文鮮明先生のみ言集
訓教経(下)


良い人々

一九七〇年九月十三日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第三十四巻』


 今までの歴史上には、数多くの人々が善を追求し、真を追求してきました。善と真を追求することは、今日の私たちで終わることではなく、今後も歴史をたどりながら永遠に続くでしょう。

◆良い世界を築くことは人間だけではできない

 私たちが探している良い所、良い社会、良い国、良い世界を考えてみるとき、それは何か分からない不安を感じさせます。ここで私たちが追求している、より高くて良い立場、私たちが探す、より良いこと、私たちが願う、より広い愛、より貴い価値を考えるとき、人間だけでは、そういう世界と社会と家庭と個人をそろえることはできないのです。そのため、私たちは日常生活でより理想的で、より絶対的な何かを追求せざるを得ないのです。

 善は現在の立場から低くなるのではなく、より高まっていく所で良いことが結ばれ、良いことが成されるのです。したがって、現在の立場を克服し、現在の環境を収拾し、現在の私たちのすべての願いや事情を高次的に率いていくことのできる方向を備えずには、より良い世界と、より良い社会、より良い家庭、より良い個人を追求することはできないのです。言い換えれば、善は私以下のことでなく、私以上のことを探していく道でのみ追求することができ、見つけられるものであるため、今日私たちの正常な生活環境を通しては、善をつくり出すことはできないのです。

 また、私たち人間自身が良いということを、家庭に適応させることができ、社会に適応させることができ、あるいは世界に適応させることができますか。今日、限界圏内に生きている私たち自身が良いというそれ自体は、あくまでも自分を中心としたものに帰結するだけです。これが、全体が良いというものとして、中心的な善良なものとして現れるためには、ここにぶつかることを、それ以上の高い次元で率いなければならないというのです。

 それゆえ、私自身が果たして良い人だ、良い人にならなければならない、良い人を望んでいるという観点で、家庭、社会、国家、世界を見るときに、自分自らは行くことができないという事実を、私たちは端的に結論づけられるのです。

 私たち人間が、どんなに固い決心をしたとしても、それは瞬間的に始まって、瞬間的に終わってしまうことが分かります。一年の始めに決心した内容を、三百六十五日を過ごしながら成就する人がどれほどいるでしょうか。どんなに固く決心したとしても、その決心は容易に乱れ消えてしまうので、追求する目的に向かって拍車をかけて進むことができないのです。したがって、私たち人間だけでは、私たちが願っている真の世界を成し遂げることはできず、真の人として無限な価値をもった存在にはなり得ず、絶対的な価値の世界へ進むことはできないというのです。

◆絶対者が必要な人間

 では、ここに必要なものとは何でしょうか。私たちは絶対者を必要とします。私よりもっと大きい方を見習うべきであり、私よりもっと高い方についていくべきであり、私よりもっと強い方を頼っていかなければならないのです。このような点から考えてみるとき、私たちが善を追求しようとするその追求欲が強ければ強いほど、それに反して、間接的な対象のような一つの絶対的な何かを追求しなければならない立場だというのです。

 したがって、願いを達成するためには私自身だけでなく、すべての人の願いの主体になり、すべての力の主体になることのできるもう一つの絶対者の価値が現れざるを得ないのです。すなわち、神様という存在を介入させざるを得ないというのです。人間は、生まれた時から自らの不足さと軟弱さを知り、また未完成から始まって未完成で終結することを知っているので、自分も知らない間に何かを信じ、願いながら進んでいます。こういう中で、信仰心が出てくるようになるのです。

 皆さんが旅立つようになるとき、その道が平坦でないと予感しながらも、自分自らその難しさを解決するという心よりも、他の何かにより、すべての困難が解決されることを願う心をもって旅立つときがあります。この心が、ただ一日の生活において、一瞬の間に起こることだとしても、これは人生行路を代表する一こまに違いありません。このようなことが私たち自らの人格を代表したものであり、軟弱な姿だということを感じるとき、これがまた信仰心の発露になり、信仰心の内容が現れるようになるのです。

 こういう観点で私たちの生活を復活させ、私たちの生涯を復活させて、善を追求するようにさせる主体的な存在が確実に存在するという事実を知り、信仰心を備えていく私自身になったとするなら、私自身が対象の立場でその主体と一つになって、主体の目的と対象の目的が一致する一点を取っていかなければならないのです。そういう人は、どんなに難しい環境であっても、その環境を克服できるのです。どんなに難しい家庭があるとしても、その主体である絶対者のこのような願いと目的があることを確実に知って、確実に悟れば悟るほど、その悟りが私の生涯路程において直接的に新しい力の源泉になるという事実を、皆さんは信仰生活を通して感じることでしょう。

 良い世界を形成するためには、良い国家と良い社会が必要で、良い国家と良い社会を形成するためには、良い個人がいなければなりません。では、自分自らその良い個人になれるでしょうか。これは不可能に近いのです。皆さんが、きょう一日はこのような良いことをするという計画を立てて、朝に希望を抱いて出発するとします。けれども夕方になってその希望を成せてうれしいという心で、きょう一日が私の生涯に輝ける一日になったと自慢して帰ってくることのできる日が、一年間に果たしてどれほどあるでしょうか。そうでない日々が、より多いということを私たちはよく知っています。

 良いことを追求していく私たちは、私自身が主体的な立場で良いことを成立させられない堕落した姿であることを自ら認めざるを得ないのです。そのような心を感じれば感じるほど、私たちの不足を補充し、私たちの未完成なものを補充できる新しい主体を決定する、このようなことが起こるようになったというのです。これを決定するために信仰心が必要であり、宗教が必要なのです。

 では、宗教が追求するものとは何ですか。宗教は「良い人」を追求してくるのです。良い人を追求し、その次には良い社会を追求するのです。神様は、甲という社会と乙という社会だけでなく、世界を形成しているすべての社会、すなわち過去、現在、未来を通して形成されているすべての社会が良くなることを望んでいらっしゃるのです。けれども、現在形成されている社会が良くならないので、神様が苦労しなければならなかったのです。

◆神様の苦痛を解消してさしあげようとするならば

 神様が、なぜ苦痛を受けなければならないのですか。良くない社会を分立し、何の関係もない立場に立つようになれば、神様が苦痛を受ける理由はないのですが、すべての良くない社会に対して歩まれる神様なので、苦痛を受けていらっしゃるのです。さらに、希望の国を追求していかなければならない立場で、数多くの国家がより良い国家になることを願っていますが、それには及ぶことのできない国家圏に対されるので、神様がより悲しまれるしかなく、より苦痛を受けるしかないのです。

 では、苦痛を受けていらっしゃる神様の心を、どのように埋めてさしあげればよいでしょうか。それは、ある個人が熱心に祈り、慰労してくれるからといって埋まるものではありません。主体的な立場で希望の天国を率いていくことのできる一つの良い国が形成されずには、神様の悲しい心を埋めてさしあげることはできないのです。

 世界に対しても同じです。神様の願う世界の基準の前に現在の世界が及ばず、その差が大きければ大きいほど、神様はより大きな苦痛を受けるのです。では、神様はいつその苦痛を解消することができるでしょうか。一個人が良い人になるからといって、神様の苦痛が解消するのではありません。神様の喜ばれる世界を形成してこそ、その苦痛を解消できるのです。

