文鮮明先生のみ言集
訓教経(上)


私たちの因縁

一九六八年十一月十七日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第二十一巻』


 この地上には数多くの人々が生きています。その数多くの人々の大多数が、自分を中心として考えています。しかし、自分を中心として願った望みがすべてかなうかというと、そうではありません。

◆歴史的な因縁をもっている私

 ある存在物が存在するためには、必ず動機がなければなりません。それと同様に、「私」という存在も動機があってこそ存在し、その動機の前に結果の立場にあるということを知らなければなりません。しかも、人間始祖が堕落してから、六千年という歴史過程が過ぎた現在の視点から見るとき、自分個人の存在の裏面に歴史的な因縁をもっています。また、ある国ならば国、世界ならば世界にもそのような因縁が絡んでいます。それで、過去と現在の因縁を中心として、一つの目的に向かっていくことが、人生の道だというのです。この人生の道を歩みながら、大多数の人々は自分を中心に考えて行動します。

 しかし、今日堕落した私たちの人生において、自分だけを中心としてすべてが処理され、自分だけを中心としてあらゆる幸福の与件が解決できるかといえば、そうではないのです。自分自身にある問題の新しい解決点を探すためには、必ず歴史に絡んだ事情を解決しなければならず、時代の事情を中心に完全に解決しなければ歴史が願う立場、あるいは時代が願う立場に立てないのです。したがって、このような決定的な位置にある自分自身が過去と現在の立場を完全に解決できなければ、歴史の因縁を抜け出せないのであり、時代の因縁を中心として新しい出発をすることができないのです。

 このような観点から見るとき、歴史は今まで一つの願い、言い換えれば、ある目的に向かって進んできたということが分かります。また、この時代も一つの願いの世界に向かって進んでいます。ところが、過去に願った望みと現在に願う望みに差があれば、私たちの人生において新しい幸福への出発はできません。したがって、過去と現在に願う目的の基点を「私」の一代でどのように解決するかということが問題です。

◆動機と目的を失った現世代

 それでは歴史について見ると、今日人類が出発した動機が、目的を成し遂げることのできる動機として出発したかといえば、そうではなかったのです。人間は堕落したがゆえに、目的を成し遂げることのできる動機を失ってしまいました。目的を失った立場で、今まで正常な道に従って出てこなかったのです。時代、時代に従い、回り回る曲折の路程を経てきたことを考えてみれば、いかなる曲折によってそういう環境に置かれるようになったのかを知らずにいたのです。動機も失い、方向も失った放浪者の人生行路を歩んでいたのです。

 それで今日、国家ごとに願う目的がすべて変わるようになったのです。甲という国の立場で追求する目的と、乙という国の立場で追求する目的の方向が違うのです。また、各個人が願う目的は、国家が願う目的基準とは遠い距離に離れています。それゆえ、過去にそのようにして、現在もそういう立場に置かれている自分自身が、果たして一つの目的に向かうことのできる正常な立場に立っているかということを考えてみると、そうではないということはあまりにも当然なのです。

 しかし、一つの目的に向かうことのできる動機も失い、目的に向かう方向も失った人間が、現在においてどのようにしなければならず、また目的の出発を知ることのできるその動機、目的の方向を整えることのできるその動機の内容と方向を完全に決定せずには、現在の視点を中心として全世界的な評価を受けることはできないのです。それゆえ、歴史的な出発の動機があれば、その動機が出発できる方向が、今日の「私」を中心として追求する内容になっていることを確実にしなければなりません。

 この歴史的な動機をもたず、この方向を一致させ得る立場に立つことができなければ、私たちがどんなにこの地上で成功し、どんなにその国が富んで発展し、栄光と幸福の場において世界に誇ったとしても、それらは全部流れてしまうのです。流れてしまえば、それは歴史的な因縁とは、何ら関係もないということをはっきりと知らなければなりません。

◆堕落人間にとって一番重要な因縁\―動機の因縁

 では、ここで「私たちの因縁」ということを中心として考えるとき、その因縁の基点がどこになるべきで、因縁の方向がどのように行くべきで、因縁を通じ得る目的がどのようになるべきかが、人生行路において極めて重要なのです。したがって、この動機が何であり、どの方向に行かなければならず、その目的がどこに行って帰結されるかということを確実に知らなければなりません。

 これを知ってその道に入るとき、初めてこの因縁を中心として見られる一つの観、それが世界的で、全体的な分野を中心として今までそのような動機と方向と目的が一致することのできる内容の基点に立って、今日の世界的な因縁が私と関係しなければなりません。これが決定された立場に立たずには、世の中のいかなる幸福が訪ねてきても、その訪ねてきた幸福と私とは一つになることができないのです。この地上に誰を問わず称賛するどのような方が来られたとしても、その方と私とは因縁を結ぼうとしても結ぶことができないということを知らなければなりません。

 堕落した私たち自身の人生において最も重要な因縁は、目的を探していくその因縁の道も重要で、現在方向を整えて一日一日生活することも重要ですが、それよりも重要なのは、動機となることのできる因縁なのです。すると、その中心動機とは何であり、また動機の因縁ということを解決できない人間は、どんなに身もだえしても、どんなに努力したとしても方向が変わるようになり、その方向が違うために目的とするその目的点も他の結果の場に現れざるを得ないのです。言い換えれば、一生の間自分が欲しいものを持ち、食べたい物を食べ、願いをかなえたとしても、それは本然の願い、本然の目的を達成できる場ではないというのです。かえって、今日に至るまでの過ぎた日を後悔して、嘆かざるを得ない悲しい場に行かざるを得ないのです。したがって、私たちの因縁の中で、最も重要なものは動機の因縁なのです。

◆神様のみ旨と願いと目的を失った人間

 今日全世界に生きている人類の誰彼を問わず、すべて堕落した因縁をもって生まれました。その因縁はどのような因縁かといえば、離脱しようという因縁です。統一されて糾合しようという因縁ではなく、分立しようという破壊的な因縁です。すべてを占めることのできる因縁ではなく、失う因縁です。それゆえ、私たちが原理を通して知っているように、堕落した私たちは神様のみ旨、神様の願い、神様の目的を失ってしまったのです。

 では、神様のみ旨、願い、そして目的とは何かというと、今日の私たち自体だというのです。神様のみ旨、願い、そして目的が、他の世界や国家を立てることではなく、本然のアダムとエバを立てることでした。すなわち、アダムとエバ自体だというのです。そのアダムとエバが父の因縁と一体化するときに、そこには真の人がつくり出されるのであり、真の家庭が築かれるのであり、真の国家と世界が築かれるのです。

