文鮮明先生のみ言集
訓教経(上)


私たちの誇り

一九六八年七月七日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第二十巻』


 きょうは皆さんに「私たちの誇り」という題目でお話しします。

 今日、この地上には数多くの民族と数多くの国家があります。どの民族を中心として見ても、民族自体を誇りたいのが、その民族の要求でしょう。またある国を治める主権者がいるならば、その国家の威勢を万国にとどろかす、誇らしい主権者になりたいのが願いでしょう。

 一つの国家もそうですが、大きくは世界を見てもそうですし、小さくは皆さん個人もそうだというのです。自分自身を誇りたい思いで、自らの環境を動かし、国家や世界と因縁を結びたいのが人情の常です。

 このように考えてみるとき、人間の本心がそうであり、人間の生活環境がそうであり、人類歴史の流れも、またそういう方向に流れるということを否認できないとするなら、このような事情の因縁と動機はどこから出発したのでしょうか。

 もし神様がいらっしゃって天地や万物を創造なさったとするなら、神様御自身がそういう立場にあるために、神様によって因縁の結ばれたあらゆる存在は、自分自らを高めようとする心、自分自らを現そうとする心をもつしかないというのです。ですからこれは、創造主がそうであるため、という結論を下さざるを得ません。

◆万物を造られた目的

 神様も御自身を誇りたいのです。はるか有史以前の時代に戻って、創造の世界を敬慕なさった創造主が、六日間で創造なさった創造物を見つめ、喜ばれたその時代を回想してみるとき、神様も造ったあらゆる万物を通して御自身を誇りたい心があったがゆえに、万物を創造なさったことは間違いありません。ですから造られたいかなる存在についても、そういう事情が絡んでいるというのです。

 皆さんが眺めるこの被造世界、あるいはこの自然には、多様な被造物が存在しています。存在する万象は、どんな過程を経て創造されたのでしょうか。それは、創造主の真心が込められた心情の過程を通して造られたのです。どんなに微小な存在でも、神様の愛の心情を通じて、神様が願われ誇りたい心をもって造られたに違いありません。

 このような点から見ると、小さくは極めて微小な存在から、大きくは私たちが推し量れない広大な宇宙に至るまで、存在するあらゆる万物は神様が誇りたかったし、誇れる存在として造られたことを、皆さんは知らなければなりません。

 皆さんは今まで、この地上に残った被造万物を中心として生きてきました。つまり、好きでも嫌いでも万物を利用して、万物を用いてきたことは事実です。では、皆さんが日常生活で使用しているすべてのものが、神様が愛して誇るための目的のもとで造られたとするなら、果たしてそれを理解し、その価値のとおりに皆さんが接してあげたのかというのです。皆さんの本心に問い返してみてください。「そうです」と言える人が、果たしてどれくらいいるかということが問題です。

 朝眠りから目覚め、起きて外を見つめると、光明なる朝の日ざしが皆さんを喜ばせてくれます。では、その太陽の光が意味することとは何でしょうか。つまり、自然が皆さんに要求していることとは何でしょうか。皆さんは、その光を神様の栄光であり、神様の驚くべき創造の恵みと称賛する思いで、接してあげたのかというのです。そうでない生活をしたとするなら、皆さんはそういう内容で造られた万物の前に恥ずかしい姿になるということを知らなければなりません。

◆神様の誇りとなるべき人間

 世の中のあらゆる物は小さな物から大きい物に至るまで、神様の誇りの一面を表すために造られたに違いありません。神様が誇るために万物を造られたがゆえに、造られた万物をそのように認めて誇ることのできる相対的な存在がなければなりませんでした。

 天使世界を造るようになった原因もここにあるのであり、人類始祖のアダムとエバ、いわゆる万物の主人公である人間を造った原因もここにあるというのです。

 アダムとエバを造られる時、神様は御自身が誇ろうとなさる心をもって造った万物を、御自身の代わりに誇って喜べる姿を考えながら造ったという事実を、私たちは知らなければなりません。また、神様が中心存在として立てようとしていたアダムとエバが、全宇宙の前に中心存在として立つようになる日、神様はこのアダムとエバをどれほど誇りたいことでしょうか。被造万物全体を動員して誇りたい一日を願っていらっしゃったのです。

 そのように貴く価値ある存在として造られたのが人間でした。神様は、人間がそのように神様の栄光を称賛する立場に立つことを喜ばれ、「万有の前に創造の偉業を称賛せよ」とじきじきに宣布できる一日を人間が探し求めてくれることを願っていたにもかかわらず、人間はそのような立場に立つことができなかったのです。これが恨であったのです。歴史過程において、ある一時期、この世界が、あるいは国家がそのような立場に立ち、個人がそのような立場に立ったことがありましたか。立ったことはなかったのです。

