文鮮明先生のみ言集
訓教経(上)


祝 福

一九七〇年三月二十二日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第三十巻』


 この地上に生きている数多くの人々はみな、自分が幸福になることを願っています。先祖から何らかの遺業を相続するようになるのを願う人も多く、あるいは親から遺産を相続するようになるのを願う人も多いのです。

 しかし、父母から相続を受けるためには、兄弟の中で誰よりも情がいって、「お前に私のすべてを相続してあげよう」と親が言える息子、娘にならなければなりません。すなわち、父母に認められ得る期間を経なければ、相続を受けることもできず、祝福を受ける場に行くこともできないのです。

◆「祝福」の起源とその成立条件

 そもそも「祝福」というみ言は、統一教会から始まったものではありません。このみ言は、今まで神様が復帰摂理をしてこられながら、心の内で実践されるのを願われたことなのです。神様がエデンの園でアダム・エバを創造され、彼らを祝福して、それが成就するのを願われたのです。しかし、その祝福を今まで誰も実現できませんでした。このように、神様は悲しい立場で、祝福が実現されることを希望の中の希望として待ち焦がれながら、今日までの歴史過程を経てこられたのです。

 このような四千年の歴史過程をたどったのちに、神様は元から与えたかった祝福を最後に決行するために、イエス様をこの地上に送られたのです。神様は、そういう摂理歴史を進められましたが、イエス様もやはりその祝福の位置まで行くことができずに、亡くなられたのです。それ以降にも、数千年のキリスト教の歴史過程で多くのキリスト教徒が殉教の血を流しながら闘ってきましたが、今までその神様の願いをかなえることができませんでした。

 したがって、この「祝福」というみ言は、創世から堕落以降の今日まで、歴史過程を通して神様の心の中に一つの望みとして、いつも願ってこられたものなのです。その望みの一日を探すために、神様は今まで受難の道を歩んでこられましたが、いまだにこの日を探し出すことができません。それゆえ、この一日を探し出したなら、この日は歴史的な解怨が成される日であり、神様の長い間の望みが成就する日になるのです。

 人類は堕落して、神様を中心とした直系の血縁関係をもつことができませんでした。それゆえ、神様と新しい因縁を結び、本来の立場に戻ってこそ、祝福の位置に行くことができます。ところが私たちは、堕落した死亡の世界で生まれたがゆえに、神様を中心とした生命の世界へ戻るためには、復活しなければならないのです。

 しかし、ここで誕生したことだけで終わるのではなく、私たちが成長する過程を経なければなりません。それを経るためには、諸般の蕩減条件を立てていかなければなりません。諸般の蕩減条件を立てていくにおいて、個人的な使命だけではなく、国家的な使命と世界的な使命も共に責任を負っていかなければなりません。このような責任を中心として、どのようにしてきたかによって、祝福という問題が左右されるのです。

 ところが、ある一人の存在が祝福の場に臨むためには、必ず先に備えるべきものがあります。祝福は個人のためではなく、その個人が、氏族、民族、国家、世界の代わりとなる新しい家庭を成し遂げるようにするためのものです。その家庭は、自分だけの家庭ではありません。民族と国家に代わり、さらには世界を代表し得る家庭です。このような家庭を成し遂げるのでなければ、祝福を成立させることはできません。

◆「祝福」の位置とその意味

 人類先祖アダム・エバは、個人としては二人ですが、彼らは歴史的な始発点に立っているので、その二人だけで終わるのではありません。その二人を通して、新しい家庭が顕現するのです。さらには、新しい氏族、民族、国家が顕現するのです。このような世界的な基盤が決定する立場が、正に祝福の位置です。

 そのような祝福の位置をアダム・エバが堕落することによってなくしてしまったので、私たちはこれを再び復帰すべき立場に立っています。祝福は、私たち個人の祝福と考えてはなりません。「祝福の基盤である民族と国家の基準を越えることができる立場で祝福を受けるべきだ」と心に誓わなければなりません。それでこそ、復帰摂理を完結することができるのです。

 それゆえ祝福の場に行く人は、自分がどれほど厳重な立場に立っているのかということを知らなければなりません。その位置は、過去から今日までつづられてきた歴史過程でのすべての悲しみを清算し得る位置であり、また今まで成就できなかった神様の願いが新しく出発できる位置であり、新しい未来を出発する契機とし得る一起点なのです。

 今までの六千年歴史は、一人の男性を探すための歴史でした。アダム家庭から今日まで、数多くの預言者や烈士が犠牲の代価を払いながら探してきたのは、一人のアダムである男性でした。その男性を探したのちには、その男性による一人の女性を探さなければなりません。神様はアダムをまず創造なさったのちに、そのアダムを通してエバを創造されたのです。それと同様に、彼らはまずアダムを探すための歴史的な責任を果たすために、今まで神様を中心として闘ってきたのです。

 そのアダムを探せば、その日からエバを再創造していかなければなりません。再創造するのは、道理にかなっている環境でするのではありません。国家なら国家、世界なら世界を前に置いて、再創造したという勝利的な決定点を完全に解決しておかなければ、祝福を成し遂げることはできないのです。

 アダム以降に失敗したすべてを蕩減するために、一人の男性として生まれた方がイエス様であられます。しかし、イエス様もみ旨を成し遂げるにおいては、一人ではできないのです。いくらイエス様がイスラエル民族に対する摂理のすべての内容を相続したとしても、イエス様一人では国家を形成することはできません。イエス様が国家を形成するためには、まず新しい家庭を編成しなければならないのです。