 今日、私たちが善を追求して歩み、良い人になるためには、どのようにしなければならないでしょうか。私が善なる人になるだけで終わってはいけません。神様が願われる善なる人の基準と私の基準との間に差があれば、その差による悲しみを解決しなければなりません。その次に、この人たちを通して、一つの新しい家庭と氏族と民族と国家と世界を形成することが、神様のみ旨なのです。

 しかし、そのみ旨に一致することができない現在のこの社会、そのみ旨が指向する善なる世界に一致できず、差の大きい私たち個人と家庭としては、神様のその心を埋めてさしあげることはできないのです。したがって、少数の群れでもそういう世界を形成する、象徴的な形状を立てられる条件を備えずには、第二の願い、間接的な願いも成し遂げることはできないのです。

 今まで私たちは、みな自分を中心として善を追求してきました。周辺の環境を全部忘れてしまい、ひたすら私自体だけを中心として、動機も私で、結果も私として、すべてを解決しようとしました。しかし、そのような立場で私が善なる人になったとしても、それで神様が願う、その世界に必要な私自身になることはできないのです。

 このような点から考えてみるとき、イエス・キリストは誰よりも苦心した人だといえます。それゆえ聖書のみ言にも「義人はいない、ひとりもいない」(ローマ三・一〇)とあるのです。本当にそうです。イエス様を個人的に見れば少しも欠点がなく、イスラエル民族に代わって堂々と出で立つことができました。しかし、希望の国家を探してこられた神様の前に、再び探し出そうとされる希望の国であるイスラエルと、当時のイスラエルとの間には差がありました。これにより、神様はわびしさと悲しさを感じたというのです。これが神様の悲しみでした。

 神様のその悲しみを、誰が解いてさしあげるのでしょうか。イエス様個人だけでは、その悲しみを解いてさしあげることはできません。イエス様を中心として、その土台の前に現れることのできる国家の形態を備えた基準が出てこずには、神様の喜びの対象として対することができないのです。このように考えてみるとき、イエス様は未来に対する使命を痛感すれば痛感するほど、加重された責任を負っているということを誰よりもよく御存じであったのです。

 私たちが、「良いことをしなければならない、良い行動をしなければならない、良い人にならなければならない」と言うのは、どこに目的をおいて言う言葉ですか。その目的とするところは何ですか。それは私ではありません。私がどんなに良い個人になったとしても、良い家庭の基盤を備えなければならないというのです。個人だけでは家庭に代われないのです。良い家庭を形成できる私自身になろうとするなら、横的な関係が問題になるのです。

 また良い家庭が成されたとしても、それだけでは良い社会を形成できません。良い社会を形成するためには、数多くの良い家庭を連結させなければなりません。そういう社会形態を備えるためには、個人的な家庭だけでは駄目なのです。一社会、一国家について見てみるときも同じで、世界を形成するにもやはり同じです。

 こういう観点から、今日善を追求していく信仰者の道においては、自分を中心として生きる生活になってはならないというのです。私は、主体的な立場にあるようだけれども、それはあくまでも私自身を収拾するための主体であって、目的を成し遂げていくために動く主体ではないのです。

 それゆえ宗教では、絶対順応し、絶対服従し、絶対犠牲になれと教えるのです。言い換えれば、絶対者の前での私自体は、無の立場でついていかなければならず、絶対者を主体視して対象の立場でその絶対者と和合できる姿を追求しなさいというのです。これが信仰路程なのです。

 それはなぜそうなのでしょうか。どんなに良い人だといっても、それだけではいけません。個人個人を横的に連結させ、より高い次元の価値を求めていくことが、復帰途上に処した私たち人間の運命であるためです。神様は、このような私たちの立場を知っていらっしゃるので、「人のために生きなさい」と教えてくださるのです。私自身のためにではなく、「兄弟のために、国のために生きよ」と語られるのです。したがって、イエス様は「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。……まず神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ六・三一、三二)と語られたのです。

◆良い人だけではなく、良い国が成されなければ

 その国とは、いかなる国でしょうか。神様を中心とした国であり、全体のための国です。全体の価値の中で、私の個体が光るのです。個体の価値の中では、全体が光を放つことはできないのです。全体の価値の中で個体が光ることのできる世界が、正に天国です。

 マタイによる福音書第二十五章のみ言に、このような話があります。「わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれた」。これに義人が答えて、「主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか」と言いました。すると、「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」とイエス様は言われたのです(三五〜四〇節)。

 このみ言はどのような意味かといえば、私たち人間が主体を慕わしく思うほどに、その主体のためには横的に連結しなければならないということです。この話はすなわち、人間が主体を愛することは、必ず横的に連結してこそ可能だという意味です。言い換えれば、主体と対象は縦横の関係なので、縦横が円形になるためには、縦と横が同じでなければならないということです。そのような作用をしてこそ円が描かれるのです。

 私たちは、縦的な神様との関係は重要視するけれども、横的な人との関係は無視するときが多いのです。これは貴い福音であり、間違いなく真理です。ですから、神様に対する縦的な内容が、横的なカインとアベルの関係で一致することがなければ、復帰にならないのです。真理を象徴したすべての内容がここに含まれており、十字架が象徴する意味もここに含まれています。

 それゆえ、誰でもみな良い時や悲しい時、常に神様のことを考えなければなりません。縦的な基準の前には、良い時も神様を考え、難しい時も神様を考えなければならないのです。なぜそうしなければならないのでしょうか。それは、全体が神様と共に一つになるためです。したがって、先生が悲しい時、横的な環境で食口たちと共に悲しむことができる基盤が成されていなければなりません。また、うれしい時も、食口たちと共に喜ぶことのできる基盤が成されていなければならないのです。

 したがって、神様のためにするほどに人のためにしなければなりません。弟子がイエス様に直接してあげなかったにもかかわらず、「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」と言われたイエス様のみ言の意味を知らなければなりません。

 今日、私たちがどんなに個人的に良い人になったとしても、良い人になっただけでは駄目なのです。言い換えれば、良い人それ自体だけでは、良い家庭を連結することはできないのです。また、良い家庭それ自体だけでも、良い社会を連結することはできません。良い家庭ならば良い家庭同士が連結でき、良い社会なら良い社会同士が、良い国ならば良い国同士が連結できるのですが、良い個人がすぐに良い国と連結することはできないのです。お互いに対等な立場、良い人同士、良い家庭同士ではお互いに横的に連結できます。また、良い国同士でも横的に連結できます。ここに平等、すなわち平和があります。「平和」の「平」は水平を意味します。この「平」なくしては、「和」したとしてもその和合はすぐになくなるのです。統一教会員は、このような事実を忘却してはなりません。

 私たちは、国のために犠牲にならなければなりません。犠牲になるには、どのような立場で犠牲にならなければならないでしょうか。自分を中心として犠牲になるのではなく、民族全体の願いのために犠牲になるのです。国が探し求めるものとは何でしょうか。新しい天国を探し求めるのです。それゆえ、天国を見つけ出すためには、民族が悲しみ、民族が苦痛を受け、民族が悲しむ立場で犠牲になる道以外にはありません。善なる人々が行かなければならない道は、その道しかないのです。終わりの日には、世界のために超民族的な感情をもたなければならないのです。