 では、私たちは何を中心として生まれ、何を中心として行くべきであり、何を目的として行くべきなのかについていえば、神様を抜きにしては絶対に駄目なのです。神様を抜きにしては、動機のない因縁になるのです。動機をもっていない人は、あることを成就させようとしてもその結果は得られず、価値を認められないのです。

 ある建物を建てるとき、設計者が設計した設計図に従って建築をします。設計の原本もなく建てられた建築物は、設計者が目的とした建物になり得ないのです。私たち人間も同様です。私たち個体について考えてみると、本然の因縁がどのようになっているのかを知らなければなりません。今日、私たちの心は神様を求めて帰らなければなりません。善の方向を求めていかなければなりません。善の国を探し求めていかなければならず、善の氏族を敬い慕って、善の宇宙、善の世界を憧憬しなければなりません。すると、その憧憬する世界をどこに行って探すのでしょうか。その世界は、個人にとどまるのではなく、最も根本となる神様に出会わなければならないのです。

 神様御自身を中心として見れば、神様も一つの体があるはずであり、神様の心があるはずです。神様の心と体があれば、そこには必ず神様の生活圏があるはずです。神様の生活圏で親と子の因縁が出発したなら、必ずそこには社会構成が行われるはずであり、その社会構成を中心として氏族あるいは国家の形態が起こるはずです。すると、そこで神様の全体目的を中心として、国家ならば国家の目的、世界ならば世界の目的が行くことのできる方向の基準が立つのです。こういう問題について考えてみるなら、初めの基点は神様にあるのです。

◆神様を中心として生の動機と目的を定めなければ

 したがって、今日堕落した人間に最も重要なこととは何かといえば、神様を知らなければならないということです。歴史過程でどれほど苦闘してこられた神様かを知らなければならないし、どのような方向を通じて出てこられている神様かを知らなければなりません。また、神様はどのような目的を成そうとされているのかを確実に知らなければなりません。

 今日、私たちがこれを確実に知らなければ、どんなに苦労をしても無駄骨になるのです。理念と目的、言い換えれば動機と目的は、必ず直行過程を通じて関係を結んでこそ、良い結果が出てくるのです。結果が狂えば動機を一致化させることができず、動機が狂っても目的を一致化させることができません。これは互いに直行線上で起こるのです。

 人には心が行こうとする直行線があり、体が行こうとする直行線と生活が行こうとする直行線があるということを知らなければなりません。同様に神様も御自身が行くべき責任があるはずであり、体が行くべき責任があるはずです。そして体と心から成された神御自身が、生活を通して世界へ行く直行線があるはずです。どんなに事情が違うといっても、行くその目的点には必ず直行して世界的な目的に結びつけられる焦点に一致させなければならないので、その過程を経ずには全体目的が成されません。それゆえ、今日私たちはこの本然の因縁を中心として出発しなければならないのです。

 一日の生活の中で、皆さん各自の心について考えてみてください。皆さんの一日の生活の中で、心にある不和が起これば、なぜそうなのか考えてみてください。果たして自分自身が神様と因縁を結び、神様がもたれた希望をもち、神様が目的とされる所に向かうことのできる生活的な因縁をもったかということを、毎日毎日反省しなければなりません。私たちはある目的をもって行動しています。その行動は天的か、地的か、二つのうちの一つに決定されます。

 今、この瞬間にも私たちの体が、呼吸するのに要求される最小の酸素呼吸量があります。その量を完全に吸収するか、少なく吸収するかによって、そのような環境に長くいればいるほどその体が健康になるか、そうでないかの差が生まれるのです。これが自然的な現象であり、自然的な法則でもあるのです。

 こういう観点から私たち個体の生活を中心として見ると、心と体と生活の方向がいつも一致しなければなりません。私自体がそのように行くためには、神様を中心として心の方向と、体の方向と、生活圏の方向が一致することができるように神様と歩調を合わせられなければなりません。

 本来人間は、神様の心と体と生活圏に入っていくことができるように創造されたのです。神様がこのようにせざるを得ないその道は、既に予定されていたのです。ところが、人間が堕落することによって、本来行くべき道とは関係もない立場に立っているために、必ず私たちは再びその立場に復帰して入っていかなければならないのです。これが、現在の私たち人間の立場です。

 今、堕落した人間の一番大きな弊害は、堕落した悪主権を中心とした理念を重要視する行為です。したがって、自分を生んでくれた父母との因縁と、兄弟、親戚など世の中の血統を中心とした人間的な因縁を超越しなければなりません。また、環境と因縁をもったすべてを超越しなければなりません。

 そうして、本然の私が設計されたとおり、体を自由自在に運転できる自分だと自負しなければ、神様が行かれる途方もないその動機と、方向と、目的の世界に入って立つことができないというのです。現在生きているあらゆるものを自由自在に抑制することもでき、取ったりもできる自分自身であることを自ら自負できなければ、現在の立場で神様が行かれる方向と一致することができません。

◆宗教の道は真の因縁を取り戻していく道

 いつまでも自分自身を中心に堕落した世界の因縁をもったまま、その因縁をそのまま抱いて生きていくならば、神様が行かれる動機の道、神様が行かれる目的の道を私たちは行くことができません。

 今日私たちがこのように生きているのにもかかわらず、ここに神様が共にされず、私たちの心はいつも悲しみを感じ、私自身は行けば行くほど内的に孤独になる原因は、もたなければならない神様の因縁を忘却してしまって、現実的な因縁のみに対して進むためです。したがって、歴史的な過程で打破できる一時を築くまでは、私たちは真の因縁を探していくことができないのです。

 その基盤を築くためには、すべてを否定しなければなりません。宗教の道は、自己否定から出発するのです。このようにして探し出される兄弟と家庭、氏族、国家こそは、歴史が尋ねてきた理想的国家と氏族と家庭と個人になるでしょう。このように歴史が願った希望の実体となれば、この時代において自動的に中心的な位置に立たざるを得ません。

 この世が悪なので、神様のみ旨が成されないのではないのです。この悪なる世の中が、いつも神様に背くためにみ旨が成されないのではないのです。歴史が願う中心の位置を決定づけることのできる個人、家庭、氏族、国家がなかったために、み旨が成されなかったのです。