 新しい家庭を成し遂げるには、地上にいる数多くの女性を代表し得る一人の女性を探さなければなりません。国家的、世界的に、全体の中から数多くの女性を代表し得る一人の女性を探さなければならないのです。その一人の女性をサタン世界から探し出そうとすれば、歴史過程で数多くのサタンが反旗を翻して反対したことを取り去る闘いをしなければなりません。すなわち、四千年間サタンに侵犯されたすべてを完全に越えられる勝利的条件をサタンに提示しなくては、失ったエバを取り戻すことができないのです。それで歴史的な女性になるためには、歴史的に失敗して追い込まれた内容を清算しなければなりません。また時代的なエバになるためには、時代的なすべての女性を代表して、天の前に忠孝の道理をすべて成した一つの基準を立てなければなりません。そして、一人の女性として、一人の男性に対して烈女の心情をもっていくべきです。

 そういう一人の女性が現れなければ、今日まで歴史過程を通して願われてきた、復帰された一人の実体であるエバを探すことはできないのです。歴史上のすべての女性を代表し得る、一人の実体を立てることはできないのです。

 しかし、一人の女性を探すために背後の環境をつくるということは、そんなに簡単な問題ではありません。その場には、世界史的な内容が入っているのです。その一人の女性を探せば、その一人の女性によって新しい民族が形成されるのであり、新しい世界が形成されるのです。

◆祝福行事の意義

 エデンの園で、エバを堕落させた天使長の立場に立ったこの世界でエバを探し出すには、天使長の代わりに、エバの行く道を協助してあげられる一人の男性格の存在がいなければなりません。

 私たち統一教会では、一九六〇年代に「祝福」というみ言が出てきましたが、このようなみ言と生活を私たちに提示するようになったのは、一九六〇年代にだけ該当するものではありません。歴史過程を通して、摂理が広がるあちらこちらに、あるいはそのたびごとに、神様の願う最高の望みは、「祝福」という一つの基点を準備することなのです。

 それで祝福の基点の上に現れた中心存在は、その時代という制限された環境にだけ置かれている存在ではなく、世界史的な内容をもった中心人物です。それゆえ祝福は、夫婦の因縁をもつことだけで終わるのではなく、その祝福によって、新しい家庭が形成されなければならず、新しい氏族、新しい民族、新しい国家が形成されなければなりません。

 こういう観点から見るときに、一九六〇年代から新しい歴史時代に入ったというのです。新しい歴史時代に入ることによって、新しい氏族がここに顕現するのであり、新しい国家、新しい世界の形成がここに繰り広げられるのです。今まで、このような基点を中心として統一教会では、数回にわたり祝福行事を挙行したのです。

 この祝福は、受けることだけで終わるのではありません。このような行事を経て、民族と世界、復帰摂理の路程の前に、一つの勝利の盾、勝利の基点を広めてきたのです。祝福とは、このように途方もないことなのです。

 私たちはそういう事実を、内的な心情で体恤しなければなりません。神様の前に、そういう男性と女性がいくらたくさんいたとしても、その数が問題ではありません。ここには必ず一人の男性と女性、ただ二人だけいるというのです。それゆえ、その二人が転換期を迎えて、新しい出発をするには、神様が探して立てた再創造の実体の姿を具備して登場しなければならないのです。

 そうして、天地を中心とした新しい世界が展開されなければなりません。個人なら個人が「私はこういう息子、娘になります。この息子、娘が行く道は、あなたが願われる国のために行く道です。国だけではなく、あなたが今まで追求してこられた世界のために行く道です」と言うことができなければなりません。

 行く途中には困難がたくさんあるでしょうし、困窮の曲折もたくさんあるでしょう。しかし、そのようなことが問題ではありません。何としてもこのすべてを突破して、国家を超えて世界へ行くことのできる夫婦にならなければならないのです。

◆祝福の因縁を結ぶための位置

 一人の男性、一人の女性として、一生を同伴して暮らすのが祝福を受けるための基台ではありません。その位置は、新しい世界を形成するための運命を担っていかなければならない、決定的な因縁を結んで入る位置です。

 この道は行きたいからと自分勝手に行ったり、行きたくなければ行かなくてもよいというような、そのような道ではありません。必然的に行かなければならない、私たちの運命の道です。この道は、私たちにとってただ一回しか与えられない、二度とない道です。もしここで誤った場合には、再び「復帰」という名詞を探して立てることのできない、最後の道になるのです。

 アダム・エバの堕落は神様を中心としたものではなく、サタンを中心としてなされたのです。本来、愛は神様によってなされるべきであったのに、アダム・エバの堕落によって、その愛がサタンによってなされた結果となりました。しかし、愛を中心としてはいつも神側が初めとなり、結果になるべきなので、神様は今まで愛を標準として復帰歴史をしてこられたのです。

 個人が愛の勝利をもたらすには、神様と一つとなり得る自分にならなければなりません。家庭ならば、夫と妻が完全に一つとならなければなりません。家庭の起源となる夫婦が、完全に一つとならなければなりません。完全に一つとなって、堕落したアダム・エバに対する神様の悲しい心を消してしまい、神様の心にしみた怨恨の心情を解怨しなければなりません。そうすることができる夫婦にならなければなりません。