◆善なる人の要件

 国家を超越した心情的な因縁で、神様の願う息子、娘として神様と縦的な関係を結び、それで終わることなく、横的な関係を結ばなければならないのです。結局、天国を成し遂げられるか成し遂げられないか、絶対者のその基準が地上に顕現するかしないかが、ここにかかっています。したがって、横的基盤をどのように世界化させるかということが問題になるということを、皆さんは知らなければなりません。

 その問題を解決するためには、どのようにしなければならないでしょうか。私自身が吸収されるのではなく、吸収できなければなりません。吸収力が強い民族は、世界を吸収できる民族になるはずです。では、善なる人とはいかなる人でしょうか。良いことに吸収される人です。それだけでなく、悪いことにおいても、自分の本質をひっくり返してでも全く表に出さず、そこに吸収されるのです。しかし、吸収されても吸収したそれ自体を超越するのです。言い換えれば、その社会に吸収されたとしても、その社会の人としてとどまらないで、通り過ぎるということです。それゆえ皆さんに、「我慢しなさい、忍耐しなさい、克服しなさい」と言うのです。そういう過程をたどらずには善なる人になることはできません。

 真の心情をもった人、神様の愛を受ける人ならば、「私の愛を受けなさい」と言うことができなければなりません。そのような人とは、いかなる人でしょうか。悲しい人に対するときには、その人の心情と一致することができ、うれしい人に対するときには、喜びを同感できる人です。堕落するようになった罪のゆえに、悲しむようになるとき、その罪に捕らわれて吸収されるのではなく、私は吸収されるけれども、それに比例して反対に吸収しなければなりません。そうして罪の皮をはがしてあげ、再起させることのできる主体的な役割をしなければならないのです。

 悪は、水が流れて下りていくのと同じで、善は、流れて上がってくるのと同じです。潮水が押されて入ってきて、また押されて出ていくときの現象は、月の引力によって方向が変わることで現れるのです。方向を変えようとすれば、その方向を変えることのできる何かがなければならないのです。それゆえ神様が絶対に必要なのです。

 善なる人は、どこに行っても必要です。また悪人も必要です。では、悪人はなぜ必要なのでしょうか。善なる人に吸収されるためです。難しいときはその困難の主人になり、すべての困難を受け入れることができなければなりません。それを自分の心に全部受け入れるのですが、結局それによって主管されることなく、受け入れてもっと吸収しようとしても吸収できない境地に到達するようになるとき、反対の立場になるのです。吸収されながらも、このような基準をもった人こそ善なる人です。言い換えれば、善なる人は両面的な内容を備えていなければなりません。それゆえ、善なる人は誰でも好むのです。

 神様はどのような方ですか。神様は善であり、良い方です。良いというのは、一方的な面でだけ良いのではありません。縦的な面だけでなく、横的な面でも無限に通じなければなりません。過去の私たちの先祖も絶対的な神様を追求し、探し求めてきたがゆえに、私たち子孫も、どこの誰彼を問わず、そうでなければなりません。縦的な関係にだけ必要な神様でなく、横的にも無限の世界を超えて神様を追求してこそ、神様が喜ぶことができるのです。

 悪人も善なる人を好みます。悪人が善なる人を吸収しようとしても、善なる人には悪人に吸収される要素よりももっと多くの善の要素があるために、悪人も善の要素を吸収するのです。悪人から悪い要素が除去されて善なる要素が残るために、善なるその人によって善の復活の恵みを受けるようになるのです。したがって、善なる人とは、善を無限に供給してあげることのできる拠点になっている人です。

◆良い世界を築くことのできる人

 二人いれば、その二人の中でどちらが善なる人ですか。善を無限に補給してあげることのできる存在、あるいは本性の限界線を器に比喩するならば、その器をいっぱいに満たして、あふれるように与えることのできる主体的な存在が、善なる人です。吸収する過程で不満を表したり、あふれない立場で争うことは悪であり、必ずあふれてこそ善なのです。あふれるようになれば、どのようになりますか。吸収しようとした人を主管するようになるのです。

 ゆえに神様の作戦は、与えて奪ってくる作戦です。与えて奪ってくるには、犠牲にさせて奪ってくるのではなく、復活させて奪ってくるのです。吸収できる二つの物があるならば、吸収できる能力がより強いものは、吸収されるものに対して栄養となるものを補給してあげるのです。

 過去の文化世界も同じです。強い文化は、あまり強くない文化を吸収するのです。善なる人にあっても、より強い善なる人はあまり善良でない人を吸収するのです。ここで強いというのは何かといえば、より多く与えることができ、より補給してあげることのできる内容をもったという意味です。

 それでは、問題は何でしょうか。私たちが滅びるか滅びないか、歴史時代の審判を受けるか受けないかということです。歴史時代の基準を超えて、もっと与えることのできる内容をもったとすれば審判を受けないのです。今日、混乱の渦中にあるこの世界情勢の中で、もらって食べて暮らすならば滅びます。しかし、与えても残ることができれば、間違いなく世界を支配する日が来るでしょう。そういう私たちになるために、個人個人はどのようにしなければならないでしょうか。なおかつ世界に与えるためには、どのようにしなければならないでしょうか。これは一人ではできません。個人、家庭、氏族、民族、国家を経て与えなければならないので、国家が形成されなければならないのであり、民族が形成されなければならないのであり、氏族が形成されなければならないのであり、家庭が形成されなければならないのです。そして、君と私と関係が結ばれなければならないのです。これが問題になるのです。

 どんなに神様を愛し、どんなに神様の恵みを受けたとしても、人を愛することができなければ、結局神様の愛を受けることができないのです。人を好きになれない人は、良い世界を築ける人になれないのです。

 アベルとはどのような人ですか。どのような環境でも喜ぶ人です。それは誰が好むのでしょうか。神様がまず好み、その環境で好まなければなりません。このような内容について考えてみるとき、アダムとエバの家庭で、アベルが責任を全うできなかったということが分かるのです。

 二人がお互いに怨 讐のような感情をもち、耐えられずに対決する立場に立ったとき、いかなる人が残るでしょうか。ここでは、復 讐をするのが鉄則ではありません。その復讐の裏面に一つの条件、すなわち許すことのできる雅量があるならば、復讐は成立しません。より優れたものの前には、より劣るものが吸収されるのです。ここで、どちらが主体で、どちらが対象なのでしょうか。より優れたものが主体で、より劣るものが対象です。

 では、「良い人」とは、いかなる人でしょうか。絶対者であられる神様の前に、絶対的な基準を立てた人です。その絶対的基準には世界も含まれ、国家と民族、そして社会のすべての制度と理念が含まれるのです。そうでなければなりません。そうできる絶対的な環境を備えなければなりません。いかなる社会、いかなる制度圏内でも、私自身が与えることのできる雅量をもった存在にならなければなりません。

 それでは善なる人とは、いかなる人でしょうか。自分が生きている時代だけでなく、未来にまで永遠に与えたいと思う人が、善なる人です。今までそういう人が「聖人」という称号を受けたのです。

 ところで、何を与えるかが問題です。「人を愛せよ」と言いましたが、何を与えるのですか。お金、権力、真理を与えるのではなく、それよりもっと良い「愛」を与えるのです。その愛とは、どのような愛ですか。神様の愛です。絶対的な神様の愛を与えなければならないのです。

