文鮮明先生のみ言集
訓教経(下)


体恤信仰が必要

一九七一年二月七日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第四十巻』


 この時間は、「体 恤信仰が必要である」という題目で話そうと思います。

 私たち人間がこの地上で信仰生活をしていく道は、一人で行く道ではないということを常に考えなければなりません。

 信仰の道においてその対象は、既に「私」ではなく神様となるのです。どこまでも神様を対象にしていく道です。言い換えれば、主体と対象の関係が神様と私の間に結ばれて、主体から成される事実が対象に及び、対象から成される事実が主体に関係されなければならないということです。

 このような関係が結ばれなければ、み旨と共に成し遂げられる「私」自身となれないのであり、み旨のために動いたというその結果が、天の摂理の前にプラスとなることはできません。

 神様と私たち人間は、必ず相対的な関係をもって連結されなければなりません。言い換えれば、授受作用をして一つとならなければなりません。その一つとなる程度に従って、私たちの生活環境に変遷をもたらすようになるのです。そして、その変遷した内容を私たち自体の生活面から見て、それが過去よりもっと価値的なものとして感じられるようになるとき、私たちは信仰の効果を感じるようになるのです。

◆体恤信仰の出発

 人は大抵、相対的な関係を通して意識するようになります。もちろん、自分の心の中でも考えるでしょうが、大多数は感覚的な器官を通して刺激を受け、相対的な関係を中心として意識している、ということを私たちは知ることができます。信仰生活をするときにおいては、私たちの心の生活だけでなく、その心に感じられた事実を相対的生活環境にどのように適用するのか、ということが最も重要です。

 皆さん自身が、ある信仰の基準のもとで一年ならば一年の間、「私はこれこれこのようにするつもりだ」という計画を立てたならば、その計画が私と関係を結ぶだけでなく、神様とどのように関係を結ぶのか、そして、主体であられる神様と対象である私が一つとなることによって、その結果をこの環境にどのように実らせるかということが、原理的に見るとき重要なことです。

 主体と対象が完全に授け受けすれば、そこには必ず新しい繁殖、すなわち第三の結果をもたらすようになるのです。その第三の結果というものは、主体の目的だけでなく対象の目的、すなわち二重目的をもった結果として現れるのです。ところで、結果として現れたものが、それ自体で、主体と対象が因縁を結ぶ前よりも価値あるものになってこそ、より大きな刺激を感じることができ、より大きな喜びを感じることができる、ということを私たちは知らなければなりません。

 今月ならば今月、信仰的な面で、各自それぞれある目標を立てて実践していくとき、その目標を自分個人の目標と思ってはなりません。その目標はいつも主体と対象の共同目標であり、その結果もいつも主体と対象の協同的な価値の結果として追求している、ということを自ら感じなくてはいけません。これはすなわち、私がすることだとしても、それは私一人がすることではなく、そこには必ず神様が介入していらっしゃるという意味です。私一人が動くのではなく、神様が同伴し、動いていらっしゃるということです。

 このように、神様が共に動いていらっしゃるという事実を感じるようになるとき、ここから「体恤信仰」が出発するということを皆さんは知らなければなりません。ゆえに、日常生活においても、無意味に生活するのではなく、意識をもっているある主体がいれば、その主体と自分の考えを平行させて、自分の一日の生活過程が自分に限られた過程ではなく、主体と一つになって共になす過程として感じられなければなりません。そのような立場に立つようになるとき、「体 恤信仰」が始まるということを知らなければなりません。

◆自分の心を神様の方向とどのように一致させるかが問題

 人には心があります。そして、心には心の門、すなわち「心門」があります。また、神様が私たち人間に対するには「時」があります。もちろん、神様はいつでも私たちに対していらっしゃいますが、私たち自身において、神様が私たちに対してくださるその方向の前に、一致させられる心の門をどのようにもってきて合わせるかということが問題です。これは非常に難しい問題だというのです。

 自然を見れば、春夏秋冬があり朝昼晩があるように、人の性格もみな同じではありません。ある人は春の季節に該当し、ある人は夏の季節に該当し、ある人は秋の季節に該当し、ある人は冬の季節に該当します。また、朝のような型の人、昼のような型の人、晩のような型の人、夜のような型の人がいます。顔形を見ても、各種各様です。

 このように姿が各種各様なのは、もって生まれた性質や生い立ちが、みな異なるためです。身を置いている位置が、全部異なった動機からもたらされた人間であるために、その立っている基準に従って私たちの姿も、みな異なってくるのです。それで、人は一つの中心を中心として、春夏秋冬のような立場に立っているというのです。

