文鮮明先生のみ言集
訓教経(上)


境界線

一九六九年六月二十九日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第二十四巻』


 私たち人間の人生の道においては、常に越えていくべき峠があると考えられます。人々がみな一日一日を生きていく生活においても、やはり峠があるのです。また、私たちの一生について考えてみても、そうなっています。一生を区分してみると、青年の時代や壮年の時代があり、老年の時代もあります。しかし、青年なら青年、壮年なら壮年、老年なら老年にも、その期間において境目があります。このように、越えなければならない境目が、私たちの人生には必ずあるのです。

◆神様と共に境目を乗り越えるには

 この境目を中心として、こちらか、あちらかという二方のうち、一方に属して現在生きているのが私たちの人生であり、今日の世界的現象であると考えることができます。

 私たち人間には、人間としての境目があると同時に、神様の御覧になる境目もあるということを知らなければなりません。人間の先祖が堕落することにより、私たちの行く手には、乗り越えなければならない数多くの峠が残っています。個人から家庭、氏族、国家、世界、そして天宙まで進むためには、数多くの峠を乗り越えなければなりません。その峠を偶然に越えるのではなく、必然的に越えなければならないのです。

 その境目を越えるときはいつも、自ら越えなければならないばかりでなく、自ら越えるべき道を準備し、その道を切り開くために祈る人とならなければなりません。しかし、このような人になるのは容易なことではありません。

 真の意味でその境目を越えるためには、神様から協助を受け得る、真を尽くす立場に立たなければなりません。そうでなくては、この境目を神様と共に越えることはできません。私たちは、サタンの所有圏の中で生まれたがゆえに、この境目を神様と共に越えなければ、サタンと共に越えなければならない立場に置かれるようになります。

 私たちがサタンとその境目を越えるようになれば、サタンは私たちが人生において目指す本郷へ至るまでの道において、また、人生行路の目的地に向かっていく途上において、協助したり、その方向に一致し得る道には導きません。むしろ、いつも脱線させて、その道と反対になる方向に引きずっていくというのです。歴史的にもそうであり、この時代にもそうであり、今後もそうし得るということを私たちは知らなければなりません。

 私たち自らがこのような境目を越えるにおいて、いかなる同伴者とも一緒に行くことはできません。もちろん、私たちの回りには、協助をしてもらえる家庭とか、国家のような環境的な因縁圏があります。しかしながら、私自身が主体的に因縁を結ぶために自らきっかけをつくっていかなければ、その環境と関係を結ぶことはできません。

◆個人的に越えるもよく、国家と共に越えればさらによし

 国家には国家の乗り越えるべき峠があり、社会にも社会の乗り越えるべき峠があるのです。また、私自身にも乗り越えるべき峠があります。私と、社会と、国家の行くべき方向がみな一致していないために、その事情や立場や位置がみな異なってしまうのです。

 私自身が境目を越えることももちろん貴いでしょうが、社会や国家とも因縁を結んで境目が乗り越えられるようにしなければなりません。そういった立場に立つきっかけを誰がつくらなければならないのでしょうか。それを動かす主体者になるには、社会や国家を凌駕できる立場に立たなければなりません。そうでなくては、社会や国家の境目は乗り越えられないのです。

 それでは、知恵深い人、あるいは神様の道理に従う人々が願うのは何でしょうか。自分の乗り越えるべき境目、社会の乗り越えるべき境目、さらには世界、あるいは天運の乗り越えるべき境目をいかに結びつけるか、いかにこれを一斉に越えるべきか、こういう問題を考える人であればあるほど知恵深い人です。また、そのような人であればあるほど、世界史的な偉人になれるということを皆さんは知らなければなりません。

 私たちの乗り越える境目は最後の境界線であり、歴史的所望の境界線であり、神様とサタンの天下分け目の境界線です。また、天と地が人間と共に関係を結ぶことのできる始まりであり、すべての解決が成される一線です。このようなすべてを成就できる境界線が、私たちの目前に迫っているということを皆さんは知らなければなりません。

◆境界線を乗り越える道

 この天宙と天運が乗り越えなければならない境界線が、今日私たちの前に残っていることが分かるなら、私たちはその峠を越え、その境界線を越えるために、今からでも行かなければならないのです。しかし、皆さん独りでその峠を越えていくことはできません。それは、どんなに努力をしても不可能です。

