文鮮明先生のみ言集
訓教経(上)


公的統治の法度

一九七〇年六月四日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第三十一巻』

 今まで、歴史を経て世界的に記念する日の中には、ある国家の特定の事件を中心として記念する日はありませんが、クリスマスのように特定の人を中心として記念する日はあるということを私たちは知っています。

 しかし、いまだ全世界が一つになって記念することができる真の日は出てきていないというのです。クリスマスもキリスト教徒に限って記念する日であって、全世界が一つになって記念する日ではないのです。しかも世界だけでなく、天と一体化して記念することができる日は今までなかったというのです。

◆もしアダムとエバが堕落しなかったならば

 人類歴史に堕落圏が生じたあと、人類はその堕落圏の限界線を越えるときまでは、神様を中心とした希望の一日として立てられる時をもつことができませんでした。本当の意味で神様に代わって、人類に代わって、歴史に代わって、現時代に代わって記念できる日をもつことができないということ自体が、恨めしく悲しいことだということを知らなければなりません。

 もしアダムとエバが堕落しなかったならば、アダムとエバが生まれたその日は、世界史的な記念日となったでしょうし、あるいは天宙が記念することができる日になったことでしょう。アダムとエバが生まれた日でなくても、彼らが成婚式を挙げた日や亡くなった日などは、時代を経て人類歴史が続く限り、世界の万民が仰ぎ祝う日になったのです。それにもかかわらず、こういう日を考える人が今まで一人もいなかったという事実を見るとき、これは言うに言えない悲しい出来事であるということを知らなければならないのです。

 アダムが生まれた日と成婚した日、そして亡くなった日を記念する世界的な統一圏が形成されていたなら、そういう日を記念する人類は一兄弟となり、一つの民となったことでしょう。言い換えれば、一つの世界に生きる人間になれたというのです。そのようになっていたなら、アダムが生活したすべての風習は人類歴史に継承されたでしょうし、そのように形成された文化は永遠に継承されたはずです。

 しかし今日この世界を横的に眺めるとき、どの国にも特定の文化の背景があります。多くの国家は、互いに異なる歴史と伝統をもっているのです。これは悲惨な事実です。もともと一つの父母から繁殖し、一つの目的を中心として互いに通じ合う一つの生活圏を成した種族、一つの子女の因縁を尊重して、一つの父母の因縁を尊重視する一つの種族圏が形成されていたなら、その種族圏の文化はアダムから形成されたことが根となって継承されたのです。

 アダムが生活した風習、すなわち言語や礼節など、すべてがそのまま継承されて、この世界の言語と文化は一元化されたのです。それにもかかわらず、様々に現れた理由とは何かといえば、争いが起きたからなのです。言い換えれば、アダム家庭でカインとアベルの間に殺戮戦が起きたためです。それで、その時から分かれるようになったということを皆さんは知らなければなりません。

 このような歴史の伝統を受け継いだ人類は時代を経ながら、どんなに同じ兄弟同士でも、大げんかをしたのちには、彼が好むことは、私は無条件に嫌いだという立場に分かれてきたのです。このようにして、人類の文化は様々な系統に分かれて形成されてきたという事実を知らなければなりません。お兄さんが「御飯」と言えば、弟は「御飯」と言わなかったというのです。御飯に対するたびに、兄との良くない出来事が思い出されるので、自分なりに御飯を他の言葉で表現したのです。また、それで生活も別にしたのです。結局こういう敵対感情によって、文化が分裂してきたのです。

 このように、すべての人類が一つの民族となることができず、様々な民族に分かれるようになった根本原因はどこにあるのでしょうか。もちろん、バベルの塔を積んでそのようになったという聖書のみ言がありますが、お互いが自分を主とした目的を第一視することにより、分裂が起きたということを私たちは考えざるを得ないのです。それですべての人類が残すことができて、すべての人類がもつことができる本来の文化圏、本来の生活圏をもつことができなかったのです。これは堕落による報いです。

◆一つの世界を求めてこられた神様

 神様は、歴史過程を通して蕩減復帰された世界、すなわち一つの世界を追求してこられました。すべてを融和させて一つの文化圏、一つの生活圏、一つの主義と思想圏を成し、一つの世界を模索してこられました。そのために、歴史過程で多くの犠牲の代価を払ったということを私たちは知らなければなりません。

 分かれたものを再び合わせようとすれば、分かれる前に入れればいい力以上の力を入れなければならないということを皆さんは知らなければなりません。一つの家を建てる時にも、まず土台をよく築かなければならないのです。家の土台をろくに築かないで家を建てれば、むしろ新しい土地を整備して家を建てるよりも二倍以上の苦労をしなければならないのです。これと同様に、一度失敗し誤ったことを収拾しようとすれば、言うに言えない加重された犠牲の代価を払わなければならないということを皆さんは知らなければなりません。

 それでは、この犠牲の代価を誰が払わなければならないのでしょうか。この犠牲の代価は、悪の側が払うのではありません。今日のように分かれた環境を開拓して、一つの世界へと収拾すべき責任を担った主人が払わなければならないのです。その主人は誰かといえば、神様です。したがって神様は、地上で数多くの犠牲の代価を払ってこざるを得なかったのです。天の側の人を中心として、天の側の万物を中心として、分かれた文化とこの世界を収拾するために、多くの犠牲の代価を支払ってこられたのです。

