文鮮明先生のみ言集
訓教経(上)


父の代わりとなろう

一九六八年八月二十四日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第二十四巻』


 一つの家庭の中心は父母です。その父母を中心として、その家庭の代を継ぎ、父母のみ旨を受け継ぐことのできる中心人物がいなくなれば、その家庭は希望のない家庭となります。一つの家庭がそうであるように、国を見るとき、その国の主権者を中心とした理念と思想があれば、その透徹した思想を継承し、責任を負うことのできる代身者がいなければなりません。

 ところが、その代身者がいなくなる時は、その国の展望、すなわちその国の未来には希望がないといえます。この世界を中心として見ても、やはり同じです。

◆み旨を代わり得る中心人物がいない哀れな神様

 このように見るとき、今日個人を中心とした家庭においても、あるいは私たちが属しているこの国においても、ここにはいつも代身者がいて、歴史とともにずっと流れてきたということが分かります。それが強固になり、完全に定着した家庭を中心とした国家があれば、その国家は世界的に強固な基盤の上に立たざるを得ません。

 このような観点から神様の救援摂理歴史について見れば、神様の家庭がなければならないし、神様の氏族がなければならないし、神様の民族、国家、世界がなければならないはずです。しかし、神様が摂理的な内容を通して求めていらっしゃるそのような家庭、あるいは民族、国家、世界は今までありませんでした。

 ここで神様を信じる人々が必ず家庭の中心にならなければならないし、また、民族、国家の中心にならなければないし、さらには世界の中心にならなければならないということは言うまでもありません。しかし、今までこの世界には、そのような中心になり得る天の主権を決定できませんでした。世界の中心どころか、国家の中心も今まで決定することができなかったのです。国家の中心を決定しなければならないことももちろんですが、まず神様が求められる完全な一つの家庭的な基準を決定しなければなりません。

 しかし、神様が願われる家庭の中心を決定したのかということを冷静に考えてみると、大多数の人々は、そうできなかったと自ら感じるでしょう。また、社会の一員である私一個体が、神様が必要な者として願う一つの中心として完全に決定することのできる自体になったのかといえば、これもやはりそうなれなかったということが分かります。

 私たち人間の心というものは、朝に夕に変わります。そのような自分を中心として永遠なる理念に通じることのできる家庭や、国家や、または世界を追求していくことは、神様のみ旨と神様が願う目的があるからです。それにもかかわらず、目的に対する私自体が一つの中心を決定できなかったという事実を悟るようになるとき、そのことを成就させなければならない神様が、どれほどかわいそうなお方であられるのかということを知らなければなりません。

 一国の主権者が、その国家の主権を自分が責任を負わなければならないにもかかわらず、責任を負うことのできる基盤がなければ、彼は極めて不幸な人です。民はそれをよく感じることができないとしても、それに責任を負った張本人は、誰よりも哀れさを感じるでしょう。彼は、時間を超えてやってくる苦痛を受けざるを得ないでしょう。もちろん、国家的な苦痛も受けなければなりませんが、その環境で起こる苦痛も受けなければなりません。

 そのように中心存在は、内外の苦痛をもって、命懸けで生死の岐路を探していかなければならない立場だということを、私たちは知ることができます。

 もし、神様がいらっしゃるならば、その神様にも明確に目的があるはずです。その目的はある個人的な目的ではなく、全体的な目的に違いないはずです。神様が、このような全体的な目的を完全に成就させるべき使命をもっている方に違いないとするならば、その方が、どれほど悲惨な立場にいらっしゃるかということを知らなければなりません。その方が能力があり、全知全能な権限があるといっても、その能力を発揮できる基盤と環境が整わなかったために、その方の内的な苦痛と外的な苦しみがどれほど大きいだろうかということを私たちは推量し、知ることができます。

◆神様の願いと正しい信仰の姿勢

 それでは、その方が今日この時間に要求することとは何でしょうか。その方は中心を決定することを要求なさいます。家庭ならば家庭を中心として、神様の本意に一致できる家庭の基準を決定することを要求なさるのです。あるいは、国家ならば国家を中心として、その方が要求する国家の目的に代わり得るその中心が決定されるのを要求なさるのです。今日全世界の舞台を中心として見るならば、神様は世界を収拾するための、ある目的を中心として眺めながら進んでいらっしゃいます。したがって、神様はその神様と一致できる一つの基準、一つの中心的な基盤を成し遂げるにおいて、相対的な立場にでもなれる世界を要求するに違いありません。

 それでは、そのような立場の神様の前にあって、個人ならば個人、家庭ならば家庭、氏族ならば氏族、民族ならば民族、さらに国家と世界を中心として、果たして天の前に中心的な立場を決定づけ得る存在に、誰がならなければならないでしょうか。

 今日、この世界には数多くの宗教があります。キリスト教、仏教、儒教、そのほかにも数多くの宗教があります。その宗教団体の中で、どの宗教が本物でしょうか。本物の宗教は、外郭的なそのような内容をもった宗教ではありません。内的なその心情を通して連結できる基準に立つ宗教でなければなりません。このような立場でキリスト教の教理を中心として見るとき、キリスト教は神様を父母として侍っています。それで、キリスト教はすべての人を「神様を中心とした子女」と言い、神様を信じている万民を「兄弟」と言います。

