文鮮明先生のみ言集
訓教経(上)


真なる生涯をいかに残すか

一九六九年八月二十四日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第二十六巻』


 過去から現代に至るまで、この地上で暮らす多くの人々は、真を追求するためにあらゆる努力を尽くしてきました。さらに信仰生活をしている私たちは、真の中心であられる方を慕いながら真の自分になることを望んできました。

◆真実を求める人間

 真の個人、真の家庭、真の国家、真の世界、これは今日の私たちだけが追求しているのではなく、過去にも追求してきたし、現在も追求しているし、未来にもそのようにするはずです。

 では、過去と現在と未来を通じて追求してきた真の中心は、どこに帰結されるでしょうか。それは世界に帰結されるのでもなく、いかなる国に帰結されるのでもなく、いかなる社会に帰結されるのでもありません。真の基準は、個人に帰結されて出発しなければなりません。そうでなければ、真の家庭があり得ないし、真の社会、真の国家、真の世界があり得ないのです。

 ここにおいて、真の中心が神様で終わってしまってはいけません。人間が真の中心にならなければならないのです。人間が中心になるべきだというのは、漠然とこの世界の人間が中心になるべきだという話ではなく、私たち各自がその中心になって、世界の中心として現れることができる立場に立たなければならないということです。

 たとえ真の神様だとしても、環境と因縁を結ばなければなりません。縦的な神様は、横的な環境と因縁を結ぶことなくして真の因縁をもつことはできないのです。四方を整えて立体的な目的を成し遂げるためには、必ず相対圏を整えて中心を決定しなければなりません。

◆真の世界を成し遂げる中心存在になるべき人間

 したがって、神様がいくら霊的な中心であっても、人間の心の中に神様が中心として決定されなければ、真として完全に存続することはできないのです。今まで神様が人間を探してこられた目的が、正にここにあるのです。

 ゆえに、私たち人類自体に、神様を中心存在として探し立てなければならない使命がある、ということを私たちは知らなければなりません。したがって今日「私」という一人の存在は、流れる歴史の中でただ生きて逝く個人ではなく、この世界の中心として、未来の新しい開拓者として、真の姿として現れなければならない途方もなく重大な使命をもっているというのです。

 このように個人は真の価値の内容をもっているので、イエス様も「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」(マタイ一六・二六)とおっしゃったのです。これを見れば、私という個体は全体を超えた価値的な内容をもっているということです。したがって、このような自分自身を中心として真の内容をもたずには、真の世界を成し遂げることができません。このような意味からイエス様も、個体の人格の価値をそのように評さざるを得なかった事実を、私たちは知らなければなりません。

 聖書のみ言に「義人はいない、ひとりもいない」(ローマ三・一〇)とあります。このみ言は、人間だけではどうしようもないということを意味しています。必ず神様と一致した立場で全体の中心として現れる時、言い換えれば、神様の代身存在として現れる時、真の姿、義の姿、善の姿として決定されるというのです。

 男性ならば男性一人が真の姿になったとき、男性一人で終わるのでなく、必ず真の家庭へと発展させなければならないのです。また、その真の家庭は家庭だけで終わるのでなく、必ず真の社会に発展させなければならないし、真の社会は真の民族、真の民族は真の国家、真の国家は真の世界へと発展させなければならないのです。

 したがって、世界が中心でなく、国が中心でなく、またいかなる家庭も中心ではないのです。その中心は、あくまでも私たち自身であるということを確実に知らなければなりません。

 イエス様も、生まれた時から神様の前に自信をもって立つことができる認識圏内に入ったのではありません。三十年余りの生涯を通じて、その場に入るようになったというのです。そうしてイエス様は、自らの主体的認識を相対的な世界にどのように反映させていくかという問題において闘っているうちに、十字架にかかって亡くなったのです。

 それゆえ、自我を悟ることが何よりも重要だというのです。自分の中心が動機になって、それを基準として左といえば「左」、右といえば「右」、前といえば「前」、後といえば「後」、静といえば「静」、動といえば「動」と言うことのできる主体的な認識をしなければならないのです。ですから、ある相手によって動くのではなく、主体的立場で相手を動かさなければならないというのです。

 歴史の流れの中で「私」という個人は、ある瞬間に存在するものにすぎません。数億万年の永遠の歴史過程の中で、七十、八十年の生涯を生きていく私たちの一生は、正に瞬間にすぎないというのです。

