文鮮明先生のみ言集
訓教経(下)


任命された人々

一九七〇年六月二十一日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第三十二巻


 今日私たちは、一つに連結された社会に生きています。私が立っている地点から東西南北に走っていけば、世界に連結されます。これを連結させる中心とは誰かといえば、決して世界が中心になるのではありません。

◆天命によりそれぞれ異なる使命を担っている人間

 私たちは、宇宙を創造した絶対者から命を与えられ、「その生涯において、これこれの責任を完遂しなさい」と使命を与えられました。その使命の内容は、人によって違います。甲という人、乙という人、丙という人など、世界にいる人がそれぞれ異なるために、使命も互いに違います。

 しかし、その責任がまだ完遂されていないので、民族が世界に向かって立ち得る立場ではありません。けれども、その民族が責任を完遂すれば、世界に向かって立てる時が必ず来るでしょう。

 私たちの心の根本と素性を分析してみると、そこに現れる素性が個人にあるなら、家庭にもあるでしょうし、民族、国家、世界にもすべてあるのではないでしょうか。それなら、全世界はそのような中で、どのようにしなければならないのでしょうか。お互いに合わせなければならないのです。小さなものに良いことを合わせて、大きなものに良いことを補充していくことが、目的に向かっていく過程において必要なのです。

 歴史は変遷していくのです。その変遷していく歴史の中にいる私たち一人一人は、天命による本分によって命を懸ける時もあるということを知らなければなりません。

 私たちは天命によって生涯をかけ、誰ももっていない使命を果たすべく任命された者だというのです。したがって、皆さんは使命に対してどれほど忠誠を尽くすのかという問題に対して、皆さんの生涯をかけて開拓していきながら、「良い実績、良い結果を残す」と誓わなければなりません。ところで、生活の中で自分が使命を与えられたという事実を、どれほど感じながら生活していますか。

◆自己の責任を完遂しようとするなら

 召命された人には、必ず受け持った責任の量があります。職場で課長、または部長として任命されたなら、必ずその責任によって彼が成し遂げるべき責任の量があるのです。また、その責任の量を完遂するには限界点があります。永遠にするのではありません。ある期間に限定されているのです。

 では、その期間とその量はどれぐらいになりますか。皆さんの一生を七十年、八十年、あるいは百年とすると、この一世紀圏内において、どれだけの仕事ができるかということが問題になるのです。

 また、どのようにすべきなのでしょうか。他の人と共に忠誠を尽くすなら、その忠誠の量を満たすためには、他の人が十時間すれば私も十時間し、他の人が十年すれば私も十年をしなければなりません。そうすれば、同じになり得るのです。しかし、その人より早くやり遂げようとすれば、十時間以上しなければならないのです。

 そのためには、人一倍の努力と精誠が必要です。人より早く目標を達成するためには、人一倍の努力と精誠を投入するしかありません。ですから、寸刻を惜しんであらゆる精誠をすべて傾けなければなりません。寸刻が勝敗を決定するということを感じながら生きる人であれば、その人の一日は輝く一日になるでしょうし、永遠の価値の世界と通じることができるので、永遠の世界の因縁の上に立つようになるでしょう。

 また、家を建てる時もどのように建てるのか、また、いつまでに建てるのかなど、全般的な設計をしなければなりません。このようにある設計のもとで着手しなければならないように、私たちも一定の設計のもとで任命を受けて仕事に着手しなければなりません。与えられた期間内に完遂すれば、そこで必ず表彰されるでしょう。

 与えられた期間内に、設計したものよりも完全に成したというときには、それは普通に成したものではありません。非正常的に成したのです。それはどういうことでしょうか。それはその人の努力と精誠が加えられたので、そのように成し遂げることができたのです。設計どおりにすれば、何の問題も起こらないでしょう。それは誰にでもできます。けれども、設計したもの以上に完璧を期しながらも、設計者が計画した時間を短縮させるということは、誰もができることではありません。

◆任命された者の特権と権威

 それでは今日、任命された者としてもつことのできる特権とは何でしょうか。この特権というのは、固定された量を、指定された期間に完遂する特権をいうのではありません。それは誰もができることです。任命された人の特権は、誰も干渉できないものであり、設計者も干渉できないものです。すなわち、絶対視できる権限でなければならないのです。十時間一緒に仕事をし、一緒に寝たとしても、その時間内に多くのことを考え、また他の人の二倍以上その仕事に対して苦労をし、精誠を込めたなら、その人によって成された結果を、この宇宙は最大に表彰することでしょう。