 歴史的な過程がそうでした。志をもった数多くの人々が、この道を乗り越えるために苦悶しては落下していきました。しかし、私たちは必ずや乗り越えなければなりません。皆さんは、この道を乗り越えるためには何を知らなければならないでしょうか。その境界線の峠がいかなる峠であり、また、どこに行けば乗り越えられるのかという、その方向をはっきりと知らなければなりません。なぜなら、皆さんが境界線を越えようとしても、誤って越えれば、必ず元の道に逆戻りしてしまうからです。

 皆さんが境界線を越えていくには、どこへ行って、どこを越えなければならないか、ということをはっきり知らなければなりません。その道はたくさんはありません。その道はただ一つです。先生が解放直後に三十八度線を越えたように、どこでも越えるようにはなっていないというのです。越えることができるその道は、必ずただ一つです。神様もその道を行かなければならず、歴史的な数多くの聖人もその道を行かなければならず、また、今後復帰路程を歩むべきすべての人々もその道を通らなければならないのです。

 その道は一つしかない最後の境界線です。その最後の境界線が、この終末時代に現れるというのです。ところで、その境界線を必ず越えなければならない立場にある私たちです。それゆえ、皆さんの生活態度やあらゆる観念、目指す目的を全部帰結させて、この境界線をいかに越えるかということが問題です。生活全体を集中させて、これに対する解決点を明らかにしない限り、皆さん自身がその境界線を越えることはできません。

 この境界線は、個人から家庭、氏族、民族、国家、世界、そして天宙史的な内容までも総合した境界線として現れるために、自分独りでは越えられないのです。これは歴史とともに越えなければならない境界線であるがゆえに、そこには歴史過程において、この境界線を越えるために闘ってきた善の基準が必ずあるはずです。ですから、私たちも、必ずその善の基準を見本としながら越えなければなりません。ただ、このままでは越えられないというのです。

◆今までのすべての善の基準を一つに連結すべし

 その基準は、この時代全体が越えなければならない基準であるため、現在この時代の善なる人々が従っている基準を橋とし、その基準を乗り越えなければなりません。歴史時代と現在のこの時代圏を中心として見るときもそうです。また、その峠を越えるために、そこに神様の貴い摂理のみ手が差し伸べられてきたということを考えながら、神様が今まで積んでこられた善の基準をこの基盤の上に連結させなければなりません。そうでなくては、この峠は越えられないのです。

 過去と現在は、私たちが今まで経てきて、また経ているところですが、未来における興亡は、必ずこの境界線を越えるか否かにかかってくるのです。この問題が難しいということを皆さんは知らなければなりません。この問題をいかに解くべきかということが、今日私たち人類がこの地に生まれて抱く一生の願いであり、目的であるということを皆さんは知らなければいけません。

 過去においてこの峠を越えるために無数の人々が苦労しましたが、越えることはできませんでした。しかしながら、彼らはある限界圏までは善の基盤を築き上げました。また、この時代がそれを乗り越えるために努力していますが、越えることができずにいます。しかしながら、ある環境圏内までは、善の基盤が築かれているのです。私たちはそれを連結しなければなりません。連結させるには、自分自身だけを中心としてはいけません。そこには神様が介在しなければならないのです。

 神様はそのような峠を私たちに越えさせるために、今日まで方向を提示し、歴史の過程で実績を求めながら、その痕跡を残してこられました。このような神様と一致した立場で、過去と現在のすべての善の基準を踏み越え突破しなければ、その境界線は越えられないということを皆さんは知らなければなりません。

 では、終わりの日とはどのような時なのでしょうか。その境界線の限界に臨む時が終わりの日です。だからといって、それに橋を架けて乗り越えられる時ではありません。この峠からあの峠へと直行できるその道は、別の所にあるのです。すなわち、今日二つの境界線が一致しているのではなく、その境界線がそれぞれ別の所にあるのです。国家の行く道もそうであり、あるいは数多くの宗教家の行く道もそうであり、天運の行く道もやはりそうです。

 ゆえに、これを総合して一つにつなぐ仕事をしなければなりません。この仕事をするために、一人の指導者が来られるのです。この使命を果たされる方が、来たるべき再臨主なのです。

 その方は、このようなすべての基準を連結させ、この境界線の限界を一遍に越えなければなりません。この限界線を接続させるのは、ただ簡単に成されるものではありません。蕩減という代価を払うことなくして成されないのです。歴史的な善の基準と時代的な天運の基準を連結させることは、ただ簡単にできるものではありません。「今や私は神様の息子、娘になった」と言うだけで、神様の息子、娘になれるのではありません。

