文鮮明先生のみ言集
訓教経(上)


一心統一

一九七〇年一月十一日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第二十八巻』


 何事であれ、「出発が良ければすべて成就される」ということを私たちは知っています。「終始一のごとし」というのは、いつでも私たちの社会が要求することです。歴史の過程でも、このような過程を経てこそ、より優れた成果をもたらすことができたということを、あらゆる事柄を通して見ても確認することができます。

◆目的を成就するためには一心が必要

 「一心統一」、すなわち「一つの心で、一つの統一を成そう」ということです。これは、ある国家の主権者がいれば、その主権者も願うことであり、ある団体があれば、その団体も願うことです。またこれは、ある制度を実行しようという人がいれば、その人も願うことです。心が統一されずには、その制度を通して成就させようとすることは成就できないのです。

 この一心統一は、私たちの人生において一日の生活から、一年の路程、さらには一生の路程で必要であり、全歴史路程を見ても、必ずある目的に向かって進行する過程で、絶対的に必要であるという事実を私たちは否認することができません。

 各個人が一日の生活を営むにも、朝家を出る時は一つの心であるのに、夕方帰宅する時は二つの心に変わっていれば、一つの目的を成就することはできません。このように見ると、今日私たちが生きているこの社会、今皆さん自身が接している生活環境が、一心になった環境を備えているでしょうか。そうでないことを私たちは知っています。皆さん自身も、一日のうちにも、心の方向が様々に変わるのを感じるでしょう。

 心が変わるから行く方向が変わるのであり、行く方向が変わるから目的が変わるのです。心が変わり、一つの目的を達成する、これはあり得ないことです。心が一つになっても目的を達成するのは難しいのに、二つの心をもって一つの目的を成就させるということは、なおさらあり得ないことです。

 このようにあらゆることを見てみると、一つの心が必要なのです。朝の心、昼の心、夕方の心が一つにならなければならず、幼年時代の心、中年時代の心、晩年時代の心が一つにならなければなりません。このように誰でも一つの心をもって始め、一つの心をもってその過程を開拓し、一つの心を中心に結束した結果を追求する、その期間が長ければ長いほど、その人の願う目的も大きいでしょう。

 私たちは一つの心をもたなければなりません。ある目的を追求するにも、一つの心をもたなければなりません。一つの心を離れては、その目的を成就することはできないのです。神様が天地を創造されるときに、二つの心をもって創造されなかったということを知っています。一つの心から始まり、一つの目的を達成するためには、一つの方向を整えた過程を経なければならないようになっているにもかかわらず、今日人間は一つの心の形態を整えられずにいます。

 大韓民国であれば、大韓民国の人が生きていく方向が異なり、各国の政策が異なり、その社会の思潮が異なり、今日現世の社会を構成する思想が異なります。このすべてが一つになっていません。千態万状の背後を中心として、その因縁を通して現実的な社会環境や制度の結果が、千態万状にならざるを得ないのです。このように数多くの動機によって数多くの結果が結ばれるために、必ず歴史はその結果の一致点を追求しなければならず、それでこそ歴史の目的が成されるのは当然の結論です。

 このように歴史は必ず一つの目的を指向して出てくるため、数多くの主義、思想が収拾されて、一つの目的とする世界に帰結されるのは、必然的な結果であるといわざるを得ないのです。

 このような一つの目的の世界に帰結されるのは、偶然な結果として成されないのです。これは誰もがその形を変形させることはできず、その方向を取り戻せない一つの原因と一つの過程を通して、一つの目的とするところの世界が成就されると見るのが、正常的な観であるといわざるを得ないのです。

 それゆえ、一つの世界を追求するその背後においては、絶対的な要因と一つの一致点が成されずしては、一つの世界を成すことはできません。すなわち、一致したその起源によって過程を経て、その過程が世界化できる因縁を経て、一つの世界を成せるという結論を出すことができるのです。

◆幸福の起源

 では、今日の世界思潮を大別してみると、どのような世界観になっているのでしょうか。物質的世界観と精神的世界観になっています。言い換えれば、唯物史観と唯心史観が対立しています。この物質的な面と精神的な面が対立した立場で、一つの中心に行くことができるでしょうか。これは不可能なのです。人についても見てみると、体と心からできています。心というものは、私たちの現実的なことをもってしては、分析、処理できません。物質的な環境や内容で観測しては、一つの結果を出すことができないのが、心の世界であることを私たちは知っています。

 この心の世界は、具体的な内容をもっていないようですが、それが物質的な世界を管轄しているのです。高次的な内容を備えた内的な原則を通して、物質世界を分析することはできますが、物質的なことをもってはその次元に及ばないため、心の世界を分析したり、解決することはできないことを私たちは知っています。

 このような過程から見ると、この世界は二つの世界に分かれています。では、二つの世界に分かれたままで永続できるでしょうか。もし、人類が二つの世界に分かれた状態で永続するなら、悲惨であるといわざるを得ません。これが一つの帰結点をもたなければ、一つの目的を達成できません。一つの目的を達成できない限り、その人や国、世界において、幸福あるいは平和はあり得ません。二つの間に相反する要因を残しておいては、幸福というものはあり得ないのです。

