文鮮明先生のみ言集
訓教経(上)


新記録

一九七〇年二月十六日
韓国・統一産業寄宿舎の講堂 『文鮮明先生み言選集第二十九巻』


 今日、私たちは信仰の道を歩んでいます。これはちょうど、勝利を目標として競技場に出て、競技するのと同じです。ここでいう競技とは、ある体育の競技をいうのではなく、自らの日常生活を中心として、あるいは自分の生涯や国家の歴史を中心として、競技場に出ていって行う競技をいうのです。

◆競技場に立つのと同じような信仰者

 今日の先進国家は、国民全体が一丸となって、他の国の国民よりも多くの努力をしたので、先進国家となったのです。反面、後進国家は、国民全体が様々な国と競争する歴史過程で、努力が足りなかったからだと見ることができます。ですから、自然に後進国家になるしかなかったのです。このような事実を見るとき、歴史や世界の運勢は、このような過程を中心として進行してきたということが分かります。

 では、大きな世界の範囲を離れて、私たちの個体に帰り、自分自身をほかの人と比較し批判してみるとき、私は今、どのような立場に立っているのかということが問題になるというのです。ここで皆さんは、「神様と人間」言い換えれば、「お父様と私」の関係を回復するために、復帰の途上で競走している立場に立っているということを、知らなければなりません。パウロが、「私たちは競技場に立った人々であり、一つの標柱に向かって走っていく人々だ」と語ったように、私たちも一つの目標に向かって駆けているのです。

 世界の人々が最も重要視する競技の中の一つがマラソンです。すべての国家は、マラソン大会で一等になり、新記録を出すことが最高の栄光だと思っています。なぜそうかというと、マラソンは普通の人々が完走することのできない競技だからです。マラソンの距離は、ものすごく長いのです。優勝するためには、その長い距離を克服しなければならないのです。

 また、マラソン大会では優勝することも大切ですが、それよりもっと重要なことは、新記録をいかに出すかということです。優勝しただけでは駄目なのです。過去の大会ほどの記録を出せなくても、優勝はできます。しかし、マラソン大会ですべての国々が願うのは、優勝だけでなく、新しい記録をいかに出すかということなのです。

◆新記録を立てるには

 では、これまでの記録を破り、新記録を立てるためには、どうすべきかというと、今までのマラソン大会に参加したすべての選手たちが努力した以上の努力をしなければならず、困難を克服しなければなりません。このように考えない人は、それまでの記録を破ることはできません。仮に、優勝はしたとしても、新記録を樹立することはできないのです。

 また、いくら熱心に努力をしたとしても、作戦を誤れば、新記録を出すことはできません。新記録を出すためには、作戦をうまく立てなければなりません。マラソンで作戦をうまく立てるということは、走る人自らが、自分自身をよく知ることです。走る時間と距離に従って変化する体の状態を、自らがよく知らなければならないのです。すなわち、一定した時間と距離で変化する自分の体力と気力を、よく知らなければならないというのです。ある水準以上に無理したら、正常な体の状態ではなくなるということをよく知って、一〇〇パーセント自分の体力に合うように、自分の体を調整できなければなりません。でなければ、記録を出すことはできません。

 また、自分が走るのが速いからといって、最初から一番で走っても駄目です。定められた距離に適応できるように、自らを調整しなければなりません。そして最後、ゴールに近づく時にどうすべきか、また、最後にゴールを突破できる余力をいかに残して走るか、ということが重要なのです。このようなことを調整できなければ、優勝することもできないし、たとえ優勝しても新記録を出すことはできないのです。

 優勝は瞬間で決まります。ゴールインする場合には、一分、いや一秒が重要なのです。その短い瞬間に、優勝が決定するのです。百メートルの距離を同じように走ってきても、一等と二等が分かれるのは、一メートル以内です。そこで決定するのです。いや、十センチメートル、一センチメートル、〇・五ミリメートルの差によって、優勝は決定するのです。

 新記録が決定されるのは、短縮された時間が長い、短いということによって決められるのではありません。一秒を短縮したとしても、新記録は新記録なのです。このように歴史的な記録は、とても短い距離によっても破られるのです。同じように、私たちが行く復帰の途上においても、これが問題になるのです。

◆統一教会の目標

 統一教会の中心目標は世界復帰です。今も、この目標に向かって走っているのです。走るうえで、何を中心として走らなければならないでしょうか。これまでの宗教は、個人を中心にして走っていました。しかし、統一教会は復帰摂理の目的を中心として、家庭的な競技をしています。言い換えれば、統一教会は家庭的な競争圏内に入ったのです。これが、統一教会と今までの宗教との相違点です。

