文鮮明先生のみ言集
訓教経(下)


真を探して

一九七〇年十二月十三日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第三十六巻』


 人々は、しばしば自分を中心として考えます。誰でも自分は善であり、真実だと認める立場で考えて行動しようとするのを、私たちは日常生活で多く感じることができます。

◆良いことと関係を結ぼうとする人間

 良いことがあれば自分が率先しようとし、うれしいことがあってもそのようにします。あるいは、ある無限の価値の内容があるというときも、自分とまず因縁を結ぼうとするのが私たち人間の性稟です。ここで、果たしてその好むことを所有できる私自身になっているかと反問してみるとき、誰もそうだと答えられないことを私たちは発見するようになります。

 どんなに良い環境があるとしても、その良い環境を称賛する前に、まずその環境が自分とどれだけ関係を結んでいるかを考えなければなりません。私たちは、常にその環境が自分と因縁をもち、自分とともに結果が現れることを願うのです。その環境が良ければ良いほど、永遠であれば永遠であるほど自分と因縁を結びたいと願うのです。このように私たち人間は、自分個人を中心として成されることを願うというのです。

 このように見るとき、私たち自身がどうして自らこのような立場に立つようになったのでしょうか。考えもせず、きまり悪さも感じず、批判をする前に自らそのように堂々と出ていって関係を結ぼうとする原因が、どこにあるのでしょうか。これは本来人間が、そのような立場にいなければならないことを、その心が知っているためです。

 世の中に一つしかない貴いものがあるならば、自分がそれと関係を結ぶことを願うのです。一万人ならば一万人すべてがそれと関係を結びたがり、人類がいれば人類全体がその一つしかない貴いものと、共に関係を結ぶことを願うのが私たち人間の本性だというのです。

 では、すべての人間がその一つを懐かしがり、その一つの価値に集約しようとする心の土台をもったとするならば、その一つに対して闘争の行路を経なければならないでしょう。

 このような私たちの生活圏を冷静に直視してみるとき、この無限の価値のものをもとうとするなら、数千、数万の王と、あるいは人類全体と闘争して勝利しなければならないという問題が生じます。今日、私たちが最高の価値あるその一つと関係を結ぼうとする心の土台、本性それ自体が矛盾しているのではないかということを考えるようになります。

◆価値あるものを万民がどのように共有するかが問題

 万民がそのような価値あるものを共にもつことができるならば、いかなる内容をもってそれと連結することができますか。それと関係を結んで、無限の私の所有物として、無限の私との因縁を称賛するものとして残すことができますか。それだけでなく、それを私だけのものでなく万民のものとして帰することができる、より価値ある内容を刺激することができる環境圏を、どのようにもつかということが問題です。

 今日、私を中心とした欲望の基準と、絶対的な価値の善なることを中心として、万民が喜びながらもつことを願う基準とは、その方向が違い、立場が違います。それゆえ私たちは、この中のどれか一つを糾明しなければならない立場に置かれています。

 誰でも無限に価値あるものをもちたがりますが、その心は、私自身がそのようになることを願ってもつ心ではなく、万民が本性的にもってきた心に違いありません。その心で探していくその価値ある道、価値ある内容に対するにおいて、私たちが生きている現在の環境と、それに対することができる環境との間には差があるのです。

 良いことも私を中心として始まり、終わりを結び、うれしいことも私を中心として始まり、終わりを結ぼうとするので、この宇宙に貴く真実で価値ある内容があるならば、ここに私のほかに誰かが、共に参与することを否定するはずです。それなら、今日私たち各自の心が要求する私を中心として、全体の価値を追求して因縁を結ぼうとすること自体が矛盾だと結論づけるしかないのです。

 では、これを普遍化させて、一般的な価値の内容で高らかに称賛できることとは何でしょうか。いかなる立場でも、この内容を決定せずには解決方案がないのです。もし、この地上に生きている堕落した人間が、自分の生理と生態を中心とした姿でその価値を追求するならば、その人は歴史上にない最高の矛盾した環境に突入するでしょう。

 では、万民が共に彼のように無限なる価値のものを私のものとして、その価値の基準を相続しようとすれば何が必要ですか。現在の私たち自身を中心として、こういう因縁を通じて最高の絶対的な価値のものは一つしかないので、この一つしかない価値のものの前に私が連結されるとき、相反することのない全体の価値であると同時に、個体の価値として称賛を受けることができるのです。では、その道がなければならないとすれば、その道はいったい何でしょうか。これが問題になるというのです。

 こういうことを考えるとき、今日皆さんは自分自身を忘却しやすい立場に立っていることを発見するようになるのです。私という個体は、独自に生まれることができず、継承することもできないのです。私という存在は、父母の血統を通じて生まれて、生きています。このように生きている私たちの人生は、誰かが一世紀以上生きられると壮語しても、一世紀以内に生の終末を迎えるようになっています。

 しかし、人類歴史は一世紀で終わってはならないので、人間にはこの歴史を延長させなければならない責任があるのです。したがって、ここには必ず代の継承問題が起きます。すなわち、相続問題、継承者問題が起きるというのです。私の代わりに、私よりもより輝く価値を継承できる相続者がいてこそ、その人格を中心として、あすの希望の世界、あすの絶対的な価値の世界へ行くことができるのです。

 ところが、今日の私が、未来に価値的な内容を継承してあげることができず、私自身の価値を減退させて犠牲にする立場に立つならば、現実が彼を拒否して、彼の行く道を妨げるのです。