 一つの家庭を中心として見ても、家庭で夫婦がお互いに相反する立場を固守していては、その家庭に平和はあり得ません。必ず主体的な立場の一つの中心を基準にして、その中心と相対が一つにならなければならないのです。主体と対象の関係において、誰が中心にならなければならないでしょうか。主体が中心にならなければなりません。対象は主体を中心にしなければならず、主体の前に自分を連結させなければなりません。それでこそ、自分が対象としての目的を成就できるのです。

 ところが、主体が対象の立場に立って行ったり来たりすれば、一つの目的を成就することはできないのです。このように見ると、一つの家庭で目的を成就しようとするなら、その家庭の夫婦が一つにならなければならないのです。

 では、一つになるには何を中心として一つにならなければならないのでしょうか。夫であれば夫、あるいは妻であれば妻を中心として一つにならなければなりません。世界に行ける心と一致した人を中心として、その近くに立てば立つほど、その家庭は世界の歴史に残ることができるのです。そうなればその家庭は、その国の運命と、民族の幸運を確約する起源になるというのです。そのように見ると、二人が相克、相反する立場では、幸福はあり得ないという事実を知ることができます。

 社会が一つの形態を整えられないことを心配しますが、それは根本的な問題とは距離が遠いのです。家庭が一つの形態を成せないことも、直接的な問題にはなりますが、根本的な問題ではないのです。それよりももっと根本的な問題はどこにあるのでしょうか。自分自身にあるのです。自分自身が一つの心に従って生まれたかということが問題です。自分自身は一つの心に従って過去から生きてきて、この時代を生きているか、また、未来にまでも一つの心をもって生きられるか、ということが問題にならざるを得ないのです。

 皆さんが「幸福だ」と言うとき、幸福というその言葉は、勝利した過去をもっているときに言える言葉です。現実には中心的な立場を決定して、世界なら世界の前に永遠に残ることができ、全存在の前に、あるいは万有の存在世界の前に、中心として立てるのに不足がないといえる立場で幸福が保障されるのです。そして、現実においてだけでなく、未来においても永遠の喜びになり得なければなりません。過去、現在、未来において、一致した内容であることを保障され得るところで、初めて幸福の起源になり得るのです。

 過去の勝利の決定的基準をもつことができなければ、過去から今まで経験してきたすべてのことが、相反する要因として残されるのです。その相反する要因が、現在自分が立っている所より大きく、範囲が広くなれば、それはいつでも主体的な要因になるのです。

 現実においても同じです。中心より相対的な環境とすべての条件が優勢になるときは、その中心は優勢なものに吸収されてしまいます。また、未来の起源を準備しなければなりません。それだけではなく、未来の世界の内的な核心になることができ、中心になり得る確固とした基礎を準備しなければなりません。未来の世界が現在の幸福の基準で眺めるより、さらに大きくなるとき、その幸福は完全なものです。過去の心、現在の心、未来の心が行ったり来たりすれば、その目的が成就されないのです。

◆真の成立

 私たちはある人を見るとき、「その家系は良い家柄のようではない」と評します。それは、その人が過去を反映する立場で生まれたからです。その人を見て、その家柄を評することができ、またその人を見て現在を評することができ、その人を見て未来を観望できるのです。このような観点で、自分自身は過去の延長であり、現在の集約であり、未来の出発体になるのです。

 このような点から見ると、幸福というものが、過去の勝利の中心になり、現在の勝利の中心になり、未来の新しい出発になるのです。言い換えれば、幸福になるためには、過去も一つであり、現在も一つであり、未来も一つにならなければならないというのです。このような意味で、真というものを追求するのです。

 歴史上に現れた聖賢たちは、歴史の過程で生まれて亡くなった、その誰よりも真なる人です。では、真というものはどこで成立するのでしょうか。真というものは、未来でのみ成立するものではなく、現在でのみ成立するものでもありません。真というものは、過去でも真でなければならず、現在でも真でなければならず、未来でも真でなければなりません。真というものは環境を超越したものです。真なる人は、過去にも中心であり、現在でも中心であり、また未来においても中心なのです。このような立場において、真なる人が成立するのです。

 では、人間世界で真に近いものとは何でしょうか。今まで数多くの人々が生まれて死にましたが、最も真に近いものとは何かというと、相対的に現れた師匠よりも、父母よりも、真の母体を成し得る存在とは、まさしく自分自身なのです。

 では、自分に最も近い真の相対は何でしょうか。それは自分自身の心、つまり良心です。私たちはよく「あの人は良心的だ。あの人の心はまっすぐだ」と言います。「心がまっすぐだ」というのはどういうことでしょうか。歴史は直行します。ですから、過去もまっすぐで、現在もまっすぐで、未来もまっすぐでなければならないのです。

 過去が曲がったために、現在も曲がり、未来においても曲がる可能性があります。私たちはそのような因縁を革新してしまい、心が直行できる所に行かなければなりません。直行は二点を中心として連結される線です。その二点とは何かといえば、原因と結果です。その原因は何からできているのでしょうか。一つの心からできています。