 そうして今までひっくり返すような曲がりくねった道を繰り返しながら来たイスラエルの歴史路程を、代わりに歩くために出てきたのが、今日の数多くの宗教団体です。ですから、この宗教団体を糾合して一つの国家形態を整え、率いて進むならば、神様のみ旨が成されます。それゆえ、世界はこのような形態を整えなければなりません。一つの理念と目的の世界へ定着できるように授受作用をしなければなりません。世界は一つの世界にならなければならないのに、個人主義的や国家主義的な欲望をもっていては、世界を収拾できません。したがって、理念を立てるための持続的な闘争を敢行して、世界を守らなければならないのです。世界人類が、同じ立場で、同じ目的と同じ価値の内容で、同じ栄光の場を憧憬し、模索してこそ、初めて世界は一つの形態を整えることができるということを知らなければなりません。正にそのような場が、神様を中心とした因縁の目的点だというのです。

 六千年の長い歴史を中心に出発した所が、統一教会です。今まで数多くの人々と国家が、一つの基点を中心に努力してきました。ある人はみ旨の中で会っては離れ、ある国家は今ここで会ってから通り過ぎます。けれども、どのような人でも、どのような国家でも再び会わなければならない一つの基点があります。それはキリスト教を中心とした、メシヤ再臨の一日です。その日が正に国家全体の願いの日であり、数多くの宗教の願いの日であり、数多くの個人の願いの日です。

 ところが、その場で対面しようとするなら、どのようにしなければならないかが問題です。たまたま自分に時期が来れば、自分勝手に方向を選んで会うのではありません。これに会おうとするなら、必ずその元の筋に乗っていかなければなりません。そこに合流できなければ滅びるのです。長い歴史過程を見つめれば、歴史的因縁を共にしてきた民族は興りました。たとえ滅びたとしても、摂理の流れに乗ったがゆえに、押され下りていってから、再び上がってきました。摂理の方向をうまくつかんだために、堕落した世界を収拾できる道をつくるのです。それで、この道に従って下りていってみると、摂理が地に踏まれて滅びているようだけれど、そうではないというのです。

 イスラエルの民族史を見ても、神様の前に忠誠を立てることができなかった時には滅び、再び神様が指示する道に一致する時には栄えました。このように見るとき、どんなに立派な国家でも、摂理に一致し得る方向に行かなければ発展できないのです。それで、キリスト教がこのような場に一致しようと、歴史的因縁を中心に新しい歴史の根拠地を準備しようとしていました。このような因縁について考えてみると、イエス様を中心としたその因縁は偶然な因縁ではなく、歴史的な因縁です。それはまた、この時代の現実的な生活方向に一致したのです。これが出てこずには、この世界を求めることができません。

◆先祖の功績を相続しようとするなら

 では、今日統一教会自体を中心として見れば、統一教会が出てくるまでには、数多くの個人の道、家庭の道、氏族の道、民族の道、国家の道を経て出てきました。統一教会の摂理的な出発がなされる前から神様は、統一教会が現れる日を眺めて、今まで歴史を率いて出てこられたのです。

 そのような歴史的な因縁があるために、統一教会に入ってきた人は、当代に自分が優秀で入ったきたのではありません。これは必ず、歴史的な先祖たちの相続の因縁を通して入ってくるようになったのです。数多くの私たちの先祖たちが歴史の方向を握り、神様が上がれば上がって、下りていけば下りていかなければなりません。それは、忠臣ならば国が栄えるときも忠義の道理を果たすべきであり、滅びる場でも忠義の道理を果たすべきであるのと同じです。時によって変われば、忠臣になることができず、親孝行者にもなることができません。忠孝の原則というのは、不変の過程を経ずには立てられないのです。

 こういう観点で見るとき、今日皆さんが統一教会に因縁があったという事実は、皆さんの生涯の中で何年、あるいは何カ月を中心として因縁があったのではありません。この場は、歴史的な場所であり、希望の場です。実際に私が生きていく基点になることのできる、歴史的な因縁を経た立場なのです。すると、一生の場でその歴史を見ることもできず、その因縁をもつこともできなかったのに、どのように自分が歴史的な因縁に連結することができ、またどのように歴史的な因縁をもって統一教会と連結できるのでしょうか。それは小さくても大きくても、心の方向に先祖たちの心の方向が、時代の流れに方向を合わせようと努力したその基準によって連結できたのです。すなわち、どれだけ近く共にしようと努力したかによって、統一教会に近く接することができるようになるのです。

 そのような視角で見るとき、今日皆さんが置かれているこの点は、金なにがしならば金なにがしというある個体によって連結し得たのではありません。歴史的な因縁を通してつながったのです。今日私自身は間違っていて、また成り行きになっているけれど、その歴史的な因縁の中で数多くの私たちの先祖たちが、歴史の目的に向けて忠誠を尽くしたその目的と一致できる功労の基盤があったがゆえに、その功労の因縁で今日皆さんが立てられたのです。すると、こういう位置にある皆さんは、歴史的な因縁を受けた私自身として、今日の自分が生活の中で歴史的な因縁を輝かせる姿になっているのでしょうか。それも知らずにいます。それで歴史を動かすといったので、それを私たちがしなければ誰がしますか。

 統一教会の信徒を中心として見るとき、統一教会についていく人は、一つの形ではありません。これから世界の多くの国を収拾しようとするなら、千態万状の形態を備えなければなりません。職業について見ても、商売をする人もいるでしょうし、あるいは工場に通う人もいるでしょう。このように人の基点は千態万状です。そのような差に該当できるその分野に忠誠した歴史的な先祖をもてば、その先祖の因縁を相続し、歴史の目的を達成するために、その道を一生懸命についていかなければなりません。

 このような歴史的な因縁を相続して、皆さんは新しい基盤をつくらなければなりません。言わば、自分の先祖たちが今まで苦労したその基盤を相続しなければならないのです。したがって、現実に置かれている皆さん個人について考えてみると、その個人は十何歳とか、あるいは二十歳という限界内にある個体ではありません。また、どのような時代圏内に限界線を制定してできた個体でもありません。必ず歴史性を通してできた個体です。

 それゆえ、私が今過ぎていくここは一生道を輝かすことができ、歴史的な目的を達成できる貴重な焦点上にあるのです。それで、うまくやれば目的を達成できるでしょうが、できないときには、これを完全に奪われてしまうということを知らなければなりません。

