文鮮明先生のみ言集
訓教経(下)


明日を迎えよう

一九七〇年七月十九日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第三十二巻』


 この地に生きる多くの人々は、みな希望をもって生きています。希望をもたずに生きている人はいないはずです。きょうよりはあす、あすよりはもっと良い一日を求めて生きているということを私たちは知っています。どこの誰であろうとも、未来が現在に劣ることを願う人は誰一人としていないはずです。

◆今日を生きる人間が願うこと

 皆さんが現在置かれている立場は、歴史を代表する立場であり、未来に向かって出発することのできる立場です。七十代であろうが、五十代であろうが、二十代であろうが、人が置かれた立場というのは、過去と現在と未来の中心なのです。そこを中心として、千態万状の過去があり、現在も千態万状であり、未来も千態万状の様相を見せることでしょう。

 このような立場から考えると、皆さん自身は一人で立っているのではなく、過去、現在、そして未来と因縁を結んで立っているということが分かります。自分個人という立場で立っているようであっても、自分一人で立っているのではありません。社会であれば社会を代表して立っているのであり、民族であれば民族を代表して立っているのです。それだけではなく、世界を代表して立っているのです。このような立場に置かれている個人が、あすを迎えるとき、過去や現在よりはもっと良い未来を願うということは言うまでもありません。

 それでは、今よりももっと良いあすを願うとするならば、どうすればよいのでしょうか。今持っているものよりも価値あるものを持たなければなりません。そして過去よりも、もっと良くなるための因縁をもたなければならないのです。自分の置かれた立場というのは、四方の環境を代表する立場であるため、どの環境にも勝る自分自らの位置を定めることなくしては、未来に良い環境を備えることができないということは言うまでもありません。

 このような立場にある自分であるがゆえに、歴史を代表した私であるということに違いはありません。歴史を代表する立場というのは、過去や現在に劣る立場ではありません。劣るような立場では、歴史を代表することはできません。

 今日この世界を見てみると、この世は善なる世の中として、また私たちの永遠なる理想の基盤として神様が保障できる世の中でしょうか。そうではないということを私たちは知っています。

 それゆえ、人類はここから抜け出して、より良い自由と平和と統一の世界、いわば一つの世界を追求しているのです。したがって、私たち自身も今後来たるべき希望の世界に向けて、より良い人格を追求していかなければならないのです。ここで新たに感ずべきことは、私自身がより価値的な存在にならなければならないということです。

 過去もそうであったように、今この地には数多くの人間が生きています。この地には民族があり、民族を越えて国家と世界があります。ここに生きている多くの人が、現在の立場にあって、より良い自らの立場を定めることなくして、より良いあすの価値的世界を追求することはできません。

 結局、どんなに歴史が良く、社会が良かったとしても、その良い歴史と社会の前に自分自身がより良い位置に立ってこそ、より良い未来の世界と関係を結ぶことができるのです。ところが、今よりも良くない立場に立ったならば、歴史と環境の前に審判されるのであり、批判を受けることになります。

◆人間が備えるべき価値

 人間が神様によって創造された存在であるとすれば、その人間は過去の事実を今日に立証できる価値をもった存在として創造されたはずです。現在においても、より価値的な内容を未来に立証できる存在にならなければなりません。

 このような観点から見ると、人は希望を抱くだけでなく、希望する全体の内容を決定できる価値的存在として生まれなければならないのです。「万物之衆
 唯人最貴(注:万物の中で人が最も貴いの意)」という言葉があります。これは、人間が万物の中で最も高く貴い存在であるという意味です。それゆえ、人間が立っているところは、歴史が仰ぎ見る位置にあり、この時代が、時代の中心として見つめる位置にあり、未来がその価値の前に出て、頭を下げるような位置にあるのです。このように未来まで抱いて進むことのできる価値的な存在となって初めて、「唯人最貴」の位置に立つことができるのです。また、人間は万物の霊長だといいます。ところが私たちが霊長というからには、必ず中心に立って全体の価値を代表することができなければなりません。

 また、優秀な人も、そうでない人でも、人は世界的な中心になろうという欲望をもっています。無限の価値をもった中心になりたいと願うのです。ある種の存在があれば、その存在の中で最高の存在になろうとし、また絶対的な中心があれば、その中心と一つとなろうとするのです。このように、より価値のあるものと関係を結ぼうとするのが、私たち人間の心です。

 それでは、私たち人間の心はなぜそうなっているのでしょうか。それは本来人間は、歴史全体の価値を代表する中心的な価値をもっているためです。

 今日、私たちは自分で自分を見て喜びを感じ、自分の生活環境で喜んでいるのかというと、自分自身に喜びを見いだし、自分自身の生活によって幸福を追求しているという人は、一人もいません。そのような人がいるとするならば、その人は全体の中心であり、全体の幸福の価値を代表できる人にほかなりません。このように考えると、私たちは、そのような価値をもった中心存在とは距離があるということが分かります。