 また、春の季節と夏の季節の中間型の人や、夏の季節と秋の季節の中間型の人もいます。このように四方を見るとき、人間がそれぞれ立っている位置は、すべて異なります。ゆえに、人間はいつでも中心を基準にして関係を結ばなければならない立場にあるのです。この中心は、絶対的な基準でなければならないので、この基準が私たちの主体的な立場であらざるを得ません。その主体を中心として、主体自身も回りますが、対象である私たち人間も回っていかなければなりません。

 回っていくときにおいて、神様が春の季節のような性稟で私に対したとすれば、私もその性稟に従っていつでも環境的に調節していき、それに相対する立場で合わせることができなければなりません。そのような立場に立つようになれば、必ず体恤的な刺激を感じるようになるのです。私一人でするのでなくて、必ず天運が協助し、私が望まなくても自然にその環境が成されていくのを細胞で感じることができる位置に立つというのです。

◆信仰者が注意すべきこと

 それでは、信仰生活において最も注意しなければならないこととは何でしょうか。あることに対するとき、ささいなことであろうと、大きなことであろうと、事のいかんにかかわらず、個人的に対してはならないということです。言い換えれば、皆さんの心がぴんと張っていなければならないということです。ぱんぱんに空気を入れ、完全に丸くなった鞠のような心の姿勢をもちなさい。ぺしゃんこでなくて、完全にぴんと張った鞠のような心の状態にならなければならないというのです。そのようにしないで、不安な心だとか、あるいは個人の欲望を中心とした邪悪な心をもてば丸い鞠のような心に角が生じます。

 この心が回るときには、平面的に接触しなければならないのですが、角ができると、とがった先の部分から接触します。そうすると、全体を円滑に刺激させるのでなく、全体に反対的な作用をするようになります。そのような立場に身を置けば置くほど、私たちの良心は呵責を受け、良心の基準がだんだん削減されていくということを考えなければなりません。

 それゆえ、常に円満な鞠のような、ぴんと張った心の態度が必要です。そうして、その心に何かの刺激が入ってくれば、心自体が共鳴できなければなりません。固有の振動数が互いに同じ音叉、すなわち二つを置いて、一つを鳴らせば、もう一つはたたかなくてもその音波に刺激され、同じ振動数で鳴るのと同じように、私たちの心も共鳴体となり得る円満な心をもたなければなりません。そうして、常に、一つの主体から伝達されてくる霊的な波動を感知しようと努力しなければなりません。

 そのため、信仰生活をする人には瞑想の時間が必要なのです。良いことを思い描きつつ瞑想をしなさいというのです。瞑想をするときは、心の門を開け放ち、心を丸くして、神様ならば神様を中心として、神様の本性と私の本性が完全に授け受けできるように、春の季節に該当する人であれば春の季節の主体であられる神様と共にその性稟が、完全に共鳴できる心の姿勢をもたなければなりません。このように共鳴した内容を中心として、自分が要求する目的に対するようになるときは、必ず神様が共にあってくださるのです。

 また、そのような共鳴を感じられない立場で、あることに対するようになるときには、このように考えればいいのです。「神様はこのことを望んでいらっしゃる。私と直接的な関係を結んでいることを私は感じることができないが、関係は結んでいる。神様のみ旨がここにある。今は、このみ旨を中心として私が接触する瞬間だ」と考えればいいのです。あることをなすときにおいて、私一人でしていると思ってはいけません。あることならば、そのこと自体を中心として見るときに、そこには必ず神様のみ旨が既にあるというのです。それゆえに、先を行っているそのみ旨に従っていき、そのみ旨との一致点を期さなければならないというのです。私たちの生活を総合してみれば、そうなっているのです。

◆み旨と一致しようとすれば

 それでは、み旨との一致点を期するためには、どのようにしなければならないでしょうか。純潔な心で、そのことを中心として私の心が完全に授け受けできる、完全に共鳴できる生活態度をはぐくんでいかなければなりません。そうすれば、どんなに難しいことであっても、その難しいことが私にとってマイナスとなるのではなく、プラスとなるのです。そうすれば、そのことによって、今まで処してきた立場よりも一段階前進することができるというのです。

 結局は、神様と主体と対象の立場で、心と体が授け受けする感触を感じながらあることに対していくようになるときには、天が従ってきます。このような感触がないときは、神様のみ旨が先にそこに行っているという、そのように実感する感情をもちながら、ある事物に対して事をなす立場に立つようにすれば、そのことには既にみ旨が来ているために、そのみ旨と私が完全に一体となるのです。