 人類歴史上、最後に残ることのできる人とは、どのような人でしょうか。その時代の民族のために与えたくて号泣し、自分一人の身の上を台無しにする立場に入っていっても、恨を抱かずに与えたいと思う人です。与えたいのに民族が受け入れなければ、世界のために与えなければなりません。自分の何らかの利益を願って与えるのではなく、他の人の生命の復活を願いながら与えるのです。生命の復活のためには、自らの肉身を犠牲にしながら、生命が復活した未来の世界を迎える希望によって生きるべきであり、自分の生命よりももっと愛着を感じ、自分の生命よりももっと無限の価値を感じなければなりません。

◆愛の本質

 イエス・キリストがこのように死んでいったために十字架の意義がある、ということを皆さんは知らなければなりません。イエス様は神様のみ旨を知っていたがゆえに、死んでも神様のもとへ行ったのです。神様から受けたので、人類のために与えなければなりません。与えるには、神様を通して人類に与えようとする条件を立てて、与えなければなりません。それゆえ、神様との縦的な基準が設定された以上、ここには、ある時に水平線が引かれなければならないのです。

 天地は、そのような立場で回る軌道を備えているがゆえに、縦的な垂直線に九〇度の横線を引くことのできる平面的な一時が来なければなりません。それゆえ、神様を中心とした愛の因縁を通して築かれた横的な宗教であるキリスト教が、歴史時代のすべての困難を克服し、新しい文化世界を創造し、現世、末世に平面線が引かれる時まで残っているのです。

 私たちは、不平を言ってはいけません。弁解をしてもいけません。私たちは弁解できません。父母の愛がなぜ貴いのでしょうか。これは縦的な愛だけれども、縦的な愛で終わるのではなく、横的な愛が宿るために努力するので、貴いというのです。父母の愛は、子女が誤るのではないかと心配で、生活を通して子女の道案内人になろうという内容を備えています。

 それは何でしょうか。縦的な愛は、必ず横的な愛を創造するようになっています。父母の愛もこういう原則によって、神様の愛を中心として縦横に集約されて築かれたのです。このように、縦横の要素に責任を負ったものが父母の愛であるために、自分の貴いものをそのまま息子に与えようとするのです。ただそのまま受けるようにし、横的に広げようとするのです。愛の本質とは、そのようなものです。

 愛の本質は、相対的関係で成り立つのです。主体と対象の間は、お互いにやりとりすることで円形を描くのです。主体は縦的であり、対象は横的であるがゆえに、これが九〇度の角度になって円形を描くようになります。それゆえ愛の本質は、必ず縦横の内容をもっているのです。縦横の中で何がまず出発するのでしょうか。縦がまず出発します。それゆえ、父母から流れて出てくるのです。愛の内心を分析してみると、縦横の愛の本体があるというのです。

 神様の愛は、縦的な愛です。しかし、神様の愛は縦的な愛だけ終わるのではなく、横的な内容を備えることのできる愛であるがゆえに、横的な息子、娘の前に現れるのです。その息子、娘が縦的な基準で広げるだけでなく、横的にも広げていくことによって、そこで万有の存在が縦的な環境を中心として横的な環境に広がるようになり、世界と天宙が待つのです。

 それで、この愛の心が動機になって世界を支配するとか、あるいは何かを手にしたい、何をしたいと思うようになるのです。それは皆さんが知らないうちに、縦横の愛の因縁が、自身の本質的な心の底に描かれているためです。その本質的な欲求により、皆さんの欲望が満たされるという事実を否定できないのです。

◆良い人とはすべてをあげたのちにももっとあげたいと思う人

 神様の愛は、神様の愛だけで終わることはできないのです。その愛は、必ず人間により横的に伸びていかなければなりません。これは影と同じです。影は実体の形態の代わりに、それに反応する現象として現れるのです。電気でいえば、プラスとマイナスが授け受ければ、必ず反応が生じるように、主体と対象が授け受ければ、反応する極が生じるのです。そのようなことが、違った所で、また展開するのです。

 「善なる人だ」と言うとき、その善の意味とは何でしょうか。善良だという意味です。その善良だという意味の中には、美の感情も入っているし、愛の感情も入っているし、希望の感情も入っています。愛の前に対象になることは美であるがゆえに、主体と対象の関係が決定すれば、必ず希望が描かれるのです。その希望は、作用することで成し遂げられます。希望は距離をおいて成し遂げられていくのです。希望は、必ず関係をもつようになるときに現れるので、ここには距離が生じるのです。

 それゆえ、「善良だ」と言うところには、必ず希望があります。希望がなければ善良になりません。希望がなければ息子、娘をかわいいと思わないというのです。「善良だ」と言うときには希望がかなうのです。ゆえに、善良なことは美の対象になります。それだけでなく、愛も備えているのです。良い子はかわいくもあります。そこには、必ず愛を誘発させる要素があります。したがって、対象的な価値を決定づけると同時に、希望が宿っているのです。

 愛には必ず目的があります。それゆえ、主体と対象は目的がなくてはなりません。このような観点で目的観を中心として弁証法が出てくるようになり、ここで共産主義の弁証法的唯物論が出てきたのです。

 皆さんを見てみると、神様に対しては良くしようとします。しかし、「お父様、私を愛してくださいませ」と言って、自分をもって進んでいってはなりません。自分の中で世界が光ることを願い、神様が自分の中に入って生きることを願うならば、神様はどれほど窮屈で、苦しいでしょうか。宇宙を主管する神様が、針の穴のような皆さんの心の中に入って暮らすとすれば、どれほど重苦しいかというのです。皆さんの欲望は、「神様、私の心に入ってきて私の思いどおりにしてくださいませ」と言うのです。そこには自分の意図があります。しかしイエス様は、「お父様のみ意のままになさってください」と祈祷なさいました。

 カインとアベルを、なぜ復帰しなければならないのですか。それは、横的な主体と対象のいない世の中であるために、カインとアベルを復帰しなければならないのです。そうしようとするならば、主体と対象が、お互いに授け受けなければなりません。これが原則というものです。授け受けることができなければ、横的な面が決定されないために、カインとアベルの復帰が絶対に必要なのです。愛を中心として堕落しなかったとしても、地上には必ず二人が必要なのです。

 親が間違って親の代に希望を失えば、息子の代に期待をかけるのです。親はその息子の代にも希望を成し遂げることができなければ三代目の孫の代に、三代目にも成し遂げることができなければ四代目に、四代目にも成し遂げることができなければ十代、百代を経てでもその希望がかなうことを願うのです。

 その希望を成し遂げるためには、どのようにしなければならないでしょうか。お互いが相争ってはいけません。世界を支配でき、世界を治めることができる善の主権者になるためには、相反する要因をもって、強圧的な腕力でその基準を発展させていってはならないというのです。すべての人が自動的にその基準に吸収され、和合できる主体的な権限をもった一つの国家観、または世界観をもった思想をもたなければならないのです。

◆万民の願う定着地は愛のある所

 個人主義的で利己主義的な人になってはなりません。利己主義的な目的を達成して得た自由というのは、受けるための自由でしかありません。ここには数千、数万の障壁が横たわっています。また、ここにはいかなる国家観や世界観もありません。こういう思想は、極めて危険な思想であり、滅亡する思想です。今日の自由主義思想の傾向は、滅亡する思想だというのです。