 神様の誇りたいその内容とは何らの関係もない立場で、神様が悲しむ立場に立っているのが今日この地上に生きている人間であるなら、神様の創造本然の基準とかち合い、対立する立場にあるということを否定できません。

 ところが、皆さんが今まで生きていくにおいて「あ! 私はこれこれの何をもっていて、これこれの社会的威信をもっていて、国家の前にもこれくらいなら愛国の人である」と、自らを誇ることに不足がないと考える人がいるかもしれません。しかし、その誇りは、誰を中心として誇るのでしょうか。まず始めに、神様を中心として誇らなければならないのです。

◆誇ることができなくなった人間

 人間は、まず神様を中心として誇るべき存在です。そのように誇ることのできる立場を取って、「私は神様の代わりとなって、全宇宙の主人の資格を備えた」と、主人の行状を備えて立ち上がるべきでした。それが、人間が生まれた本来の目的です。それにもかかわらず、神様は、人間をそのような立場に立てて誇ることができる一日をもつことができなかったのです。

 今日、皆さんが社会生活をするにおいて、自分自身だけを中心として誇るその基準は、どこから始まったのでしょうか。それは国家から始まったのでもなく、世界から始まったのでもありません。それは正に自分から始まったのです。このように神様を中心として誇るべき立場を離れて、自分を中心として誇る立場になったがゆえに、天倫に符合しない自らであることをまず知らなければなりません。

 今日、堕落した子孫の私たちは、神様が誇ることのできる立場にあるのでしょうか。そうではないというのです。では、歴史をさかのぼって、人類始祖のアダムとエバはそのような立場に立ちましたか。彼らもやはりそうではなかったのです。人類始祖が、神様が創造なさった全体目的のとおりに全宇宙を総合した結実の存在として、全宇宙を抱いて神様が誇ることのできる実体として立てられていたなら、人類はこういう悲惨な歴史をつづってこなかったというのです。

 人類始祖のアダムとエバは、堕落によって神様の前に誇れる姿で現れたのではなく、むしろ悲しみの姿で現れるようになり、顔を上げて誇ることのできる立場ではなく、頭を下げて恥ずかしさを感じざるを得ない立場になりました。そこから人類歴史が出発したという事実を、皆さんは知らなければなりません。

 このような歴史の起源をもって歩んできた人間であったため、天倫の法度において考えてみるとき、そのような人間の誇りというものは絶対に許すことができないというのです。

 ですから、修道の道を行く人は、「誇るな、驕 慢になるな、自らを主張するな」という言葉が出てくるのです。

◆神様が誇ることのできる人になろう

 神様は、堕落した人間が誇ることを容認しませんでした。なぜなら、本来人間は神様の誇り得る存在として造られたために、そこに歩調を合わせて自らの権威を誇るべきでした。ところが人間は、そのような天の道に背いて、神様を悲しみの立場に追い込み自らの立場を誇ろうとしたのです。これが堕落の起源です。

 このように蒔かれた罪悪の種がそのまま刈り取られてはならないために、神様は誇る人間を打ってしまうのです。こういう立場にあるのが今までの私たちの先祖であり、現世にとどまっている人類なのです。ですから誇るなというのです。

 では、人類が望むべきこととは何でしょうか。自分個人を主張し、誇ることが望みではなく、家門や氏族を主張して誇ることが望みでもありません。ある国を建てて誇ることが、その国の民の望みではなく、世界を一つの平和の王国として誇ることが人類の望みでもありません。

 この世界のすべてを投げ打って失っても、私たちがまずしなければならないことは、神様が本来望んでいたその場で、全宇宙に向けて誇り得る神様の位置を取り戻すことです。これが人類の希望の中の希望であるということを知らなければなりません。そういう神様に侍ることが、堕落した人間の最後の目的であることを私たちは知らなければなりません。

 個人がそのような立場で神様の栄光をたたえて、家庭、氏族、民族、国家、世界が神様の栄光を誇ることができるのでしょうか。家庭、氏族、民族、国家、世界が一致した立場で、全世界の人類がすべて神様のその栄光を誇り得る一日を迎えることができなければ、「神様が人間を造った本来の基準、誇ることができるその基準を取り戻した」とは言えないのです。それで、神様はそういう一日を探し求めるために、今まで堕落した人間に対する救いの摂理をしてこられたのです。

◆神様一人で成し遂げることのできないみ旨

 救いの摂理は、復帰摂理です。それでは復帰摂理とは何でしょうか。ある事件が起きる前の基準に再び回復することをいいます。では、創世前エデンの園であらゆる万物を造ったのち、それらを見つめながら喜んで誇ることのできた父の立場、言い換えれば、創造主の立場をどのように回復させるのでしょうか。

