文鮮明先生のみ言集
訓教経(上)


和動の中心体

一九七〇年二月二十六日
韓国・統一産業寄宿舎 『文鮮明先生み言選集第二十九巻』


 この世で起きるすべての作用は、一人で始まることはありません。作用をさせる何かがなければなりません。必ず相対的関係がなければならないのです。この相対的関係を造成するためには、主体と対象がなければなりませんが、この主体と対象は互いに関係を結ぶためのある決定的な要因をもたなければなりません。そうでなくては相対的関係を結ぶことができないのです。

◆すべての作用は相対的関係がなければならない

 太陽系を見ても、太陽自体が主体的立場にあるので、その相対的な立場にある遊星が作用できるのです。同様に万有の存在物も、やはりそのような主体と対象の基準を決定することができる基盤が造成されていなければ、秩序や組織が成立しません。主体が確定されてから相対が確定してこそ、すべての秩序と組織が生まれるのです。

 人間の体も、心臓を中心としてすべての肢体が動いて生命を維持しています。私たちの心について考えてみるとき、心にも中心があります。それは人間がもっている人格というものです。その人格を中心として、人間は今まで生活してきたのです。

 私たちは、ある社会の制度の中で、中心的な位置に立つことができる人を「人格者だ」と言います。例えば、ある町内で尊敬される人格者がいるとすると、彼はその町内の内外に暮らしている人々に生活的に、精神的に中心的な作用ができる人です。

 それは国家においても同じです。国家もやはり国家の代表者、すなわち一人の人格者を中心として形成されるのであり、その人格者を中心として国民が相対的関係を結んで、実体的な組織が形成されるのです。このように見るとき、範囲の広い世界にも、やはり一つの中心的な人格者がいなければならないのです。

 人格者といっても、外的に見れば普通の人と特別な差がありません。しかし内的に見れば、思想的な面や精神的な面が普通の人とは違います。このように見るとき、人格者を決定することができるのは外的な面ではなく、精神的な面であるということが分かります。

 したがって、人間の精神的分野を中心として、人格を論じなければなりません。ところが、この精神的な分野を広げる者になるためには、心の世界を知らなければなりません。心は無限大に接することができる能動性をもっています。

 私たちの人格を見ても、それはある社会や国家や世界の限界圏に限定されているのではありません。さらには、過去、現在、未来までも超えることができる絶対的な最高の基準を見つめながら進んでいるのです。このように、絶対的な立場にまで進もうとする内心の作用を見るとき、心の世界は無限と通じているのです。

 ところが、この心が精神的な世界で、絶対的な基準に落ち着いているかというのです。これが今まで問題になってきました。心がそのように落ち着いたというときは、人間が主人になることができる基点がつくられるのです。その基点はいかなる立場でしょうか。人間が要求する最高の幸福の要件と、絶対的価値の要件が決定され得る、中心的な立場です。

 しかし、そのような立場に立ったとしても、またその立場から見える最高の存在があり、最高の価値をもったものもあり、最高の宝物もあるでしょう。ところが、そのような立場で最高の相対的な要件を備えて幸福を謳歌することができる人格が、どこにあるかが問題なのです。

 したがって、人間は絶対的な要件を立てておかなくては、事理を判断することができません。そのような絶対的基準を立てたとすれば時間性と空間性を超越して、問題となることは何もないのです。

◆絶対的な中心となり得る人格基準

 その絶対的中心となり得る人格の基準は、人間の個体だけを中心としては到達することができません。それゆえ、神様や絶対者を追求するのです。人間は相対的な立場で絶対者であられる神様と一つにならなくては、主体的な立場に入っていくことができません。ところが、一つになるには外的な面より内的な面で一つにならなければならないのです。

 私たちの心は、絶対的な最高の基準を求めていきます。それゆえ、神様がいらっしゃるならば、その神様を中心として一つになることを願うのです。ところが、神様は外的分野で一つになることを願うのではなく、内的基準の最高の価値とつながることができる立場で一つになることを願うのです。

 親が子供と一つになろうとするときにも、生活で一つになろうというのではなく、心の世界、すなわち愛の世界で一つになろうとするのです。同様に、人が絶対者と一つになりたいと願うのは、中心的立場に立ちたいからです。

 原理によれば、主体の中には内性と外形があり、性相と形状があり、上下関係があります。すべての根本の主体者が統一の理念と一つの目的観を提示するためには、その主体の中に上下関係がなければならず、前後関係がなければならないという結論が出てきます。

 人間をはじめとするすべての存在は、主体を中心として相対的な立場で、方向を変えていきながら三六〇度で作用しています。では、永遠の幸福を得ることができるその立場はどこですか。主体的な基準の上で主体と一体的な内容をもった、絶対圏内の立場です。その立場はすべてを統率して主管する立場です。そのような立場に立つようになるとき、初めて幸福の要件が生まれるのです。