 そのような思想の中には、家庭が存在し得ず、氏族が存在し得ず、国家が存在し得ず、世界が存在し得ないのです。縦横の関係で世界を合わせることのできる立場であってこそ、国家が入っていき、社会が入っていき、家庭が入っていき、個人が入っていくことができるのです。そこから離れて出てきて、私だけが流れ者の身の上になるならば、どこでとどまりますか。万民が共通して願うことのできる定着地とは、どこにあるのでしょうか。そこは、愛のある場所です。しかし、瞬間的な愛を中心として四方性を備えていくならば、それは一代で終わってしまうのです。愛は、個人を中心として家庭、氏族、民族、国家が、天地を創造した絶対者がいれば、その絶対者と一つになって、その絶対者の愛が含まれた世界の形態で、現れなければなりません。

 その世界を分析してみれば、家庭を代表した個人があります。その本質においては、個人と家庭が間違いないのです。こういう間違いない個人と家庭が全体化して、一つの代表の形状のようになった国家形態が、理想的な国家だというのです。

 理念的に考えてみるとき、人類歴史において、個人主義思想は終末を迎えています。それゆえ以前皆さんに話したように、良い個人だけでは良い世界と連結できないのです。良い世界と連結するためには、世界的な力量をもった優秀な思想がなければなりません。神様が天地を創造なさる時に、ある構想をもって創造なさったのと同様に、再創造の役事をしなければならない私たちにあっては、神様の心情の道理を通して、世界的な構想を中心として進まなければなりません。したがって、統一理念が必要だというのです。

 今まで、人類は思想を追求してきましたが、この思想が人類に寄与できなかったことにより、この思想をあきらめなければならない時代を迎えたので、今が最後ではないかというのです。その思想を良しとして取り扱った万民が、すべてそれによって生き残れると思っていましたが、今ではあきらめてしまわざるを得ない立場に立っています。ですから、何を選択すべきなのかといえば、人本主義思想ではなく、新しい神本主義思想を選択しなければならないのです。

 今後、神本主義を中心としてこの世界が栄華を享受し、新しい文化世界の絶頂を築くことのできる、そういう思想がありますか。今後における超人類的な、超世界的基準の新しい文化を創建できる宗教がありますか。ないというのです。

 それで今日、この終末時代において、「統一思想」が絶対に必要なのです。人類の前に新しい目的観と新しい世界観を提示して、ここに対する方向はもちろん、環境まで提示しなければならない思想が正にこの「統一思想」なのです。

 では、これを提示するには、どのように提示しなければならないでしょうか。今まで数多くの為政者ならば為政者、主権者ならば主権者がしてきたように、搾取し剥奪して提示するのではなく、自分を祭物にして無限に与えられるように努めて提示しなければなりません。そうして、国境を越えて世界へ伸びていくことのできる横的な愛を拡大しなければなりません。国家を越えて、アジアを越えて、世界を越えることのできる横的な基盤が造成されれば、ここで絶対的な対象の基準が決定するので、神様の愛が現れるのです。

 皆さんが何かのために出発するというときは、必ず出発線か出発点がなければなりません。その線とは何であり、その点とは何でしょうか。線は点の総合です。ゆえに点がなければなりません。正しい点がなければならないのですが、それは何でしょうか。絶対的な主体です。主体の中でも代表的な主体になれば、その主体は全体の象徴になるのです。その主体の中心が、すなわち神様の愛です。

◆愛さずしては本然の世界へ戻ることができない

 神様の愛は、なぜ良いのですか。自分のための愛ではなく、全体のための愛であるからです。また神様の愛は、全体にすべてあげることで終わるのでなく、与えても残るのです。それゆえ、再び主体に帰ってきます。正に、このような愛でなければならないのです。神様が人間を愛するのも、その愛だけで終わるのではありません。その愛に接した人が主体の愛に完全に和合するようになるときには、相対的な人間を通して、その愛を再び送り返すのです。このように、人間は返すことのできる内容をもっているがゆえに永遠なのです。

 入力と出力、入ってくる力と出ていく力を比較してみれば、出ていく力がより小さいのです。神様がなぜ世の中に相対的な愛、すなわち主体と対象の関係を結ぶようにしたのでしょうか。神様は私たち人間に愛を下さいます。その愛は、皆さんの個体にとどまるものです。しかし、神様の愛は私たち人間を通過する間に減少します。入っていくのが入力で、再び出てくるのは出力なのですが、出力はいつも小さくなります。愛が消耗されるというのです。

 では、これをどのように補強するのでしょうか。ここには、もう一つの横的な主体と対象が必要なのです。もう一つの主体と対象が、お互いにやりとりすることで新しいものが補強され、これが横的に結ばれることに、より新しく戻ることのできる力に変わるのです。こういう力の作用が原則なのです。

 したがって、人と人との間で、なぜ愛さなければならないのでしょうか。愛さずしては、神様の愛が戻っていくことができないからです。一点も戻っていけないというのです。縦的な愛の前には、主体と対象の相対的な愛がなければなりません。縦的な愛の力が、相対的な関係にまで行くためには、新しい力を補強しなければなりません。縦的な愛は刺激的な力を補強し、プラス的な刺激を再び貯蓄する作用をするために、神様の愛がその本来の自体まで戻ることができるのです。したがって、縦横の主体と対象のために、縦的な主体と横的な主体が必要なのです。

 横的なものだけではいけません。それは流れ者と同じです。これは、どこに行っても公式として通じます。今までの公式を見ても、縦横の関係で成り立たないものがありません。主体と対象の関係を離れて成り立つ公式はないのです。これを標準にして、公式が成り立ちます。

◆世界のためにすべてを与えよ

 公式とは、外のものではありません。一つの関係を維持するために全体に適用することのできる主体的な内容をもったものがあれば、それが公式になるのです。一つの要件を全体の要件として、代わりに帰結させることができるようになるときに、それが公式として登場するというのです。原則がそうです。公式とは、中心をいいます。中心は、すなわち縦的な基準です。したがって、縦的基準は二つではありません。一つです。

 一つの家庭を見ても、その家の中心は誰ですか。年を取った方、すなわち曾祖父が生きているならば、その曾祖父が中心です。死ぬ時が近くなったといって、家族がそのおじいさんを無視するようになれば、縦的な世界を無視することと同じです。たとえもうろくしたとしても、その家庭の中心は曾祖父です。食べるものがあれば、その方にまず差し上げなければなりません。いくら父親がその国の大統領だといっても、おじいさんに先に差し上げなければなりません。なぜなら、息子は横的であるためです。

 縦的世界は二人ではありません。それゆえ、それは世界的な主義であり、世界的な思想だというのです。分立した思想ではなく、統一した思想として世界的だというのです。今まで、そのような歴史がこの世界の中で繰り広げられてきました。歴史は過去、現在、未来を中心として、より優れた思想を追っていくのです。

 では、この思想はどこで現れるでしょうか。この思想がどこに現れても、中心の立場にまで行かなければなりません。その場は世界の中心です。ゆえに、個人が中心になることもあり得ます。これは世界の中の個人です。また、家庭が中心になることもあり得るし、氏族が中心になることもあり得るし、民族が中心になることもあり得ます。世界的な民族になろうとするなら、中心にならなければなりません。そのためには、世界のために走らなければなりません。世界のために与えなければならないというのです。