 そうして、み旨がここに来ているので、私はそのみ旨を成し遂げる位置に行くという立場で、相対的なことならば、そのことが動機となっていると考えなさい。そうして、私自体がその動機と一体となって、結果をもたらすようになるとき、それが個人的な目的のためのものでなく、公的な目的に結びつくようになれば、そのことをすることによって、生きがいを感じ、力を感じるようになります。そのような人たちは祈祷生活をしなくても、なすこと以上の効果を上げることができるのです。

 私たちが日常生活で接しているものは、おおむねどのように区分されるでしょうか。物に対する対物関係、次に人に対する対人関係、その次に対人関係での言葉を話す関係があるのです。言葉は間接的な目的、すなわち第三の目的のためのものです。

 そうして、物に対する関係において、天法、あるいは神様の前に引っ掛かってはいけない、人に対する関係においても引っ掛かってはいけない、その次に言葉を話す関係においても、その法に引っ掛かってはいけないというのです。

 私たちが物に対するときにおいては、職場生活が起こるようになり、人に対するときにおいては、人倫関係が起こってくるのです。言い換えれば、道徳関係が起こるのです。そして、言葉を話す関係においては、行動問題が起こってくるのです。これが、私たちが生活圏内で関係を結んでいる与件なのです。

◆物にどのように対すべきか

 それでは、信仰者として物に対するとき、どのように接しなければならないのでしょうか。どこまでも公的に対さなければなりません。公的に接するとき、それが十の価値をもっているとすれば、十の価値だけで見るのではなく、それをどのように千万の価値として見るのか、この価値をどのように、より大きく見るのかということが重要です。たとえ、その物の価値が微々たるものであっても、そこに神様が介在していると考えれば、その価値を千万の比重に高めることができるのです。私が愛する物に、神様が関係しているというとき、物の価値は無限な比重をもって現れるというのです。

 そのような心で物に接するようになれば、その物が実に慕わしく感じられます。皆さんの生活圏内や、皆さんの心の世界で感じたことの中にそのような感応が伝わってくるようになるのです。そのような心をもって事をなせば、その結果は必ず自分一人が期待していたものよりも、もっと立体的な価値の内容をもつようになります。

 一つのことや物に対したことで、私に、環境的に大きな価値の結果を感じるようにしてくれたならば、それによって、私が霊的、内的な価値をより高い意味で占めることができるという位置に立つようになるのです。そうすれば、事をなしたのちにも感謝することができるのです。どんなに、大変なことであっても、私がしている苦労よりも、天的に何百倍、何千倍の価値的な結果が現れるという、そのような価値を感じながら行動する人がいるとすれば、それがどんなに難しいとしても、難しいそのことがかえって感謝の対象となるのです。

 自分一人を置いてみても、対人関係において、ある難しいことに追い込まれ被害を受けるとか、言葉にできないような苦役を克服しなければならない受難の道に入り込んだとしても、その受難の道を自分一人で行くと思ってはいけないというのです。その受難の道を無限なる価値の中心である神様と共に歩んでいると思いなさい。そうして、神様が共にあられる受難の道の前に自分が同参したという事実がどんなに大きな価値であるかを感じ、その苦痛の代価よりも感謝の代価のほうがより大きいということを感じるようになるときは、どんな苦痛の道も感謝の道となり、むしろ神様の前に栄光の道となり得るというのです。

 それゆえ、「物」に対するとき、何の考えももたずに接してはいけません。物は私に、プラスでなければマイナスをもたらすようになると思わなければなりません。すなわち、私にとって福となるか、でなければ災いとなるということです。ゆえに現在、十の立場から私がその物に対するとき、十一の価値となるのか九の価値となるのか、すなわち、マイナスをもたらすのかプラスをもたらすのかということを考えて、マイナスとなる立場を避け、プラスとなり得る立場をどのように立てようかと努力しなければなりません。

◆事物は原則を中心として接しなさい

 皆さんがそのような立場を訪ね求めていくようになれば、どんなことに接しても、既に心が知っているというのです。あることや物に接するようになるとき、それが私にプラスとなるのかマイナスとなるのか、一遍に分かるのです。あることをなすときにおいても、私の心とみ旨が、主体と対象が授け受けするところにおいて一体となってこそ、本来の動機、すなわち神様の創造原理に一致する四位基台圏が起こってくるのです。