◆必然的な蕩減の過程で勝利しなければならない

 そこには必ず蕩減がなければなりません。その蕩減の過程の中で、歴史的な善の基準を踏み越えなければなりません。そして、国家なら国家、時代なら時代、世界なら世界、天ならば天、天運ならば天運が、今まで成就できなかったすべての内容を蕩減できる方法を提示しなければなりません。そうでなくては、この境界線を越えることはできないということを私たちは知らなければなりません。

 復帰路程には個人復帰、家庭復帰、氏族復帰、民族復帰、国家復帰などがありますが、その復帰は偶然に展開されるのではありません。必然的に展開するのです。

 それは偶然の歴史ではなく、必然的な歴史なのです。ゆえに、ある公式的過程をたどらなければなりません。甲や乙、あるいは東西南北、四方八方のいかなる人も、この過程を必ず公式的に経ていかなければなりません。必然的に行かなければなりません。そして、そこでは前後関係が一致し得る内容を備えなければならないのです。このような点から考えてみるとき、皆さんには必然的に越えなければならない境界線が残っていることを知らなければなりません。

 皆さんがこのような峠を越えるとき、うかうかしていれば乗り越えられません。すべての神経と観念を集中させ、全生命的要素を何もかも集中させなければなりません。こうして境界線を越えるその瞬間、その刹那に勝利者として決定されるのです。勝利できない人は天国に行くことができません。また、勝利できる資格の備えられない人々、その使命を完遂できない人々は、歴史的な理念を相続することができません。

 皆さん、親が今まで備えておいたすべてを子供に相続する場合、子供たちのうちで誰を探し求めるでしょうか。その家庭の子孫の中で、家庭を完全に引っ張っていける子供を探し求めるのです。家庭というそれ自体の前に、引っ張られていく子供であってはならないのです。

 家庭を引っ張っていける、言い換えれば、家庭での勝利を確保した子供でなければなりません。一国家においても、代表者としてそのような人が要求されます。国家を中心として勝利できる資格者となってこそ、その国家を導くことができるのです。

 では、天宙を引っ張っていける天宙的権限は、どのようにして獲得できるでしょうか。天宙主義圏を獲得する前に、まずもって境界線を越えなければなりません。そして、この境界線を越えるためには、蕩減の路程をたどらなければなりません。

 では、その境界線が険しければ険しいほど、それに備えながら自ら試練に打ち勝つことのできる自主的力量をどのように補充し、その自主性をどのように確保すべきでしょうか。そのような峠を越え、境界線を越えるために、世界的な代表的人物がたくさん生まれては去っていきました。そのような人々は、人類歴史や人類文化史に貢献した聖人や賢哲たちです。それゆえ私たちは、彼らの歩んだ善の最高の目標を継承し、乗り越えていける者とならなければなりません。

 そのような自我となっているかどうかが問題です。現実のこの社会や全世界について考えてみるとき、その国家や世界がそのような立場にあるかどうかが問題なのです。このような境界線に向かって乗り越えられるという、世界史的基準に責任を取り得る勝利者とならなければ、その境界線を越えることはできません。

 この途方もない課題を前にして生きる私たちであることを知らなければならず、私たちの行く道は、神様が復帰の摂理をなさる道であることを知らなければなりません。

 一家庭の使命だけでなく、このとてつもない天宙史的使命を担った私たちは、この境界線を乗り越えるとき、「きょうが駄目ならあしたやればいいさ」と言うようではいけません。そこには、一分一秒の時間の差も許されないのです。前もって行って待つ人は知恵深い人ですが、前もって行って待つことができずに一分一秒でも遅れた人は、もう一度振り出しに戻らなければならないのです。このように容赦のない必然的運命の道が私たちの前にあります。その道を皆さんが歩んでおり、皆さんが見ており、皆さんが聞いているというのです。

◆知恵深い人

 それでは、その境界線を越える時はいつなのでしょうか。その時がいつなのか、私たちには分かりません。皆さんそれぞれの個性が違うために、自らの人生観を中心として越えるべきその境界線も、いつ皆さんと交差するのか見当がつかないのです。ですから皆さんは、個人個人が各自の領域から出発して、越えるべき境界線まで行かなければなりません。

 それは生まれた日が異なり、皆さんの個性や指向する目的が異なり、心に抱いた方向性が異なるからです。皆さんの指向する目的が異なるために、その目的観に差があり、全部が千差万別にこの境界線に接近しようとしているのです。