 このような立場で見るとき、どの民族がその代価を最も多く払ったかということが問題となります。最も多くの代価を払った民族が、今後新しい世界の主導権を握ることができる民族に決定されるのです。言い換えれば、新しい歴史時代を開拓するために、最も多くの代価を払った民族が、どの民族かということが問題だというのです。ここには民族が代価を支払うと同時に、その民族がもっている物質も代価として支払わなければならないのです。代価を支払うときには、必ず人と物質が共に投入されなければならないということを皆さんは知らなければなりません。

 では、その代価を支払う方法とはどのようなものでしょうか。今までキリスト教は祭物の形式で代価を支払ってきました。それより先にユダヤ教を中心としたイスラエル民族は、祭物の形態を備えて、その祭物と人が一つとなって代価を支払ったのです。

 このように見る時、どの民族が一つの世界的な目的のために、共通的な生活圏を標準として現れたかということが問題になるのです。もし実際にそのような道を歩んできた民族があれば、その民族の文化が新しい歴史時代の文化となり、新しい世界の生活の起源となるということは言うまでもないのです。

 ですから、今日の民主主義文化は、結局キリスト教文化だということを私たちは知っています。これが今日全世界を支配しているために、英国と米国を中心としたキリスト教文化を世界の万民が行くべき望みの世界の基盤として認識し、その文化を受け入れるためにあくせくしていることは、神様の摂理による必然的な帰結だと見ざるを得ないのです。

 今日世界を収拾しようとすれば、何を中心として収拾しなければならないでしょうか。キリスト教を中心として収拾しなければなりませんが、現在のキリスト教自体は、より高次的な立場で現時代を収拾できる能力を失ってしまいました。これが問題なのです。ですから今日、キリスト教自体も新しい復活の形態を備えなければならず、またこの世界も新しい復活の形態を備えなければなりません。そうでなくては一つの世界へと越えることができません。

◆み旨が指向する道

 一つの世界へと越えていくためには、一つの特定の民族を新しく形成しなければなりません。そうして新しく形成された一つの特定の民族を中心として、伝統的なキリスト教思想を受け継いで、新しい文化圏を形成しなければならないのです。そのように形成された文化圏が、今後世界人類が共に立てなければならない文化圏だというのです。このような問題がこの時代に残っているのです。

 ですから、キリスト教思想を相続して、一つの世界と単一文化圏形成のために責任をもっていくことができる特定の民族がなければならないというのです。そういう特定の民族があるためには、特定の団体がなければならず、特定の団体があるためには特定の人がいなければなりません。

 このように特定の人によって特定の団体を成し、その団体によって特定の氏族を成し、その氏族によって特定の民族を成し、その民族によって特定の国家が形成されなければならないのです。すなわち、特定の民族を中心として特定の国家を形成してこそ、世界の文化圏を主導することができるの
です。

 今日このような民族と国家の形成を掲げて出てきたのが、私たち統一教会です。ですから、大韓民国の民に選民思想を植えることが、私たちのみ旨が指向する道だということを皆さんは知らなければなりません。

 そういう世界における生活観、人生観、世界観、宇宙観は神様を中心とした生活観、人生観、宇宙観とならなければなりません。神様と人間と万物が一つとなったそのような特定の圏、人類が願う国家と人類が願う世界へ進むことができる特定の圏を成せば、その圏を成した国家は間違いなく二十世紀以後の世界を支配することができる主体的な文化国家となることでしょう。これは原理的な観点から見るとき、当然の結論なのです。

 今日この世界には数多くの国家があります。ところがその国家は永遠に固定されたり、分離されるべき国ではありません。ここには特定の国が善の立場で優位圏をもって、下位圏にある国を吸収しなければならないのです。歴史的に見れば、戦争という方式を通してそのようなことが成されてきましたが、その戦争に勝利するのは常に善の側でした。それゆえ『荀子』にも「善をなす者は、天これに報ゆるに福をもってし、不善をなす者は、天これに報ゆるに 禍 をもってす」とあるのです。すなわち、善の側は必ず恵みを受けて悪の側は必ず災いを被るということです。

 今まで人類は数多くの戦争を起こしてきましたが、そのすべての戦争の解決の原則とは何だったでしょうか。少しでもより善の側が勝ったのです。なぜ善の側が勝ったのでしょうか。悪の側より善の側に人がたくさん集まるからです。肩入れする人が多ければ多いほど容易に勝つのです。

◆善悪の決定基準

 皆さんの家庭や隣を見ると、あるいは同じ兄弟を見ても、その兄弟の中には善の兄弟がおり、そうでない兄弟がいます。では、「善」とは、どういうことを言うのでしょうか。言い換えれば、どのような人を「良い人だ」と言うかといえば、自分を犠牲にして公的な仕事のために努める人です。そのような人は自分の兄弟もみな善良だと称賛します。村でもどのような人が人格者かといえば、自分を主とした人生観をもった人でなく、村を主とした人生観をもった人です。