 人間が生きていくためには呼吸をしなければなりませんが、ちょうど私たちの一生は、数多くの呼吸のうちの一度呼吸するのと同じ期間に該当するというのです。したがって永遠を中心として見るとき、極めて短い期間を生きているのです。この短い期間に全体の願いを左右することができ、全体の願いの中心を決定できるというならば、この時期がどれほど貴重で重大であるかを知らなければなりません。

 人々の中で、自分のみを中心として自分の一生をあきらめる人がいます。それで自分の一生を自分勝手に決定するのですが、本来人間はそのように生きるようにはなっていないのです。一つの国の国民ならば、その国の運命と共に一生を決定しなければなりません。また自分が世界人類の一員であれば、世界の運命と共に自分の一生を決定しなければならないというのです。さらには、天の因縁をもって生きる立場にあるとすれば、天運を中心として自分の一生を決定しなければならないのです。

 個人の運は必ず、国家ならば国家、世界ならば世界、天ならば天の運と歩調を合わせなければなりません。そうして、その個人の運を必要とする家庭の運に、個人の運を必要とする国家の運に、個人の運を必要とする世界の運に、個人の運を必要とする天運に連結することができる人を、「真の生涯の路程を行く人だ」と言うことができるのです。

 生涯というのは一生のことをいうのであり、生活は一日一日のことをいうのですが、人間が真の生涯を迎えるためにはどのようにしなければならないでしょうか。真の一日一日の生活をしなければならないのです。もし一日の生活が失敗すれば、それが生涯全体の失敗の要因になることもあるのです。したがって、一日一日の生活が緊張する生活でなければならず、多くの決死的な闘いをする生活でなければならないことを私たちは知らなければなりません。

◆生涯の中心原動力

 人間の生涯の中心的原動力はどこにあるかというと、神様の愛にあります。その神様の愛の圏内で、神様の愛を吟味しながら神様の愛を謳歌し、神様の愛を厚くする生涯路程にならなければならないのです。それゆえ、人間の一生は愛で始まり、愛によって生き、愛によって終わらなければならないというのです。

 ところが、その愛が自分を中心とした愛になってはいけません。その愛は神様の愛から始まり、世界全体を愛することのできる愛でなければならないのです。このような愛をもって私たち人間は生きていかなければなりません。したがって皆さんは、み旨を愛する前に神様の愛をもたなければならないし、み旨のために生きる前に神様の愛によって生きなければなりません。

 こういう立場で、神様の前に忠孝の道理を尽くさなければなりません。ところが、神様の前に孝行者になれる時は、いつもあるのではありません。「孝行をする」と言っても、死んだのちに、霊界ですることはできません。永遠を中心として見るとき、極めて短い期間、瞬間のようなこの一生の間に神様を愛したという条件を立てなければならず、神様の前に孝行したという条件も立てなければならないのです。また私たちが生きている間に、「神様の前に絶対に必要な息子、娘だ」という決定もされなければなりません。

 今まで歴史過程を経ながら、数多くの人々がそういう価値をもった人間を追求してきましたが、神様の前に忠誠を尽くし、「神様の心情を中心として永遠不変の真の孝行の道理を立てた神様の息子だ」と言うことのできる人がいなかったのです。そういう人が今日、私たちの時代に現れなければならないのです。その人は今までにもなく、今後私たちが死んでもあり得ず、私たちの後孫の中にもあり得ない、そのような人にならなければなりません。

◆一生の価値

 世の中の人々は、「お金をたくさん持っていれば幸せだ」と言いますが、そのような幸福はただ流れていってしまいます。一時の因縁と人倫が、後代には嘆息の条件として残ることもあります。たとえこの世的な名誉や権威を得て、世の万国、万民の前に自慢することができる内容を備えた者がいたとしても、それが自分に恵みとなる条件になるのではなく、むしろ奪われる条件になることもあります。そうなれば、知識があるとしても、天上世界に行ってからその知識が恨みの条件になるし、地上でいかなる栄光の立場で暮らしたとしても、それがむしろ自分を食いちぎる条件になるのです。この地で、自ら意気盛んに言い張ってきたすべての権威意識というものも、あの世に行ってから、後代に移ってからは、自分を拘束する要因として残るのです。

