文鮮明先生のみ言集
訓教経(下)


天が尋ねきた道

一九七〇年七月十二日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第三十二巻』


 今日、多くの人が信仰生活をしていますが、人間が神様を尋ねていく道や神様が人間を尋ねてくる道について考える人は多くいません。

◆直接会えない神様

 人々は祈りを、自分たちに困難なことがあるときに神様の前にひざまずいて祈るという、そのような単純なこととして考えています。けれども、神様に祈りを捧げるその場は、神様が私たちと関係を結ぶ場であるということを、私たちは知らなければなりません。

 今日、皆さんが生きているこの場は、天に属した立場ではありません。そればかりではなく、皆さん自身も神様が直接主管できる内容を備えた人ではありません。このように、直接主管圏の外にいる人間が神様に祈った時、神様がその祈りを聞いて干渉したり、あるいはその祈りをかなえるために応じるということは、簡単な問題ではないということを知らなければなりません。

 皆さんの周囲には、「天道を行く」と立ち上がった皆さんより、相対的に悪なる人がたくさんいるでしょう。個人的にも、家庭的にもそうでしょう。このように見れば、神様のために生きていくという環境より、悪なる環境側の家庭、氏族、民族、国家が、世界的に取り囲んでいるという事実を知ることができます。

 それが、平面的な基準の人間の世の中でだけそのようになっているのではなく、人間を中心とした人間以上の世界、言い換えれば、四次元の世界である霊界も、今日私たちが生活しながら感じる以上に、神様と関係を結べない悪なる霊の群れに囲まれているというのです。

 そのような環境の中にいる私たち個体が神様に祈る時、神様がその祈りを聞いてそこに応じようとしても、深く、高く、神聖なる天の玉座から直接的に私を尋ねてくることはできないというのです。

 それゆえ、直接尋ねていけない立場で因縁を結ぶときは、順次的な段階を経て因縁づけるようになるのです。言い換えれば、一つの組織的な形態をもった群れがあれば、その上層部から末端の中の最末端部にまで連絡するためには、組織的な順序を通るべきだということを、私たちは一国家や社会を通して知ることができます。

 それは霊的な世界にあっても同じだというのです。皆さんは祈るとき、最高の立場にいらっしゃる至高で聖なる神様に祈るのですが、その祈りを受けられる神様の立場と、皆さんの立場との間には長い距離があるのです。

 したがって、それを何で埋めるかということが問題です。玉座にいらっしゃる神様との距離を埋めるために、多くの人が橋を渡すべき立場にいるということを皆さんは知らなければなりません。それゆえ、信仰者はこのような橋を経てこそ神様に会うことができるのに、今まではこのようなことを知らずにいたのです。幾重にも重なり合って横たわっている霊界の組織社会を経て、私たち個体と連結できるように、数多くの連絡体制が組織されているというのです。

 したがって、私たちが地上で精誠を込めて祈ることに神様が直接応じてくださるまでには、長い期間を要するのです。けれども、その人の精誠が懸命であればあるほど、距離を短縮させることができるという事実を私たちは知らなければなりません。

◆神様に会おうと思えば

 私たちが神様と関係を結ぶためには、神様と私たちの間にあるすべての段階を越えていかなければなりません。それゆえ、私たちがこの道を開拓するということは、ほとんど不可能に近いのです。霊界もやはり数多くの組織的な環境の中に包まれているので、霊人がこの道を開拓するということも不可能だというのです。

 ただ一つ、この道を開拓し得る方法は、皆さんが多くの精誠を込めることです。そうして皆さんの尽くした精誠が神様にまで知られて、神様が呼応なさることのできる一つの動機を準備しなければなりません。そのようになれば、神様は命令し、指示することができるのです。そのような過程をたどって因縁を結ぶようになるとき、初めて神様と私たちの間に関係が結ばれるというのです。

 私たち自身は、極めて高い神様の立場まで、一気には行けないため、歴史時代に生まれ死んでいった数多くの聖人たちを中心として行かなければなりません。その中でも、神様が特別に送られた人がいれば、その人を橋渡しとして進むのが最も早道です。それで今日、この地上で人倫の道理とか天理を明らかにした真の真理を教える人がいれば、その人を橋渡しとして行きたいと思うのです。

 それゆえ今日、私たちに最も重要な問題は、立体的な世界に向かって垂直的に上がっていく前に、横的な世界においてどれほど広く影響を及ぼす人になるかということです。

 この横的な世界は、歴史的な結実の土台をもっているのです。今日のこの現実は、現実自体がおのずと生じたのではありません。歴史的な因縁をたどって存在するのです。その歴史的な因縁の中には、この地に生まれ死んでいった数多くの聖人の道理や、真なる人々の教えがあります。こういうことを中心として、組織の形態や社会の現象が生じるようになるのです。また、このようなことが国民の愛国精神にまでつながるのです。それは、この地上に聖人が残していったその道が短縮され、集約されて、社会を形成できる一つの内的な因縁になったということです。

 こういうことを私たちが注意深く考えてみると、そういう内的な因縁を他人の因縁として考えずに、自分の国家の因縁と思ってそれに責任をもち、自分と直接的に関係を結ぶために努力する人にならなければならないというのです。そのような人がいれば、その人は因縁を結ぶ環境がだんだん広くなるばかりでなく、その国家の為政者ならば為政者との直接的な距離も短縮するというのです。

 このように内情的な因縁が横的に広がれば、それが正に歴史過程に生まれ死んでいった数多くの先祖が教えた因縁に接することのできる道になるのです。このように、霊界に行った聖賢たちと私たちが因縁を結ぶようになれば、その人々が、私たちを真理の世界へだんだん近づける橋の役割をする背後の因縁になるというのです。

 それゆえ今日、修道の道を求めていこうとするなら、ただこの地に来て善なる道理を教えて逝った聖人だけでなく、その教えを中心として地上に因縁が結ばれた宗教までも、ずっと探し求めていかなければならないということを私たちは知らなければなりません。

 このように見ると、ある社会や新しい文化形成の背後には、必ず宗教が動機となっているというのです。宗教は、人倫だけを中心として進むのではなく、天倫を紹介して天倫の道理を中心に教えてくれるのです。