◆未来の世界に残れる人

 では、未来の世界に残れる人とは、どのような人ですか。全体の利益を自分を中心として現時代圏内で消耗する立場に立った人を、未来の世界が歓迎しますか。こういう人は絶対に歓迎しないのです。今日の価値的なことを今日に固着させるよりも、未来のこととして残そうとするところにおいてのみ、未来の価値的なことと私たちが、より近づくことができるのです。そうしようとすれば、どうしなければならないでしょうか。きょうよりもあすの前に、価値的な内容をプラスさせなけばならないのです。その道だけが、絶対的な希望の世界まで到達できる、決定的な要因になるというのです。

 このような運命に置かれている人間なので、人間は我知らず善なることを願い、良いことを敬い、価値あることを慕うのです。かといって、その価値ある良いことが、私とただそのまま関係を結ぶのではありません。必ず、それに値する犠牲の代価を払ってこそ連結されるのです。悪いことは代価を払わなくてもいくらでも連結されますが、良いことは必ず代価を払ってのみ連結されるのです。そのまま流れてしまったり、ある人には必要ないような代価を払うのではありません。歴史過程において誰にでも必要な代価を払ってこそ連結され、残るのです。

 では、誰にでも必要な代価となるものとは何でしょうか。それは正に生命です。二つとない生命だというのです。その次に、その生命をもった人間が追求する高貴な価値になるものとは何ですか。相対になる存在です。その相対になる存在と因縁を結ぶことができるものとは何かというとき、これは愛しかないのです。高貴な生命と、高貴な愛の内容を蒔いて投入する者だけが、万民が共に酔うことのできる、あすの絶対的な幸福の価値圏に到達できるのです。その他の道はあり得ない、と結論づけることができます。

◆生命の帰着点

 今日善なる人、善の道を行く人、永遠で無限のその絶対的な価値をもった生命と因縁をもった世界、絶対的な愛と因縁をもった世界を慕って誓う人は、現在の生活圏内で自分の生命力を未来のために投入でき、その生命とともに自らの愛全体を未来のために投入することができます。そうしてこそ、より価値ある相続圏が広がっていくのです。

 それゆえ、み旨を抱いて新しい理念を追求してきた人々を見れば、自らの生命力を消耗し、自分がもつべき愛のすべての要素を消耗しながら、そのようなことをしてきました。このような人々だけが、歴史を継承し、相続してきたという事実を私たちは否定できないのです。

 それはなぜかといえば、堕落したからなのです。人間が堕落しなかったならば、生まれた時が春で、育つ時が夏なのです。降り注ぐ雨は生命を促すようになり、降り注ぐ太陽は生命の要素を吸収できる原動力になり、吹く風は清新なあすを約束してくれる環境になるのです。

 そのような善なる環境圏に存在して、そこに関係している一切の内容は、人間に相反するものを提示するのではなく、発展を促進させるのです。ところが、人間が堕落することによって、今日このように悲惨な立場で、私たち自身の消耗が必要になったのです。

 このように見るとき、この消耗されることが私たち自身の消耗で終わってしまうのではなく、自分自身に助けになることであり、自らの発展と成長の原肥になるのです。したがって、今日私たちが絶対的な善と関係を結ぼうとすれば、犠牲の代価を払わなければならないというのです。これは私たちが堕落圏内に接していて、堕落の運命圏内に縛られているがゆえに、不可避なことです。

 皆さんが、生涯路程で良いものと関係を結び、絶対的な価値をもったものと関係を結ぼうとするなら、現在の自らの姿そのままを称賛して喜んではなりません。ここには、心が願って関係を結ぼうとするものと、体が願って関係を結ぼうとするものがあります。

 神様が万物を造るとき、絶対的な目的をもって造らなかったならば、神様は絶対的な方になることができないのです。今日、堕落した私たち人間も、一つの目的を中心として、その目的を達成できるものをつくっていこうとしています。これを見るとき、今日私たち人間自体内に、それぞれ違う二つの目的を追求する体と心が存在するという事実は、矛盾したことなのです。

 絶対的な神様が造った被造物として、そうであってはならないのです。神様はお一人なので、その方が造った被造物も、一つの目的をもたなければなりません。そのような一つの目的の中で、神様の子女の名分をもって生まれた人間ならば、一つの目的と因縁を結んで、一切がその目的を中心として関係を結ぶべきであるにもかかわらず、私の個体において一番近い体と心が相反するとはどういうことですか。これは、人間が堕落したためです。

 したがって、この生命が訪ねる目的の帰着点、生命とともに永遠に共にすべき一つしかない愛の帰着点は、必ず一つの目的圏内でだけ成されるのであって、二つの目的圏内では不可能なのです。そのような立場では、「絶対的」という言葉は成立しません。自体内に相対的な圏をもっている立場では、絶対的な価値を探すことができないのです。これが問題です。

 では今日、絶対的価値を探していくところにおいて、出発の基点は何でなければならないでしょうか。真を探していかなければなりません。私が真を明確に意識して、それを否定することができず、胸中でほとばしる認識とか刺激を通じて、それが私の生活に絶えず因縁づくことを願うならば、現在私が置かれている立場を整備しなければならないのです。

 今日、皆さんが父母の血肉を受けて生まれて生きている国家、あるいは世界において、ただそのままでは真を探すことはできません。真を探すためには、ある限界点を立てて、必ず否定か肯定かを分けなければならないのです。二者択一をしなければならないのです。これは不可避なことです。

◆善の主体

 ここで、「心が善なのか体が善なのか分からないではないか」と言う人もいるでしょう。または、体を中心として心を否定することはできるけれど、心を中心として体を否定することはできないと話す人もいるでしょう。