 この地でどんなに良い立場で幸福を謳歌したとしても、そういう幸福の要件は、私を究極的に解放する条件にはならないことを知らなければなりません。神様はそのようなことを御存じでいらっしゃるので、道義世界を通じて神様が願う一時をはっきりと掲げて、今まで人間を追い立ててこられたのです。そうして一時を中心として、全人類が共に迎えることのできるメシヤ思想が現れるようになったのです。

 その時は、過去の人々が願った一時であり、現在の人々が願う一時であり、未来の人々が願う一時です。人類の前に中心になるその一時を、神様と天運と共にどのように合わせるかという問題について考える時、今日統一教会で迎えたこの一時が、どれほど貴重かを知らなければなりません。

 この時を合わせ違えた時には、千年の恨みが宿るかもしれないことを知らなければなりません。皆さんに与えられた生涯は、一度過ぎればそれまでです。この地上で霊肉を備えた立場で、こういう時を再び迎えることはできないからです。したがって、この人生がどれほど貴いかを皆さんは知らなければなりません。

 この期間を間違って生きる日には、永遠に破滅の道を行くようになるかもしれないのです。反面、この期間を良く収拾して神様と共に生きていく時には、永遠の幸福の基盤を迎えることができるのです。したがって皆さんは、寝ても覚めても、悲しい時うれしい時を問わず、この一時の価値を見つめながら、輝かしい生涯にしようと身もだえする人にならなければなりません。そのような人が、偉大な人なのです。

 したがって、自らの心的基準の線から落ちないように、それ以上の所に向かってきょうもあすも変わりなく、一生を経ていかなければならないのです。そうして死に達する時まで、一つの善の基準を中心として、真の姿で生きていくために最善を尽くす人がいれば、その人は恵まれた賢い人です。

 このような時に、私たちはあらゆる精誠を尽くさなければなりません。精誠を尽くすにおいては、ただ去っていく人のような精誠ではいけません。今まで歴史上に現れ去っていったすべての人々が、みな集中できるように最高の精誠を尽くさなければならないのです。

 それは、ちょうど運動競技をするのと同じです。一つの国を代表してオリンピックに出場した選手がいるとき、彼が走ればその国の国民がその選手と共に走るのです。もしその個人が、世界的な勝利を収めて栄光の場に立った時は、その栄光の場にその個人だけが参加するのではなく、その国民全体が参加することになるのです。そういう絆をもって、その国の国民がその選手と呼吸を共にするのと同様に、今日私たちは、私たち個人だけではないことを知らなければなりません。

◆真の生涯を残すために

 堕落した人類において、不幸と幸福は一つの交差点から始まりました。幸福が来る前に不幸がまず現れたのです。ここで不幸の立場に落ちた人間が幸福の立場に上がるためには、不幸の実を踏んで上がらなければなりません。そうしなければ、幸福を見つけることができないのです。

 それゆえ宗教の道は十字架の道です。その中でも統一教会は、内外共に十字架の道を歩んできました。民族の十字架を一人で背負い、世界の十字架を一人で背負って歩んできました。全人類が「悲運が宿っている」と言って逃げる場も、経てきました。そのような出来事から、幸福の時が訪れてきている事実を知らなければなりません。

 ところが、その時を逃してしまった人が多いのです。その時を完全に迎えて、神様と共に、歴史の一時と共に、宇宙史的な一時と共に勝利を称賛するようになる時、初めて宇宙的な価値が決定されるのです。したがって、皆さんが真の生涯を残すためには、真の一日を決定することができる瞬間瞬間において、どれほど誠実だったかが極めて重要な問題だというのです。

 このような観点から先生を見る時、先生のような人は歴史始まって以来一人しかいません。歴史の中で、あとにも先にもない、一度しか訪れてこない人です。そういう立場で世の中を眺めると、先生は一番てっぺんに立っています。てっぺんでこの一時を引っ張り上げて、てっぺんとどのように直線を引くかが、先生の一つの課題です。

 それが片方に少しでも傾けば、倒れてしまうのです。ほんの少し間違っても、天地がひっくり返るのです。私が決定しなければならない問題を少しでも間違えると、天地が傾くというのです。

 それゆえ偏らない歴史的勝利の基準を備えて、生活の基盤と生涯の基盤をつくらなければなりません。そのためには、歴史過程に現れたいかなる戦いよりももっと熾烈な戦いを繰り広げなければならないのです。外的な世界の問題を中心とした戦いは、死ねばみな解決されますが、これは死んでも解決できない問題です。それゆえ、真の生活の基準をどのように立てるかという問題が最も重要だというのです。