◆霊界との距離を短縮するには

 今日、私たちが精誠を尽くすときは、過去に生まれ死んでいった聖人が教えてくれた道理を中心として、彼らが願った最高の基準を自分の願いとし、それを相続できるように精誠を尽くさなければなりません。そのように精誠を込めてこそ、直接的にも間接的にも霊界との距離を短縮できる内容になるのです。

 したがって、今日地上の人間はそのような聖人の中の真の聖人をあがめながら、その聖人の道理を自分の命を捧げて自分の道理のように守りながら、それが最後まで行くべき道と考えて行かなければなりません。そのようにすれば、その聖人が霊界で影響を及ぼす圏が大きければ大きいほど、その大きな影響圏は私が地上で霊界と直接関係を結べる因縁になるのです。そのような基台の上で神様に祈れば、多くの精誠を尽くさなくても早い時間内に霊界と直接関係を結ぶことができ、その距離も近づくというのです。

 それゆえ、人間がこの地上に暮らしながら神様に仕えるためには、必ず歴史的な道理を基盤にした宗教の形態を通さなければなりません。そうして、今までの過去の数多くの宗教指導者が行った道を自分も当然行くべき道と思い、「その道を希望して行く」と誓う人にならなければなりません。そうして宗教を中心として現れ、去っていった数多くの宗教指導者たちと一つになれば、その修道の世界、宗教の世界に自然に位置が定まるのです。

 そのような基盤の上で祈るようになれば、それは一つの宗教圏を超えることのできる立場に立つようになるために、それだけ神様との距離を短縮させることができるのです。それゆえ、地上で宗教の道を尋ね求める人は精誠を尽くさなければならないのです。

 では、神様はいつもそのような人を中間に立て、彼らを通して役事なさるのかといえば、そうではありません。私たち人間の中には、精誠を込めて宗教の道を尋ねていく人もいますが、善なる先祖がたくさんいて、ただまっすぐに行く人もいます。では、彼らが願っていたものとは何でしょうか。彼らが追求しているものは、宗教が追求している目的の世界です。

 宗教の目的とは、一人の真の人を探し出すことであり、真の家庭、真の国家と真の世界を探し出すことです。これは、宗教の目的であると同時に、神様の目的です。それがすなわち、神様が地に対して摂理される目的なのです。したがって私たちが、宗教指導者が精誠を尽くしたその基台の上に立つようになれば、神様の目的圏内に自然に接することのできる境地にまで行くようになるのです。

 それゆえ、ある特定の宗教を信じる人がいれば、その人はその宗教の最高指導者だけを信じるのではなく、その宗教についていった人々と、その宗教のために四方で精誠を尽くしている指導者を信じるようになるのです。それだけでなく、その宗教が世界的な基盤をもっていれば、世界の数多くの指導者まで、信じてついていこうとするのです。それはなぜかといえば、霊界と宗教圏との距離を短縮させるためです。

 天国にも、東西南北に分かれて数多くの宗教圏があります。上には最高の宗教圏があり、その下にはより低い霊界があり、またその下には良心的な人と善なる人々で構成された霊界、そしてその下は悪なる霊界に連結しているのです。したがって、私が精誠を込めて宗教圏の世界と関係を結ぶようになれば、今までの末端世界との関係を越えることができるのです。

 それゆえ、道を中心として精誠を込めた聖人の教えを、他人のための教えとしてではなく、「私のための教えだ」と思って、その教えに従って生きようと努力する人にならなければなりません。そのような人になれば、道を教えた聖人を通して、地上で霊界に直接連結できるというのです。

◆信仰の道と絶対信仰

 では、絶対信仰とは何ですか。自分が信じている限り、宗教の指導者がいるならば、その指導者と自分とは歴史的に数千年という遠い距離がありますが、信じる心を中心としては、彼と平面的に対等な時代圏内に立ち入ることができます。それゆえ、絶対的に信じなさい。絶対的に信じるとき、その人と共にあるということが分かるようになります。また、その人と共に生きているということが分かるようになります。こういうことを新しく認識させて、刺激するためのものが信仰だというのです。

 その宗教の指導者が、神様のために哀切に祈った事情を、信じる人は知らなければなりません。しかし、その事情を知っている基準だけで終わってはなりません。その事情を知れば知るほど、より深い情的な因縁、あるいは忠誠の因縁を結ばなければなりません。そうすれば、霊界に行っている人が必ず協助するようになっています。

 では協助するにおいて、誰を通して協助させるのでしょうか。地上に真の道理を残した人を通して協助させるのです。そうして、私がその指導者の内情を知っている立場でその人に代わって、その人と共に精誠を込める立場に立てば、その人が神様に対した立場に同参できるようになるのです。これが信仰の道であることを、私たちは知らなければなりません。それゆえ宗教を選ぶときは、真の宗教を選ばなければならないし、その真の宗教の中で、真の信仰者の残した歴史的な因縁を知らなければなりません。

 今日、キリスト教を中心として見るときも、キリスト教徒がイエス様と直接的な関係を結べる立場に入っていけるなら良いけれども、そのようにはならないというのです。イエス様と直接的な関係を結べる立場にまで行くためには、必ず橋を渡さなければなりません。神様と私たちの間、あるいはイエス様と私たちの間にある間隔を埋めるためには、地で苦労して精誠の礎を築いてきた人に頼って、精誠を尽くしていくことが一番早い道です。

 それゆえ、その道を探し出すためには、キリスト教ならばキリスト教を中心として、長い歴史を経てきた過程で忠誠を尽くした過去の聖賢、あるいは指導者が、私に代わってその道を行ったという立場で祈らなければなりません。そうすれば、彼らが、私の行く道を協助するようになっています。

 これはなぜかといえば、蕩減復帰の原則において、彼らも完成の世界を見ることができなかったために、修道の道、すなわち自分が行った道についてくる後代の人に対して、引っ張ってあげるべき因縁が残っているためです。ゆえに、そのような立場で祈って精誠を尽くすようになれば、霊界にいる宗教指導者や、道の指導者が、必ず地上にいる人に連絡をするというのです。

◆段階的に踏んで行くべき信仰生活

 そのような人が、精誠を尽くして探し出そうとしたけれども探し出すことができなかったことを、私自身が探して出てくるようになれば、その時は主客が転倒するのです。自分を指導したペテロ、あるいはパウロが、その当時に探し出そうとして探し出せなかったことを、私が探し出すようになれば、彼らと位置が入れ替わるのです。