 元来すべての万物は、人間を標準として造りました。すべての万物を人間に帰結させるために創造したというのです。このように創造した人間を最初の出発とともに、最後の誇りとして立てようとしていたのが神様の望みでした。ところが、そのような立場に人類始祖が立つことができず、人類歴史は悲しみで出発してしまったので、その過程で神様の前に恥ずかしく、悲しい事実が現れるようになったのです。これが人類歴史の悲惨さであり、嘆きの起源になったという事実を皆さんは知らなければなりません。

 では、人間がもったこのような出発の起源を、どのようにして除去させるのでしょうか。これは神様だけではできないのです。こういう出発が人間によって始まったがゆえに、このことを成就させ、この過程から抜け出すためには、神様が中心になるのでなく、人が中心にならなければならないのです。

 神様のみ旨は、神様お一人で成し遂げることはできません。神様が人間を造る前には、人間を創造し人間を中心としてみ旨を成し遂げられる希望圏がありましたが、創造後には、人間が堕落したがゆえに、人間を通して再び収拾しなければならないのです。神様の思いどおりにできないというのです。前後が逆になっていて、すべての上下関係がひっくり返っているので、これを回復するためには神様だけではできないのです。そこには必ず人間が介在しなければなりません。

 この途方もない問題は、人間が犯した罪によってもたらされたものです。これを元どおりに回復するためには、この途方もない罪状を打開しなければなりません。そうして解放の根拠地を準備することなくしては、神様の本来願った誇りの世界、誇りの人類、誇りの被造世界を成し遂げることができないのです。これは創造原則から考えると、不回避的な事実であることを私たちは知っています。

 ですから、このように堕落した立場に落ちた人間が、もう一度本然の神様を中心として誇り得る立場を求めていこうとするなら、どのようにすべきかということが問題です。このために私たちは、神様が愛して誇ろうとなさっていたその万物を、また造られたそのすべての万物を見つめていらっしゃった父の心を知らなければなりません。その万物を眺められた父の心が喜んだならば、その喜ぶ心を私たちが求めなければなりません。そうでなければ、私たちが失ったこの誇りの権限を、またその上に立てるべきすべての万物世界を、復帰できないというのです。

◆本然の愛と心情を回復しよう

 すべての万物は愛の存在であり、喜びの存在として造られました。神様がその造られた万物を見て、「はなはだ良」い(創世記一・三一)と言われたように、皆さんも被造世界を見つめるとき、大変良いと感じ得る心を呼び起こさなければなりません。神様が万物を造られる当時の心情世界を分からなければならないというのです。

 したがって、小さな一握りの草を見ても、そこに神様の精誠が込められているということを皆さんは知らなければなりません。すなわち、小さいものでも大きいものでもすべて、神様が宇宙的な価値を中心として誇りたくて造ったということを考えなければなりません。したがって、皆さんは人間本然の価値を追求していきながら、神様が造られたすべての万物に対して、その価値を評価することができる、神様の代わりとなる立場を求めていかなければならないのです。

 私たちがこういう立場を求めていくためには、神秘境を探求せざるを得ません。人間は堕落したので分からないのですが、神様が万物に対して主人として喜びを表せば、その喜びを万物が分からないでしょうか。そのようなことはありません。神様が喜べば、万物も喜ぶことができるようになっているのです。

 皆さんは堕落圏内にいるので、肉的五官を通して感知できる刺激以外には感じることができません。けれども、神様はすべての万物を造られた主人ですから、相対的立場にある本性の万物に対して喜びを表せば、その万物が喜びに気づくようになっているのです。すべて感じて気づくようになっているというのです。それで私たちは、そのような本然の愛、本然の心情を求めなければなりません。

 人間の肉身は堕落しましたが、人間の心性には神様と関係している基準、出発の基準が残っているために、この出発の基準を立てて神様の共鳴体にならなければなりません。そうして共鳴できた心情を通して、神様が万物を造って喜ばれた基準を回復しなければならないのです。

 ローマ人への手紙第八章を見ると、パウロは「万物が嘆いている」と言いました。パウロは漠然としたある観念をもって、そのような言葉を語ったのではありません。究極的な立場を探求して入っていくと、万物の嘆く声が、この世界のどんな声よりももっと大きく聞こえたのです。そのような内容があったのです。

◆堕落人間が求めていくべき究極の立場

 このように、本来もっている本然の心性を通じて神様と一致する立場に入っていき、この宇宙万象の世界を見つめると、被造物はもちろん、今日この社会すべてが嘆いていることを感じることができます。したがって、神様が喜ばれた本来のその基準で万物と一致し、人間の価値を回復する立場が、皆さんが求めていかなければならない究極的な立場だということを知らなければなりません。

 それで宗教人たちは、このような神秘的な境地を求めていくために、自らのすべての肉情を制圧し、現実的なすべての条件を放棄してまでも、深い心の世界をたどっていくために山中で修道するのです。このすべてが、そういう意義と基準を求めるための一つの方便にすぎないというのです。