 そのような立場を備えた人が残っている限り、世界は永遠に残るのです。その人以上の価値をもっ
た人が現れない限りです。運動競技において、一度立てた記録は、それが破られない限り永遠に残るのと同じです。ですから、その記録をもって、そこに到達するための方向を示さなければならないのです。

 任命された者として、これは当然なのです。指示された量を、与えられた時間にこなせば、メダルを取ることができ、表彰を受けることができます。それは自分自身の使命です。直接的な使命なのです。これを、私たちができなければならないのです。

 個人ができないからといって、二人でしてはいけません。賞を受けるとき、二人で受けることができるでしょうか。こういう観点で考えてみると、命令を受けた人は、自分を中心として責任を遂行したがります。誰かに干渉されることを嫌うのです。これは、自分自身の権威があるためです。この厳粛な権威をもっていることを忘れてはいけません。

 ところで、ある人は「宗教は、年を取ったときに天国に行くために信じるのだ」と言います。こう言う人は、ひどい人です。ちらっと見るには本当に賢くて、すべてに通じた人、すべてを知っている人のように見えますが、そのような人ほど愚かな人はいないのです。

 結果というのは、量を超越できないのです。また、時間を超越できないのです。勝利の結果というのは、始めるや否や、短時日内に決着がつくのではありません。結果が大きければ大きいほど、謹厳な時間を要するのです。時間がたくさん要るのです。


◆任命された者が知るべきこととすべきこと

 一つの国家が一つの勝利圏を固く誓うためには、どのようにしなければならないのでしょうか。一つの国家が樹立し計画を完遂する、それは国家的な量ですから、短い時間に莫大な量を成就するためには、国民の精神的な姿勢と力量を短時間内に圧縮させなければならないのです。どこの誰がやってもそうです。

 こういうことを考えてみれば、日常生活においてもただ何気なく、習慣的に一日三食食べながら時間を過ごしている場合があるのですが、それでいいのでしょうか。ごく小さな昆虫も、自分なりの関連性をもって生きています。

 人間の世の中でも、隣と関連をもって生きているのです。隣人との関係を切れないのです。皆さんは皆さんの町内で自分なりに生きていますが、そこだけを中心に生きているのではありません。町が豊かであるというときは、その町が豊かだということにもなりますが、国のために豊かに暮らすことになります。また、国のために豊かになれば、世界のために豊かに暮らすことになります。そして、世界のために豊かになれば、それは天地のために豊かに暮らすことになるのです。このように上がっていくのです。

 では、皆さんが一生涯を生きていくにおいて、与えられた使命の量を知っていますか。今まで一生をかけて責任を遂行する立場にあるにもかかわらず、その量を知らないのです。そうかといって、「私にはどうしようもない。だから努力する必要もない」と言う人がいれば、その人は最も哀れな人です。努力しなければならないのです。

 私は何をするのでしょうか。「この民族の前にどんな人物になるのか、世界の前にどんな人物になるのか、また、天地の前にどんな人物になるのか」と、こういう心になっていません。こういう心を備えていない人は、任命される資格がありません。それでそれを知るために、哲学や宗教が出てきたのです。また、「今私たちはどこへ行くのか」という問題が起こるのです。現在の位置と立場を知るためには、まず四方、前後左右がどのようになっているのかを知らなければなりません。

 任命された主体的な権限をもった人自身は、干渉されるのを嫌がります。しかし、干渉し得る絶対的な存在が現れれば、干渉を受けるのです。

 今日の人々が、「私を愛しなさい」と言うのは、言葉だけで終わりやすいのです。絶対的な立場で愛することのできる人になるためには、「愛せよ」と言う前に、まず愛さなければなりません。そこで相対的に報われれば、それは絶対的な基準になるのです。

 人が主管されることを嫌うのは、完全な相手、つまり絶対的な相手が決定されなかったからです。絶対的な立場で主張するのは、完全な相手を決定するためのものです。完全な相手が現れるようになるときは、全部あなたのものであり、私のものであるとして和することが、因縁の世界での法度です。したがって、どんなに有名な男性や女性がいたとしても、自分が絶対視できる完全な相手が現れるまで待たなければなりません。