 死の交差点を前にして、そのようなすべての問題を解決しなければならないその瞬間は、真に厳粛な瞬間なのです。千年史の恨みと歴史的悲運がすべて解決され、歴史路程に勝利の旗が立てられて、光明な新しい朝が明けるということを思えば、どんなに生命が左右される厳粛で深刻な瞬間が迫っても、それをあすの希望と人類の真の生涯に代わる蕩減条件として受け入れることができるのです。

 そのためには、どんな困難も喜びとして吸収し、消化しなければならないのです。悲しみで消化するのではなく、喜びの因縁によって残し得る戦いを続けなければならないことを皆さんは知らなければなりません。そういう一時のために生きていく人の生涯には、無限な価値があるのです。私たちは、そういう生涯を残していかなければなりません。行く途中で振り返る時、埋めてしまわなければならない過去なのに、未練をもって過去に生きた地を慕うようになれば、その生涯は悲惨になるのです。

 それでは、この地に対して未練を残さない真の基準を、どのようにして立て得るのでしょうか。ありったけの精誠を尽くしなさいというのです。精誠の谷間があるならば、最高に深い谷間に入っていき、精誠の頂上があるならば最高峰に上がりなさい。そのためには、寝ても覚めても悔い改め、御飯を食べても悔い改めることができる心をもたなければなりません。

◆真の一日は瞬間から始まる

 今日数多くの人々が神様のみ旨を称賛していますが、私たちは神様が苦労された功労を称賛しなければなりません。また、私の生活においては自らの一切を忘れ、神様を中心とする私の感情と生活全体にならなければならないのです。どのようにすれば一時的でない、永遠の絆によって残ることができるのかという問題を中心として、自分の生涯を天秤で量りながら生きていかなければならないということを忘れてはいけません。

 真の生活は真の一日から始まり、真の一日は真の瞬間から始まります。したがって真の瞬間のような一日、真の瞬間のような一年、真の瞬間のような一生をどのように持続していくかということが、皆さんの生涯に残された課題です。

 ある者は自分勝手に「このように生きるのが私の一生です」と言いながら、一時しかない青春時代をむなしく送ってしまいます。そういう生活はありふれた生活であり、そのような人はサタンも嫌います。サタンも嫌うものを神様が好むはずがあるでしょうか。サタンもうらやみ、神様もうらやむ生活をしてこそ残るのです。

 では皆さんは、このような瞬間的な生涯路程において真の生活をどのように残すのでしょうか。神様は、神様の心情を中心とした真の価値とこの世界を天秤で量ってみたとき、どちらを取るでしょうか。世界を捨てて、世界を完全に忘れてその人を完全に取るようになる時とは、神様がその人に真の価値を探し出した時なので、その人に世界を与えてもかまわないのです。ですから、そのようにできる「私」の価値を決定することが重要なのです。

 今日統一教会の旗のもとに人類の歴史が、私たちを中心として記録されています。そういう過程の中で、自分が引き受けた分野においてどのようにすれば真の仕事をし、伝道ならば伝道においても、真の伝道をどのようにすべきかを考えると、その問題は簡単ではないというのです。

◆どのように善と悪が決定されるのか

 一度来て去っていけば再び訪れない一時において、無限の価値の生涯路程をどのように描いて、どのように決算すればいいのでしょうか。皆さんが出発するときには、平面上の一線を中心として出発します。しかし行く時は、分かれて行くというのです。心は良い所に向かって直線で上がりたがるけれども、体は直線のみでは行かないというのです。ある時はここに、またある時はあちらに行き、またあるときは下りていくし、ある時は上がるなど、あらゆることが起こるというのです。

 そうして地上の命を終える時は、全体の一生がプラスかマイナスかを測ってみることになります。そうしてプラスがいくらだ、マイナスがいくらだという内容によって天国行き、地獄行きに分かれるようになります。では、どんな時にプラスになるのでしょうか。問題はそこにあります。

 皆さんが一言を言っても、その一言が天地の水平線を中心として見るとき、上に上がった言葉か、下がった言葉かが決定されるのです。笑うその表情までも全部、天秤で量るのです。何気なくにこっと笑ったしても、それがマイナスの笑いかプラスの笑いかに区分されます。