 もしそういう人格者がある人から侵入されれば、すべての人がその侵犯者にかじりついてぶん殴るのです。私たち人間の心がそうだというのです。天国はこのような心をもった人たちで成された国です。したがって、天国の人たちは一つの心をもつので、一人の心が全体を代表することができるのです。このような国を合わせたのが天の世界であるので、天の世界も一人の心が全体の心を代表するのです。

 一つの家の中で、兄弟がお互いに意見が違って争うというとき、父母はどちらの肩をもつでしょうか。先に手を出し、自分の欲望のために争う息子の肩入れをする父母はどこにもいません。それで今日までの歴史過程で、教育と人倫道徳の標準は「善良であれ」ということだったのです。

 では、善悪をどのように決定するのでしょうか。皆さんは、これをはっきりと知らなければなりません。善はより公的な立場にあるのであり、悪は私的な立場にあるのです。忠臣や烈女も、すべてこの基準により決定されるのです。より大きいことのために生きれば生きるほど、一層善良になるのです。悪は個人を第一とすることです。善はより大きいことを求めていくことなので、家庭を第一にしていかなければならないのです。

 ですから、皆さんは男性ならば男性として結婚をして家庭を求めなければならないのです。このように個人が家庭を探したのちには、氏族を探さなければならず、民族を探さなければならず、国家を探さなければならず、世界を探さなければならないのです。

 大きいことのために行けば行くほど善の側へ行くようになり、小さなことのために行けば行くほど悪の側へ行くようになるのです。個人のために家庭を利用する者は、家庭から追い出されます。同様に自分個人のために村を利用する者は、村から追い出されるようになり、自分のために民族を利用する者は、民族の反逆者となって追い出されるのです。国を売り飛ばせば逆賊になるのであり、世界を売り飛ばせば天地の前に許されない天地の強盗になるのです。このような点で皆さんは善が何であり、悪が何であるかをはっきりと知らなければなりません。

 それでは、どのような人が偉大な人でしょうか。より大きい善の立場に立った人です。その人は何のために生きる人なのでしょうか。善のために生きる人です。家庭のために生きる人は、その家庭では偉大な人でしよう。しかし、すべての人が家庭だけを中心としていくならば、何が偉大ですか。自分の家庭だけを中心として生きれば、みな同様です。世界のすべての人の中に、自分の家庭のために生きないという人がいますか。ここには偉大なものはありません。

 ここで一段階上がって氏族のために生きる人がいるならば、彼は氏族圏では偉大な人なのです。そうでしょう。金氏ならば金氏一族のために生きる人は、家庭だけのために生きる人よりはましな人だというのです。

 民族は様々な氏族が合わさってできたものです。ところが民族を愛するという人に「あなたは本当に民族を愛するのか」と言うときの、その「本当」は二つでなく、ただ一つでなければなりません。本当の愛は一つだというのです。本当の愛は一つであるので、民族を本当に愛するならば、すべてを愛さなければなりません。半分は自分の家庭を愛して、その残り半分で民族を愛するならば、それが本当の愛ですか。それは愛だといっても本当の愛ではありません。完全な愛ではないというのです。ですから、国を愛する愛国者、忠臣は自分の家庭を打っても行く人なのです。そうしてもそれは悪にならないのです。

 それがなぜ悪にならないのでしょうか。善のために公的な仕事をするとお互いに争いながら人が犠牲となるようなことがあるならば、これを治める法が世の中にありますか。善の道を行くにおいて、お互いが犠牲になると争いながら人が犠牲となるようなことがあるならば、それを治める法がありますか。善を行おうと自分がもっている財産を全部売って人に与えたというとき、それを治めることができる法がありますか。世の中にはこのようなことを治める法がありません。

 それでは、このようなことを治めることができる法とは、どのような法なのでしょうか。それは人間の法ではなく、天法なのです。皆さんは天法の統治を受けたいですか、人間がつくった法による統治を受けたいですか。言うまでもなく皆さんは、天法の統治を受けたいと願うのです。

◆公的法度の主管圏内にある万物

 世界を統一して世界をすべて手に入れようという主義が、正に天法主義です。ですから、一つの国の国民をして死の道を先に行くといって、一時に走っていくようにする主義、こういう運動が現れるようにする真理は永遠な真理となるのです。良いものは私がもって、悪いものは人に与えたとすればそれは悪い行動なのです。

 万物は公的な法度の統治を受けるのです。公的な法度の主管圏内にいるというのです。人も公的な法度圏内に属しているのであり、万物も公的な法度圏に属しているのです。国家も公的な法度圏内でだけ存続できるのです。ここに私的な内容が割り込むときは、存続することができないのです。悪なる国、悪なる世界を動かそうという立場で立てられた国は滅びます。世界を自分の国のものにしようとする国は必ず滅びるのです。このような原則によって見れば、共産主義は滅びるようになっていることを知ることができます。

 アメリカが今日二十世紀の文明国家として先端を歩んでいるのは、その国の国民性がキリスト教の博愛思想を土台としているためです。アメリカの人々に対してみれば、そうだということを知ることができます。