 それでは、どうやってその距離を短縮するのでしょうか。その距離をどうやって縮めて、その決定的中心の前に一致するかという問題を考えざるを得ません。これは単に私たちだけではなく、歴史時代を経る中で、み旨を抱いてきた多くの人が考えてきた問題です。この問題を念頭において、間隔を縮めるために闘うのが、正に人生なのです。

 ところが、その絶対的価値の基準と一体化するために、私たち人間だけが苦労するのではありません。私たちが絶対的価値の基準にまで達することができるように、協助する神様がいらっしゃるのです。神様が人間を絶対的な存在として創造され、また神様が人間に責任をもち、人間と絶対的な関係をもっているとするならば、いつかは必ず絶対的価値の基準に人間が一致する時が来るはずです。

 神様は絶対的な存在であり、無限な能力をもったお方であるがゆえに、人間もそのような存在になることを願い、またそうなる日が必ず来ることを信じています。それゆえ良心的な人は、あすのために、未来に向かって一つの世界を目指してきました。このようにして、今まで発展してきたのです。

 今日の歴史は、無限なる発展が始まる時ではなく、歴史的な終末時代にとどまっているのです。私たちは今この時、神様と私が一体化するための基点を、自らの生活圏内で自分の人格を中心として完結できるかという問題について考えなければなりません。現在を「終末であり、終わりの日だ」と言いますが、これは今日の私たちにとって、大変重要な問題です。

 それゆえ、私たちがどのような希望を抱くべきかが問題となるのです。例えば、一つの家門を中心とする希望をもっているならば、その希望の基準は、歴史の希望と一致し、今の時代の希望と一致し、未来の希望と一致しなければなりません。そうではなく、ある特定の氏族、特定の民族、特定の国家を中心とした希望であるならば、最終的に唯一残ったその希望の前に、審判を受けざるを得ないことでしょう。

◆歴史的代表となるべき私たち

 それゆえ今日の人間は、審判の道を避けるために良心が願う道を求め、永遠に残る道を求めていかなければなりません。人間として誰もが行かなければならない道を模索せざるを得ないのです。これは人間のみならず、神様も人間と関係を結んで、解決のための道を摂理歴史と人類歴史路程に連結しなければなりません。このような因縁を結ぶのが、宗教の行く道なのです。

 宗教の行く道は、歴史の背後によって引きずられていく道ではなく、歴史過程を超え、環境を超え未来を追求していくことのできる、より新しい価値的な内容を提示する道です。このような内容を扱わない宗教は、歴史の審判を受け、時代圏内で糾弾を受けることでしょう。したがって、未来と通じることのできる内容、時代を率いて未来へ行くことのできる宗教的な道を求めて行かなければならないということを知るべきです。

 人間が歴史的中心の立場にあるとするならば、私たちがより良いあすを迎えるためには、より良い歴史的実体となり、より良い時代的中心とならなければなりません。そのためには、この時代で、一つの氏族や民族を中心とした代表にとどまるのではなく、歴史的かつ時代的な代表とならなければなりません。同時に、全世界を代表する価値と能力をもたなければなりません。そのような存在こそ、今日私たちが願う中心なのです。

 そのような基点に立って、より良いあすを引き込むならば、あすは引き込まれてくるのです。たとえ悪なる世界、死の世界、すなわち死亡の世界が目前に迫ったとしても、より良いあすを引き込むことができるのです。そのような世界的な価値の中心、あるいは歴史的、時代的、摂理的な中心の位置を定めたならば、その人は過去を支配し、現在を動かすことができるはずです。

 そのような立場に立てば、今後行く道にどんな困難があるとしても、その困難な環境の彼方にある新たなる願いを引き寄せることで、困難な環境を除き去ることができるのです。それを可能とする人格をもった存在がこの地上に現れるならば、人類歴史の終わりの日が遠いとしても、その終わりの日を短縮する主体的な中心となるという事実を、私たちは知らなければなりません。

 そのような立場であすのために進むとき、過去と現在は、未来を保証し、未来の中心となるのです。未来は、過去と現在との因縁を通した関係にあるために、過去と現在を代表して勝利できる立場に立つならば、そこから未来を調整することができるのです。

 歴史過程で未来に願いを抱き、開拓者の使命を果たそうとして生まれては死んでいった聖人たちの前には、試練と迫害の道、捨てられる道、死の道が横たわっていました。その横たわったものを彼らが除き去り、なくそうと対決しましたが、それは一時的な対決にすぎませんでした。時代を超越し、永遠の勝利として残されることはありませんでした。これはのちの日に、一つの中心によって収拾されるしか方法がないのです。

 彼らがもし統一された神様のみ旨、絶対的な神様のみ旨と完全に一つとなり、一〇〇パーセント体得した立場でその環境と闘ったとするならば、彼らは生涯路程の中で、み旨を完成したことでしょう。

