文鮮明先生のみ言集
訓教経(上)


真の父母

一九六九年九月二十一日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第二十五巻』


 神様の復帰歴史の中心は世界でもなく、いかなる国でもなく、いかなる特定の氏族や民族でもありません。神様が共にすることのできる、すなわち、神様が立てることのできる国が存在する前に、その国を代表できる民族がなければなりません。

 このような民族が存在するためには、その民族の中心になることのできる氏族が存在しなければならず、氏族が存在するためには家庭がなければならず、その家庭が存在するためには父母がいなければなりません。この父母を探し出すために、神様は今日まで個人復帰の摂理歴史をなしてこられました。結局、すべてのものが終結する帰結点がどこかというと「父母」だというのです。

◆真の父母は復帰摂理の起点

 今まで流れてきた歴史の過去と現在を注意深く見てみると、大きな国、小さな国が数多く存在し、群小民族もたくさん存在しました。また宗教人の家庭も数えきれないほどたくさんありました。しかし、その国が神様の求めている国になれず、その民族が神様の求める民族になれず、その家庭が神様の求める家庭になれませんでした。その家庭や民族や国はすべて流れていってしまったのです。

 神様のみ旨の中で永遠に残る一つの家庭、その家庭を通して永遠に残る一つの氏族と一つの民族、一つの国家を立てるためのものが今まで収拾してきた復帰摂理の歴史でした。このように収拾して、一つの家庭を全体の代わりとして愛することのできる一日を探してきたのが、今日まで神様が苦労してこられた歴史なのです。

 では、ある国を立て、民族を立て、氏族を立て、家庭を立てたとしても、国と民族と家庭まで収拾してきたそのすべての苦労を忘れてしまえる一つの基準を決定するものとは何かというと、家庭でもなく、いかなる兄弟でもなく、正に「父母」なのです。人類の真の先祖の基準がここで決定されずして、神様の愛の結実が結ばれることはないのです。また、神様の今までの闘いを終結させ、最後の勝利をも誓うことができないのです。そして、神様が願われた希望の起点も決定づけることができないのです。このように、神様の愛を中心とした家庭を立てるにおいて、新しい出発をすることのできる起点が「真の父母」であることを私たちは知らなければなりません。

 それでは、こういう立場に本来誰が立たなければならないのでしょうか。堕落していないアダムとエバが立たなければなりませんでした。神様の望みはアダムとエバを中心として見るとき、アダム個人に、あるいはエバ個人にもありましたが、それよりももっと願われたのは、その二人を中心として一つの父母の立場を決定づけることでした。それが神様の創造理想であり、神様の創造目的なのです。

 それでは、四位基台の起源になる場とは、どのような場でしょうか。アダムとエバが一つになる場です。そのように育ってきたアダムとエバが一つの愛によって結ばれて、互いに愛することのできる出発の起点を成し遂げるその場は、人類の先祖が備えるべき最初の場でした。そのような場で神様の愛を中心として、誰も切り離そうとしても切り離すことのできない一体的な愛を成し遂げていたなら、そこから人類の真の父母は間違いなく出発していたでしょう。

 しかし、人間が神様の願うその基準と一致できずに食い違ってしまったために、すなわち、私たち人類の先祖が失敗したために、その道にすっかり破綻が生じてしまったという事実を私たちは知らなければなりません。それがある外部の事情によってなされたのではなく、内部の問題、すなわち愛を中心として引っ掛かったために、それを正すというのは歴史にない苦労をしても極めて難しい問題だというのです。

 ゆえに今後これを解決するためには、数多くの民族と数多くの国家がお互いに背を向けて分かれたものを結んでいかなければならないのです。それでは、結ぶにはどうしたらいいのでしょうか。一度にすべて結んでしまうことはできません。そのため、一つの国家を形成するために、国家を代表できる一つの氏族、その氏族を代表できる一つの家庭、その家庭を代表できる一人の真の男性と真の女性を立て、外的に分かれたものを本来の姿にすべて結ばなければならないのです。

 言い換えれば、アダムとエバの代わりに人類の本来の父母になる基準を代表できる男性と女性の二人を立てなければなりません。彼らを通して本来の基準に向けて逆に結んでいかなければならないのですが、このようにすることが大変難しい事実であることを皆さんは知らなければなりません。

◆蕩減復帰摂理歴史の難しさ

 今までの歴史は蕩減復帰歴史です。蕩減復帰歴史の中には数多くの家庭が動員され、数多くの氏族が動員されました。また数多くの国が動員され、経ていきました。しかしいつも、どのような家庭もどのような氏族も、どのような民族もどのような国家も、天のみ旨と一致した時は一度もなかったのです。いつも神様を悲しませる条件を立て、いつも神様を失望させる結果を結びました。

 それで、数多くの家庭と氏族、数多くの民族と国家に対してこられた神様の悲しみが今日まで残っているのです。このような悲しい事情をいつ解消できるかということが、復帰途上において極めて難しい問題としてあるのです。

 それでは、世界に散在している数多くの国家を見る時、その中に神様が探そうとされる国があるとすれば、その国とはどのような国でしょうか。またその国の代わりになることのできる民族とはどのような民族でしょうか。またその民族を編成できる氏族とはどのような氏族であり、その氏族を成すことのできる一つの家庭があるならば、その家庭はどのような家庭でしょうか。神様の立場で考えてみるとき、これは簡単な問題ではありません。

 歴史を通して人類はサタンと一体になって、サタンと別れようにも別れることのできない血縁関係を結んできました。これは切ろうにも切ることのできない縁であり、切っておいてもまた結ばれてしまう因縁です。このような運命の中に人類は置かれているのです。