 人は万物の中心となり、その万物を主管することができる立場で自分が動機となって、万物が相対的要件を備えるようになるとき、幸福を感じます。それゆえ、人間は宇宙の中心である絶対者と内外の関係、上下の関係を総動員した絶対的な基準の前で、中心の立場を決定づけなければなりません。そうでなくては、最高の幸福を感じることができないのです。

 では、そのような関係をどのように結ばなければなりませんか。親子の関係の愛を中心として結ばなければなりません。愛を中心とした親子の関係は縦的な関係であり、夫婦の関係は横的な関係です。それで韓国では、「妻より息子をより信じる」という言葉があります。これは上下関係を重視したものです。

 人間が根本的に追求するのは、絶対者のところに入り、その場で主体と一体なろうとすることです。そのような場に入っていけば、上下関係が形成されます。ここで相対関係が形成されれば、横的にプラス・マイナス、すなわち主体と対象の相対的関係が生じます。これが正に、私たち人間における夫婦の愛というものです。

 私たち人間に一番重要な問題があるならば、それは「絶対者と一つになるべきだ」ということです。「絶対」と「相対」という名詞を追求していくにおいて、人間は相対的基準を超えて絶対者と一つになるべきだというのです。

 そうして上下関係の立場まで入り、すべての存在の起源の絶対者と一つになり、絶対的な内容をもたなければなりません。そのように絶対者と一つになる立場に立つようになるときには、その幸福が自分の幸福になることができ、そのすべての関係と因縁が自分のものとして結ばれるのです。人間は本来、そのような立場で出発するようになっていました。

◆和動の中心体である人間が絶対者と一つになれば

 人間は和動の中心体です。ところが、和動するためには絶対的な中心基準が決定されていなければなりません。ちょうどいろいろな人が拍子を合わせようとするなら、指揮者を中心として上下関係がよくつながらなければならないのと同じです。

 この宇宙の和動の中心体である人間は、絶対的基準と一致した立場にあるので、その人間がとどまる所に宇宙がとどまるのであり、存在世界が彼を中心として作用するのです。そして、その作用によって存在世界に力が生まれるのです。

 神様が今まで嘆いた内容とは何でしょうか。神様は霊的で心のような存在です。そのような神様は、体のような存在と一つになることを願われます。この体のような存在が正に人間です。したがって、人間は心のような存在の神様と一つにならなければなりません。ところが、一つになれずにいます。これが正に、神様が今まで嘆いていらっしゃる理由なのです。

 人間が神様と一つになる場合には、宇宙は自動的に一つになるのです。神様によって造られた宇宙は、人間を主体としてその対象の立場に立っているために、人間が神様と一つとなれば、万有の存在物も神様と人間と関係を結ぶことができるのです。ここでの関係は、お互いに反発的な立場ではなく、相対的な立場として授け受けすることができる関係です。その関係の範囲は超宇宙的です。

 このように絶対者を中心とした相対的関係は、絶対圏内にまでつながっているので、その圏内を抜け出した存在はあり得ません。したがって絶対者と万物をつなげ得る存在、すなわち人間が絶対者と一つになれば、宇宙は自然に統一されるのです。

 歴史時代に人間が願う人格的な中心体が決定されていたなら、必ず和動の世界になっていたはずです。原理でいうように、完全な中心は完全な相対を創造します。存在しているものすべては、相対的な要因を脱しては存在できないので、存在するには必ず主体と対象があるようになっています。言い換えれば、完全な主体があれば相対があるということです。すべての存在は、神様の属性をもって宇宙の中に存在するので、創造の原則により相対的に存在するようになっているのです。

 人間は六千年の歴史過程を通じて、一つの中心となった人格を追求してきました。これを探すために、数多くの先祖が苦労の道を歩んできたのです。

 それゆえ、世界的な人格者ならば世界的な国民をもたなければならず、世界的な国土をもたなければなりません。このような立場で見れば、神様御自身も宇宙的な民をもたなければなりません。神様も同じです。天地を合わせたものを統一教会では「天宙」と言います。ここで主人になることができる人は天民です。そして、この天民が立つことができる基盤は天国の国土です。神様もこのような基盤を備えるべきなのです。

 人間は絶対的な立場に接近して入っていかなければなりません。その次には絶対的主体を中心として相対的なものと関係を結ばなければなりません。その範囲が大きければ大きいほど絶対圏内に近づくことができる立場に立たなければならないのです。したがって、国を治めることができる立場ならば、その国を中心として絶対圏内の近くに入っていくのです。

 歴史時代を超越して、国家の前に代表的な指導者になれば、国家を超えて世界的圏内に間違いなく入っていくはずです。このように、世界的な圏内に入れば入るほど、その範囲が広くなります。そのようになれば絶対圏を中心として、一つの世界圏をつくろうという欲望が生じるのです。このように見るとき、人間は絶対基準それ自体としては幸福ではあり得ません。必ず相対的要件が必要なのです。