 ですから、皆さんの心が神様のもとに接近して入っていけば入っていくほど、自然に対しても、誰よりも近い立場に立つことができるのです。その自然は皆さんと関係のない立場にあるのではありません。自然は人間のために、すなわち皆さんのために存在するという事実を切実に感じなければなりません。神様が本来人間の完成のために万物を造ってくださったがゆえに、人間はそれを悟って万有の前に誇り得る姿で出現しなければなりません。そうでなければ、神様の前に誇ることができ、その目的の世界を相続できる資格者として立つことができません。修道の世界の究極的な目的が、正にここにあるのです。

 神様は天地万物を創造なさるとき、誇れる存在物として創造されました。ですから、私たちは神様の心情を伴った立場に立ち、この被造世界に対して神様が創造なさった喜びを体得しなければなりません。そして万物について、「私のために造られた誇れる存在物である」と称賛できる心さえも体 恤しなければなりません。そうでなくては、本性の心の礎の上に連結できる、神様が求めて誇りたかった息子の絆を求めることができないのです。

 皆さんは、こういう基準を求めていかなければなりません。今までそのような立場に立って誇ることのできる人が、この地上にいたでしょうか。個人もいなかったし、家庭、氏族、民族、国家、世界もありませんでした。今まで人類歴史で、そのようにできる人が一人もいなかったのです。

 堕落人間として、神様が栄光のみ座で誇ることのできる価値を体得できずに倒れた子孫として、そのような理想のみ座に出られるのでしょうか。出られません。絶対に出ることができません。ですから、神様の誇る心情を通して万有の価値を称賛できる、その基準に立った人も現れることができないのです。それは、人間が堕落の子孫であるためです。

◆神様の誇りになり得ないイスラエル

 神様は、全宇宙万象を代表して誇れる一人が必要でした。それで神様の心情に一致し、全被造世界に対する神様の相続権を授かることのできる真の理想の姿として、この地球上に一人の人間が現れなければならないのです。

 堕落した人間は、先祖が誇る心情を体得できないまま蒔き、罪悪の実として刈り取られた存在であるため、真の理想のみ座に出ることができません。大豆を植えれば大豆が出て、小豆を植えれば小豆が出るのです。同様に人類始祖が罪の種を蒔いたがゆえに、堕落した存在としてしか刈り取ることができないのです。このような人生であるならば、神様の誇り得る座には到底出ることなどできません。

 ですから、神様はこのような人間の前に、神様の心情世界を連結し得る仲保者として、一人の人物をこの地上に送らなければならないのです。神様はそのために、選民思想を中心としてイスラエル民族を選びました。

 しかし、選ばれただけでは誇りの基準に立つことはできません。その民族は責任を全うしなければならないのです。しかし、イスラエル民族は責任を全うできず、選民として選ばれた価値を万世に誇り得る民族となることができませんでした。神様の摂理に合わせて民族を指導しなければならない責任者たちも、時代時代を経てきながらも、神様のみ旨の前にいつも相反する立場に立ちました。それで、イスラエル国家はこのような相反する歴史を経てきながら、イスラエルの建国理念を喪失してしまいました。

 神様が四千年間準備なさることにより、ユダヤ民族が選民として選ばれましたが、その民族は神様の国家を立てて誇るべき責任を全うすることができませんでした。個人もそうであり、家庭、氏族、民族、国家もそうでした。

 神様は、個人、家庭、氏族、民族の基準を立てて国家的な誇りの基準に連結させる救いの摂理のために、四千年間準備してきました。国家的な基準で万民の前に誇ることのできるイスラエル圏を収拾し、その上に神様のみ旨を立てるために、この地に主人として送られた方がメシヤです。ところが、国家的なメシヤとして登場すべきイエス様が、十字架で亡くなったのちは、どのようになったのでしょうか。イエス様は、個人的メシヤに成り下がりました。

 もし、その時イエス様が死なずに、イエス様とイスラエル民族が神様の誇り得る建国理念を中心として一致したとすれば、そこから世界は救われたのです。しかし、国家的な救い主の権限をもつべきイエス様が国家から追い込まれ、追われることによって、民族的メシヤの立場に落ちるようになったのです。民族的にも追い出されたがゆえに、氏族的メシヤの立場に落ちて出るようになったのです。また、氏族的な救い主の立場でも追われたがゆえに、家庭的メシヤの立場に落ち、家庭的メシヤの立場でも追われたがゆえに、三弟子からも追われたのです。

 ですから、この地上にメシヤとして立つことのできる踏み台が一つもなかったのです。したがって、神様がこの地を中心として誇ることのできる踏み台もなくなり、イスラエル民族を立てて誇ろうとした神様の願いもまた、成し遂げることができなくなったのです。

