文鮮明先生のみ言集
訓教経(下)


手本になろう

一九七〇年八月三十日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第三十四巻』


 世の中の万事は、より良いもののために、より価値あるもののために努力し、またそのために発展しているのを、私たちは生活の中でよく見掛けます。

◆神様と万物が接したいと思う人

 皆さん自身について見ても、より価値あるものをもつために、より価値のないものを捨てるときがあるでしょう。二つのうちどれが良いかと聞かれれば、つまり、良し悪しを見分けるときは、より価値ある内容がどちらにより多く介在されているかという問題をおいて、選択するようになるのです。

 物を選択するときも、そのようにします。人に接するときも、同じです。友人の中でも、どのような人と親しくなろうとし、またどのような人と縁を結ぼうとするのでしょうか。自分より価値があり、より善で、より高く、より広い内容をもった人に近づこうとします。また、その人がもった内容を、いかなる縁を通じてでももちたいのが、私たち人間の心です。

 このように見ると、私たち人間を造られた神様も、やはり同じだというのです。より価値あるものを中心として、神様の愛が集中し、神様の願いが集中し、神様のすべてのみ旨が集中するということは、とやかく言う必要もありません。

 こういう立場にある私たちも、より良くなり得る価値をもった人、すなわち万民が要求するより広く、深く、高い内外の内容をもった人がいるなら、その人に近づこうとするでしょうし、神様もその人に近づこうとするでしょう。そのような時、人間のために造った万物も、彼に近づかざるを得ません。このように見ると、「人間は万物の霊長だ」と言うことができるのです。

 では、全体の前に、手本になれる中心的な存在は、どれほど価値ある存在にならなければならないのでしょうか。彼は、無限に価値ある存在にならなければなりません。神様がいらっしゃるなら、神様御自身も手本となるそのような人を取って、彼と一つにならなければならないのです。ですから、その人は絶対的な価値を包括しても、残ることのできる存在にならなければならないのです。

 このように見ると、神様とも一つになれ、すべての万物と宇宙とも一つになり得る、そのような手本になる人とは、いかなる人かというのです。その真の人が願う理想的な標準と生活、そして人格を成す基準、あるいは私たち人間として願う理想的なすべての内的な要素をもったその基準が、哀れでないことは明らかです。

◆手本となる立場

 人は、誰でも悲しいことは嫌うものです。誰でも困難が自分と関係ないことを願うものです。私たちはある家庭が困難に遭うのを見れば、その家庭に同情するようになります。同情というのは、自分自身のものを彼らに与えることです。その不幸の要件を取り除くためには、周囲の助けを借りなければならないので、そのような立場は願わないのです。

 では、本当に幸福な立場とは、どのような立場でしょうか。いつも与えることができる立場です。与えるとしても、悲しみを与えるのではなく、いつも喜びを与えなければなりません。これは、皆が願うことです。

 万有の中心になる、手本になることのできる人がいるなら、その人はいかなる立場で手本になるのでしょうか。その立場は、明らかに真の立場であり、喜びの立場でしょう。またその場は、無限に幸福な立場でしょう。その幸福は、有限圏内の、限界線内での幸福ではなく、無限の立場での幸福でなければなりません。そういう価値の内容をもった人が、この地上にいなかったのです。

 神様の息子として、この地に来られたイエス様御自身はどうだったのでしょうか。もちろん、万有の手本になれる方だったのですが、悪なる世の中に処していたがゆえに、与えるべき立場でした。イエス様御自身が相手をしている世の中が哀れなので、いつも与えなければなりませんでした。与えたのちは、高かった立場が低くなります。水がなみなみとあったとしても、くめば減るのと同じです。どんなに高い立場にいるイエス様であっても、哀れな環境に接するときには、与えるのです。

 では、イエス様御自身は、どうして喜べる立場に立てなかったのでしょうか。与えたのちは、必ず困難な環境にぶつかり、喜べる内容が減少するためです。この減少したものを、どのように補充するかが問題です。もしこれを補充できなくなれば、彼は、言いようのない不幸を感じるのであり、言いようのない孤独と苦しみを感じるようになるのです。

 では、与えてからこれを補充できる、ただ一つの道とは何ですか。悲しい人を慰労してあげ、その人と一つとなり、その人を自分が助けてあげることにより、彼を悲しい立場から、より良い立場に上げてあげ、もう少し良い立場に引いてあげることです。与えたあとに、自分があげたものの補充を受けることができるなら、彼は幸福な人です。幸福は、そこから始まるのです。自分を中心として損害を受けたり、減退するのではなく、自分を中心として発展の現象が起こるようになるときは、それだけ喜びがやって来るのです。

 また、百ほどの仕事を計画したとしても、その仕事が一度に成されるのではありません。十ぐらい成され、二十ぐらい成されて、三十、四十、五十、六十、七十、八十と、このようにして、その成される可能性が高まることによって、願っていたことがますます近くなります。ですから、それを見て人々は喜びを感じるのです。