 ところが、新しい革新をしてパウロ以上、ペテロ以上の立場を尋ねていくためには、まず彼らが精誠を込めた立場を尋ねていかなければなりません。そして、その場でそれ以上の道を模索しなければなりません。そうでなくては、それ以上の道を探し出せません。

 では、ペテロが行った道を尋ねていこうとするなら、どのようにしなければなりませんか。ペテロが信仰の代表者ならば、ペテロが信仰の代表者として行ったその立場に代わる立場に立たなければなりません。その場が強く雄々しい立場ならば、強く雄々しい立場を求めていかなければなりません。そうでなくては、新しい分野を開拓できません。

 信仰の道は、自分が自分なりに判断した道、自分が眺めるそのような道に行ってはならないのです。信仰の道は、霊界に行っている多くの道の指導者と因縁を結んで、高い段階に一段階ずつ上がっていかなければならないのです。ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、この三弟子以上の立場に進んで初めて、イエス様と関係を結べるというのです。

 このように考えてみると、皆さんは自分が信仰生活において、どんな道が栄光に接するために早道かということを知らなければなりません。それは修道の道に責任をもっていった人々の道を、私が探してついていくべきだということを知ることです。そして、数多くの道の指導者が自分の代わりとなっていったのだと思い、彼らと関係を結ぶ道が、一番早い道だというのです。

◆恵みを受けた人の行く道

 恵みを受けた人が、恵みの中で生活をしている途中で、その恵みを逃す場合が多いのですが、それは次の段階に越えるべき時が来たにもかかわらず、越えられなかったからです。それで、恵みを逃すのです。

 こういうことについて考えてみると、今日私たちに必要なこととは、そのような因縁を漸進的に発展させなければならないということです。そうするには、どのようにしなければなりませんか。自分一人で信仰生活をしてはいけないのです。必ず、ある特定の人を探し出さなければならないのです。

 神様が一つの国を中心として恵みの役事をする時には、一人だけ立てては行いません。必ず東方の分野の役事をする人、西方の分野の役事をする人、南方の分野の役事をする人、北方の分野の役事をする人を立ててなさるのです。

 道の世界でも、神霊なる人が、たくさん来ては去っていったことを私たちは知っています。牧師級、長老級、執事級、一般信者級など、各級で神霊なる人々が現れて、千態万状に恵みの役事をしていきました。けれども、今日私たちはそれがいかなる組織で、いかなる系統として形成されて、そのような役事が起こったのかということを知らずにいます。

 それゆえ、東方ならば東方の一分野を中心に役事する一人を中心として役事することが、天全体であるように考えるのです。そうしてそこに、あらゆる精誠を尽くしていくようになるのです。しかし、それが全体ではないために、時折ふさがってしまうのです。そのようになれば、今まで全体だと信じて出てきた良心的な問題、心情的な問題が完全に中断されてしまうために、探し出した恩恵を逃してしまうという悲しい目に遭うようになるのです。

 それゆえ、終わりの日(終末)には恵みを受けた人一人だけに通じるのでなく、必ず何人かの人を比較してみて通じなければなりません。高い内容をもった霊的指導者に会って、自らその段階を高めていく賢い方法を取らなければならないというのです。ところが今日地上に生きている信仰者は、こういうことを知らずにいます。

 ゆえに、ある新しい道を行くときは、必ずそのまま行ってはならないのです。私自身が今、甲という人についていて、その限界線に到達したということを感じるようになるときには、乙という他の人を尋ねていかなければなりません。尋ねていこうというその時には、必死に祈らなければなりません。自分が属していた宗教圏内で精誠を尽くしたそれ以上の最高の精誠で、「天よ、私が行くべき道はここで終わってはいけないのではないですか」と命懸けで祈らなければならないのです。自分が過去に対していた霊界、その基準以上の立場に私自ら上がることのできる精誠の度数を備えるようになれば、私がとどまる所はそこではないということが分かるようになるのです。

 では、それ以上のこととはどのようなものなのでしょうか。もしそれ以上の立場がないときには、「それ以上の立場を私自身が開拓するのだ」という覚悟をして行かなければなりません。そうすれば、その人には恵みの生活が途絶えないのです。しかし、いつも恵みを受けようとばかりしてはいけません。他人が掘った井戸から水をくんできて飲むのではなく、その井戸の水脈をつたっていき、新しい飲み水の流れを探すために努力をしなければならないのです。

 これと同様に、自分を指導し、恵みを与えてくれた指導者の限界点に到達したと思われるときには、その指導者が最も恵みを受けていた時、精誠を尽くしたそれ以上の精誠を込めてこそ、その道を越すことができるのです。ところが今日の信仰者は、このようなことを知らずにいます。

◆神様の愛の内容

 ある指導者を愛するということは、単純に私と君との関係として愛するのではありません。神様を中心とした兄弟の因縁で愛し、兄弟の因縁でなければ新郎新婦の因縁で愛し、新郎新婦の因縁でなければら父と母のような因縁で愛せよということです。愛する道は、この三つの道しかありません。

 神様の愛とは何かといえば、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛を合わせたものです。それゆえ神様の愛を左右に分けてみれば、兄弟の愛であり、夫婦の愛であり、父母の愛だというのです。信仰の道理の中で、神様の愛を母体として一番近い愛の因縁を尋ねていくのが道の道であり、道が越えるべき最高の峠なのです。私たちがこれを知っていれば、問題は簡単です。

 したがって、私たちはどのような道を行くべきかといえば、父母の使命を全うするという宗教を尋ねていかなければなりません。

 それゆえイエス様も、「私たちすべては神様を中心として兄弟だ」と教えたのです。また、「神様を中心として私たちすべては新郎新婦だ」と教えたのです。これを教えたのちには、神様を中心として人類の先祖である父母の内容を完結として教えなければならなかったのに、これは教えることができませんでした。皆さんは今日、統一教会が教えてくれた、このことを知らなければなりません。

 今まで神様の愛を中心として宗教の道を行った数多くの神霊なる人は、神様の愛の因縁が地上の因縁として結ばれた人間関係を願いました。そのような関係で結ばれた人間関係は、兄と弟(妹)の関係であり、そうでなければ新郎新婦の関係であり、その関係でもなければ父母の関係なのです。皆さんが考えるときに、兄弟が暮らす生活や、夫婦が暮らす生活や、父母が暮らす生活を見れば、その模様は似ているけれども、内容は違います。これを分析することができなければなりません。