 悲惨に追い込まれて追われたイエス様は、最後の決着をつけるために、ゲッセマネの丘で悲痛な祈祷をせざるを得ませんでした。こういうイエス様であるのに、十字架の血で私たちを救おうとなさるのでしょうか。とんでもありません。そういう悲惨な歴史があったということを、皆さんは考えなければなりません。

◆永遠なる誇りの圏内で生きるべき人間

 私たちは誇らなければなりません。ところが、誇り得る要件をもつことができませんでした。神様が全天宙の前に人間を立て、誇りたかったその誇りは、最後の誇りです。人間がこのような誇りから出発すべきであったにもかかわらず、堕落することによって神様はその誇りを御覧になることができませんでした。

 その誇りは、アルファでありオメガであり、始めであり終わりのようなものです。ところが、その誇りを永遠無窮に、永遠に途絶えない誇りの圏内で生きるべき人間はどこへ行ったのでしょうか。堕落の報いによってばらばらになり、すべて崩れていきました。

 ですから私たちは、必ず行かなければなりません。これからは堕落した人間として、個人的な救い主の使命をなせる民族的な起源をもった個人にならなければなりません。ですから、歴史過程を通して先祖が家庭的メシヤの基準を立てるために、神様の前に祭物の立場を通して立ったその位置を、私が求めていかなければなりません。

 そのようにしてイスラエルは滅びましたが、滅びる前までの、祝福されて生きていた基準を求め、その基台を私たちのものとして相続しなければなりません。それゆえ、統一教会も今まで新約、旧約を通じたイスラエルの歴史の基盤を中心として歩んできたのです。

 皆さんは誇れる自らとならなければなりません。個人を万民の前に誇ることができなければなりません。神様がアダムとエバを造るとき、こういう本性の基準を通して、どんなに小さな価値までも賦与して誇ろうとされました。今皆さんにそのような価値がありますか。

 そのようになれば、皆さんも万物と神秘的な話ができるでしょう。私たちが木や石とも話すことができるのです。昔、聖フランシスは鳥やおおかみにも説教をしたという寓話がありますが、本来人間はそのようなことができるのです。

 本然の価値をもった人間は、存在する万有の生命線を動かし、万物が刺激を受ければその存在の前に、また苦労をして資格を備え通じることができるのです。

◆誇ることのできる立場

 私たちは誇ろうとしても、誇ることのできるものは何もないのです。皆さんが誇ることのできる立場はどこにありますか。家庭を挙げて誇れるならば、その家庭の構成はどのようになっていて、氏族を挙げて世界、万象の前に誇れるならば、その氏族はどのような氏族でしょうか。また、そういう民族、国家、世界はどこにあるかというのです。これを神様は、心から願っていたというのです。

 ですから、神様のその心に通じて、個人、家庭、氏族、民族、国家全体の価値を誇ることのできる権限をもって、この地上に再び来られる一人の方がいなければなりません。その方が、正にメシヤです。

 メシヤは皆さんの今までの生き方を、ただそのままもって来られるのではありません。皆さんが良いという生き方をすべて無視するのです。修道の道はそのように行かなければならないのです。ですから、その道は気楽に歩んでいく道ではなく、死を覚悟して行かなければならない道なのです。

 本来神様は人間を中心として誇りたいと思って、万物を造ってくださったのです。ですから、万物をまず愛することのできる立場に立たなければ、人間は誇ることのできる立場に立ち得ないのです。人間は、いまだに誇れるその境界線を越えることができません。神様は心から誇ろうとしましたが、誇れる実体の立場に人間が立ち得なかったのです。

誇れる特権の基準

 ところで、堕落した人間は、全被造万物を治める権限をもった万物の霊長でしょうか。皆さんは万物の霊長ですか。

 それでは、個人として誇れる特権の基準はどこにあり、家庭として万有の存在世界に神様が誇りたい特権の基準はどこにありますか。氏族の特権の基準はどこにありますか。また、民族の特権の基準や国家、世界の特権の基準はどこにありますか。また、宇宙を総合できる特権の基準はどこにありますか。

 人間がこのようなことをすべて失ってしまったがゆえに、再び求めなければならないのです。かといって、堕落した人間社会で理想世界を求めるために、自由と平和を求めても無駄だというのです。複雑になるだけです。

 ですから、罪悪と因縁のない立場で勝利し得る盾をもって、この地上に一人の人が来なければなりません。すなわち橋の役割、仲保者の役割のできる一人の人が必要です。皆さんは堕落した子孫として罪悪の鎖につながれています。皆さんがどんなに力が強いとしても、その鎖を切ることはできません。それで、切ることのできる人が来て、皆さんを解放してあげなければなりません。