 人々は因縁の中で復帰路程を通じるために出てきたのであり、また先祖の功労をもって出てきたのです。そうして今やその限界線に接し得る時が来ました。その時が来たのに、その方向を私の前で正しくつかまなければならず、人についていって接しようとしていて、基準が合わなくなればどれほど切ないでしょうか。また、皆さんがここに来るまで苦労した霊界の先祖たちが、どれほど切実に手に汗を握るような焦燥した立場で眺めるでしょうか。

◆歴史の召命の前に立った人の使命

 この歴史的な召命と使命の前に立つようになった皆さんは、ただ流れていく人間たちと同じ生活をしてはなりません。私個人は数千年の歴史を経てきて、今は神様と対面できる時になりました。ここで自分が完全に一つとなって、この道に残って闘って導いていけるその日を待ち焦がれたのが、歴史的な願いです。その焦点に連結できるその場に自分が立っているということを知りながらも、その場でどれほど父母を困らせたかを考えなければなりません。自分が万が一間違って失敗するようになれば、全部が悲惨になるのです。

 オリンピック大会に出場したマラソン選手を見れば、その選手は一等になるためにゴール地点に向けて、民族の威信をかけて走るのです。そうして、ゴールインするその瞬間が現れるためには、つまり勝利の結実は訓練の苦痛と、力の配分と、忍耐、そして今まで体験した悲しみであるとか、喜びのありったけの精誠が投入され、総合された結果として現れた現象です。その瞬間には他の考えはありません。そこに参加したあらゆる人々の走る足取りには、国家の新しい名声がかかっているのです。三千万ならば、三千万の歓喜の旗が振られるのです。ゴールインする瞬間が近ければ近いほど、勝敗の決定が出て、その瞬間が近ければ近いほど、勝つ国民はより一層団結するのです。

 ここにおいて私たちが、はっきりとこの視点を完全に掌握して圧倒し得るならば、皆さんのように何の力もなく、何も知らずに「うん、まあまあだろう」、これではいけません。皆さんが苦労し、精誠を尽くして勝ち取った優勝品というのは永遠なのです。ある場で自らの命を懸け、ありったけの忠誠を尽くして得たその宝物は、生命と共に永遠に共にしたいのです。

 果たして、歴史過程を経てきた因縁の結実体、この時代が要求する一つの中心体、新しい世界を出発させる創建の記事になり得る自分となったのかといえば、「私」という自分自体を考えてみると、何にもなっていません。したがって、ここで「私」という自分自身を否定してしまおうというのです。今まで生きてきた環境とあらゆる恨みの枝を取り除いてしまい、新しい枝と新しい芽が出てくるようにしなければなりません。そういう環境を突破して、出てくることのできる自分にならなければなりません。したがって、こういう席に立った人々は、本然の因縁を備えなければならないのです。

◆善を中心とすれば、滅びる場が間もなく栄える場

 善はこの地上で踏まれたけれど、その悲しみの時が覆されるようになっています。善はいつも踏まれ、いつも滅びる場に入っていくけれど、そういう環境で悪の条件がどんなに大きくても、最終的にはそれに勝って栄光の場に移されるのです。ですから、この罪悪の世の中を眺めるとき、この悪なる世の中をさっと押し込んでしまう力がなければ、それを突破していくことのできる信念が生まれなければなりません。人が生きていくことを外的に見れば、ただ食べて、寝て、生まれて、死んで、喜んで、悲しんで生きています。かといって、神様のみ旨に対する人は特別なのかといえば、同じなのです。しかし、違う点があります。それは、歴史的な因縁の動機と愛の根源で形成された人格で差が出るのです。ここで宗教の差、民族の差、国家の差が起こるということを知らなければなりません。

 自分が目的とする基準において、単に方向というものは因縁を通して私を導いていきます。行くにおいて、その動機が伴うようになり、方向が提示されて目的地に至るようになるのです。ところが、その方向をとろうとするなら、「私が方向をとろうとするので、その動機を起こしてください!」としてはならないのです。そうすることができません。ここで矛盾と苦衷が生じます。

 社会がそのようになるとき、社会の苦衷であり、国家がそのようになれば国家の苦衷です。それゆえ、どんなにアメリカが世界に号令するといっても、そこに歩調を合わせなければ孤立するのです。どんなに統一教会のすることが天理だと自慢しても、統一教会の原則的な路線に符合し、一致しなければ孤立するのです。その孤立した場で、自分を修正できなくなる時は滅びるのです。

 滅びるとき、友人も父母もすべて離れるのです。本来、滅びる場はみな失うのです。エデンの園でアダムとエバが滅びるとき、神様もいらっしゃいませんでした。滅びる場に入っていくようになれば、神様も失い、真の父母も失って、真の氏族、民族、国家、世界をすべて失うのです。そのような場は結局、私の生命も失うようになります。しかし、反対に栄える場はすべて探し求める場です。

 それゆえ善悪について見れば、悪は滅びる場であり、すべてを失う場であるがゆえに行ってはならず、善は失ったものをすべて求め得る場であるがゆえに、その道を求めていかなければなりません。皆さんの心を中心として見るとき、悪い行動をすれば後ろを見るようになります。それは良心が私を離れるのです。良心が呵責を受ければ、「やー、こいつめ、私は離れる。離れてからはお前は私と関係がない」と言って良心が離れます。

 善を中心とすれば滅びる場が間もなく栄える場になるがゆえに、それを誰かが反対すれば、無限の力が訪ねてきます。国が栄える場ならば、どんなに私が死ぬようになっても行かなければなりません。天地の理致がそのようになっています。それでこそ私が栄えるのであり、すべて探し求めることができるのです。善は絶対滅びません。滅びなければ、天地が探すようになっています。

◆歴史の主流に接しなさい

 今日、統一教会で指導する方法と、神様のために今までしてきたことは、正に「歴史の主流に接しなさい」ということです。この因縁が世界を創建するのであって、皆さんがその世界を創建するのではありません。地球は太陽の周囲を軌道に従って回っています。千万回を回り回っても、そこには変わりがありません。それが正常な軌道にあるために、太陽も回り、地球も回るようになっています。

 ここで今私たちが考えることは、私たちの因縁です。今日の私たちの因縁は大きいのです。ここに私たちは六千年の因縁を中心として、本然の故郷を訪ねようとする目的が一致して集まったのです。

 そのような意味で、私たちの原理が教えてくれることは本然の神様です。神様と私との因縁は、動機の因縁と出発の因縁が同じだというのです。初めに人間は神様によって生まれました。神様が天地万物を造られる途中に、人を造ろうと考えられたのではありません。神様が天地万物を造られたのは、愛する息子、娘である人間のために造られたのです。