 こういう観点で考えてみるとき、皆さんは生涯をかけて召命されてきた内容があるのですが、それには、どこの誰も干渉できないのです。絶対的な基準の前に、絶対的な相対的基準にならなければならないからなのです。そうでなければ、それが個人、氏族、民族、国家、世界へ進んでいけないのです。これをよく知って、召命された責任を全うしなければなりません。

◆責任の量と使命の期間

 責任を果たすにおいて、任命を受けた量が大きければ大きいほど、そして範囲が広ければ広いほど、そこに対する期間も、十年、百年、千年の時間がかかるでしょう。普通の人が十年、百年、千年尽くさなければならない精誠、または数十代を経て成し遂げるべき精誠の度数を、たった一代において尽くさなければならないことも起こるのです。その時に、そのような千年史の精誠を尽くすことができるか、できないかということが問題です。

 そのような意味から、精誠を尽くした先祖がいれば、その子孫は千年を過ごせる因縁と連結するようになります。このように連結して、後代の後孫が恵みを受けるようになれば、個人的なそのみ旨をその民族が受け継いで、一つの障壁を突き抜けるために闘争するようになるのです。歴史的な使命を背負うようになるのです。このようになれば、その民族を中心に選民思想が起こるのです。

 その選民思想が芽生えるためには、あらゆる最善を尽くし、総進撃することができ、一つの勝利的内容を誇れる時代が来なければなりません。イスラエルという名前を残したヤコブは、ヤボク川の川辺で天使と闘う時、命を懸けて自らのすべてを越えて天に談判する、その瞬間に勝ちました。それゆえその勝利は、ヤコブだけの勝利ではなく、民族の勝利だったのです。

 「天使長がどんなに私を屈服させようとしても、私は屈服しない。神様のみ旨を信じるためにいかなる恨があっても、このみ旨だけは残さなければならない」という心で闘ったのです。そうしてひっくり返すことのできる限界点で天使が離れたので、天使のすべての権限までも相続できる勝利の条件を立てることができたのです。すなわち、天使世界の祝福の内容に対する勝利圏を相続したのです。

 今日、統一教会員の姿勢はどうあるべきでしょうか。み旨の道がどうだということを、皆さんはよく知っているでしょう。この時代に生まれてみ旨を知るようになったことは、皆さんにおいては一度しかない良い機会です。世界人類の前に、そして過去、現在、未来の歴史時代において、たった一度しかない機会であり、二度とは立ち上がることのできない一時だというのです。

 この一度しかない機会に、流れいく歴史をしっかりつかんで爆発させなければなりません。流れいくすべてのものを一点に糾合させなければなりません。それを集めておけば全体になるのです。その時の一点というのは、中心になるためには絶対的なものなのです。

 中心は二つにはなり得ません。人は永遠の絶対的な主体を要求するために、その主体に干渉されることを望みます。したがって、絶対的な主体の前に相手が決定されれば、絶対的な価値と同等になるのです。これは一つの絶対的な主体が、絶対的な相手を探して一つになったためです。

 皆さんの家庭も同じです。歴史上に二つとない夫婦として、誰にでも自慢できる家庭になって、万民の前に模範にならなければならないのです。そのようになろうとすれば、一つの絶対的な主体が、絶対的な相手を探して一つにならなければなりません。皆さん自身が、そのような限界点に到達しようと努力しなければなりません。ところが、そのような限界点に到達するためには、それくらいの量と期間が必要だということを知らなければなりません。ところで、私たち統一教会員はその時、どのようにしなければならないでしょうか。第三者のような立場をとらなければならないのでしょうか。

 人は大抵、干渉されることを嫌います。それは、干渉されるのを嫌う絶対的な権をもったということです。そうかといって、それは欲ではありません。自分が責任を負った問題に対しては、自分が責任を負わなければならないからです。そうするには、原理的な相対基準を決定して進まなければならないのです。

◆最善を尽くす姿勢が必要

 私たち人間が、復帰時代をたどっていこうとすれば、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙を越えて神様まで、八段階を越えなければなりません。

 では、これをどのように越えるのでしょうか。六千年の歴史を経てきながら、今まで頂上を越えた人がいませんでした。個人と家庭を越えて、氏族、民族、国家、世界、天宙、そして神様の前まで行く道は、険しい道です。このような人間に対して神様は、創造の希望があったので、「私はあなた方の父であり、あなた方は私の息子、娘である」と、父母の心情でずっと人間を探してこられました。