 アメリカが今世界の生計を立てていますが、彼らの女性団体や男性団体を見れば、みなアジアと連結しており、また未開発の国と連結して活動しています。すなわち、世界とつながりを結ぶために精誠を込めた立場に立っているというのです。

 このように、彼らは人より先に精誠を込めたので、世界で主体的な立場に立つようになったのです。アメリカは外国人に物質的な援助や育英事業など奉仕的なことをするために、世界のどんな国よりも先立つことができるのです。アメリカのように善なる行いをする国は、公的な管理権をもつために世界の文化圏を支配できるのであり、世界の物質を支配することができるのです。これは道理にかなうことです。

 それでは、世界で一番怖い主義は、何の主義でしょうか。一番怖い主義は、私的主義ではなく公的主義です。また、世界で一番怖い人はどのような人かといえば、私的主義者ではなく公的主義者です。個人より公的なものは家庭であり、家庭より公的なものは氏族であり、氏族より公的なものは民族です。ひいては、民族より公的なものは国家であり、国家より公的なものは世界です。世界よりもより公的なものは天地です。天地のために公的なみ旨を敬ってきたことは残るのです。

 それでは、宗教はいかなる立場に立ってきたのでしょうか。公的な世界を標 榜して、一時を待ちながら犠牲になる立場に立ってきました。ですから、宗教が世界の文化圏を形成してきたし、一つの世界を形成する主流として貢献してきたということは、間違いない歴史の内容だというのです。

 そして宗教は、私的な立場でなく公的な立場で望みを追求してきたので、歴史が滅び、あるいはその時代が滅び、国家が滅びて、すべての思潮が変わっても、宗教だけは数千年の歴史過程に綿々と続いてきているのです。

 商売をする人にとっては公的な商売をするのか、それとも私的な商売をするのかが問題です。商売にも公的な商売があります。国家には商売に対する法があります。商売人がある物をおいて一千万ウォンで売るというとき、買う人が「良い」と言って喜んで買えば、一千万ウォンの取り引きが成立するのです。どのように契約をしようが、それは当事者たちの自由です。

 しかし商取り引きにも商法があり、商道があるのです。そこから外れれば国家から制裁を受けて良心の呵責を受けるのです。ここにはいろいろな国家と共に決定した、世界的に通じる基準があるのです。その基準から抜け出さない立場で商売をしてこそ、公的な商売となるのです。

◆十一条の意味と万物管理の方法

 キリスト教の十一条を見ると、そこには実に怖い内容があることを知るようになります。十一条を出さなければならないという聖書の一節もあります。十の中から一つを神様に捧げなさいということです。「神様に見えるのか。十一条とは何か」と言う人もいるでしょうが、十一条は、一つだけ行って十まで行くということです。

 もし皆さんの両親の誕生日祝いや還暦祝いを迎えて、お祝いをするために牛もほふり、豚もほふって、ある物ない物みな作って捧げるというとき、その方々はそれを全部食べますか。そうではありません。受けることはみな受けますが、みな食べることはできません。ほんの少ししか食べることができないのです。しかし、このように少しだけ召し上がっても、みな召し上がったという条件が立てられるのです。

 これと同様に、十一条は私が所有している物質の中から十分の一を神様に捧げることによって、全体を捧げるという意味をもっているのです。父に全体は捧げないけれども、その中の一つを精誠を込めて捧げるということは、そのような意味で価値があるのです。そのように一つを捧げることによって、残りの九も聖なる物として取り扱われるようになるのです。このように十一条を捧げて生きる人は滅びることがないのです。日がたてばたつほど彼の倉庫が増えるようになっているのです。

 さらに公的な人は、すべての万物を公的な世界の統治法で管理することができ、主管することができるのです。その内容が正に天法だということを私たちは知らなければなりません。皆さんがこういう原則を知るようになれば、どのような言葉や行動、その上暴力を振るったとしても罪にならないというのです。悪を取り除くためであれば罪になりません。したがって皆さんはいつも善と悪をえり分けて、より大きいことのために生きなければなりません。

 天地のために生きる人たちほど怖い人はいません。天地のために生きる人たちは宗教人ですが、彼らは今までサタン世界、世の中の人々から迫害と嘲 弄と蔑視と冷遇を受け追われきました。しかし宇宙の公法に照らして見るとき、そのような人たちがより公的な人です。

 何の理由もなく追い込まれ追い出されることが良いことですか、悪いことですか。そういう立場に遭うと、その時には悪いでしょうが、結果は良くなるというのです。始まりは悪いけれど結果は良いというのです。これとは反対に、世の中のすべての私的なものは、始めは良いけれど結果は悪くなるのです。滅びるというのです。悪は始めは栄えるように見えるけれど結局は滅びるのであり、善は滅びるように見えるけれど結局は必ず栄えるのです。したがって公的なものは、始めは滅びるようだけれど結局は栄えることを皆さんは知らなければなりません。

 物質を主管することができる人と、国家と世界を主管することができる主義が、この地上に出てこなければなりません。そういう主義を立てなければならないのです。それで文化的環境や社会的環境、歴史的背景は違っても、どのような国家でも必ずその民族を内外に発展させて統治してきた宗教という形態があったのです。そして法があったのです。どんな国でもこれを離れては存在することができないのです。なぜなら、より公的な目的に近づくためにはこれを避けられないからです。