 一時に越えることのできる道も、誤った場合には十年、二十年と、さらに延長するのです。それゆえ知恵深い人になりなさいというのです。知恵深い人とはどのような人でしょうか。歴史を消化でき、時代を鑑定できる人です。それでは、この時代はどのようになっているでしょうか。この時代には歴史を消化できる能力がありません。それゆえ今日先生が、境界線に直行できる方向を提示しているのです。

 では、ここでの一つの問題点は何でしょうか。ここに集まった人たちを見ると、みんな前後左右が備わっています。そのため、生活それ自体を見ることはできても、背後の因縁までは見ることができません。先祖代々つながっているすべての背後関係が、どのようになっているか分からないのです。

 皆さんの中には、右の方向へ行く人もいるし、左の方向へ行く人もいます。上がる人もいるし、下がる人もいます。

 このような点から見るとき、今日皆さんが食口同士で互いに相談し、協助し合う場合にも、うまく判断していかなければなりません。自分が相談を持ち掛ける場合には、どうしなければならないでしょうか。自分が上がる道に立っているのか、下がる道に立っているのか知らなければなりません。自分が誤った道にいるのか、正しい道にいるのか、よく判断してから相談しなければなりません。それも見分けることができないままに相談する人に従っていけば、その人は峠を越えていけません。

 日常生活をしながら私たちは、ある人から打撃を受けたり、誰かが原因となって自分の行くべき道を歩むことができなくなったりする人を見かけます。そのような場合は、どのように自分の心を作用させるかにかかっています。ある人は真昼のような立場に立っているのに対し、ある人は真夜中のような立場に立っている場合もあります。

 それにもかかわらず、自分の行くべき道を見分けられないままに、ただ他人についていったのでは打撃を受けるのです。自分は夜を中心として行っているのに、それも分からずに真昼を中心として行く人についていっては、その人と必ず食い違うようになっているのです。ある人は右に行くのに、ある人は左に行きます。このように行く方向が違うので、千差万別の現象が起こるのです。

 それでは、境界線を越えることができる主体とは誰でしょうか。自分自身がそうならなければなりません。自らが個人的問題から家庭的問題、氏族的問題、民族的問題まで経ていかなければなりません。民族圏までは自らが開拓しなければならないのです。

◆境界線の限界点を越えていこう

 聖書を見ると、六十万のイスラエル民族がエジプトから出ていこうとするとき、パロは十回もモーセをだまして送り出そうとしませんでした。その当時、イスラエル民族がエジプトを発つことは、とてつもない冒険でした。エジプトからカナンまで行くのは、大きな冒険なのです。

 今までの生活基盤を捨てて出発するときには、何もかも否定して出発しなければなりません。イスラエル民族のエジプト出発を決めるのは、モーセではありません。モーセはこのようにせよと通報するだけで、決定は自分たちがしなければならないのです。

 決定して行くには、堅く決意しなければなりません。イスラエル民族は、民族的受難の境界線があることを知らなければならなかったのですが、そのことが分かりませんでした。個人的な問題さえ解決すればいいと思っていたのです。自分だけで決めて立ち上がりさえすれば済むと思い、自分個人の峠で終わると思っていたのですが、民族的受難の境界線があったのです。彼らは、それに打ち勝たなければならなかったのです。

 個人を求めるのは、民族的受難を打開するためであり、民族を求めるのは国家的受難を打開するためであり、国家を求めるのは世界的受難の道を蕩減するためなのです。

 このような立場から考えてみるとき、今日、個人、民族、国家、世界のすべてが互いに食い違っているというのです。それゆえ、この食い違った環境を打開すべき個人、家庭、民族、国家、世界にならなければなりません。これが問題です。

 では私たちは、必ず越えなければならないこの境界線の限界点をどのように越えていくべきでしょうか。人によっては、この境界線を越えた人もいます。ある人は、いつも苦労しなければならない苦労の道に入り込んでも、苦労をしません。またある人は、環境の良い立場に送られたにもかかわらず、苦労をします。またある人は、苦労させようと厳しい所に送られたのに、苦労しない場合があるのです。その理由は、自分個人が行かなければならない境界線を、既に自分の先祖の功績によって乗り越えてしまったからです。