 そうして、その物が私と、主体と対象の結果に符合するという価値を発見するようになるとき、それは神様の創造目的の結果が得られたことであるために、神様の対象の物として、善の結果をもたらします。

 このような善の結果を私の周囲にたくさん積んでいくほど、私自体においては再創造の過程の場がだんだん広がっていくのです。高まっていくのです。そのような生活をすれば、どんな物に接しても、既にその物自体から私に波長が来ます。その物に、円満な心で、邪心を断って、共鳴する音叉のような心で深刻に対するようになれば、それが良いとか悪いとかという感情がわき出てきます。

 もし、波長が来ないのであれば、公的な立場から邪心を断ち、心を丸いダイヤルのようにして、事であれば事、物であれば物に、さっと対したときの最初の印象や最初に入ってくる感情を通して、その事物に対しなさいというのです。事をなすときにおいても、無意味な立場から行うのではなく、神様が創造するのと同じ気持ちで、真実なる立場から行うのです。

 そうして、生活の中で感じた最初の感情が、何パーセント的中するかということをいつも注視しなければなりません。そのような生活態度を徐々に習慣化させれば、十のことならば、その中で五、六と、このようにだんだんと、その度が高くなっていくのが分かるようになります。これを育てていかなければならないというのです。その度が高くなっていかなければならないのです。その反面、良くない結果が出てきたときは、それはみ旨を共にしなかったためです。

 このように、私たちの周囲にあるすべての事物に対するときには、無意味に対するのではなく、必ず原理原則を中心として対さなければなりません。四位基台の形態の内容を中心として、自己の体 恤的な感情をどのように開発するのかという問題が、非常に重要であるということを皆さんは知らなければなりません。

 皆さんが職場生活で物に対するときにおいてもそうです。その会社の一員として、会社の物は公的な物であるにもかかわらず、いい加減に対すれば、その人は会社にとってマイナスとなる人です。その物は国の物であり、神様の物であると考えれば、紙一枚にもおろそかに対することができません。

 そのようにおろそかにしない心をもって、その代価を追求し、ささいなことから大きなことに至るまで、全体を心情的な体 恤の度を高めるための条件物として取り戻すために努力し、生活的な感情に連結させるために努力するようになれば、生活圏内で必ず神様が共にされるということは忘れようとしても忘れることができないのです。接すれば接するほど、私が接するそのことにおいて、神様が共にいらっしゃるということを実感的に感じることができるのです。

 自分一人で、何の考えもなく歩き回っていては損害を受けやすいのです。その損害が現在の立場より極めて重大になるときは、そこから打撃を受け、落ちていってしまうのです。それゆえに、この体恤信仰の開発のためには、皆さんは常に物に対していい加減に接してはならないというのです。深刻に接しなければならないのです。これを誤ることによって、信仰の道全体が引っ掛かって倒れる可能性がある条件が、そこで成立することもあり得るのです。

 あることをなすときにも、そのようにしなければなりません。例えば、女性たちが針仕事をするとき、そこには自分の夫のためのものとか、愛する人のためのものとか、あるいは望まない人のための針仕事もあるでしょうが、一様に精誠を込めなければなりません。賃金をもらって針仕事をする人も同じです。

 お金をもらうために、あるいは利益を得るためにただ適当に仕事をしていれば、道がふさがれてしまうのです。しかしながら、その仕事も自分のことのように、私の愛する人の服のように真心を込めた心情でするようになれば、その服を着る人がそれに対するとき、「これは良いものだなあ」と言うのです。もし、体恤信仰をする人がいれば、精誠を込めたか、込めなかったかということを一遍に鑑定してしまうというのです。すべての事物を、そのように注意して見なければなりません。

◆体恤信仰を開発する生活

 先生は、皆さんが笑いながら話をするとき、既に感じが全部伝わってきます。その笑いが神様の前にプラスとなる笑いなのか、マイナスとなる笑いなのかという感じが伝わってくるのです。皆さんもそうなることができるよう、習慣化して開発していかなければなりません。それゆえに、自分を中心として成される周囲のすべての要件には、無意味なものは一つもないのです。すべてのことが、私を開発させ、発展させるための一つの教材として登場するのです。そのような生活態度が必要なのです。ゆえに、一人だからといって自分勝手にはできないのです。

 このような生活態度を中心として生活するようになれば、初めて見る人でも、面識のある人でも、誰であってもいい加減に対することはできないのです。初めて見る人だから適当に対すればいいだろうと、このようにしてはならないのです。その人がどんな人なのか分からないではないかというのです。したがって、このようなすべての心情的な基準を中心として、体恤的な環境を開発するようにしなければなりません。そうして、すべてのことにおいて間違いなく効果的な価値を発見し、喜びを感じたとすれば、その人の信仰生活は観念的なものでなく、実質的なものであり、神様と共に生きる信仰生活なのです。