 同様に、神様も相対的な人格の基準を決定し、その人格を中心とした相対的な世界をもたなければなりません。そうでなくては幸福ではあり得ないのです。このように、神様に幸福を返すことができる人になれば、その人は歴史時代において基準になるのです。

◆人間が追求する最高の立場

 今まで六千年の歴史過程で、私たち人間は神様を中心とした絶対的な目的と、絶対的な存在と、絶対的な愛を願って追求してきました。しかしながら、そのような目的と存在と愛をつなげ得る立場に立つことができませんでした。歴史的な距離が過ぎましたが、この時代にそのような存在になるには、絶対的な存在から認められなければなりません。これが問題です。今までそのような人は、イエス様一人しかいませんでした。

 イエス様が「神様は私の父である」と言われたみ言以上に、絶対的存在と自分自身との関係を表した明らかな言葉はありません。そして、すべての相対的関係を称する言葉の中に「私は主体であり、あなた方は対象である。私は新郎であり、あなた方は新婦である」と言われたことよりも良い言葉は絶対にあり得ません。

 したがって、このような関係が、実際にすべての人類につながるようにしなければならないのです。つなげるにおいては、物質的価値を中心としてつなげるのではありません。現在の肉的な人間を中心としてつなげるのでもありません。では、何を中心としてつなげなければなりませんか。愛を中心としてつなげなければならないのです。私たちがいくら絶対的な存在を確定し、いくら絶対的な目的を確立したとしても、そこでうれしくなければ全く無駄なのです。生きて生活することがうれしくなければなりません。生活するのは目的成就のためにするのです。その目的を成就したというとき、そこには存在それ自体以上の新しい何かがあるのです。

 それは何ですか。男性なら男性、女性なら女性を中心として見るときに、彼らにとって何よりも最も貴いものは愛です。愛だけが、これとつなげ得る幸福の要因になるのです。人が目的をいくら良く立てたとしても、その目的を主管する主体的な愛の権威を立てられなくなるときには、もう一度新しい目的を追求しなければなりません。目的の限界点は、愛より上ではあり得ないのです。

 では、今までの歴史時代において、「絶対者に対する確認、絶対者の愛に対する確認をした」という人がいましたか。「そのような基準を立てた」と言える人はイエス様しかいません。では、イエス様は、絶対者との関係をどのように確認しましたか。神様を父であると確定したのです。

◆イエス様の降臨の目的と彼が提示した人格観

 では、イエス様が地上に来られた目的とは何ですか。善の世界を成し遂げることです。父と息子が願う新しい善の世界を成し遂げるのです。その世界は、父と息子が絶対的につながってこそ実現し得る相対的な世界です。父と息子との絶対的な絆が関係していなければ、その世界は期待することができないのです。父には息子がいなければなりません。その息子の立場がどんな立場かといえば、絶対者である神様の相対的存在として確定してくださった、神様の相対になり得る立場です。

 では、父と息子が共通して要求することとは何ですか。二人が絶対的な母体となって、この母体と絶対的な関係が結ばれ、互いに通じることができる世界です。その世界以外は、すべて偽物の世界です。そのような世界と関係を結ぶには、手段と方法をもってしてはできません。お金でも駄目です。愛がなければなりません。愛を中心として組織が立たなければならず、秩序が立たなければならないのです。

 人類の共同の目的のために生きる人がいれば、その人は人類愛を中心として一つになるのです。同様に、国民が祖国愛をもっているならば、愛国思想を中心として一つになるのです。国を愛する心が強ければ強いほど、国家を成すために愛国思想を中心として縦的に一つになるのです。愛国運動は一人ではできない立場であるということが分かれば、横的な因縁をつなげなければなりません。これが同志糾合ということです。

 同志を糾合して独立運動をするのも、国を探してすべての国民が幸福になるためだったのです。国を求め得なかった我が民族は、かわいそうな民族です。したがって、幸福になるためには、国を愛する立場で全体が一つになって、愛する国を求めなければなりません。家庭も、幸福になるためには愛する家庭を求めなければならず、世界も、幸福になるためには愛する世界を求めなければならないのです。

 このような観点から見るとき、イエス・キリストが地上に来て説いた内容とは何でしょうか。世界を一つにつなげ得る、永遠の願いの母体になることができる愛を説きました。愛のない所には希望もなく、目的もなく、幸福もあり得ないのです。