 これまでの摂理歴史路程を見れば、失ったアダム一人を捜し求めるために、神様が多くの苦労をされたことを知ることができます。しかし、アダム一人を復帰したからといって、「勝利の記録」と言うことができるでしょうか。できません。誰がこれを証すのかというと、イエス様です。

 イエス様はこの地上に来られ、神様の息子として責任を果たそうという立場に立ったのですが、復帰摂理の途上で終わったのです。勝利し、新しい記録を立てることができませんでした。イエス様が亡くなられることによって、神様の側において新記録を立てたのではなく、むしろ、失敗の記録を立てることになったのです。そのことによって復帰摂理の途上に、二千年の間隔が生じました。勝利者として新しい記録を出したのではなく、敗北者としての記録だけを残したのです。

 では今日、私たち統一教会が新記録を出すには、どうしなければならないかというと、まず一人の男性と一人の女性を中心として、復帰摂理の公式を通した一つの家庭を立てなければなりません。その次に、目標に向かって進み、優勝するとともに、良い記録を出さなければなりません。そうしてこそ、そこから新しい起源が生まれるのです。この起源は、これから来る新時代において、永遠の基準となります。私たちは、このような驚くべき目標を中心として前進しているのです。

 皆さんはこの時間が過ぎれば、東西南北に散っていきます。そこには、応援する人もいません。そのような立場で皆さんは、競技場に立つのです。しかし、皆さんは「私は走っている人間だ。行かなければならない人間だ。目標に向かって、この時間も走らなければならない」という認識を忘れてはなりません。

 皆さんの立場と環境は各自違いますが、ただ一つ変わりなく大切に維持すべきことは、「私は競争する人間だ」という考えです。皆さんは、目標を中心として走っている人間です。皆さんが走る時は、天地が注視し、声なく皆さんを応援しているのです。

 ところで、今までずっとこのように走ってきたのですが、いまだに国家的な大会がなされていないのです。自分が住んでいる地域だけで行ったり来たりする、小さな競技にすぎなかったのです。このような競技は、国家的な競技とは何の関係もありません。いくらそこで自分が活躍して記録を立てたとしても、国家的な大会とは何の関係もないのです。走るには走っても、それはその地域に限られたことです。その大会は、国民が注視し得る大会になることはできなかったのです。

 しかし、一教会や一団体を中心としてなされた競技で出た新記録だけでは駄目なのです。世界的な大会で競争して勝利し、記録を出して初めて、その記録が世界的な新記録になるのです。

 今日、統一教会が競争しようという大会は、どんな大会であるかというと、大会の中でも、最高に重要な大会なのです。この大会は、過去に生まれて逝った先祖たちも動員され、現在の人類も動員され、将来の数多くの後孫たちも動員することのできる大会なのです。このように、三時代が結束して動員される焦点上において、皆さんは今、走っているのです。

◆競技者が知らなければならないこと

 ここで皆さんが、肝に銘じておかなければならないことがあります。走る時に、無条件に走ればよいというものではありません。目的地をはっきりと知らなければなりません。目的とする所がどこであり、その距離がどれくらいであるかを知らなければなりません。皆さんの姿勢がどんなに良かったとしても、走るコースが分からなければ、目的地に到達することはできません。そのコースは、復帰の原則から成っているので、それを中心として走らなければなりません。

 皆さんが走るうえで、皆が一等になることはできません。この中で優勝者は、たった一人だけです。ここで誰が一等になるか、ということが重要なのです。

 神様が何を願われるかというと、二等を願われるのではなく、一等を願われるのです。多くの人を願われるのではなく、一人を願われるのです。それで、その個体が最善を尽くして走ったならば、天と地が一つになるのです。

 ここで、その距離がどれくらいになるかによって、問題が起こるのです。今日まで人間が復帰摂理路程において、国家なら国家を中心に、常にその日を願い努力してきたのですが、いかなる基準で願い、努力したのかが重要な問題なのです。国家を復帰するためには、まず個人が復帰されなければならず、さらには家庭、氏族、民族、国家と復帰されていかなければなりません。このように各段階に従って、その範囲が大きければ大きいほど、それに対する関心度も高くなるのです。

 例を挙げれば、郡を代表する選手がどんなに良い記録をもっていたとしても、道を代表する選手の前では認めてもらえないのです。自分の記録がどんなに良くても、道を代表する選手に認めてもらうためには、再び試合をして勝たなければなりません。また、道の選手の記録が、国家の選手の記録よりも並外れて良かったとしても、その記録が国家的に公認される大会の記録でなかったならば、彼を国の新記録保持者とすることはできないのです。