 親子関係において、息子がお父さんに対して、「あなたが私のお父さんですか、そうではないですか?」と尋ねた時、お父さんが返事をしなければ、お父さんが引っ掛かるようになります。神様も同じです。神様が私たち人間の父親であるにもかかわらず、「そうではない」と言えば、絶対的権威をもって行使したとしても、信じないというのです。

 では、皆さんは神様の息子、娘になっていますか。本物は、二つはあり得ません。ここには神様も干渉なさることができません。ところが皆さんを見れば、本物と偽物が混ざってまだらです。皆さんは、「自分がまだらだから、神様もまだらな神様だ」と思いますか。

 聖書を見れば、「あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない」(申命記六・五)という一節があります。皆さんは、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、神様を愛してみましたか。心を尽くして愛したのであれば、なぜまだらになったのでしょうか。

 ある人は「四十日断食をしたから神様を愛している」と言いますが、それをもって神様を愛しているとはいえません。それは、どこの誰もができるのです。心を尽くし、精神を尽くしてみ旨を全うしなければならないのです。ところで、心だけ尽くして何になりますか。それだけではいけません。

 心は、人によって違います。み旨も、人によって違い得るのです。しかし、精神は違わないのです。精神は変わることがありません。心から行うときは、自らの利益や自分の側の利益のために実行します。み旨も、そういうことはあり得るのです。しかし、性稟はそうではありません。したがって、その精神を尽くして、主、あなたの神様を愛しなさいというのです。

 ここで「主」という言葉は、中心をいうのです。あくまでも神様を絶対的な中心として、その中心の前に絶対的な仲保者としての息子、娘になれというのです。そういう基準を中心として、歴史上において神様の前に最高の忠孝を残した人が、正にイエス様です。ですから、イエス様がどれだけの忠孝を尽くしたのかと批判してはいけません。そうすれば、新しい問題が起こります。

 イエス様は死の場で、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と祈祷しました。その祈祷から推し量ってみれば、そのような孝子がどこにいるかというのです。すべてがお父様のみ意であって、私の思いはないのです。このように絶対的な基準の前で、相対的な関係をつくらなければならないのです。

 こういう観点から見ると、「私が入教してから何年になった」と自慢する人がいますが、そうであってはいけません。また、教会で奉仕し始めてから何年になったと自慢しますが、私たちのみ旨の前に量が何か必要でしょうか。十年でなく千年が過ぎたとしても、それだけの年の値打ちもない人に何ができますか。

 また、「教会で仕事をし始めてから何年になった」と自慢しますが、私たちのみ旨の前に量の必要がありますか。他の人が二十年かかった量を一年間にすべてこなせば、精誠を尽くすことにおいて私のほうがより優れているのです。

 召命された人がその責任を遂行するにおいて重要なこととは、人よりももっと精誠を尽くさなければならないということです。

 この組織社会において、世界を率いていく中心とはどこでしょうか。また、統一教会での中心は、誰でしょうか。統一教会においての中心は、先生です。それでは、先生はどのような人でしょうか。先生といっても特別な人ではありません。ただ、質が違うのです。量が同じでも、質が悪くてはいけません。したがって、正常な質を備えたのか、ということが問題です。

 したがって、正常な質と量を備え、与えられた期間内に復帰の使命を完遂しなければなりません。もし、ここで損害をもたらしたとすれば、それは今後、み旨の前において審判される内容にもなり得ます。

 そのような意味から、責任を引き受けたなら、与えられたことをきちんと処理しなければなりません。十年でも二十年でも関係なく、任命されたその使命が終わるまで責任を負わなければなりません。これはいかなる荷物よりももっと大きく、重い荷物だということを知らなければなりません。その責任を全うするために身もだえする行路を経ずには、真の個人になるための善の足場を築くことができない、ということを知らなければなりません。

 「自分は善良だ」と考える人は、たくさんいます。しかし、内的な面でも、外的な面でも神様のために尽くし、使命を果たすために、心を尽くし、精誠を尽くしたとしても、足りないのです。すべて成しても足りない思いがするので、またするのです。このようなことを自ら感じ、責任を果たすために努力をせざるを得ない、復帰の使命に責任を負った私たちであるということを、皆さんは知らなければなりません。