 こういう死亡圏内にある人類を収拾し、神様と一致できる一つの家庭基準を決定づけるということが何よりも難しいという事実を知らなければなりません。一つの国家基準をつくったとしても、その中で神様が立てることのできる氏族を、氏族の中でも神様が立てることのできる家庭を、家庭の中でも神様に代わることのできる人類の真の父母の基準を、この堕落した世界で探して立てるということがどんなに難しくて大変なことかを皆さんは知らなければなりません。

 今日、この地球星にはキリスト教の名前をもつ、キリスト教圏内の国家がたくさんあります。あるいは数多くの氏族や家庭があります。しかし神様が「私が設定してきたそのような家庭や国がこれだ」と言える基準とは、あまりにも遠い立場にあるというのです。

 私たちの習慣化された生活を見ると、大韓民国ならば大韓民国が天の前に祝福を受けられる圏内に立ったと言えるかもしれませんが、祝福を受ける国だと断定することは難しいというのです。今日すべての国がそうした立場に立っているのです。この地に数多くの国家がありますが、一国家を標準として尋ねてこられる父の心情とは距離があまりにも掛け離れているというのです。言い換えれば、高くて尊い神様のその偉大な創造の偉業と、悪の現実的な世界の舞台とはその距離があまりにも掛け離れているのです。

 では、その遠い距離を誰が埋めるのでしょうか。これを誰が蕩減するのでしょうか。これが問題です。いつも神様の側では、この問題を解決することが苦痛でした。これは自然には埋まりません。ここは必ず数多くの民族や国家に代わって、蕩減の祭物を提示しなくては越えることができないのです。

 ところがその国家、民族がこの蕩減の条件を知り、すべてを蕩減し得る条件を提示できるかといえば、そうはできないのです。それなら、その仕事を誰がしなければならないのでしょうか。神様がしなければなりません。神様が彼らの前に蕩減条件を提示して、その距離を短縮し埋めてくるしかないのです。このように闘ってきたのが六千年の復帰摂理歴史なのです。

 したがって、皆さんは神様が願う特定の国を建てたとしても、そこには必ず六千年という長い歳月の歴史的な蕩減があったという事実を知らなければなりません。そうした蕩減の内容を備えた国があるとしても、立てる時のその基準と、その国の行く期間が十年ならば十年、二十年ならば二十年、あるいはみ旨が成される時まで、いつも一つになって進むことができるだろうかとを考えてみるとき、そうはできないというのです。

 今まで歴史路程において人間がいつもそうだったように、ある民族ならば民族も、やはり神様と一致して神様の歴史的な距離を埋めていくのを協助する立場に立つことはできなかったのです。その民族が何年、何カ月の期間はある因縁の中で一つになれるかもしれませんが、数十年間一つになるということは極めて難しいことなです。

 例えば、神様が建てた国であるにもかかわらず、その国が神様のみ旨と一致すべき期間に共に歩調を合わせていくことができなければ、その国は完全に滅びるようになるのです。

◆真の父母を探し出そうとするみ旨

 では、この滅びるしかない国の運命を支えるために、神様はどのようにしてこられたのでしょうか。一つの特定の民族を中心として、その国家の距離を埋めるようにしました。また、その民族が埋めることができなければ、その民族の中でも特定の氏族、例えば金氏ならば金氏、朴氏ならば朴氏をして民族が埋められなかったその距離を埋めるようにするのです。しかし、この氏族が神様のみ旨に代わることのできる国家と、その当時の国家との距離を埋めることにおいて責任を全うすることができなければ、その氏族の中で特定の家庭を中心として、氏族が埋められなかった距離を補充するようにしました。したがって、氏族の責任を代わりに果たすことのできる特定の家庭を立てなければならないのです。そして立てたその家庭が責任を果たせなくなる時には、それを延長していくことのできる一つの基準を残さなければなりません。ではその残すべき基準とは何でしょうか。「父母」の立場に立つことです。

 神様が今日まで復帰歴史を成してこられるにおいて、最終的な目的はどこにあるのでしょうか。「真の父母」にあります。真の父母を求めるのは真の家庭を代表するためであり、真の家庭を求めるのは真の氏族を代表するためであり、真の氏族を求めるのは真の民族、真の国家、真の世界を代表するためです。このように発展していくのです。

 これを逆に見ると、世界を代表しては国家が祭物にならなければならないし、国家を代表しては民族が祭物にならなければならないし、民族を代表してはある特定の氏族が祭物にならなければならないし、その氏族を代表してはある特定の家庭が祭物にならなければならないし、その家庭を中心としてはある特定の代表的な立場に立った人が祭物にならなければならないのです。結局どこに帰結するのかというと、「父母」に帰結するというのです。

 ゆえにこの「父母」は歴史の動機になることができ、すべての国家形成の出発点になることができ、すべての民族編成の起源になることができるのです。ですから、神様はこの起源になることのできる父母を中心として、復帰摂理歴史をつづってこざるを得ないのです。

 もし国と民族を失ったとしても、真の父母の基準を中心とした家庭が完全な基盤の上に立っていれば、その家庭を中心として氏族、民族、国家を新しく編成できるのです。したがって、全体をすべて失ったとしても、そのような内容を再編成できる起源になる基準、言い換えれば、人類が願って進む希望の一起点になることのできる立場がどこかというと、正に真の父母の立場だというのです。

 本来アダムとエバは、永遠に変わらない家庭の父母になり、氏族、民族、国家、世界を形成しなければなりませんでした。しかし、アダムとエバが堕落したことにより、これを成し遂げることができなかったので再び探して下りてきて、新しい角度からこれを編成しようというのが今日までの六千年の歴史です。