 皆さんの目も同じです。見ることを中心としてプラスの目か、マイナスの目かを天秤で量るのです。耳もそうです。プラスの耳か、マイナスの耳か、そして心も同様にプラスの心か、マイナスの心かを分けるというのです。皆さんが五官の刺激を中心として考えて動く動作が、プラス・マイナスに分かれるということを考えれば深刻なことです。それゆえ、言葉だけで信じてはならないのです。「神様を愛する」と、言葉だけで言ってはならないというのです。

 どんなに不幸な人にも父母がいるのに、「知らない」と言う人はいません。また「あなたの父母はあなたのために苦労をしましたか」と尋ねられて、「苦労をしなかった」と答える人も、内心は父母が私のせいで苦労したということを認めざるを得ません。心はすべてを知っているというのです。父母が自分のために苦労したということを知らないならば、そのような親不孝者がどこにいるでしょうか。どんなに父母の心を痛めた親不孝者でも、その父母が自分を愛しているという事実だけは知っています。「愛している」ということだけは忘れることができないのです。

 同様に、皆さんが自分自身がしていることについて、良いことか間違っていることかは、心が知っているというのです。罪を犯すときも、自分が罪を犯すことを知らずに犯すのではないのです。知っていながら罪を犯すので許されないのです。世の中でも、故意に罪を犯せば許されないのです。そうではないですか。犯罪捜査をする時、主犯か、共犯か、巻き添えかというのは、故意的か受動的かによって区分するのです。

 では、親不孝だと知らずに親不孝をする人がいますか。国を売り飛ばす人は、自分がすることがどんなことなのかを知らずにしますか。すべて知っているというのです。皆さんが悪いことをする時、悪いということを知らずにするのでしょうか。知らずにすることは一つもないのです。

 ですから、知ってしたことを誰に弁解するのかというのです。自分が責任を負うのであって、誰かを恨むことはできないのです。

 歌を聞くにも善悪があります。見聞きしたり、御飯を食べたり、寝るときも覚めているときも、すべてに善悪があるというのです。戦争が起きて激戦が行われている非常時に、皆が出て戦っているのに、一人寝てばかりいてもいいでしょうか。普通の時にはいくら寝ても良心の呵責を感じないけれど、戦地に仲間が行って戦っているのに自分だけ後ろにいて戦わないならば、良心の呵責を感じるようになるのです。自らみな知っているというのです。

 皆さん自身が一生の路程を歩みながら行った、動作のすべてによって善悪が決定されます。言葉一つもそうだというのです。先生が今話していることも、どのくらい善なる言葉を話して、どのくらい悪い言葉を話しているのか全部判別されるのです。

◆皆が喜べる一生にするために努力すべし

 それでは神様はどのような方でしょうか。マイナス基準の立場に下がらない方が神様です。サタンは、どんなに努力してもプラス基準に上がることはできません。ところが人間はその中間で、引っ張られて上がったり下がったりする立場にあるのです。

 皆さんの一生を中心として見る時、生まれる時は分からないけれど、皆さんが今後霊界に行く時はマイナスがいくらで、プラスがいくらなのかを決算するようになります。では、プラスがより多くなければならないのですが、どのようにすればプラスをたくさん残すことができるでしょうか。そうするには「一生の間本当に良かった」と言えることを生涯の標本としなさいというのです。うんざりすること、悪かったことは、夢にも考えてはならないのです。良い面を中心として生涯を延長させていくことが、正に人倫道徳の生活なのです。

 では、「良かった」というその基準が私だけに良ければ、それでいいのでしょうか。国が喜び、世界が喜び、天と地が喜ぶことのできる基準にならなければなりません。天と地が共に喜ぶことのできる基準が、この宇宙間に明確にあるのです。それは神様がいらっしゃるならば、神様との関係を結ばなければならないということです。神様は公平なので、すべての人間が共にその基準をもつことができるようになさるのです。

 そのようなことができる一時とは、皆さんの生涯路程の中でいつなのでしょうか。その時を中心として下がらずに上がるために努力をしなければならないのです。その時に、十ぐらい努力したとするなら、その次には二十、あるいは百ぐらい仕事をするために熱心に努力する人は、絶対に滅びません。自分が成功したといって休む人は、より前進することができません。その成功が自分だけを中心としたものではいけません。一つの国ならば国が成功できるように努力する自分となり、自分の後孫となるならば、その民族はその国の運と共に残るというのです。