 私たちは、イエス・キリストが提示した人格観、すなわち私たち人間が絶対者の代わりだということを知らなければなりません。それゆえ、絶対者の代わりとして、絶対的な愛と永遠の主体性をもたなければならないのです。いかなる苦難があっても、このような主体性をもっていかなければなりません。これがメシヤの思想です。イエス様が願われた世界は、絶対的な世界でした。それゆえ、私たちの願う世界も永遠なものでなければなりません。そのような世界を成し遂げるためには、愛さなければなりません。どのように愛さなければなりませんか。怨 讐を嫌うのではなく、怨讐までも愛さなければなりません。この愛には、すべての宇宙が入っていかざるを得ないのです。

 イエス様は、歴史時代を代表して、そのように愛さなければならない立場に立った方です。それゆえ、すべての人類は、このような圏内に入っていくために一つにならなければなりません。そのためには、ある時代や中心を決定しなければなりません。ここで和動の中心体となることができる主体者が問題となるのです。

 神様は万物を、神様御自身のために造ったのではありません。人間のために造ったのです。人間を存在世界の中心的な存在として造りました。それゆえ、人間には存在世界のすべての要素と性稟が入っているのです。したがって、人間が完全な中心として決定されたというときには、天地が公認するのです。このような人間は、宇宙の和動の中心体の立場に立つようになるのです。私たちはそのような圏内にまで入っていかなければなりません。そのような存在になるためには、どのように全宇宙と授け受けする自分を発見するかが問題です。

 皆さんは堕落した人間として、修道の世界の人格を求めているということを知らなければなりません。このような観点から見るとき、皆さんは修道の世界で人格を決定づけ得る中心の立場に入っていかなければなりません。釈迦もこういう立場に入っていって、「天上天下唯我独尊」と言ったのです。

◆和動の中心体となるべき人間

 では、相対的な被造世界は誰のために生まれたのでしょうか。それは自分のために生まれたのです。誰のためにあるのですか。私たちのためにあるのです。私たちに喜びを与えるためにあるのです。

 それゆえ、人間は自ら動機になって得た結果について、幸福を感じることができる環境をつくらなければなりません。ここに、高次的な愛の理念に発展させるためのみ旨があるのです。人間は万物を愛し、万物は人間に美を返す境地に入るとき、人間は和動の中心体になるのです。

 そのような立場に因縁づけられた人間は、現在の生活にその中心を置かなければなりません。では、いかなる方法を通じてその中心を探すことができますか。和動の中心体の立場を失った堕落した自分自身がその立場を探そうとするなら、どのようにしなければならないかという問題が現実的に登場するようになるのです。

 では、どのようにしなければなりませんか。すべての存在物と比較して、それより大きければ主体になるのではありません。自分は主体になるべきだという自信、言い換えれば相手より優れているべきだという自信がなければならないのです。

 春を迎えて園に万物が蘇生する時、花が咲いたのを見て皆さんは「ああ!
 花が好きだ」と感嘆しながら、それより優れていると考えなければなりません。新しい希望に満ちた姿を見ながらも、それ以上になるべきだと考えなければなりません。また、飛んでいく鳥が歌を歌い、自然と共に和動するのを見るとき、皆さんはその鳥より優れているべきだという自信をもたなければならないのです。大海を眺める時も、広くて大きい海よりも優れており、山に一人いても、天地創造の時に神様が万物を造って喜ばれた内的な心情を、どのようにすれば自分が表現できるかを考えなければならないのです。

 主体は絶対的でなければなりません。すべての宇宙が絶対的な主体と共に一つとなって和動しなければなりません。皆さんがそのような立場、すなわち万物を統合させることができる立場に入っていかなければなりません。そのような圏内に入っていこうとするなら、神様から作用するその動機が必ず介入されなければならないのです。

 このような人になれば、「神様が万物を造るとき、どれほどおもしろく造ったのだろうか。神様が私のために造ってくださったのだなあ」と言いながら、宇宙に対して今まで感じたことを批判しながら、新しい感動を感じなければなりません。道端の苦菜一つを眺めながらも、神様が人間のために造ってくださったということを知らなければなりません。世界を造る時、お父様がいかなる心をもって造られたかを知らなければなりません。

 神様を絶対的な中心として、神様と相対基準を造成して一致しようとすることが、人間の本然の要求であり願いなので、人間がそのような立場に入っていけば、神様が感じられた本然のすべての美と創造の喜びが充満するように感じるはずです。皆さんがこのようなことを体 恤しようとするなら、園に座って朝から夕方まで日が沈むほど思索しなければならないのです。時間がたつことも分からない圏内に陥るべきなのです。そこで息を深く吸い込めば、この宇宙の空気が生命力をもって、すっと集まるはずです。このように、宇宙の生命力と共に生きなければならないのです。
 そのように生きる私自身が、息をすればすべての存在が新しく覚醒し、深く寝入れば万物が相対的に和動することでしょう。このような立場が、万有を統治することができる絶対者の立場です。皆さんはそのような関係にとどまらず、和動の中心体にならなければなりません。そうして美しい自然の形態のようでもあり、宇宙自体のようでもあり得る姿にならなければなりません。そのような境地に入っていくようになるときに、そこで初めて宇宙の和動の中心になるのです。