 世界のために愛し、世界のために愛される所とはどこでしょうか。そこは天国です。そこはすべての個々人の心の中心であり、すべての家庭の中心であり、氏族の中心であり、民族の中心であり、国家の中心になるのです。このような基準が現れるようになるときには、世界では自動的に統一圏が繰り広げられるのです。

 世界のために、すべてを与えなければなりません。出発から与えると同時に、永遠に与えることのできる立場に立たなければならないイスラエルなのです。勝利者や、記録を出した人があれば、他の人が出てくるまでは、その人に世界のために権威を与えるのです。彼の命令に従わなければならず、また彼は絶対的な中心存在であるために、他の人は相対的な立場に立つのです。これ以上の価値をもつ前には、その場を譲歩できないのです。その立場は大きく、高く、貴いために、真理でいえばより進歩的な真理であり、価値でいえばより価値的なものです。この立場は一つです。それが中心としての立場だというのです。

 人は何のために生まれたのでしょうか。世界のために生まれました。また、神様によって生まれました。皆さんは世界のために生まれましたが、神様は主体であられるので、世界の中心である神様の愛を受けるために生まれたのです。

 では、神様の愛はどこで受けるのでしょうか。世界の中心で受けるのです。言い換えれば、イスラエルという勝利圏内で受けるのです。それゆえ、私たちはイスラエル創建を願って進むのです。そのイスラエル創建は一つの国のためのものではなく、世界のための創建だということを知らなければなりません。

 一つの国のための世界ではなく、世界のための国です。そのような立場に立たなければなりません。世界のための国ならば、まず与えなければなりません。与えたあとで受けるようになるときに、位置が定まるのです。これが授け受けする理致です。このように、私たちが国のために与えて国が受けるようになるときには戻るようになります。どこに戻るのですか。神様の国に戻るようになります。すなわち、カインとアベルの立場に戻るのです。それゆえ、国を中心として、今後世界最高の国家に対して与えなければならないのです。

 天から恵みを受けたとき、その恵みをより大きな分野で消耗しなければ、その恵みは残りません。十の価値の恵みを受けて、十一くらい消耗するようになれば、十の恵みはいつも残るのです。もう一つだけ足して与えれば、十はいつも残るようになるというのです。反対に、十ぐらい要求するのに九ぐらいしか与えることができなかったときは、一つだけでも足りなければ、いつも足りないのです。百点ならば完全であるけれども、九十九点では不完全なのです。不完全なものは、後退してから再び出発しなければなりません。

 試験を受けて九十九点を取ったなら、百点を取るためにはどのようにしなければなりませんか。再び試験を受けなければなりません。それゆえ、世界のための国になれば、世界はその国のための世界になるのです。ですから、世界のためのキリスト教にならなければなりません。今までキリスト教が「世界のために」と言いはしましたが、いまだそうできていません。いまだにできていないので、再び出発しなければならないというのです。

 それゆえ、これから祈祷したとしても、方法を変えなければなりません。神様の立場で、世界のために祈祷しなければならないのです。祈祷する前に、私が神様の右腕になったと考えてみてください。その腕で何を与えなければなりませんか。神様は世界をすべて与えたいのです。あれこれすべてを与えたいというのです。どれほど素晴らしいことでしょうか。

 では、現在の人々にだけ与えるのですか。過去に生まれ、死んでいった霊界のすべての霊人にも与えなければなりません。今は無形で存在しているけれども、彼らも過去には人として生まれたので、一度くらいは神様から受けてみることを願うはずです。ですから、神様はどれほど忙しいでしょうか。千年、万年を与えても、与え切れないのではないでしょうか。それゆえ、忠臣にはなれなくても、神様の頭の中の一つの細胞にでもなるべきではないだろうかというのです。

◆発展できる原動力

 細胞は生命体のために、つまり人体ならば人体の目的のために協助する要素を残してこそ、細胞としての作用をするといえます。そのようにできなければ滅びるのです。細胞が生成されるためには、細胞が構成されて第三細胞を形成できるように、何かを残してこそ生成されるのです。そうでなければみな飛んでいってしまいます。

 今日キリスト教では、「恩賜により、信仰により救いを受ける」と言っています。恵みによって救いを受けるのではなく、行うことによって救いを受けるのです。行いなしには恩賜が成り立ちません。恩賜と行いとは、縦横の関係です。それゆえ、二つを離しては事が成り立たないのです。二つが一つにならなければなりません。

 恵みを受けたなら、受けたほどの価値を返さなければなりません。発展の要因は、ここにあるのです。返すことができなければ発展がないのです。木の枝が伸びるのは、なぜですか。養分を与えることによって伸びるのです。発展の要因は、与えるところにあります。

 善良とは何ですか。発展させることのできる原動力です。したがって、与えなければなりません。与えるには、一番悪いものを与えるのではありません。服などを与えるのではなく、食べ残しを与えるのでもありません。生命を与えなければなりません。生命だけでなく、一つしかない愛まで与えなければなりません。これが親の愛です。それゆえ父母の心情をもって僕の体を使い、汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために流し、愛を与えなさいというのです。そうすれば、滅びることがありません。絶対滅びないというのです。

 人間は、世界の中心の立場で愛を受け、また愛するために生まれました。その立場が正にアダム・エバの立場です。皆さんが復帰の因縁によって歩んできたのも、本然のアダム・エバの立場を見つけるためです。ですから、宇宙的な神様の愛を受けて世界を愛さなければなりません。世界のために生きなければならないというのです。一つの国だけのために生きてはいけません。世界を愛する心がなくてはならないのです。

 それゆえ、世界のために生きられる直線を引かなければなりません。ある程度直線を引けば、縦線が引かれます。この縦線さえ引かれれば、神様の愛は自動的に出てくるのです。完全な対象さえ成立すれば、完全な主体は自動的に生まれるというのです。自動的に生まれてプラスになるのです。

 電気に完全なマイナスが生まれれば、プラスが生まれます。完全なプラスが生まれるためには、完全なマイナスにならなければなりません。したがって、神様の愛が完全なプラスになり、主体的な立場に立つためには、代表的な根本がなければなりません。この根本が問題です。これが授け受けることによって完全なプラスになったときには、そこにマイナスを創造する力があるので、マイナスがつくられるのです。このようになるとき、この力さえつかむようになれば一点に集まるのです。これが一点に集まるとき、方向を備えて作用をするのです。

 したがって、縦横に授け受ける人は、必ず第三点を要求しなければなりません。第三点がなければ、愛を与えて受けることのできる環境が繰り広げられないのです。この第三点を必要とするのは正常なことです。主体と対象は、必ず第三点を通過しなければなりません。

 この第三点は、主体の目的、対象の目的のためにも存在しなければなりません。そのようになれば、より大きい核が広がるのです。このように発展するので、個人の体と心が主体になり、その主体を中心として一つの核を成せば、相対に対することのできる主体が生まれるようになります。その次に、男性と女性が一つになり、これを完全に授け受ければ、それが一つの主体になり、核になって、氏族に対することができるようになるのです。そのように発展してきます。家庭が氏族と完全に一つになれば、その氏族を中心として主体になり、民族のために進むことができるようになるのです。また、民族が国家を中心として一つになれば、世界のために進めるようになるのです。それゆえ、イスラエルの国が問題です。