 このような点から見ると、きょうのみ言の題目のように、私たちが人生の手本となる人になり得るのかということが問題です。

◆手本になる人の人格基準

 では、手本とは何ですか。手本になれる人とは、低いものを高めてあげたり、自分自身も高まることのできる立場に立つ人です。言い換えれば、手本になれる人は、上下にも必要な人であり、左右にも必要な人であり、前後にも必要な人です。こちらにも補強してあげられ、向こうにも補強してあげられる人です。補強してあげて終わるのでなく、補強してあげてから、補充を受けられる立場です。

 手本になれるその基準とは、東洋でのみ手本になるのでなく、西洋でも手本にならなければなりません。また、地上世界だけでなく、天国でも手本にならなければなりません。一時、あるいはある環境内でのみ手本になるのではなく、全体の代わりをした立場で手本にならなければなりません。また、相手に影響を及ぼして、それにより損をするのではなく、かえって一つ受けられる人です。

 このような点から見ると、私たち人間よりも、より高い価値と連結するようにならなければなりません。木を例に挙げてみれば、木には根があって、幹があって、枝があります。太い枝は、根から多くの影響を受けるので、たくさんの枝が伸びていき、たくさんの葉が出るのです。このように太い枝は、枝の中の中心の枝として現れるように理致的なものです。

 皆さん自身が多くの人と因縁を結ぶとき、彼らが皆さんを手本として、皆さんが行うとおりに行うことができる立場に立たなければなりません。しかし、それで終わってはなりません。一時的ではなく永続的な内容をもって、自らの影響を全体の前に及ぼすことができ、自分自身も影響を受けられる立場に立たなければなりません。そのようになれば、無限に発展せざるを得ないのです。

 したがって、自分が相対している存在が高まってこそ、自分も相対的影響を受けて存在価値が高まるのです。このような立場になれば、必ず真の因縁がますます発展するようになるのです。

◆神様は皆さんが哀れな人々の慰労の対象になることを願われる

 堕落した私たち人間は、悪なる世界で悲しみの中にあることを知っています。では、み旨を中心として生きる皆さんは、悲しみをもっている人々の前に、何をもって手本にならなければならないのでしょうか。悲しみを慰労できる内容を与えずには、喜びを与えることができないのです。言い換えれば、悲しむ対象の基準が十ならば、その十の基準以上の十一、十二、あるいは二十の基準で満たしてあげれば、その悲しむ人は喜ぶようになるのです。

 では、この悲しみを取り除くための天の摂理を推進しなければならない皆さんが、一番問題視しなければならないこととは何でしょうか。皆さんが、神様とどれほど近くにあり、また神様に侍るとき、いつも喜んで侍っているかというのです。私によって神様が悲しまれるのでなく、私によって神様が喜ばなければならないのです。私が感じたどんな悲しみよりも、孤独を感じ、苦痛を感じた神様が、それを解かれるために神様自ら補充なさろうとするとき、私がその代わりに補充してさしあげることができる慰労の対象になるなら、その人は神様の前に、絶対的に必要な人ではないでしょうか。

 皆さんが悲しい人々にとって慰労の対象になるならば、それはどれほど価値あることでしょうか。したがって、天国は他の所にあるのではなく、私の心の中にあるのです。天国を所有した人は、悲しみに生きる人ではなく、喜びに生きる人です。また、有限な価値を追求して生きるのではなく、無限の価値を追求して生きるのです。

 私たちは、終わりのある生涯路程を行っていますが、終わりのない生活を追求しなければならないのです。横的な生活にあっても、それで終わるのでなく、必ず縦的な内容と関係しなければならないのです。縦的な深い内容が、随時横的環境に影響を及ぼすことによって、環境をより輝かせることのできる立場に立つようになるときに、その人は必ず、その環境において生活の中心になるのです。

 このような意味で、私たちがこの悲しみの世、サタンの世、悪の世をより良くするためには、必ず与えなければなりません。ではここで、皆さんが無限に与えることのできる補給路をもっているか、ということが問題になります。もし手本になることがあれば、その手本が一箇所にだけ適用されてはなりません。絶対的な内容をもって、すべての環境を超越して標準にならなければならないのです。それで、一致させるために努力しなければならないのです。

 このような自分になって環境を純化させ、中心存在が喜ぶようになれば、その環境に置かれている人々も、手本になる人を中心として喜ぶようになります。きのうよりもきょうが喜ばしく、きょうよりもあすが喜ばしい内容を、その中心から感じることができるなら、これは神様が愛し、神様が共にできる人間として、万民の手本になる人に違いありません。

◆内的に深く、高い生活をされたイエス様

 イエス様を見ると、イエス様の生活は単調でした。三十余年間、大工のヨセフ家庭で、助手として手伝ってきた彼の生活は、とても単調でした。外的には変化のない生活でしたが、しかし、彼の単調な生活の裏面においては、すべての環境を克服しても余りある、広く、高く、深い内容をもって生きたのです。