 このような観点でペテロ、ヤコブ、ヨハネを見てみると、彼らはどんな立場でイエス様に従ったのでしょうか。彼らは、イエス様に対して、ひたすら師としてのみ従ったのです。兄弟の絆であるとか、主体と対象の相対的な因縁とか、あるいはより次元の高い父子の因縁で従うべきであったのに、彼らは、師と弟子の因縁のみで従いました。それゆえに、最後の峠に行ったとき、互いに捨てざるを得なかったのです。

 では、信仰の道において、追求する最後の道を行くには何がなければならないのかといえば、まず最初に神様の愛を中心として、兄弟の因縁をもって出てくる指導者の道理がなければなりません。その次には主体と対象、すなわち夫婦の因縁を中心として出てくる指導者の道理がなければなりません。その次には、父母の因縁をもって出てくる指導者の道理がなければなりません。

 終わりの日とは、数多くの宗教が以前語ったことを追求して出てくる歴史が、世界の途上に平面的に展開する時です。したがって、そのような時には、宗教の中でお兄さん的宗教、夫的宗教、父的宗教を尋ねていかなければなりません。霊界は、このような圏を中心とした各自の目的に対して、数千万個の道に分かれているというのです。

 したがって、皆さんはどんな内容を中心として祈らなければならないのでしょうか。「数多くの宗教指導者の中で、お兄さんの使命をもった人とは誰であり、新郎の使命をもった人とは誰であり、父の使命をもった人とは誰なのか」と祈らなければなりません。そして、彼らを訪ねていかなければなりません。この三つの内容をすべて備えてこの地上に来る人がいれば、その一人の人だけにすがりつくのです。そのようになれば、私自身、弟(妹)にもなれるのであり、妻にもなれるのであり、お母さんにもなれるのです。キリスト教は、このようなことを教えるのです。

◆主従関係を結んだイエス様と弟子

 イエス様とはいかなる方かといえば、お兄さんの責任を担って来られた方なのです。ゆえに、すべての人間が神様の息子になるならば、イエス様と人間は兄弟だというのです。イエス様は人間のお兄さんだというのです。その次には、イエス様は人間の夫だというのです。さらには、イエス様は人間の父だというのです。このような三つの内容を備えて来た主体的な存在が、歴史上の数多くの道人の中で、イエス様しかいなかったという事実を私たちは知らなければなりません。

 では、イエス様はどのような道を行かれましたか。私たちがイエス様を信じるならば、イエス様が行った道が、どのような道なのかを知らなければなりません。イエス様が行った道が、兄弟の絆を結んで行った道なのかといえば、そうではありません。ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、この三弟子を中心として見れば、彼らはイエス様と兄弟の絆を結ばなければなりませんでした。そうして、その絆が強くなれば、新郎新婦の因縁を結ばなければならなかったのであり、新郎新婦の因縁が深くなれば、父子の因縁を結ばなければならなかったのです。ところが、彼らは兄弟の絆さえも結べなかったのです。そういうイエス様とペテロ、ヤコブ、ヨハネであったがゆえに、結局イエス様が死の立場に立つようになったということを、皆さんは知らなければなりません。

 もし、彼らがイエス様に従う時、一父母の血統を受け継いだ兄弟であるという観念をもっていたならば、自分のお兄さんのようなイエス様、自分の弟のようなイエス様が死んでいく立場に処した時、そのままにしてはおかなかったでしょう。血が逆上し、愛する弟のようなイエス様に代わって自分が死ねる道があるならば、その道を探し求めていったのではないでしょうか。したがって、彼らは兄弟の因縁も結んでいない主従関係にあったということを、私たちは知ることができます。彼らは単に師と弟子の立場でした。そのような関係では、親戚の関係も結べなかったというのです。

 このように結ばれるのが兄弟の道理だということを考えてみると、私たちはそれ以上の立場に進まなければならないというのです。そうするには、イエス様をお兄さん以上に愛することのできる立場に入っていかなければならないのですが、これが問題です。

 ペテロ、ヤコブ、ヨハネは、どのような立場でイエス様を排斥しましたか。イエス様がペテロに、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」(ヨハネ二一・一五)と愛の問題を強調した内容は、君が弟の中の弟、お兄さんの中のお兄さんになれるかという内容であり、あるいは夫と妻の心情以上の立場に行けるかという内容なのです。また、あなたは息子であり、私は父の立場にまで行けるのかという内容だったのです。したがって、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」と言ったのは、ペテロの愛を分析した話なのです。

 今日、私たちが信仰の道で考えるべきことは、イエス様が探している弟とは誰なのかということです。それを模索する人は、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ以上の立場まで行けるのです。ペテロ、ヤコブ、ヨハネがイエス様に仕えるのにどれほど精誠を尽くし、忠誠を尽くしたかということを知って、それを近道として、彼らよりももっと優れた道を探していく人にならなければなりません。ペテロが十字架に逆さにくぎを打たれて死んだのは、イエス様に反対して裏切った不信の立場を越えようという一つの方便としての死であって、イエス様の前でのあすを約束して誓うという死ではなかったということを私たちは知らなければなりません。すなわち、蕩減する死にはなるかもしれないけれども、神様の恩恵を直接連結することができる死ではないというのです。

 それゆえ皆さんは、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三弟子が行ったその道を越えてこそ、彼らよりもイエス様をより愛する立場にまで接して入っていけるのです。

 では今日、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ以上の人がいないとすれば、神様はどうされるでしょうか。ペテロ、ヤコブ、ヨハネを立てて、彼らに橋を渡す役事をなさるというのです。その当時の使徒以上の人が出てこなかったときは、その使徒を立てて橋を渡す役事をなさるのです。これを越権して越えていけないのです。

 例えば、部長がいて、その下に課長がいて、係長がいて、班長がいるにもかかわらず、部長が直接班長に「こうしろ、ああしろ」とは言えないのです。そのようになれば、秩序を混乱させるのです。自らの位置を守って、その周囲に関係している系列を通して順理的に動かなければならないのです。霊界の組織も、これと同様だというのです。