 それゆえ、人間は創造の理念で見るとき、主体的な立場にあります。考える側面においても、主体的な立場に立たなければなりません。それを宣言して、神様は人間を目的的な実体として造りました。目的的な実体であるがゆえに、あらゆる宇宙は、人間を中心として網のように結束されているのです。人間と全宇宙が結束されたそのものと、神様が完全に結束されなければならなかったことが、人間と神様の根本の因縁です。ところが、人間が神様と一体的な因縁の中で立つことができず堕落したがゆえに、その場に上がることができませんでした。

◆神様は人間と共にしてこそ、悲しみから抜け出すことができる

 神様のあらゆる出発の動機自体が人になっていて、その創造目的自体も人に帰結されているので、そのような人が堕落することによって、神様も堕落した結果になりました。

 ある人が話したのち、失敗すればその話した人が責任を負うのです。私自身が仕事をして失敗をしたなら、それも私が責任を負うのです。考えた人が責任を取り、実行した人がいればその人も同様です。神様も創造理想を中心として人を創造して、それが神様が理想としていた創造物とならなかったとして、その失敗を創造物が責任を負うのではありません。製造物が変化して、願っていたものができなかったとして、その物が責任を負うのでなく、その人が責任を負うのと同様に、人間を創造した神様が堕落した人間のすべての責任を負うのです。それで今まで神様が責任を負ってこられたのです。

 人間が堕落することによって、喜びを願った神様は悲しみの神様になられました。「私」によって悲しみの神様になられたので、神様の悲しみを中心として一つにならなければなりません。悲しみを中心として一つにならなければ、喜びが生じることができないことを知らなければなりません。こういうことを見れば、神様と私とは必ず関連しています。今まで神様は悲しみをももってこられました。それで、今は神様を喜ばせてあげなければならないのです。その喜びは悲しみの関門を通過してこそ出てきます。言い換えれば、神様が悲しまれる、悲しみの基点と一致できるその場から始まってこそ初めて、神様が喜ばれる出発を迎えることができるのです。それゆえ善が行く道は、歴史的な悲しみの場を探していく道です。

 堕落した人生の立場で見れば、喜びは善の目的である創造理想実現のためのものではありますが、すべてがその喜びの条件自体にはなり得ません。悲しみの要件を突破して進まなければなりません。そうして歴史的に今まで連結して、人類が悲運にあったこの悲しみの要件を掘って入っていき解体しなければなりません。それで悲痛なときは、「神様の悲しみがこうであったのだな」と感じなければなりません。

 この悲しみは、神様自体では脱する道がありません。人間によって悲しみの神様になったがゆえに、神様自らはその悲しみから抜け出すことができません。もし、抜け出すことができたならば、神様が今まで復帰歴史をしてこられる必要がないのです。神様は人間と共にする時、その悲しみから抜け出すことができます。人間によって神様の悲しみが始まったがゆえに、人間が先頭になってこの悲しみのすべてを踏んで立ち上がることのできる新しい決意をしなければ、神様は悲しみから抜け出すことができないのです。

◆統一教会の原理の偉大性

 すると、この地上で、修道の道で責任を負ってきた道人たちと、今後終わりの日に来られる主がすべきことは、完全に神様と一致した中で、歴史過程の深い谷間に隠れていた悲しみ、すなわち神様を悲しませたその悲しみの動機に責任を取り、解決できる一つの爆発的な動機を探し求めなければならないということです。

 子が父を悲しくさせたことに責任を負うためには、父の心を中心として歴史をつかんで、新しく出発する世界になるようにしなければなりません。ですから私たちには、必ず悲しみを取り除くべき使命があります。

 父と子が一つになった力は、そのいかなる悪の勢力が合わさる力よりも強い力です。したがって、ここで新しい爆発的な出発が行われるので、ここに台風が生じるでしょう。それゆえ、統一教会ではこのような道に従っていきなさいと教えるのです。希望の基点は、希望から出発するのではありません。悲しみの峠を通して出発するのです。神様がそういう立場に立っておられるために、その悲しみの道を私たちも行かなければなりません。

 人々は、「幸福とはどういうことか」と聞いたりします。では、幸福はどこから芽生え、ある国家が栄えることのできる動機はどこから生じ、文芸復興がどのようにして出発するようになりましたか。それは新しい理念を中心として、新しい人類史観を立てるにおいて、母体になり得る動機に接したゆえに可能だったのです。その動機に接したというのは簡単ではありません。それは、あらゆる文化的な間隔を埋め、超越しなければなりません。そのためには、現在に対するすべてを否定しなければなりません。その時、否定するその基準が、否定された外的な環境よりもより強くなるとき、その外的環境を超えることができます。そのようにして文芸復興が出発したのです。

 天国はどこから始まるのでしょうか。神様の悲しみを解かなければ、どこの誰も天国に入っていくことができません。私たち人間が堕落して以来、今まで悲しい歴史をつづってきたがゆえに、悲しい歴史のあらゆる因縁を直接探さなければならないのです。

 アダムとエバから、六千年の歴史から、その因縁を探さなければならないのです。そのような悲しみの神様を教えてあげるためのものが、統一教会の原理です。世の中の人々は、悲しみがあればみな嫌だといって逃げます。そのいかなる悲しい内容の事情よりも、もっと惨めな神様の悲しみを教えてくれるのが、統一教会の原理です。世の中では、悲しいことがあればすべて回避して逃げるけれども、統一教会の原理は、この悲しい所を通過しようというのが母体です。

 世の中では、悲しいことがあればすべて回避していこうとするけれど、現実的に人間は、そのようにできなくなっています。神様に対する悲しみを知れば知るほど、実際には統一教会は強力な力が出てきます。神様の悲惨な内容を知れば知るほど、それを解こうとする力の源泉は、無限に爆発的な作用を起こす動機になります。これが統一教会がもつ偉大な力です。

◆復帰の道は、悲しみの道であることを忘れないようにしよう

 ですから、私たちはまず悲しい神様に会わなければなりません。歴史上のどの人よりもより悲しい神様、悲しみの大王になられた神様に会わなければならないのです。その神様に会い、その悲しみを踏んで立ち上がるとき、私の心に強い喜びがほとばしるのです。その時、新しく迎えることのできる要件を備えなければなりません。それは苦いものだけを食べたのちには、甘いものを少しだけ食べても、ものすごく甘く感じられるのと同じです。