 このようにキリスト教は、家庭を中心として世界へその理念を連結させていくことのできる内容をもっています。それでは、現在のキリスト教が果たして、天が願うあらゆる全体の内容を決定すべき全般的な責任を負うことのできる立場に立っているのでしょうか。立っていないというのです。ですから、今までそのような宗教が現れなかったという結論が出てきます。それなら、そのような宗教が現れてきつつあるのでしょうか。そうであれば、神様御自身は内心的に希望をもつことができるのです。しかし、今もそのような宗教が現れていないとするなら、神様は歴史上のすべての御苦労が大きかったのに比例して、大きな悲しみを感じざるを得ないというのです。

 この時代に責任を負っていくべき立場に立っているからには、この時代に対して批判せざるを得ないということを知らなければなりません。

 それでは、私たちはここに何をしに来たのでしょうか。ただ一つの目的は、今まで悲しく、かわいそうな立場にいらっしゃった神様の前に、内的な心情の同伴者になろうというのです。それもできないとするなら、外的な一つの踏み台にでもなろうというのです。川を渡っていくのに、踏み石になるか、橋になるかしなさいというのです。神様が目的を成就なさるために渡っていくのに使われる一つの分子にでもなりなさいというのです。このような存在になることができないので、神様は今でも悲しみの中にいらっしゃるのです。

 その神様の前に、負債を負うために来たのか、負債を返すために来たのかといえば、今日ここに集まった皆さんは「負債を減らすために来た」という覚悟をしなければなりません。負債を減らすにおいては、私の個体に対する負債だけではなく、家庭に対する負債を清算し、民族と国家、世界を代表して負債を減らすことができなければなりません。私が行かなければ誰かが行かなければならない道であり、私が成し遂げなければ誰かが成し遂げなければならない道です。ですから、「自分自身が天の前に責任を完遂する」という信念を強固にしなければなりません。

◆父の代わりになろうとすれば

 それでは、一つの家庭を中心として見るとき、父母のみ旨を継いでいく代身者になろうとするならば、どのようにしなければならないでしょうか。第一に、志を同じにしなければなりません。父母のすべてのみ旨を共にできる人が、父の代わりになれます。そのためにはその息子が、「お母さん、お父さんはこのようなみ旨を中心として、この家庭を立てるために行くんだな」と父母のみ旨を知り、その家庭を導いていかなければなりません。すなわち、家庭の未来を考えて、家庭が歩んでいくべき目的を中心として、その観念に一致しなければなりません。

 ところが、ここで共にするだけでは、その父母の代わりにはなれません。そのみ旨を仰ぎ、そのみ旨を中心として実践しなければなりません。また、そのみ旨が永遠ならば、行動の目標も永遠でなければなりません。そのような基点をもたなければ、父の立場に代わって立つことはできません。したがって、父の代わりになろうとするならば、み旨が同じでなければならず、行動が同じでなければなりません。

 どのような父母でも、家庭の責任を任せるために自分の代わりを立てるときは、自分よりもできない者を立てることを願いません。息子が父母より優れていることを願うのは、家庭の要求です。民族も同じです。それにもかかわらず、今までの主権者はそうではなかったというのです。

 それならば、神様はどのような基盤を中心として摂理の歴史を進行なさるのでしょうか。神様は、摂理を出発できる一つの家庭を探し出すために、今まで歴史の背後を中心として摂理の基盤を築いてこられたのです。それで神様は、その家庭と一致できる国家、そしてその国家を代表できる責任者を探してこられました。そのような代表者を要求してこられました。国家ならば国家を中心として、神様が立てた目的とみ旨と一致させていける人を願うのです。神様が立てた責任者といっても、その責任者を踏み台としてより一層飛躍できる人を、神様は願われるはずです。

 このような観点から、私たちは、家庭に責任を負うことのできる代表者になることはもちろんですが、さらに進んで国の代表者、世界の代表者にならなければなりません。そのためには、自分が世界的な基準をもたなければならないのです。

 この世界的な基準をもとうとするならば、絶対的な基準に近づかなければなりません。しかし、まず家庭の中心を通らずには、民族の中心を経ていくことはできません。また、民族の中心を通らずには国家の中心を経ることはできないし、国家の中心を経なければ世界の中心として出ていく道理がありません。皆さんはこのような事実を知らなければなりません。

 今日多くの人々は、自分を中心としてその国の主権者になりたがり、責任者になりたがるのです。さらに進んでは、世界の指導者になりたがるのです。しかし、そのようになろうとするならば、まず家庭、氏族の門を越えなければならず、民族、国家、世界の峠を越えなければならないのです。それでこそ世界的といえるのです。