◆天法と良心作用

 皆さんが市場に行って見ても、自分の欲だけを張る人の所にはお客さんが物を買いにいかないのです。自分の欲だけ張れば、誰でも嫌うことをみな知っています。公的なことや私的なことを中心として見ても、このように統治することができる方法と秘訣を知らない人は一人もいません。

 ですから、知らなくて天国に行けなくなったと言い訳することができないというのです。公的か、私的かということを必ず皆さんに教えてあげてこそ分かるのですか。それは教えてあげなくても分かるのです。

 先生が今皆さんに話をしていますが、これは公的ですか、私的ですか。皆さんに迎えられるために話すのでしょうか、皆さんが恵みを受けられるようにするために話すのでしょうか。先生が恵みを受けるために話すならば、それは私的なものです。皆さんが恵みを受けられるように話すことは公的なものです。より公的な話をするときは皆さんが感動を受けるのです。そのような公的な話は少しだけ聞いても、心の包みがこっくりこっくり揺れるようになるのです。

 今日人々は自らの生活を中心として、善悪の分岐点と公私の分岐点で内外にひっくり返って、行ったり来たりしながら、結局は私的に陥るようになる場合が多いのです。ところが、そのようになれば滅びるのです。ですから、過去は私的な生活だったと悔いて、再び公的な生活を歯を食いしばってするのです。そうするうちに耐えることができなくて、再び私的な生活をしながら行ったり来たりして、私的な方向に入るときが多くなり、そうするうちに公的な善とは遠ざかる生活をするのです。これが今までの私たちの日常生活だというのです。それゆえ私的な生活をするすべての人たちは、後悔しなければならないということを皆さんははっきりと知らなければなりません。

◆最高の公的な生活

 最高の公的な生活は天宙のために仕事をすることです。先生は天地主義ではなく、天宙主義を主張しています。天宙の「宙」は家という意味です。天宙主義は、人が主人ではなく、家庭が主人です。国家形成の起源も人ではなく、家庭です。家庭がなければ世界を形成することができないのです。家庭が誤れば、その国は滅びます。

 それで家庭教育は、その国が今後恵みを受けることができる運命を左右するのです。国のための公的な法理によって暮らす家庭が多ければ多いほどその国は栄えるのであり、私的な基準で暮らす家庭が多ければ多いほどその国は滅びるのです。

 国が腐敗すれば滅びるというのはどういうことでしょうか。国を利用して自分の家庭のために私利私欲を選ぶ人は腐敗するのであり、滅びるのです。その量が大きければ大きいほど大きくけがをするのです。それは爆薬の包みを持って通うことと同じです。皆さんはこのような事実をはっきりと知って、この基準をはっきりと立てなければなりません。

 何かを見たというとき、公的に見たのか、私的に見たのか、また何かの話をするとき、公的にしたのか、私的にしたのか、それが問題です。皆さんはどんなことをするにも、常に公と私の境界線で右往左往して闘うのです。人格者であるほど、より公的な立場に立つのです。

 統一教会は、天宙主義を主張します。ここには家庭があり、氏族があり、また国があり、世界があります。家庭を中心とした新しい主義を主張しているのが統一教会です。先ほど話したように世界を見れば、万物があり、人間があり、一つの考え、すなわち理想があります。このような点から見るとき世界は一つの世界、一つの人類、一つの思想で成されなければならないのです。

 ところがその生活圏、あるいは文化背景の全体が、私的か公的かということが問題になるのです。もちろん生活圏や文化は、その国家の特定の立場によって生じるものですが、世界万民が共通的に追求しなければならない主義と思想を土台に国家体制を備えるならば、その国家は歴史的で世界的な国家になるのです。何世紀かが過ぎて他の国はみな滅びても、その国だけは滅びないというのです。このように見るとき、公的なものとは何でしょうか。天道についていくことです。これを皆さんははっきりと知らなければなりません。

 今日この世にある万物を見て、「お前は公的な法により統治されることを願うのか、私的な法により統治されることを願うのか」と尋ねれば、「より公的な法により統治されたい」と言うでしょう。それはなぜでしょうか。人が最高の善圏に行きたいと願うのと同様に、万物も最高の善圏に行きたいと願うからです。

 ですから、世界のすべての万物とすべての人々は、誰に統治されたいと願うでしょうか。より公的な存在に統治されたいと願うのです。また、より公的な国についていきたいのです。ですから、戦争という方法と手段を通して、より私的な国は滅びるようにし、公的な国を栄えるようにして、より私的な国は公的な国に主管されるようにしてきたというのです。

 このような目的ゆえに起きる戦いを、人々は侵略とか攻撃という言葉で表現してきましたが、実は、その内容面から見るとき、より善で公的な国家に統治されるためにそのような戦いが繰り広げられたのです。このように歴史は一つの善の圏、公的な法度圏に向かって発展してくるという事実を皆さんは知らなければなりません。