 このように相手と主体が一つとなった立場に、万物も一つになってこそ幸福になるのです。そのようになって初めて、一つの世界を創造したことになるのです。しかしながら、人間は今までこのような世界と関係をもつことができずに、掛け離れた生活をしてきました。自分の考えだけを中心として生活しながら、それを追求してきたのです。それはむなしいものになってしまいます。

 皆さんが和動の中心体となれば、鳥が飛んでいくことも、復帰摂理のために飛んでいったかのように感じられます。私たちの心中に、そのような伝導体がなければなりません。電気が通じるには、必ず伝導体がなければならないように、私たちの胸中に伝導体がなければならないのです。

 私たち人間には、宇宙を中心とした和動の中心体になろうとする欲望があると同時に、自分を中心として生かそうという欲望が作用しています。それゆえ、後者を根まで抜いてしまわなければなりません。そうすれば、必ずそこに新しい何かが満たされるようになっています。あたかも低気圧が形成されれば、高気圧の勢力が低気圧側に来るのと同じです。道理がそのようになるのです。

 それゆえ、自分の観念を全部抜いてしまうのです。そうすれば、抜いてしまった力に比例するその何かが現れるのです。新しいものを伝達してくれる存在が現れるというのです。

 この世と神様は相反した立場にあります。それゆえ、この世的な欲望を完全に取り出さなければなりません。抜くには、ゆっくり抜いてはいけません。突然に、ぱっと抜いてしまわなければなりません。そのようなことができる人にならなければならないのです。今日、私たちには宇宙的な力が必要です。体と心が一つになり、目的があればそのような力を受けることができるのです。これを知らなければなりません。

 こういう観点から見るとき、人間は和動の中心体にならなければなりません。そのためには、堕落圏内にある自分たちの、この世的な欲望や、すべての私欲を抜いてしまわなければなりません。また、人間には生理的な作用、すなわち繁殖しようとする本能的な欲望がありますが、それが自分を中心としたものとして流れています。すべての人を自分の垣根にしようとします。

 では、誤った私の存在を、どのように否定しますか。自分を中心として考えることは、人を犠牲にして自分がうまくいくということです。すべての人を自分のもとに置いて、彼らの保護を受けるという考えを、どのように否定するのでしょうか。また、誤った生活圏内にあるのを、どのように否定するのでしょうか。その次の問題は、食べて、着て、使うことです。このようなことは簡単なようですが、それをどのように否定するかが問題です。

 自らの生活が誤っていたとすれば、誤ったことを完全に除去しなければなりません。皆さんはそのような境地に入っていかなければなりません。そのような境地に入っていって、必ず必要な人にならなければならないのです。そのような境地に入っていけば、心臓の鼓動が汽笛の音よりより大きく聞こえるはずです。心臓の音が汽笛の音よりも大きく聞こえるほどの境地まで入っていってこそ、和動の中心体になり得るのです。それでこそ、結局主体の立場に立つことができるというのです。

◆和動の中心体となる境界線を越えるには

 では、主体的な立場に立つための和動の中心体となる境界線を、どのように越えるのでしょうか。存在に対する新しい自覚と、新しい目的がなければなりません。神様を中心として人格を形成しなければならないのです。ですから、結局は心情問題なのです。

 今私たちには、何よりもみ言が必要です。私たちがみ言と一つになってこそ、神様と共にすることができるというのです。このようにみ言と一つになれば、その境界線につながるはずです。これは堕落した人間としては、奇跡と同じなのです。

 では神様は、天地創造を誰ゆえにされたのですか。人を対象として、中心となるために造ったのではありません。喜ぶために造りました。喜ぶためには、何がなければなりませんか。目的がなければなりません。目的がなければ喜びがないのです。目的を中心として環境をこの目的につなげなければなりません。しかしながら、この環境には守らなければならないことがあります。このことを守りながら、目的を成し遂げなければなりません。

 話すことも同じです。皆さんの話す言葉は、私的な言葉ではありませんか。全部堕落圏内の私的なものではないですか。皆さんが話す言葉を神様が「嫌いだ」と言えばいいでしょうか。皆さんは、和動の中心体として話し得る言葉を話さなければなりません。絶対者がいらっしゃるならば、その絶対者が公認し得る立場で、その絶対者と関係が結ばれ得る立場で、皆さんは「どのような言葉を話そうか。初めは何の話をしようか」と、このようなことを考えてみましたか。絶対者の前に、どのような話をするのですか。