 このように個人個人の行くべき道が千差万別であるため、百人なら百人の行くべき境界線が全部違うというのです。方向も違いますが、位置も違います。ある人は南、ある人は西、東、北というように前後関係が互いに食い違っています。しかし、この食い違っているすべては、国家というその領域の中では統合されるというのです。また、国家を中心とした数多くの民族がありますが、国家という背景を中心としない個人は、みな互いに食い違っています。しかし、世界のためにはすべてが統合されなければなりません。天と地が今日、互いに食い違っていますが、天宙のために統一されなければなりません。皆さんは、そういった解決をし得る起点を求めていく人にならなければなりません。

◆より大きな境界線を求めて越えようとするのが知恵深い人

 今日、人間として必ず通過しなければならない境界線を、いくつ越えなければならないのでしょうか。私たちは堕落したために、天地を失いました。世界を失い、国家を失い、民族を失い、氏族を失い、家庭を失い、個人さえも失いました。堕落しなかったならば、個人は個人であると同時に「家庭」であり、家庭であると同時に「氏族」であり、氏族であると同時に「民族」でした。その通路さえ経ていけば、自動的に「世界」、「天宙」にまでつながるはずだったのです。

 しかし堕落したために、私たちはすべてこのような峠を越えなければならなくなりました。今日までの歴史は、このような峠を越えるために闘ってきたのです。

 今まで宗教の中で、「民族のために闘い、民族のために信仰しよう! 国家のために信仰しよう! 世界のために信仰しよう! 天地のために信仰しよう!」と主張した宗教があったでしょうか。「私は天国に行く!」と言った宗教はありましたが、そのような宗教では、神様が目指して訪れてくる一線、世界人類が共感して共同的に行くべき一線を越えることはできません。

 皆さんは何をもって進もうとするのでしょうか。私たちは個人よりも家庭、家庭よりも国家、国家よりも世界、世界よりも天宙を主張しなければなりません。私たちの境界線はそれなのです。

 では、その境界線がはっきりと分かる人がいるでしょうか。皆さんは、国家の行くべき境界線がいかなるものかをはっきりと知らなければいけません。個人個人はそれぞれみな違いますが、国家の行くべき境界線が残っているがゆえに、それを中心として一致団結しなければなりません。そのようになれば、個人的境界線、家庭的境界線、氏族的境界線、民族的境界線、国家的境界線を一挙に越えていくのです。蕩減復帰はそのようにしてなされるのです。

 自らの個体を中心として、その時その時を自分でうまく越えていくとしても、自らの生活を中心として個人的境界線を越え、家庭的境界線を越え、氏族的境界線を越えなければならないというのです。

 それゆえ神様は私たちに「あなた方の罪を全部燃やしてしまい、神様を信じなさい!」と教えるのです。それでは、最後の境界線の中心には誰がなるのでしょうか。神様がなるのです。これが偉大だというのです。

 境界線を突破してしまい、あるいは境界線をみな取り壊してしまって決闘すべきこの時、復帰路程を経てきたこの時に、歴史的全体を超越できるものは何かというと、神様を信じることです。世界的で天宙的な中心である神様と一つになることです。それゆえに、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ二二・三七)と教えるのです。

 ですから、今日のキリスト教は神様を中心として一つになり、千差万別の境界線を越えなければなりません。そうすれば天運がついていくはずです。そのような時が来るまでは、無条件に信仰の伝統を継承していかなければなりません。また、最善も尽くさなければなりません。

 こういった点から考えてみるとき、知恵深い人とはどのような人でしょうか。個人的生活を充実させながら個人的境界線を越えて家庭的境界線で生活した人は、社会において真実な意味で鑑となることはできません。家庭的境界線を越えて国家的境界線を乗り越えなければならないのです。ところで、国家的境界線を越えるためには家庭を犠牲にしなければなりません。

 そのためには、強靭でなければならず、最善も尽くさなければなりません。また、自分の民族や氏族を捨てる時もなければなりません。国を愛するために氏族や民族を捨てる時があるように、世界を愛するためには国を捨てる時もあるというのです。このような立場に立てる人が知恵深い人なのです。

◆境界線に関する内容を知り、全心全霊を尽くすべし

 私たちが必ず歩まなければならない必然的運命の道には、境界線があります。その境界線を一気に越えていくためには、境界線がいかなるものか、はっきりと知らなければなりませんし、境界線を越えるために提示されているものが何であるかを、はっきりと知らなければなりません。この境界線を越えるときは、一人で越えるのではなく世界を抱き締め、宇宙を抱き締めて越えなければなりません。越えるにおいては、私が宇宙の前に手助けされて越えるのではなく、天運に乗って越えなければならないのです。