 では、私たちは普遍的に考えてみましょう。私が上手にしたか、しなかったかという問題について見るとき、良心の呵責を受けるか受けないか、心に恥じらいがあるかないかと自ら尋ねるとき、それを感じることができることを皆さんは否定できません。

 私の良心の呵責を受けないというときは、堂々としています。天下がなんと言っても曲げないというのです。宇宙にただ一つしかない、最高の脅迫的な存在が私に直接ぶつかるとしても、そこに屈しません。良心の呵責がないときには、無限に強いというのです。

 その無限の限界点は、どの圏まで行くことができますか。この天地の中心存在が、「否定しろ」と言っても、「はい」と言うことができないのです。どんなに言っても、「いいえ」と言うようになります。神様よりももっと高い方がいるとすれば、その方の前に行っても堂々としているというのです。その圏は絶対的です。

 心が過ちを犯していなければ、父や、先生や、どこの誰がなんと言っても曲げないのです。そのような人々を討伐してしまいたいのです。そこに反対して出れば、「こいつら!」と言います。父も、こいつであり、恩師も、こいつになるのです。みな勝とうとします。心がそうだというのです。

 これを見るとき、良心の呵責を受けない純粋な立場は、何もないようだけれども、そこには絶対的な権限が内在されているのです。では、この内在されている権限が探している価値は、いかなる価値でしょうか。絶対的な価値を追求するはずです。けれども、私たちにそういう事情をもつことができる土台が私の体か、心かと聞くとき、「体だ」と言うことはあり得ないのです。したがって、どちらが中心ですか。それは心なのです。

 私たちが「良い友」と言うのは、良心的なので「良い」と言うのです。友人が美人なので、ハンサムなので、「良い」と言う人がいますか。良心的なので、純粋なので、犠牲的なので、「良い」と言うのです。

 こういうことを考えれば、実は人に教育は必要ないのです。大学の教養だ何だというものは、みな必要ないというのです。みな知っているのです。良心をもっているので、悪いことをするときは、「おい、お前なぜ悪いことをするのか」と言って良心の呵責を受けるようになります。それ以上の教育がありますか。本来は、教育の必要がないというのです。それゆえ問題は、世界の果てから解決されるのではなく、ここから解決されます。皆さんの生活圏内に、解決できる法案が一〇〇パーセント備わっていて、みな知っているというのです。

◆良いことを残そうとし相続しようとする人間

 では、良いことはどうしたいのでしょうか。良いことは投げ捨てて、悪いことを残したい人はいません。それゆえ、良いことは他の所にあるのではありません。自然に結論が出てきます。

 永遠のものは他の所にあるのではありません。良いことは永遠に残るのです。それを残したがります。では、これを残して誰に与えたいのですか。自分の愛する息子に残してあげたいと願うのです。その息子はまた、誰に与えたいですか。やはり愛する彼の息子に与えたがるのです。その息子が世界を支配するようになれば、それは世界的な宝物になるのです。そのように、私たち人間は一番良いものを残したがるのです。

 一番良いものは「金の塊だ」と言うならば、それを残したがるでしょう。けれども、金の塊よりも良いものがありますが、それが正に愛を中心とした生命体です。では、私にとって愛を中心とした生命体とは何かというとき、この関係が一番貴いというのです。

 私を中心として見るとき、「私」はどこから来ましたか。ただ飛んできた人ではありません。父母がいるために子供がいるのです。父母は過去を象徴するのであり、私は現在を象徴するのであり、子供は未来を象徴するのです。過去、現在、未来が一つの線で対面するその焦点、それを糾合して連結する決定的要因とは誰でしょうか。それが今日の「私」だというのです。私は、過去なくして生じないのであり、未来なくして存続できないのです。それゆえ今日、誰でも歴史的な価値を相続しようとするのです。

 大韓民国に良い骨董品があれば、それを自分の物にしたがります。では、国宝第一号の南大門は誰のものですか。大韓民国のものです。大韓民国のものはすなわち誰のものかといえば、私のものという実感は起きませんが、私のものです。大韓民国に私一人生きているとすれば、私のものという実感が起きるはずです。

 では、大韓民国の国宝第一号の南大門は、誰から始まるのですか。私一人から始まるのです。大韓民国がすなわち「私」と言うなら、その国宝は大韓民国のものであると同時に「私のものだ」と言うのです。それを管理することにおいても、「私一人だけで管理すれば良いのに、国民全部が管理するので嫌だ」と言うのです。しかし、一人では管理することができません。国宝全体を自分一人で管理できますか。全体が協力して管理しなければならないのです。良いことはそのようにしなければならないのです。

◆父母の愛より大きい神様の愛

 人は誰でも、良いものがあれば自慢したがります。宣伝したいのです。宣伝したいということは何ですか。関係を結んであげたいということです。宣伝や自慢をなぜするかといえば、君もこのような関係を結べということなのです。人にとって一番良いこととは何ですか。父母が一番良くて、その次は私で、その次には子供です。このようにして歴史は継承されるのです。私たちの生命を連結させて、生命に連結したその環境を中心として、愛の理念が花咲くことができる、そのような環境の根拠地が家庭です。

 家庭を中心として見るとき、子供は「お母さんは永遠に私のものだ」と言ます。そのお母さんは、子供に自らの血肉を分けてやりながら喜びます。これを見るとき、良いこととは何ですか。人のために犠牲になることです。友人が良いというのも、すなわち犠牲になるためです。他人に与えながらも喜ぶのです。喜ぶのは、人のために犠牲になりながら、自分の一番貴いものを与えてももっと多くあげたがるのです。「与えてから、それを再び受ける」と言いながら与えるのでなく、与えながらも、あまりに少なくて恥じらいながら与えるのです。それが、父母の愛です。