 こういうみ旨の中で、このような使命を終結するために来られた方とは誰でしょうか。イエス・キリストです。そのイエス・キリストは何を代表して来られたのでしょうか。蕩減という内容を中心として世界を代表して来られ、国家を代表して来られ、また民族と氏族を代表し、家庭を代表して来られました。このようにイエス様は全体を代表し、全体の中心として来られたにもかかわらず、イスラエル民族はイエス様に、そういう方として侍らなかったのです。

 誰一人として国家の代表として信じることができなかったし、民族の代表としても、氏族の代表としても、さらには一つの家庭の代表としても信じた人がいなかったのです。しかし、神様がイエス様を送られたのは全体の代表として、全体の中心として立てるために送られたのです。それにもかかわらず、そうした使命に耐えられる環境をもち得なかったイエス様の困難がどれほど大きかったかを、私たちは知らなければなりません。

◆イエス様の望み

 イエス様が望まれたのは一つの国であり、一つの民族であり、一つの氏族と家庭でした。そして、その家庭の起源になり得る「真の父母」が望みでした。ところが、真の父母を決定するには一人の女性が問題になったというのです。

 その女性を探してくるには、ただ引っ張ってくることはできないのです。普通の一人の男性が一人の女性を迎えるといえば、いつでも迎えられますが、イエス様が一人の女性を迎えるには、縦的な環境や横的な環境で自由に迎えることのできる立場にならなければならないのです。

 その女性を迎えるためには、イエス様が国家的な代表の基準を立てなければならず、民族的な代表の基準を立てなければならず、氏族的、家庭的な代表の基準を立てなければならないのです。その当時までの四千年の歴史の摂理の内容と一致できるすべての条件を懸け、これを完全に蕩減したという条件を立てることなくしては、イエス様は一人の新婦を迎えることはできないのです。

 聖書を見ても、イエス様は新郎として来られたので、そのイエス様の前には新婦がいなければならないことが分かります。ところが、その新婦は平面的であり、横的な基準でただ一人の男性の前に一人の女性として登場してはなりません。一つの国家を代表し、一つの民族を代表し、一つの氏族を代表し、その氏族を中心とした数多くの家庭を代表する、そのような基準の前に立った女性でなければならないのです。

 それでは、そうした代表的な女性とは、どのようでなければならないでしょうか。娘の立場では、娘の中の娘にならなければなりません。また妻の立場では、烈女の中の烈女にならなければならないし、数多くの母親の中で、その誰よりも神様の心情に代わることができなければなりません。

 ではイスラエル民族の中に、そのような女性がいたのかといえば、そのような女性はいなかったのです。ゆえにイエス様が行かれた道、イエス様がこの地で三十余年の生涯を経ていったその道を回想してみるとき、その道はこのようなすべての内容をもったイエス様と共に、人類の罪を蕩減し得る一人の女性を探し出すことであったので、それが問題にならざるを得なかったのです。

 また、そうした女性は、どのような女性でなければならないでしょうか。必ず歴史的背景を中心として、神様のみ旨に合わせていく女性でなければなりません。そうでなければなりません。イスラエル民族、あるいはイスラエルの国の前に、なくてはならない歴史的な背景をそろえなければならないのです。

 またその女性は、自らが国を代表することができ、民族を代表することができ、数多くの家庭を代表することができ、数多くの女性を代表し得る特定の内容を備えなければなりません。それを決定せずには、蕩減復帰の基準を超えられないのです。言い換えれば、全体の中心になる父母の基準を決定づけることができないのです。

 今日までの歴史は、蕩減復帰の歴史です。この歴史は、喜ばしい歴史ではなく悲しい歴史です。この悲しい歴史の中には数多くの国家が巻き込まれ、数多くの民族と数多くの氏族が巻き込まれ、数多くのイスラエルの家庭が巻き込まれています。

 このように、悲しみによってつづられてきた歴史の結果として残った世界の数多くの国家と民族、数多くの氏族と家庭であるため、このすべてを代表し、立ち上がることのできるその女性は、ただ単調な女性ではいけないのです。そのような特定の内容を備え、それに責任をもち得ると決意をした女性でなくてはならないのです。言い換えれば、心の中に数多くの国を、数多くの氏族を、数多くの家庭を代表できる特定の内容を備えた女性でなくてはならないというのです。

 そして、その女性はそうした決意と自信をもって、歴史的なすべての男性を代表して来られるイエス様と一つにならなければなりません。それは一人の男性として来られるイエス様を国家ならば国家を代表でき、民族ならば民族を代表でき、氏族ならば氏族を代表でき、家庭ならば家庭を代表できる一人の男性として信じ、彼と一つにならなければならないという意味です。そのようにできる基準が設定されずには、復帰された家庭を中心とした真の父母の因縁を決定づけることはできないのです。

◆キリスト教の使命

 このようなことについて考えてみるとき、イエス様が選んだ十二弟子と七十門徒は、内情的な問題を根本的に解決する基盤になったのではないことが分かります。イエス様は彼らを動員して、民族を代表し、国家を代表できる一つの男性的な垣根をつくろうとしたのです。そうして、その基盤の上に一つの結実体として自分を連結しようとしたのです。このために歴史的に責任を果たすことのできなかった多くの男性を再現し、その時代に平面的に展開した代表的な型が、十二弟子と七十門徒です。

 イエス様を中心としてその十二弟子と七十門徒が完全に一つになれば、歴史過程で失敗した、その時代時代ごとに蕩減できなかったすべての男性の失敗が蕩減されるのです。

 そのため、イエス様は彼らと完全に一つになり、歴史的な失敗を収拾できる実体的な圏を横的につくらなければなりません。完全に守りの堅い城のような垣根をつくり、サタンが攻撃しようにも攻撃することのできない一人の男性としての勝利的基盤を決定づけなければならないのです。その垣根の使命を担わなければならないのが誰かといえば、十二弟子であり、七十門徒なのです。