 今日統一教会員は個人が成功したといってそこで止まるのではなく、この民族の成功のために進んでいかなければなりません。そして、そこで止まらずに再び世界の成功のために走っていけば、走っていくその所まで私たちは発展して残るのです。

 今日私たちは天宙主義という思想を中心として、天と地を統一するために絶えず努力しなければならないのです。この運動が今後、全世界化されることは間違いない事実です。そのようになっていく過程で、果たして天地の前に自慢することができる皆さんになったのかというのです。

 天と地、天地において天がまず生じて、その次に地が生まれたので、縁があればいつかはそれが向かい合うのです。太陽と月が向かい合えるのと同じように、朝と夜が向かい合えるのと同じように、天と地が九〇度の角度で向かい合う時が来るはずです。その時が、最高の時だというのです。その時になって、今まで尽くした精誠をどのように残すかが重要な問題です。

 したがって、一度しかない貴重な人生を重要視しなければならないし、失った皆さん自身を探すために一日の生活を有意義に送って、瞬間の戦いに勝たなければならないということを、皆さんが確実に知るべきだということを話したいのです。

◆み旨の道を行く姿勢

 これと同じように、皆さんがみ旨の道を行くときにもいろいろな方法があると思いますが、自慢してはいけません。「君だけが立派だと思っているのか。歴史と環境がこのようで、私は今、たとえこういう立場にいても、私の世界においては誰と競っても負けない」という、それなりの何かが誰にでもなければならないのです。

 皆さんが見る時には先生の立場が良いように思われるかもしれませんが、先生の立場は危険な立場です。一瞬も安心して生きられない立場なのです。ほんの少し深い眠りに就いたとしても、覚めてから悔い改めなければなりません。御飯をおなかいっぱいに食べても、気分を良くするのではなく、悔い改めなければならないのです。良い立場にいるといって、あまり自分だけ喜んではいけないというのです。

 神様が同情して良い立場に立ててくれたなら、下を見下ろしてそういう立場にない国民と世界万民のために同情しなければなりません。上下、前後関係をいつも理解して進まなければなりません。したがって、話して行動するときに、原則を抜け出してはならないというのです。

 では、永遠に「良い」と言うことのできる立場に立つまで、どれほど多くの犠牲の代価を払わなければならないのかを考える時、今日私たちの信仰の基準と精誠の基準は、そこに当てはまる基準ではないということを知らなければなりません。もし大学以上の基準をもっていても、「自分は幼稚園の基準しかない」と言う人がいるならば、彼は一番怖い人です。

 高くなろうとする者は低くなり、低くなろうとする者は高まります。天下に功労をみな立てても、続けて功績を立てようと努力する人がいるならば、神様はその人を立てざるを得ないのです。そういう人は、自分が苦労しても「自らの苦労だ」と言わないで、それを隠す人です。

 一つの国においても、愛国者は、よく食べて怒鳴る立場の人ではありません。末端の立場でぼろの服を着て、塩の汁に麦飯を食べて貧しく暮らしながらも、その麦飯を通りすがりの外国人に見られやしないかと恐れるのです。国の威信を考えて自分の姿が表れるのを恐れ、こっそり隠れようとする心をもった人が愛国者だというのです。

 自分の国家の体面と威信は考えずに、憎み、嫉妬して面目のない行動をしてはいけません。たとえ自分がそのような姿をしていても、「国家の威信と体面を立てようとする私のような者は韓国にはいない」と言うことができ、自分の国をもう少し美しく価値あるものとして表そうと努める人が愛国者です。

 したがって、皆さんは難しい立場に入れば入るほど、み旨を中心として歯を食いしばって誓わなければなりません。死が交差する十字架の立場だとしても血の汗を流し、歯を食いしばって、自らのすべての存在意識を忘れて、決意を固めなければならないのです。

 イエス様が「アバ、父よ……どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」(マルコ一四・三六)と言って最後の三度の祈祷を捧げる時、「父のみこころ」という差し迫った峠では、この世にない力とすべての精力を傾けて語ったことを皆さんは知らなければなりません。「みこころのままにしてください」と言うとき、簡単に語られた言葉ではありません。それゆえ血の汗を流さざるを得なかったのです。この世にない力を傾けて切実に求めたのであり、この世にない決意をしたのです。