 それゆえ、受難の道と孤独の道も、その内的な深い生活で補うことができたのです。イエス様は自分の苦痛だけを埋めるのでなく、他人の苦痛まで埋めてあげられる内的な影響力をもったがゆえに、神様は、新しい歴史を創造するにおいて、手本になる人物として彼を立てざるを得なかったのです。

 ですから、イエス様の外的な生活は、ヨセフ家庭という制限された環境を抜け出すことができず、また、その仕事場から抜け出すことのできない生活でしたが、内的には、ヨセフ家庭を超え、イスラエル民族を超え、世界を超え、さらには天国で暮らせるほどに広く、高く、深い内容をもった生活をしたのです。

 それで神様は、イエス様を、いかなる人間よりも手本になれる人間として認めざるを得なかったのです。したがって、神様もイエス様と関係を結ばざるを得ず、イエス様を協助せざるを得ない立場に立ったのです。それによってイエス様は、誰も感じられず、誰も悟れない、深く、広く、高く、新しい世界観を中心として出発するようになったのです。

 では、イエス様がそのような立場に立つために、どのようにしたのでしょうか。日常生活において、外的な生活、すなわち横的な生活だけをしたのではなく、神様と深い関係を結ぶための縦的な生活までしたのです。誰もできない、こういう二重的な生活をしたということを皆さんは知らなければなりません。

 言い換えれば、与える生活だけしたのではなく、神様からの高くて大きい価値を永遠に補給できる基盤があったがゆえに、難しい環境、悲しい環境を耐え抜くことができたというのです。

◆手本になる人になれば

 統一教会の信徒は、教会に入って最初にみ旨に接したときは、喜びで出発しました。世の中のすべてが、私を中心として生まれたと感じたでしょう。恩恵を受ければ受けるほど、自分を中心としてすべてが復活し、自分を中心としてすべての関係が結ばれると感じたでしょう。皆さんは過去に、そのようなことを体験したことでしょう。

 しかし、その時のその基準と、今とは違います。その時に感じた感覚というのは、平面的に感じられる感覚ではなく、立体的な感覚だったのです。人に対しても、その人の悪いところを見るよりも、良いところを見る目がより開け、感じることも、悪い面を感じるよりも、良い面を感じる感覚が早くなる、そういう体験をした人がたくさんいました。

 ところが、それを基盤としてより高く、より広い内容を中心に生きていくべきなのにもかかわらず、社会生活や信仰生活において、過去の行動を習慣的に、そのまま行っています。このような鑑別機能をすべて失うようになったのは、非常に残念なことです。

 み旨に従っていく途中で、恩恵深い立場に臨むようになれば、自然に喜びを感じるようになります。他の人が見れば、理解できないくらい喜びが訪れるようになるのです。春を迎えてすべての草木が、花を咲かせ、香りを漂わせるような時があります。あるいは、秋にすべての穀物が熟し、主人の手を待っていて、それを刈り入れる喜びを十分に感じるような時があるのです。そういう時をもっていない人は、かわいそうな人です。

 神様と親しくなって、神様と一つになる価値的な立場に行けば行くほど、彼は永遠に手本になれる人なのです。その手本になれる中心が決定される日には、万有の存在が彼と一緒に和動して、彼と一緒に楽しく相応するようになるのです。そのような立場が、人間において手本になることのできる立場ではないでしょうか。そのような立場が、私の心に天国を所有したという立場ではないかというのです。皆さん自身の心がそうなってこそ、皆さんの家庭も、そのような家庭へと導くことができるのです。

◆本当に善なる人になろうとすれば

 このような点から見ると、本当に善なる人とは、どのような人でしょうか。悪が十ぐらいあれば、十ほど嫌う人は善なる人ではありません。その悪を忘れてしまって、その悪の中に宿っている善の価値を悪以上に評価できる人であってこそ、善なる人です。そうしてこそ、その悪い人を善なる立場で相対し、新しい立場に導くことができ、新しい立場で彼に幸福の要件を提示できるのです。そうすることによって、その人が私を手本にしてついてくることができるのであり、私を中心として関係を結ぶようになるのです。

 自分がその悲しい立場に入っていって、悲しみを蕩減してあげ、自らの喜びをその悲しい人に与えることのできる立場に立つようになるならば、その人は、いかなる環境においても手本になり得るのです。

 では、そのような人になるためには、どのようにしなければならないのでしょうか。平面的な習慣や観念を超越しなければなりません。

 善良な人になるためには、悪を他人のことと考えるのではなく、自らの痛みとして感じて、夜を明かして彼らのために涙で祈祷してあげ、彼らの罪のために贖 罪の祭祀を捧げる心をもって生きなければなりません。そのような人は、悪い人の本性の中心存在にならざるを得ないのです。