◆善なる先祖以上の基準となれ

 ここで「天が尋ねきた道」という題目が出てくるのです。

 では、神様がペテロ、ヤコブ、ヨハネ以上の信仰者を、どのように探すかということが問題です。今日、信仰者の中からペテロ以上の信仰の道を尋ねてくる人がいれば、その人には必ず数多くの蕩減路程があるということを知らなければなりません。

 その蕩減路程をすべて経ながら、精誠を込めて尋ねてくる人がいるならば、神様はどのように役事されるでしょうか。もちろん、ペテロを中間の橋として立てて役事することもあり得ますが、そうでないときには、ペテロが蕩減できなかった内容を、天が背後で探してくださるのです。ゆえにそのような立場にある人は、ペテロがイエス様を裏切った立場を越えなければなりません。ペテロはイエス様を裏切ったけれども、ペテロ以上の立場に立とうとするなら、死の場に臨んでも裏切らない心情的な作用がなければならないのです。それゆえ、神様はペテロの過程を踏んでいく人がいれば、その人が裏切らないように、背後で責任を負わなければならないのです。そういう恩賜を通して、神様と直接対面できる道が開かれるようになるのです。

 皆さんがたくさん祈って、熱心に信仰生活をしていると、そのような「時」が分かるようになります。さっと対してみると秋のような気分になるのではなく、春のような気分になるというのです。そのようになれば、新しい恩賜の因縁が醸し出されるのです。祈祷の内容も変わってくるのです。

 神様は、道の世界に責任を負った人々がその責任を完遂できなかった道の背後で、数多くの霊界の因縁を中心として、いつでもまた責任を負わせることのできる恩賜の基台を準備して、再びその道に沿って出てくる人々に、失敗の道を免れるようにしてくださるというのです。この時は、神様が自分の立場を中心としてお考えになるのではなく、道の道のために精誠を尽くす立場を中心として役事してこられるのです。神様は、このように一段階一段階、高く上がっていけるように役事なさるのです。

 ところが、もしこういう道の世界と関係のない人に対したときは、彼らの善なる先祖を通して役事なさいます。したがって、自分の善なる先祖が道理に従って生きた、その先祖の道を模範として行かなければならないのです。模範として行くには行くものの、先祖は修道の道を行く時、自分を中心として行って終わったために、彼ら以上の立場に行かなければなりません。その先祖が国に忠誠を尽くした以上の忠誠を尽くさずには、先祖が残した善なる基準を越えていけないのです。もし、そのような道を歩んで、先祖が失敗した立場まで出てきた人がいれば、神様は必ずその人を守って失敗しない道を模索してくださる、ということを知らなければなりません。

◆神様が尋ねくることのできる道

 皆さんは、全部宗族が違い、氏族が違い、また個性も違うために、信仰の道を行く過程もすべて違います。個人個人の個性が違うので、その行く道も違うというのです。それぞれ個性が違う人々なので、選民として行くべき過程において、神様は天国まで私一人を導くために多くの苦労をされるというのです。

 皆さんが知っているように、蕩減には個人蕩減時代があり、家庭蕩減時代があり、氏族蕩減時代があり、民族蕩減時代があり、国家蕩減時代があり、世界蕩減時代があります。ここで自分に該当する蕩減路程を中心として、段階ごとに、その代価を払わずしてはその道を行けません。また、その代価を払おうとしている途中で失敗し、意を成し遂げられずに去っていった数多くの指導者や先祖の失敗までも蕩減しなければならないのです。それゆえ、自らの先祖が尽くした精誠以上の精誠を尽くさなければならない、ということを知らなければなりません。

 では、この地にいる人々は、どのようにしなければならないのでしょうか。指導者についていって、それ以上行くためには、彼らが失敗したその立場で特別な精誠を尽くさなければならないのですが、その「時」を知らなくても、神様は皆さんのために精誠を尽くしてくださっているということを知らなければなりません。神様はどうにかして皆さんを連結させようと、皆さんの代わりに、死の道を免れながらすべてに責任をとり、犠牲になって歩まれるのです。それゆえ、皆さんが深い恵みの生活をしてみれば、一段階一段階越すたびに、飛躍的に神様の恩賜を体験できるのです。

 皆さんが恵みの生活の中にある時は、初めは何だか分からずに「良い」と言っていても、「これではいけない」という気持ちになる時は、精誠を込めなければなりません。そのような時であるほど精誠を尽くすようになれば、神様はそれを成し遂げてあげるために、父母の心情をもってその場に尋ねてこられるのです。神様が私たちを尋ねてくることのできる道は、その道しかありません。

 宗教について見ても、甲という宗教があれば、その宗教もある基準を中心として出てきてきたので、その甲という宗教のほかには、救われる別の道がないと考えるのです。その宗教には、その宗教なりの法則があるのです。ところで、その宗教が限界点に至った時は、倒れるようになります。そのような時に、ここに倒れる者のために、神様は必ずその場に尋ねてこられるのです。そのような時、甲というその宗教の基準を越えて、それ以上の基準で尋ねてこられるのです。そういう過程をたどって発展するのです。

 このような点から考えてみると、修道の中の修道は何かといえば、宗教です。また、人の中で義人とはどのような人でしょうか。神様は歴史を通してその義人を探してこられるのです。今日、世界の文化は真なる真理を中心として発展してきました。ところが、どれが真なる世界的真理なのかということは、その真理を主張する人の精誠の基準を中心として決定されるのです。すなわち、そうして新しい思想と理念が立てられてきたというのです。

◆僕の立場を克服すべき私たち

 神様は必ず宗教圏を中心として役事なさる、ということを皆さんは知らなければなりません。キリスト教を中心として見るときも、同じです。イエス様が十字架で亡くなることによって、成し遂げようとされたみ旨が失敗したというのです。霊的救いだけを成し遂げたのであって、霊肉併せた完全な救いを成し遂げられなかったのです。

 イエス様を信じる聖徒が、自らの精誠を尽くすことでイエス様の内情をみな知っていたなら、イエス様がお兄さんであり、新郎であるということが分かったはずです。さらに、イエス様が父になるということも分かったでしょう。