 では、その結果とは何でしょうか。一つの心です。言い換えれば、一つの心の土台を通して、一つの目的を描いていく過程の現象的な表示が、一つの直線なのです。

 それゆえに、幸福も真の立場で成立するのであり、神様の摂理も真の立場で進行するのです。しかし、この真が問題です。この真の中では、真なる自己が必要です。その真なる自己になれなかったために、教育を通して修養したりしているのです。ですから、今日の諸般の教育制度は、人間改造という問題を中心として組まれたものであり、それを中心として今まで革新運動をしてきたのです。ところが、その真の立場がまだ決定されていないのです。

 その真を決定できるものとは何でしょうか。それは私たち人間が要求する、通り一遍の目的とは相反するのです。通り一遍のものではありません。絶対的なものであると同時に、中心的な内容なのです。それは何でしょうか。お金でしょうか。違います。

 幸福は、経済的なものだけをもっては論議することができません。いくら世界を一つのこぶしで統一した英雄がいたとしても、彼が幸福を謳歌しようとするなら、権威をもって自分が成した世界的な舞台を眺めるとき、その心にあふれ出る喜びが世界の理想にならなければなりません。そうでなければ、幸福を謳歌することはできません。その喜びが自分一人だけの喜びではなく、必ず最も近い人が、その目的成就を自分以上に喜べる立場に立つようになるとき、初めて幸福が起こり得るのです。

 今までの歴史過程について見れば、歴史は闘争史でした。一国について見ると、為政者が閣僚を中心として国の政策をうまく樹立し、目的を成就した立場に臨むようになるとき、その政策が成就されることを中心として、国全体が為政者以上に喜ぶことのできる基準になっているか、その国においてその政策が成功することを称賛し、喜ぶことができるかというと、その現れる現象は千態万状だというのです。

 幸福の要件は、外的な立場で追求するものではありません。その人が成した幸福を、自分以上の幸福として考えられる相対的環境が四方に整うようになるとき、その幸福は永遠に保障されるのです。

◆父母の愛が必要な理由

 そのような立場は、何によって成立するのでしょうか。外的なもので成されるのではありません。社会制度によって成されるのでもありません。それは心情、すなわち愛によって成されるのです。その愛は急変的に現れるのではありません。過去から出てくるのです。その愛は現在に連結され、未来にまで連結されるのです。

 では、その愛の絶対的な中心とは誰でしょうか。人ではありません。人は絶対的な中心になれないのです。人々は絶対的な善を願うために、絶対的な中心に置かれることのできる愛を追求せざるを得ません。私たちはこれを、「神様の愛」と言います。

 世の中でも、外的にあまりに不出来な息子がいたとしても、父母はその息子を愛するのです。善し悪しの外的な条件を超越するのが父母の愛です。いくら不具者の父母だからといっても、息子を愛するのは絶対的です。ですから、父母の愛が必要なのです。

 では、なぜ父母の愛が必要なのでしょうか。それは父母が、過去の因縁に代わり得る愛のよりどころだからです。その基盤の上に立ってこそ自分が愛の息子となり、また愛に接ぎ木できる立場に入っていくのです。

 ですから、父母がいない人は不幸だというのです。言い換えれば、父母の愛によって、過去の因縁と勝利の立場を、私たちが父母から引き継ぐことができるのです。父母の愛をたっぷり受けたということは、過去のことをただそのままもつことができるということです。

 ですから、父母の愛を受ける息子がいれば、彼は、老いて死ぬまで父母の愛と運命を共にするのです。父母から相続された遺品があるとき、その遺品は、老いて死ぬまで一緒にあるのではありません。そのような外的なものは消え失せてしまうのであり、すべてなくなってしまいますが、父母と因縁を結んだ愛というものは永遠なのです。外的な立場が悲惨であれば悲惨であるほど、その中に深く染み込んで、より一層一つになることができ、それ以上の因縁をもつことができるのが愛です。

 過去の勝利を決定できるものとは何でしょうか。それは世の中の権威でもなく、物質でもありません。それは絶対に父母の愛です。ですから、父母の愛を受けた人は、何だか分からなくても現実において十分に咲き始めるのです。現実において満開になります。自然に祝福の手があるのです。反面、何だか分からずに内的欠陥、すなわち心情的欠陥をもって育ち、萎縮した環境で育った人は、四方から尊敬され得る忠臣、烈士になれません。

 では、今日の全般的な世界の情勢を見てみると、全世界に現れた欠陥の原因はどこにあるのでしょうか。今日、この文化世界を創建したこの社会組織に欠陥があるというだけでもありません。これを動かす人に欠陥があるというだけでもありません。では、何のためでしょうか。心情的な欠陥のためです。心情的な欠陥が社会に及ぼす影響によって、欠陥が形成されるのです。これは自他が公認するところです。

 このような観点から私たち自体を中心として見ると、どのように父母が私たちを愛したか、その愛と一致できる子女になったか、ということが問題になることが分かります。このような問題が、家庭の幸、不幸を決定する絶対的な要因になります。夫婦が幸福に暮らしているといっても、その息子が父母の心情と一致しないときは、不幸を造成するしかないのです。息子と娘がいれば、息子だけが父母の心情と一致しても幸福にはなれません。娘も一致しなければなりません。