 人々は栄光を受けることは好みますが、迫害と試練と苦痛を受けることは大概嫌います。しかし、世界的な家庭の中心になるためには、世界的なあらゆる試練と苦痛を克服できなければなりません。すべてが倒れざるを得ない環境でも、自ら立ち上がり、すべてを克服して打開していかなければならないのです。世界的な家庭の中心になろうとするなら、そのようなことができなければなりません。

◆神様に心情的な重荷を背負わせていることを記憶しなさい

 それでは、神様は世界的なこのような責任をなさるために、どのように摂理してこられたのでしょうか。神様は、人間が堕落したとはいえ、その報いを受けることを望むお方ではありません。神様は人間が報いを受けなければならないのに、人間に代わって堕落の煩いをはがしてくださろうというのです。人間が責任を負うことができないので、神様が責任を負うのです。

 ところが、このすべての歴史を収拾して、世界に責任を負わなければならない神様は、個人に対するにもかかわらず、その争いの舞台は個人的なものではなく、世界史的なものなのです。したがって、その争いは世界史的な争いなのです。そのような争いを経ずには、世界史的な個人を探し出すことはできません。このように見るとき、私たちの個体は微小な存在であり、何ら価値もない存在なのかもしれませんが、神様の御苦労の功績と御苦労の路程を考えるとき、歴史的な結実体とならなければならないというのです。

 人間は、堕落したために、神様が喜ばれる息子、娘の姿になることができず、悲しまれる姿になってしまいました。悲しくて、悲惨な孤児の立場に落ちたのです。

 このような人間に、幸福の欲望をもたせ、その基準まで進めようとなさる神様の悲しみと苦しみはどれほど大きいでしょうか。喜ぶことのできる立場で生まれ、その道を行っても難しいのに、極めて悲痛な悲しい立場で生まれた人間に対し、最高の喜びの基盤を立てるために引いていかなければならない神様の心を、私たちは知らなければなりません。

 皆さん一人のために神様が背負った心情的な負担は、何を捧げても返すことはできないのです。皆さんは、そのような負債を背負っているのです。神様はこのような負債に対して忘れてしまいたいし、関係したくないのですが、サタンはここに条件を出してくるのです。神様は忘れてしまいたいのにもかかわらず、サタンは「なにがしはこのような負債を負ったではないか」と言います。神様は悲しい立場にいらっしゃるにもかかわらず、サタンがそのように食ってかかるので、再度試練と苦痛を受けなければならない、より一層悲しい立場になってしまいました。

 このような立場で神様は、神様の代わりを探していらっしゃるのです。ですから、どれほどかわいそうな神様でしょうか。こういう立場を世界的に早く越えたいし、そのような立場を抜け出したい心は限りないのですが、そうできない神様の事情を皆さんは知らなければなりません。神様には、人間の父母となった罪しかありません。

 こういう悲惨な立場に立って、神様は代身者を探してこられました。アダム家庭でもそうであり、ノア家庭でもそうであり、アブラハム家庭でもそうでした。また、歴史的なイスラエル民族に対しても、一つの勝利の民族になることを願われました。けれども、勝利の民族どころか、勝利の個人も探せなかったので、神様の悲しみがどれほど大きかったでしょうか。四千年の歴史の御苦労の基盤の上に、そのようにできる一つの個人的な代表者、家庭的な代表者、国家的な代表者、世界的な代表者を探し求めて努力してきましたが、そうできませんでした。

 それゆえ、この全体を代表することができ、世界の民族に代わることのできる一人の息子を送られたのです。それにもかかわらず、この方を殺したのです。それは苦労した父の心情の前に、歴史的なすべてを壊した結果になるのです。言い換えれば、罪悪になった世界が家庭の代表、国家の代表、世界の代表としてこられた方を打ったということになります。

 それゆえ、個人的な罪の代価を受けなければならず、家庭的な罪の代価を受けなければならず、民族、国家的な罪の代価を受けなければならず、世界的な罪の代価を受けなければなりません。それで、摂理的な立場では選民というイスラエルの国が、歴史上悲惨な路程をたどりながら孤児になり、追われる身になったのです。

◆神様を慰労してさしあげるべき責任を負っている統一教会員

 それでは、皆さんはここに何をしに来ましたか。皆さんはただ通り過ぎるために来た人ではありません。必ず何かを一つ決定して、使命的な分野で代身者として立つために、命を懸けて一番勝負をしようとして集まった群れだということを知らなければなりません。

 天はそのような個人、家庭、氏族を探し求めているので、個人もそうならなければならないし、家庭もそうならなければならないし、家庭を通じることのできる氏族もそうならなければならないのです。この氏族は、また民族と国家の前に伝統的な思想を残してあげなければなりません。民族と国家だけではなく、この民族と国家を動かして世界に伝統を残さなければなりません。そのために、新しい国家の理念を立てなければならないのです。

 皆さんは、それと距離が遠ければ遠いほど、心はより一層切実でなければなりません。その距離が遠ければ遠いほど、その距離を引き寄せ、中心基準をこの時点に立てなければならないのです。今日その基準が決定されなかったために、悲痛な事実が残されるようになったのです。したがって、今日の私たち統一信徒は、遠い距離でも、心情的な一致点をもって天を慰労してさしあげるべき責任があるということを知らなければなりません。