 そのためには全心全霊を尽くさなければなりません。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして神様を愛しなさい」とイエス様が語られたその時代には、この言葉がどういう意味か分からなかったために、境界線を越えることができなかったのです。ですから皆さんは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし」、すべてを尽くしなさいというのです。私たちはみな、国のために精誠を尽くしたことがあるはずです。そのように、国家あるいは世界のため、天地のために精誠を尽くさなければなりません。

 個人が失敗すれば家庭が失敗し、家庭が失敗すれば民族が失敗し、民族が失敗すれば国家が失敗するというのです。歴史はこのようにつながり合っています。もし国家が勝利したならば、その勝利した国家には個人、家庭、氏族、民族がみなつながっているので、国家の勝利の中にすべての勝利が含まれるのです。個人の失敗は家庭の失敗の基となり、家庭の失敗は氏族の失敗の基となり、氏族の失敗は民族の失敗の基となり、民族の失敗は国家の失敗の基となります。しかし国家が勝利したならば、失敗した個人、家庭、氏族、民族はすべて勝利した結果となるのです。

 このような点から見るとき、結局はアダム一人を失ったがゆえに、世界全体を失ったのです。アダムは世界史的な責任を負った、世界史的な中心存在です。ですから、その中心存在一人を中心として全部がつながり合ってきたのです。それゆえ、その中心存在が目的を完成するときには、彼につながった範囲内にあるすべての存在は解放圏を迎えるようになります。

 再臨思想の目的をこの国で成就させて何をすべきでしょうか。統一教会においても個人の越えるべき峠がありました。これからは家庭の越えるべき峠があります。ところで、家庭の越えるべき峠に先生が責任をもっていくなら、皆さんは個人の峠を越えなければなりません。それは何のために越えるのでしょうか。過去と現在の善なる実績を、個人的勝利をもって連結させるために越えるのです。ですから、これをいかにして連結させるかが問題です。未来において、勝利的基準をもって天上世界の前に、あるいは地上世界の前にいかにその責任を遂行するかが問題なのです。

◆私たちに必要な理念――「愛主義」

 このような使命を果たして、復帰する立場に立った個人が問題となります。そこに必要とされるのが理念なのです。それはどのような主義かというと、「愛主義」なのです。そのような点から見るとき、皆さん個人は、歴史や未来を中心としながら個人的な絶対基盤をつくり、サタンと闘って勝利しなければなりません。そのようにできる皆さんにならなければなりませんし、その次には家庭がそのようにならなければなりません。氏族ならば氏族が絶対的基準において民族や国家の代身となり、過去の歴史時代や現在や未来と関連性をもっていかなければなりません。

 「神様を信じて天国に行く」と言って歩んできた群れは、みんな自己中心に陥っています。皆さんは決して自己中心になってはいけません。国家を越え、世界を越え、神様を中心とした立場にまで行かなければなりません。

 では、神様が求めようとなさるものは何でしょうか。まず最初に、世界を探し立てるために個人を訪ねてこられるのです。世界を求めるためにイスラエルという特定の氏族を求めたのです。ところがイスラエル民族は、神様が世界のためにイスラエルの国を立てたことを忘却し、世界を自分の民族の前に屈服させる立場に立つことを願いました。むしろ、世界のためにイスラエルに来られたイエス様に恨を抱かせてしまったのです。

 神様の息子として世界を解放し、栄光の座につくこと、それがイエス様の願いでした。その方が解放されてこそ、世界を解放することができるのです。世界が解放されてこそ、個人が解放されるのです。世界が解放されなければ、みな滅びるのです。

 ですから、解放されるまで千年史の恨を抱き、億千万年でも十字架を担っていかなければならない使命があるのです。皆さん自身について考えてみても、全体的な境界線を越えてこそ願いがかなうようになるのです。

 国家を中心として、今後世界のために闘わなければなりません。国家を中心として闘うのは、国家だけを一つにするためではありません。世界のために闘うことのできる基盤を築くためです。国家を中心として第一基盤を築くのは、世界のための第二基盤を開拓するためなのです。