 そのような生活をする人は、どんなに困難な道を歩んだとしてもへたばりません。もし、死の道に行くとしても、その死がみ旨の前に妥当な死か、そうでないかということを既に知ることができるというのです。苦痛を受け、悔しい目に遭うことも、神様が私を蕩減させるためにすることなのか、マイナスにさせるためにすることなのかということを一遍に知ることができるのです。

 どんなにつらい道に行くとしても、それがすべての体 恤的な感情に接して行く道であるならば、なぜか心強く、希望がわき出てくるのです。反対する喚声が高くなればなるほど、それが衝撃となり、刺激となって、私自体の中心が折れてしまうのではなく、それを良い機会にして爆発的な力が作用するようになり、善意の闘争の力がわき上がってくるのです。このようなことを見れば、私が行く道が神様が共にいらっしゃる道であるのか、そうでないのかということを感じで見分けることができなければなりません。

 そうしないと、生活圏内で堕落が起き、失敗が起き、神様の前に裏切りが起こるようになるのです。これは眠る時に起こるのではありません。私たちが目を開けて活動しながら、すべてのことに対する相対的要件を中心として、私が発展することもあり、後退することもあり得るのです。このような関係であるために、この関係をどのように良く調整して天化された結果をもたらすかということを、随時研究しなければなりません。

 物に対するときもそうですが、人に対するときにおいてもそうです。私が人に対するとき、相手の人が私よりも心情基準が低いというときは、私の基準を低く調整して、相手に対さなければなりません。そうでなければ、私が打撃を受けます。

 したがって、皆さんは自分の先入観を捨てて、公正な立場からはかりのような心で、どのような感じが来るのかということを知らなければなりません。自分が中心になるのではなく、感じを中心として、神様を思いつつ進んでいかなければなりません。主体の前に私は対象の立場となるので、良い結果を基準として、発展させようというのが主体の願いであり、相対である私たち人間の願いとなるのです。

 したがって、私の個体が打診した結果を中心として見るのでなく、さっと見ながら最初の感じと共に、その心に照らして見るのです。そうすれば、最初の感じがすぐに来るのです。最初のうちはよく分かりません。ゆえに、それを発展させなければなりません。そうすれば、「ああ、あの人は良い人だ」ということが分かるようになります。皆さんがそのような度数をだんだん高めていくようになれば、一度だけぱっと見ても、心がどんなか、ということがさっと伝わってくるというのです。

 さあ、皆さんの生活過程を分析して、結果を打診しなければなりません。私が感じることは何パーセント合っている、何パーセント間違いないという、このような内的な因縁を皆さんが環境圏内で結んで打診できるようにならなければなりません。そのような結果を測定できる立場に立たなくては、神様が共にいらっしゃるか悪が共にあるのか、分析することができません。したがって、必ずこのような信仰態度が必要です。この道に乗り出すとき、祈祷をしなくてもかまいません。最初の一歩を踏み出すとき、この道がどんな道か、行けば神様が喜ばれる道か、悲しまれる道かが分からなければなりません。最初に感じる感じで、「ああ、これは良い、悪い」と感じられるのです。悪いと感じるときは、行かないのです。これを鑑定できなくてはなりません。ゆえに皆さんは、環境的に体 恤信仰に対することを開発するために努力しなければなりません。

 だから、皆さんが人を見るときも、何気なく見ては駄目なのです。誰それの正常的な表情はこんなふうだ、ということを分析しなさいというのです。それだけでなく、誰それの正常な態度はあんなふうだ、また、正常な声音はあんなふうだ、笑うのも、正常な笑いはあんなふうだ、ということに対して関心をもたなければならないのです。

◆体恤信仰の重要性

 皆さんが指導者になろうとすれば、今後多くの人に接するとき、その人の正常の基準と非正常の基準、言い換えれば、悲しいときの基準とうれしいときの基準を判断できなければなりません。

 正常的な基準を中心として見るとき、上に上がっていくときはうれしく、下に下がっていくときは悲しいということを、目だけ見ても、表情一つだけ見ても、すぐに推し量ることができなければなりません。既に、話し声が正常的なときはこうであり、うれしいときの話し声はあんなふうだ、良くないときは目の色がどんなふうだ、ということを判断できなければなりません。