 しかし、イエス様もペテロ、ヤコブ、ヨハネを中心として、主人と僕の関係が結ばれた立場で精誠を尽くしたのです。それゆえ、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない」(ヨハネ一六・一二)と言われたのです。では、どのようにすれば主従関係以上の立場に上がっていけるのでしょうか。イエス様は、僕に対する立場でのみ弟子たちに教えました。ですから、今日の私たちは、どのように僕の立場を克服するかを追求しなければならないのです。そうするには、兄の立場、新郎の立場、父母の立場の基準を中心として精誠を込めなければなりません。イエス様はそのような立場で精誠を尽くすことができなかったがゆえに、私たちがそのような立場を探していくために、イエス様が精誠を尽くしたそれ以上の立場で精誠を尽くすようになれば、どのようになるかというのです。

 また、イエス様が精誠を尽くしたのと同じ僕の因縁を探し出すために精誠を尽くすときは、イエス様が苦労して教え、胸に抱いて歩んだけれども、彼が失敗した立場の因縁を誰が教えてくれるのかということが問題です。それはただ、神様だけがなさるのです。

 聖書を見ると、イエス様は「私は神様の息子だ。神様のひとり子だ」と言いました。では今日、多くの人の中に、「私も神様のひとり子だ」と言える人がいますか。イエス様は、「神様のひとり子だ」と言いはしましたが、ひとり子になることはできませんでした。

 「ひとり子」とは何でしょうか。神様の愛を独り占めする人です。本来神様の愛は、独り占めするようになれば、死ぬようにはなっていないという事実を知らなければなりません。イエス様がこの地に来られる時、霊界で既にひとり子という因縁は決定されていましたが、それは地上を通して決定されなければならないことです。ゆえに、イエス様は洗礼ヨハネを通して決定しようと、洗礼ヨハネ以上の精誠を込めたので、洗礼ヨハネは養子の立場になり、イエス様は息子の立場を相続したのです。

◆主従関係を越えた立場

 皆さんも同じです。皆さんがどこまで行くべきかということを知らなければなりません。僕の位置か、息子の位置か、新郎新婦級の位置か、あるいは父母の位置か、ということを知らなければならないのです。

 その道を尋ねていこうとすれば、この地でその道を引き継いで、イエス様が行った基準以上を越えなければなりません。ところが、イエス様が洗礼ヨハネ以上の精誠を通して引き継いだのと同様に、引き継ぐ人がいなければならないのです。

 そのためには、イエス様が頼める内容をもって出てこなければなりません。そうすれば、イエス様も頭を下げるようになるというのです。道理がそのようになっています。

 神様の息子として来たイエス様には、神様のみ旨を成し遂げてさしあげなければならない使命があります。ところが、それをみな成し遂げることができずに逝くことによって、彼自身はもう成し遂げることができないので、彼に代わる人を通して成し遂げなければならないのです。それゆえ、イエス様の代わりに立てられた人は、そのすべてを相続できるのです。

 では、代わりに相続した人はどのようにしなければならないでしょうか。イエス様が主従関係として結ばれた弟子たちを中心として、責任を果たしたそれ以上の立場に進まなければなりません。それで、それ以上の立場に立てる心情的つながりが結ばれれば、地上で結ばれたその因縁によって、霊界の内容を決定づけることができるのです。

 では、統一教会を中心として見るとき、先生と皆さんは、いかなる責任をもっているのでしょうか。また先生と皆さんは、どんな関係にならなければならないのでしょうか。主人が僕に対するような関係ならば駄目なのです。兄弟のような立場にならなければなりません。世の中では、父母と息子の間でもそのようにできず、夫婦間でもそのようにできませんでした。男性が見るとき、心で見れば女性のようなのに、体は男性だというのです。女性が見るときも同じです。心では女性のようなのに、体で見れば男性だというのです。このように、相対的な関係を中心として、何をしても離せない内情的な因縁が私たちの間に芽生えなければなりません。そのようなことが感じられなければならないというのです。

 その次には、先生がお父様のように感じられなければならないのです。このような三段階の情緒的な因縁が、皆さんの生活圏内で結ばれなければならないのです。そのような立場にまで入っていくようになれば、道を越えた立場なのです。

◆精誠の必要性

 先生が侍るお父様、皆さんがそのお父様に直接対する立場に臨むようになれば、その場は正にイエス様が行った修道の道の最後の場であるために、そこから神様の直接主管圏内に入っていくのです。そのようになれば、息子、娘、妻と弟(妹)の立場に入っていくようになるのです。その場では横的に主管しても、神様の代わりに主管する立場なのです。その場で兄が弟(妹)を主管することや、夫が妻を主管することも、すべて天に代わって主管するのです。ここから、新しい世界復帰の運勢が始まるのです。

 では、皆さんがこれからすべきこととは何でしょうか。精誠を込めることです。誰を中心に精誠を込めなければなりませんか。皆さんが先生を中心として精誠を込めるようになれば、先生が精誠を尽くすようなものなのです。このような生活が、皆さんの信仰生活の根幹となり、鑑にならなければなりません。

 したがって皆さんは、先生が精誠を尽くしたこと以上の精誠を尽くせる環境をつくっておかなければなりません。先生が国に忠誠を尽くしている途中で死ぬ場合、国だけでなく世界にまで忠誠を尽くすべき道が残っているので、皆さんはその忠誠を、どのように尽くすのかを考えてみなければなりません。そうして、ただ一つの道しかないと思って行くべきです。そうでなくては、この道を世界的に発展させることはできないのです。

 ある人が、こういう立場を探し求めて精誠を尽くして出てきたとすれば、神様はその人と親子の関係を中心として出てきたので、その場を訪ねて、その人が滅びないように、その人に代わって内的な精誠の基盤を築いてくださるというのです。そうして時が来れば、その人にみ旨を相続してあげ、新しい出発をさせるのです。

 今まで数多くの宗教がありましたが、歴史の過程で消えてしまった宗教もたくさんあります。しかし神様は、その宗教を信じてきた人を新しい恩賜の因縁に集めて、宗教が一つに収拾されるようにしてこられたということを私たちは知らなければなりません。