 この闘いがあまりに長く、疲れ果てて倒れたとしても、再び起き上がって第二の世界的戦線に向かって出動しなければなりません。このような使命を果たさなければならない皆さんであることを知らなければなりません。皆さんはここで疲れてはならないのです。短期間内に苦痛と試練を克服しなければなりません。あらゆる知恵と力量を総集結させ、一つの目的に向かってすべての試練に打ち勝ってこそ、目的を果たす期間が短縮できるのです。

◆私たちに残った最大の課題

 皆さんに先生が願うこととは何でしょうか。世界に行くことのできる基盤をつくることです。そのようにして、この人類に神様のみ旨を相続させるのです。ですから、皆さんが先生についてこようと思うなら、世俗的観念をもってはついてくることができません。先生と皆さんが一心同体となって、東に行っても、西に行っても、どこに行っても環境の限界を超越しなければならないのです。

 私たちは共に食べ、共に生きたい心情的基準を立てなければなりません。一つの細胞のようにならなければなりません。一体となり、すべての境界線を克服して越えていくことが、私たちに残された最大の課題であるということを知らなければなりません。御飯を食べるのもそのため、寝ることもそのため、行き来するのもそのためでなければなりません。こういう信念で一体化しなければならないのです。

 国が重要なのではありません。国がある前に、まずもって神様の愛を受けることのできる個人がいなければなりません。そういう個人なくしては、神様の愛を受ける国が現れることはできません。それは堕落したからです。堕落したがゆえに神様の愛を受ける家庭がなかったし、神の愛を受ける氏族がなかったし、神の愛を受ける民族がなかったのです。

 神様の愛を受ける国家は、そういう民族がなければ現れません。また、神様を中心とした個人個人の因縁で造成された基盤、神様を中心とした氏族的基盤なくしては、神様を中心とした民族的基盤もあり得ません。

 そのような見地から考えてみるときに、神様を中心とした民族的基盤なくしては、国が存続することができないのです。民族的な感情が問題ではありません。これが問題となるのは、今まで話した境界線をまだ越えきれていないからです。そういう問題がある場合には、皆が一体となって善の世界に向かい、最後の戦線を突破して乗り越えることができませんし、世界的運勢に相対し得る資格者にもなれません。

 この世界には、互いに行ったり来たりできない境界線がたくさんあります。その数々の境界線を崩して、世界を一つの共同的な生活舞台として築き、万民が福祉国家で暮らせるまで闘い続けなければいけません。いかなる障害があっても、それを克服しなければならないのです。

 そのようなことを考えるとき、私たちの力の足りなさが恨となるのではありません。神様を愛せないことが恨なのです。

◆私たちは団結し、一心統一してみ旨の道を行こう

 真の意味で神様を愛することができなければ、国を愛することができませんし、世界を愛することができません。ですから、内的基準を中心に何よりも神様を愛さなければなりません。皆さんは氏族的過程と民族的過程をたどって、国家や世界に向かっていかなければなりません。世界と国家の隔たりは大きいですが、その差はわずかです。

 イエス様がイスラエルの国に来て何をされたかというと、イスラエルの国を背負おうとされました。私たちは、現在の社会においても問題を提示し、今後は社会ばかりでなく全世界人類の代身者となって、国家と民族の前に明確な目標を提示していかなければなりません。私たちは、思想を統一できる基準も提示しなければなりません。このような目標をもって、国家を中心として進んでいかなければらないのです。

 知恵深い人とは、個人よりも、国家よりも、世界を貴ぶ道を追求する人です。国家に忠誠を尽くすことよりも、世界のために自らを犠牲にする人が立派な人です。また、国が世界人類の前に出ていくためには、今までの個人から家庭、氏族、国家の基準まで一遍に越えなければなりません。知恵深い人は、そういう将来を見通しながら行くのです。

 それゆえ指導者は、いつ境界線を越えるべきかということをはっきりと知らなければなりません。それを知らなければ、指導者になることができません。その時は、全精力を傾けなければなりません。寝る時も、起きる時も、行く時も、来る時も、何もかも一体化した生活の全体を動員し、勝利しなければならないのです。判断をするときは、同時に祈りをもってしなければなりません。命懸けの判断をしなければならない時もあります。復活するか、滅びるかという運命が決定されるのです。

 神様が共にあれば、勝利するのです。すなわち生きるのです。しかし、サタンが共にあれば、滅びるのです。どうしてそうなるのか知らなければなりません。私たちは、神様の心情を中心として事情の通じ得る息子、娘にならなければなりません。それはどういうことかというと、その息子、娘の立場は天国へと連結され、神様の往来する宇宙史的な実体の立場なのです。それゆえ、今後皆さんは行くべき境界線を越えなければなりません。