 しかし、子供の愛はそうではありません。父母の愛と子供の愛は、違います。父母は与えながらも、より良いものを与えることができないと嘆き、子供は「私は親思いだ」と満足に思うというのです。それで、父母の愛と子女の愛が違うというのです。「私がこのようにしたのに、パパとママは何をしましたか」と言うのです。子供の愛には限界があって、自分という限界線を超えることができません。けれども父母の愛は、自分という限界線を超えるのです。

 こういう愛は、何の愛ですか。この愛が、すなわち神様の愛です。神様の愛の内容が人間の前に現れたものが、父母の愛です。

 では、神様はいかなる方ですか。父母を中心として考えてみるとき、父母より優れていなければなりません。父母は子供だけを愛しますが、神様は世界人類をすべて、父母が私を愛するように愛されるというのです。私を生んでくれた父母は、私だけを愛しますが、神様は万民を私のように愛され、父母以上の立場にいらっしゃる方です。

 では、神様はいかなる方かというとき、千年、万年与えてもまた与えたい、そのような心を絶えずもっていらっしゃる方です。そのような方であるがゆえに、私たちは神様を探すのです。

 万民はなぜ、神様を好んでついていくのでしょうか。神様は、万民のためにすべてを下さりながらも恥じらいながら、「今はこれだけにしかならないけれど、少しだけ待ちなさい、何百倍、何千倍より良いものを与えるから」と言いながら、今現在あげたことで満足されるのではなく、与えながらも未来により良いものを与えると約束され、与えることができる心の余裕をもっていらっしゃる方であるからです。

 そのような方と一緒にいれば、たとえ食べられず、裕福でなくても、幸せだというのです。食べられない立場に入っていけば、未来の希望の刺激が、現実圏内で衝撃的に感じられるのです。かえって新しい決心ができるのです。

 与えながらも恥じる立場、そのような父母をもった子供が、「ママ」と言って抱かれるようになれば、体だけ抱き込みますか。どれほど有り難いでしょうか。その場は、未来のために、お互いに慰労の涙を共に流すことができる立場です。絶望が共にあるのではなく、あすの願いを現在の刺激に感じて、お互いに決意し、お互いがぶつかり合って激励できる爆発的な立場が、正にそのような立場です。

 したがって、そこで現れる現象は、悲惨なものではありません。未来に対する刺激を引き込んで、現実圏内で価値を称賛できる立場は、そういう愛の圏内でだけ成されるのです。それゆえ、その愛の圏内に生きる人は、不幸にならないという結論が出てきます。

◆刈り入れできる人

 では、イエス様は、万民の前にメシヤの使命を果たすために来られましたが、その方はどのような方ですか。自分の生命を犠牲にしながら、千年、万年幸福を祈ってあげることができなければなりません。そうしなければ、万民のメシヤになることはできません。そのような内容をもったがゆえに、イエス様は十字架で亡くなる直前に、怨 讐のために涙で「彼らの罪を赦し給え」と言ったのです。父母でなくては、このようにすることはできないというのです。

 どんなにならず者のような子供、最高の刑を受けて刑場の露と消える息子でも、父母の心は千回、万回許してあげたいのです。父母と子供の間には、許せないことがないのです。ならず者の息子が、絶望の中で、後悔と共に回生できる道が、そこにあるというのです。国家の法があるがゆえにそうなのであって、父母と息子の間には許せないことがないのです。

 これが伝統になったとすれば、そういう愛の圏内でそのような愛を知って育った子供は、親不孝できないのです。絶対に不孝ができないのです。そのような愛の因縁をもった父母の懐で育った子供は、父母の前に服従せざるを得ないのであり、兄弟間でも和合せざるを得ないというのです。

 では、本物の真の人とは、どのような人でしょうか。先に話したように、犠牲となり、奉仕をする人です。現在の自分が消耗されるのを見ても、喜ぶことができる人です。

 消耗される自分自身は消耗で終わるのでなく、未来の収穫の動機になることができるのです。ですから、蒔くことは滅びることでなく栄えることです。このような人が、良いことを追求できる人です。

 そのようになろうとするなら、自分の一身を投げなければなりません。一身をばらまくのです。純粋にばらまきなさいというのです。まくこと自体が犠牲になることであり、自己否定です。そのように円満に自分を否定していくならば、肯定の新しい生命力が発生して、あすの収穫を確約する動機になるのです。

 したがって、良い人は自分を中心とする人ではありません。全体を中心にする人です。では、その全体の限界点はどこですか。国家も、世界もはるかに超えることです。それゆえ宗教世界が出てくるようになったのです。

◆良い人は犠牲になる人

 思想家とか、偉人とか、聖人とは、いかなる人でしょうか。もし今日大韓民国で「おお万民よ!
 我が国の主張を聞きなさい」と主張する人は、国粋的な国は創建するかもしれませんが、世界の前には貢献することができません。聖人の等級に値する人々は、少なくとも世界的な内容をもって主張した人々です。そのような人でなくては聖人になれないのです。

 では、聖人の中の聖人とはどのような人ですか。彼は、世界的なものよりも大きいのです。この地だけのためでなく、天を介在させた人です。それゆえ宗教の指導者や宗教の道主が、聖人の王座に上がっているのです。イエス様もそうであり、釈迦もそうであり、孔子もそうであり、マホメットもそうです。