 神様が天地創造においてアダム・エバを造られたとき、まず万物を造っておいて、その万物の中心であるアダム・エバを栄光の実体として造りました。そして、彼らが歓喜に満ちた勝利を確かめることができる、祝福の一日が来ることを願われました。しかし、アダム・エバが堕落することによってそのみ旨を成し遂げられなかったので、今日私たちは、私たち一代でその望みの一日を完結することができるようにしなければなりません。その勝利の栄光をより高めるために、私たち自らが全天地の前に褒めたたえてさしあげなければならないのです。

 この祝福を見つめながらイエス様が死んだように、復帰摂理の途上に生まれて逝った数多くの人々の望みも祝福でした。それゆえ、霊界に行っている数多くの霊人も、必ずこの祝福の因縁が結ばれることを願っているのです。

 聖書を見れば「義の冠」、「愛の冠」という言葉がありますが、その冠は何を表象しているのでしょうか。それは、神様の前に祝福の相手と共に、神様が許される国の民になることです。そのような特権を神様から与えられるのが、冠という象徴になっているのです。

 今日統一教会でなされるこのような祝福は、平面的に制限された環境の立場にだけ及ぶのではありません。過ぎた歴史の過程を通して、現在を通して、未来を通して、あるいは霊界の数多くの霊人が必然的に追求して、渇望してきた望みの基点がここで成されていくのです。

◆私たちがもつべき道理

 そのような面から見るとき、神様がアダムの代わりに、あるいはイエス様の代わりに召される立場に自分が立っているか、新しく来られる主に代わり得る立場に私が立っていると認めることができるか、ということが問題になるのです。それゆえ、皆さんは過去から現在に至るまで、自らの生活を批判してみなければなりません。

 私たちの中にも、自分なりに考える人が多くいます。「教会で常礼としてするのが祝福だ。私自身もこのような条件が成立しているから、そして教会に入って何年たったから、それに該当し得る資格者になっただろう」と考えるでしょうが、そのように考えてはならないのです。

 この日は、神様が六千年間も願われた一日なのです。この一日を迎えることによって、失った息子を捜すようになるのであり、失った娘を捜すようになるのです。これらを通して神様の愛を連結することのできる一致点がつくられるのであり、ここから神様がみ旨を繰り広げることのできる横的な根拠地がつくられるのです。このように、神様の内心に一致することのできる心をもち、祝福の一日を迎えるために準備する息子、娘が今までいなかったのです。

 私たちの姿を見れば、顔には耳、目、口、鼻がすべて備わっていて、体には四肢五体が備わっています。これらすべてのものが合わさって神様の前に現れるようになるとき、神様は私たちのどの部分を愛されますか。神様は、ある一部分だけを中心として愛されるのではありません。すべてを愛することのできる息子、娘になることを願われるのです。神様が願われる基準は、五十点ではありません。神様は六十点、七十点でもない、百点以上を願うのです。

 その百点以上の基準は、アダム・エバが堕落した基準ではありません。神様の前に、すべてを蕩減復帰してさしあげる基準の立場なのです。言い換えれば、エデンの園で堕落する前のアダム・エバ以上の価値を追求する父の心だというのです。

 もし、このような条件を成立させることができなければ、今日までの神様の威信は地に落ちるようになるのです。神様は、サタンがアダム・エバを侵犯して、その栄光の一日を蹂躙したことを凌駕する立場で、新しい祝福を受けられる夫婦をもたなければなりません。サタンが神様の息子、娘の所に訪ねていって、再び取ることのできる立場に立てば、神様は威信を探して立てることができなくなるのです。

 それゆえ私たちは、何らかの自分の事情をもってを受けようとしてはなりません。祝福の位置は、天と談判した結果に立つ立場、神様が認めざるを得ない立場から出発しなければなりません。これが堕落した人間として取るべき態度です。そうできない時には、敗北者としてその場に残るようになるのです。その場で一度間違うようになれば、億千万年の子孫が引っ掛かって入っていくようになるのであり、先祖まで引っ掛かって入っていくようになるのです。

 では、イエス様はこの地上に来られ、何ゆえに失敗したのでしょうか。イエス様が来られて三十余年間、御自身が語るべきみ言をすべて語ることができずに失敗したのではありません。また、公生涯路程で弟子たちと、あるいは親戚たちとしなければならないことができなくて失敗したのでもありません。失敗のきっかけは、ただイエス様が祝福の場に行くことができなかったためなのです。

 十字架を背負われた直接的なきっかけも、イスラエル民族が裏切り、ユダヤ教徒が反対したからというよりは、ヨセフ家庭でそういう祝福の一日をもつことができなかったところにあります。そのような一日をもっていたなら、イエス様は十字架上で亡くならなかったはずです。

 今まで人類が苦痛の中で呻吟している原因は、堕落して祝福の場に立てなかった先祖をもったからです。その悲運の歴史があったがゆえに、今まで長らく子孫たちは呻吟しているのです。この世の人類が、天の前に一様に願うのは、正に祝福の一日です。これはあとにも先にもない歴史的な事実です。

◆祝福家庭の責任

 人は誰でも祝福を受けなければなりません。そして、祝福を受けた夫婦は、祝福を受けたその日から果たすべき責任があります。その責任は、夫婦が合わさって家庭を成して暮らすのではなく、二人を合わせて民族と国家を形成しなければならないのです。