 しかし国家的な競技において、自身がもっている記録よりも何秒か劣ったとしても、国家基準の記録を破ったならば、彼は新記録を立てた栄光を得るようになるのです。世界記録を破ることも同じことです。国内で世界的な新記録を立てても、これは認定されませんが、世界的な競技に参加して記録を立てれば、認定を受けるのです。

 皆さんが今まで、個人的にはどんなによく走ってきたとしても、今は舞台が広がったので、広がった舞台において走らなければなりません。面を代表して走るのと、郡を代表して走るのとは違います。また、郡で走るのと、道で走るのとは違い、道で走るのと、国で走るのとは違うのです。

 皆さんはこのような時に、うまく一致させなければなりません。皆さんはこの時を中心に責任を負い、競技場に出た選手であることを自覚しなければなりません。ここで走る時には、時が違うと同時に、環境が変わります。それゆえ、走る環境と自身の技量とをよく調和させ、行く途中で生じる様々な現象をきちんと受け止めなくてはなりません。怨 讐が現れる可能性があるというのです。

 走る中で、誰か応援してくれる人がいるかというと、いないのです。しかし、応援団がいないことは、それほど問題にはなりません。怨讐は、走る皆さんを転ばせようと、ありとあらゆることをしてきますから、これが問題なのです。その過程で、見えない隅に隠れて矢を放つ者もいるし、塀の上に潜んでいて足をへし折ろうとねらう者もいるのです。いろんな者がいるのです。

 このような険しい環境を皆さんは直視して、侵犯を受けないようにしなければなりません。怨讐に引っ掛けられて転んだら、大変なことになると肝に銘じ、困難な環境に備えて、自分自身を防備できなければなりません。

◆世界的な舞台で新記録を立てなければならない

 今日、このような立場で私たちは世界復帰という看板を掲げているのです。

 それでは、世界復帰の時代を迎える皆さんにおいて、最も大きな問題は何かというと、世界を復帰するには今までとは違い、個人的に走って立てた記録ではいけないということです。氏族的に立てた記録でもいけないのであり、民族的に立てた記録でもいけないのです。世界的な舞台に登場し、新記録を立てることのできる人間にならなければならないというのです。

 神様は今まで、最上の基準で復帰摂理をしてこられました。サタン世界の記録を破る立場に立つことができなければ、人類を復帰してこられた神様の権威と威信と体面が立たないのです。これが神様の立場です。ですから、み旨を掲げて歩む私たちの使命は、復帰の途上で、サタン世界のすべてのものを屈服させ、最高の栄光と権威を神様にお返しすることなのです。そのために今、世界的な競技場に出ているのです。

 それでは、出ていくときには、その国の民と家庭がすべて出ていかなければならないでしょうか。
 違います。国家なら国家を代表して一人だけを立てればいいのです。新記録を立てることのできる一人を代表として送り出せばいいのです。

 今日の摂理過程において皆さんは、皆さんの家庭を中心に新しい家庭の起源をなし、新しい生命を出発させ得る家庭にならなければなりません。新しい生命が出発しなければ、新しい理想が出発し得ず、新しい愛が出発できないのです。

 このような基準を中心に見るとき、この出発点が、どこにならなければならないかを知らなければなりません。ここでの勝利だけでは駄目です。その勝利が、サタン世界に一つでも引っ掛かる勝利であったなら、神様の権威と体面を立てて、新しい出発をすることはできません。この勝利は、歴史的なものでなければならないのです。

 私たちは今、家庭的に走っています。走るときには、天地の摂理のみ旨に関係している数多くの背後の因縁と、神様を中心とする心情を土台にして、走らなければなりません。走る競技の途中でどんなに遅れたとしても、最後のゴールでは、一歩でも先にゴールインしなければなりません。先になるだけではなく、新記録を立てることができるように、先にならなければなりません。このようにして、集まろうというのです。これが復帰摂理の路程です。

 皆さんが走っているこの道は、一年だけ走ればよいのですか。違います。一代でできなければ二代、二代でできなければ三代までいく恨があったとしても、行かなければならないのです。それゆえ、復帰摂理は今まで、アダム、イエス、再臨主の三代を経て走っているのです。また、アブラハムの神様、イサクの神様、ヤコブの神様と、三代を経たのです。

 今、私たちは何代目かというと、最後の三代目として走っているのです。最後の三代目ならば、ゴールまであとどのくらい残っているのか、はっきり知らなければなりません。そして、残る底力と余力を総動員して、最後のゴールに向かって走らなければならないのです。