 皆さんは、父母によって生まれました。ですから、生まれて最初に話すことのできる対象は誰ですか。父母です。自分が生まれて、最も先に言えた言葉は何ですか。「パパ、ママ」です。それ以上の何がありますか。自分が呼ぶパパ、ママは、昔人間が本然の立場で呼んだパパ、ママです。おもしろいことです。皆さん、パパ、ママを一千回、一万回呼んでごらんなさい。パパ、ママの味がどうであるかを知ってください。その味が無窮、無尽なのです。パパ、ママを呼ぶと、そのパパ、ママが答えませんか。呼べば答えるようになっています。なぜかといえば、主体と対象がそのようになっているからです。

 完全な対象があれば、完全な主体が現れるようになっています。これが原則ならば、「パパ、ママ」と呼べば必ず答えるようになっているのです。そのようになれば、互いに喜ぶようになるのです。数えきれないほど呼んでも、返事がなければ喜びますか。神様を求めるのも同様です。子供がお父さん、お母さんと過ごすのと同じ立場で、神様と共に生きていかなければなりません。お母さんの懐でおっぱいを飲んで、ひざの上でうんちをしながら育ちますが、親はすべてを教えてくれるのです。神様との関係もそうです。

 今、私たちは「お父さん」「お母さん」という言葉が真の言葉だということが分かりました。その次に真の言葉は何ですか。その次には「お兄さん」「お姉さん」です。こういう段階を過ぎたのちには、対象を見つけることができます。相対を探すことができるというのです。愛で生まれたので、愛で完成しなければなりません。神様を中心として、世界を抱いて愛さなければなりません。万物を主管しなければなりません。愛を中心とした一つの目的の世界を成し遂げなければならないのです。

 境界線を越える道は一筋しかありません。父母が息子を愛する道は一筋しかないのです。時間的に六千年という歳月が流れましたが、その愛は歴史的な時間と空間を超越できるのです。

 親の愛は絶対的なのです。人間だけでなく、動物も植物もすべて同じです。動物も植物も見えないその何かがあるので愛するのです。このように愛においては、人間も動物も植物も、すべて同じです。見えないそれ自体が愛です。親子間の愛、兄弟間の愛、同族に対する愛は、次元は違いますが、絶対的なことは同じです。人間はこのような愛を中心として、今まで歴史を率いてきました。

 これから私たちは、堕落した世の中を捨てて、本然の世界へ越えていかなければなりません。ところが、問題は捨てることです。人間は誰でも、より好むものがあってこそ、前にあったものを捨てるようになります。より好むものをもたずに捨てる人は、愚かな人です。生命を捨てるならば、生命よりより貴いものを得なければなりません。それでこそ捨てることができるのです。

◆より貴いものを得るためには

 より貴いもののために何を捨てることができますか。貴いものを得るために弟を捨て、兄を捨て、父母を捨てなければならないようなことが起こるでしょう。このようなことが起こるということをはっきりと知らなければなりません。捨てるには、より貴いものをもって捨てるべきなのです。では、兄よりもっと愛することができるものをどのようにもち、弟や母よりもっと愛することができる基台をどのように準備すべきかということが問題です。

 今まで堕落した人間は、そのような基台をもつことができず、より劣ったものを取ってきました。それゆえ皆さんは、愛を中心として全体のためになり得る、より完全な世界のために、誤った環境をけ飛ばしていかなければなりません。その道が遅くても、命を懸けて行かなければなりません。神様と共に愛の世界へ進まなければならないのです。

 より貴いものを得るために捨てなければなりません。自らのすべてを捨てなければなりません。イエス様は、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(マタイ一六・二四)と言いました。自分の十字架を背負うには、自分を否定しなければなりません。ここで否定するという話は、盲目的に否定しろということではありません。

 世の中を捨てたなら、その国を捨てたなら、それよりも偉大な何かを発見しなければなりません。家庭を捨てたなら、それ以上の貴いものを発見しなければなりません。命を懸けてすべてを捨てたなら、それ以上に価値あるものを発見しなければならないのです。そのような内容を発見すれば、後悔なく行かなければなりません。堂々と行かなければなりません。

 貴い価値を発見した境地に入って、これから進んでいくならば、あすの主体になるのです。しかし、皆さんはまだ主体の立場に立つことができないので、み旨に絶対服従して主体になる道を行かなければなりません。

 このような道を歩み出した人々が、イエス様を信じるキリスト教信者たちでした。では、サタンが今まで何をしましたか。このような道を歩んでいく人々に、主体になれないように反対しました。サタンである自分を主体にしようとしました。「この世に生まれて、ただ他の人々のように食べて寝て、そのように暮らせばいいのであって、どれほど生きようとしてそうするのか。せいぜい七十、八十年の短い人生なのに、何でそうするのか。神様を見たのか。この世でただ暮らすことが一番だ」というふうに反対してきたのです。