◆他宗教をむやみに批評しない

 このように見ると、神様はどれほど苦労されたでしょうか。神様は歴史始まって以来、今まで四方に散在している多くの人々を中心として、こういうことをしてこられました。甲という人に直接役事できないときは、乙という人を立てて間接的に役事なさいました。この時の役事は、天使を使ってなさるのです。すなわち、神様が人間を創造なさる時に、協助するように使命を受けた天使を中心として、役事されるのです。それで、マリヤに天使ガブリエルを送ったのです。マリヤが、「主の女の僕であるので、み意のままになさってくださいませ」というその場は、女性として行ける最高の立場であるがゆえに、神様が直接行かずに天使を送って精誠の道をつくろうとなさった、ということを皆さんは知らなければなりません。

 では、ヤコブがヤボク川で天使と相撲をした時、神様が協助なさいましたか。協助なさらなかったのです。それはなぜでしょうか。エサウとヤコブを中心として見れば、ヤコブがヤボク川へ行くまでは、神様がそのような方向に追い詰めてくださったのです。神様がヤコブに精誠を尽くすように外的、内的に衝撃を与えたのです。それゆえ、ヤコブが夜を明かして祈祷したのです。それで天使を送り、蕩減させるための外的な戦いをさせたのです。神様は、このようなことを中心として、数多くの宗教を連結させてこられるということを知らなければなりません。

 このような点で考えてみると、すべての宗教はその次元を問わず、長い歴史を経てくる間に、神様の数多くの苦労の基台を残しているという事実を知らなければなりません。

 そのような面で、今日私たち統一教会の言う「統一」とは、キリスト教だけを統一しようというのではありません。統一の理念をもって歩んできた私たちにおいては、キリスト教の理念だけがすべてではないのです。仏教ならば仏教を「悪い」と言ってはいけません。仏教の道の限界線までの精誠を尽くさない人が仏教を批判すれば、それだけ精誠を尽くした釈迦ならば釈迦が、かえってその人を批判するのです。分かりますか。

 ですから、他の宗教をむやみに批評してはいけません。自分とは行く道が違うといって、「あの人はなぜああなの!」と批評してはいけないのです。お互いに系統が違うというのです。系統が違うということは、他の系統の責任者を中心として連結している立場なので、そのような点で私たちを助けてくれているというのです。そして、私たちがその系統の限界線を越えるたびに、神様は見えない中で蕩減的な恩賜の役事をしてくださるということを知らなければなりません。

 それで、神様がかわいそうだというのです。神様はこのように、人間が一段階一段階越えるたびに引き上げる役事をなさるために、消耗戦をしていらっしゃるというのです。ですから皆さんは、神様がどれほど御苦労されているのかを知らなければならないのです。

◆より重要な問題

 私たち統一教会を中心として見るとき、統一教会の行く道が、正にそのような道です。皆さんは知らないでしょう。先生は、統一教会が一段階一段階越えていく時が、間違いなく分かります。その時は、本当に深刻です。その時は、ある個人とか家庭が問題ではなく、教会が問題ではありません。またある国が問題ではありません。ただ、主従関係ならば主従関係をどのように立てて越えていくかということが問題です。私たちは難しい峠を、一段階一段階越えて上がっていかなければなりません。そうして、世界的な立場まで上がっていかなければならないのです。このように、最高の立場まで上がっていかなければなりません。神様は、このように役事なさるのです。

 私たちが神様の心情をもって進む原因も、ここにあります。神様の心情以上のものはないというのです。神様の心情が最高です。神様の心情の中に、すべてが包括されるのです。したがって、すべてのことは心情をもってなさなければなりません。神様の心情の中で一段階上がろうとするなら、必ず犠牲の代価を払わなければなりません。私自身が犠牲の代価を払わなければ、天で必ず責任問題が起こります。

 それゆえ賢い人は、この時に必ず祭物を捧げて提示するのです。精誠を込めるときも、甲という人が精誠を込めたならば、その人以上の真心を込めなければなりません。彼が十日断食したとすれば、その倍以上の断食をしなければならないのです。このように、彼が精誠を尽くした限界線以上の精誠を込めて、彼が精誠を尽くし捧げた以上の祭物を捧げてこそ越えていけるのです。そのように、その場を越えていけるように心の準備ができるならば、神様は準備しなくてもいいというのです。

 これはどういうことでしょうか。終わりの日(終末)になれば、生きるか死ぬかという峠が来るようになります。その時、私たちは判決を下さなければならないのですが、神様は私たちが滅びないようにするために、まず準備をなさるというのです。しかし、神様よりも先に地でそれを知り、あらかじめ準備して祭物を捧げたり精誠を込めるようになれば、神様は苦労しなくてもいいのです。

 統一教会が出てくるまで、神様はどれほど御苦労なさったでしょうか。多くの蕩減の路程をたどり、個人復帰、家庭復帰、氏族復帰、民族復帰、国家復帰、世界復帰と段階を高めるために、神様は言うに言えない御苦労をなさったのです。

◆統一教会の原理と統一教会の聖殿

 では、統一教会の原理とは何でしょうか。このような峠の道を越えていくにおいて展開する神様の血のにじむ闘争の歴史を、地上であらかじめ知って蕩減することのできる教理です。これが統一教会の原理です。分かりましたか。これにさえついていけば、直接的に息子の立場にも行けるのであり、兄弟の立場にも行けるのであり、父母の立場も尋ねていけるのです。それ以上の立場はないのです。神様の愛を中心として築かれた家庭の立場まで入っていけるというのです。

 今、皆さんが座っている場は最高の精誠を込めたり、多くの涙と血の代価を払って見つけられた立場であることを知らなければなりません。この立場のために、数多くの先烈たちが消えていき、彼らが流した血が川となるほどの犠牲の代価を払った基台の上に、私たちが立っているということを知らなければなりません。したがって、この立場がどれほど怖い立場かを知らなければならないのです。

 では、この立場にいる私たちは何をしなければならないのでしょうか。親子の道理、夫婦の道理、子女の道理、兄弟の道理を中心として、兄弟の中の兄弟にならなければならず、夫婦の中の夫婦にならなければならず、親子の中の親子にならなければならず、子女の中の子女にならなければなりません。そのような仲になれば、その仲を引き裂ける他の力があるのかどうかという問題が、私たち統一教会が滅びるか、滅びないかということを決定するようになります。