◆必ず行かなければならない運命の道

 皆さんが参加しているこの道には、皆さんの先祖たちが加担し、応援しているのです。この道は、いつかは必ず行かなければならない運命の道です。

 今はよく分からないでしょうが、あとで勝つようになれば、氏族がすべて頭を下げるようになります。それはいずれ、そのようになるようになっているのです。過去の先祖はもちろん、氏族が動員されるようになっており、また、未来の後孫たちも動員されるようになっているのです。それゆえ、皆さんがどのように走るかということが問題となるのです。

 このように見るとき、世界復帰という目標に向かって走る統一教会において、人が来て走るときには、氏族を中心として常に問題が生じるのです。ここで皆さんは「私たちの氏族の中で、自分は何番目に負けた人間か」ということを考えるのです。

 皆さんは一等にならなければなりません。今後、誰に関心が注がれるでしょうか。人々は「私たちの氏族の中で、負けなかったその人!」と言うことでしょう。また、「私たちの氏族の中で負けた人は多いけれど、その中で誰々はそうではなかった」と言うでしょう。このように、皆さんが氏族の代表者になってこそ、過去、現在、未来が連結された希望を中心として、「ああ、この競技場に、私たちの氏族が登場したなあ」と言うのです。

 私たちは現在、一つの国家を中心に新記録を立てるために努力しています。歴史始まって以来、統一教会のような集まりはありませんでした。また、世界において問題になっている、そのような教団があったかというと、ありませんでした。国を愛し、世界のために生きるということにおいて、統一教会ほど新記録を立てた団体は今までありませんでした。

 事実、国を愛することにおいて、新記録をもち得ない人間は、大統領の席を夢にも見てはいけません。国家の前に世界の前に誇ることを、夢にも見てはいけません。しかし、世界の新記録を破って余りある実力をもち、自他共に認める権威をもつ人間になった時には、世界人類が屈服するようになるのです。

 今私たちは、今まで走ってきたことを教訓として、もっと大きな舞台で走らなければなりません。世界の国々は、国ごとに民族的な背景が違い、歴史的な背景が違います。また、民族に対する観念が違います。このように各々、異なる立場にある国家と国家が、互いに競っているのです。私たちの宣教本部が多くなればなるほど、競技の規模がだんだん大きくなるのです。そのようになれば、問題の焦点となるのは何かというと、最高の記録保持者は誰かということです。

 私たちのその記録は、ギリシャの一兵士が、マラソン平野の戦いで勝ったということを告げるために、死を懸けて走り、「勝った」という一言を残して死んだこととは違うのです。その時、命を懸けて走り立てた記録と、近ごろの選手が立てた記録とは違うのです。彼は世界歴史に、マラソン出発の旗を掲げたのです。たとえ勝利したという言葉を残して倒れ死んだとしても、彼が立てた記録は永遠なのです。

 皆さんも、そのような立場に立っているのです。オリンピック大会で、新しい起源を成すことができる立場にいるというのです。

 人々の中には「み旨が早く成され、私たちが世界舞台に出ていって走れたらいい」と言う人がいますが、そのように簡単ではないのです。

 新記録の起源を立てようとすれば、ある国なら国で闘った歴史が、世界的な大会の歴史と通じなければなりません。そうしてこそ、世界的な大会を中心に積まれた伝統を受け継ぎ、また相続させる、そのような歴史の中心の立場を受け継いでいくことができるのです。これが今、統一教会が成そうとしていることであり、また、そのような立場にあるのです。

 私たちの今の活動は、皆が良い記録を出す方法を研究するためなのです。こうして研究したその道、そのコースを走ろうというのです。それが国家に影響を与え、さらには、世界まで影響を与えるようにならなければならないのです。

 今ゴールが、近づいてきています。それを統一教会の原理から見れば、「家庭復帰」と言うのです。家庭復帰というのは、四位基台を成就した家庭として完成することをいいます。国家基準においても、この四位基台を成さなければなりません。では、四位基台を成すうえで、どこの国が一等になる可能性がある歴史をもっているでしょうか。これが世界の関心事です。

 国家基準を成すためにはまず、氏族、民族的な基準を成さなければなりません。ここでは必ず、ある団体なら団体、あるいはある宗派なら宗派が問題になるので、統一教会は多くの宗派紛争を収拾しなければなりません。また、どのようにしたとしても、四位基台の基準を立てなければならないのです。この基盤をもたなければならないので、この基盤をつくるための作戦として、先生は超教派活動をしてきたのです。これを動機として、すべての宗教がどのようにしたら平面的に一つの四位基台形態をもつことができるか、という考えを中心にして闘ってきました。