 そのような立場にいらっしゃった神様は、堕落した人間に対して何を望まれるのでしょうか。皆さんが神様の苦痛をまず感じて、子供の位置に立って復帰路程を歩み始めるなら、その本郷の爆発的な愛をもって神様は恥じない一日を中心として、愛の歴史を施すことができるのです。本然の純粋な立場で悲しい峠を踏んで立ち上がって神様を呼ぶことより、泰山が揺れて骨と肉と細胞が躍動できる場に因縁を結び得る一つの統一された基準になります。動機をもって出たその場は、サタンが絶対的に侵犯できない完全な基準になったがゆえに、ここから完全な復帰の気運がわき出る基点と、心情を中心として役事していくのです。

 悲しみで出発したがゆえに、悲しみの障壁を破って上がってこそ喜びが出てくるのです。この地上で生きる間、その悲しみを自分自身が解決できなければ、霊界に行って悲しみの境界線圏内に入っていき、永遠に苦痛に遭うようになるのです。そのようになれば、喜びとは永遠に関係を結ぶことができません。

 それで、統一教会は歴史的な因縁の主体である神様の悲しみを教えてくれるのです。ところが、その悲しみを抱いた息子、娘として、悲しみの歴史をつづって出てきた私たちは、今まで悲しい道を忘れていました。しかし、これからは個人的に結ばれた障壁、国家的、世界的に結ばれた障壁を打破できなければなりません。もし、神様の前に召命されたことを忘れて、個人の責任を果たすことができない日には滅びるのです。家庭は氏族の塀を壊し、氏族を解放させるための責任を果たせなくなるとき滅びるのであり、氏族は民族に対するあらゆる悲しみの要件を、除去させるためのその責任を果たせなくなるとき滅びるのです。国家、世界、天宙もみな同じです。こういうことを考えるとき、今日統一教会についていく人々の路程には、悲しみの道が幾重にも重なり合い横たわっているというのです。

◆私たちが耐え忍んできた理由

 今まで私たちが戦ってきた戦争は、国に対して闘うことでした。国に対する闘いを今までしてきたのです。国に対して闘いながらも、いつも追い込まれて敗れました。敗れるのを耐え忍んで克服してきたのは、より大きい闘いで勝利するためです。それで、先生が今まで「じっとしていなさい、じっとしていなさい、踏まれてもじっとしていなさい」と言ったのです。このように愚かなことをしてきたのは、愛を中心とした闘いをする相対がいなかったために耐えたのであり、最後の決着の場に責任を負うことのできる時を成すためだったのです。それで、譲歩すればするほど、そのような内的なあらゆる力を投入させて、ある一つの機会に一時に爆発させることのできる道を念を押しながら行くのです。今まで追い込まれて追い出されたのは、それ以後に来る一つの国家的な条件、あるいはより広い分野の勝利を占めるためです。

 それゆえに、このような観点で私たちは、神様の悲しみのあらゆる障壁を壊してしまわなければなりません。個人の悲しみより、家庭の悲しみを取り除くための闘いをしなければならず、氏族を救うためには家庭を犠牲にしなければなりません。また、氏族を立てて民族を救わなければならず、民族を犠牲にしてでも国家を救わなければなりません。さらに進んで大韓民国ならば、大韓民国の三千万が全部犠牲になったとしても、世界を救うことができなければなりません。

 それゆえ神様の摂理が要求することは、個人的な勝利です。個人的な勝利を要求するのは、家庭的な勝利を願うためであり、家庭的な勝利を願うのは、氏族的な勝利を願うためです。氏族と民族と国家の勝利を願うのは、世界的な勝利の基盤を築くためです。それで天の摂理が忙しいのです。

◆世界の復帰のためには自己犠牲が必要である

 統一教会は、限りなく悲しい神様を教えてくれます。そのような神様を教えてくれ、神様が行かれる方向に共に行くようにするのです。神様は悲しみによって出発した歴史を背負って、復帰に向かって個人的な悲しみ、家庭的な悲しみ、氏族的な悲しみ、民族的な悲しみ、国家的な悲しみ、世界的な悲しみ、天宙的な悲しみを背負っていかれるのです。

 今日、世界が外的に一つの世界を指向しようとすれば、全世界に繰り広げられている悲しみの要素をすべてなくさなければならないのですが、その責任を誰が負いますか。その責任をアメリカが負えなければ、韓国が負わなければなりません。世界はどこに向かっていて、人類歴史が後退したのちにどの方向に収拾されるのかなど、これを備えられなければ、その時は本当に滅びます。

 では、栄え得る一つの道とは何でしょうか。それは、神様の行かれる摂理の方向を中心として、一致できる立場に立たなければなりません。世界的なあらゆる悲しみを抱いて、世界を代表して自分たちが傷を受け、世界的な悲しみに責任を負って死ぬ場に入っていっても、気に留めず進み出ることのできる民族とならなければなりません。そうして、その民族が立つ地がなくて世界に散らばるようになっても、その民族が残した思想が残っている限り、その思想によって世界を収拾できる天運が開かれるのです。

 民族の文化を自慢してはならないというのです。現在のキリスト教は、世界的なキリスト教国家だと権威を誇ってはならないのです。今後近づいてくる悲しみの世界に、責任を負うことのできる民族になれなければ、この民族の主権と希望は失われてしまうのです。しかし、民族が大胆に世界の悲しみに責任を負うことのできる国民性を備えていれば、その民族は勝利の世界を迎えるでしょう。そのような勝利の世界を個人が待ち焦がれていたのであり、家庭が待ち焦がれていたのであり、氏族、民族、国家、世界が待ち焦がれていたのです。ですから気落ちしないで、終わりまで闘いなさいというのです。

 孤独な牧師の生活をしても、あるいは放浪する氏族となって追い込まれながら、悲しく恨めしい生活をしても、今後悲しみの世界に責任を負うといえる民族とならなければなりません。そのような民族は神様から千年、万年祝福され得る民族となるでしょう。そして、その民族は結局世界を征服するのです。このような民族となるためには、民族の文化も放棄して、民族の主権も放棄しなければならないのです。そのようなことは失ってもいいのです。世界を占めるために、偏狭的なものとは絶縁しなければなりません。そのような観をもった群れがあるならば、その群れは必ずある一日、決定的な時に会うようになっているのです。