 このような基盤、すなわちこのような背景の上に強固に立って、前に話したような女性を探して母親の基準をつくらなければならないのです。そのためには歴史路程で闘ってきたのと同様に、一代の闘いを経なければなりません。このようにしなければならない内的な事情がイエス様にあったという事実を、その時代の十二弟子や七十門徒は知らなかったのです。

 ですから、イエス様はこのような環境の基盤を一度ももつことができませんでした。そのようにすることのできる一人の相手も見つけることができず、そのような内情を伝えることのできる一人の弟子も見つけられないまま、三十余年の生涯を送り、結局十字架にかけられて亡くなったのです。

 そのように十字架で亡くなったイエス様なので、恨があるとすれば、その方には誰よりも多くの恨があるはずです。神様が四千年間の歴史をつづってきながら苦労した上でイエス様を送られ、一つの時を迎えるようにしたにもかかわらず、神様が望まれたすべての内容が根本的に破綻してしまいました。また、イエス様は神様が男性の歴史としてつづってきた四千年の歴史に一つの勝利的な基盤を立てるために来たにもかかわらず、それを立てられずに逝かざるを得ませんでした。そのようなイエス様であったので、その事情がどんなに痛々しいものであったかを私たちは知らなければなりません。

 イエス様は自分一人死ぬことは何でもなかったのです。自分一人死ぬことによって四千年という長い歳月、男性を通して役事してきた神様の摂理がすべて水の泡になるという事実をより悲しまれました。自分が死ぬその悲しみよりも、神様の摂理が失敗に帰する悲しみをより大きく感じ、内情的に深く悲しまれたイエス様でした。皆さんはそのようなイエス様の心情を知らなければなりません。

 しかし、イエス様は自分は死んでも歴史的なすべての基盤をもう一度収拾するのだという信念と決意と覚悟のもとで、十字架の道を堂々と突破したので、神様の心情と一致点をつくることができ、霊的に弟子を再び収拾することができました。これで第二の垣根をつくり、今日男性を中心としたキリスト教歴史を再編成できたという事実を皆さんは知らなければなりません。かくして霊的な基準を中心として、今日まで二千年間、数多くの殉教の歴史を経てきながら発展してきたのがキリスト教の歴史です。

 では、キリスト教の歴史を中心として考えてみるとき、キリスト教は漠然とした国家の理念圏内にあるのではなく、ある特定の民族を再び立て、イエス様の当時に解決できなかったすべての内的な問題を再現して完全に解決しなければならないのです。そのような蕩減路程が残っているのです。ですから、終わりの日には特定の国家が問題にならざるを得ないのです。

◆真の父母の垣根になるべき祝福家庭

 今日、統一教会の理念を中心として真の父母と因縁を結んだ家庭が増えました。今まで祝福を受けた家庭は多いのですが、この家庭は何をしなければならないでしょうか。その家庭において男性は、来られる主の前に絶対的な男性を代表でき、歴史的な恨を連結することのできる相対的な基盤にならなければならないのです。

 また、今までの歴史過程において女性は、神様の摂理路程に登場した時がなかったのです。ですから横的に平等な立場で女性が、神様の摂理路程の前に登場できなかった、その歴史的な恨を解く代表者として登場しなければなりません。

 そのように登場できる特権的な恩恵を受けるようになったのは、彼らが祝福を受けた家庭だからです。ですから、男性の前で女性は全体の女性を代表し、過去から今までつづってきたすべての縦的な歴史を横的に蕩減し得る内的な垣根になり、それを家庭に連結し得る一つの力にならなければなりません。

 したがって、一家庭が回って入っていくとすれば家庭全体が回って入っていかなければならず、その家庭が回って出てくるとすれば全体が回って出てこなければなりません。言い換えれば、ある男性とある女性を中心として回って入っていっても、その家庭全体が真の父母の前に連結されなければならないし、その真の父母を中心として回って出ていったとしても、その家庭全体が民族に代わることのできる家庭の基準にまで立たなければならないというのです。そうでなければ完全な蕩減復帰はできないのです。

 こういう観点で、先生は今まで六千年の歴史過程において全男性を代表して祭物になってきたのですが、祭物の中でも最高の祭物にならなければならないのです。その立場はある特定の個人的な立場ではありません。いかなる家庭や氏族、また民族だけを代表した立場でもないのです。世界を代表し、歴史を代表した立場で祭物にならなければならないのです。

 今日まで歴史過程には、数多くの男性が来ては去っていきました。神様はアベルからノア、アブラハム、モーセ、洗礼ヨハネ、イエス様に至るまで、多くの男性を中心として役事してきました。しかし、先生は彼らより内的にも外的にも、あるいは縦的にも横的にも優れていなければならないのです。彼らに対する時、恥ずかしい立場に立ってはならないのです。すなわち、すべての男性を代表して世界的な結実にならなければならないのです。そうした立場に立たずには、蕩減復帰を完全に成し遂げることができないのです。

 では、統一教会とは何をする所でしょうか。統一教会は統一教会自体を発展させる使命よりも、統一教会を指導する先生と一体になるという使命が大きいのです。各自の責任よりも、先生と一体となることが何よりも重要な責任です。先生と一つになり得る基準が決定されずには、自分を中心とした責任は完遂できないのです。

 したがって男性ならば、男性である先生を中心として完全に一つにならなければならないのですが、一つになるには自らの事情や立場、すなわち家庭ならば家庭で自分が置かれている環境が問題になってはなりません。そのすべての環境を超えて、完全に一つになった立場に立たなければならないの
です。