◆統一教会の主義と思想

 世界人類史の中で、新しい国家体制と新しい理想世界の一模型を提示しておいた国があるならば、その国は、滅びるようですが栄えるのです。一粒の種が地の中に入っていくときには滅びるようだけれど、結局は根を下ろし、そこで千倍、万倍の実を収めるのです。

 こういうことを提示する民族、提示する主義、提示する思想がこの世界のどこにあるでしょうか。これを求める人は、賢い人です。このような思想が博愛主義であり、世界大家族主義なのです。ですから、統一教会は世界大家族主義を主張しています。そして世界大奉仕主義を主張してきたのです。

 一つの会社を見るならば、会社で誰が一番忠誠を尽くすのでしょうか。誰が一番会社のために生きるのでしょうか。初めは愚かで見栄えの悪い人が会社に入ってきたと思ったのに、一年くらい過ぎてみると、難しい仕事をすべて一人で上手にするので、のちには違う目で見るのです。

 そのように五年くらいしてみると、社長から信任されていた専務より何倍も良いと認められて、そのように会社にずっと残っていさえすれば、彼がその会社の主人となることは間違いありません。

 キリスト教が世界を征服することができた原因がどこにあったのかといえば、下人暮らしをし、使いをしながらも長く続けてきたためです。それでキリスト教が、十年、二十年、ひいては千年が流れても滅びなかったのです。

 今後の文明時代において、大韓民国の新しい思想圏内で、国を愛すことができる僕に誰がなるのでしょうか。僕の中でも手押し車を引いて、背負子をかついで闊歩することができる僕に誰がなるのか、その人がもし王の親戚だというときにはどうなりますか。その国の民が、「手押し車を自分が押す」と、お互いに言うようなことが起きるのです。

 そういう主義によって世界的な基盤を築いて、すべてを吸収するようになれば、全天下がそのような立場に入っても感謝するのです。それが当然だと考えることでしょう。それならその背後に介在された力と能力を一時に動員し、一つの目的に向けていくときには世界がどのようになりますか。

◆万物の解放時代を迎えようとするなら

 皆さんが先生の前に立つとき、厳かになる理由は何ですか。それは公的な内容で積んだ基台が皆さんより大きいためです。それで先生の前に立てば、我知らず自然に厳かになるのです。それゆえ皆さんは公私の問題が生死圏を左右するのであり、勝敗を決定する要因になるのであり、また善悪を分離する基準になるということをはっきりと知らなければなりません。
 このような点で、対人関係において、万物関係において、国家関係において、そして世界関係において、個人から家庭、氏族、社会、国家、世界、天宙まで一貫した生活観を中心として、生涯路程を善圏の世界と連結させる生活をした人は、「天国に行かない」と後ろに逃げても、天国が引き寄せるというのです。

 今日キリスト教徒は「イエス様を信じて天国に行こう」と言いますが、ただ信じるといって天国に行くことができますか。かえって「イエ様を信じて地獄を解放しよう」と言わなければなりません。それで統一教会は、地獄を解放しようというのです。

 私自身は、公的な万物をもったのでしょうか。これが問題です。皆さんは、生きている間に私の物という観念を超越しなければなりません。これが今後の世界人類に教えなければならない、最も大きな教訓なのです。皆さんは、私の物という観念を否定して、公的な物という観念をもっていかなければなりません。

 被造世界のすべての万物は、ある特定な個人に固着されている所有物ではないということを皆さんは知らなければなりません。自分の土地だといって、それが良いと度を越して自慢すれば滅びるのです。なぜそうなのかといえば、それは公的なものであるからです。私はただ、それを管理しているのです。その統治法によって私が公的な管理人として管理するようになれば、永遠に管理することができますが、その管理法に従わなければ滅びるのです。しかし、そういう公的管理法、万物に対する公的な管理法をこの地上のどこの誰も知らずにいるのです。

 今日公的な万物を個人はどのように管理していて、家庭はどのように管理しているのでしょうか。また氏族はどのように管理していて、国家と世界はどのように管理しているのでしょうか。万物に対する本当の価値を設定する時となってこそ、初めて聖書で話す万物の解放時代を迎えるようになるのです。そうしないで万物に対するのは、管理ではなく強奪です。

 ですから、万物には真の主人が必要なのです。万物は今まで公的な権限と価値を与えられませんでした。これから万物はそのような立場で統治されることを願っているというのです。すなわち、万物は真の愛の管理を受けなければならないのです。

◆万物を公的に主管する人となりなさい

 皆さんは、万物を公的に管理することができる人とならなければなりません。皆さんが御飯を食べるとき、御飯に対して有り難いというあいさつもなくむやみに食べるといって、世の中の御飯が全部動員してデモをする日にはどのようにしますか。人間の口という口にはすべて入らないことで同盟ストライキをすれば、どのようになりますか。そのようなことを考えてみましたか。植物なのでそのようなことができないから幸いですが、もしそのようなことができるならば皆さんはどうしますか。