 常にみ旨を中心としてすべてをなしていかなければならないのであって、自分の自由のままにするのではありません。み旨がなければ意味がないのです。そのみ旨の道とは何かというと、全世界の人類が越えなければならない峠、つまり境界線を越えて新しい道を探す道なのです。ゆえに、万民に必要な道です。その道を見いだすことができるがゆえに、先生はそれを多くの人々の前で提唱できるのです。そうでなければ、それを提唱したこと自体が初めから罪です。それゆえ私たちはみな団結し、一心統一して、この道を行かなければなりません。

◆霊界もこの道を行かなければならない

 知恵深い人は、今後行かなければならない道に向かってうまく進んでいきます。十年か二十年後には、どのようになるだろうかを考えるのです。今いる場が取るに足らないとしても、その場が問題ではありません。十年や二十年後に、天運がどうなっていくかという問題を中心として道を切り開いていく人が、知恵深い人なのです。

 そしてその道の前に行き、前もって待つ人にならなければなりません。このような人を、今この時代の人々が見ると、「狂った人だ」と言うでしょう。しかし、歴史を自分が創造するという心をもって、そのように行動しなければならないのです。

 先生が新しい話をたくさんしましたが、長い間先生に従ってきた人であればあるほど、「先生の言ったとおりになる」と言っています。いつでもどこでも話したとおりになるというのです。しかし、それが神様によって成されたということを人々は知らずにいます。

 先生がしようとすることに対して「そんなことをして将来何の利益になるのか」、「そんなことが何のために必要なのか」と尋ねる人がいますが、内容を知らないからそのように尋ねるのです。先生は、本当に切実な立場であるがゆえにそうするのです。そのことを皆さんは知らなければなりません。境界線を越えるために、先生の十字架の道についていかなければならないのは必然的な運命なのです。ですから、誰もかもが共同の目標に向かって、共通に行かなければならない行路なのです。

 霊界もこの道を行かなければなりません。霊界から地上の私たちの行く道に協助するというのです。行くにおいては霊界が先頭に立っていますから、私たちはついていかなければなりません。このようにして数多くの民族を動員し、随所で私たちは公認されなければなりません。神様が共にいることのできる人は、むち打たれ生死の境をさまよう運命でも、すべてを愛することのできる人です。そういう立場にある人は、世話をしなければならない人が多くなるのです。

 「国を愛する」と言っていながら、自分の味方だけを愛し、反対する人をみな嫌っているようではいけません。数多くの人々が先生をそしって非難しましたが、かといって先生は神様に「彼らを滅ぼしてください」という祈りはしませんでした。そのような祈りは、する必要もないのです。

 皆さんはこの国を愛さなければなりません。この言葉の意味は、怨讐の骨の埋められたその地を愛し、その民族を愛し、その地に埋められた骨までも恩恵が受けられるように、雨が降れば雨に打たれながらも愛し、朝日がさせばその日ざしさえもみな愛さなければならないということなのです。そうなれば、そこは恵みの場となります。そういう心をもって、最後にはどのようにすべきでしょうか。世界的な感情をもたなければならないというのです。

◆最後の勝利者は世界のために忠誠を尽くす人

 人は一生に一度は死にます。ですから、どんなに恐ろしい暴風雨に打たれても、最後の峠を越えなければなりません。着実に進んでいながらも、境界線の前で倒れてはいけません。皆さんはこのような境界線に立って、いったい何をしているのですか。気を引き締めて走っても最後まで行けるかどうか分からないのに、あたふたしていては行きそびれてしまうというのです。

 最後の決勝点まで境界線を突破しなければ、勝利者になることはできないのです。天宙復帰というとてつもない使命を前にして、国家と民族を懸けた闘いが始まったがゆえに、世界的戦場に直行しようというのです。

 それは、人として生まれて、やってみる価値のあることです。後ろから反対され迫害されても、我が行くべき道を行けばいいのです。一歩でも早く進み、この運命の道を突き抜けていくという人こそ、最後の境界線を越えることができるのです。皆さんはそのように行かなければなりません。
 すべては民族または国家を中心とした復帰や、世界のための基盤を広げるためであるがゆえに、それに対して皆さんは順応しなければなりません。今後、個人は犠牲にならなければなりません。
 残った最後の境界線を突破することにおいて、皆さんが声援し、祈願してくれることを願います。
















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