 では、み旨にかなった人の基準とは、どのようなものですか。氏族的に善なる人は、民族的な時代には消えていきます。また、民族的に善なる人は、国家的な時代には消えていくのです。大韓民国の忠臣である李舜臣将軍を、「世界の公臣だ」と言うことができますか。日本の立場から見れば、李舜臣将軍は怨 讐です。韓国を愛した李舜臣将軍は、日本では怨讐だというのです。原則がそうなっているのです。

◆善なる人の基準

 血を流してお互いに勝敗を競った立場では、「怨讐」という言葉を消すことができません。神様の愛を通して授け受けることのできる立場を準備しておかなければ、怨讐はなくなりません。この怨讐をなくそうというのが宗教です。宗教の中でも神様の愛を通して、世界のために与えようとするのがキリスト教です。

 キリスト教は、今まで血を流し殉教をしてきながらも、迫害するローマ帝国のために与えた立場に立ったので、今日世界的な宗教になれたのです。もし復 讐したとか、荷物をまとめて逃亡していたなら、今日のようなキリスト教にはなり得なかったでしょう。反対を受けるその立場で、根を下ろして出てきたのです。

 こういう観点で考えてみるとき、今日の私たちは、何のために生きなければならないのでしょうか。善のために生きなければなりません。善は、神様御自身だけでは成立しません。神様と人間が合わさったとき善が展開されるのです。善の中で、最高の善とは何でしょうか。あるいは良いことの中で、最高に良いこととは何でしょうか。神様の愛です。夫婦の愛ではありません。戦うことではないのです。それゆえ、万民がすべて戦争を嫌うのです。

 皆さん個人だけが善良ではいけません。神様を愛するように人を愛さなければなりません。皆さんが先生を愛しているかどうか分かりませんが、先生を愛さなければなりません。神様を愛するように先生を愛さなければならず、先生を愛するように皆さんの間でもお互いに愛さなければならないのです。これができなくてはなりません。そこでは「私が中心だ」と言って、自分勝手にしてはなりません。すべての人が理解できる立場で、その環境がすべて敬い、中心として侍ることができなければなりません。強制的にではなく、自動的に選別されなければならないのです。

 相手を動かせば自動的に重いものは下に沈むのと同様に、重い人は中心に追い込まれるのです。回るところで重いものは動かないけれども、軽いものはよく動くので周囲で回るのです。重いものは動かないので、自然に中心に動いて入っていくのです。誰に習わなくても、そのようになるのです。ですから、自らその人を中心的な人物として侍ることができるようになるのです。そうしようと思えば、どのようにしなければならないでしょうか。すべてを与えなければなりません。これが、信仰の動機です。

 このような立場から考えてみるとき、私たちは神様の愛を中心として世界のために生まれた人々なので、世界のために生きなければなりません。

◆一生の間、世界のために生きてこそ

 天理の道を行くのですが、ある人は足を引きずって歩いていったりもします。それは歩くことですか、足を引きずることですか。それだけを見れば足を引きずっていても、それも歩くことです。昼寝をしながら歩いても歩くことです。昼寝をしながらも歩くのは、より早く行くためです。寝ていても歩くというのです。すべてが目標のためにです。食べたり寝たりすることも、行くためです。目標のためだという面で考えるときには、寝ても行くことになるというのです。

 私たちは一生の間、世界のために生きなければなりません。小さな国で何もそろえられずに狭い所で暮らすとしても、世界のために生きるべきだというのです。これは、より一層大きいものをつくるための過程であることを知らなければなりません。それはなぜでしょうか。大きい道を行くためです。私たちが今はこうしているけれども、ある程度過ごしてみなさいというのです。誰がなんと言おうと、行かなければなりません。複雑な環境を打破し、他の人が反対したとしても、先生が提示した方向へ行かなければなりません。世界のために行くには、どうやって行かなければならないでしょうか。人を脅かして奪ったり、利用して行くのではなく、人のために与えながら行かなければなりません。

 人を見て、良いとか悪いとかと言ってはなりません。高い人になるためには、低い人をよく収拾しなければならないのです。高いといって、低い人を踏んで上がって行ってはいけません。そのようにすれば、踏まれた人々がすべて上がるようになり、踏んだ人々が下に下りていくようになるのです。これが原則です。それゆえ、「ため」に歩まなければなりません。家庭のために、職場のために歩まなければなりません。職場がうまくいかないとき、会社の社長よりも会社のために生きる人がいるならば、その人がその会社の社長になることができるのです。

 信仰する人として一番怖い人とは、どのような人でしょうか。天に行く道において、「世界のためにどこの誰にもできないことを自分に命令してくれ」と言う人です。そのような人は、世界的な基盤を占めるようになるのです。数十年間、大韓民国の試練と苦痛をみな浴びて、「私が死ぬまですべての十字架を担うのだ」と言わなければなりません。世界を愛するためには、そうでなければなりません。このような受難の道を行かなければならないというのです。世界を愛したい切実な心の前には、差し迫ってくるいかなる平面的な十字架も問題にはなりません。

 平面的な十字架に対し、縦的な十字架を合わせて、天の十字架を担っていかなければなりません。神様は、私の受ける苦痛以上に十字架の苦痛を受けていらっしゃるということを考えるときに、敗者になって神様の前に親不孝者の名を残すことより、この困難を克服することにより、神様が私によってより大きな希望の起源を準備することができる最後の機会だということを感じなければなりません。そのような心を感じて十字架に対するようになるときには、その場がすなわち、幸せな立場です。このように行くことが信仰というものです。

 そのような人は、監獄に引かれて入っていっても、「それが自分には幸福を探し出すことのできる安息の場だ」と言うでしょう。この瞬間は、天国の境界線を貫いて、一つの距離を短縮させることのできる瞬間です。すべての精誠を尽くして、夜も昼も世界のために歩むことにおいて、すべての神経をとがらせ、すべての心を投入して、最高の精誠を込める立場が、正にそのような立場です。その立場は、悲しい立場ではないのです。

 怨 讐のむちが飛び込んでも、頑張って恨みを晴らそうというのです。十回先に打たれて、三回打ち返せば、サタン側では復 讐できません。誤りがないのにもかかわらず十回先に打たれたなら、十回、二十回、何百回打ち返しても、サタン側では抵抗できないというのです。これは世界のためにサタンを屈服させることのできる良い材料になり、世界のすべての悪を除去することのできる良い参考になるのです。

◆自分を主張しない人になれ

 皆さんは、打たれてみたり、死ぬ立場で苦労もして、困難を受けてみなければなりません。それが怨讐ではありません。この立場は、千倍、万倍福を受けることのできる立場です。皆さんは、歴史上の先烈が国を探すために呻吟する孤独な立場でも、忠臣の節義と気概を守って率いてきた、それ以上に克服しなければなりません。また、イエス・キリストが十字架の頂上で呻吟して祈祷した、それ以上の立場まで進まなければなりません。そのような立場でなくては、世界のために生きることのできる立場には、まだ遠いというのです。したがって、そのような道を行くには死がつきまとうのです。