 一つになったその場には、いかなる間隔もあり得ません。何ものもこれをかき散らしていってはいけません。完全に一致した基準でなければなりません。

 また女性ならば、女性である母親を中心として完全に一つにならなければなりません。女性は女性自体によって立つことができないので、必ず母親を中心としてその基盤の上に立たなければなりません。ゆえに女性の皆さんと、母親は完全に一つにならなければなりません。そうしてこそ女性として成さなければならない自らの責任が完遂されるので、女性は必ず母親を中心として一つにならなければならないのです。

◆先生の使命

 本来、歴史は男性と女性を中心として接触してきました。したがって、男性と女性は一つの起点で連結しなければなりません。その連結は「真の父母」という内容を中心としてなされなければならないし、その「真の父母」は歴史の起源として出発しなければなりません。言い換えれば、アダムとエバを中心として歴史が出発していたなら、永遠の結果の世界まで伸びていくはずでした。これが駄目になってしまったので、歴史の起源を再びつくらなければならないのです。

 ですから、歴史の起源を再びつくるために、繰り広げられた歴史を収拾しなければならないのですが、そのためには真の父母の因縁を中心として一人の男性と一人の女性を必ず結んでおかなければなりません。そうでなくては新しい歴史時代へと越えていくことができません。これが今日皆さんが現実的にしなければならないことです。

 先生の責任は、真の父母の因縁を決定づけることです。これは今まで誰も考えることのできなかった重要な使命です。したがってこれを決定するために、女性はどのような女性にならなければならず、男性はどのような男性にならなければならないのでしょうか。すなわち、先生自身はいかなる父にならなければならず、お母様はいかなる母にならなければならないのでしょうか。

 この問題を解決せずしては国の問題も、世界の問題も、天地の問題も解決されません。したがって、この問題が最も重要な問題になるのです。ここから完全な勝利を決定づけなければ、すべてが水の泡となり、神様の摂理はまた延長されるのです。

 二人の方が一つになるということは簡単でありません。一人の男性と一人の女性が会って一つになるということは簡単な問題ではありません。ここには歴史的なすべての問題がかかわっています。

 今日、アメリカと韓国を中心として見るとき、二国家間には合わせようにも合わせることのできない数多くの内容があります。すなわち、文化が違い、歴史が違い、社会のあらゆる組織が違います。この違った環境が、そのまま一つになるのは難しいのです。一つになれない事情が多いのです。ところが、これよりももっと難しいのが蕩減内容がかかわっている問題、すなわちこの二人が一つになる問題だということを皆さんは知らなければなりません。

 ここに深い穴があるならば、その深い穴はいかなる穴よりもより深いはずであり、山があるならばその山はいかなる山よりも高いはずです。それは私たちの平面的な視覚で見るものではなく、心情世界で見ることのできる高い山頂と深い谷間だというのです。ここで平地にする基準をどのように立てるのでしょうか。その基準が立てられる時が真の父母がこの地に因縁を整えて登場する時であり、その時までの歴史は、悲しみの歴史なのです。人類史にこのような蕩減路程が隠れているというのです。

 このような点から考えてみるとき、神様が内情の中にアダムとエバを中心として成し遂げようとなさった願いの意味を、アダムとエバは知らなかったというのです。また、アダムとエバの堕落以後、悲しみの歴史を四千年間つづってきましたが、その歴史過程の数多くの人たちも知りませんでした。

 四千年が過ぎたのちイエス様が来られ、天に代わって一人の男性として一人の女性の手を取り、歴史的なすべてを解怨成就しなければなりませんでした。しかし、神様のみ旨を抱いて進むにおいて直面しなければならなかったイエス様の内的な苦しい心情を、イエス様の弟子でさえ分からなかったので、イエス様は他の誰にそのことを話すことができたでしょうか。誰にも話すことができなかったというのです。

 ですからイエス様が「わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか」(ルカ一二・四九)、「わたしが地上のことを語っているのに、あなた方が信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか」(ヨハネ三・一二)、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなた方は今はそれに堪えられない」(同一六・一二)と嘆いたのです。それは、そういう内情があったためです。ところが、こういう内情があったという事実を、今までの歴史路程では誰一人として知らずに来たのです。

◆真の父母が行くべき道

 今日の先生も、そうした内情を知らずには蕩減歴史を成すことはできないのです。では、その内情を皆さんに打ち明けて議論しなければならないでしょうか。そうではありません。それは父母の責任です。父母が間違ってしまったので、父母になれる人だけが解決しなければならない問題なのです。それは難問題として幾重にも重なり合い横たわっていますが、外的には見えないのです。

 しかし、内的に見れば世界的に交錯した多くの事情が内在しているので、ここに内在しているすべての事情を蕩減していく道が、真の父母が行かなければならない道なのです。

 今から二千年前、イエス様もこのようなみ旨を繰り広げようとしました。しかし、み旨を繰り広げることのできない実情をあまりにもよく知っていたがゆえに、十字架にかからなければならないと宣告を受けた時も、それを難なく越えるのだという決心をすることができました。神様もその環境ではみ旨を打ち立てることができなかったために、イエス様を死の道に追いやらざるを得なかったのです。そのような事情が今日の統一教会の深い所に隠れているという事実を、皆さんは知らなければなりません。

 それは表面に現れた統一教会の外的な面を見て知ることもできますが、統一教会の背後には現れることのない歴史的な、悲惨な歴史が内的に陣を張っているという事実を知らなければなりません。

 それでは、今後統一教会員が行かなければならない道とはどのような道でしょうか。真の父母の門に通じる道を行かなければなりません。どちらにしてもその門は通らなければなりません。そうせずしては、新しい氏族として、新しい生命体として現れることができません。皆さんがその門を通るにおいては、その深い谷間の内情をどのように体験するかということが問題になります。それは、あの世において価値を決定することのできる重要な内容になるからです。