 ここで問題になることは、使命的な責任を身代わりする前に、心情的な責任を身代わりできる人がいなければなりません。それゆえ、皆さんは相対的な立場に立たず、統一教会ならば統一教会を代表した主体的な立場に立たなければなりません。歴史が流れてきたその中心の立場で、一度上を見上げ、前を見下ろしてください。果たして皆さんが置かれた立場が、何を批判できる立場でしょうか。そうではありません。その場は永遠に批判を受ける立場です。責任を負うといったので、永遠に責任を負う立場だと考えなければなりません。そのような深刻な立場だというのです。

 皆さんは、自ら行かなければなりません。誰かの荷物になってはなりません。死ぬ恨みがあっても、荷物になってはなりません。家庭でも荷物になってはなりません。家庭を復活させなければならないのです。そのようなことができる個人と家庭の形態が出てこなければ、民族と国家を代表できる責任者が出てきても、滅びるのです。

 神様が能力がなくて、今まで六千年間苦労したのではありません。問題は、人が神様の前に実績を立て、相対的な立場で踏み台をつくることができなかったので、歴史はひっくり返されたということを私たちは知らなければなりません。ここで責任者が、どんなに責任を全うしたとしても、その責任の前に一致できる対象的な実体が決定され、強固化される前には、その代身者が哀れになるというのです。神様もそうできる対象がいないために、哀れな立場にいらっしゃるのです。

 皆さんは、皆さん自身を中心として行くとき、統一教会の食口ならば食口の前に負債を負ってはなりません。絶対負債を負ってはいけません。自分の家庭ならば家庭の前に、「絶対負債を負わない」と言わなければなりません。そのような考えが徹底しなければなりません。氏族ならば各自の氏族がみ旨に対する立場で、人に負債を負わせる立場に立ってこそ、神様も安心できます。こういう氏族が出てこなければなりません。み旨を遠くへ置いて生活する、第三者の立場になってはいけません。

 父母が願う息子、娘は、父母が涙するようになれば、その表情だけ見ても悲しむ子供です。その基準において、父母の心痛を自分の心痛として分かるようになるとき、父母が悲しむ立場にあれば、子供も悲しまずにはいられないのです。それが、親子の関係における心情的な絆です。ですから、神様が悲しまれるとき、神様の息子となった立場にある私たちが悲しまざるを得ないのです。そのような立場に立つことができなくては、絶対に父の代わりにはなれません。

◆深刻な生活としてみ旨の道を行きなさい

 み旨に対していく皆さん自身と、先生が心情一致をしなければなりません。どんなにできが悪くても、父母と子供の間は直接通じなければならないのです。そのようにできなければ、父母でもなく、子供でもありません。孝子というのは、父母の前で得なことだけを、そよそよと吹く風のように軽く愛を受けようとする子供ではありません。

 孝子とは、父母の悲しみに代わって責任を負うために難しい立場を訪ねていき、責任を全うすることによって父母に喜びを返すことのできる人です。父母が十ぐらいのことをするのに、子供が十五ぐらいの努力をしたなら、父母は五に該当する喜びを感じるようになるのです。そのような分野をどのように補い、父母のために捧げられるのかを考えながら努力する人が、孝子なのです。

 教会においても皆さんは、教会に困難があるとき、その困難を自分の家庭の困難のように考えなければなりません。また国においても、国家の運命を左右できる責任者の立場に立たなければなりません。国が死ぬか生きるかという立場に置かれたとき、自分の息子、娘の生死が問題になる人は、その国の責任者になれません。皆さんはそれを知らなければなりません。

 今までその限界線を越えることができずにうめき、そこで決定づけられない人は、責任者にはなれません。それゆえ、一つの家庭で代表者になろうとするなら、その家庭のあらゆる困難に責任を負わなければなりません。難しいことを分担しようとするのではなく、「全体に責任を負う」と言える人が、全体の責任を負うことができるのです。

 今日、統一教会もやはりそのような歴史的な責任をどれほど果たせるかによって、世界の前に早く現れるか、遅く現れるかという問題が左右されます。このような観点から見るとき、皆さんがみ旨を知ったその日から、果たして自分自身がみ旨のための代身者としてどれほど忠誠を尽くし、どれほど苦労をしたかというのです。ですから、今日み旨のために本当に深刻な生活をし、み旨についていっているのかどうかを、もう一度省みなければなりません。

 責任者は、言いたいことがあっても、みな言うことはできません。怒りたくても、むやみに怒ることはできないのです。もし怒ったとしても、それが国家的な悲しみや氏族と家庭の悲しみを抱いた立場でそうしたなら、罪ではありません。しかし、自分を中心として批判したり、怒ったりすれば、自ら引っ掛かっていくようになるのです。

 責任者として自分が従えている人々を酷使ながら、自分は楽な立場にいるなら、その責任者は讒訴を受けやすいのです。このような観点から、今後、天が要求する代身者の立場を、皆さん自体が発見しなければなりません。そのようになれば、統一教会において、今後代身者はどうしなければならないかという標準が出てきます。また、家庭ならば、どのような家庭にならなければならないかという標準が出てくるのです。そして、氏族ならば氏族、民族ならば民族、国家ならば国家の代身者はどうしなければいけないかという標準が出てくるのです。