 では、過去、現在、未来が連結され得る最小限の基準とは何でしょうか。それは家庭です。家庭は世界の縮小体と同じです。そこでは過去と現在と未来が連結するのです。それはどういうことかというと、家庭にはおじいさんとお父さんと息子が共存するのです。父親がおじいさんの位置になれば、自分が父親の位置になって息子、娘をもつようになります。おじいさんから父親、自分の三代が一つにならなければなりません。すなわち、過去、現在、未来、この三つの因縁が一つにならなければなりません。そのような家庭は、世の中がいくら揺れたとしても、揺れる社会の侵犯を受けずに、幸福の基盤をもつことができます。

◆一つの心を成就できる所

 では、私という個体はどのような存在でしょうか。自分が自分自身を創造して生まれたのではない、ということは誰も否定できません。これを問い詰めていけば、私たちの父母、その父母の父母、またその父母の父母、最後には人間始祖の父母まで上がっていきます。すなわち、人間始祖であるアダムとエバにまで上がっていきます。

 アダムとエバ自体を見てみると、アダムとエバが自分たち自身生まれたくて生まれたのであれば、自分が自分自体を創造することができるかもしれません。しかし、そのような存在ではなく、どこまでも自分は結果的な存在です。

 人間の個体について見てみると、心と体は相対的な関係になっていますが、心は体を主管しているのです。それゆえ、神様と私たちの心が一つにならなければなりません。これが問題です。

 このような観点から聖書で、アブラハムの神様、イサクの神様、ヤコブの神様といったのです。統一原理の観点から見てみると、第一アダム、第二アダム、第三アダムを通してこそ完成されます。過去、現在、未来に通じることのできるその基準に立たなければなりません。過去の勝利を決定し、現在の勝利を決定し、未来の勝利の基盤を完備してこそ、ここで一つの新しい世界が出発するのです。

 では、今まで流れてきた歴史はどこへ行くのでしょうか。皆さんが押し進めていくか、通り過ぎていくかということが問題になるのです。また、今後来る世界はどうなるでしょうか。皆さんが越えていくのでしょうか、押し進めていくのでしょうか。これが大きな問題になるのです。流れいく歴史過程において、この世界に従っていくか、つまりこの世界を中心として行くか、未来の世界を中心として行くかということが問題になります。

 この世界を中心として行くようになれば、希望がないのです。それゆえ、私たちは誤った歴史過程を脱皮しなければなりません。それを脱皮するには、人間自らはできません。そうすることのできる動機がなければなりません。そうすることのできる動機には、誰がならなければならないでしょうか。人間はなれません。そこには本来原因であられる方、すなわち神様が動機にならなければなりません。では、原因であられるその方と、今日の私たち人類との一致点とはどこでしょうか。これが宗教が追求する目的であり、また良心が願う目的なのです。

 では、その一致点とはどこでしょうか。自分という個体、すなわち個人に帰るのです。個人に帰れば、個人の一致点とはどこでしょうか。心情問題に帰るのです。その心情の谷間に下って、父母の心情を経て祖先代々に下りていくと、愛し残したかった基準があります。その愛し残したかったものとは何でしょうか。自分の生命体です。自分の命が連続するのです。言い換えれば、息子と娘を中心として直系に続くのです。直系を分析してみると、何をもってつながっているのでしょうか。同じ血と肉でつながっています。同じ血と肉だけでつながってはいけません。同じ情を引き継がなければなりません。問題はこれです。

 では、同じ情を継いだ所とはどこでしょうか。同じ血と肉を継ぎ、同じ情を継いだ所とはどこかというのが問題です。これを失ったのが歴史的な恨です。これを探し出すことは宇宙的な課業です。この課業を解決するためのものが神様の摂理であり、この目的を達成するためにイエス様が新郎新婦の理念を説いたのではないでしょうか。

 では、皆さん自身においては、神様とつながる所とはどこでしょうか。この歴史の中心です。皆さんは歴史の中心に入り、神様と因縁を結ばなければならないのです。ですから、将来来る世界を自分自身がすべて迎えることができる、さらに世界が自分に向かってくるようにできる立場に立たなければなりません。来る世界と、流れていく世界がぶつかるようになるとき、来る世界が、流れていく世界を収拾しなければなりません。それなら、問題はどこにあるでしょうか。心情的な一致点です。今日の複雑多岐なこのような環境で、一致点をどこでもつのでしょうか。一つの心をどこで成すのでしょうか。それはすべて、心情で成すのです。

◆心情哲学の必要性

 そのような意味から、今日の統一教会が心情哲学を提示するのです。哲学には多くの分野がありますが、神様の心情はその全体的な分野を内包しています。したがって、堕落した人間は帰らなければならないのですが、どこに帰らなければならないかというと、神様の心情に帰らなければなりません。現在の立場が不正確な立場にあるため、帰ろうとしても帰ることができないのです。では、行くことのできるただ一つの道とはどこでしょうか。現在の立場から見ると、模索可能な道は、未来に向かって行く道よりも、過去に戻っていく道のほうがもっと早いのです。未来へは、行けば行くほど、高く険しい山が幾重にもふさいでいるので遅れます。

 帰るには、どこに帰るのでしょうか。昔の父母の懐に帰らなければならないのです。自分が幼いとき、何も知らずに無邪気に父母の懐に抱かれて愛された時期、その時は万事が思うようになりました。そのような立場に戻るためには、私たち人類の祖先の心情を経て、神様の心情を求めて戻らなければならないのです。