 では皆さんは、どのような分野で責任を受け持っているのですか。神様のみ旨を中心として、どのような分野で仕事をしているのですか。皆さんは、その責任を通して真の自分を感じられなければ、自らの責任を成し終えることはできません。

 皆さん、本物は、偽りに絶対主管されることはありません。お互いに相対できる要因が残っていれば、互いに相対するのです。それでお互いが完全なプラス、マイナスの関係で会うようになれば、合わさるのです。相対というのはお互いを必要としますが、プラス(+)とプラス(+)で会えば、お互いに反発するようになります。

 責任を果たすことにおいても同じです。誰かが責任をもつというとき、その人に善なる要素があって相対的要因になって動くようになるときには、神様が対してくださるのです。また、自分の先祖の功績があったり、自らの忠誠の実績が残っていて神様が必要とするときは、その人に対してくださいますが、我をもって進むようになれば、対することはできないのです。

 いまだに、自分のために生きようとする人がいます。そのような人は、天のためにいくら生きようとしても生きられず、天の前に、いくら行こうとしても行けない要因が残っているというのです。

◆神様が好むことのできる人

 今まで私がこういうことを行ってきながら見てみると、「あの人は駄目だ」と言った人は残りませんでした。自分なりに動いていて、結局はその動いたすべての事実が、自分自身を全く身動きがとれないように縛りつける結果になり、どうすることもできなくなるのです。離脱した立場で後悔するしかなくなるのです。

 善は、いつも真として残るのです。真は、悪を打っても耐えることができるけれども、悪は、真を打てば耐えることができません。真なる立場に任命されても、その与えられた責任を全うすることができず、方便としてなす人がたくさんいます。そのような人は、みな流れていってしまいます。召命された立場で自らの命を投入して、一生の天職と思い、最善を尽くさなければならないのです。

 人々の中には、自分は最善を尽くしたのに、先生や統一教会員は自分のことを認めてくれないといって寂しがる人がいます。先生はみ旨の立場では認めようとしますが、実際にその人がそれを通してそこで満足すれば、それ以上は行けないのです。

 それで先生は、その一人を大物にするために、より大きな仕事ができるようにするために、そうするのです。言い換えれば、その人がより広い環境をもって、そこで自らの絶対的権限を成し遂げ、神様と関係を結んで、私と天全体のみ旨として残るようにするためです。

 なぜ、神様が先生を愛しているのか分かりますか。先生は助けてもらおうと思わないからです。神様は先生を、死の立場に追い込んだこともありました。神様は、先生を蕩減復帰のために死の立場に追い込んでも、かかわろうとされなかったのです。

 ある人は、誰かが協助してくれることを願うのですが、協助を願う前に、「自分の力でやる」という心の姿勢をもたなければなりません。先生はそのような心をもって、助けを願いもせず、「協助してくれ」とも言いませんでした。天を助けてあげれば、「協助してくれ」と言わなくても、協助してくださいます。

 人間の堕落によって、この世界のすべてのことが逆にひっくり返りました。ですから、天道を正さなければなりません。逆になった世の中をひっくり返そうとするのですから、どれほど大変でしょうか。すべてを清算して、再び取り戻そうとするので大変なのです。したがって、この仕事をしようとすれば、自らの一生の中で一時を捨てる立場に立たなければなりません。

 摂理の真のみ旨を探していく道、その道は休みながら行ける道ではありません。生涯において決して休まずに行ってこそ、み旨の道において、真なる結果をもたらし得ることを、皆さんは知らなければなりません。

 このような立場から見て、皆さんは今どんな立場にありますか。皆さんには、置かれた位置と立場があるでしょう。世の中でなすべき任務がない人ほど、かわいそうな人はいません。

 どんな父母であっても、息子、娘を生めば、みな喜びます。しかし、父母が責任を果たせなければ、子供たちから抗議を受けるようになります。父母には、子供を育てるべき責任があり、社会に出て仕事をして、活動できるすべての条件を備えてあげなければならない責任があるのです。