◆先生が信じることができる皆さんになっているか

 先生も同じです。それゆえ、いかなる試練が来ても、決してそれを恨んだことがなかったのです。先生は今まで何の罪もなく七回も監獄に入りました。事情の多い先生です。けれども先生はそれを避けようとしたり、後悔したことはありません。数多くの聖賢たちがこういう立場で悲観して敗北の苦汁を飲み、恨みを残して去っていきましたが、先生までそうすることはできないのです。そうであればあるほど、なお一層決意を固めてきたのです。

 今まで統一教会を信じていたのに、落ちてしまった人がたくさんいます。「人間のすべてのタイプが集まった」と言えるほど、いろいろな類型の人々がいました。私の脳裏に忘れられない人々もたくさんいます。時々、平 壌時代から今までをずっと振り返ってみると、過去に対した人々のいろいろな型が、今日ここにもいることが分かります。数多くの人間像が通り過ぎたのです。過去に先生に従って途中で落ちた人々の中には、現在皆さんが決意して走るより、何十倍も強い決意をした人々もたくさんいました。

 では、今日皆さんが「先生に死んでもついていきます」と言う時、先生は皆さんを何パーセント信じればいいでしょうか。それが先生には苦痛だというのです。一〇〇パーセント信じたのに皆さんが背を向けるようになれば、それだけ十字架を私が負わなければならないからです。神様をそのようにしか紹介できなかったことになるために、紹介した人にも責任があるのです。世の中でもそうではないですか。それゆえ、何パーセント信じなければならないかについて多くの苦しみがあります。

 過去に先生に従った人の中には、このような人もいました。「白頭山の天池までも先生に仕えて登り、そこにある磐石を研いで畑を作り、じゃがいもを植え、千年の恨みを抱いても先生に仕えて、世の中がみな変わっても自分は変わらない」と言った人がいました。そのように誓った人もみな流れていってしまいました。

 皆さん、ペテロについての話をたくさん聞いたでしょう。「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(マタイ二六・三三)と誓いましたが、鶏が鳴く前に三度裏切ったペテロでした。

◆難しい時神様と縁を結ばなければならない

 それゆえ真の生活、真の生涯を残すことなくしてついていくことのできない道が、この道です。霊界に行けば、自らの一生がそのまま明かされるようになっています。私が幼い時はどうして、育つ時はどうしたという内容が、全部表れるのです。

 こういうことを見る時、天上世界の人や、今後数多くの子孫もうらやみ、涙を流して自慢せざるを得ない貴い生涯を残していく人は、偉大な勝利者だというのです。そういう勝利者になるために、真の生涯を残すと覚悟して進んでいく皆さんにならなければならないのです。そのためには一瞬一瞬、必死の決意をする皆さんにならなければなりません。

 そうして皆さんは、神様が今まで探してこられた利を無意味になくす人になってはいけません。これは千年史にも換えることができず、億千万金を与えても換えられない価値をもったものです。この世をすべてなくして、探したものをすべて逃しても、これだけは絶対に逃さないと誓う皆さんにならなければならないのです。私の生命がなくなっても、これだけは残していこうともう一度誓いながら、ありったけの精誠を尽くして進まなければなりません。

 皆さんには一度しかない七十、八十年の生涯だということを知らなければなりません。私たちの生涯において苦労の路程がどんなに長いといっても、永遠と比較すれば息を一度吸う時間にもならない、ほんの瞬間なのです。けれども、永遠とはどんなに永いでしょうか。

 この世界圏内では、私が呼吸する回数もみな計算できます。一時間に何度休んで、一日に何度休んで、一年に何度休んで、十年に何度休んで、一生の間何度休むということを計算して出すことができる期間だというのです。この短い期間を生きるのに、嘆息して生きてはなりません。すべては瞬間です。この世にいる間、み旨のために歯を食いしばって進まなければなりません。長いといえば長いのですが、それは一時です。

 自分を自ら無慈悲にむち打って、難しい立場を乗り越えなければならないのです。耐えていくことができる自分になるために、そのようなことをたくさんしなければなりません。そのようにして神様と絆を結ばなければならないのです。難しいとき絆をよく結んでおけば、うれしいときは「結ぶな」と言っても結ばれるのです。普通人々はうれしいとき絆を結ぼうとしますが、そういう絆は瞬間的な絆で終わってしまうのです。