 その神様の心情とは、どのようなものでしょうか。真なる心情です。それは過去を引き継ぐことができ、現在を引き継ぐことができ、未来を相続できるのです。そこがどのような所かといえば、主体的な愛がある所です。

 ですから、偉大な方は愛を教えました。偉大な方は神様の愛を中心としました。神様の愛を中心として生きなかった人は、歴史的な聖賢になれませんでした。人間社会を中心とする人々は、その時代において偉人伝に記録され得るほどの偉人になったとしても、聖賢にはなれませんでした。聖賢は必ず、天地の人を中心として愛を論議できる人だけがなるのです。皆さんは、「あ!
 彼はこれくらいだから、それで聖賢の場にいるんだな」ということを知るでしょう。

 では、神様は人間をどのように愛したのでしょうか。神様を中心として、その神様の愛を受けたと主張する人がいるでしょうか。神様の真の愛を受けたという人がいれば、その人は神様の息子であるに違いありません。そうなったら、歴史を否定しようとすれば否定できたでしょうが、その事実だけは否定できないのです。現実以上の事実として主張できる内容をもったでしょうか。天国に行くことができ、理想世界に行くことのできる理念をもった宗教とは、いかなる宗教でしょうか。その愛の内容を中心として現実を審判でき、現実を押し進めていける主体性をもったでしょうか。愛、すなわち神様の愛を中心とした体 恤的な内容をもったのでしょうか。これをもたずしては、現実化された宗教といえども、永遠にこの世に残りません。この現実を凌駕し、この現実を消化できる愛を体恤しなければ、神様の愛を受けられないのです。

 では、皆さんが神様の心情を中心として、いつ神様を愛しましたか。また、神様は誰を愛したのでしょうか。歴史過程において誰を愛したのでしょうか。神様の愛は永遠なものであるため、その愛を受けたものは永遠に残されなければなりません。

 私たちの心が慕うことのできる、すなわち次の世界において欽慕の対象となり、長く残り得る存在にならなければなりません。その残り得るものとは何でしょうか。物質的、外的問題を中心として主張して出てきた権力ではありません。長い歴史過程で多くの権力者がいましたが、残ることはできませんでした。

◆宗教が愛を探す理由

 それでは、残り得るものとは何でしょうか。歴史は変遷し、発展してきましたが、宗教はそうではありませんでした。キリスト教では、「初代教会に帰ろう、イエス様の時代に帰ろう」と言います。そして、他の宗教でもその宗教を立てた道師であれば道師、創始者であれば創始者の意図とは異なって進んでいます。ですから、宗教の制度を信じないで、宗教の主唱者を信じようといいます。このように長い間歴史のあらゆる矛盾した環境を打開してきながら、世界人類の心の方向になり、欽慕の対象として今まで残ってきたものが、唯心史観を中心としたキリスト教です。

 イエス様を神様が愛されたため、キリスト教が今まで残っているのです。では、どのように愛されたのでしょうか。このような問題を教えてくれるのが、統一教会の原理です。このように見ると、神様と皆さんが一致するには、愛を中心としなければなりません。親と子においては、親子の愛を中心として一つになることにより、合同の目的を成就できるのです。同胞愛を中心として見ても、互いに同胞を愛する心があって初めて一つになるのです。

 自由党の李博士は「団結すれば生き、散らばれば死ぬ」と言いました。団結するなら、何によって団結するのでしょうか。同胞愛によってです。では、同胞愛は何が集まってできるのでしょうか。家庭愛です。その家庭愛は何に由来するのでしょうか。自己愛です。自分の個体の肉になり血になり、骨になるという、このような実感を得られる立場で愛さなければならないのです。遠くの村人と自分の細胞が連結され、自己の触感が因縁となる同胞愛、その愛は父母の愛、親子の愛が拡大されたものです。そのような領域が横的に広がれば、その動機により結ばれる同胞愛を主張する民族は発展します。

 では、父母の愛の源泉とはどこにあるのでしょうか。神様の愛の中にあります。神様の愛が下地となった父母になり、社会になるとき、正常的な進路を経て原因と目的が離脱しない理想世界に行くのです。皆さんをじっと見ていると、「誰かが自分を愛してくれたら」と思っています。大抵愛されようとします。男性でも、女性でも愛されようとだけします。問題はここにあります。ここで事故が生じるのです。愛されようとばかりする人のゆえに、世界は滅びていくのです。

 堕落の起源を見ると、何をしようとして堕落したのでしょうか。不倫なる愛で愛そうとして堕落したのです。私たち人間は愛されようとして騒がしいのですが、堕落の起源を見れば、不倫の愛で愛そうとして堕落しました。反対なのです。アダム・エバが神様に侍り、愛したなら堕落しなかったでしょうが、愛を誤って受け、誤って愛したために堕落したのです。そのようになっています。しかし、愛されようとするのは人間の本然の心です。結局、結果が変わるのです。

 堕落は、愛するといって愛しましたが、生まれた私たちは愛を受けようとします。結果が二重になったのです。では、私たち人間は愛を受けようとだけしますが、人間の祖先であるアダムとエバが愛するといって、愛を誤って受けて堕落したのを見ると、これは破壊的な愛です。この愛は、愛すれば愛するほど破綻するのです。ところで、私たち人間の世界にいる人は、誰でも愛を受けようとだけします。そのように要求するのは悪いことです。本然の心は、そのようなものではありません。