 イエス様は十字架にかかって亡くなるとき、「ああ、私は父母との巡り合わせが悪くて死ぬことになった。弟子たちが裏切って死ぬことになった」、または「全人類を代表したイスラエル民族が責任を果たせず死ぬことになった」と考えませんでした。天地が責任を果たせず、死ぬことになったからです。この責任は天と地の責任であり、一つの時代だけの責任ではなく、歴史的な責任です。天地が責任を果たせなかったがゆえに、イエス様の生涯は孤独なものでした。その責任をすべて無にして再び切り開かれたので、キリスト教が中心となり、地が背負った責任を果たさなければならないのです。

 「わが父よ……わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と言われた時のこの祈祷の意味は、与えられた限界内の幸福を待ち焦がれたのではなく、一つの生涯圏内で誰よりも世界の復帰を願う心が現れたのです。神様が世界と宇宙のために待ち焦がれたような立場だったのです。それで「私のこころ」と「神様のみ意」を見れば、イエス様のみ意はある限界圏内で待ち焦がれようとするみ意ですが、神様はその限界線を越えていたのです。

 イスラエル民族を越えて世界を心配される父を見るとき、その父の心の中に、世界へと行かなければならない苦難の心情が抱かれているのを知り、「私の思いのままになさらず、父のみ意のままにしてください」とイエス様は切実な祈祷をしたのです。

 その父のみ意は世界的な復帰です。世界を生かそうとしたので、死が横たわって「神様との因縁を結んでやろう」と言った宣布式であり、宣言式をした所がまさしく十字架上でした。それゆえ、イエス様は一面敗者の立場に立ったけれど、神様の心情の主体となり、苦難と悲しみを占領する第一人者となりました。では、悲しみを占領することができた基準とは何でしょうか。新しい希望の世界へと出発し得るという希望なのです。このようなことを見るとき統一教会は、動機の因縁となり得る神様の悲しみを教えてくれる所です。

 それで、私たちは一つの方向、解放と統一の方向に進まなければなりません。神様が一人の方であるために、目的が二つになり得ません。それゆえ、人間はその一つの目的に向かって進まなければなりません。これを確実にして生きていかなければならない理由が、ここにあります。それゆえ、天との基点を同じにしなければならないのであって、これを異にしてはなりません。先生はこれを、すべて知っています。先生がこのようなことを皆さんに話してあげるのも、そのような事情があるからです。しかし、先生と皆さんは、ともすると別れるかもしれないのです。霊界に行ってその基準が合わなければ、共に帰ることができないのです。

◆神様の悲しみを解いてさしあげなければならない統一教会員

 すべてのことは原理どおりになっているので、原理を中心として見れば、始まりと中間と終わりの三点が必要なのです。今、摂理は動機と目的が直線上にあります。直線の一つの中心を現在として見るならば、左側は過去であり、右側は未来のようなものです。それで、現在が過去を動かすことができ、未来を考えることができ、この二つの世界の力を統合することができてこそ中心となるのです。統一教会で教えてくれることは、喜ばしいことを教えてくれるのではありません。動機が悲しみであったので、喜ばしい歴史を教えてくれるのではなく、悲しい歴史を教えてくれるのです。

 しかし、始めの出発が悲しかったとしても、いつかはこの悲しみが終わる時が来ます。この悲しみが終わるためには、皆さんの信仰生活が、世の中のどのような人よりも優れていなければなりません。この悲しい世界のくびきが下りてきていますが、これが解かれる日には解放です。

 皆さんは今、神様が六千年間抱いてこられた恨みと悲しみの心情を中心として、出発し得る立場に立っています。皆さんが神様の心情を共感し得る立場に立ったがゆえに、六千年間苦労された神様の悲しみを、皆さんの一身にいっぱいに感じることができます。

 また、父母が子供を愛する心は六千年間も続いてきましたが、昔も今も変わりがありません。これは父子の因縁、すなわち父と息子の絆が中心となっているためです。それゆえ、父の悲しみは息子の悲しみとなるのであり、息子の悲しみは父の悲しみとなるのです。また、父の喜びは息子の喜びであり、息子の喜びは父の喜びとなるのです。ですから、悲しい父が行く道に先駆けて、私たちが悲しみの道を収拾していかなければなりません。

 そうしながら、私たちが背負わなければならないこととは何であるのかを知らなければなりません。それは民族を解放しなければならないのであり、アジアを解放しなければならないのです。また、大韓民国をみ旨の前に解放して、アメリカも解放しなければなりません。これが私たちがしなければならないことです。その他のことは、あとにしてもいいのです。まず始めに、悲痛窮まった神様の悲しみを解いて超えていかなければならないのです。

 すると、現在の時点にある統一教会員の立場は、動機と目的をもった道を行かなければなりません。統一教会員は動機を探していかなければなりません。原因を探して、因縁を探さなければなりません。そうして悲しかった因縁を探して、悲しい因縁を探していく目的を成さなければなりません。それを私たち統一教会員が、「すべて成し遂げた」と言うことができなければなりません。そうできなければ哀れです。すべてのものを全部失ってしまうようになるのです。

 堕落した世の中で、善を探していく道は悲しい道です。ここにそうでない善があるならば、それは偽物です。公的な信頼を守ることが、神様の法則です。これを知って、このような考えで行動をしなければならないのであって、「これをすれば、いくらお金を稼げるか」という考えは、自分を滅ぼすことです。絶対にそのような考えをしてはいけません。私たちが因縁を結んだ神様を中心として行く道は、悲しみの道です。また、その道は難しく、危険な道です。

◆復帰の道にはすべてが必要である

 人々は大抵寝る家があり、食べる物が多ければ、それをもってうぬぼれます。しかし、そのようなことは作戦上必要なことであって、目的ではありません。そのように考えることこそ、神様の前に寵愛を受ける道です。そうして個人、家庭、社会を収拾して進み、大韓民国を収拾して、世界へと広がっていくようになるのです。このような心で進んでこそ、より大きな実践の基盤が生ずるのであり、不快な心が生じるようになっても何もないように進んでいくことができるのです。それゆえ、現時点でそのような心をもって仕事をすれば、落ち込みません。

 そして、これが私たちの因縁だといったので、私たちは特に感じたり、向かい合ったりもしなければなりません。そこには妻も必要なのであり、夫も必要なのです。また、若者たちも必要なのであり、年寄りも必要なのです。それゆえに私たちは、万民の世論はともかく、共通的な姿を備えるようにしてきました。年を取った人は必要ないとして、年を取った人をみな無視する立場に立てば、その国の国民性がなくなるのです。年を取った人は嫌いだという人になれば、その民族の伝統性を中心として見るとき、民族性を売ってしまう人になるのです。

