってみなければ、その事情は分からないのです。それでは、どうすればそのような立場に立つことができるのでしょうか。その方法を教えてくれるのが統一教会の原理です。

 皆さんは神様を慰労しなければなりません。神様を慰労もせず、人間が神様を裏切った負債を清算することなくして、どうして天国に行くことができるでしょうか。罪を清算せずに天国へ行こうというのなら、盗賊と同じです。

 イエス様が追われ、追い詰められたように、皆さんも追われに追われてみなさいというのです。悪い人に利用されたり、国のために、民族のために、世界のために、公的な基準で追われてみなさいというのです。そのように追われても、悲しんではならないのです。復帰の道はこのように行くものなのだと感じられるはずです。私が涙を流すとき、神様も共に涙され、私が悲しむときは神様も共に悲しむというような生活をしてきたかどうかを考えて、そのような生活ができていなかったとすれば、悔い改めなければなりません。

 皆さんが統一教会に来て原理を学んだ目的は、神様を慰労するためなのです。では神様をどのように慰労するというのでしょうか。皆さんは、この民族の生命に責任をもって、死を覚悟してでも行くことができなければなりません。夜も昼も、この民族のために祈らなければなりません。国を生かす仕事や善の道を開拓するにおいて、立ちはだかる者たちを払いのけるために、あらん限りの精誠を尽くさなければなりません。さらに統一教会員は、世界に責任をもたなければなりません。イエス様が責任を果たすことができなかったので、統一教会が責任を果たそうというのです。

 そのような中で統一教会は、この民族がもっていない神様の因縁と心情を、また、世界人類が考えることもなかった天の因縁を、この地上に打ち立てなければなりません。そうなれば、皆さんの成すこと自体が神様を慰労することになるのです。

◆終わりの日にある三つの審判

 神様のみ言によって造られた人間は、そのみ言の結実となることができませんでした。したがって皆さんは、「原理の法度によって完成した人間はこうあるべきだ」という基準を立てなければなりません。み言の結実としての実体となるには、サタンと闘って勝ち、神様と愛の関係を結ばなければなりません。

 それゆえ終わり日には、真理の審判、心情の審判がなされるのです。皆さんが神様を慰労する、慰労の実体となるためには、その審判の条件をすべて備えていなければなりません。イエス様がこの地に来られて「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ一四・六)と語られたのは何を意味するのでしょうか。正に真理のイエス様であり、生命のイエス様だということです。

 今まで世界で、二十世紀の文化世界を創造し先進国であると誇っている国家には、哲学や思想において何一つ見習うものはありません。ですからそれらの国は、神様の真理による革命がなされるべき圏内にあるのです。

 今日の社会を見るとき、神様の真理のみ言が日常生活と連結し、日常生活において皆さんが望んでいたその真理をもって生活しているでしょうか。皆さんは真理と和することのできる生活環境と、真理と和することのできない生活環境を分別できなければなりません。

 神様が「おい、アダム!」と呼んだ時、いちじくの木の後ろで息を殺して「はい」とひそかに答えてはなりません。「アダム!」と呼んだ時、大きい声で「はい!」と答えるべきだったのです。アダムがそうしたなら、どれほど良かったでしょうか。ですから皆さんは、「はい、はい!」と力強く答えられなければなりません。

 その次には、人格の審判です。人間の堕落によって、まずみ言が侵犯されました。サタンはエデンの園で、「やあ! 善悪の実を取って食べたらどれほど良いことか。取って食べると神様のように目が開け、神様のような立場に立つので、神様はねたんで取って食べるなと言っているのだ」と人間を誘惑しました。そうしてみ言が侵犯されました。

 み言が侵犯されれば、体も侵犯されます。アダムとエバは果物を取って食べたのではなく、体が侵犯されたのであり、実体が侵犯されたのです。善に侵犯されたのではなく、悪に侵犯されました。悪が侵犯しようとするならば、逃げるべきでした。ところがサタンに侵犯され、体がサタンの手に渡りました。それゆえ、皆さんの心と体が指向するところが違います。したがって人格を完成させるには、心と体が一つにならなければならないのです。

◆慰労の対象となるには実績をもたねば

 皆さんの心のままに体を動かせば、善なる人間となります。そうして悪は受け入れることができないと固く誓って、堂々と審判できる権限をもたねばなりません。アダムも、そのような立場に立つべきした。そもそも天使長は人間の僕なので、問題にはなりません。したがって皆さんは、僕であるサタンを支配しなければなりません。

 私たち人間は、サタンすなわち堕落した天使長によって蹂 躙されたがゆえに、皆さんは蹂躙されたものを蹂躙されていない状態に復帰しなければなりません。たとえ皆さんがサタン世界の悪の巣窟に入れられたとしても、「私は悪の侵犯を受けない。私が悪を屈服させるのであって、悪が私の生命を奪い去ることはできない」と言えなければなりません。「虎にかまれても気を確かにもっていれば助かる」という言葉があるように、皆さんはサタンに侵犯された動機を覚えておいてしっかりとしなければなりません。

 神様も打つことがでず、サタンも打つことができず、人間の行く道を永遠に保障せざるを得ない世界、審判の公法とは関係のない心情世界、人間はこのような心情世界をつくることができずに堕落しました。堕落によって三つのものを失いました。み言を失い、実体を失い、心情を失ったのです。

 神様の愛の因縁で造られた息子としてのアダムが、神様を慰労する対象としての立場を失ったので、皆さんは世界的にこれを蕩減しなければなりません。その責任を負って来られる方がメシヤであるため、皆さんはメシヤに取って代わる立場に立たなければなりません。皆さんがメシヤと同じ立場で、同じ生活感情、同じ事情で一丸となることのできる人にならずしては、神様を慰労することができません。そういう実となってこそ、神様を慰労することができるのです。

 ところで、神様を慰労しながらも、実績がなければなりません。私たちはみな、神様の前に心情的に負債を負いました。私たちが負うべき苦痛の十字架、私たちが受けるべきすべての苦痛な立場を、神様が私たちの代わりに受けてこられました。人間が行くべき道を築き上げ、蕩減の峠を越える方法を教え、準備してこられた神様に、皆さんはどうやって報いますか。

 ですから私たちが最後に残すべきことは、神様の息子、娘として真の善なる先祖となり、この地に天国の法度を立てることのできる忠臣の道理を立てることなのです。そうしてその使命を果たして神様の前に進み出るとき、私たち人間は天を慰労する対象となることができるのです。

















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