◆宇宙的な手本になられたイエス・キリスト

 そのような立場に立った人が、イエス・キリストです。イエス・キリストは平面的な立場で時代的な救い主であるだけでなく、歴史時代を経て過去の救い主であり、過去だけでなく、未来の救い主です。したがって、今後生まれる人間の歴史的なすべての瞬間を見ると、過去の人もこういう悲しみをもち、現在の人もこういう悲しみをもっていて、未来の人もこういう悲しみをもつだろうといって、人類の悲しみを自ら体験なさったのです。

 そのような人類のために、内的な中心と外的な中心の立場に立って彼らを理解し、彼らを同情し、彼らのすべての困難を自分の困難と感じ、涙しながら身もだえした方が、イエス・キリストだったのです。

 したがって、良い人、つまり善なる人とはどのような人でしょうか。自分を犠牲にしながら人を助けてあげ、人を許してあげ、人に困難があれば、その困難を自分の困難として思う人をいうのです。そのような人に接したいのが、私たちの心が願う道であり、私たちの心が訪ねていく道なのです。そのような手本になる人がいるなら、その人によって善は発展するのです。

 なぜ子供は親を好きなのでしょうか。親は子供がどんなに悪くても、そのままにしておくのでなく、その息子を引っ張って良い所に移してあげようとするためです。悪い子供にしておかないのです。その親の心が、悪い所にある子供よりももっと切実なので、子供は親を好むのです。このように親は、子供の前において、善なる立場です。

 これと同様に、人間が神様を絶対的な善の中心として追求して、神様と共にすべてを収拾し、すべてを決定づけようとするのは、神様が親の立場であるからです。神様は、子供である人類が悲しめば、その人類をそのままほっておくのでなく、悲しむ谷間まで下りて、その悲しみを自らの悲しみに変えて、自分が代わりに悲しもうという立場に立とうという方であるがゆえに、私たちはその方を手本とし、その方と完全に一つになって、一緒に暮らしたいのです。その方と離れたくなくて、永遠に永遠に共に生きたいのです。

◆手本になる人になろうとするなら、神様と近い立場に立ってこそ

 神様と近ければ近いほど、問題は単調です。神様と私、二人しかいないのです。けれども、それは全体の代わりができるのです。なぜなら、それは全宇宙の手本になり、千人、万人に接することのできる内容になるからです。善を踏み台として四方に関係を結べる内容があるので、私自身がそこを掘り下げて入っていけばいくほど、無限の刺激を感じることができ、無限に新しい面に接することができるのです。人間は、そこで幸福を感じることができるのです。

 今日、学者とか文学者、あるいは世界的な人物は、そういう縦的な立場、言い換えれば、人間の本性や手本になる中心の近くに行けば行くほど、立体的な感覚を感じることができるのです。その感覚を直接感じるようになれば、その内容を確実に表現できるのです。そのようにして表現されたものは、世界的な文学作品になり、世界的な学説になるのです。

 したがって、手本になれる真の立場に立つためには、神様と近い立場に立たなければならないのです。神様は、永遠の存在であり、無限の存在であるがゆえに、その真の本性とともに無限な内容をもたなければなりません。そうして、与えて終わるのでなく、千回、万回与えても、また与えることのできる心をもたなければなりません。

 皆さんが信仰生活をするにおいて、神様を尋ね求める路程において手本にできる人、すなわち「彼は手本になれる人だ」と言える人は、私が悲しみを感じるとき、その悲しみを解消してくれることができる人です。また、喜びをより永遠に残せる人です。そうしてこそ手本になるのです。神様がそうだというのです。

 皆さんが恩恵の中で感じた喜び、夢や啓示、あるいは神様を信じる人と共に喜んだそれは、一時的なものではありません。それは、一生忘れられないのです。それはなぜでしょうか。真に近いためです。真であるほど永遠です。真であるほど手本になる立場であるために、全体と共に関係を結ぶことができるのです。それゆえ、忘れたくても忘れられないのです。

 私たちが信仰生活をするのを神様が御覧になれば、私たち統一教会の信徒はともしびのような立場です。暗黒のような世の中で中心的ともしびになろうとすれば、そのともしびの光がどれほど明るいかが問題になります。一時的にともって消えるともしびでなく、日がたてばたつほど、より大きく、明るく現れることのできる存在にならなければならないのです。

 そのような存在になるためには、手本になる主体を中心として、相対的な関係を結ばなければなりません。主体と相対的関係を結んで二人が合わさって、お互いにやりとりすれば、より明るい光が放てるように、やりとりできる因縁が広ければ広いほど減退するのではなく、より価値的な光を放つ存在になるのです。

 神様は、信仰生活がたるんで後退する人を願うのでなく、ますます高まる人になることを願うのです。ですから、皆さんは内的な心情の世界、外的な生活において広く、高くあって神様の友人になり、神様が臨在なさることのできる一つの聖殿にならなければならないのです。神様は、こういう真の中心になる立場に立つようになれば、訪ねてこられるのです。