 お互い生死を懸けて相手が死ぬか、私が死ぬかという境地でも、お互いに「私が死ぬ」と言い張ることができる立場、すなわち生命を互いに交換できる立場に立つことができなければなりません。死の道を同伴して困難を共に経た人々は、うれしいときに絆を結ぶことなど考える必要がありません。困難なときに結んだ絆とうれしいときに結んだ絆は、その味が違うというのです。

 同様に私たち統一教会も、難しいときに神様の前に近い人になろうというのです。神様が私個人と私の家庭と私の国と世界のために困難に直面していらっしゃるので、私自身も家庭のために、社会のために、国家のために、世界のために困難を受けようというのです。

 「神様、私しかいません。私がこの仕事をするために生まれたので、神様に困難があるときは私を呼んでください。夜昼かまわず呼んでください。どこでもついて行きます」と、このように言わなければなりません。「自分がする」と言う人が誰もいなくても、神様がいつでも呼びさえすれば一人でも「はい、はい」と言って、力強く立つことができる人になろうというのです。そのような人は絶対に滅びません。

 では、統一教会は誰と困難に遭おうというのでしょうか。神様を中心としてこの国と共に困難に遭おうというのです。正にそれが先生の主義であり、神様の主義です。そのようなとき皆さんはどのようにしますか。皆が困難に遭っているのに、「私でなくてもする人がいる」と言ってさっと人に任せて、機会だけ得ようという人になってはいけません。

◆苦難の道の開拓者になって真の生涯を残そう

 この道を行くためには愚かでなければなりません。忠臣は、別の見方をすれば愚かな人です。少し間抜けに見えて、熊のような性格があるのです。熊や 猪 は銃に打たれて邪魔になる部分があるときには、その部分を口でかみ切って逃げるのです。そのような愚かな何かがなければならないというのです。忠臣、烈士は愚かでなければなりません。少し足らないところがなければならないというのです。

 ステパノのような人も三十歳にもならない若い時に、何ゆえに石をぶつけられながらも神様の前に「彼らの罪を赦したまえ」と言ったのでしょうか。イエス様も同様に、どれほど物悲しく哀れだったでしょうか。

 それゆえ、利口な忠臣はいないというのです。利口な忠臣は日和見主義の忠臣です。盲目的な忠臣は、無知で愚かで、熊のいとこのような人です。

 統一教会の人は、そのような人にならなければなりません。私はごみとして消えてもいいという心をもって、神様が谷間を埋める埋立て工事をなさる時に、「一番初めのシャベルに注がれる土にしてください」と言えなければなりません。そのようになれば、一番下に埋まることができます。

 では、この世界で一番苦労を多くしなければならない団体は、どの団体でなければならないでしょうか。苦労の王にならずには喜びの統一を始めることができません。孤独な十字架を喜びの立場で謙遜に背負おうとする者が、忠実な人なのです。

 こういう観点から見る時、国家の友人になり得る人とはいかなる人でしょうか。国家の困難に責任を負おうとする人です。世界の友人になり得る人とはいかなる人でしょうか。世界の困難に責任を負おうとする人です。神様の友人になり得る人とはいかなる人でしょうか。神様の困難に責任を負おうとする人なのです。

 真の道は、喜びの道にあるのでなく、受難の道にあるのです。真の人は「受難」という二字を消化し、克服することを生涯の哲学として、変わらない心をもって生きていく人です。世界の苦難の道に独りで責任を負い、夜も昼も、誰が見ても見なくても、自らの幸福をそこで探そうと身もだえする人がいるならば、その人はすぐに世界の忠臣になることができるというのです。

 このような人が真の生涯の路程を残すということを知って、皆さんもこれからそのような道を歩むことを願います。喜んで迎えてくれるほほえみのあとには悲しみが来ることもありますが、お互いにまず悲しみに打ち勝とうとする姿勢で、手に手を取って、あすの希望の国と、あすの希望の世界のために決意して行くとき、初めて喜びの世界へと伸びていくことができるのです。

 皆さんと先生が共に決意をして世界を抱いていくようになるとき、私たちの悲しみによって世界に笑いの花が咲くはずです。このような道を開いて、このような道に責任をもっていく人こそ、真の生涯を残すことができる人だということを知って、この道を避けずに直行していく皆さんになってくれることをお願いします。

















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