 皆さんは先生を「真の父母」と呼んでいますが、その言葉が意味する深い谷間の内容は知らないでいます。しかし、皆さんは真の父母があらゆる人の憧憬の対象となったときには、同時に受難の結実体でもあるということを知らなければなりません。言い換えれば、この地上で十字架の途上に蕩減の祭物として捧げられたものの中で、最高の祭物として登場した方々だというのです。このような悲しい事情を抱えてその悲しみの峠を越えてこそ、父母の立場が完全に決定されるのです。

◆誰もが行くべき七年路程

 原理を中心として考えてみるとき、祝福家庭はいかなる基準にあるでしょうか。アダムとエバが長成期の完成級で堕落したために、復帰路程にあっても、父母によって復帰して入っていく祝福の起源となる所は長成期完成級です。ここで祝福を受けるのです。また祝福を受けたのちに、そこから完成段階の基準に立とうとするなら、七年という期間を経なければなりません。この過程は先生自身も経なければならないし、皆さんも経なければなりません。私たちはみな、この過程を経なければならない共同の運命にあるのです。

 したがって、皆さんがこの道を行くにおいて恵み多き道とはどのようなものでしょうか。夜でも昼でもいつでも、死線を越えて自分が完全に父の前に順応できるという道を見つけることです。その道さえ見つければ、他のいかなる道も行けるようになります。その道は自分の夫も遮ることができず、自分の妻も遮ることができません。なぜならその道は、各自が行くべき道だからです。

 完成した立場に立つまでは、アダムとエバがそれぞれ個人として行かなければならない道なのです。ですから、この道を行くにおいては妻も制裁できず、夫も制裁できないし、息子や娘も制裁できないのです。この道を行くにおいては息子、娘もいないし、夫もいないし、妻もいないというのです。

 人間すべてがこういう過程をたどらなければならないので、今日まで修道の道を行くすべての人々が深い無我の境地になり、神霊的な体験をするようになると必ず分立の役事がなされるのです。すなわち、そのような人がある夫の妻であるとすると、その夫を分立する役事が起こり、そのような人が夫であるとすると、その妻を分立する役事が起こります。また、そのような人が父母の立場にあれば、息子までも分立する役事が起こるというのです。なぜそうなのでしょうか。原理がそのようになっているためです。そのようにせずしては、その道を行くことはできないのです。

 ですから堕落した圏内で歩むその道は、家庭に干渉して進む道ではありません。すべてを捨てていかなければなりません。このような道を行くべき歴史的な運命が宗教に残っているために、今日まで数多くの修道者が独身生活をしたのです。正にこの一つの時を越えるために数千年間、修道者たちは独身生活を強調してきたのです。ですから、皆さんは七年路程を行かなければならないのです。

 それでは、こういう路程は誰が行かなければならないのでしょうか。父母が行かなければならないのです。アダムとエバが長成期完成級で堕落したために、父母がその道を行かなければならないのですが、誰を中心として行かなければならないでしょうか。男性ならば男性を、女性ならば女性を中心として行くのではなく、完全に神様を中心として行かなければならないのです。どんなにここで祝福家庭の形態を整えるとしても、その家庭の形態は一人の男性、一人の女性を中心とするのではなく、神様を中心としたものでなければなりません。

 もしみ旨から外れるようになる時には、お互いがどんなに近いとしても、その近い要素を除去して越えることのできる立場に立たなければなりません。この道は、女性的事情や男性的事情をお互いが提示して、それを公正な立場で通過させては行くことのできない道です。完全に天の側に偏って行かなければならないのです。

 また、そのような家庭において、一人の男性が主体であるとすると、女性はその前に絶対服従しなければなりません。ここでは、男性と女性を中心としてカインとアベルの立場と同じ内容が起こるので、男性がアベル的立場に立てば、カイン的立場の女性はその前に絶対服従しなければなりません。ここに異議があってはなりません。異議があればその分、支障を来たすようになるのです。神様はこういう役事を今日までしてこられたのです。

 先生が経てきた七年路程も、こういう過程をたどってきたのです。こういう過程を経て、初めて実体的な勝利の条件を立てたのです。この七年路程は蕩減条件を中心として経なければならないので、この期間の間、先生は国家を中心として数多くの民族に対して闘ってきました。また数多くの教団とも闘ってきました。

 ここで勝利の条件を決定し、彼らを屈服させた基盤の上に父母の基準を決定しなければなりません。そののちに「神の日」を宣布することができるのです。このように「神の日」は国家、民族を復帰した基盤の上に立てられなければなりません。

 七年路程を経て行く間にアダムが主体になったのと同じように、お母様は必ず先生を中心として完全に一つにならなければなりません。

 それでは、真の父母の立場とは、どのような立場でしょうか。アダムとエバが神様を中心として完全に一つになり、サタンの讒訴圏から抜け出した立場です。サタンが讒訴することのできる内容を残さないで、完成基準を越えた立場に上がってこそ初めて、真の父母の起源が生まれるのです。これが原理的見解で見た、真の父母の起源なのです。しかし、その見解に相当する立場は、簡単に手にすることのできるものではありません。

◆祝福家庭の責任

 先生は統一教会のこのような内的な問題を中心として、一九六八年一月一日を期して「神の日」を宣布しました。言うまでもなく、この日のある前に「父母の日」、「子女の日」、「万物の日」を設定しました。このように条件をみな立てたので、「神の日」、「父母の日」、「子女の日」、「万物の日」を設けることにより、歴史的な新しい出発をするようになったのです。統一教会で新しい、歴史的な人類の出発をしたのです。このようにして今日まで歩んできました。