 話す語調とか抑揚、態度を見て、あの人があんなふうに話す背後には良くない何かがあるということを、神様と共に私が鑑定しなければならないのです。そのようにすれば、二人が会うとき、表情だけ見ても分かるようになるのです。このように、皆さんがさっと鑑定したことを、実験するのと同じように、それが符合するのか、しないのかということを観察してみなければなりません。それがもし符合したと感じるようになるときは、神様が私と共にあられるのは間違いありません。

 それゆえ生活圏内で、私の感情が神様と密着して同化するのか、反対となるのかを予感を通して分析し、私の生活圏内でどのようにすれば良い結果をたくさん残せるかが、信仰者にとって最も重要なのです。過ぎゆく人を見ただけでも分かるのです。

 ゆえに、一番複雑なのが人間です。ある人が教会に来て、祈祷をして座っていれば、その人をぱっと見れば、元気があるなあ、元気がないなあという感じが伝わってくるというのです。このように対人関係においても、その感じが伝わってきて、あることや物に対する感情も伝わってくるのです。また、言葉を話すときにおいても、自分が共鳴体のような立場に立ち、これが破格的か、でなければ穏やかで安らかか、すなわち和合するためのものか、そうでないかということを直ちに測定しなければなりません。同様に、何パーセント直接的な結果をもたらしたかということを分析しなければなりません。このようなことを皆さんが開発すれば、誰でも体恤信仰圏内に入っていくことができます。

 天に引き回されたのち、天が離れてしまえば、へたばってしまうのです。それはなぜそうかというと、体恤的信仰の重要性を知らないからです。信仰というものは生活圏内で、勝利的結果、すなわち生活圏内で神の目的を中心として結果を打診できる価値的な内容が、私が対する前よりも対したのちに、より良い結果として訪ねてくるときは、どんなに迫害が来てもそのまま押し通していくのです。絶対に屈服しません。しかしながら、そのなした結果がマイナスとなるときは、どんなに力を出そうとしても後退するようになります。

 ゆえに、後退する可能性があることは絶対にしてはならないのです。その被害は、どんなに大きいことでしょうか。一度後退したのちには、それを立て直すのがいかに大変か知れません。一度間違いを犯せば、それを補充するのがどんなに大変かということを考えれば、落ちる可能性のある、すなわちマイナスとなる可能性があることは考えることすらしないというのです。そんなものは見ようともしないのです。また、そんな人とは接しようとすることすらしないのです。

 それゆえに、初めて恩恵を受けると、人をよく敬遠するようになります。物にもやたらにあれこれと接することができなくて、単調な物にだけ対するのです。その人が日常的に欲望をもって動く可能性のある物には、絶対に対することができないようにします。そうでない物、すなわち無関心に対していた物にだけ対するようにします。言葉も、自分を弁明しようとする言葉は話さないようにします。

 実際の信仰生活において、霊的な体験はそのように起こるのです。皆さんは、そのような霊的な体験をすることができなくても、生活で感じられる感じを分析する度数を高めていかなければなりません。

 そのような段階に至れば、どんな現象が起こるのでしょうか。三角的な関係から、直接的な結果を打診できることがたくさん起こるのです。すなわち、第三のこととして、私とは何らの関係もないことでも関係を結ぶことによって、計画的ではないのですが、偶然に体 恤的な感情を感じることができる体験をするようになるのです。このように努力するようになれば、第三点のこととして私と関係ないことであっても、ぱっと感じられる感じを通して、関係を結ばなければならないという考えをもつようになります。このように生活圏内において、発展することができる動機をいくらでも見つけることができます。

◆常に喜び、体恤的な感度を広げよ

 また、皆さんが朝、家を出て夕方戻るときには、絶対にマイナスとなって帰ってきてはいけないのです。帰ってくる時は必ず、朝出て行った時よりもうれしい立場、すなわちプラスとなった立場に立てというのです。そうすれば家庭内の不和が起こりません。もし、マイナスとなって帰ってくれば、自分の妻や息子、娘にもマイナスの感じを与えるようになります。それは罪です。善を追求していかなければならない立場から見るとき、このような立場に立つことは善を傷つける立場になるので、これは神様の前に喜びとなれず、悲しみとなります。

 したがって、家を出て、戻ってくる時は、どんなに困難な立場に処していたとしても、必ずその困難を蕩減しておいて、喜びの条件をもって帰ってこなければなりません。もし、職場で悔しく気分の悪いことがあったとしても、それを家に来て解消しようとしてはいけません。その場で解消するか、でなければ別のことに置き換えて、「それ以上の喜びの条件で蕩減した」というようにしてから、家に入っていかなければなりません。