 皆さんが夫婦生活をするにおいて、夫が外的な面で手本になる人であるなら、外的な立場で幸福かもしれません。そのように外的な幸福の条件を要求することももちろんですが、内的な幸福の条件を妻に及ぼすことができなければなりません。妻も内的な面でのみ称賛を受ける妻に終わってはならず、外的な面でも称賛を受けられる妻にならなければなりません。夫婦は、お互いに手本になり得る立場を取らなければならないのです。

◆外的な生活と内的な生活をよく併用しなさい

 外的な生活は単調です。皆さんは、朝御飯を食べてから仕事をし、昼食を食べてからまた仕事をし、そして夕食を食べて寝ます。このように単調です。その次には、子供を育てることです。このように人間の外的な生活は単調ですが、その外的な生活の裏面には、広く、高く、深い複雑多端な内的な生活の一面があります。外的なすべての単調な環境を自由自在に動かし、押し進めることのできる、内的な力量をもった人でなければ、間違いなくその環境で失望し、絶望するようになるでしょう。

 外的な生活において、ある程度基盤ができたといって、それで「幸福だ」と言う夫婦は、手本になれない夫婦です。その外的な生活をより輝かせ、より幸福なものにするためには、広くて深い内的な因縁をもたなければなりません。内外が整わなければならないのです。一面だけもっていては駄目で、平面だけもっていても駄目なのです。立体的な内容をもたなければならないのです。

 私たちの一日の生活を見ると、十二時間以上、目を開けて活動します。二十四時間中に八時間程度寝るとすれば、残り十六時間は何のために生きるかというのです。

 単調な生活が習慣化していて、それが人間の生活だと考える人は、世の中に属した人にすぎないのです。その属した生活環境を開拓して、属した環境により高次的な価値の内容を与える生活ができなければなりません。そうしてこそ、悪なる世の中で善の立場を決定できるのです。外的な生活を支配する生活ができない人は、「信仰者」とは言えません。「天の人」とは言えないのです。

 イエス様の外的な生活は単調でしたが、内的には民族のため、世界人類のための生活をしました。そういう内的な人生の価値を抱いて、それを感じて、またそれを体験しながら生きたのです。イエス様が、そのような広く、深い、高い内的な生活をなさったがゆえに、歴史時代において人類の友人になれたし、人類歴史の手本になって、御自分(イエス様)に似るように数千年の歴史を感化させてきたのです。

 私がどのような話をし、どのような行動をしながら生きるかということが重要です。家庭ならば家庭で、お母さんとして子女に対する生活、妻ならば妻として夫に仕えて生きることは、みな一般化したコースを踏んでいるというのです。これが善ですか。このような私たち人間の生活は、手本にできないのです。したがって、より価値があって見習うことのできる生活は、神様と共にあるのです。

◆サタン世界の前に手本になる家庭になれ

 天の側の人は、どのように生きなければならないでしょうか。家庭において妻が夫に接するとき、平面的にだけ接してはなりません。内的な生活を基盤として接しなければなりません。夫が妻に接するのがきのうよりちょっと変わったからといって、妻も夫に冷たく接してはなりません。差があってはならないのです。より良く接してくれるなら、私はより高い内情的な刺激を感じなければならず、冷たく接するといっても、それを批判するより、その悪いところを補充してあげられる自分にならなければなりません。そのような妻は、夫に必要な妻です。夫も、やはり妻の前にそのようにできる人となってこそ、その家庭が発展できるのです。しかし、お互いに欠点を見つけて、ねたみ恨む家庭は後退するようになり、破壊するのです。すなわち、別れざるを得ないのです。

 したがって、家庭を中心として手本になれる基準は、夫婦が内的な人格を中心としてお互いに価値的な内容を認めて、足りない点を補強しながら生きていくのです。そうしてこそ、その家庭が外的なサタンの世界に手本になれるということを、皆さんは知らなければなりません。自分の夫にそのように接する妻、妻にそのように接する夫として終わるのでなく、日がたてばたつほど範囲を広めていって、立体化させなければなりません。自分の家庭の喜びを、すべての人間が必要とするということを知るようになれば、それを世界の前に繁殖し、発展させるために努力する立場に立ってこそ、神様を身代わりした善の中心、善の手本になれる人になるのです。

 このような生活をするためには、どのようにしなければならないでしょうか。自らの生活全体を神様と結びつけさせなければなりません。悪いことがあれば、それを人間の間で解決するのではなく、神様と共に解決しなさい。信仰で解決しなさいというのです。また、良いことがあれば、自分を中心として喜んではなりません。神様と共に喜ぶべきです。

 私とあなたの間に授受が始まっても、いつも、まず神様と私との間において因縁があり、動機になったと考えなければなりません。そのように、すべての問題を神様と共に関係を結び、神様と共に清算しようとする生活体制を立てていく人は、必ず発展するはずです。

◆サタンも避けていく人となろう

 人生の中には蕩減の時代があります。正常の生活や、正常でない生活において、不幸な立場もあるのです。しかし、その不幸を不幸としてとらえてはなりません。不幸の境遇にぶつかったとき、私一人でそれを解決するのではなく、神様と関係を結んで消化していかなければならないのです。