 そうして、世界に行く道を築こうというのです。その次に、そのような基準を中心にして、国を愛し民族を愛さなければなりません。ここでも、新記録を出さなければなりません。皆さんは良い記録を出して、今後、国家的であれ、世界的であれ、栄誉ある位置に立つことができなければなりません。

 ところで今、皆さんは栄誉ある権威者として、国家なら国家の前に、そして世界なら世界人類に教えてあげることのできる立場に立っていますか。「競技場ではこのように走るのだ」と教えてあげられ、その意見には何らの異議も出すことができない実力基盤をもっているか、ということが重要なのです。新記録をもっている人間として、その分野においては、国家なら国家の前に、世界なら世界の前に、「この分野は私以外に、他の人が責任を負うことはできない」というほどの絶対的な立場に立つことができなければならないのです。

◆歴史に残ることのできる者

 では今日、統一教会がそのようになっているでしょうか。これから世界的な選手として発掘される姿勢と内容をもっているでしょうか。結局、皆さんはそのために走らなければならないのです。これから、世界を中心に栄誉の一時が、必ず統一教会に来るのです。

 その時が来たならば、皆さんはどのようにしなければならないかというと、絶対的な権威をもって、「過去はこのようにしてきたから、現在はこのようにして、未来はこのようにしなければならない」と言えなければなりません。ところが、責任を果たすことができない人間は、栄光の時代が来ても、その栄光とは何らの関係もない人間になるのです。むしろ、その栄光の前に恥ずかしく、自分の恥がさらされ、頭を下げるようになるのです。

 優勝して、人々にあがめられる対象にならなければならないのであって、最下位になって、恥ずかしい立場に立つ人間になってはいけません。「あの人は一等にならなければならないのに、びりだった」と、ひやかされてはいけないというのです。

 統一教会のみ旨に従っている人の中には、一等になる人もいるし、最下位になる人もいるし、落伍者もいます。統一教会に通う人々の中にも、差が生じるのです。そして、実体の競技場で起こる現象が、皆さんの家庭、あるいは活動する基台においても起こるのです。

 ところで、問題となるのは、国家なら国家、団体なら団体において、よく走る選手をどのようにつくるか、ということです。すなわち、どのように教育し、どのように訓練し、優秀な選手につくり上げるかが問題なのです。この使命が、皆さんに掛かっているのです。

 選手たちを教育し、訓練するためには、まず皆さん自身が、そのような実力を備えていなければなりません。皆さんの指導を受ける後輩たちが、皆さんの記録を凌駕するように、訓練しなければならないのです。こうして、統一教会のみ旨を中心としたマラソン競技で、国家を代表して世界に出ていくことのできる人間を育てなくてはなりません。そのような人間を育てた指導者は、彼と共に歴史に残るようになるのです。

 皆さんが暮らしている地域を中心に見ても、歴史的にその地域を動かした人間は多いかもしれませんが、その地域を代表して、国の前に忠誠を尽くす新記録を出した人間は、多くないのです。皆さんがそのような人間を輩出することができたならば、死んでも、このような記録を出した指導者として、歴史に残るようになるのです。

 今、私たちは、世界的な舞台を中心として走らなければならない時です。統一教会の文先生も同じです。先生は走る時に、「誰かの世話になる」とは考えません。選手たちが疲れたら励まし、引っ張ってあげることはあっても、選手たちに世話になることはありません。走る時は競技者として寸時を惜しみ、あらゆる精誠を投入して走るのです。一歩でも遅れないように、昼も夜も休むことなく、行くのです。こうして最後、ゴールインする時には、先生が一番最初に勝利した人間になるでしょう。

◆新記録の起源

 今までの世の中になかった新記録を立てるためには、国家と世界の前にどのようにしなければならないかを、皆さんははっきりと知らなければなりません。

 復帰摂理の過程において、私によってもたらされた勝利をいかになすか、あるいは、世界人類と後孫たちに影響を及ぼすことができる記録的な基準をどのように立てるか、ということがとても重要です。すなわち、今までの歴史過程の記録や、これから立てられる新記録よりも、より優れた記録をつくらなければならないというのです。絶対的な新記録を決定したら、過去も、現在も、未来も、この基準を中心に走るのです。すべての選手たちが、これを中心に動くようになり、また、これを中心に統一がなされるのです。このような基準をもって現れたもの自体は、過去から現在に、現在から未来へと続くのです。このような新記録の起源が、正に統一教会でいうところの「真の父母」なのです。