 皆さんは、どのように生まれたのか知っていますか。どこから来て、どこに向かっているのか知っていますか。刑務所に入っていた人も、出てくるときには、行き先を定めて出てきます。自分の家を慕い求めるというのです。皆さんには行く所がありますか。

 神様の本性の基準を中心として見たならば、個人の価値は万有の前に誇れる立場として立てられなければならなかったのです。息子、娘もそのような立場に立てられなければならないし、家庭もそのような立場に立てられたのちに、家族同士で愛し合わなければなりません。ところが、皆さんはそのような立場で愛し合いましたか。

 ですから、そのような個人、家庭、氏族、民族、国家をひっくるめて、大審判をしなければなりません。滅びる時となったのです。それらすべてが、神様が誇り得る立場に立てないがゆえに、大審判をするのです。

 皆さん、考えてみてください。皆さんも誇りたいはずです。若い女の子たちも、良いものがあれば自慢したがります。しかし、そんなに自慢してどうするというのでしょうか。自分を中心として誇り、家庭を中心として誇ってみても意味がないのです。他人の目を中心として誇っていては意味がないというのです。

◆誇ってみたい神様

 先生は、乞食が生きている所にも何度も行ってみました。乞食は昼に御飯を恵んでもらってきますが、そこにはいろいろな人がいます。お互いに食べ物を恵んでもらってきて、「何を恵んでもらったんだ?」と聞くと、「おれはお祝いしている家に行って、豚肉をもらってきた」と言いながら踊る人もいます。そのような環境では、それがまた自慢となるのです。数十人の人が御飯をもらいに行ってきて、一人でも少しばかり基準が上がれば、みんながそのことをもって騒ぎまくるのです。

 皆さんも誇ってみたいでしょう。先生も誇ってみたいのですが、誇れば世界がびっくりして腰を抜かしてしまいますから、誇らないでじっとしているのです。統一教会がどうだとありとあらゆる悪口を言われても、じっとしていました。のどが痛くなり、おなかがすいたらそのうちやめるだろうと、世の中の人々はそんなふうに考えているのです。

 皆さんも誇ってみたいし、先生も誇ってみたいのです。ところで、神様はどうでしょうか。神様も誇りたいというのです。それで誰を引っ張ってきて誇るのでしょうか。統一教会の信者を引っ張ってきて誇れるなら、どれほど良いでしょう。そうなったら、神様も喜ばれることでしょう。このように神様も誇りたいのですが、そこには誇るに値する人がいなければならないのです。

 神様が誇りたい人とは、どのような人でしょうか。その人は天下に一人しかいない、神様と完全に心情と事情を通じることのできる立場に立った人だというのです。皆さんは、そのようにできる息子、娘になりましたか。このように、立派な息子の標準を立てておいた神様がいらっしゃるということを考えなければなりません。

 神様も誇りたいのです。それで神様は歴史上の聖人、賢哲あるいは偉人を立て、人類を収拾させてから誇ろうとなさったのです。しかし、彼らの立てた条件で、一時代、一世界、一つの歴史の過程を通して誇りはしましたが、その人々が天地を通して誇ることのできる価値をもてなかったがゆえに、その場で何もかも倒れていったのです。

 昔、ゲッセマネの園で悲惨に祈って、ゴルゴタの丘で死んでいったイエス様は、どれほどわびしく悲しい思いをされたことでしょうか。命懸けで信じると誓った十二弟子はどこに行き、愛していた三弟子はどこに行ったのでしょうか。イエス様が死ぬ前に、「先駆けて死にます」と誓った弟子たちはみんな逃げてしまい、女性たちだけが道端にひざまずいて泣いているのを御覧になったとき、イエス様の気持ちはどうだったのでしょうか。

 その時、イエス様は心の底で「国を失い、世界を失ったお前たちが、今さら泣いてどうするというのか。失う前に努力すべきではないか……」と言われたでしょう。それで、イエス様は泣きながらついてくる女性たちに「わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい」(ルカ二三・二八)とおっしゃったのです。これは本当に驚くほど意味の深い言葉です。

◆神様が誇りたい人

 皆さんは、世界人類がすべて二度も、三度も、四度も見物しようと行ったり来たりしたくなるほどに誇らなければなりません。それが三代にわたって続かなければなりません。そうでなければ、神様のものになることはできません。それでアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と、このように三代を経たのであり、ヤコブも七年ずつの三段階を経ました。またアダム時代、イエス時代、再臨主時代の三段階を経るのです。

 今は誇る時となりました。誇ろうとするならば、何から誇らなければならないでしょうか。父母が誇らしいことをしたなら、その父母から誇らなければなりません。それから息子や娘が、その次はその孫が来て誇ることができれば、心は浮かれるのです。このように三代を経て誇らなければなりません。そうでなくては、神様のもとへ行くことはできません。