 祝福を受けた人が十人ならば、十人の家庭を合わせて新しい世界観をもち、一つの新しい氏族を編成しなければなりません。新しい国家を形成するには、まず新しい氏族を編成しなければならないのです。その氏族は、分裂した氏族ではなく、一つに統一された氏族でなければなりません。

 祝福を受けた十人の目的は、互いに同じでなければなりません。これらの家庭は、サタン世界で探し立てた少数の家庭なので、いつもサタン世界の攻勢を受け得る立場にあります。それゆえ、いつも一つになって団結し、その環境を圧倒し、入ってくる外部の力を凌駕できる自体内の結束をしなければなりません。その力を凌駕するには、自体内の完全な統一が成されなければなりません。

 このように一つになった姿となるならば、いくら外的にはサタンの侵犯を受けても、十分に勝ち抜くことができるのです。このように結集された実体を備えるところから、サタン世界の侵犯を受けない新しい氏族が形成されるのです。そういう団結された氏族を通して民族が形成され、その団結された民族を通して新しい国家が形成されるはずです。

 もし私たちが、この地上で祝福を受けた家庭として行くべき道を行くことができなかったときには、霊界に行って生きることができません。皆さんは、祝福を受けた夫婦として天上に行って幸福に暮らすようになると思っていますが、そのようになってはいません。祝福を通して私たちは、万世の存在世界で栄光の実体の中心にならなければなりません。それが創造本来の姿勢です。

 世界には数多くの国があります。サタン世界でこのような国家がサタンの陣営になっているので、天に代わってこれらをすべて勝利の決定圏内に探し立てなければなりません。それで神様の前に、栄光と称揚を捧げることができる立場に立たなければなりません。

 私たちが、このような本然の位置に立つことができない立場で霊界に行けば、自分が安息できる場所を得ることはできません。それゆえ自分の夫、あるいは妻だけでなく子供たちまでも率いて、世界を復帰するために協助できるようにしなければなりません。そのような立場に立った家庭が正に祝福家庭です。

 私たちが知るべきことは、霊界と肉界は全く違うということです。心で考えられる世界をそのまま具体化させた世の中が霊界です。み旨に対して忠誠を尽くすと心の底に大切にしまっておくだけでなく、必ず相対的な実体を同伴しなければなりません。それで心と体が一つとなり、必ず地上で良い結果をもたらさなければならないのです。

 私たちが地上で備えるべきことをみな備えられず、サタンに心を奪われた立場で霊界に行くようになれば、実体の行動をどのように展開することができますか。この地上で責任を果たせないときには、自分の子孫を代わりに立てなければなりません。自分を救うことができるメシヤのような立場にその子孫を立てて、彼らを助け、彼らの事情を見ながら協助してあげなければなりません。彼らをして、自分が生きている時にできなかった責任分野を成し遂げることができるように協助しなければなりません。これが再臨復活の現象です。

 もし私たちが、霊界に行って再臨復活しなければならない立場に置かれるならば、そのような立場は幸福であるはずがありません。自らの責任を全うしない人は、責任を全うした栄光の座に行くことができません。霊界は無限な功績の世界であるがゆえに、自らの責任を遂行することができなければ、責任を遂行するために数千、数万年の時間が延長され得るのです。したがって、今日私たちが生きているこの時が、どれほど貴重かを知らなければなりません。

◆祝福家庭が抱くべき望みと信念

 イエス様が探し立てようとする一人の相対、言い換えれば、祝福の対象者はイエス様御自身にだけ属した人ではなく、世界に代わり得る人です。彼は世界に代わり得る中心存在なので、その中心の立場を世界から任命されるまでこの道を行かなければなりません。それで誰でも、祝福家庭を成したとしてもこの道を行かなければならないのです。

 祝福家庭は、すべての願いを国家と世界のための家庭という信念に置かなければなりません。国家と世界を形成し得る、神様の代わりの者であるという責任感をもち、また、そのような心をもって一切の行動をそこに結束させなければなりません。

 私たちが制限された環境で仕事をしたとしても、誰の命令を受けて仕事をするかが重要です。神様の命令を受け、あるいは世界と国家の召命を受けて仕事をしているという信念をもたなければなりません。世界に代わる仕事、国家に代わる仕事を制限された環境でしているのです。個人を中心とした仕事も同じです。それは命令を受けた背後が違うことによって、その仕事の結果も違ってきます。

 世界を代表して仕事をすることも、私一個人がする仕事もとりわけ差がないようですが、世界の命令を受けてから仕事をするというときは、世界に結束されるのです。同様に、国家の命令を受けて仕事をするというとき、環境は制約されても、これは国家の前に寄与するのです。

 したがって、今日の個人の生活、あるいは祝福家庭の生活は、自分たち夫婦のためにだけ生きるという観念を超越しなさいというのです。そうでなければ、この地上に蕩減条件を立てて、世界を復帰するのに、功臣という基準を残すことができないのです。私たちがそのような基準を残すことができないならば、霊界に行って自分の行く道を管理できません。もし、そのような立場で霊界に行った人がいるならば、その人に対しては厳格に処理するしかありません。

 それゆえ、私たちが祝福を受けて行かなければならないその道は、自分たち夫婦のためだけの道ではないのです。夫婦のために生きる前に氏族のために生きることによって、夫婦として安息できる立場が繰り広げられるのです。氏族は国家のためになるべきであり、国家は世界のためになってこそ、安息できる場がつくられるのです。