 前にも言いましたが、人は誰からも干渉されることを望みません。私だけが絶対的だというのです。私たちも、やはりそのような心をもっています。

 ところが皆さんは、み旨を中心として、どれほど考えてみましたか。私たちは堕落圏内で生まれたので、普通私たちの主張することは、堕落圏を抜け出せない内容がたくさんあります。私たちは、み旨の道についてきながら、一時に希望の限界線を越えようとしましたが、み旨を知っている者として主体的な立場で相対して、「自分だけは必要だ」ということを切実に感じる生涯路程を経てきたかというのです。

 それを考えれば、私たちはそうできなかったというのです。一年がたち、二年がたって歳月だけを過ごしてきたのです。み旨の道はそうでしょうか。み旨の道はそうではないのです。

◆忠孝の道

 歴史には、意味をもって残っている年があります。では、その歴史の中で、千秋万代の子孫が称賛できる一日がありましたか。そこで称賛できる内容は、世界的でなければなりません。称賛できる内容が世界的でなければならないという話は、世界のどの国でもみな喜ばなければならないという意味です。私たちはこれから、世界的に共に喜べる日、こういう時をもたなければならないのです。

 そのような意味から、先生が聖婚した一九六〇年四月十一日、その日はどんな日ですか。外的に見れば、御飯を食べたり寝たりする平凡な日であって、特別な日ではありません。しかし、その日は何が違うのでしょうか。その時にしたことが違うのです。その日、聖婚式をしたことが、他の日と大いに異なるというのです。聖婚式によって、今は一家庭によって左右されるようになりました。

 その一家庭が現れる時まで歴史的な因縁を経て、時代的な因縁を経て、未来の因縁を経て成就したのです。現れれば簡単に見えますが、それが全体を集約させた代表的な核になるので、歴史はその日を研究するようになるのです。

 皆さんの中で、「絶対的な神様もこれだけは無視できない」と言える内容を備えた人がいますか。「私は神様の息子、娘である」と言える条件を備えなければなりません。「そのように神様が信じるに値する内容を備えている人がいるのか」ということを考えると、いないというのです。

 皆さんは命を懸けて、涙と血と汗を流して、国を愛し、万民を愛することができなければなりません。子供に、「お父さんだけを愛する孝子になれ」と教えるよりは、「私を愛するように国を愛し、世界を愛せよ」と教える父母になってこそ、孝子を育てることができるのです。そのようにできる私たちにならなければならないのです。

 ですから、「自分のために尽くし、自分を楽にしてくれることが孝だ」と教えてはなりません。そのような孝は、孝ではありません。皆さんが統一教会の文先生のために忠誠を誓い、孝行することを、先生は願いません。おなかがすいた時に食べ物を持ってきてくれ、大変な時にお金を持ってきてくれる、そのような孝心を願いません。先生に対してできなくても、国のために、世界のために生きなさいというのです。

 そのような忠孝の道を行きなさい。先生は、一生をそのように生きてきました。自分は実践しないのに命令したとすれば、素直に従う人は誰もいないのです。

 ところで皆さんは、統一教会を愛していますか。命懸けで愛しているかというのです。皆さんは公的な心をもって、絶対視できる結果をもってこなければなりません。「このように愛しています」と言うようになれば、どうすることもできないそのような結果がなければならないというのです。

 法廷では、どんなに「殺人強盗だ」と言っても、証拠品がなければ、判事もどうしようもありません。強盗が、「私が人を殺したのをいつ見たのか」と言って出てくれば、どうすることもできないのです。しかし、証拠を突きつければ、どうしようもないのです。証拠がなければ、証拠を探さなければなりません。

 賛美歌に、「イエス様、イエス様を信じるのは受けた証が多いから」という句があります。皆さんには受けた証がありますか。証を受けたと胸を張って伝道へ行くのですが、そのようなものが証だと思いますか。

 皆さんは天国へ行く時に、贈り物として包んでいく物がありますか。霊界に行けば、殉教した功臣が前にずらっと並んでいるのですが、彼らの前に皆さんが包んでいった包みを広げることができると思いますか。皆さん、一度考えてみてください。苦労をしたにはしたけれども、「私は苦労したと思いません」と言わなければなりません。

 私たちが何の苦労をし、皆さんが事実、何の苦労をしましたか。それくらいの苦労もしないで、「国のためだ、世界のためだ」と言えますか。「私は苦労したと思いません」と言わなければなりません。まだ行くべき道が残っています。霊界に行って包みを解いて、「これは一生の間、私が用意した贈り物ですから、どうぞお受け取りください」と言えなければならないのです。皆さんがお嫁に行く時には、一つずつ包みを持っていくのに、天国へ行く時には、手ぶらで、体だけで行けますか。