 最高の価値をもった聖人は、どうしなければならないでしょうか。漠然と神様だけを紹介してはなりません。天がどうだということを紹介しなければなりません。天の人がどうで、天の物質がどうであり、天の組織がどうだということを細密に紹介しなければならないのです。天の生活圏、天の生涯圏、天の国家圏、天の世界圏がどうだということを紹介すべきなのです。彼が主張する世界は、自分を中心とするのでなく、お互いが喜ぶことができる内容を中心にした世界です。そのような世界は、自分を中心にした世界ではありません。

 ここで、人は本来自分のために生まれたのではないという結論が出てくるのです。良いことを探そうとする人は、私のために生まれた人ではありません。それゆえ、私のために生まれた人には、喜べる内容がないのです。個人が中心になるのです。そのようになれば、強圧的な奪取主義になるのです。

 良い人とは、自分の欲望とは関係なく犠牲になる人です。犠牲は、生理的な要求とは反対に、全部否定するところから出発するのです。それは何を意味するのでしょうか。良いことは私を中心とすることではないということです。では、何を中心としますか。他人を中心とすることですが、百年間生きて終わるようなものを中心とするのではなく、永遠に残るものを中心とするのです。

 その永遠とは何ですか。国は滅びても世界は残らなければならないというのです。世界主義が国家主義を支配するのです。より大きいものが、より長く残るためです。私たちは愛しても、大韓民国の人同士愛するのではなく、世界万民を愛そうというのです。世界万民が共に生きようというのです。宗教人はそうなのです。

 ところが、今までの宗教人が一つ発見できなかったことがあります。「イエス様を信じて天国に行こう」と言う、その目的は大きいのに、内容は個人主義になりました。そうなれば、滅びるのです。「イエス様を信じて天国に行こう」と言う時、イエス様が個人を中心として訪ねてきますか。イエス様の目的は、世界を訪ねてくることです。世界圏内に国があって、国家圏内に氏族があって個人があるのです。イエス様は、「まず神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ六・三三)と言ったのであって、「その人と、その生活を求めなさい」と言いましたか。

 今日宗教人はみな、目的は大きくて遠くにあるのに、内容はみな個人的だというのです。「私が天国に行く前に、世界万民を天国に送ってから行く」と言わなければならないのです。では、その宗教は滅びますか。私が良くなる前に子供が良くなるようにし、あとで私が良くなるようにというのが父母の愛です。ですから「私が天国に行く前に、世界万民を天国に送る」と言わなければならないのです。

 「私が良くなる前に、国を良くしてから死ぬ」と言わなければなりません。そのような人が愛国者でしょう。私が苦労しても、父母は楽な道を行くようにするのが孝子の道です。私が犠牲になっても、夫のためになろうとするのが烈女の道です。では、烈女の道とは何でしょうか。「烈男」という言葉はないでしょう。これを見れば、韓国語は啓示的なのです。女性が誤ったので、女性がまず責任を果たさなければならないためにそうなのです。女性が責任を全うすれば、その次には男性が成すべき責任が残るのです。この「烈男主義」は、統一教会時代から現れるのです。

◆世界を統一しようとするなら

 自分を絶対視するところに善が存続できますか。存続できません。自分を絶対視すれば、全部逃げるのです。自分より、より大きいことを絶対視するところに、善が走り込むのです。私的なものは滅びるのです。善が逃げれば悪しか残らないので、審判を受けるようになるのです。私的なものを主張すれば栄えますか。滅びるのです。けれども、公的なものを主張すれば栄えるのです。

 では、私的な私は、公的なものの前にどうしなければならないでしょうか。「吸収されよ」というのです。個人よりも、家庭がより公的でしょう。それゆえ、兄弟を愛しなさい、父母を愛しなさいというのです。「あなたのすべてを捧げて愛せよ」と教育するのです。

 今日この世は、自分の家のためにお金を稼ぎ、家のために出世もします。また、自分の父や母、兄弟のために出世することよりも、氏族のために出世しなければならないのです。

 愛するには、個人を犠牲にして氏族を愛し、氏族を犠牲にして民族を愛し、民族を犠牲にして国家を愛し、国家を犠牲にして世界を愛し、世界を犠牲にして天地を愛することができますか。徹頭徹尾そうできると結論づけることができれば、こういう運動は世界的に永遠に残るのです。

 それで今日、先生は「天宙主義」という言葉を使うようになったのです。先生が新しい言葉をたくさん作っておきました。「天宙主義」というのは、世界を一つの家にしようということです。では、この家にはお父さん、お母さんがいなければなりませんが、ここでは天が父で、地は母です。その次に兄弟がいなければなりません。父母は天地で、兄弟は人です。それゆえ、統一教会員の行く方向は、他の人たちと違うというのです。

◆生活哲学の根本

 私たちが御飯を食べるにおいても、私のために食べれば滅びるようになり、見るにおいても、私のために見れば滅びるようになります。においをかぐことも、私のためにかげば滅びるようになり、聞くことも、私のために聞けば滅びるようになります。したがってあすのために、より公的なもののために見聞きし、においをかがなければならないのです。見るのにも、二種類があります。すなわち、私的に見るのか、公的に見るのか。においをかぐのにも、二種類があります。公的なにおいをかぐか、私的なにおいをかぐのか、そのようになっています。

 今日、私たちの体と心が、二つの目的を指向するということは矛盾です。一つを否定しなければなりません。絶対的な一つの肯定の価値を追求していこうとするなら、必ず一つを否定しなければなりません。

 では、この体と心の中で、どちらが私的ですか。食べる物があれば、心は「分けて食べなさい」と言うのに、体は「目を閉じて食べるのだ」と言いながらかんでしまい、かんだからしようがないという条件を掲げて、そのまま食べてしまうのです。これが、生活哲学における根本的な問題です。