 このような観点から、祝福というものは個人のためのものではないというのです。私たち各自は「祝福は全体を代表することだ」という信念さえもてばいいのです。そのような立場で、互いが一つになって家庭を形成するようになるとき、初めてその家庭は、世界へ向かうことができる家庭になるのです。そのような祝福家庭が一家庭しかないときは、その一家庭がその責任を絶対的に負わなければなりません。

 そのように進んでいく過程で一家庭一家庭が残っていくようになれば、そのような信念のもとで歩んでいる家庭が多ければ多いほど、復帰歴史は進展するのです。しかし、同じ道を歩む家庭がいくら多くても、互いに頼ってばかりではいけません。各自が自らの自主性をもちなさいというのです。そのような家庭が国家のための家庭であり、世界のための家庭です。そのような自覚のもとで歩む家庭ならば、その家庭で生まれた子孫たちも国家のために、世界のために生きる人になるはずです。

 そのようになれば、歴史的な夫と妻になり、子孫は神様の復帰摂理の途上で世界を復帰し得る、必要な氏族になるはずです。そのような氏族的な因縁を備えることのできる夫婦になるならば、彼らは新しい時代の先祖の立場につくはずです。こういう途方もない責任と使命を与えられる因縁を決定するために出席する席が、祝福の席なのです。

◆祝福家庭が行くべき道

 祝福を受けるにおいて、常習的な観念でその過程を経る者になってはいけません。その過程を経ただけでは、いけないというのです。祝福につづられた事情や因縁が、どれほどあきれ返るほどにもつれているのかを知らなければなりません。それを知るようになれば、世界が左右されるのです。その一つの目的に向けて、方向を合わせていくようになれば、世界がその方向に向いてくるのです。

 祝福を受けた夫婦は、自分たちの思うとおりに生きることはできません。一つの公約のために、あるいはその国の公約のために生きなければなりません。自分の相対の優劣が問題ではなく、行くべき目的性が問題なのです。

 それゆえ、自分を愛する前にまず国家を愛し、世界を愛さなければなりません。これが祝福を受けた家庭として行くべき道です。夫も妻もすべて同じです。夫や妻に自分を愛する代わりに国を愛し、世界を愛し、天を愛しなさいと言うことができなければなりません。

 もしアダム・エバが堕落しなければ、彼らが愛する愛は天地に代わった愛となるのであり、世界に代わる愛、国家に代わる愛、民族に代わる愛となるのです。ところが、すべてが堕落によって始まったのです。

 祝福家庭は本来、人間始祖が堕落して神様に対してできなかった愛を探さなければならない運命にあり、世界と国に対して愛することができなかったことを探すべき運命にあります。このためには国家を越え、世界を越え、天を愛さなければなりません。

 それゆえ私たちは、天を愛したという公認を受けて世界を愛さなければならず、世界を愛したという公認を受けて国家を愛さなければならず、国を愛したという公認を受けて氏族を愛さなければならず、氏族を愛したという公認を受けて家庭を愛さなければなりません。このように、家庭まで愛したという公認を天の前に認められたのちに初めて、夫婦間で愛さなければなりません。

 自分の家庭より氏族をより愛さなければならず、国をより愛さなければならず、世界をより愛さなければなりません。その次に、自らの親戚と祝福を受けた同僚を愛さなければならないのです。このようにして互いに連結された一つの家庭があるならば、その家庭はいくら多くの人々の中にあるといっても、見れば目立つのです。男性と女性が一つになって結合したその家庭では、国家を愛する形、世界を愛する形、天を愛する形が現れるのです。

 それゆえ、祝福家庭は今まで世の中の夫婦たちが慣習的に使ってきた「自分だけを愛してほしい」というような言葉を使ってはなりません。妻である人は、そういう夫にならないように精誠を尽くさなければならず、夫である人もそういう妻にならないように精誠を尽くさなければなりません。お互いが力と力を合わせて助けてあげ、導いてあげなければなりません。その道を行くにおいて心を痛めないように、互いが勇気を与え、互いが導くとともに、導きを受けなければならない責任を負っているのが夫婦であり、家庭であるというのです。

 祝福を受けた家庭は、祝福を受けたその日から、各自二重的な十字架を背負っていかなければなりません。男性は自らの世界だけでなく、女性の世界までも責任を負うべきであり、女性もまた自らの世界だけでなく、男性の世界までも責任を負うべきです。このように二人が責任を負っていく道において、サタンが讒訴できる内容を残してはなりません。これが祝福を受けた人々の責任です。

◆祝福家庭の生活

 そのように行くことができる私自身になっているかという問題、そのようにできる内容を私自身が備えているかという問題について、ここに「蕩減条件」という言葉が出てきたのです。

 蕩減条件を立てるには、まず信仰の三子女が絶対に必要です。アダムとエバが堕落することによって、その八人家族が堕落したために、その八人家族を代表できる基準を越えなければ行くことができないのです。それを備えずに「民族のためだ、国家のためだ、世界のためだ」という言葉は、単なる形式にすぎないのです。このような出発起点で初めて、「この基準は絶対的だ」と言えるのです。その絶対的な基準を解決していかなければならない運命の道にあるのが、祝福の立場です。

 ここに数多くの家庭の中で中心になれる家庭があるならば、その家庭は、多くの家庭の中で天が最も愛する家庭になるはずです。反面、互いがみ旨を忘却して自分たちだけで愛しながら生きるならば、天の前に恥を感じなければなりません。