 人間は、いつ神様の愛を受けましたか。親の愛を受けられなかった人は、親の愛を一度受けてみたいと思います。それは生涯において必然的な要求ではないでしょうか。その人が千年生きるなら、千年の間そのことを忘れずに生きるでしょうし、万年生きるなら、万年の間その心をもって生きるでしょう。それと同じく、アダムとエバが愛されなかった本心が連結されたため、愛されたいと思うのです。堕落とは、愛を誤って受けたことです。

 もっとも、正しく愛されたなら、人間がなぜ愛されたいと思うでしょうか。誤って受けた人間なので、正しく受けられる所に帰らなければならないのです。これが正常的な立場なのです。

◆親子関係の愛

 ですから、自分が愛を与え、愛を受けることが正しいか、間違っているのかという問題を再分析しなければなりません。ここには、新しい人倫道徳が必要です。自分が愛し、その愛を受けることが正常でしょうか。心の本郷を中心として見ると、離脱したものであるため、宗教は真の愛を中心として家庭の制度も、社会の制度も、個人の人格も無視するのです。全般的なすべての慣習をなぜ無視するのでしょうか。それは、真の愛の起源が成立しなかったからです。

 ですから、それは無視しなければならないのです。では、無視できるその主体とは何でしょうか。愛だけが無視できる立場にあるのです。その愛は、どのような愛でしょうか。神様の愛です。それゆえ、神様の愛が問題です。その神様の愛の発掘地はどこでしょうか。兄弟の間で互いに愛する、そこから神様の愛が出てくるのではありません。男女が愛するその愛を中心として、神様の愛が立てられるのでもありません。その神様の愛は、親子関係の愛によって立てられます。前にも述べたように、血と肉が連結されなければならないのです。伝統として残し、永遠に残すためには、血と肉が連結されなければなりません。縦的関係が成立しなければならないのです。

 その縦的関係は、親の愛を受けなければならないので、愛以外にはないと見るのです。この愛には距離がありません。この縦的関係においては一つの中心がなければなりません。中心は一つしかありません。中心は第一の場にあるのです。中心が二つであれば、世の中では争いが起こります。

 このような観点から見ると、弁証法というものは根本的に破綻するのです。中心は一つしかありません。それ以外のものは、全部一つの中心を補助するためのものにすぎません。それは必ず吸収するか、吸収されるかしなければなりません。そのような二つの場合しかありません。ここで、存在の必然的な環境が成立されるのです。

 血と肉に従っていく中心は縦的です。自分から父親、おじいさん、このように上がっていくのは縦的です。このようにずっと下りてくると、結局は数千の人が一つなのです。親が子を愛する心、ここに発展があって変遷があり得るでしょうか。これを革命できるでしょうか。ここには、発展や変遷や革命はあり得ません。

 それは動物世界でも同じです。命が直系として連結される所は、そこだけです。母親が子供に、自分の血と肉を分け与えながらも、喜ぶ所がそこです。したがって、その場が宇宙の中心なのです。

 宇宙は実体世界であり、絶対者の相対的世界だというのです。物質世界の中心とは何でしょうか。父母の愛です。では、父母の愛はどこから始まるのでしょうか。神様からです。このような神様の愛が表面化され、その内情的な実相が親子の関係にそのまま表面化される家庭があるなら、そこに神様が臨在せざるを得ないのです。他の所にいることはできません。神様が人類の父になるためには、そうしなければならないのです。動機になるためには、目的と一致しなければなりません。

 神様を中心として一つになるとき、千態万状に回るようになります。ですから、兄弟間で愛することも、親が子を愛するのを見本として、兄は弟を愛さなければならないのです。そのように愛し、一元化された家庭には、家庭愛が花咲くのです。これがまた、社会愛になるのです。これがさらに、民族を愛する民族愛になります。このように愛すれば、世界愛が咲くのです。ところが、今日これが漠然としているのです。

 聖書に「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ三・一六)とあります。ここでの結論とは何でしょうか。ひとり子を賜ったのだから、彼と一つになりなさいというのです。このような観点から宗教を中心として見ると、キリスト教はどこに一致しなければならないのでしょうか。中心に一致しなければなりません。

◆信仰の中心

 では、皆さんはどこに一致しなければならないでしょうか。中心が誰か分かりませんが、中心に一致しなければなりません。女性であっても男性であっても、みなこの中心に一致しなければなりません。先生が中心であれば、先生と一致しなければなりません。では、先生はひとり子ではないと思うかもしれません。しかし、「ひとり子だ」と言っても仕方ありません。

 教会に行きたいのは、何ゆえに行きたいのでしょうか。会いたいのは、なぜ会いたいのでしょうか。それは父母の愛があるからです。父母の愛を完全に占領すれば、世界を完全に占領するというのです。では、子供に、「父母を取るか、世界を取るか」と聞けば、父母を取るのです。親に、「世界と自分の息子、娘のうちどちらを取るか」と聞けば、親は世界を捨てて自分の息子、娘を取ります。なぜそうなるのでしょうか。それは中心的な流れがその中にあるからです。