 そのみ旨とは、絶対的な息子のためのみ旨であり、絶対的な娘のためのみ旨なのです。絶対的な価値を中心とした息子、娘のためのみ旨であるがゆえに、そのみ旨を完成した息子、娘がこの地にいたとするならば、神様の摂理路程の前に過去を代表する者となり、現時代の中心存在となり、未来の出発者となり得る、確固たる中心として定められるのです。そのような存在として、神様の愛と理想を丸ごと抱くことができる代表的な存在となったならば、そこから新しい創造の歴史が始まり、歴史を超えた新しい能力の役事が起こることでしょう。

◆あすを迎えることのできる人

 それでは、未来を迎える主人となるのは誰でしょうか。今日の私たちだけが主人になることはできません。私たちは、すべて絶対者によって創造された結果的存在であるために、主体的な立場にあるのではなく、相対的な立場にあります。

 それゆえ主体が描く一つの圏があり、主体が描く一つの勝利的環境があり、主体が描くあすの理想があるはずです。そこに一致する自己の価値をもった人がいるとするならば、完全に一致するところまではいかなくても、主体の愛、主体の願い、主体の現実がその人に連結されるのです。そうしなければ、未来の実体と、未来の環境、そして未来の勝利的価値に連結されないために、神様の永遠なる理想の出発はなされないのです。

 そのような立場で、未来に責任をもとうという人が現れるならば、その人が行く道というのは、個人が行く道ではありません。その道は、世界の人に代わって行く道であり、人間だけではなく絶対者に代わって行く道なのです。

 そのような立場に立った人にとっては、いつでも過去が現在に代わることができ、現在も過去に代わることができるのです。言い換えると、過去はあすの希望をもたせるための刺激を与える立場に立つということです。すなわち、過去は過去としてただ流れていくのではなく、現在とより良い未来のための刺激となる因縁として残ります。現実も、やはり単なる現実として終わるのではなく、未来に向かう刺激的な現実となるべきです。

 このような立場で進むならば、過去と現在と未来の間には差がなくなるのです。未来において過去のことを追求しても、その存在の価値を感じることができるのです。また現在を考えても、この現在の位置が未来の中心ともなるのです。

 もし、そのような人がいたとするならば、その人は歴史に勝る人となり、歴史上最高の希望の中心となることができるのです。そして時代の前には、最高の勝利的中心となり、未来においても中心となることができます。

◆神様の最高の願い

 神様のそのような存在が、天と地、そして過去、現在、未来を含むこの世での因縁を中心とする環境なり生活圏において、その中心となる存在が決定される一日を、私たちの生涯路程にいかにして残すかということが何よりも重要な問題です。

 このような観点から、統一教会は心情世界について論じているのです。神様の最高の願いとは何であり、最高の希望とは何であるかという問題について考えているのです。神様は、全世界を御自身の懐に抱こうとしているのでもなく、天と地を御自身の権勢で治めようとしているのでもありません。たとえ外的な相対的条件がすべて満たされていたとしても、それは神様にとってはあくまでも間接的な問題にすぎません。喜びによってのみ包括され、喜びによってのみ動く主体的な運動の中心、すなわち核となり得るものとは何でしょうか。それは、神様の愛にほかなりません。

 神様の愛を中心とした一体化、神様の愛を中心として歴史を率いていくことのできる勝利圏、神様の愛を中心として時代を包括することのできる主体圏、これをどのように見いだすかが問題なのです。それゆえ私たちは、心情の世界について論じているのです。

 歴史は今までこの世界の統一に先駆けて、統一の根源となり得るものを探し求めてきました。すなわち神様の真の息子と真の娘を立てて、神様と一つとなって時代環境を開拓し、時代の中心に立たせてこられたのです。神様はこのようにして、人間を引っ張っていかれるのです。

 それゆえ、神様の導きに引かれていくことのできる、心情的な絆をどれだけもっているかどうかが問題なのです。神様と私が個人としてだけではなく、世界を代表した位置で関係を結んでいるのかが問題なのです。

 それゆえ神様は、より価値的な存在になろうとする人よりも、人間を誰よりも愛する人を求めていらっしゃるのです。その人の前に、世界が屈服するとかしないとか、あるいは時代と環境が収拾されるとかされないとか、それが問題なのではありません。神様の心を動かすことができ、全体の心を代表した一つの相対として現れるための真の愛の因縁をもっているかが問題なのです。そのような息子、娘はいるのでしょうか。

 神様は、愛の神様です。その愛は過去を収拾し、時代を主管し、未来を開拓することができます。その愛によって苦労も克服し、困難な環境も消化することができるのです。また愛の力は強いため、その力と一つとなることのできる起源をもった人であれば、その人はどんな困難にぶつかっても、うまく消化することができ、主管して余りあるのです。愛は、このような力の母体であるがゆえに、神様は愛について話されたのです。