◆私たちが備えるべき人格

 現在の立場を捨てて、もっと悪いほうに行けば、それが悪です。しかし、神様を中心としてもっと良いほうに行けば、善です。捨てることは同じですが、どこへ行くかが問題です。それゆえ、神様を中心として捨てるべきです。そうして人格体になるのです。そのような基台が皆さんに立てられるのです。

 では、皆さんは統一教会に入って、統一教会の願う人格を備えましたか。み言を通じて人格を備えましたか。では、統一教会の願う人格者になるためにはどのようにしなければなりませんか。今までもってきた人格観を捨てるべきなのです。それゆえに三大審判があるのです。終わりの日には、三大審判を通過しなくては天国に入れません。自分の行動や、自分のすべてを何で否定することができますか。神様の愛でしなければなりません。神様の心情が分かれば、否定することができます。神様の心情が分かることによって、境界線を越えることができるのです。

 これから皆さんは、和動の中心体の立場に立たなければなりませんが、何によってそのような立場に立ったことを感じることができるのでしょうか。皆さんが「今は信仰世界においてある程度上がってきている。今はいい加減に暮らしても地獄に行かない。今はある基準を越えた。境界線を越えた」という事実を、どのように感じることができるのでしょうか。

 天を見て神様をたたえる詩を書くことができ、川の水を見ても神様をたたえる文を書くことができなければなりません。花を見ながらも、その花に恋人のように接し、神様をたたえる文学作品を書くことができる境地に入らなければなりません。そのような境地に入れば、すぐに分かります。しかし、この世的なただそのままの心をもっては、そうできないのです。絶対にできません。

 皆さんは、神様と共にみ言を授け受けすることができ、神様の心情に接しなければなりません。神様の心情に接すれば接するほど、第二の絶対的な中心になるのです。そのようになれば、神様を中心とした家庭の土台の上に立つようになるのです。そのような立場に立った人が、一番良いのです。

 そのような立場に立った人を見れば、なぜか知らないけれど美しく見えます。皆さんもそのようなことを感じたでしょう。なぜなら、本性の絆がその人に投入されているからです。その人の横の姿や前の姿を本性の絆を通じて見たからです。内的世界で実在的な要因を中心として、自分が主体の立場に立っているか、あるいは、その人が相対的な立場に立っているからです。そのような内容をもったので、本心の作用を通じて美しく見える感じがするのです。

◆来られる主は人間世界の和動の中心

 では、今後来られる主はどうなのでしょうか。本心の作用を通じて見ると、すべての人がみな好まなければなりませんが、堕落世界にいるために問題になるでしょう。人の中には歴史的に人間を代表することができる歴史的な存在もあり、その時代を代表する時代的な存在もあるのです。歴史的な聖人を見れば、孔子もいるし、イエス様もいるし、釈迦もいるのです。しかしながら、皆さんは孔子よりも優れており、イエス様よりも優れており、釈迦よりも優れているという心をもたなければなりません。そのような心がわき出なければならないのです。

 神様の絶対的な圏内に接近すれば接近するほど良くなっています。なぜ良いかというと、絶対的な価値の立場に立つようになるからです。それは金鉱を探して一獲千金をねらう人が、岩山で金脈を発見して喜ぶのと同じです。それゆえ、神様に近づけばうれしいのであり、遠ざかれば悲しいのです。

 皆さんは神様と近い立場で歴史的な結実、時代的な結実を結ばなければなりません。そのようになれば、過去に生まれて死んだ善なる人々が喜ぶようになるはずです。今日この地にいる良心的な人も喜ぶはずです。そのような人ならば、サタン世界の自分の父親よりも優れており、兄よりも優れるようになるのです。結局はそのようになるのです。

 すべてを与えることができなければなりません。受けずに与えるべきです。そのようにすれば、後悔がないでしょう。それは一年を過ぎても後悔するものではありません。十年を過ぎても後悔するものではありません。一生をそのように生きるならば、永遠に保障され得る自分になります。このような人格をもって来られる方が主です。言い換えれば、その方は人間世界の和動の中心体なのです。

 皆さんは、すべての人々に好かれる人にならなければなりません。そのような基準を備えなければなりません。すべての人々に好かれる、愛の主体性を備えなければならないのです。最初は、み言の主体性を備えなければなりません。その次は、人格の主体性を備えなければならず、最後に心情の主体性を備えなければなりません。このようなことが統一教会のみ言を中心として成されるならば、何よりも価値あるそのみ言を絶対視すべきでしょう。

◆絶対的な愛を中心として一つになれ

 では、皆さんは夫婦間でお互いに絶対視しましたか。み言により絆が結ばれたので、夫婦はお互いに絶対視しなければなりません。お互いの心情を中心として一つになれば、神様の願いが皆さんの個体を通じて成されるのです。皆さんはアダムとエバが立てられなかった基準を立てて、神様の愛を中心として互いに絶対視し、絶対的に愛さなければなりません。このような愛を中心として一つになり、和動の中心体にならなければなりません。