 皆さんを愛してくれた親のその愛の心をもって、皆さんが民族を愛しなさいというのです。そうすれば国を主管できる願いのよりどころが広がるのです。それが原則的な指導方法です。

 自分の位置だけを考える、というような立場になってはいけないのです。自己を顧みないで、相手のために全体の命を投入させるという道が、愛の道です。親は自分の子供だけのために、全体の命を投入するのです。自分のために、自分の全体を投入するのではありません。血と肉を、骨と肉を全部投入するのは愛です。そこに幸福があり、そこに希望があり、そこに自分の願いが宿るのです。それが愛の法則であるため「父母の愛をもって僕の体を使い、涙と血と汗を流しなさい」と言うのです。全体を投入しなさいというのです。そこに理由はあり得ません。条件を超越するのです。

◆父母と同伴できる場所

 民族が受難の道を行くなら、その受難の民族を見て、子が受難を受けるのを親が見て哀切に思う以上の哀切な心をもって痛哭する人々がいるとするなら、この民族は彼らによって収拾されるのです。世界の人類を中心として、そのような心で昼夜の別なく努力する群れがいるなら、世界は彼らの前に収拾されるのです。歴史がそのようになっています。それは間違いない鉄則です。このような観点から先生が観望した結果、間違いないことを知ったので、皆さんを無慈悲に押し出すのです。愛は、無慈悲な道を通っていくのです。生死の境を超越して行くのです。

 死と連続させ、死の血と肉をここに注いで、その目的の世界に行こうという、ただ一つの宗教がなければなりません。その宗教とは、殉教の道をたどってきたキリスト教です。キリスト教は殉教の血と肉でつづられてきたため、神様の愛を論議するとき、どのような宗教よりも近い距離にあります。ですから、名実共に世界的な宗教になったのです。

 では、皆さんがどれほどこの民族を自分の血や肉のように、自分の体のように思いながら、この民族のために痛哭したでしょうか。いくら不義の息子でも、彼が法の網に掛かったとか、あるいは国の法の制裁を受けるはめになったとき、「よくやった、それで当たり前だ」と言う親がいるでしょうか。「お前がそのようになったのは、私と一つになれなかったからだ。こいつ、どうして私の言うことを聞かなかったのか」としかっても、息子に愛が流れるのを遮る親はいないのです。

 今日私たちはそのような観点から、一心の世界を中心として一つの心にならなければなりません。一つの心を描くまで、一つの心の結果が統一されないのです。一つの心の目的を成さずには、統一を成すことはできません。統一を成さずには主管できないのです。すなわち、率いていけないのです。率いることは、中心を決定していくことです。皆さんがこの基準を通過するためには、手段や方法をもってはできません。子供がおなかがすいたときは、母親の乳を与えなければならないのであって、水を飲ませてはいけないのです。血と肉が連結されてこそ愛をもつようになり、心情が連結されるということを皆さんは知らなければなりません。

 今日この世界を眺めてみれば、世界がいくら広いといっても、戻らなければなりません。父母の愛も、夫婦の愛も完全ではないため、神様のもとに帰らなければならないのです。ですから、「神様の心情」という言葉が必然的に出現したのです。この心情がなくてはなりません。自分の骨と肉が神様の愛に帰り、にじみ出なければなりません。

 このように見ると、ゲッセマネの園でのイエス様の祈祷は、深刻だったのです。「わが父よ、もしできることでしたら……私の思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と祈祷しました。それは無条件でした。神様は愛の主体であるために、神様から愛を受けようとするイエス様は、無条件に順応したのです。「神様が要求するものがあるなら、何でもすべて差し上げる」と言ったのです。そのように祈祷したのは、神様の前にすべて捧げれば、すべて受けるようになっているからです。自分の思いのままにすることよりも、父の思いのままにすることにより勝利の場に立てるので、イエス様はそのように祈祷されたのです。神様のすべてをもって再び生まれることのできる価値を望みながら、イエス様は亡くなられたため、死の地獄世界を脱出して復活圏をもったのです。

 父母が行くべき愛の道とは、どのような道でしょうか。十人の兄弟がいれば、その十人兄弟の中で、最も不幸な子と共にできる生活です。その場とは、どのような場でしょうか。不具者の弟がいるなら、その弟と一緒に生きなさいというのです。

 そのような人は、兄弟の中で相続者になるのです。父母の愛と共に同伴できる場とは、どのような場でしょうか。何不自由なく暮らす場ではありません。十人兄弟がいると、その十人兄弟の中で最も不出来な人と一緒にいるようになれば、父母の愛の世界の代を継ぐ者になるのです。

 では、神様の愛が一つの国を探してくるとき、神様の愛の近くに立つ場とはどこでしょうか。悲惨な立場でも国を愛し、不幸な立場でも国を心配し、不幸な人と友達になり、彼らを抱いて自分の命を捧げる立場なのです。そこが父母が共にある場であるので、私たちは都市を離れ、農村の農民を中心として活動するのです。豊かに暮らす人と交際するよりも、困難で貧しい人と交際することを、喜ぶことができる心をもたなければなりません。