 真の父母の栄誉を得るには、心情の記録保持者にならなければなりません。その記録は、絶対的でなければならないので、過去にもなく、現在にもなく、未来にもないものでなければなりません。言い換えれば、相対的基準とは比較することができない絶対的な基準が、真の父母の基準であるというのです。

 真の父母は、二つはあり得ません。「真」という字のつく父母は一つだけです。天と地は、二つに分かれることはできません。では、天と地の父母が、どのように一つになるのでしょうか。これを解決するには、天を中心として関係を結ばなければなりません。

 このような観点から、神様と人間は一つにならなければならないのです。このように、内的父母と外的父母が一つになって初めて、真の父母が規定されるのです。真の父母は絶対的基準の立場なので、真の父母を中心とする位置には、宇宙史的な新記録が永遠についてくるのです。誰であっても、この記録を抜くことはできません。

 また、真の父母の教えは絶対的です。それゆえ、真の父母の教えを受けて、新しい記録を出そうという人間は、真の父母に絶対に従順であり、絶対服従しなければなりません。そうしなければ、再び生きる圏内に入ることができません。絶対従順、絶対服従する立場において初めて、統一の役事が起こり、一つの世界がなされるようになるのです。言い換えれば、その立場は、ある相手との争いを超越した位置、すなわち競技を超越した位置なのです。競技をして新記録を出すという、そのような相対的な位置ではなく、完全に定着した安全な位置なのです。多くの人が嫌がる立場ではなく、誰もがみな好んで従う位置なのです。

 このような観点から見るとき、今日、統一教会が目標に向かって走っていくうえで、真の父母を中心として走らなければならないというのです。先生が発見したことの中で偉大なることがあったとすれば、それは今まで数千年の歴史を通しても探し出せなかった、真の父母の位置を復帰したということです。ですから、皆さんはこれを一番に考え、一日に十回、祝賀しなければなりません。

 それゆえ、皆さんが真の父母の新記録を相続しようとすれば、先生のところに来て相続しなければなりません。もし、皆さんが、家庭が走っている競技場で、問題が生じたならば、すべてその基準で解決しなければなりません。その基準は、過去にも通じ、現在にも通じ、未来にも通じるのです。

 新記録ということは、永遠から永遠まで通じるのです。その基準を中心として必ず、相対的関係が結ばれなければなりません。走る競技者たちは、その基準を中心に走らなければならないのです。今まで人間たちが理想を語れば、先に向かってだけ走っていくものと考えていました。しかし、私たちの理想は、未来にあるのではありません。世界をすべて回っても、また回っても、真の父母のところに来なければならないのです。なぜならば、出発もここであり、目的もここだからです。

 今まで堕落した世界は、未来の希望を中心として行く道でしたが、統一教会時代は、新記録を中心に行く時代なので、出発もこの点であり、目的もこの点ですから、世界がその所から走らなければならないのです。内容面においても、これは今まで世の中にあった、そのような競技ではありません。それは、心情の世界で父子の関係を結ぶのです。競技の中で、それ以上のものはありません。それゆえ、誰でもこの原則を知るようになれば、統一がなされざるを得ない、ということを知るようになるのです。

 ですから、皆さんが道を走るうえで、この目的がはっきりとしていなければなりません。走るときは、個人の目的を中心に走るのではなく、国家の目的を中心に走るのです。そして、行ったら、帰ってこなければなりません。国家から出発して、帰ってこなければならないというのです。これは否定することができない既定事実なのです。摂理の過程において、皆さんは今、帰って来るコース、すなわち復帰のコースを歩んでいるのです。

 私たちが走っているこの道は、普通のコースではなく、復帰のコースなのです。復帰のコースを走る皆さんは、それなりにみな重要な人々なのです。ここで一等になる人間は、絶対的なチャンピオンになると同時に、絶対的に責任を負う指導者になることができるのです。

 今、私たちがしていることが何かというと、絶対的な記録を立てる、真の父母の伝統を相続し得る選手を養成しようというのです。今まで先生はこのことをしてきたのです。

 皆さんはもう、先生がいなくても、真の父母が立てた新記録を中心として生きなければなりません。いつもの生活で、その記録と比較してみて、何パーセントになっているか、その記録にどのくらい近づいているかを確認して、その記録に近づこうとしなければなりません。これが皆さんが将来、天上世界に入るとき、皆さんの権威と位置を決定するのです。

 例えば、その記録に三等で到達した人間がどんなに優れていたとしても、三等の位置に行かなければならず、十等は十等の位置に行かなければならないのです。いくら大統領をした人でも、最下位ならば最下位の位置に行かなければならないのです。それは仕方がありません。