 皆さんは、家庭を中心として氏族が、氏族を中心として民族が加担して誇れる基準になるまで行かなければなりません。皆さんは、家庭を中心として行くべき道が残っています。皆さんはその道を行き、神様が立ててくださった民族を経たそののちに、国家の国民になるのです。

 神様の願いは何でしょうか。歴史的なすべての聖人、賢哲に、この時代に生きている人々に、その価値を誇ることのできる一人の人を求めるのです。ですから歴史を通じて誇り、この時代の五十億の人類の前に誇り、それだけでなく今後生まれてくる数多くの後世の前に千年、万年も、歩んだ道を誇ることのできる主人公になりなさいというのです。

 過去、現在、未来を総合した立場で、神様を感謝の涙で泣かせることができ、イエス様を感謝の涙で泣かせることができ、聖霊を感謝の涙で泣かせることのできる人となって「お前でなかったら、どうなるところだったか」と言われるように、息子、娘としての使命を果たさなければなりません。そうしてこそ初めて神様の前に誇れる存在として立ち得、全宇宙の前に誇れる存在として立てる価値をもち得ることを、皆さんは知らなければなりません。

 それでは、皆さんはそのような立場に立って神様に対して、「お父さん」と呼んでみたことがありますか。父がいらっしゃるのかいらっしゃらないのか、義理の父なのか実の父なのかも分からなかったというのです。今はそのような内容を知っている立場で父を呼び、ひとえにその父の胸に抱かれた事情を胸に秘め、歩んでいかなければなりません。そうして爆発する悔しさが恨めしさと交差する立場のその恨を解決するために、死の道も進んでいくという信念をもって、イエス様以上の立場に立たなければなりません。

 皆さんは、これから神様の勝利の基盤を築かなければなりません。そうなるまでは恥ずかしくてうなだれ、ひざまずき号泣しなければなりません。自分たちは、神様が顔を上げろと命令されるまで顔を上げられない、罪悪の先祖の血を受けて生まれた子孫であることを知らなければなりません。

 皆さんはそのような自分を収拾し、個人的勝利の基盤を打ち立てることによって、万有と人類の慕い求める自らとなり、家庭を立てて収拾し、家庭的勝利の基盤を立てることによって、神様に誇れる家庭にならなければなりません。そうしてこの罪悪の世界で、神様の願われる家庭の権威を備えた、愛せる家庭となることができなかった時には、私たちの家庭が召命されたことをかえって恥ずかしく思う立場に立たなければなりません。

 神様が「お前の家庭でなければ駄目だ」と言って立ててくださることを望む前に、神様に召命されて立つことのできる立場で神様を呼び、悔い改めの涙を流し、自らの家庭を神様の懐に抱かせる使命を果たさなければならないのが、統一教会の家庭です。それにもかかわらず、そのような価値を知っている祝福家庭が、どれほどいるでしょうか。

 また、私がいなければお前はあり得ず、お前がいなければ私は生きられないという、血肉を分けた絆の中で、一つの足跡の基盤を築かなければならないのが、統一教会の家庭です。それゆえ、互いに力を尽くし、「神様の栄光なる基盤を築いて輝かせよう」と言い、「そこに私が肥料となり、基盤となる」と言って、先を争って突き進むことのできる生活的基盤を誇らなければならないのが、統一の理念をもって歩む祝福家庭なのです。ところで、そうなれる家庭がどれくらいあるでしょうか。

◆私たちが誇らなければならない内容

 皆さんは、私たちがもっている真理を世界万国に誇らなければなりません。この統一の理念を万世に誇らなければなりません。もし、皆さんがこの内容をもってしても勝利できずに誇れなくなれば、子孫がサタンと闘わなければなりません。そうして彼らが勝利して誇れるようになれば、「当代に栄光の価値を身につけながらも、天地に責任を果たせなかった」と讒訴する時代が来るというのです。

 私たちのもっている栄光のみ言は、どこの誰ももっていない、一つしかない真理のみ言です。この真理を通じて、一つの人格基準を立てなければなりません。それは、サタンが好き勝手にもてあそんだ環境の基盤の上で侵犯された先知先烈の恨めしい人格基準でなく、サタンを屈服させて霊界のすべての聖賢を解怨成就させてあげられる人格基準です。

 神様の六千年間積もった恨の心を解いて、解放の一日を慕い求める息子、娘を迎えることができ、神様がやきもきされたその心をすべて打ち明け、愛するその息子、娘を迎えることのできる、自由な天国の基盤が統一教会です。この地上で、歴史上どこの誰ももてなかった神様の心情に直行できる所が、この場です。このように、途方もなく恐ろしい立場に召命されて立てられた姿であると考えるとき、皆さんは必ずや責任を全うしなければなりません。