 ですから、皆さんは御飯を食べるときには、その御飯の価値を知って食べなければなりません。「お前はどんな人の口に入っていくことを願うか、お前はどんな顔をもった人の口に入っていき、骨になって、肉になって、エネルギーになって、善の世界のために何を残したいのか」と、こういう考え方で御飯を食べなければならないというのです。御飯が悪い人の腹の中に入っていくことを願いますか。たった一粒の御飯粒でも善なる人の腹の中に入っていくことを願うのです。より公的なものを願うというのです。

 空気も同じです。もし空気が総団結して五分間だけ世界的にストライキを起こすならば、世界人類は一時に空気に服従するのです。もし神様が世界を強制的に屈服させようとすれば、空気で屈服させることができるでしょう。空気を取り出してこの世を真空状態にして、一分、二分、三分、五分だけそのようにすれば、「死んでも降参です」と言うでしょう。皆さんにとって空気は怖いものです。近ごろ「都市の空気を汚染するな」と言いますが、当然そうしなければならないのです。きれいにしなければ侵入されます。また水もきれいにしなければなりません。このように、万物はすべて公的なのです。

 太陽は、生命の根源であり無限な価値をもっています。私たちはそういう太陽の光をただで受けています。太陽の光を買うといって、お金を用意して持ち歩く人を見ましたか。また、太陽の光を受けたと一銭でも出した人を見ましたか。この太陽の光を売るといえば買いますか、買いませんか。体をあげても買うことでしょう。水や空気、光などすべての自然物は、皆さん個人のものではありません。このような万物を自分のものだと考えてはならないのです。

◆万物の真の主人

 この万物は誰のものなのでしょうか。私のものである前に国のものであり、国のものである前に世界のものです。なぜでしょうか。韓国始祖の檀君が現れる前の、この土地は誰のものでしたか。主人がいますか、いませんか。公的な法度から見るとき、主人がいますか、いませんか。人だけについて見るときは主人がいませんが、公的な法度で見れば主人がいます。

 それでは誰が主人ですか。神様が主人であられます。その主人は、世界の主人ですか、大韓民国の主人ですか。その主人は、大韓民国の主人である前に世界の主人だというのです。

 それでは、誰がこの地を支配しなければなりませんか。当然この世界の主人であられる神様が支配しなければなりません。そうでなければ神様の前に一番愛される、主人を代理する人が支配しなければなりません。

 ある人が大韓民国で一番良い家を買い、彼の小さな息子がとことこと来て、その家を見て「パパ、私たちの家本当にいいね」と言うとき、「こいつ、なぜ私たちの家か、私の家だ」と言う父がいますか。私たちというのは、父のものが半分で私のものが半分ということですが、そのような言葉を聞いて気分を悪くする親がいますか。いません。どのような親でも「うん、私たちの家だ。お前よく知っているな」と言うのです。

 なぜそう言いますか。愛は一体を成すからなのです。父母と子女の間は、愛という因縁で結ばれています。それゆえ、その愛を折る父はいなく、その愛を折る息子はいないのです。愛だけがその二人を支配するために、愛を中心として因縁をもった物は、父母のものであり息子のものに間違いないのです。

 こういう意味で「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ三・一六)というみ言を下さったのです。神様は、ひとり子を迫害して十字架にかけて殺せと、イエス様を送られたのではありません。ひとり子を愛しなさいと送られたのです。

 公的な場所に貴重な物が置かれていて、その物を他の人が貴く思わないといって、皆さんが自分の家に持っていくならばそれは公的な行動ですか、私的な行動ですか。それは私的な行動なのです。そこにその物を置く価値があるので置いたのです。価値ある場所にその物を置いたのに、それを私的に考えて価値がないと取り扱うかもしれませんが、価値がないのではないのです。

 例を挙げれば、王宮には王や后や王子が暮らしますが、王子が王や后を見て大王様、お后様と呼びますか。彼らもお父さん、お母さん、息子、娘、お兄さん、お姉さんと呼ぶのです。同じなのです。

 しかし王子だといって、民の物を勝手に持っていくことができますか。そうすることはできないというのです。王子でも、民が持っていかないからと、勝手に持っていくことができますか。「ここにあれば使い道がなさそうだ。私が持っていけばそれ以上愛して、より価値あるように感じるだろうに、これはここに置いてはいけないな」と、こうして持っていくことができますか。そうすることができないというのです。それは環境が違い、なければならない場所が別にあるということです。

 私たちは、こういう観点で万物に対さなければなりません。ほとばしる太陽を眺めるときも「億千万金を与えても買うことができない太陽、お前は私という人が永遠に生命を支えていくようにと、私を照らしてくれるためにほとばしるのだな。やー! 力強くて頼もしいな」と、このように見なさいというのです。

 水を見ても「お前がちょろちょろ流れていく様子は物悲しいけれど、天下の立派な男でも、のどが渇けば体面にかかわらず、土をなめる嘆きがあってもお前を飲むのではないか。驚くべき水の流れなのだな」と、このように称賛しなさい。また多くの木の中で、松一株が立っていれば「お前はなぜ多くの木の中で運悪く一人残ってゆらゆらするのか。この松の木め」と、そう言わないで「ああ、みな死んだのに独り種子として残ったんだなあ」と言いなさいというのです。