 神様の言う愛とは、歴史と掛け離れた愛ではありません。時代から分離した愛でもありません。未来に訪れてくる愛のことでもありません。出発から永遠に至るまで、共にある愛のことを言われたのです。したがって、人間が生まれて生涯路程を経る間、すなわち生まれてから死ぬ瞬間まで、このような愛を携えた人がいるとするならば、その人は、永遠なる神様の愛の対象であると言うことができます。

 皆さんの一生のうちで、み旨を知って神様の愛を体得した期間が生涯の三分の一に当たるならば、残り三分の二に該当する期間は、皆さんにとって悲しみの期間とならざるを得ません。また生涯の半分を神様の愛を中心として神様のために生活したとするならば、その残り半分の生涯は恥ずべき生涯だと言わざるを得ないのです。今日私たちは、そのような恥ずべき生涯と悲しみの生涯を残してはなりません。

 今までの歴史過程において、神様の愛を中心として人間と結ばれた愛が何パーセントであったかを考えてみましょう。未完成の愛から歴史が流れてきて、今でもそのような時代圏にあることが分かります。

 したがって、今私たちが追求すべきことは、神様の愛を一〇〇パーセント所有できる境地を求めていくことなのです。そのような立場に立てば、その人には息子という言葉は必要なく、神様と共にありたいと願う必要もなく、また神様を求める必要もないのです。なぜなら、探し求められた位置にあるからです。これこそ、永遠に幸福な立場なのです。

 ところが、いまだ収拾すべき内容を残した立場にあるとすれば、永遠の幸福というものはあり得ません。完全に収拾されて絶対的な基準を決定できる立場に立ち、また神様の愛と一致する立場に立ってこそ、永遠な勝利の座につくことができます。

◆絶対的な因縁で連結された神様と人間

 本来、人間は勝利の本郷から出発するはずでしたが、堕落のゆえにそうではない立場から勝利の世界を求めていくことになりました。その求めていく基準とは、人格を完成した立場です。もちろん人格も必要ですが、その人格を動かすことのできる内心的な核、すなわち愛がより必要とされます。その愛とは、すなわち神様の愛です。

 その神様の愛を見いだして関係を結ぶと、私が悲しむとき、神様も悲しむのです。父子の関係、あるいは夫婦の関係を中心として見ても、父母ならば父母、息子ならば息子が悲しめば、我知らず骨の髄から悲しみが込み上げてくるのです。それは説明を超越し、環境の因縁をすべて超越して存在するのです。それは距離と事情を超越して、相手と一致した感情が誘発されるからなのです。

 このように愛は説明を超越し、事由を超越しているのです。喜ぶにしても、その内容や事情がどうあろうとも、それを超越して共に喜ぶのです。相手が息子でも父母でも、共に喜ぶことのできる相対的存在として、我知らず引き込まれていくのを感じるようになります。それは純粋に、自分と絶対的な因縁をもった一つの血筋を中心として、永遠を共にする内的な心情の因縁で結ばれてきたからなのです。このように私のすべての動き、主体との相対的な関係をもっているために、主体が喜べば私も喜び、主体が悲しめば私も悲しまざるを得ないのです。

 このように考えると、今日私たちが喜べば、絶対者も喜ぶということができます。もしそれが確かだとすれば、私たちはどのようにしてでも喜んで生きなければならないという結論が出てきます。なぜならば、私が悲しめば絶対者も悲しみ、絶対者が悲しめば私だけでなく全世界も悲しむという相関関係をもっているからです。

 神様が私以外の人によって悲しみを感じるとき、私も自然に悲しみを感じ、私が喜べば、自然に神様も喜ぶことができるのです。私が悲しい環境を超えて、より高次的な位置で喜びを感じれば、喜びをこの地上に反映させる動きが、霊界を中心として人間の背後で起こるのです。

 祈祷生活を多くして、霊的に高い見識をもって生きる人は、我知らず悲しみが押し寄せてくることがあります。その時に、神様が悲しい立場にいらっしゃるということを体験するのです。また、我知らず心に満ちる喜びを感じる時があるのですが、それは神様が喜びの座にいらっしゃることを感じているのです。

◆体 恤的な愛を感じる立場

 私たち人間は、現実では時間と空間の制限を受けていますが、霊界ではそうではありません。時間を超越した圏内では、これがそれであり、それがこれなのです。霊界を中心として反映されてくる関係の世界では、悲しみと喜びは、いつも私を中心とした一日の生活を通して現れるのです。ところが今日私たちは、これを感知するには到底及ばず、あまりにも足りない立場にあるということを知らなければなりません。

 「あすを迎えよう」、「真のあすを迎えよう」と言うためには、真の私とならなければなりません。そうしてこそ、真のあすが私と関係を結ぶことになるのです。ここで一番重要なのは、体恤的な信仰です。

 体恤的な信仰というのは、神様が悲しむとき私も悲しみ、神様が喜ぶとき私も喜ぶという信仰のことです。皆さんは、毎日毎日そのような生活を中心として神様の悲しみの心を解き、世界の前に喜びを分かつことのできる人とならなければなりません。そのような人となったならば、私によって世界は収拾されていくのです。