 み旨を前にして、自分たちだけで因縁を結び、自分たちだけの幸福を探して家庭を切り盛りする立場に立てば、発展しません。したがって、家庭に良いことがあれば、それは国と共に、世界と共に、天と共に関係を結ばなければならないのです。その家庭の喜びは国の誇りであり、世界の誇りであり、天の誇りでなければなりません。

 私たちが息子、娘を生むようになれば、そのような立派な息子、娘として、神様の前に捧げられなければなりません。私自身は、たとえそのような立場に行くことができなくとも、私が天を慰労し得る立場を成してさしあげる日が必ず来るはずだという信仰をもち、精誠を尽くすようになるとき、その息子、娘たちが世界と国の前に必要な存在として現れるようになるのです。しかし、自分たちを中心として、自らの幸福を模索する家庭は、天のみ旨を利用しようということにしかなりません。

 私たちは、相対を求めるところにおいて熾烈な戦闘をしなければなりません。私が彼を引っ張っていくか、彼が私を引っ張っていくかして、いずれにせよ二人の中から一人でもまず行かなければなりません。その二人のうち一人は前に行き、一人はついていく立場に立ってこそ、必ずこの道を行くことができるのです。

 では、ここで誰が主体になり、誰が相対になりますか。信仰生活において、主体になる人が自分の妻ならば、たとえ妻だとしても仕えていかなければなりません。妻の前に絶対服従しなければならないのです。男性だとしても、大声を張り上げてはいけません。

 女性も同じです。男性が主体になって責任を負っているときには、男性に対して外的な問題をもってあれこれ言ってはいけないのです。問題は、み旨に対してどれほど忠誠を尽くすことができるかということです。互いにみ旨が自らの生命の中心になれるかどうか、それが問題だというのです。

 それゆえ、個人が願う相対的基準ではないといって落胆してはいけません。彼がみ旨を思う心が自分より秀でていれば、「彼を通して世界を探していこう」と言わなければなりません。そのようなことができる男性、そのようなことができる女性を探して立ち上がらなければなりません。外的な形態を備えた学士や博士より、純真で純朴な農村出身者と暮らすほうが、より幸福になることもあるのです。自分を前面に押し出して大声で騒ぐ人よりも、黙々と引かれる所に行き、どのような場所においても永遠にその場を守ることができるそのような人が、天の前により必要なのです。

◆祝福は二度あり得ない

 私たちがみ旨を前にして歩んでいくにおいて、自分が欲張れば、逆に行くのです。そこには自らの欲を介入することはできません。もし祝福を受けてから、互いに自らの利益のために欲張って生きる夫婦がいれば、その夫婦はアダム・エバが堕落した姿を再現することになるのです。堕落とは、欲で始まったのです。

 祝福は、あくまでも神様を中心として愛の因縁を結んでいかなければなりません。「私はこういう人がいい」と言って、自分だけを前面に押し出す人には、絶対に天が同調しないはずです。自分たち同士が気に入った人は、絶対に祝福をしてくれません。祝福を受けるためには、信仰の正規の過程をたどらなければなりません。

 本来愛は天から始まるべきなのに、人間が堕落することによって、サタンから始まりました。堕落はサタンから、エバから、横的に始まったのです。私たちは、その横的な子孫です。

 それゆえ、私たちは祝福家庭として現在の立場にとどまるのではなく、発展しなければなりません。国家の運勢を抱え、世界の運勢を抱えて生まれ得る子孫を生まなければなりません。結婚とは、新しい民族、新しい国家を形成するために、そのようなことができる人材を模索しようとすることです。今まで人々は、「自分のために結婚する」と言いましたが、私たち統一教会の結婚は、民族のために、世界のためにあります。

 民族は二つではあり得ません。私たちは民族のための夫婦であるがゆえに、結婚は一度しかできないのです。私たちは世界のために、神様のための夫婦であるがゆえに、結婚は一度しかできないのです。

◆精誠の重要性

 そのために、私たちが結婚して暮らしている生活がどんなに貧しく困難でも、世の中で最も悲惨な生活をしていても落胆してはならないというのです。悲惨に生活するけれども、自らの家庭が、歴史路程にあった数多くの家庭を救う救い主の家庭になることができるのです。

 いくら難しい立場で、不幸に暮らしているとしても、それを嘆いてはなりません。その場が世の中のすべての人々を蕩減復帰させるために、または、霊界にいる霊人や今後生まれてくる後世の子孫の代わりに道しるべになって、行くべき道を開いてあげる主体者となる立場であると考えなさいというのです。そういう救い主の立場に立つために、私が今生きていると考えなければなりません。

 統一教会で祝福を受けた夫婦は、自分の妻が死に、あるいは夫が先に死んだとしても、嘆いてはなりません。自分勝手に再婚してもいけません。勝手に再婚すれば霊界で引っ掛かるのです。これは必ず天の前に報告して、天が指導するとおりに行かなければならないのです。

 そのようにならないとすれば、結果がどのようになるでしょうか。地上では現れません。しかし、霊界に行ってみなさい。その人は間違いなく、サタンよりもっと悪なる立場に立つようになるのです。

 この問題に基づいて、歴史が六千年間ひっくり返ってきたのです。このように祝福の立場は、ものすごい立場です。適当に自らの感情を通してできることではないのです。一人の生命の価値は、宇宙よりも貴いのです。その一人については、永遠を基準として責任を負わなければなりません。こういう問題が左右される立場が、祝福の立場です。自らの一生でそういう一時をもったならば、その人は幸福な人です。このような途方もない祝福の場に加担するためには、歴史的な決心をしなければなりません。