 皆さんは、「いつか倒れても、怨讐を屈服させるのだ」という思いで進まなければなりません。では、皆さんは世界のために、どのようなことをしなければならないのでしょうか。自分の息子、娘のために仕事をしてはなりません。世界のために何かを残さなければならないのです。こういう人々が正に、人類が指向する善の世界に必要な人々です。難しくても弁解するなというのです。自分を持ち出すときには、どうやっても駄目なのです。信仰の本質に通じるしかありません。この原則は、間違いありません。

 先生は人を見れば、すぐに、その人が誰のために生きる人なのか分かります。出発点がどこなのか、国のために生きる人なのか、世界のために生きる人なのか、数言だけ話してみれば一遍に分かるのです。どんなに繕ってみても、先生には分かるのです。しかし、何ももっていない微賤な人でも、行けば行くほど自分自身が立ち直れない恥を感じて、表に現れないで隠れようとする人には、神様はより多く与えてくださるのです。これが原理です。「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」という理致と同じです。

 先生は今まで、この国に現れようとしませんでした。どのような有能な人が「会おう」と言ってきても会わなかったのです。神様がみな会うようにしてくださるその権限をもち、自慢できる時が来ることを知っているからです。自分に従っている人を前面に押し出していく復帰路程なので、従う人々をそれ以上の立場に立て、それを見て喜ぶのです。それが父母の心です。

 先生がこの国、この民族に対して果たすべき責任を全うできなかったので、まだ大声を張り上げません。原理原則においては大声を張り上げることができますが、私自身を前面に押し出して大声を張り上げることはできないのです。

 それゆえ、私の行く道が忙しいのです。二十四時間、終始行く道が忙しいのです。どんなに疲れていても寝てはならないのです。昼寝でもしたときには、悔い改めます。寝たあとには、恥ずかしくて顔を上げられません。女性が男性の前に体をあらわにするときの心のような恥を感じる、そのような心をもって生きる人間です。

◆良いものの中で一番良いものは神様の愛

 皆さん、どんなに不足して及ばなくても、不平を言ってはいけません。それを有り難く感じなさいというのです。子孫が福を受けるのは、公平な神様であるゆえに、不足してあまり受けなかった人があれば、何百倍の利子を付けて与えてくださるからです。したがって、そのような心をもって生きる人には、良い子孫が生まれるのです。くぼみができれば、埋めなければならないのです。また、低気圧圏が形成されたならば、高気圧圏から分けてやらなければなりません。これが天理の原則なのです。それゆえ、不平を言ってはならないのです。不公平なことがないというのです。今は悪いとしても、それが沃土になって根を下ろし、良い実を結ぶように、神様は国と世界のために必要な人を子孫に送ってくださるのです。

 私たちが生まれたのは、世界のための忠臣になるためです。公式がそのようになっています。世界は永遠に残るのです。ですから、世界の友人になろうというのです。皆さんは、そういう心をもって生きなければなりません。私自身が、世界のために与えることができなければなりません。

 そうしようと思えば、自らの子女を勉強させるのも、世界に与えることのできる道を広げるためにするのです。私がみ旨を知ったのですが、その道を行くことができなければ、自分の息子、娘、または信仰の息子、娘を通してでも、その道を磨くようにすべきだというのです。このように、ありったけの精誠を尽くす人は、一生においてその限界点までは行けなかったとしても、世界において栄光の中心存在として登場するでしょう。ここには、愛の法度を通した因縁が宿っているというのです。

 父母の愛は国境を越えるのです。息子が外国に行ったからといって、故国にいるお母さんのその愛は制約を受けたりしません。お母さんは息子のために涙を流します。体はその国にあるけれども、心は外国にいる息子のために涙を流すのです。汗を流すのも、仕事をするのも、その息子のためにです。これは、愛でなくてはできないというのです。愛の心があるためです。

 では、なぜ愛が必要なのでしょうか。愛は良いことの中の中心であり、神様の愛であるゆえに必要なのです。その神様の愛は、人間を中心とした父子の関係から現れます。それで、子女のための父母の愛の因縁が起こるのです。この愛を中心とした心情の世界が、「統一思想」の基礎になるのです。

 私、個人だけが善良ではいけません。善なる人々が必要なのです。個人だけが善良でも駄目だというのです。善なる人々がいないならば、つくらなければなりません。そのためには父母の心情をもって、僕の体を使って、涙と血と汗ですべてを洗って、磨いて、片づけて生きなければなりません。善なる人々で成された善なる国家がなくては、世界で必要な善なる世界になり得ないのです。

 では、その国家と個人との距離がどれほど離れていますか。何をもってこれを一つにしますか。他のものでは一つにつくる道理がないというのです。それゆえ、心情で連結して、世界のために個人同士で好むことができ、家庭同士で好むことができなければなりません。神様の愛は中心的な愛であるがゆえに、全体の内容になるのであり、これを広げれば、全部だというのです。

 これを縮小すれば、私の個体になります。神様の愛と相手がいない立場にあるときは私一人ですが、私が世界のために、国家のために、氏族のために家庭のために立っているならば、私は世界の中心であり、国家の中心であり、氏族の中心であり、家庭の中心になるのです。このように、私一人の中心は縦的な基準から横的な基準をつくり出すために、第一横的基準、第二横的基準、第三横的基準と幅が広がるのです。復帰歴史は、それをするのです。

 数多くの私たちの先祖、ノアやアブラハムがなぜ責任を全うすることができなかったのでしょうか。みな自分だけを中心にしていたためです。イスラエル民族も、自分たちを中心として世界を料理できると思っていましたが、その反対だったのです。メシヤが来れば、自分の国のために苦労することより、もっと苦労しなければならない峠があるということを知らなかったのです。

 皆さんも、統一教会を信じるときは良いことだけと思っていたでしょうが、一つの峠をもう一度越えなければならないのです。越えたならば谷間、その谷間を経て再び上がっていかなければならないのです。これが私たちの法度です。蕩減を経て、私たちがとどまる最後の頂上に向かって上がっていかなければならないのです。その頂上とはどこでしょうか。国家です。国家の基準まで上がっていかなければならないのです。私たちは、国のためには内的な頂上に向かって越えましたが、谷間を通ってもう一度越えなければなりません。それで、国家を越えなければなりません。これを越える前には行く道がありません。私たちがこの谷間で倒れたり、「この道は嫌だ」と不平を言えば、すべて滅びるのです。

 善なる国を、どうやってつくりますか。今日まで先生は、この作戦をしているのです。皆さんはこのようなことを知って、世界のために、善なる自分をつくるために努力しなければなりません。

 何着もの服をもっていれば、その服を世界のために分けてあげたい心をもたなければなりません。また土地を買うときにも、息子、娘に相続してあげるために買うのではなく、世界のために買える心をもたなければなりません。そうすれば、滅びないというのです。

 私たちがお金を使うとき、国のために、世界のために使うようになれば、光を放つのです。顔にしわがいっぱいの老いた父母が、息子が骨折って作った服を息子のために着たとき、その姿を眺める息子の心には千年、万年忘れることができない孝行の心が爆発して出てくるのです。

 私たちが話さなくても、自ら屈服できる価値的な善なる礎を磨いていくとき、神様のみ旨は間違いなく成されるでしょう。また、動くことのない一つの完全な要がつくられて正常に発展するでしょう。皆さんは、このようなことをよく知らなければなりません。


















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