 そうするために、それを補強し得る間接的な自分だけの秘法をもちなさいというのです。道を歩きながら、わざと電信柱に頭をぶつけて、その痛みをもってでも蕩減の条件を掲げなさいというのです。それをもって蕩減を受けたという、悔い改めの祈祷をするのです。そうでなければ子供たちにあげるあめ玉でも買って、子供たちが喜ぶ姿を思い描いて、その喜びをもって家に入っていきなさい。あるいは、歌が好きな人であれば、昔、自分が好きだった春の歌だとか、秋の歌を歌って、きょうの悲しい感情を越え、昔のうれしかった感情を呼び戻して、それを中心として帰っていきなさいというのです。

 家に入ってくれば、妻に対しても、息子、娘に対しても、そのようなうれしい表情と、うれしい心を授け受けしなさい。そうなれば、職場で打撃を受けた悲しみを、完全に越えることができるのです。滅びるしかなかった環境を食い止めることができるというのです。皆さんは一日の全体を中心として、このような生活態度をもたなければなりません。これが一つの作戦となるのです。一日を何気なく生きては駄目です。

 どんなことに対しても同じです。山なら山を見るとき、その山を中心として神様の創造性に対する感じ、美しいとか神秘的だとかいう感じを通して、神様が私という一つの価値をこのように高貴にするために、あんなにも素晴らしい相対的万物を造られたのだなあということを感じ、喜んで、うれしく思いながら神様の前に賛美を返すようになるとき、そこから衝撃的な刺激を感じるのです。

 そのような立場で完全に授け受けすれば、一つとなるので酔いしれるというのです。そして、その中から離れたくなくなるのです。その中で寝転びたく、幼子のような心になって、また父母のような心を感じることができるようになるのです。

 そのような感情は、何でもない自然を見る中でも感じることができるのです。あるいは、流れていく水を見ながらでも、いくらでも思索にふけることができるというのです。

 このような体 恤的な感度を高めていくようになれば、神様が創造しながら感じられた喜びまでも、共鳴して入ってくるようになるのです。それは、何の考えもなく祈祷することよりも勝り得るというのです。ゆえに、皆さんが生活圏内で、このような生活を中心として体恤的な感度を、どのように培養していくのかということが問題です。

 それゆえに、私が相手に対するとき、どのような表情で対さなければならないかを常に考えなくてはなりません。そのように研究していけば、自分がある表情をしたとき、相手に良い印象を与えた、だから私はどのようにしていかなければならない、このように分かるようになるのです。

 私たちが接するすべての万物は、教材です。私たちがこのような霊的な世界の直接的な感応、あるいは間接的な感応を起こすことができ、関係を結ぶことができる対象は、神様の創造物です。この創造物は神様の性相に似て出てきたものであるため、その中には間接的ではありますが、その性相的な要素があります。

 そうして、その中には私たちが必ず関係を結ぶことができる善の要素、内的な性稟があるので、その性稟に従って動き、連結させるための生活を広めていく人がいるとすれば、その人には、どのようなことも支障を与えることができず、マイナスとならないはずです。

 なおかつ、皆さんは蕩減法を知っています。私が中心的な存在になろうとすれば、公的な立場で蕩減しておく環境をたくさんもたなければなりません。そうせずには、中心存在になることはできません。言い換えれば、私がもっているものをたくさん差し出さなければならないというのです。もっているものをたくさん差し出すというのは損害です。それゆえに、私が困難なことを受ける、被害を受けるというときには、蕩減法で消化しなさいというのです。

◆神様の息子になることができる生活態度

 私が善を行うときにおいて、かわいそうな人のためにも与えますが、怨 讐のためにも誠実に与えるのです。それは、どんなにすてきなことでしょうか。ですから、どんな死地に行っても被害を受けないのです。そのような動機の存在は、怨讐になったとしても、公的な立場から消化して越えていくというのです。そのような状況でも怨讐を考えるのでなく、そのような位置を、両面的な価値を占めることができる唯一の位置だと思い、そこから感じられる深い価値を探求しようというのです。

 それゆえに、いかなる受難の道でも、その受難は自分に被害とはなりません。またそれが、引っ掛かれば死地に落ちてさまようかもしれないサタンの罠だとしても、その罠とは何らの関係がなく、むしろサタンが怨讐視する勝利の結果をもたらすことができるというのです。したがって、このような信仰生活をするときには、サタンがどんなに作用したとしても、神様のものとして和解させることができる立場に立つのです。