 では、私に不幸なことが起こるのはなぜでしょうか。それは、神様が蕩減の役事をしていらっしゃるからです。蕩減の役事は、民族と世界をかけてするのです。蕩減の役事をするには、善なる人が祭物にならずには蕩減できません。それが復帰の内容なのです。それゆえ善なる私自身が、不幸な立場に立ったとするなら、それは私が、万民を生かすために荷を背負ったことを知らなければなりません。私自身がこういう荷を背負うのは、神様の愛に対する当然の道理なのです。

 このように神様と共に生活して、神様と共に消化していく人がいれば、彼が接するすべてのことは神様と共に始まり、神様と共に終わりを結ぶのです。それゆえ、その人は無限に与えても残ることができ、いつでも無限な関係を結ぶことのできる主体になるのです。

 きょう一日が良かったとしても、「神様、きょうは本当にありがとうございます」と言ってはなりません。また、悲しいからといって「神様、きょうは本当に悲しかったです」と、このように言ってもいけません。良ければ良いなりに感謝し、悪ければ悪いなりに感謝しなければなりません。私自身にはマイナスになるかもしれませんが、公的な分野において、全体の前に良ければ全体のために喜ばなければなりません。私によって全体が良くなり得るなら、喜ぶべきだというのです。

 このように、善は全体に良いものを与えるのです。より貴く、より広い範囲のものを与えようとするのが善であるがゆえに、私はたとえ孤独で苦痛な立場にあったとしても感謝できなければなりません。相手の世界に善を与えるためには、そのような苦痛も感謝できなければならないのです。

 感謝できる人にはサタンが侵犯できません。サタンが侵犯したとしても逃げるのです。たとえサタンの侵犯を受けても、「全体を蕩減させるために、神様が私に試練を与えたんだなあ」と、このように考えるのです。そのような人に接すれば接するほど自分が滅びるので、サタンに「対せよ」と言っても対しないのです。しかし、これを避けていこうとすればするほど、サタンは彼についていくのです。

 神様は、本来良いものだけに対される神様であられるべきなのに、人間始祖が堕落することによって悲しい立場に変わりました。それゆえ、神様がこの人間と一つになるために、その悲しみをすべて引き受けざるを得ませんでした。悲しい表情をせずに、悲しくないという立場に立たないことには、善なる神様、喜びの神様になれません。喜びの出発ができる神様になれないのです。

 したがって神様は、今まで悲しいこの地上のために、苦労の路程を歩んでこられたのです。そうでなくて、「苦労で苦痛の道だから行けない」と考えたなら、善は出発することができなかったでしょう。しかし神様は、どんなに大変で難しくても、この道が善のために行く道であり、より光る善の価値を探すための道であるために、この道を行かれたのです。その道が死の道でも、そこで無限の幸福を探し、永遠の喜びを探していったのです。出発が喜びの出発にならなかったのですが、悲しい内容を喜びで包み、喜びで消化させて進まないことには、喜びの天国を成し遂げることができなかったのです。

 したがって、イエス様は自分の喜びや幸福のための祈祷はしなかったのです。ゲッセマネの園で祈祷する時、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と言いました。父のみ旨とは何でしようか。万民の悲しみと、万民の死と苦痛を引き受けなさいというのです。イエス様が犠牲になっても、万民に幸福を提示しようとするのが父のみ旨だというのです。

 こういう父のみ旨の前において、無限に苦痛で、無限に恐ろしくて、最後の障壁にぶつかったときは絶望したいけれど、その場で絶望することなく、その絶望を超えて希望をもちなさいというのです。イエス様は、自分の行く道は滅びる道ではなく、世界のために新しい出発の峠を越えるという信念をもってその峠を越えたがゆえに、そこから新しい喜びのキリスト教歴史が出発したのです。

◆悪いものを吸収して命の要素に変えよう

 皆さんの生涯で、三分の二以上が言葉にならない悲惨な生活、言葉にならない苦痛の生活なら、その三分の二の生活をすべて切り離してしまうことができますか。そのようにはできないのです。

 私たちは堕落した子孫であるがゆえに、先祖から、罪悪に接する報いの結実として生まれました。したがって、私たちの生涯には、高低があるのです。では私たちが、低いものは捨てて、高いものだけ取ることができますか。そのようにはできません。すべてを堂々と私の運命として受け入れて、高いものに喜びがあれば、その喜びの内容を中心として、絶望に落ちた悲しみを引き上げなければなりません。そうし得る喜びの余力、希望の余力をもたなければなりません。そういう立場で信仰生活をしなければならないのが、今日、私たち人間の人生路程です。

 ここで皆さんが知るべきことは、「私は、私の生活において、愛と生命と人格の手本を立てなければなりません。私の家庭においても、社会と国家でも、そういう手本を立てなければならない」というとき、そこには良いものだけがあるのではなく、良いものよりは悪いものがよりたくさんあるのです。三分の二以上が悪いものです。良いものは現れません。新聞の社会面を見ても、良い記事よりは悪い記事が多いのです。