 夫婦間で目の前の山を見つめながらも、あの山ができたのは誰のためかを尋ね、すべての宇宙を思いながらも、この宇宙が生まれたのは誰のためかを尋ねるのです。そうすれば、私のためであると同時にあなたのゆえに生まれたものだ、と答えるのです。夫婦とは正にこういうものです。この宇宙が生まれた目的を成就させること、主体的な目的を重要視することが、夫婦が一つになる道です。夫婦は心を中心として、人格を中心として、愛を中心として話すのです。

 夫婦は同じ道を行くのです。田舎のお嬢さんでも、長官と結婚すればどのようになりますか。同じ道を行くのです。その田舎の女性が学校もまともに出られなかったとしても、すべての人が長官の奥様と言いながら頭を下げるのです。このように夫婦は一緒に行くのです。夫婦に、「あなたの愛」が別にあって、「私の愛」が別にありますか。「あなたの愛」でもあり「私の愛」でもあるのです。夫婦がお互いに、あなたが私をどれほど愛するのかと尋ねるとき、これくらい愛するなら気分がいいですか。「一番たくさん愛する」と言えば気分がいいのです。

 真の愛を中心として、互いに勧告してくれて、慰労してくれることができる絶対的な人格、絶対的な心情、絶対的な愛がどこから展開するかといえば、家庭です。家庭の夫婦を中心として展開するのです。この夫婦が子供を生んで四位基台を成さなければなりません。家庭が絶対的な人格と心情と愛で一つになるならば、神様を中心とした四位基台が成されるのです。

 そのようになれば、その家庭はすべての和動の中心体になります。万民を代表し、全家庭を代表した和動の中心体であり、氏族の和動の中心体であり、数多くの民族の和動の中心体であり、数多くの国家の和動の中心体になるのです。このように、国家基準まで復帰されれば、世界は自動的に統一されるのです。

◆平和の天国が成されるには

 私たち統一教会員は、心情一致、理念一致、生活一致を成し遂げなければなりません。そのような立場で、絶対性を備えなければならないのです。そうして世界へ進まなければなりません。世界のために行くなら国家が必要です。国家と結合する前に、何が必要ですか。民族が必要です。また、民族が必要である前に氏族が必要です。氏族が必要である前に家庭が必要です。では、家庭が必要である前に何が必要ですか。個人が必要です。

 結局は、私個人が問題です。個人が問題なのです。家庭を抱くことができる私、氏族を抱くことができる私、民族、国家、世界を抱くことができる私にならなければなりません。そのような私にならなくては、世界と関係がないのです。絶対的な圏内にある世界と関係のない私個人になるのです。

 それで、統一教会では絶対的な人格観を模索し、絶対的な価値観を人類に提示しようとするのです。それゆえ、神様の救いの摂理が統一教会を中心として成されるならば、この宇宙の統一は自動的にできるのです。それが原則です。神様を中心とした国家と世界を成し遂げようとするなら、家庭よりも国家、国家よりも世界のためにならなければなりません。

 それゆえ、世界を生かすためにこの国を祭物としなければなりません。この国を生かすためには、統一教会が祭物にならなければならないのです。新しい国家を成し遂げるために、自分を否定して光明の世界へ越えていかなければなりません。そのような世界へ突進しなければならないのです。そのような世界へ突進するにおいて、先頭に立つことなくして、それ以上の権限をもつことができないのです。

 先生が今まで作戦を繰り広げてきたのには目的があります。和動の中心体になるために、この仕事をしているのです。個人的に克服していかなければならず、家庭的に克服していかなければならず、氏族的に克服していかなければならず、国家的に克服していくことが統一教会の行くべき道です。私たちは縦的な中心国家として決定されるまで、その使命を果たさなければならないのです。それを生涯の使命と思って、行かなければなりません。

 今日私たち統一教会は、絶対的な立場に立たなければなりません。そのようになれば、私たちの家庭も絶対的な立場に立つようになり、先生も絶対的な立場に立つようになるのです。また、国も絶対的な立場に立つようになります。このような絶対的な縦的関係が、横的につながらなければなりません。縦的な人が国家に現れれば、その立場が国家を代表した立場になり、氏族に現れれば、その立場がすべての氏族を代表した立場になり、家庭に現れれば、その立場が数多くの家庭を代表した立場になるのです。このように一つの中心が現れてこそ、平和の天国が実現できるのです。

 どのようにすれば、和動の中心体になりますか。現実のすべてを否定したあと、神様を中心として新しく、再び肯定しなければなりません。そうして、誤った現実を収拾していかなければならないのです。そのようにしていかなくては、統一教会が行こうとする道を進むことができないということを知らなければなりません。
















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