 歴史上に現れた聖徒を見ると、彼らは当時は排斥を受けましたが、彼らが残した道は歴史を収拾してきました。しかし、それは距離をおいて収拾してきたものです。しかし、神様の愛を中心として完全に一体化すれば、距離を超越して収拾することができます。そのような立場で神様を喜ばせ、主体と共に時代の環境を克服し、飛躍できる立場に立ったならば、その人によって世界は新しく改革されることでしょう。

 彼から発せられる波長は、全世界の人類と過去、現在、未来の世界にまで及んでいくはずです。また、その時の喜ばしい事情は世界を消化し、世界を感化し得る主体的な役割を果たすことでしょう。それゆえ、「義人の祈祷には感化する力がある」といわれるのです。したがって皆さんが、どうすればそのような人となり、どうすればそのような境地を見いだすことができるのか、ということが問題なのです。それには、体恤するしかありません。

 それでは、私たち人間が、その体恤的な愛を最も近く感じる位置とはどこでしょうか。それは皆さんの家庭で、皆さんが父母であれば息子を愛するように、自分が神様の前に相対的な立場で神様に代わって、その愛を広く全人類に適用する位置なのです。

 神様は、私たち人間とは違います。私たち人間は、自分の息子、娘が困難に陥れば、万人を犠牲にしてでも自分の息子、娘を救おうという思いをもちます。それが堕落した人間です。しかし神様は、万人を救うために御自身の息子、娘を犠牲にするのは当然なことと考えていらっしゃいます。ここで人間の心を、どのようにして神様のような心に変えていくかということが問題になります。

 ところで、天国に行くことができる人とは、どのような人でしょうか。アブラハムが信仰の先祖となった動機とは、何だったのでしょうか。アブラハムは、神様に自分の息子を燔祭の祭物として捧げました。彼が祭祀を捧げたのは、未来の子孫のためです。これがまさしく、彼が祭祀を捧げた動機なのです。未来の子孫のために、自分の息子を祭物として祭祀を捧げるアブラハムの心は、どれほど悲愴なものだったでしょうか。

 現在よりも未来の世界のために自分の息子、娘を神様に祭物として捧げ、祭祀を捧げることのできる人は、未来の勝利の基盤を現在に引き寄せることができるのです。アブラハムは、自らの息子を未来の世界のために祭物として捧げました。

 そのような心をもって進むとき、神様が共にいらっしゃいます。そして、そこで天国に行くことができる人なのか、行くことのできない人なのかが決定されるのです。自分を中心として欲を出す人は、天国に行くことができません。自己中心的なものは捨て、自分を犠牲にして祭物となろうとする人だけが天国へ行くのです。

◆神様の救いの摂理の原則

 それでは、神様の愛を完全に占領することのできる人とは誰なのでしょうか。自分の体はもちろん、自らの息子、娘までもみな祭物として捧げて万民を救い、愛そうという主体的な心をもった人です。このような心こそ、神様の心なのです。

 神様は今まで摂理してこられた中で、怨 讐を打って摂理を進めたことはありませんでした。怨讐を打って摂理されるよりも、御自身の愛する存在、一番近い存在を犠牲にして摂理を進めてきたのです。神様は、そのように摂理を発展させてきたのです。その発展とは、天国に向けての発展なのです。

 したがって、未来を相続できる人、尊敬される人、その時代の人から優待される人は、自分を犠牲にする人です。そういう心をもって、自分の息子、娘までも世界のために、神様のために犠牲にすることのできる心をもったとき、そこから神様の所有として決定されるのです。

 神様は今まで、愛する多くの僕を犠牲にしてこられました。それでも足らずに、ひとり子イエスをこの地上に送られましたが、イスラエル民族が反対し、迫害することによって、結局十字架の道へと追いやったのです。

 イエス様は、十字架の道を前にして、神様の前に訴えられました。「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と祈られました。父のみ旨とは、自分を犠牲にしてでも、世界を愛し救いたいと思うものであるがゆえに、ただひたすらにそのみ旨に従順に従っていくことが、息子としての道理であることをイエス様は知っていたのです。そうして、ひとり子イエスは、祭物となっていきました。

 イエス様は、祭物の中の祭物となっていきました。たとえ自分は犠牲になったとしても、神様の愛だけは残るということを御存じだったイエス様は、願ってきた一つの世界が必ずや築かれると信じて死んでいかれたのです。そこから世界は収拾されるのであり、そこから新たな歴史が、その起源を一段階高い次元に定めて始まるのです。

 したがって、そのような限界線と自分がどのように関係を結ぶかということが、すなわち自分があすの天国を現在において迎えられるかということが問題となるのです。きょうがなければあすがないように、きょうの勝利の起源を切っても切れないあすの因縁に結びつけなければなりません。