◆復帰しようとするなら愛の因縁を結ばなければ

 先生は、皆さんに霊的に教えます。皆さんが捧げる祈りの中で、先生に会わない人は偽者です。皆さんが祈祷さえすれば、先生は間違いなく教えます。教えるときは、公式によって教えます。科学的だというのです。公式的に教えるというのです。初めの段階は何で、二段階目は何であるのかを、皆さんが祈祷さえすれば教えるというのです。霊的に先生を見れば、誰のようですか。先生がお兄さんのようだというのです。アダムは、エバのお兄さんです。それゆえ、そういう心情を復帰しなければなりません。本質的な、霊的心情を復帰しなければならないというのです。この基準を復帰するには、男性と女性の立場が違います。男性は天使長型で、女性はエバ型で、先生はアダム型です。

 これをこの世的に見れば、男性はアダム型で、女性たちはエバ型というのです。それゆえ、完成したアダム型として来た先生と、けんかをするのです。けんかして何をしようというのでしょうか。盗んでいったものを奪ってこようというのです。それで、男性を全部天使長の立場に立てるのです。それゆえに、「主が盗人のように来られる」という言葉にも一理あるのです。

 堕落した人間は、誰でも死亡線の峠を越えていかなければなりません。ところで、その峠を越えていく方式は、すべて同じです。その峠は、新郎新婦としての立場でなければ越えていけません。一人では越えていけません。堕落する時、この峠を越えてきたがゆえに、復帰する時には、逆にこの峠を越えていかなければならないのです。

 神様を中心として見ると、アダムが堕落することで、神様はアダムを真の息子として愛することができませんでした。またアダムも、神様の本当の息子として神様を愛することができませんでした。真の夫婦の愛も味わうことができませんでした。すなわち、真の夫の立場で愛することができず、その次には真のお父様の立場で愛することができず、その次には父母の立場で愛することができなかったというのです。この三つの愛を味わうことができなかったのです。堕落することによって、そのようになったので、これを復帰するためには、その愛の因縁を再び結ばなければならないというのです。

 皆さんが先生に対する時、兄弟のように感じられ、夫婦のように感じられ、その次にお父様のように感じられなければならないというのです。なぜそうなのかといえば、この三つの因縁を一人の人の愛を中心として感じることによって、堕落した全部を蕩減し、その心情が天の前に復帰されなければならないからです。

 そのようになれば、全世界の統一教会の信徒に、どんなに「先生を忘れてしまえ」と言っても、忘れないというのです。イエス様が、霊的になのか肉的になのかよく分からないうちに弟子を指導してあげたように、先生も霊界なのか肉界なのか分からないうちに統一教会員を指導してあげるというのです。それゆえ、その人々が先生を証し、仰ぐのです。先生は、ここにじっと座っているけれども、全世界的にそのような役事をしているのです。

◆世界を収拾しなければならない統一教会

 今日、私たち統一教会のこういう三段階の心情的な愛の因縁が最終的な決定を見ることのできる立場にあるので、統一教会でなくては世界を収拾できず、道の世界もまた収拾できないのです。

 ここで、皆さんが知らなければならないこととは何でしょうか。そういう心情的な愛の因縁は、歴史過程をたどって無限の代価を払って見つけられた宝物だというのです。億千万金を与えても買えない宝物です。多くの国を滅びるようにしてまでも探し出した、無限の宝物だというのです。それなのに、皆さんがそのようなことについて戦々恐々としながら祈っている姿が目に見えます。それを大事に大事に保管し、永遠の先祖としていかなければなりません。

 皆さんをそういう立場にまで引き上げるためには、霊界の先祖がすべて動員されなければならないのです。何も知らない皆さんと因縁を結ぶために、霊界では最高の精誠を尽くしているのです。そのような精誠の因縁を通して、皆さんが統一教会に入ってきたのです。それゆえ皆さんは、皆さんの無限の価値を知らなければなりません。

 昔は、信徒が祈祷する中でイエス様に会おうと思えば、昼夜の別なく七年以上の精誠を込めなければなりませんでした。そうでなくては会えませんでした。けれどもこのごろは、七日間だけ精誠を込めれば先生に会うことができます。ある問題について七日間だけ断食をして精誠を尽くせば、先生が間違いなく教えてあげます。

 皆さんは神様が尋ねてきた道が、どれほど苦労の多い道であったかを知らなければなりません。先生がこの道を尋ねてくるにはきましたが、尋ねてきた道をまた探していかなければなりません。私を尋ねるために今まで苦労された神様に侍って、誤ったことを蕩減しながら行かなければなりません。では、神様に侍っていくときには、どんな立場で行かなければなりませんか。皆さんを中心として行くのではありません。霊界から天の因縁を通して決定された基準をもって、この世界の前に先駆けて走っていくのです。

 では、誰がこの世を征服するのでしょうか。神様が征服するのではありません。「統一原理」と先生が征服するのです。ある一時が来れば、神様の前に世の中をえり分けていく、その先頭に先生が立つのです。

 ゆえに、世界の統一は、神様ではなく先生がするというのです。アダムが堕落して責任を果たせなかったがゆえに、アダムを復帰した立場に立たなければ、蕩減すべき血統が残るのです。それで先生が先頭に立って行くのです。

 したがって皆さんは、先生の前に荷物にならないようにしなければなりません。先生の後援者になり、先生の手足になりなさい。

 統一教会員が統一的な心情を備えて、自分の引き受けた分野で責任を全うしなければなりません。そのようにして統一された因縁を備えれば、その因縁によって霊界も全部統一されるのです。

 霊界にも数多くの階級があると言いました。霊界の数多くの縦的な階級が統一されて、横的な階級に発展していくようになるのです。これが原則です。このような点から考えてみると、み旨が成就する日は遠くないということを知らなければなりません。

 神様が世界を経てこの立場まで探して入ってこられたので、これからは私たちが世界を経ていかなければなりません。世界的なキリスト教の版図をつくった基台の上に、統一教会を立てて探して入っていくのです。世界には多くの国家があります。その中央に位置するためには、内的な基準を中心として外的な基準を経なければならないのです。そうして神様の内的、外的基準を実践できてこそ統一が成されるのです。

 したがって皆さんは、神様が皆さんの前に霊的に尋ねてこられたこと、肉的に先生が皆さんの前に尋ねてきたということには、どれほどの苦労があったのかを知らなければなりません。これを価値に計算するなら、無限の価値なのです。全天宙を差し出しても買えないような代価を払って得られた、最後の勝利的結実体だということを、皆さんは知らなければなりません。

















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