 私たちの今現在の立場は、氏族を中心として、国家と世界につながっているそのような立場に立っています。こういう立場で世界人類に代わり、民族に代わり、氏族に代わって祭司長の責任を果たすという宣誓をしなければなりません。私たちの家庭は、歴史時代において、天を中心として残ることのできる家庭であり、世界の前に必要であった家庭であり、神様の愛の世界において必要であった家庭であるという、絶対的な内容を残すという決意のもとで祝福を受けなければなりません。

 神様が探してこられたその家庭の基準は、私たち自らの家庭にだけ限定されるのではありません。神様が探し立てた家庭は、世界へ行くことができるのです。国家を代表し、世界を代表し、天を代表し得る家庭をつくるために探してきた歩みが祝福の歩みであるがゆえに、天の父母の家庭を通して祝福を受けなければなりません。その祝福を受けたのちに、精誠を尽くす家庭として正常な道を行くとき、その息子、娘は大運をもって生まれるはずです。

 その父と母がどのように愚かであるとしても、彼らの子女は天の運勢をもって生まれるのです。ですから、天の運勢をもって生まれることのできる後孫は、父母が精誠を尽くす基準によって、その内容が決定されるのです。国のために、世界のために、天のためにどれだけその心が切実だったかによって、どれだけ誠を尽くしたかによって、今後生まれる後孫の運命が左右されるというのです。

 自らの欲をもって動いてみたところで、天は彼に同調するのではなく、離れるのです。自分個人の欲望を充足させるための愛をもって出てくるようになるときは、神様はそこにいらっしゃいません。必ず世界と国家と民族のための立場にいるときに、共にいらっしゃるのです。それでより広くて高い愛を探し立てなければならないのが、祝福家庭の道なのです。

 祝福を受けるにおいて「私はあの人と受ければいいなあ」と、このように胸中に自らの相手として結んでくれるのを希望する人がいるなら、その人は神様を冒Bする人です。エデンの園でアダムとエバが堕落する時と同じです。アダムとエバが長成期完成級で堕落する時に、互いが自らの相対であることをはっきりと知らなかったのです。知らない立場でサタンの誘惑によって、知らず知らずにそのような結果をもたらしたのです。

 祝福の相対の決定は天がなさるのです。父母がなさるのです。すなわち、アダムの父である神様がなさることです。このようなことを見るとき、韓国の伝統的婚礼法は、天法に合っている結婚方法です。父母の承諾なしには、絶対に結婚ができないのです。

 それゆえ、息子、娘は自分に好きな人が心にあれば、すぐ父母に報告しなさいというのです。その人が好きだという言葉が口から出てくる前に、まず父母の公認を受けなければなりません。二人が付き合ってもよいと父母が認めてくれれば、それでいいのです。報告して恋愛をするのは、罪にならないのです。しかし、報告しないでそうすることは、認めることができません。

 私たちの世界は、堕落した結果の世界です。人間始祖アダムとエバが、青少年の時に何らの許諾なく愛の種を蒔いたことが、今日の青少年から収められているのです。大豆を植えれば、大豆を収め、小豆を植えれば小豆を収めるように、人間始祖がそのように堕落したので、そのように収め得る時代が、今世界的に迫っているというのです。

◆一生一代で最も貴いものは祝福

 祝福は、自分一代でも永遠においても、一度しかあり得ない最も貴い場です。その最も貴い場で、最も貴い方と共に決定して越えていかなければなりません。天がここに降り立たなければならないのです。そうして、天と共に決定する最も貴い実体にならなければなりません。

 こういう貴い実体を自分勝手に決定していくのは原則ではありません。これを間違ったがゆえに、堕落の恨が今までしみついているのです。これを蕩減していかなければならない私たちの立場で、どのようにこの貴い位置を探していくかということが問題なのです。

 それで、統一教会では恋愛をしてはなりません。愛は天から始まり、天で終わらなければならないのです。では、これから世界を中心として祝福の機会がある場合には、どのようになるでしょうか。私たちに祝福を相続してくれるのです。その父が所有しているものを息子に譲れば、それは息子に移るのです。

 その所有権は同じです。そこに収穫されたすべての結実を相続した人が管理をするように、それを相続した人が、どんなに年齢が足らず自分より若くても、その人の管理のもとで調整されなければならないのです。ここでは、優秀であるか愚かであるかは問題になりません。

 これから先生が、これを引き継ぎするようになる際に、その相続を受けた人がどんな障害者であるとしても、その人の前に行って祝福を受けなければなりません。そのような時が、間もなく来るはずです。こういうことを悟り、この祝福の位置が私たち自身の一代において、ただ一度しかあり得ない、最も貴い因縁を決定する立場であるということを知らなければなりません。

 先生が「この人は君と天によって定められた似合いの配偶者だ」とぴたっと決定してあげれば、それは間違いないのです。先生は、相手を選んであげるために、夜もろくに睡眠をとりません。他人の生命問題、霊魂の問題に責任を負った立場では、これが簡単な問題ではないというのです。

 よく見れば、生まれつき星回りの悪い人がいます。顔を見れば、何度も嫁に行かなければならないタイプがいるのです。そのような人は、未亡人になるタイプです。目を見ても、唇を見ても、鼻筋を見ても、間違いなくそのようになっているのです。そのような人は、それ以上の男性に会うようにしてあげなければなりません。