 神様は、私たちを立てて誇りたいのです。つまり、統一の群れを立てて誇りたいのです。ですから、地上にある貴いといわれるすべてのものを捨て、一生をみ旨のために捧げ、この価値を千年、万年、とこしえに輝かせていくと誓って、この活動をしなければならないのが、統一教会の食口です。それにもかかわらず、そうなり得ていない食口たちは、悔い改めなければなりません。

 ここで皆さんがもたなければならない姿勢と権威は、万国に誇れる息子、娘の姿勢と権威なのです。そのような息子、娘になろうと思えば、栄光の立場で孝子や孝女になるのではなく、いかなる困難な立場でも神様の代わりとなって、神様の受ける矢を私が代わりに引き受けるという立場に立たなければなりません。

 死の立場でも神様の苦痛を私が代わりに受け、息子としての責任を全うし、孝行の絆をつくらなければなりません。そうして神様の信任を得なければなりません。これが統一の群れが行くべき道であるということを、皆さんは知らなければなりません。

 そのようにつくられた基盤の上に、私たちは生命の種を植えました。そこに芽が出て、花が咲き、実を結ぶようになりましたが、その実は初めて得られた実であり、それによって民族的伝統、世界的伝統が、天の新しい因縁によって出発できる基盤になりました。このような勝利の基盤の上に、天国が出発するというのです。

 ですから、外的に現れた私たちの姿はたとえみすぼらしくても、内面にある事情を見れば、骨髄が溶けて、心臓の鼓動が止まるくらい緊張した立場で叫ぶことのできる内容です。これが死んでいた死亡世界の人間を再び復活させる動機と源泉になるならば、こういう立場での孝と忠は、私たちだけがもつことのできる一時の良い贈り物なのであり、私たちだけがもつことのできる誇りの条件になるのです。

 それを誇りの条件としてもつためのものが、今まで先生がこのために命を捧げて闘い、歩んできた道でした。そして、時が来たにもかかわらず、皆さんはのんびり食べたり、寝たりしながら勝手に生きていても良いのでしょうか。

 この時に皆さんは、責任を果たせないことを恥ずかしく思い、万民の慕い求める光明な天国を前に、孝子としての節義でも立てようと身もだえしなければなりません。

◆天の精兵となって総進撃しよう

 過去に去来した数多くの先知先烈は、その時代を中心として慟哭と訴えのできる優先権を授かった群れです。そのような歴史を、ここでまた再現させるのでしょうか。「いっそ知らなかったほうが幸せだったのに……」と嘆く群れとならないようにお願いしたいのです。

 自由なる天国、新しい平和の王国を創建するための闘争の過程で、誰よりも途方もない血を流して戦った者がいるならば、彼は滅びないでしょう。彼の流した血は死亡の血ではなく、生命の源泉であるからです。そのようにして創建したそこに、私たちは行かなければならないし、とどまらなければならないのです。そこが、後世に残しておかなければならない基盤です。

 皆さんは天の前に「天よ! あなたが創造理想を中心として誇りたかったすべての期待が、私を結実させました。人間を立てて永遠に、すべての世界に誇ろうとしていた、あなたの内的心情と一致を成しました」と祈祷するとき、神様が「よし、よし」とおっしゃることのできる立場で、神様が喜ばれる自由と平和の天国に行進するその日を、恋しく思わなければなりません。

 そして、天使天軍と全宇宙のありとあらゆる存在物が、ついに万物の霊長が現れたと、中心が生じたから解怨成就されたと称賛するとき、その称賛を受けて、神様の愛の懐に抱かれ得る基盤を立てる息子、娘にならなければなりません。そうして神様は、万有の創造主であられながら、万世に価値を誇ることのできる、生命の源泉である神様の一つしかない愛を永遠無窮に自分のものとして身につけなければなりません。

 それを中心に、世界がその中にあるのです。神様までもその中にいらっしゃるのです。それゆえ、このような絶対的な愛の権威を残すことのできるこの時代的な基点を喪失する皆さんとなっては、神様の統一の理念を通して立てようという誇りの基準が立たないことを知らなければなりません。皆さんはこのような目的のために、きょうもあすもこの道を行かなければなりません。

 世界的な環境の中で、この道を行く私たちは孤独な孤児のようですが、決して孤児ではありません。私たちの背後には、歴史を通じて今日を準備した神様の億千万の精兵がいますが、彼らが正に霊界にいる数多くの霊人です。彼らはみな、地上を中心として活動できる所を用意しているというのです。

 したがって、皆さんは援軍が世界に散在しているということを考え、勇者として敵陣に向けて総進撃する天の精兵にならなければなりません。ここで落伍者となり、小心者となってはいけません。

 また、この関門を通って誇ってみたい神様のみ旨に従い、栄光の立場で神様の愛を相続し、永遠無窮に行進する人類の先祖になることをお願いします。

















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