 神様の愛は、自分が最も愛する人を犠牲にして怨 讐を救おうという愛です。カイン・アベルを中心とした摂理歴史が、正にそれです。したがってアベルは、自分個人だけではなく、家庭までも犠牲にしなければなりません。家庭だけではなく、民族を救うためには氏族までも犠牲にしなければなりません。そして国家を救うためには、民族までをも犠牲にしなければならず、世界を救うためには国家までも犠牲にしなければならないのです。このような圏をつくらなければなりません。

 神様が私個人を犠牲にしたとしても、感謝しなければならず、私の家庭を犠牲にしたとしても、感謝しなければならず、私の氏族を犠牲にしたとしても、感謝しなければなりません。また私の民族を犠牲にしたとしても、感謝しなければならず、私の国を犠牲にしたとしても、感謝できなければなりません。そのような国が現れてこそ、世界はその国を通して収拾されるのです。

 神様も、過去の歴史路程において、そのような国を探し求めて摂理を進めてこられたのです。国のために生きる個人がいるとすれば、彼の個人としての伝統を受け継いだ家庭を通して、国のために犠牲になれるようにし、また氏族と民族がその家庭の伝統を受け継いで、国のために犠牲となれるようにしたのです。こうして、その国を探すために、神様が今まで摂理を進めてこられました。

◆国を求めて立てようとされたイエス様の悲しみ

 今日、私たちがこの地上に生まれた目的は、国を愛するためです。神様が今まで摂理してこられたのも国を愛するためです。それでイエス様は、「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。……まず神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ六・三一〜三三)と語られました。

 ここでいう「神の義」とは、行動の価値のことです。国のために犠牲になることなくして、義が成立しないということです。

 それでは、どのような立場で犠牲となるべきなのでしょうか。神様と私が切っても切れない立場、すなわち、縦的な歴史を垂直に流れる直系の心情を相続し、世界を愛し、国を愛することができなければなりません。また、個人をその国の代表として愛し、多くの氏族をその国の代表として愛し、多くの民族をその国の代表として愛し、神様が求めていらっしゃるその国のために、多くの国を愛することができなければなりません。

 このような愛の伝統の因縁をもって、その国を愛するために犠牲の道を行ってこそ、義人の立場に立つことができるのであって、それ以外には義人の立場を決定することはできません。国のために死ぬとしても、絶対的に正義に立脚した生活をして初めて義人となれるのです。したがって、国を愛する心がなければ義人になることはできません。それゆえ聖書には、「義人はいない。ひとりもいない」(ローマ三・一〇)とあるのです。これは、国を愛する人がいないために、そう言ったのです。

 イエス様も、国を愛したくても愛することのできない立場に立っていました。心では愛していても、実際に愛し得るイスラエルとなっていなかったので、イエス様は国を愛することができなかったのです。国がまず欠け、民族が欠け、氏族が欠けてしまったのです。さらに、十二使徒までが全部欠けてしまい、愛するための条件がすべて崩れるという立場に置かれたのです。ですから、嘆息せざるを得なかったのです。義人が一人もいないというのは、悲惨なことです。これこそ、歴史を通して今までつづられてきた神様の事情なのです。

 イエス様は、それを感じて落胆するよりも、神様は自分自身よりもっと哀れな方であると考えたのです。「私は一人の人間として生まれ、三十年余りの短い生涯の過程で国をもつことができなかったということはあり得るとしても、お父様は最初から歴史の背後で復帰の使命に主導的な責任をもち、これを収拾するためにどれほど苦労してこられたことか。愛する国のないお父様がどれほど哀れなことか。その国が現れるまでの長い間、歴史を導きながら犠牲の代価を払ってきたにもかかわらず、いまだに国のないお父様は、どれほど悲しいことだろうか」と考えたのです。

 イエス様はこのように考えたため、「お父様!」と呼びつつ、神様のために祈祷する立場に立たれたのです。それゆえ、イエス様こそが、神様の心情を代表した息子であるということを皆さんは知らなければなりません。天国と地獄は、ここから分かれるのです。

◆愛と犠牲

 それゆえ、息子、娘と自分の家庭を中心として引きずられる身となってはなりません。また世の中の、ある民族や国家を中心として引きずられる身となってもなりません。信仰をもった人は、国家から制裁を受け、社会から糾弾を受け、家庭と、最も愛する人からさえ迫害を受けました。しかし、そのような迫害を打ち切り、乗り越えてきた人が、今日の宗教を開拓した中心的な責任者であるということを皆さんは知らなければなりません。彼らがその時代に排斥され、追われたとしても、神様は生きて働かれ、彼らを通して歴史を動かしてきたのです。

 精誠を尽くす人には、生命の春というものがあります。その時、神様は精誠を尽くすその場に来られ、その人を中心に因縁を結んで役事されるのです。そして、その人の一生を通して条件を立てながら、新たな希望の歴史へと接近してこられるのです。こういう観点から統一教会では、心情の世界観を論じているのです。