 ところが、最近は子供が両親を否定します。人倫道徳まで否定しています。人倫を否定するときは終わりの日です。私たち統一教会は、これではいけません。このような現在の思潮に調子を合わせてはいけません。統一教会は、真に永遠に肯定することのできる因縁をもたなければなりません。父母は父母なりに、子供は子供なりに、師匠は師匠なりに関係を結ばなければなりません。それゆえ、若い人たちだけでは駄目です。み旨には年を取った人も必要なのです。それゆえ、年を取った人を重要視しなければなりません。長く残っていくときには、私たち食口がみな必要なのです。年を取り、気力が不足な人を重要視しなければ、その民族の精神が濁ります。

◆愛する方法

 私たちが集まった因縁を中心として見るとき、統一教会は「私」によって成されたのではありません。世界も「私」によって成されたのではありません。全体によって成されたのです。私たちによって成されたのです。その全体が「私」を中心として動くことはできないのです。それで世界を動かそうとすれば、神様を中心として動かなければなりません。それゆえに「私」は神様に侍って生きなければなりません。

 ですから、神様を中心として動くところには、子供も、大人も必要で、息子、娘も必要です。一つの氏族を中心として、すべてが必要です。そのいかなる人も、つまり監獄にいる罪人も必要なのであり、死んでいく人も、その世界では必要なのです。それゆえ「世界人類を愛して、民族を愛してから私を愛そう」、これが天の行く道です。人類を愛してから、自分の家庭を愛さなければならないのです。これが、今後教育される伝統です。私たちはそのような理念によって生きなければなりません。御飯を食べるときにも、近所に飢えている人がいるのかいないのかを見て、飢えた人がいれば、その人に御飯をあげてから自分が食べなければなりません。これが天の心です。

 それ以上険しい場で学問を追求して、死の場でも自分の苦労を惜しまない人は、天が生かしてくれるのです。また、身もだえしながら「善の主人公よ、善の本郷よ、善のその日よ、どうか来て私を解放してください」と言いながら叫ぶ人がいれば、天はその心に共にされます。

 今日、統一教会の教会員が自分中心に先生に対するようになれば、世界人類が先生を思慕することができません。絶対に思慕することができないのです。愛を中心として、与え受ける天地間にも互いに会わなければ思慕することができません。ところが、自分の民族を無にして、韓国に来て韓国を生かしてくれと祈祷する人もいるのです。その力がどこから来るかといえば、それらはやはり感心すべきことに、神様のみ旨を抱いたために、そのような心がしきりに芽生えてくるのです。神様の心を抱いていけばいくほど、愛の包みは自分の後ろに、高い山のように引かれてきます。

 ある男性と女性がお互いの心が通じるとき、互いに愛そうとするその心情は、男性でも女性でも同じです。「私は神様に出会ったので、いかなる患難の中でも誰よりも万民を愛することのできる心をもたなければならない」と、このように身もだえする心情に徹して深く考えられる人、その背後には偉大な力が出てくるのです。

 先生は皆さんに仕事をさせて、利益を得ようとするのではありません。今は先生が考えなくても、世界の人々が先生を考えざるを得ない、このような境地となりました。今は彼らのために祈祷しなくても、今まで築いてきた基台があるために、神様がその祈祷に公的価値を発揮することができ、また祈祷する人々を今後つかんであげ得る、個人的な足場となっています。それゆえに、先生は画期的に成したことがたくさんあります。これらが、私たちの因縁だということを知らなければなりません。

◆神様を中心とした因縁の世界を創建しなければならない私たち

 愛を失うようになったことは、神様の悲しみを忘れてしまったためです。神様は父であり、私たちは子です。永遠に共にできる父子の因縁ですが、今私たちはその反対になった立場に立っているのです。父が苦労されることを知りながらも、なぜ苦労されるのかを知らなければ、何の役にも立ちません。その父が行く道は、個人の道ではなく、家庭を越えて民族、国家、世界を復帰するための道です。言い換えれば、家庭を抱く前に民族を愛して、民族を抱く前に世界を愛さなければならないということです。これが愛です。世界を愛せずには、民族を愛することができません。また、民族を愛せずには、自分の家庭を愛することができません。それゆえに、復帰の路程を行くにおいて、私たちはこのような愛の心をもっていかなければならないというのです。

 統一教会を見るとき、統一教会の教会員は個人であっても、統一教会は全体をいいます。このような全体を成すために、神様は長い間数多くの戦争と歴史過程を経てきたのです。それで、個人の間の歴史的な塀を崩して、対面した因縁が統一教会で成されたのです。これを無視する人々は、歴史的な審判を受けます。このように、私たちは素晴らしい因縁を結んでいることを知らなければなりません。

 今まで私たち個々人は、神様を中心としてサタンと闘い残ってきた立場です。今、この残ってきた群れが、第二次の作戦を準備しなければなりません。その作戦は、国と世界のために闘わなければならないということです。このために準備し、訓練すべき路上に私たちは立っているのです。それゆえに同志が必要であり、食口が必要だということをよく知らなければなりません。

 神様を中心としたその因縁を糾明した私たちの因縁が、純粋な因縁であることをはっきりと実感することのできる皆さんにならなければなりません。お金はどんなにたくさんあっても嫌ではないはずです。お金を稼ごうとすれば、統一教会が世界で一等になるように稼がなければなりません。

 道が生じたので、両足で支えて生きていきなさいというのです。世界の人が嫌がることがあっても、果敢に進まなければなりません。それで、世界のために使うことのできるお金を稼がなければなりません。世界のために、国家のために使え、働くことのできるお金を稼ぐために実績を得なければなりません。このようにしようとすれば、個人のつらさを甘受しなければなりません。皆さんのつらさを神様は知っていらっしゃいます。その苦難に勝ち抜けば、天の栄光と自分との因縁が残るのです。このようなことを知って、このような因縁の世界を創建しなければなりません。

 皆さんは、因縁を離れては生きられないということを、はっきりと知らなければなりません。人の目は見るようにできていて、鼻は呼吸するようにできていて、口は食べるようにできています。すべてのことが、そのように因縁づけられているのです。それゆえ、私たちも因縁の世界を探し立てなければなりません。いわば、神様を中心とした因縁の世界を創建しなければならないというのです。



















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