 そのような女性が自分の新郎に会えば、初めは「怨讐のようだ」と言うのです。うまく出発すればそれが壊れていくので、怨讐から出発すればあとでぴったり合うのです。そのようなことを先生は知っています。祝福に対しては、とにかく先生と相談をしなければならないのです。

 また、先生が祝福をするとき、女性の中に障害者がいました。そうかといって、その女性の容姿は悪くもないのです。背後の因縁や天性をよくもって生まれた女性なのに、父母の過ちによってそのようになった女性です。ところが男性たちは、その女性と祝福してあげようとすれば、みんな「嫌だ」と言うのです。事実、どこに障害者を「好きだ」と言う人がいますか。

 ところが、ある一人の男性をよく見ると、目にすっと入ってきて、容姿に欠点がたくさんありました。その欠点を補充できる女性が、正にその女性だというのです。それで先生が説得に立ちました。「君、この女性は見かけはこうだが、良い女性だ。暮らしてみて嫌な所が見えれば、その時は目を閉じればいいではないか。けれどもこの女性は本当に美人だ。そして、自分が結婚するのは、何のためか。正に後世のために結婚するのではないか。そのような立場で結婚すれば、これが統一教会の歴史に永く残ることではないだろうか。先生の一生で忘れることができないことではないだろうか」と言いながら、ずっと話をしてあげました。そして「君がその女性と結婚して娘を生むようになれば、美人を生むであろうし、息子を生むようになれば、将軍を生むだろう」と言いながら、相手を選んであげました。

 そして何年か過ぎたのち、先生が地方巡回に行ったときに、その夫婦が参加していました。ところが、先生を見るや否やその人は、先生の前に飛び出してきたのです。その間、どうなったか気になっていたところで会ったので、その赤ん坊を見ようと行ってみると、案の定、本当に美人の娘を生みました。

◆祝福と理想相対

 見かけが良いのは、サタン世界で看板を掛けて宣伝するのと同じです。そのように宣伝している家に入っていって物を買えば、ぼられるのです。宣伝をよくする所へ探しに入っていけば、大多数がぼられるというのです。本物は宣伝をしません。それゆえ、祝福を受けるために来るとき、新しい服を着て、顔はきれいにお化粧をして、のさばるような女性は相手にするなというのです。かえって素朴で、一皮むいてみれば、また一皮あるそのような女性に、何かがあるというのです。

 美男、美女だけで一緒に暮らすようになれば、その家庭は耐え抜くことができないのです。そのような人は、反対にしてあげなければなりません。天地の道理がそうです。背の高い人は、背の低い人と結んであげるべきであって、背が高い人同士で結んであげれば、彼らが暮らすのにつまらないというのです。

 そのように思って、顔が平たい人は顔の平たい人をもらおうとせずに、面長の人をもらうように考えなさいというのです。また、鼻がラッパのような人は、わし鼻の人と結んであげなければなりません。目が半分だけ開いたような人ならば、大きい目をもった人と結んであげなければならないというのです。

 そのために、先生が祝福してあげるのはこれから長生きをし、自分の子孫のためなのだと考えて、自分の姿がどうだということは考えてはなりません。「私自身はこのように生まれたので、こういう男性をもらってこそ、私の子孫にこういう子供が出てくるはずだ」と考えなさいというのです。

 ですから、相対が気に入らないからといって心配してはなりません。先生は今まで多くの人たちを指導してきました。今まで祝福をしてあげた人の息子、娘を見れば、大体その父母よりも良いというのです。それは、私が結合をうまくしてあげたという話になるのです。

 韓国で、相性を上手に見ることで有名な李なにがしという人がいました。その人が、私たちの原理を知ってから、先生をとても尊敬するようになりました。その人が言うには、自らの専業がそれなので、先生が祝福をするにおいて、自分は手伝わなければならないというのです。それで先生が「私は必要ない」と言いながら「いったいあなたは、一日に何組ぐらいできるのか」と尋ねると、「一組するには、少なくとも一週間はかかる」と言うのです。そのような方法では、私には通じないというのです。

 その人が、「それで先生は、一日に何組までなさいますか」と尋ねるので、「一日に普通は、七十組をしなければならない」と言いました。先生がその人に「今あなたがしているやり方と統一教会でしているやり方と、一度対決してみよう」と言いながら、先生の資料をぐいっと抜いて見せてあげました。そうしたところ、その人はここで感服して、「さすが先生でいらっしゃいます!」と言うのです。「どうすれば、そのようなことができるのでしょうか」と言うのです。

 例えば、ある女性はいざとなったら急死する運命の女性なので、天下にその女性と合う男性を選ぼうとしても選べないのに、どうして相手の男性をうまく合わせてあげられたかというのです。このように先生には、何かがあるのです。見ればすぐに、何か知らずに感じることがあるのです。

 結婚というのは、むやみにするものではありません。道端で通りすがりに会った人同士でするのではありません。自分たち同士が親しくなったといって結婚すれば、結婚してすぐさま異変が起きてくることもあるのです。互いが合っていないからです。

 松は松同士で接ぎ木をしなければなりません。互いに合う型があるのです。ですから、自分たちなりの立場で通過しようという場には絶対に立ってはなりません。祝福というのは、前に話したとおり、国のために、世界のためにするのです。また、それがすなわち後世のためになるのです。
















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