 それでは、統一教会が心情を中心とした個人的な人格、心情を中心とした家庭的な基準、心情を中心とした民族と国家形態について論じるその目標とは何かというと、今日のこの国のためのものではありません。今日私たちが観念的、習慣的に言っているような国のためではありません。神様に代わることができる内容に立脚した、心情のことをいっているのです。つまり、自分の息子、娘を愛する以上に世界を愛そうということです。自分の妻や夫を愛する以上に、世界を愛そうということなのです。自分という存在を中心として、「ああだこうだ」と言う者は、「滅びるな」と言っても滅びます。歴史は、それを証明しています。

 もし、そのように世界を愛する人が千年の恨の歴史を抱き、悔しく死んでいったとするならば、その人は、未来の希望として来た多くの人間に、自分の恨を解いてくれるよう誰彼かまわず取りすがって願うことでしょう。そのような多くの選民の死と、義人たちの流した血が恨となり、歴史に残っているがゆえに、終末に神様の摂理のみ旨がこの地上と関係を結ぶことができるのだということを皆さんは知らなければなりません。したがって、皆があすを迎えることのできる個人とならなければならないのです。

 ところが今日、この地上で自らの息子、娘だけを愛するのにきゅうきゅうとしている人が多いのです。そのような立場を離れ、神様に代わって愛し、あるいは神様の保障のもとで愛することができてこそ、より大きな愛となるのです。

 私たちは堕落した人間であるがゆえに、いつかは希望の時を迎えるために進んでいかなければならない立場にあります。したがって、この悲しい事情を私が知り、その悲しい事情を私の心情で感じて、神様の愛と交差する交差点に立たなければなりません。その交差点が、私の生活圏です。そうならなければならないという心が骨の髄からあふれ出て、愛する息子、娘を祭物として捧げることができるでしょうか。世界のために自分の息子、娘を犠牲にし、自分の家庭を犠牲にし、私の氏族を犠牲にし、私の民族を犠牲にし、私の国まで犠牲にすることができるかどうかが問題です。国までが問題なのです。

 今日、統一教会がたどるべき運命の道は、あすの国、あすの世界を相続するために行く道です。私たちは、その道を行くために結束した群れなのです。したがって、自分の息子、娘を祭物にして、自分の氏族を犠牲にしてもこの国のために生き、この世界のために生きることができなければなりません。こういう問題を考えると、今日の統一教会を指導する先生は、皆さんを苦労の場に追いやらざるを得ないことを皆さんは知らなければならないのです。

 犠牲の場に追いやることが愛なのです。それ自体は悔しいことかもしれませんが、倒れて死んで祭物となるその背後に、神様の愛の基盤が自分さえ知らない間につくられていくのです。それゆえ、これを広げて氏族圏を超え、これを広げて民族圏の前に影響を与え、これを広げて国家の基準を変える日には新たな国の旗を掲げ、世界に向かって進軍を始めることができるのです。その目的に向かう道が、統一教会の道なのです。

◆私たちが行くべき道

 したがって皆さんは、この国を、自分の息子、娘を愛する以上に愛さなければなりません。み旨に従っていく場合、代表的に責任をもっていく時を多くもたなければなりません。神様の前に祈祷するとき、こちらに行こうにも行けず、あちらに行こうにも行けないという立場、こちらに行ってもうまくいかず、あちらに行ってもうまくいかないという時があります。そのような時は、祭物を通して行くしかありません。そのまま行くことはできないからです。

 その祭物をどのようにして模索するかという問題を考えてみるとき、自分の愛する息子、娘と家庭、自分の愛する氏族、自分が愛して率いる統一教会をどうやって祭物として捧げるか、という問題について考えざるを得ません。それができる宗教があるとするならば、その宗教によってこの国は救われることでしょう。

 そのために生まれ、そのために生き、そのために死ぬことが私の本来の天職であり、神様が私をこの地上に送り、賦与された任務なのです。ゆえに、その任務を遂行する運命の道を行かなければならないのです。皆さんも、当然そうでなければなりません。したがって、自分の生命の峠、生命の限界線を超えた立場で肯定し、是正することのできる自分自身の姿をいかにしてもつか、ということが問題とならざるを得ないのです。

 もし、「国を取るか、自分の家庭を取るか」と聞かれたならば、私たちは「国を取る」と答えなければなりません。また、「教団を取るか、国を取るか」と聞かれても、「神様が訪ねてくる国を取る」と言わなければなりません。また「民族を取るか、国を取るか」と聞かれたならば、「民族を犠牲にしてでも国を取る」と答えなければなりません。

 超民族的な時代が迫るこの時点で、私たちは落胆したり、希望を失ってはなりません。これは時が近づいたという証拠です。その時の絶頂を迎える三角地点において、すなわちサタンの悪と神様の善が交差し、ぶつかる瞬間に、これを善の側に転換するのは、神様でもなくサタンでもありません。唯一人間なのです。