 では、心はこのように良いことを願うのに、体はなぜそうではないのでしょうか。心と体の関係を整理できないためなのです。しかしそれは、なるようになっています。自らの生命をすべて尽くして、その生命と関係して愛すれば、なるようになっています。

 真は、世界の果てにあるのではありません。真をなぜ探しますか。誰にでも、みなあるものなのです。開発すればいいことです。真を教える先生や大学教授は、必要ありません。事実、宗教も必要ないのです。そのようなことは、心がすべて知っています。

 私が正しいかどうかということは、三分もかからないで、すべて分かるようになります。既に判決が下りたのに、公判の必要がありますか。私が知っていることをすべて話してあげて、一面をすべて見せてあげて、誰が正しいかというとき、私自身が分かるというのです。全部知りながら、詐欺を働くなというのです。詐欺が他の所にあるのではないのです。ともすれば詐欺師、どろぼうがひょいと出てきて、ともすれば聖人、聖者が出てきます。皆さんがこのことをしているというのです。

◆「ため」にする人生は滅びない

 皆さんは真を尽くすにも、あすの国のために、あすの世界のために、あすの天国のために真を尽くさなければなりません。先生は、一生涯をそのようにしました。皆さんはこれから、与えてももっと与えることができなくて涙を流し、前を見、裏山を眺めながら「あれが私の肉や血と同じならば、この民族に思い切り与えるのに、そうできる血と肉をもっていないことが嘆かわしいなあ」と言いながら、与えても嘆息してみなさい。

 そのようにすれば、滅ぼうとしても滅びず、死ぬ病気にかかっても死なないのです。「私の花のような青春が、この民族のために犠牲になるなら、死んでも恨まない。もっと与えることができないことが恨みだ」と言わなければなりません。こういう人の子孫は滅びません。

 では、「統一主義」とは何でしょうか。この民族に、この「統一思想」です。大韓民国が滅びても、世界のために「統一思想」を植えようというのが「統一主義」です。今後、理想国家を創建できる国民にしようとするなら、いかなる思想をもつようにしなければならないでしょうか。「統一主義」です。それでこそ、世界のものとして残るのです。

 二つの中で、より良いものを一つもつために、悪いもの一つは投げてしまうでしょう。同じものをもっていた人も交換してもつのです。「家庭をもつか、国をもつか」と言えば、愚かな人たちは「ああ、家庭をもつ、私の家庭をもつ」と言うのです。また「世界をもつか、国をもつか」と言う時、「我が国が一番であるから、国をもつ」と言う人は、愚かな人です。考えが足りない人です。世界の中には、大韓民国が何百個も入っていくことができるのです。

 それゆえ、打算的な考えだというのです。商売人たちは、利益を残せば喜びます。宗教をもつことも打算的ですが、その商売というのは、一人で良く生きようというのではありません。商売してお金を稼げば、共に良く生きようというのです。黄色人、白人、黒人ということなく、みな合わせて、合同株式会社をつくろうというのです。お互いが、「黄色人も良い。黒人も良い。白人も良い」と言うことのできる株式会社をつくるのです。

◆私の中にある三十八度線を壊さなければ

 真を探していかなければならないのに、真はどこにありますか。私にあるのです。私にあるのですが、混ざっているのです。

 私たちが「真はどこにあるのか」と言う時、相対的世界は問題になりません。私の中にある真と偽りの三十八度線が問題です。私の中の三十八度線を崩し、解放されて歌を歌う時、大韓民国の三十八度線が通じる以上の喜びを歌うことができる主人になれなくては、三十八度線を打ち破ることはできません。私の中からほとばしる解放の声が、いかなる怨 讐の障壁も崩して余りある意気衝天した解放の権威で現れることができなければならないのです。自分の解放を称賛できる群れにならずには、三十八度線解放を迎えることができないし、より大きい三十八度線だけが生じるのです。

 それゆえ、真は自分を中心にしたものではありません。これが、今までの先生の生活哲学です。良いことが現れれば、それは怨讐です。それは、私を引っ掛けるためのおとりだというのです。誰か良いものをもって現れる時、「これは私のものだ」と言えば、例外なく滅びるのです。世界でも、国でも、何でもみな、「私のものだ」と言えば滅びます。滅びるようになっているというのです。それは、そのままにしておいても滅びるのです。しかし、それを世界のものとするときは、ほっておいても栄えるのです。

 それゆえ聖書では、こういうことを教えてくれるのです。イエス様を愛して信じるのに、多くのことは必要ないのです。皆さんの生活環境で、この境界線が問題です。この境界線では、天が行ったり来たりします。境界線のこちらへ行けば聖人の道で、その反対側へ行けば亡人の道です。悪党が行く道だというのです。今、皆さんはそのような道を行っています。一歩でも誤って踏めば、真っ逆さまに落ちるのです。間違いなく落ちるというのです。それで、「正しい道を行け」というのです。

 私たちが祈祷しなければならない内容とは何ですか。御飯を食べても、きのう食べた御飯よりも、けさ食べる御飯がより価値あるように願わなければなりません。御飯にそれを尋ねれば、「そうだ」と言うのです。食べる人が「にっ」と笑えば、御飯も気分が出るのです。皆さんが喜べば、御飯もうれしいのです。万物も同様なのです。

 時計について見ても、どうせはめられるなら、大統領や聖人の手にはめられたいのであり、殺人強盗の手にはめられたいかというのです。皆さんなら、どう思いますか。殺人強盗の手にはめられれば、朝夕にどれほど鳥肌が立ちますか。時計が生きている物だと考えてみてください。どれほどひやっとしますか。冷たい物に熱い熱がつけば、爆発するのです。冷たい物が暖かい物に入っていけば、深く染み込んで熱くなります。すべてがそうだというのです。皆さんが恵みにつかっていれば、世の中に怨 讐がないのです。この宇宙万物が友人になるのです。