 今先生が通り過ぎながら、一度だけ道を切り開いておけば、「ついてくるな」と言っても、ついてくるのです。なぜならば、ついてこなければ、競技場に行く道がなくなるからです。どんなに世界的な基盤を築いたとしても、競技場に出ていかなければ、世界的なチャンピオンになることはできません。したがって、新記録を立てるには、統一教会の真の父母に従ってこなければならないのです。

◆神様の念願の内容

 今、私たちは走っています。ところで、私たちが走るとき、この国の全地域の人々が「頑張れ、頑張れ、頑張れ!」と応援をしなければならないのです。私たちの側が多くなければなりません。「私たちの側」というのは、競技する時だけ応援するのではありません。競技を始める前から、その競技に対して関心をもち、走る時も、「その選手と共に走る」という心をもつ立場に立たなければなりません。

 選手が競技場に出れば、その時だけ「お前は私たちの側だろう。よく走れ!」と言うならば、その人を「私たちの側である」と言うことはできません。選手が代表として出て走る時には、緊張して視線を注ぎ、次第にゴールに近づけば、一緒に走っているような立場に立たなければなりません。応援していて、転がっていってもいいのです。そうしてこそ、走っている選手たちも、元気を出して走ります。同じ側というなら、選手たちが走る時には、そのぐらいにならなければなりません。

 皆さんは、そのような実績をもっていますか。皆さんは今、走っていますが、自分に関心をもっている人間、すなわち、自分の側がいるかというのです。いるようだがいないとすれば、孤独な人になるのです。そのような人間は、走ることは走るのですが、国を代表することはできません。

 国もないのに、国の代表選手に選ばれるでしょうか。国がなければ、個人資格にすぎません。国がないので、国を代表して出場することもできず、したがって、一等になることもできません。国の代表として選ばれるためには、どこの国であれ、自分が属する国がなければなりません。他国の名前を使うか、でなければ、無理やりしがみつかなければなりません。

 家庭を中心にして、父親が「そう」と言えば、息子も「れ!」、息子が「そう」と言えば、父も「れ!」という基盤が必要です。しかし、子供がいたとしても国がなければ、何になるのでしょうか。国がなければ、「一等だ」「何だ」と言っても、意味のないことです。

 皆さんが頑張れば、先生は体面など失ってもよいのです。先生にとっては、体面よりもチャンピオンになることが問題です。それが神様の願いです。今まで神様は、多くの体面を失いました。何度も闘いに負けたので、神様の体面は話になりません。今まで神様が訓練して立てたチャンピオンたちの姿を見てみなさいというのです。すべてサタンによって倒され、威信どころか何もかも奪われ、死に、思いどおりにできなかった神様の体面を考えてみてください。その時、神様が受けた恥辱を皆さんは考えてみなければなりません。

 皆さんはもう少し走れば、新記録を打ち立てることができます。皆さんの側には、天を中心に自身の一生を懸け、新記録を立てるのに心血を注いでいる先生がいるのです。天と地の心情を経て、すべての責任を直接相談し得る先生が、皆さんの側にいるのです。

 このような責任を果たすために、歴史的に数多くの人物が精誠を尽くしました。ノアからアブラハム、モーセ、イエス様をはじめとした先知者と聖徒たちが、チャンピオンになろうとしたのですが、みな失敗しました。それゆえ、皆さんが彼らの立てた精誠の記録を破るためには、その境界線を越えなければなりません。

 ノアが百二十年間、箱舟を造る時に受けた試練と苦痛が近づいてきたとしても、問題なく越えていかなければならず、アブラハムが故郷の山河を離れる時に受けた苦しみも、越えていかなければなりません。おじけづいてはいけません。境界線を突破するという心で、また、必ずそうでなければならないという心で、すべてのことを引き受ける自分自身にならなければなりません。そうでなければ、チャンピオンの列に加わることはできず、新記録を出すこともできません。

 歴史過程で来ては逝った数多くの責任者たちもみな、新しい記録を立てようとしたのです。このような観点から見るとき、イエス様もそのような面でチャンピオンではないかと考えるのです。

 チャンピオンになるためには、誰よりも多くの考えを巡らし、誰もできなかった作戦を立てなければなりません。そうしてこそ、新記録を出すことができるのです。ところで、真の父母の基準が最高の基準ですが、他のところにチャンピオンがいるでしょうか。もしいるならば、訪ねていってもいいのです。それで、他のチャンピオンを探し出したならば、先生が応援することもできるのです。