 そうすれば考えが変わるのです。道を行ってもそのような心をもって行き、考えるときもそのように考える人は、国を愛すまいとしても愛さざるを得ず、世界を愛すまいとしても愛さざるを得ないのです。このように「真に愛する。本当に愛する」というとき、その本当の中の本当は何でしょうか。神様であられるのです。

 神様は、大韓民国をより愛しますか、世界をより愛しますか。世界をより愛するのです。それでは、神様は、世界をより愛しますか、天地をより愛しますか。天地をより愛するというのです。神様は、より大きいものを愛されます。より大きいものがより公的であるために、より大きいものを愛するのです。

 神様は、国を愛し、世界を愛し、天地を愛するという主義と思想をもって生きる民族を愛するというのです。たとえ粟飯や麦飯を食べ、塩やみそをつけて食べる嘆きがあっても、そのみそだるを見て「神聖なみそだ」と言うならば、そのみそだるは世界一のみそだるになるのです。

 真っ黒にあかがついて欠けた皿でも「お前に対している主人は、ただの人ではない」と、そう言いなさい。そうすればその価値は変わるのです。その皿の上に盛られた食べ物はつまらない食べ物でも、「きょうこの時間に神聖な食べ物として私の体に入っていき、力になるだろう。この力は国のために、世界のために使われるだろう」と言うならば、その皿が気分を悪くするでしょうか。どれほど喜ぶでしょうか。皆さんは神秘の境地に入っていき、その物が喜ぶことを感知してみなければなりません。そういう境地に到達しなければならないのです。

 ですから、ある物を自分よりもっと愛した人、すなわちより公的に愛した人がいれば、その人に与えなければならないというのです。それならば、自分よりもっと愛する人がいるとき、自分がもっている指輪や宝石もその人にあげなければなりませんか、あげなくてもよいですか。

 そういう物が国のために使われるならば、自分の子供のために使わず、国に送らなければなりません。世界のために使うならば、世界へ送らなければなりません。これが正義です。これが物に対する正しい管理法です。ですから、国を愛し、民族を愛する人は、すべてを国のために捧げます。物を捧げ、自分の家庭までもみな国に捧げるというのです。

◆公的管理と統治時代到来

 万物を公的に管理することができる時代が来なければなりません。その時代が来れば、地に肥料を与えなくても万物がうまく育つかもしれません。万物も、毎日のように笑い声を聞きたいのであり、泣き声は聞きたくないのです。皆さんの中で泣き声を聞きたい人がいますか。それでは、神様はどうでしょうか。神様も、やはり笑うことを好まれるのです。皆が笑って生きるようになっています。

 神様が善であるならば、善はどこにありますか。笑って生きるところにあるのです。すべてを笑いで消化させることができる、永遠の権限をもった主体としていらっしゃる方が神様です。神様は、どんなに悪いことも善なることとして消化して、その悪いことを「良いことだ」と言うことができるのです。そのようになれば、天地の道理が変わるというかもしれませんが、そうではありません。人々は、今の世の中の道理はすべて良く生きるようになってはいないと話します。しかし、そうではないのです。

 世の中は相応性と相克性で成り立っています。相応性だけであれば、世の中は一つにしかならないのです。みなくっつくようになります。しかし、相克性があるために個性真理体となることができるのです。存在の分別的な基準を確定するためには、ここに相反性がなければなりません。相反ということは相反だけで終わるのではなく、相応的な存在に対することができる相反ということです。これを人々は知らないのです。こういう問題において、哲学思想的な面で統一教会の理論が、今後新しい時代に大きく貢献できるというのです。

 このようなすべてを考えてみるとき、皆さんは公的な管理を尊重視しなければならないというのです。物ならば物を尊重視しなければなりません。先生が幼いときにノートを使うときには、線が引かれた部分から書くのではなく、一番てっぺんから書きました。あるときは一枚に二度ずつ書いたりもしました。そうすれば、ノート一冊を十二分に使うことができるのです。物を惜しんで使わなければなりません。

 先生は、先生自身に対しては本当にけちんぼです。今まで背広一着あつらえて着たことがありません。そばでしきりに言われればあつらえて着ました。自分がさっと入っていってあつらえて着れば、服をあつらえて着る味わいがありません。そばでしきりに「あつらえて着なさい」と言われて、あつらえて着れば、そばで称賛もし、すてきだと鑑賞でもしてくれるのです。それが良いのです。一人であつらえて着て、よくでき上がったのかと尋ねることは、自ら自慢することです。そのようなつまらないことは、先生はしません。先生の生理が初めからそのようになっています。

 神様は、どのような人を好むでしょうか。公的な立場で、公的管理を生活哲学とみなしていく人を好みます。万物に対しても同じです。これが天地の理致であり、天法なのです。

 皆さんがこのような原則を中心として、公的な道を歩むようになれば絶対に滅びません。絶対滅びないというのです。ですから、皆さんは物を公的に管理して、人に公的に対して、天に公的に侍りなさいというのです。

 これを上手にする人たちが集まって夫婦を成したとすれば、その家庭を中心として新しい民族と、新しい世界が形成されるのです。ですから、より公的な生活をする皆さんにならなければならないというのです。

















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