 このような観点から見るとき、今までは神様の代身者は、世界にもいなかったし、国にもいなかったし、民族にも、氏族にも、家庭にもいませんでした。このような世界が今までずっと残されてきたので、これを再び収拾し糾合するために出てきたのが、統一教会です。

 それでは、真の統一教会員はどうしなければならないでしょうか。統一教会が経てきたその道を、自分が行かなければならないという人が、真の統一教会員なのです。国を中心として見るときも、そのような人になってこそ、愛国者なのです。「統一教会が闘ってきた道を、私も歩まなければならない」と言わなければならないのです。

◆統一の道

 また、私たちは教派を統一しなければなりません。教派を統一するにおいては、いいこと、誤っていることを分別し得る能力がなければなりません。やたらに統一を主張する前に、統一させることのできる内容をもっていなければならないのです。また、思想を統一しなければなりません。ところが、教派を統一できずには、思想を統一できません。そのような意味で、統一教会は、教派統一の世界史的な責任の旗を掲げて出てきたということを知らなければなりません。

 教派を統一するにおいて、霊界が協助してくれます。このような事実は、統一教会に来る人なら知っているでしょう。霊界は、どれほど大きいでしょうか。今まで地上で生まれて死んだすべての人は、霊界に行っています。彼らみな、今後統一教会を協助するようになっています。協助しようとしているのに、信じないので、「心配だ」と言うのです。それで、今霊界では騒々しいのです。

 霊界には、仏教を信じていた霊人もいて、儒教を信じていた霊人、イスラム教を信じていた霊人など、あらゆる宗教を信じていた霊人がみな集まっています。このような群れが、協助するようになっています。霊界に統一の運勢が起きているのです。そのようになれば地上にも、どんなに「嫌だ」と言っても、統一の運勢が来るようになるのです。

 統一教会が教派を統一しようと主張しているのですが、その統一の方案は、自体の内にあるのではなく、別の所にあるのです。そこが、すなわち霊界です。

 統一は必ず成し遂げなければなりません。キリスト教を統一しようというのです。そのようにするためには、私たちすべてが、父の代わりにならなければなりません。問題は、そこにあります。皆さんが家庭に入っていくようになれば、家庭の代身者にならなければなりません。それで、世界のどこの誰でも「私もあんな家庭をもたなければ」と言える、伝統的な家庭にならなければならないというのです。そうして、すべての人が仰ぐ世界最高の代表的な家庭にならなければならないのです。

 統一教会は今まで、歴史時代において、新しい伝統を立てるために過ごしてきました。しかし今後は、国ならば国、あるいは世界を率いることのできる実績を積まなければなりません。では、世界を支えることのできる新しい伝統を、どこから立てるのでしょうか。思想的な面において、この世界を支えることのできる伝統を、統一教会が今まで成し遂げてきた歴史と共に立てなければならないのです。

◆父の代わりになれる伝統を立てなさい

 では、統一教会の歴史を誰がつづっていくのでしょうか。もちろん、統一教会の先生が率先してつづっていくでしょうが、先生一人ですべてできるのではありません。神様がお一人ですべて成し遂げられましたか。神様もお一人では成せません。ですから、皆さんが必要なのです。それで、皆さんが統一教会の文先生を中心として一つになりなさいというのです。先生がそのようになれる内容を教えてあげているのですが、その内容は万民共通の真理です。その思想についていくようになれば、国を愛する愛国者も国を超えて世界を愛さざるを得ない、新しい歴史が編纂されるようになるのです。

 自分自身の人生観を中心とした思想をもっているならば、「そのような思想を捨てても、このような思想をもつことが幸せだ」と言えなければなりません。そうしてこそ、そこから新しい目的の移動が起こります。このような目的の移動とともに個人的な代身者として責任をもっていた人が、家庭的な代身者の責任分野へ上がることができるのです。このような移動がなくては、代身者の領域を大きい舞台に変えることはできません。代身者の分野が広くなれば広くなるほど、そこには試練と苦痛が大きくなるということを知らなければなりません。これは、堕落した世界において絶対的なのです。

 そのような蕩減の道は、十字架の道です。ですから、個人的な責任時代を過ぎて、家庭的な責任時代を踏んでいかなければなりません。皆さんが代身者になるためには、このような蕩減をして乗り越えなければなりません。家庭に責任をもち、教会の責任を負っていくのに、二重の十字架があるのです。個人的な責任を負うときは、教会に行ったり来たりすればいいのですが、教会の責任者になったときは、四方性を備えるという、責任者としての使命が加重されるのです。

 これからこの世とぶつかっていき、押し進めていって、新しい歴史的な伝統を立てなければなりません。それゆえ統一教会は、現在の統一教会だけの伝統ではなく、未来の新しい伝統を立てるために今まで闘ってきたのです。