◆チャンピオンの後継者になるには

 先生は今まで、み旨を中心に歩んできました。皆さんが選ばれたチャンピオンの後継者になるためには、チャンピオンの生理や感情までも分析しなければなりません。そして、性質が似ていなければなりません。チャンピオンが虎のように生き生きとしているのに、皆さんが牛のようにのんびりしていれば、後継者になることができますか。チャンピオンが虎のような性質ならば、皆さんも虎のような性質にならなければなりません。性質が似ていなければならず、性格も似て、ものの見方も似ていなければなりません。

 このような大きな位置が準備されているのに、皆さんはそれに対して、関心をもっていますか。「チャンピオンに似るために、祈祷をするときには真心からしよう。これから一年間、先生の家庭を見て手本とする計画を立てよう。誰かに会ったときに、あいさつを百回する人がいるなら自分は千回しよう。千回する人がいれば万回やろう」という姿勢がなければなりません。このような実績を積んでいくならば、チャンピオンになる可能性があります。今からは皆さんなりに計画を立て、走っていかなければなりません。走るうえで、野望をもたなければなりません。発展的な勝利の野望をもたなければならないのです。

 世界的なチャンピオンになろうとすれば、チャンピオンとして認定される条件がなければなりません。どんな人にも対することのできる内容を備えなければなりません。このような観点から皆さんは、自分なりの新記録を立てなければなりません。誰でも中央舞台で記録を出そうと心に誓えば、どんな大きな山、険しい峰、絶壁、山河が立ちふさがろうとも、越えていかなければならないのです。皆さんは「私は生涯、競技場で走らなければならない人間である」と考えなければなりません。

 統一教会の皆さんは、「新記録を立てる」と決心して家を離れたその日から、チャンピオンになるための訓練の過程にあるのです。ですから、必ず新しい記録を出し、皆さんの家庭が世の中で最高の家庭にならなければなりません。

 統一教会の文先生は、世の中にない起源を残しました。そして、統一教会がすることは、今まで世の中の人々がなしたことのない起源になります。それゆえ、先生が手をつけたら、国家にも問題が生じるのです。先生は必ず、新しい起源をつくります。

 私たちは非常に珍しく、貴重な部類の人間です。統一教会の「統」という字は、字のごとく「率いる」という意味です。「支配する」という意味です。では、支配して、何をしようというのでしょうか。一つにしようというのです。「一つになれ」という言葉は、「新記録をもつ絶対信仰者に似なければならない」という意味です。

◆天の家庭になるには

 今から皆さんの各家庭において、夫がマラソン選手になり、新記録を出すために全力を尽くして走れば、妻はその夫に従っていき、応援しなければなりません。このような応援者は、世の中に一人しかいません。一人ですが、世界数億の人々が応援するよりも効果があるのです。

 皆さんは、多くの観衆が歓声を揚げて応援するのを願いますか、でなければ、自分の妻の応援を願いますか。多くの人が声を揚げてする応援は、瞬間的な応援ですが、妻の応援はそうではありません。そうすることのできる応援者をもつ家庭が、天の家庭になり得るのです。

 そこに、息子も従い、お父さんを応援し得る、そのような四位基台が完成するとき、天上天下唯我独尊となるのです。また、自分が走る時、お母さん、お父さんまで同じく走って応援するならば、それはどんなに素晴らしいことでしょうか。世の中にうらやましく思うことはありません。世の中に、このように価値のあるものはありません。そのようにだけなれば、心情の世界は世界的に復帰されます。このような過程を通して新記録を出し、国家的なチャンピオンになった時には、世界的なチャンピオンにもなることができるのです。

 このような家庭になった日には、その家庭は忠臣の家庭となるのです。「忠臣夫婦」という言葉はまだありませんが、これからはこの言葉を新しく作らなければなりません。ところで、皆さんの家庭は、そのような家庭になっていますか。もし、そのような家庭になったならば、村中でうわさとなり、みんなが「どうやって、そのようにできるのか」と聞いてみたくなるのです。そして、手本にしたいと思い、教育を受けたいと願うはずです。

 皆さんすべてがチャンピオンの家庭になり、世界の人々が「正しい」と認めることのできる家庭にならなければなりません。今までの祝福家庭を見ると、様々な民族が加わっています。このように様々な民族が加わっていますが、この中で皆さんの家庭が一等にならなければならないのです。

 そのためには、新たに、精誠を込めて祈祷しなければなりません。走り続け、優勝しなければなりません。ベルトをきつく締め、優勝とともに、新記録の栄光を受けなければならないのです。

















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