 それゆえ、この世を消化して善なる世界を成し遂げるという人が、このようなことに押され、追われているのです。けれども、これをのみ込んで消化し、栄養としてみなすことができなければなりません。そうして、神様の内的な善を植えて、悪の要素を肥料にするか、栄養素にするかして、発展できる動機としなければなりません。それでこそ、生命力をもつことができるのです。

 生命が育つために肥料として吸収するときは、汚いものも必要なのです。汚い肥料をまいた所に種を蒔いても、種には関係ないからです。その種が、汚い灰ならば灰、肥やしならば肥やしに根を下ろして、それを吸収して生命力をもつようになるときは、その肥料が生命体を成長させる要因になるのです。このように、皆さんにも試練と苦痛があっても、その試練と苦痛を消化させられる主体的な力量さえ備えたなら、永久に光る人格体になれるというのです。

 今日私たち統一教会も、悪なる世の中に向かっていく路程にあります。その道中には、統一教会の幸福があり、統一教会の善なる基準がありますが、その幸福と善なる基準は、先に現れません。それは必ず蕩減の道を行かなければならず、責任と使命の道を行かなければならないために、まず良いものとして現れるのではなく、悪く悲しいものとして現れるのです。

 その悲しみは教団的な悲しみですが、民族に代わり得る悲しみであり、世界に代わり得る悲しみです。その悲しみが大きく、高くて広いほど、統一教会を世界化させるための蕩減になるのです。統一教会を滅びるようにするのではありません。このように、すべてを消化することのできる主体的な力量をもって峠を越える日には、統一教会は世界的な基盤を築くことができるのです。

◆世の中の手本になるべき統一教会

 皆さんに先生が、忍耐と克服を強調する理由とは何でしょうか。耐えて越えるならば希望があるからです。しかし、耐えて越えるのに、泣きわめきながら越えるのではありません。克服というのは、難しくても、難しくない姿で耐えて越えるのです。悲しくても、悲しくない姿で耐えて越えなければならないのです。それが真の克服です。やむを得ず越えるのでなく、耐えて越えるのです。歯を食いしばって耐えて越えるのです。孤独で悲しくて苦痛であっても、喜びで消化して越えることができて初めて悪なるものも、地獄も、天国化させることができるのです。それでこそ、真の信仰者として手本になれるのです。また、この世の個人の手本になれる基盤になるのです。さらに、全体的な基盤になるだろうということを皆さんは知らなければなりません。

 皆さんの人生で、三分の二が悲しい生活だとすれば、その三分の二をどのようにしなければならないのでしょうか。神様を中心として、喜びの生活にしなければなりません。天国化させなければならないのです。天国は与えながら生きる所です。神様も、与えてこそ神様になるのです。父母は子に与えてこそ親になるのです。良いものを与えてからも、もっと良いものがあれば、それをまた与えたいのが親の心です。赤ん坊にいくら色とりどりの晴れ着を着せて、いくら良いものを食べさせたしても、それで満足するのではなく、もっと良くしてあげたいと思うのです。与えても、もっと良いものを与えたいのが親の心であり、神様の心です。したがって、皆さんの生涯において三分の二が不幸だというとき、これをどのように消化すべきかということが問題です。

 もし、神様が皆さんに賞金を下さるなら、賞金をあげるその場はどこでしょうか。万民が見る立場で賞金をあげるでしょうか。違います。もちろん、そこでもあげることができます。しかし、その反対の立場でも与えられるのです。多くの人々が「良い」と言いながらついていく、そのような立場よりは、最後の場で下さるというのです。神様に一つしかない宝物なら、一人だけにあげたいのです。すべての人が離れていっても、生き残った者、死の峠でも生き残った人にあげたいというのです。

 では、この賞金をどこでもらいますか。皆さんが、この問題を決定しなければなりません。自分に苦痛が来ても絶望してはなりません。喜びの立場で賞金をもらう人もいるでしょうし、悲しい立場で賞金をもらう人もいるでしょう。喜びを感じながら恩恵を受ける人もいるでしょうし、悲しみに陥ることにより恩恵を受ける人もいるのです。

 ある本を読んだときにも、甲という人は、無限の感銘を受けてそれを絶対的な価値だと思っても、乙という人は、何の感動も感じない可能性もあるというのです。それはなぜかといえば、感覚の方向が違うためです。読む境遇が違うために、その本がどんなに良いとしても感動しないのです。

 神様に接するのに、ある人は喜びの立場で神様に接することができ、ある人は悲しい立場で神様に接することができるのです。したがって、恩恵も様々だというのです。聖霊も、火のような聖霊、水のような聖霊、雲のような聖霊、風のような聖霊があります。