◆真を追求する目的

 皆さんが知らなければならないことは、真を尋ねる道です。すべての人が良いものを願うのは間違いありませんが、世界最高の価値、絶対的な価値のものは二つはあり得ません。ただ一つです。
 皆さんの心は、良いものがあれば自分のものにしたがります。では、自分のものにしたがることが悪いのですか。悪いことでなく、良いことなのです。「それなら、少し前に話したことと違うのではないか」と言うでしょうが、堕落したがゆえにそうなのです。堕落したがゆえに、否定線上をたどっていかなければならないのです。

 堕落しなかったなら、自分の世界とか、どこの国だとかいうことがなかったのです。自分が生まれたその家庭が、世界的な家庭になったのです。また、その家庭が国の出発点であり、氏族の出発点であり、個人完成の出発点になったはずです。これらすべてのものが、一度に成るのです。

 今日、これが堕落圏内に落ちてしまったがゆえに、何の後進国であるとか、先進国であるとか話すのです。先進国ならば、みな先進国になるべきなのに、後進国があるのはなぜでしょうか。堕落しなかったならば、既に統一された世界です。既に、このような世の中にどっぷり浸った世界だというのです。教育と伝統がこのようになっている世界であるがゆえに、善を指向できるのです。善が生活の土台になっていたというのです。

 その本来の土台を失って、堕落の土台になったがゆえに、今日こういう戦いが繰り広げられるのであり、否定するようになるのです。否定と肯定の交差路に立っている存在は、わびしい存在です。

 こういう世界は、信じることができません。朝には否定し、夕方には肯定する、このように回っては変わるのです。皆さんの生活がそうではないですか。こうしたり、ああしたりするというのです。これが恨なのです。ここから脱皮しなければならないために、真を追求しなければならないのです。それゆえ私たちが、この絶対的で唯一の真を探していくのです。真の道を探していくというのです。

◆父母の愛をもってこそ世界を統一することができる

 人間の本性の心は、絶対的な価値のものは全部私のものにしたがります。私のものにして、足でけって疎かにしようというのですか。私のものにして、嫌ってねたもうというのですか。違います。私のものにして、私一人で愛するというのです。ところが、誰でも喜べるものは一つしかないのに、すべての人がつかんではいけないので、神様は、全部がつかんで喜ぶことができる方法を考えたのです。そうでなければ、神様にも大事が起きるのです。

 それで、神様が出したものが愛です。愛のつぼを持って、広げておいたのです。それは、避けられないことです。愛でなくては、和合できないのです。愛のひもを作って、全部ここに酔うならば、せり合うようになるのです。喜ぶというのです。愛の列に会えば、ひもを付けて喜ぼうとするのです。それで万民は、これによって統一の役事を起こすのです。

 子供たちは、父母を自分のものにしたがります。ですから、統一された愛の境地、その愛とは何ですか。父母の愛だというのです。その愛の境地はどうですか。与えてもまた与えたく、与えてもそれが少なくて恥ずかしく思う愛です。ここに和することができる世界的な家庭が生じれば、天国が来ざるを得ないという結論が出てくるのです。

 では、兄弟を国と換えられますか。孤独の身、八代続いた一人息子だというとき、体の不自由な妹でも一人いればいいですか、悪いですか。不自由な中でも目も鼻も不自由だというとき、かといってその八代目の一人息子が、「私には体の不自由な妹は必要ない。いっそ孤独の身が良い」と言いますか。いないよりは、体の不自由な妹でもいるのがより良いというのです。体の不自由な妹でもいれば、私も妹をもったと言うことができるのです。兄弟をもった人の仲間に、入っていくことができるというのです。

 皆さん、仲間に入っていくことができなければ、つらいでしょう。兄弟がいてこそ、兄弟の愛がどうだということが分かるのです。愛するにおいて、どれだけ愛しますか。そこに比例的に愛するか、反比例的に愛するかが問題です。

 体の不自由な妹であるほど、反比例的に愛するようになります。そうでしょう。体の不自由な妹を愛するその兄は、誰よりも兄弟を愛することができる立場に入っていくことができるのです。愛があってこそ、平等が起きるのです。それでこそ「ああ、不幸も来るのだな」と感じるのです。

 それゆえ、神様は愛だというのです。けれども、神様がすなわち愛ではありません。愛は、神様の属性でしかないのです。統一性と普遍性を中心として円滑にしてくれるのが愛であるがゆえに、そこですべてが完成して、終わりを結ぶようになるのです。このように、愛は絶対的に必要なものなので、「神様は愛だ」と言っても神様は寂しがらないというのです。

◆神様の息子、娘になる道

 皆さんが現在置かれている立場を見れば、真と偽りの境界線にいます。これを確実に知らなければなりません。では、皆さんが行かなければならない目的地はどこですか。この人格の最高の完成はどういうものかというとき、万民に対して父母の愛を体得することができる人格者になることです。

 そのようになれば、千年、永遠の歴史時代の尊敬を受けることができる聖人、すなわち王聖人になるのです。聖人の中でも王聖人になるのです。

 それゆえ、すべての聖賢と君子たちは、世界的な内容を中心として万民のための犠牲の道理を教えてくれたのです。では、その目的はどこにあるでしょうか。それは統一の世界、一つの世界を中心とした絶対的な価値の基準を解決するために、避けられない要求だったのです。愛を中心としてのみ可能なのです。