 神様が九十九匹の羊よりも、失った一匹の羊をより捜したかったのと同じでなければなりません。ですから、皆さんが伝道する時、「あの人は私が必要な人だから伝道しなければならない」と言ってはならないのです。それは条件的な愛です。皆さんはそのような観点をもってはいけません。親は、不幸な子供で自分に必要のない子供であっても、その不幸な子供に一層多くの愛を与えたいのです。

 では、一心の因縁を経て、父母の愛と同伴できるその心情の場とはどこでしょうか。不幸な子を気に留めて心配するのが父母の愛の心であると同様に、神様も親の心の始祖であり、根本であるために、心が休める所、その国へ向けて尋ね求めていかなければなりません。さらに、その心が臨在できる世界を探していかなければなりません。

 そのような所を欽慕して探していこうというのが、先生の主張なのです。一年あるいは十年、百年、千年ずっとそれを主張するとき、私たちが歴史の過程でみな倒れたとしても、今死ぬといっても、恨はないのです。なぜでしょうか。皆さんは千年後でも、その世界を占領することができるからです。今日の時間観念で見ると、千年という数はこの世界では遠い距離に見えますが、霊界は時間を超越する所なので、遠い距離に見えません。千年という時間が、天の世界では問題になりません。ですから、パウロは「わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない」(ローマ八・一八)と言ったのです。

◆父母の心情へと行く道

 一心は、どこで得るのでしょうか。神様の心で得なければなりません。では、自分は神側にいるでしょうか、いないでしょうか。神様の愛の心中にいるか、いないかということは、何が証拠になるのでしょうか。神様の愛に近い場とはどこでしょうか。漠然としているというのです。では、それは何で知ることができるでしょうか。不幸な息子を一層心配するのが、父母の愛です。そのような父母の心配を知って、父母の代わりに弟たちを心配する長男であるなら、彼はアベルだといえます。キリスト教がこのようなものをもったため、長子の嗣業を引き継いできたのです。愛の世界においては、長子の主権をもってこそ、主人になることができ、新しい世界を創建できるのです。

 では、これから私たちは東西南北、どこに行かなければならないでしょうか。神様が見て、最も心配な所に行かなければなりません。

 不幸な条件を越えて、一つの形態を整えるようになるとき統一が成されるのです。そこで初めて自分が主人になるのです。皆さんもそのようにできなければなりません。そうしてこそ統一が成されるということを、皆さんは確実に知らなければなりません。

 今日統一教会がこのような父母の心情を中心として歩むにおいて、歴史始まって以来摂理的に達成すべき願いが、このようなところから出てくるという事実を私たちは知らなければなりません。では、統一させることのできる秘訣とは何でしょうか。父母の心情をもって、十人の兄弟のうち、不幸な息子をより愛するような立場に立たなければならないのです。

◆この国、この民族の前に残ろうとするなら

 一心はどこから始まるかといえば、心から始まるのです。ここには血と肉が連結されるのです。親が悲しければ、子供が悲しいのです。親が悲しんでいるのに「父母が間違ったから、こうなんだ」と言う子供は、「子供だ」と言えません。また、息子が誤って罰を受けるとき、「こいつ、罰を受けて当然だ」という親は、親の資格がありません。愛の心が先立ち、愛を与えようとせずに恨みの心をもって「当たり前だ」と言うのは父母の心ではありません。

 神様は今まで与えようとしました。神様は愛を与えようとされましたが、人間は「私はその愛を受けずに地獄に行く」と言います。そのような人は、神様の前に顔を上げることができません。

 ですから、皆さんの骨と肉、血と肉が連結されなければならないのです。イエス様がパンとぶどう酒を「私の肉と私の血」と言われたのは、そのような立場から話したのです。血と肉、骨と肉が連結されなければならないのです。ですから、統一の道は、親の心に行く道です。不幸な立場にいる兄弟がいれば、これを心配できる人は必ず、遠からず中心的な資格者になるのです。このように、私たちがこの国、この民族の前に残るためには、私たち同士だけが愛してはいけないのです。

 今皆さんは自分の兄弟を愛する以上に、この民族を愛さなければなりません。これがこの国、この民族を愛するための訓練と同じです。保護するための訓練であり、愛するための訓練です。私たちは兄弟を愛する以上に、この民族を愛することのできる道を模索しなければなりません。このようになれば、正に民族の中心になるのです。

 今まで私たちが残ってこれたのは、この作戦をしたからです。父母の愛を実践したのです。ですから、天はそのような道に従ってこざるを得なかったのです。どれほど純潔なことであり、どれほど烈と誠をもってしたかに従って、天が共にあるのです。天との一致点をもつようになるとき、自然に世界の中心になり、それによってこの地に天の主権が立つのです。

 このような立場で、心の土台が燃えることのできる心情的主体をもって、この民族にどのように対していくかということが問題です。この国の為政者よりも、この国のどんな宗教指導者よりも、そのような心をもって生活し、環境を暴いていける群れが、私たちの中にあるのです。

 ここで一心統一の理念によって、父母の因縁の中で生まれた兄弟を、父母の愛で抱ける環境に一元化させ、国民の前に施すようになるとき、この民族は、私たちに抱かれようとして来るのです。このような観点から、皆さんが一心統一を忘れず、再び進撃していかなければなりません。















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