 そのことをする時には、静かに、静かにしてはなりません。慟哭しなければならず、あらゆる忠誠をすべて捧げていかなければならないのです。それで、私たちが行く道は、おとなしく行けるようにはなっていません。

 統一教会の原理のみ言を聞いて、教会に行こうと決心して出ると、試練が伴います。あるいは、「原理のみ言を聞きに行く」と約束しておけば、家に何かの事故が起こるとか、相当なあることが起こります。これは間違いない公式です。なぜそうなのかといえば、個人的な環境でより高く上がろうとすれば、サタンが頂で押さえてしまうからです。

 私たちは、罪を清算しなければなりません。統一教会は、新しい歴史的な伝統を立てなければならないために、闘って勝利したという基準を立てなければなりません。そうでなくては、あすの勝利の基盤を成し遂げることができないのです。

 サタンは、そのような使命が統一教会にあることを知っているので、必ず打つようになっています。しかし、天は黙って見ているだけなのです。堕落する時も、ただ黙って見ているだけだったでしょう。サタンが起源となって堕落したがゆえに、人間が直接サタンに勝って解決しなければなりません。ですから、統一教会のみ旨の道をついていくことは難しいのです。

 では、統一教会は何をしなければなりませんか。あすを代表する者にならなければならないのです。あすを代表する者になるためには、きょうこの時間から伝統を立てていかなければなりません。世の中の是非を、判断できる伝統を立てなさいというのです。その伝統を立てるには、世の中のどの誰よりも、堂々と立てなさい。これが、天が要求する基準であることを知らなければなりません。

 新しい伝統は、深刻な立場で立てなければなりません。統一教会は、このような使命をもっているのです。皆さんはどうか分かりませんが、先生は命を懸けて行っています。その道の前にどのような患難が迫っても、それは天道を行く妨害の与件になりません。それゆえ、皆さんもこのような先生についていかなければならないのです。今は皆さんが、先生の垣根になっていかなければならないのです。

◆伝統は主流に相続される

 統一教会は、何をしようというのですか。この民族、あるいは宗教ならば宗教において、すべてに責任を負う代身者になろうというのです。その代わり、手段と方法によってしてはならないというのです。内的な核心においてはまじめな立場でやり、外的な面においては春夏秋冬の四季が回るように、そのような道理に従ってやりなさい。責任者の立場に立った人は、絶対に手段と方法によってしてはなりません。手段と方法を使えば使うほど、その教会の責任者は責任を果たせないようになっています。このような時に、その責任者以上に教会のために責任を負おうという人が出てきて、先生と作戦を展開するようになれば、引っ掛かりません。ここには、サタンも讒訴することができないのです。

 このような原則を知っていたがゆえに、先生は今まで既成教会に対して、統一教会の誰も知らない祈祷をしてきたのです。そのような内容があって、手段と方法を使えばかまわないのです。そうせずに、手段と方法を使ってはなりません。そしてその手段と方法というのは、啓示によるものでなければなりません。啓示といっても、真実でないものは伝統として残ることはできません。伝統として残されないものは、歴史とともに審判を受けるようになるのです。

 今日、キリスト教と世界の数多くの宗教の統一が成されず、うやむやになれば、それは私たち統一教会に責任があるのです。それで先生は、多くの人々より、何人にもならない彼らを中心として、第二の準備をするのです。

 統一するために、統一教会の信徒は、どのような道でも行かなければなりません。世界のキリスト教を統一できる、未来に立てられる伝統の土台を、皆さんがつくらなければならないのです。皆さんは、世界の主人です。今皆さんに、神様が「行け」と言えば、行かなければなりません。そのようにできる人が、果たして何人いますか。

 また、キリスト教が殉教の歴史をつづってきたので、皆さんはそれ以上の新しい伝統を打ち立て得る人にならなければなりません。先生は、キリスト教の歴史に劣らないことを今までしてきました。先生は三時代を経て、国家を中心として闘ってきました。皆さんの前に堂々と命令できる実績をもっているのです。それが現実の欲望のためだったなら、罰を受けなければなりません。しかし、未来の伝統のために強力に推し進めてきたので、その犠牲によって、未来において決して滅びないのです。その基盤の上で、このようなことが起これば起こるほど、未来の世界はより一層堅固になるのです。

 このような境遇にある現時点において、統一教会に対する試練を、より一層強化させる天のみ旨があることを皆さんが知らなければなりません。それはなぜそうなのかといえば、皆さんを新しい歴史時代において、恵みを受け得る民族的な代表者の立場に立てるためです。それゆえ統一教会は、民族の前において代表者として、神様が願う民族的な責任を全うしなければならないのです。

 統一教会は、教派を統一しなければなりません。このような混乱時代において、進んで宗教を統一しなければなりません。看板は素晴らしくても、内容がなければならないのです。看板を掲げる前に、まず内容を備えなければなりません。私たち統一教会では、その内容を伝播しなければなりません。先生が自慢しようとして、人々に「集まれ」と言いますか。先生が自分一人を誇ると思いますか。父母は何を誇らなければならないのでしょうか。子女を誇れない父母は滅びるのです。それでは、不具者になった息子、娘が来て、お父さん、お母さんを呼ぶとき、両親はその息子、娘を誇ることができるでしょうか。人に見られはしないかと、抱き抱えて生きるのです。神様が、今までそのような事情の中で過ごしてこられたのです。ですから神様は、どれほど御苦労されたことでしょうか。