 今や、国がそのようなことができる時が近づいたのです。アジアの情勢が世界のすべての運命を左右するという気運の押し寄せる切迫した時の到来は、世界的な運勢を決定する最後の瞬間が、私たちの目前に迫っているということを意味しているのです。このような瞬間を迎えて、「いかにしてこの時に合わせて越えていくのか」という問題に取り組む群れと氏族、団体がなければなりません。それゆえ、神様を中心とした、そういった団体が必要なのです。

 それで、統一教会がそういう団体になろうとしていることを、皆さんは知らなければなりません。私たちの願いは統一です。統一のためであれば、愛する教団さえも祭物とすることができなければなりません。そういった感情を一つの基点に一致させれば、ここから新しい創造の能力は無限に広がっていくことでしょう。そのようになれば、歴史が収拾されるのです。

 統一教会を中心として神様の愛の因縁を結束し、国を愛する心を合わせた位置に立てば、その中に国が、国の中に民族が、その家庭の中に個人が存在するのです。このように国を復活させ得る国民になったとするならば、その国民は、自動的に解放を迎えることができるのです。

 その国民が善主圏内に立てば、それと同時に神様の前に行くことができるのです。このように国の主権が立てば、民族も救うことができ、氏族も救うことができ、家庭も救うことができるのです。したがって問題は、国が定められなければならないということです。平面世界では、これが核になるのです。今まで地上で人類が探し求めてきたものが、まさしくこの核なのです。

 一つの国家形態を備えるためには、あくまでも個人が問題となります。そして次に、個人を中心とした家庭が問題です。統一教会で祝福を受けた家庭は、国のために祭物となることができなければなりません。この点を皆さんは、明確に知らなければなりません。

 天国か地獄かが、ここで分けられるのです。聖書をよく学び、話がうまいということで、天国と地獄が決定されるのではありません。実績と心情が問題となるのです。結局、天国と地獄の境界線は、心情の境界線、実績の境界線によって左右されるのです。

 今日、祝福を受けた家庭は、祝福を受けて生まれた子女たちが貴いといって、かばおうとしますが、そうであってはならないのです。祝福を受けた家庭の子女を祭物とすることができなければなりません。その子女を、国を愛する以上に愛してはなりません。今日のこの国のためではなく、神様が訪ねてくるその国のために犠牲にすることができなければなりません。それゆえ、神様の国を建てるために子女をも犠牲にするという覚悟で進まなければならないのです。

◆真のあすを迎えるために祭物の道、犠牲の道を行け

 そのように生き、そのように闘い進む人がいたとするならば、その人は明らかに現在においてあすを迎えることができ、あすを占めてなお余りあることでしょう。与えられた立場であすに備えて進むゆえ、未来の天国は、その人のものとなって当然です。

 今日、宗教を信じる人々が「天国へ行こう」と言いますが、天国へ何もせずに行くことができますか。まず、この地上で天国を迎えてから行かなければならないのです。地上に天国を迎えるためには、愛の法度を経ていかなければならないことを、明確に知っていなければなりません。皆さん全員が、そうなることができるように祈祷しなさいというのです。

 皆さんの家庭に愛する子女たちがたくさん生まれれば生まれるほど、神様の国をより一層愛するための十字架が増すということを感じなければなりません。その家庭に息子、娘をたくさん送るということは、担うべき十字架が多いということであり、国のために捧げるべき責任が多いということを意味します。そのような内容を知り、責任を全うする人とならなければなりません。そういう家庭にこそ、その家庭に後代を相続することのできる運勢をもった息子、娘が生まれるのです。

 皆さんが過去、現在、未来を占めるためには、皆さん自身が過去、現在、未来を通した心情的な代表者とならなければなりません。家庭がそのような心情的な代表とならなければならず、氏族がそのような心情的な代表にならなければなりません。そうなれば、その個人、家庭、氏族は、世界を指導することができるのです。

 そのような個人、家庭、氏族となるためには、いつ、いかなる時も、自分の家族、自分の氏族全体が犠牲になるとしても、神様の前に当然のこととして捧げることのできる伝統を残さなければなりません。そのようにして死んだ家庭と氏族は、死んだことにはなりません。勝利を収めて未来を自らのものとした氏族であるがゆえに、死んであの世へ行ったとしても、それは変わることはありません。あの世に行っても、中心になるのです。したがって、皆さんがこのような道をたどることなくしては国を救うことができないということを、明確に知らなければなりません。

 そして、この民族全体を団結させて、心情的一致点をもたせ、この国を今後来たるべき希望の国のために祭物として捧げなければなりません。そうして、この環境の基盤の上に、天上の因縁を結び、新しい創造の歴史を築くことのできる世界的な結実を結びたいというのが、先生の考えです。それで「明日を迎えよう」という題目でお話をしましたから、皆さん、よく覚えておいてください。

















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