 苦痛に遭うからといって、不幸ではないのです。かえって、いくらでも幸福になれるのです。どこの誰よりも、もっと良くなれるのです。苦痛の中でも幸福を感じるならば、その人が最も幸福な人です。反面、幸福な立場で喜ぶ人は、苦痛な立場に陥っていけば、堕落しやすく落ちやすいけれど、いっそのこと下に下りていって幸福を探し出してくる人は、落ちたくても落ちることができないのです。こういう人々には、行けば行くほど幸福が訪れるのです。

 サタンは常に良い立場に入っていくので、いいとしても、それは瞬間だけです。したがって難しい立場、悲しい立場を消化させていくことのできる力量をもった生活が、信仰生活をするにおいて、恩恵深い生活、健康な生活だということを皆さんは知らなければなりません。

◆神様は宇宙の手本になる中心存在

 それゆえに、悲しいことに遭っても、その悲しみを悲しみで消化するよりも、神様と共に、喜びで消化するのを当然のことと思わなければならないのです。国家と世界のために蕩減路程を行くと考えれば、いかなる困難に遭ってもうれしくなります。世界の蕩減のために神様が私に下さった恩賜の立場だとすれば、その人は、世界と直接関係ないとしても、国家と世界的な価値の立場に入っていくのです。

 恩恵を与えなくても、恩恵を占めることのできる人にならなければなりません。事がうまくいくように恩恵を与えたにもかかわらず、その事がうまくいかなければ、かえって恩恵を失うのです。しかし、恩恵を受けられない人が、自分が恩恵を受けたと消化し、世界のために自分の命を懸けて仕事をし、神様の前に感謝するようになれば、恩恵はその人に行くようになるのです。そのような意味でイエス様は、「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」と言ったのです。

 より価値ある内容を供給される立場は、笑って喜ぶ立場ではなく、緊張しなければならない立場なのです。では、緊張する立場とはいかなる立場でしょうか。その立場は、悲しみと苦痛が行き交う立場であり、すべてを結んで切る立場なのです。

 イエス様は、死んでどこに行きましたか。この地上で十字架で死んだことだけでもやるせないのに、死んで三日間地獄に行きました。それが試練です。人間は死が最高の恐怖ですが、イエス様には地獄に行くのが最高の恐怖の対象だというのです。イエス様は、三日間地獄に行って何をしましたか。地獄の苦痛を克服できる自分自身になることを問題視した、ということを皆さんは知らなければなりません。

 このような点から見ると、信仰者は悪なる世の中、あるいは悲しい世の中で、その悪と一緒に流れてはならず、その悲しみとともに流れるべきではありません。かえって、その悪を防ぎ、その悲しみを遮って、ここに喜びの条件を提示できなければなりません。そこにおいて、悪なる人が私たちを必要とするために、その環境で中心的な存在になれば手本になる人になれる、ということを皆さんが知らなければなりません。

 そのような意味で神様は、宇宙の手本になる中心存在だというのです。なぜなら、神様は万民の苦痛を嘆いて、絶望された姿で眺めていらっしゃるのではなく、その苦痛をすべて克服して、新しい希望の主人として現れることのできる方であられるので、人類の手本になるのです。

◆神様を見倣って進もう

 皆さんが信仰生活をするにおいて、自分にとって一番良いものを奪われる時もあるでしょう。しかし、それを奪われるからといって不幸なのではありません。神様が祭物を必要とされるなら、良いものを差し上げなければなりません。

 そのようにすれば、困難を困難で終えるのでなく、困難を喜びで迎えられると同時に、喜びが離れないで強固な土台になり、神様の前に残れるようになるのです。喜びの出発をするために、自分に困難な峠が来るということを皆さんは知らなければなりません。

 悪いように見えますが、良いものが実を結ぶのです。交代するのです。お互いに変わるのです。サタンが神側に行って、神様がサタン側に行くようになるというのです。それゆえ、実を結ぶというのは容易なことではないのです。

 皆さんの生活においても、結ぶ時があります。皆さんは、ある円形を描くようになるのです。何代、あるいは数十代、数百代、数千代を通して結んでいくのです。先祖が悪ければ悪いほど、結び目が小さく、多いというのです。けれども、先祖が善良ならば善良なほど、結び目が大きく、少ないのです。その結び目は、自分のためのものではなく、民族のため、国家のための祭物的な結び目だというのです。

 では、天国はどこにあるのでしょうか。「天国は私の心にある」と言いました。私の胸中に天国が入ってくるのは、容易なことではありません。天国は必ず、生活の逆境とサタン世界を倒して初めて私の心の中に入ってくるのです。それで、サタン世界を倒すために蕩減の役事が行われるのです。

 皆さんがそれを知って、み旨を中心として進むにおいて、悲しみを喜びにして消化していかなければなりません。神様が万民の手本になられたように、私たちも悲しみと悪を消化して、喜びと栄光の姿にならなければならないのです。

 また、私たちの前に現れるために、受難の道を克服してこられた神様であられるがゆえに、私たちもその神様を手本にして、そのような立場に立って信仰生活をしていかなければなりません。そうして世界に証することにより、神様の息子、娘になれるということを皆さんは知らなければなりません。


















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