 そこに神様は、「あなたの息子、娘が立派に生まれたね」というサタンの嘲 弄を受けて、歴史路程を経てこられたということを知らなければなりません。サタンが蹂 躙してきたそれをしりの下に敷くようにばかにすることができ、覆いかぶせることのできる闘いが私たち統一の群れに差し迫る時は、どのようにするのでしょうか。それをうまく捕捉し、喜んで出ていって私の手で処置するという覚悟がなければなりません。そのような激戦に備えて、出ていかなければならない統一信徒であるのです。

 皆さんは「主流」という言葉と、「非主流」という言葉を知っているでしょう。木に例えるならば、木には幹があって枝があります。皆さんが元の幹になろうとするならば、横枝にならなければなりませんか、茎にならなければなりませんか。茎は、根からいつも愛を受けることができます。しかし、茎が枝のように育つならば、どのようにしなければならないでしょうか。その木を切ってしまわなければなりません。

 サタンは正に、この中心が育たないようにするために責め立て、天は、育つようにするためにサタンと闘ってきました。では、この闘いの判定はどこで行われるでしょうか。それは主流というバトンを引き継ぐとき、行われます。その闘いの決着をつけずには、進展があると見ることができないし、「発展をした」と言うことができないのです。それで、どんなにけんかをしても、勝利が決定しないと、その闘いでは「進展した」とは言えないのです。闘っても終わりがなかったなら、再び一八〇度に戻らなければなりません。中心は二つではありません。永遠に一つであるがゆえに、伝統はその主流に相続されます。

◆主流思想の根源地

 主流思想がなければ、行く所が漠然としているというのです。このように見るとき、「統一原理」がここにぴったり合うということが分かります。東洋の儒教思想とかプラトンの思想、そしてキリスト教思想も、すべてそれを通じるようになっています。力の覇権主義ではなく、文化圏を中心として「統一思想」が起こるようになるのです。歴史がそのようになっています。

 では、最初の伝統的な主流思想はどこから始まりましたか。それはお父さん、お母さんから始まったのです。国家や世界が願う理想世界は、家庭から始まるのです。この思想的な原則を横的に繰り広げておいたために、世界が広がるのです。すると、父母の主流思想はどこから始まりましたか。それは神様から始まりました。神様の愛から始まらなければならないのです。愛は夜でも良く、昼でも良く、寝ながらでも良く、夢でも良く、逃げ出しても良いものが愛です。これがすなわち幸福の鍵です。世界万民が過去にも、現在にも、未来にも好むことのできるもの、それが正に愛です。その愛に対しては、「革命」という言葉が出てくることができないのです。それでこそ、伝統的な主流思想になることができます。

 神様は人間をなぜ造られましたか。顔を見るために造られたのではありません。愛の法度を立てるために人間を造られたのです。神様の愛は絶対的な善なのです。この愛の真のひもを中心として連結されたものが真の家庭であり、真の国家であり、真の世界です。

 統一教会は、世界的に何の権勢の基盤をも築こうとはしません。統一教会は聖書六十六巻を解いて、家庭というものに結論をつけました。したがって人類が残される限り、統一教会の思想を受け入れざるを得ません。ある存在が掲げた思想よりも具体的な内容を備え、写実的な根拠の基盤のもとに、歴史的な実証を基盤として理想的な家庭の形態を立てて置いたがゆえに、この思想は世界を征服できるのです。神様の愛を中心として、この世界を征服するのです。それは間違いのない事実です。

 今日、十代の青少年が問題になっていますが、なぜそのようになったのでしょうか。父母の愛の懐を離れたためです。家庭からひっくり返ったので、世の中は何も言うことがないというのです。では、今日のこの青少年問題を中心として、誰が秩序を正すのでしょうか。それは、統一教会がしなければなりません。

◆統一主義は、すなわち心情主義

 統一教会が何をしようというのでしょうか。思想を統一しようというのです。統一教会の真理は、「左はこうで、右はああだ。あなたは男性で、私は女性だ」ということをはっきりと見分けられる内容をもっています。統一教会は天を代表した宗教として、この世界を代表した思想をもって、散り散りになった思想を正そうというのです。これが正に統一主義です。

 この「主義」とは、杖の役割をするということです。橋を渡っていこうとすれば、杖が必要です。橋を渡るのに、二人が行けばその橋が崩れるとしたなら、お互いに先に渡ろうと争うはずです。話し合って渡っていこうというとき、誰が先に渡っていくのかをまた争うはずです。その橋を確実に渡っていけるように役事をするのが、正に統一教会なのです。