◆任命された者の責任

 皆さんは、天国の役軍として神様から使命を受けました。皆さんは神様の精兵として、神様の息子、娘として、その家門を引き継がなければならないのです。そのために皆さんは、独立性を育てなければならないのです。こういう偉大な使命が、皆さんにあるのです。したがって、先生と毎日生活できず離れていても、また神様がいつも皆さんに直接命令しなくても、皆さんは神様の管理圏内で使命を与えられた人だということを忘れてはなりません。

 皆さんは、自分を絶対視しなければなりません。そのようにして、その絶対的な価値の結果として成し遂げられた成果を万民のものとし、後代の後孫のものとし、天上世界の宝物として永遠に保証されるという決意をもたなければなりません。これが、任命された者の責任なのです。その責任を全うすることができなければ、どこの誰よりも哀れになります。乞食は、時間になればもらってでも御飯を食べますが、責任を果たせない人は、時間に合わせて御飯も食べられないのです。

 こういう責任を完遂するにおいて、神様が願われる期間内に忠誠と最善を尽くさなければなりません。歴史を輝かせることのできる子女の道を、価値ある道に復帰していかなければなりません。そうして、その期間を短縮しなければなりません。そのためには、私の汗が必要であり、私の血が必要であり、私の努力が必要であり、私の苦労が必要なのです。その消耗の代価を通して、量と質をそこに補充せずには、国家的で世界的な版図を吸収できないのです。私たちは、こういう責任を負っていく人にならなければなりません。

 今日、世界にそのような時代が来たのです。既に基礎を築いて、外部工事はすべて終わって、今は装飾をする時代です。内部装飾は主人の腕前が必要なために、先生がいなくてはならないのです。壁のようなものは直接関係がないけれども、直接関係する内容を中心として、必要なすべての条件を備えるためには、必ず段階的な期間が必要です。それゆえ準備時代、実践時代、成就時代があるのです。

 それゆえ、自らの生涯を中心として、時期に合わせて計画していかなければなりません。準備時代にはあらゆる精誠を尽くして準備し、実践時代にはあらゆる精誠を尽くして実践し、成就時代にはあらゆる精誠を尽くして成就しなければなりません。そうすれば、内部装飾がうまくいくのです。その装飾は誰が見ても、「精巧さにおいて、精誠を尽くした度数が飛び抜けている」という話を聞くことができなければなりません。文化と価値は、そこに現れるのです。

 したがって、皆さんはみ旨の生活において準備時代が来た時、「準備しなさい」という命令を受けても、準備ができなければ駄目なのです。その次には、実践時代が来ます。その時には昼夜を問わず、実践をしなければなりません。その次は成就時代が来るのですが、その成就時代は希望が宿る時期です。今まで原理を中心として頑丈に築いた基盤があるので、み旨とともに生活するようになるのです。こういう生涯の路程を教訓にして、世界史的な道を行かなければならないのです。

 人が責任を負ったことに対して、責任を取れない立場に立ったときほど哀れなことはありません。み旨の道で、み旨を成し遂げられないことほど哀れなことはありません。しかし、「それ以上価値のあるものはない」と言える立場で闘った人は、表面的には不幸に見えるけれども、彼の終わりは明るく見えます。そのように生きるようになれば、自分によって永遠の歴史を取り戻すことができるようになります。逆に戻る歴史を、反対に取り戻す原動力になり得る絶対的な基準が、自分によって決定されるのです。それは、天上の世界に、あるいは永遠の歴史と共に残るようになります。

 私たちは残ったそれを、万民のものとして相続してあげ、万民のために分けてあげることができなければなりません。それが、現在の私たちの絶対任務であるということを知って、責任を全うしなければなりません。私が会社で責任を全うしたとすれば、それは私のためではなく、その会社のためのものとして返して、国のために責任を全うすれば、それは私のものではなく、私たち民族のためにしたものと理解しなければなりません。また、世界の人のために責任を与えられて、それを遂行し、私がやったことによって世界がすべて喜ぶようになれば、それが栄光なのです。したがって、皆さん各自が、日常生活でぶつかってくる障壁を賢く打ち破り、栄光の立場に行くことができるようにと願います。















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