 それでは、皆さんはどうなるのでしょうか。これを知ろうとするならば、まず祝福家庭はどこまで上がってきたのかを知らなければなりません。祝福家庭は、長成期完成級まで上がってきました。ですから祝福家庭は、そこから出発しなければならないのです。そこからは主体ならば主体、すなわち男性ならば男性が絶対的な信念をもたなければなりません。これは父母を中心として、男性ならば男性として完全に一つになるべきだという意味です。

 父母と完全に一つにならないで、夫婦だけで一つになってはいけません。夫婦だけで一つになろうとするならば、各自が完全に一つの根に接ぎ木されたあとに一つにならなければなりません。父母と一つになったその場には、理由があり得ないのです。父母の命令だというときは、「死ね」と言われれば死ぬこともできなければなりません。生死の境地を自由に往来できる決定的な意識を常に自覚せずには、この道を越えることができないのです。

 イエス様は十字架にかかって死ぬ時、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにでなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と祈りました。それは、死を越えるという意識観念が確実に立っているからできる祈りなのです。そこではサタンを除去することができます。死にしがみついて闘うならばサタンが屈服するのです。

 このような点で考えてみるとき、今日家庭をもった男性は、先生と完全に一つにならなければなりません。ここには罪の観念がないのです。完全に一つになり先生の分身として、主体的な立場で出発しなければなりません。この時に対象である夫人は、主体と一つになり、その前に絶対に順応しなければなりません。

 それでは、今まで祝福を受けた家庭の中で、自らの生活を中心として見るとき、「天の前に残ることができる」と言える家庭が何家庭くらいあるかというと、一家庭もないというのです。皆さんは今、このような難しい問題に遭遇しています。けれどもこの道は、行かなければならない道です。したがって皆さんは、家庭を中心として夫婦が完全に一つにならなければならないのです。

 しかし、自分たちだけで一つになることはできません。夫婦が一つなるためには、必ず家庭を中心として進まなければなりません。また、この家庭が残ろうとするならば、氏族のために進まなければならず、氏族と連結できる根本的な因縁をもたなければならないのであり、このような根本的な因縁をもつためには三人の息子が必要なのです。

 縦的な基準なしに家庭が一つになっては、横的な基準が連結されないのです。また、横的な基準が連結できなければ、家庭を中心として氏族的な縁も結ぶことができません。したがって、家庭的な内的基準を決定する立場に立とうとするなら、必ず外的な基準で自分の代わりに闘ってくれる人を補強しておかなければならないのです。

 今日、世界は、サタン世界と天の世界の二つに分かれています。祝福家庭は、残されたサタン世界を吸収しなければなりません。そのためには、カイン的な立場で天の側に反対してきた私だったので、これから天の側を支持する立場になり、天の側を反対する天使長の立場に立っている人々を屈服させ得る私にならなければなりません。そのようにせずには蕩減できません。今までこのような内容で闘ってきました。

◆真の父母の基準

 真の父母の基準点は、特定の一人の男性です。その男性は六千年の復帰摂理歴史の過程で、すべての国家ならば国家、民族ならば民族を中心として、その過程で失敗した数多くの男性を代表し、勝利の決定権をもたなければなりません。

 このような絶対的な基準を立てた土台の上に、一つの相対的な基準を立てなければなりません。言い換えれば、エバがサタンに引っ張られていくことによって失ったものを、すべて再び探し出す役事をしなければならないのです。アダムを通してエバが造られたのと同じように、その男性の相手が再度造られなければならないのです。

 先生は、そうした闘いを今までしてきました。皆さんも祝福を受けようとするなら、必ずこの基準を越えなければなりません。その基準を越えるにおいて、七年路程は避けていくことができません。この七年の峠は誰にでもあります。

 先生が今日まで生涯を捧げて闘ってきたのは、この峠を越えるためでした。これが今日までの四千年歴史に該当するのです。本来はイエス様の時にこれを連結し、七年路程を行かなければなりませんでした。ところが、そこに行くことができなかったために二千年延長したので、これをまた再現して、その四千年の歴史に該当する歴史的な蕩減路程を歩まなければならないのです。

 先生は復帰原理を通してイエス様についての内容と、聖書の中の未知の事実をすべて解明しました。そして、アダム家庭からノア家庭、アブラハム家庭、モーセ路程、そしてイエス様の時代まで一番深い所を掘り起こしていきました。

 したがって皆さんは、広げれば大きいけれど、手に握ろうとすれば一握りにできる網と同じように、心情的な基準の前に一握りにし得る内容を積み上げて進まなければなりません。それを積み上げて悟るだけでなく、それを条件として提示して、サタン世界で勝利を決定しなければなりません。したがって、サタン世界で統一教会が問題にならざるを得ないし、数多くの霊通人にも先生が問題にならざるを得ないのです。

 また、先生は四千年の歴史の中のたくさんの高地をすべて平地にし、心情的基準を中心として神様との関係を勝利的な関係として立てなければなりません。ところでこれを先生が立てて、何らの支障もない内的決定をしておいたので、今日世界史的な蕩減路程を決定づけることができるのです。

 先生があることに決断を下せば、その決断は世の中だけでなく、霊界にまで影響を及ぼすのです。そういうことは霊通した人々に聞いてみれば、みな分かります。外的世界だけでなく霊的世界までもぴったり合うというのです。ですから四千年歴史の中のすべての深い谷間を埋め、高い山頂を削って平地にしなければならないのです。

 神様は今まで、数多くの私たちの先祖に対して悲しんでこられました。数多くの私たちの先祖に裏切られ、排斥されました。しかし先生は、そのようなあらゆる事情の深い谷間より、もっと深い谷間に入っていきました。先祖が入っていけなかった深い谷間まで入っていき、神様を慰労してあげることのできる立場に立ちました。そのため、先生の一言の慰労が、六千年の間に地上に来て去っていった、数多くの人々に対する慰労を代表できる基準を立ててきたということを知らなければなりません。