 聖書を見れば、神様は「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである」(マタイ二二・三七、三八)と言いました。それは、私たち人間が守らなければならない戒律なのです。では、反対に神様の最初の戒律は何ですか。神様御自身が、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、あなたの息子、娘を愛しなさい。これが神様のいちばん大切な第一の戒律だ」と言うのです。

 では、神様の息子になれる近道とは何ですか。見えない神様を、どのように愛しますか。ですから、父母が息子を愛する以上に、見える世界の人を愛せよというのです。そうすれば、間違いなく神様の息子、娘になるのです。

 それゆえ、世界万民のために狂い、世界万民のために犠牲となり、世界万民のために自らの四肢五体を分けてあげて死んだ人は、天国へ行くのです。そこで一等になれば、天国の王になるのです。

◆善が行く道

 善が行く道とは、どのような道ですか。公的なものを探していく道です。学校に通う学生たちの話を聞けば「自由思想が一番だ。自由を防げることは許せない」と言います。「自由だ」と言って、お母さん、お父さんを困らせて親不孝することが自由ですか。自由はある原則のもとで成立するのです。この原則を知らなければなりません。公私に対する原則、善悪をわきまえて行かなければならないのです。

 では、あなたと私が共に生きていくにおいて、二人とも滅びない道とはどのようなものですか。それはお互いに譲歩して、お互いのためになる道です。では、二人とも滅びる道とはどのようなものですか。お互いにかみちぎって、お互いに怨 讐になる道です。

 心が和合できる内容をもつ者は、残るのです。善良なために残るというのです。悪いことは滅びなければなりません。それゆえ聖書にも「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」(マタイ五・九)とあります。自分を中心として平和にすることができますか。

 仲が良くない二人を和解させる人は、二人の十字架を背負わなければなりません。甲という人と乙という人がけんかをして、お互いに譲らない歴代の怨讐だというとき、彼らを和解させようとするなら、第三者の丙という人は、二人の立場をすべて知らなければなりません。すべて知ってから和解させるべきだというのです。この人は、二人の苦痛をすべて知らなければならないのです。そうでなくては和解をさせることができません。

 悪の世界を善なる世界にしようとするなら、悪の世界において悪に対する苦痛以上の苦痛を感じなければなりません。また、善を成し遂げるための苦痛以上の苦痛を感じることなくして、善を成し遂げることができないのです。私たちが、今そのようなことをしているのです。皆さんは、こういうことを知らなければなりません。

 皆さんは、自ら善の行く道がどうなのかをすべて知っています。教えてあげる必要もないのです。学校で学生が校則に従わないで、自分たちの勝手にすれば、その学校は滅びます。学校のためにしようとするなら、学校の規則に従わなければなりません。大韓民国のためにしようとするなら、大韓民国の法に従わなければならず、天地のためにしようとするなら、天倫に従わなければなりません。神様もこの天倫に従わなければなりません。すべての万物が、この法度によって順応しているのに、これを破綻させれば宇宙が追放します。自動的に滅びるというのです。

◆相反することのない真の世界を訪ねよう

 ゆえに個人よりも家庭、家庭よりも氏族のためにしなければなりません。氏族のために犠牲になる家庭があれば、その家庭は氏族の族長になるのです。これは間違いありません。すべてを犠牲にしたと公認されれば、「族長にならない」と言って逃げても、彼を連れてきて、族長として仕えるというのです。また、民族のために犠牲になる氏族がいれば、その氏族の前に民族を任せようとするのです。そうすれば、その氏族は民族の中心になるのです。こういう民族を中心として主権が成立し、国を探し出すようになるのです。

 その国が、世界のために犠牲になれる立場に立てば、理想世界圏内での新しい世界のために犠牲になれるのです。そのようになれば、これは伝統的思想になり、長く残るのです。それゆえ、永遠のものは、ここから始まるのです。これを絶つ者がいないのです。これを拒否する者はいないのです。

 現在、学生たちが「旧時代の人々はどうだ」とか言いますが、自分たちはどれほど新時代の人ですか。ヒッピー族たちを見てください。こういう世の中なのに、行く所がありますか。物質を中心とした世界観を追求すれば、行き場がないのです。体は肉の塊にすぎません。肉の塊は行き場がないのです。ふさがってしまうというのです。

 けれども、心の世界を中心としたものは無限に広まっていきます。心自体が無限のためです。心は有限圏内にいたがらないのです。すなわち、制限されるようになっていないというのです。ところがこういう心を物質世界に打ちつけておけば、その人に希望があり得るかというのです。それは長く続かないのです。心は無限なので、神様にどんなに侍ったとしても、不足を感じるようになるのです。こういうことを皆さんは知らなければなりません。

 真というものは、世界の果てにあるのではなく、皆さん自身の中にあるということを知って、良いものをえり分けていく立場で、良い土台を成し遂げなければなりません。そのためには、私たちの生活環境で相反する一面を経ていかなければならないのです。これは堕落に対する応報であるがゆえに避けることができないのです。相反するもののないその世界に向かっていく道が、すなわち人生が探していくべき真の道なのです。

 この真の道を行こうとするのが、先生が主張する道です。それゆえ多数のために少数を犠牲にし、公的なもののために私的なものを犠牲にするのは当然のことなのです。これは、当然そうしなければなりません。「私が当然そうしなければ」と言いながら行くことができる思想的な土台をもっている人たちは、真の世界の、真の立場で生きる人に間違いありません。

 そういう立場で関係を結んで生きる人は、その結果が自分と関係を結び、その内容は永遠の世界の所有権を決定できる動機となることができるのです。


















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