 皆さんは「息子主義」という言葉を聞いたことがありますか。父母と息子が息子主義の立場に立って一つにならなければならないという、そのような言葉がありますか。その主義は家庭主義の圏内においては通じません。また、家庭主義というのは、家庭を合わせて国家形成をしようとするから必要なものです。国家主義の前には、この家庭主義が吸収されるのです。そして、国家主義は世界主義の前に吸収されるのであり、世界主義は天宙主義の前に吸収されるのであり、また天宙主義は心情主義の前に吸収されるのです。そのような観点から見るとき、今日統一教会の主義は心情主義なのです。

 ここで「天宙主義」と言うとき、「天宙」の「宙」という字は何の「宙」の字ですか。家の宙の字です。では、なぜ天宙主義という言葉に、とりわけ家の宙の字を使うかというのです。これは家、家庭を意味するのです。それは天の家から出てきたからです。

 ですから、統一教会の祝福を受けた家庭がこの基準から落ちて誤れば、自分の七十代以上の先祖までも引っ掛かっていくのです。このように途方もなく怖いものが祝福だということを、人々は知らずにいます。

 天宙主義はどこから来るのかといえば、心情から来ます。統一教会は統一を好むでしょう。統一しようとするならば、三点を通過しなければなりません。それが四位基台というものですが、統一教会は金を払っても買えない、このような四位基台というものを発見しました。この四位基台が成されれば、目的が完成するのです。そのようになれば原因が現れて、結果が現れるのです。このように原因と結果が成されれば、四方はすべてこの四位基台の圏内にあるようになるのです。

 それでは、罪とは何ですか。四位基台が成されないことが罪です。原理をすべてのものに当てはめて解いてみれば、身動きできないほどです。原理どおりに生きて、死ななければならないのです。ですから、先生も身動きできずに引っ掛かっています。引っ掛かって滅びるのではありません。引っ掛かって戻るようになれば、回れば回るほど発展していくのです。

 塔を積むのに、だんだん高くなるほど、より大きく積むことはできません。上がるほどだんだん小さくならなければなりません。そうして見ると、一番上には一つだけ残ります。その一つの上に、それ以上積むことはできないのです。それで、もっと積んで上がろうとする人は滅びるのです。上がっていれば、必ず下りなければなりません。上がったり下りたりしなければならないのです。そうしようとするなら、中心を確実に握らなければなりません。

 皆さんは、世界を中心とした四位基台の伝統を受け継ぐ夫婦にならなければなりません。そのような思想をもった夫婦ならば、この世界を収拾できる息子、娘を生むようになります。それゆえ、統一教会で祝福を受けた人が、先生の基準と一致できる立場で子供を生めば、その子供は伝統的な思想を受け、別の宗子(注:家を継ぐべき子)となって出てくるのです。

◆生きた神様に侍る道を行こう

 宗教は縦的であり、思想は横的です。それで統一教会は、行動的な面において、この二種類を兼ね備えているのです。そうして、結局は宗教を通して神様の心情を感じ、生きた神様に侍ろうというのです。宗教だけではなく、思想でも生きた神様に侍ろうというのです。生活的な面で幸福を謳歌することのできる神様、そして真の父母の立場で子女を抱くことのできる神様にしてさしあげようというのが、統一教会の使命です。

 このような思想を中心として伝統を受け継いで、私たちはこの地上で代身者の役割をしなければなりません。家庭について見るときも、そのようにしなければならないし、氏族について見るときも、そのようにしなければなりません。氏族が無知ならば、私たちがその代身者ですから、その氏族に教えてあげなければならず、国が無知であるならば、また教えてあげなければなりません。国が残される日まで、伝統が継承される日まで、この使命と責任を続けなければなりません。これが統一教会の使命です。それゆえ、統一教会を指導する先生もたじろがず、強力に押し進めて責任を全うしなければならないのです。

 神様に命令されることを、当然行かなければならない道理と理解し、家法として理解し、未来の世界を創建できる伝統的な思想として理解し、厳しく責任を全うする、「統一思想」をもった皆さんにならなければなりません。夜も昼もどのような限界線を越えてでも、ありとあらゆる精誠を尽くす時、世界は「私たちの側になるな」と言っても、近い将来に私たちの側になるのです。このような立場に立った皆さんは、神様の代わりになって家庭、氏族、民族、国家、世界のすべてを愛さなければなりません。

 皆さんが従事する分野に世界的な思想を投入して、制限された環境の中で、生涯を捧げて仕事をしなければなりません。それでこそ、「自分がする仕事は、世界史的な仕事だ」と言えるのです。ですから、ありとあらゆる精誠を注がなければなりません。血と汗を流して、全力を尽くさなければならないのです。

 私が仕事をする所が、生涯最高の活動場所であり、生の核心を決定する場所だと考えなければなりません。そこで起き、そこで仕事をし、そこで死んでいくことを、最大の喜びだと知り、闘うことのできる皆さんになってこそ、「統一思想」をもった人として、神様の前に恥ずかしくない姿を備えたといえます。そのような立場で、皆さんは神様の代わりとなって責任を成し遂げなければなりません。また、そのような背後をもって新しい出発をしなければなりません。

















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