 ところが皆さんは、そのような事実をよく知らずにいます。この基準を体験するためには霊的体験がなければならず、霊的体験をしようとすれば、祈祷しなければなりません。祈るだけでなく、必ず怨 讐の世界に入っていって闘わなければなりません。祈るだけでは駄目なのです。み言を中心として正しいことを求め、命を懸けて闘うことのできる信念をもたなければならないのです。

 こういう観点から統一教会を見るとき、皆さんが知っているそれが全部ではないことを知らなければなりません。ここには幕を破って入っていった深い谷間があり、皆さんが歴史過程で感じられない深い内容があるということを知らなければならないのです。

◆神様を中心とした国家の形成

 神様は今日まで、国家から民族を、民族から氏族を、氏族から家庭を、家庭から父母を立てるために逆さに収拾してきました。時になるまで二千年間、キリスト教を中心としてこの仕事をしてきました。これから時になるにつれて、キリスト教を中心とした国家がつくられ、その国家の中で一つの氏族がつくられ、一つの家庭がつくられるのです。このように一固まりにする歴史は、百二十年の期間を中心として成されるのです。

 したがって、現在の世界的な発展は、百二十年間のうちに左右されるのです。この期間の中でも四十年期間が問題になり、この四十年期間を中心として進む時には、七年期間が問題になるのです。そのようにあらゆることを外的につづって六千年間繰り広げてきたものを、すなわち縦的に広げてきたものを、今は横的に全部収拾しておかなければならないのです。

 これを収拾しようとするなら一つの特定の国家と、特定の民族と、特定の氏族と、特定の家庭を立てて、世界史的な代表として個人を立てなければなりません。そうして皆さんの側に縦的歴史を横的に立てて収拾しなければなりません。そのために神様が六千年間、世界のキリスト教国家圏をつくったのです。

 ですから、時になってくるにつれて、この国家圏では歴史上にあったあらゆる失敗を再現し、天使長の立場で蕩減しなければなりません。これが国家、民族、氏族、家庭、個人の歴史にならなければなりません。こういう歴史をつづっていくためには、再び来られる真の父母が存在しなければなりません。その真の父母は、歴史上初めてこのような問題を解決して行かなければならないのです。

 家庭を中心として先生がいつも感じることとは何かというと、私の家庭しかないということです。先生の家庭しかないのです。

 先生の家庭は家庭の代表にならなければならないし、氏族、民族、世界の代表にならなければなりません。今日までの復帰歴史はこれを成すための歴史です。これはアダム家庭、ノア家庭もみな同じです。歴史の発展とともに、家族的な次元を世界路程の中心に連結していくのです。

 皆さんがどんなに成功したとしても、その成功が自分一人だけの成功になってはいけません。そのような成功によっては何も収拾できないのです。また、皆さんがどんなに神様のために忠誠と栄光を捧げたいといっても、自分が動機になっては絶対にいけないのです。

 皆さんの中に「私がみ旨の前に忠誠を尽くして、今後すべてを天の物として捧げよう」と思っている人がいるでしょう。皆さんがここで注意しなければならない点は、動機が誰になっているかということです。私が誰による自分であるのかということが問題です。あることをする時、その動機が誰になっているかというとき、動機が皆さん自身になってはいけません。神様にならなければならないのです。

 また天が動機になって出発したことの結果が、自分になってはなりません。そのようなことを三回以上繰り返す人は、行く道がふさがれるのです。道がふさがれて力をなくすと、絶対に道を再び見つけ出すことはできせません。新しい動機の条件を探して、入っていかなければならないのです。

◆神様が共にされる時と場所

 神様は時になる前に、必ず準備させます。軍隊が危険な時に対応して練習するのと同じように、また国家が国民を総動員して緊急事態に備える練習をさせるのと同じように、今後決定的な大きな時の来る前に、必ず練習時間があるというのです。練習は神様が率先してさせるのではありません。その期間、神様は完全に離れています。なぜなら、堕落の決定はアダムとエバがしたからです。

 それでは、いつ神様が共にいてくださり、いつ同情してくださるのでしょうか。完全に「私だけが残りました」という立場に同情してくださるのです。二人ではなく、一人残った立場です。誰も言い表すことのできない、極めて孤独な立場に入っていかなければなりません。抜け出す穴もない、そのような立場にまで入っていかなければならないのです。一つの峠を越えるたびに必ずそのような立場があるというのです。

 真の父母が行かなければならない道は簡単ではありません。家庭の十字架を背負って、氏族、民族、国家、世界の十字架を背負っていかなければなりません。これが、真の父母が行かなければならない運命の道です。

 また、この道は神様が協助して越える道ではなく、一人で越えなければならない道です。イエス様が十字架を背負って越える時、神様が協助して共に越えたとすると蕩減にならないのです。したがって、神様が顔を背けている立場で一人で越えなければならないのです。一人で越えなければならない道が、こんなに難しくて退屈な道だというのです。

 責任を負った人が行かなければならない運命の道とはどのようなものかを、皆さんはよく知りません。ところで、この道を行く過程では必ず三角圏内に入っていくようになるのですが、この三角圏内に入っていくようになれば、どこへ行くべきでしょうか。後退することは簡単です。しかし、責任を完遂するのが難しいと自暴自棄になり、後退するならば完全に滅びるのです。

 ですから、どうしてでも行かなければなりません。ここで後退すれば必ずサタンが接近するようになっています。皆さんがこの道を行くにおいて、難しくて息が詰まるような時がたくさんあるでしょう。その峠を越えようとするなら、このような作戦をよく知らなければなりません。そして、これを知っているとしても、ここには死を覚悟して闘うべき問題が残っているということを忘れてはならないのです。
















SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送