 神様は悪なる世界にいたとしても、いつも神様の立場をとることができるお方です。いかなる迫害、いかなる困難があったとしても、それらが私自体をへし折ってしまったり、滅ぼしてしまうことはできません。むしろ、勝利の資料として、勝利の結果をもたらしてくれるのです。これは、神様が六千年の復帰歴史を導いてこられながら、サタンがどんなに反対しても、神様はそれを勝利の結果として体得し、消化させてこられたのと同じことです。そのために、これは間違いなく神様の息子となることができるのです。このような生活態度に、皆さんが関係をもって歩んでいかなければなりません。

 物に対するときよりも、人に対するときの感情がより早いのです。ゆえに、人に対しての研究をたくさんしなければなりません。人に対するとき、言葉で表現しなければなりませんが、言葉だけ言っては駄目です。責任を取れない言葉は言ってはなりません。言い換えれば、行うことができない言葉は言ってはいけないということです。

 互いに授け受けする場で、交流し一つの共同目標を追求していくときは、必ず実践されるものと思い、そのように感じ、それが実現したとき、その二人の間では、言って、行ったその結果に対して互いに喜ぶようになります。このようにして結ばれた友達は、同じ霊界に行くようになるとき、「私」も彼についていくことができます。「私」が常にそのような関係を結び、因縁が結ばれたならば、その友達が行った霊界に「私」もついていくことができるというのです。なぜならば、彼が「私」を相手にすることを何よりも好むようになれば、「私」の足りないところを補い喜ぶことができる、主体の前に進み出て相対的位置を決定することができるためです。

 それで、良い師、良い友達を求めるのです。良い師と親しくし、授け受けしながら喜ぶことができる基準にさえなれば、その師がどんなに立派であっても、その師が占有することができる栄光の位置に同参することができるからです。このような体 恤的な環境を発展させていきなさいというのです。

 皆さんが村に入っていけば犬がほえますが、そのほえる声を何も考えないで聞けば、鳴き声はすべて同じです。その「わんわん」とほえる声は同じですが、霊的な雰囲気を中心として、神様が共にあるという立場から聞いてみると、それが千態万状に異なって聞こえます。村でほえるその犬が、金持ちの家の犬なのか、貧乏人の家の犬なのか感じが伝わってくるというのです。滅びる家の犬がほえる声を聞くと、気分が悪くなります。しかし、善なる家の犬がほえる声は良く聞こえ、そのほえる声に酔いしれるようになります。気分が良いというのです。

 また、赤ん坊が泣いても、その赤ん坊が、繁栄する家の赤ん坊かそうでないかということを、そのような習慣的な立場から聞いてみれば、一遍に知ることができるのです。ちらっと聞いてみれば、「ははあ、あの赤ん坊は何で泣いているのだな」と、それが伝わってくるというのです。そのように伝わってくる感じが合っているか確認してみながら体験をすれば、徐々に的中率が高くなっていきます。そのようにして感度を高めていかなければなりません。

◆善悪は生活の中で決定される

 善悪というものは、思いの中で決定されるのではありません。それは生活圏内で決定されます。天国と地獄は皆さんの観念の世界で決定されるのではなく、生活舞台で決定されるのです。これは重要なことです。

 それゆえに、善なるものなのか悪なるものなのかを分別できなくては、天の道を行くことができません。先生が間違いない、ということは間違いありません。このような何かがあってこそ、将来、人が知らない大きなこともすることができるというのです。

 それをどこから育てていくのでしょうか。生活で育てていかなければなりません。体 恤信仰が重要なので、体恤信仰を育てていかなければなりません。そうしようとすれば、自分と関係した人を絶対にそのまま送り返しては駄目なのです。その人に対する前よりも、プラスとなるようにしなければなりません。その人が私を攻撃したとしても、プラスとなったという条件を残しなさいというのです。そうすれば、私はいつでも商売をして、損をせずに利益を残すというのです。こうして、その人が私を利用しようとしていて目的がそれる時には、その人に奪われたものすべてを再び取り返すことができるのです。

 主体と対象が一つとなるときには、その結果は主体と対象のものとなります。神様が主体となり、私が対象となれば、悪なる人に絶対に支配されないというのです。どんなに悪い人がいるとしても、その人の背後には、その人を後援する先祖たちの善なる功績が残っているのです。それゆえに、善は善なりに、悪は悪なりに奪ってくることができます。このようなことが、私たちの生活の背後を中心として起こっているということを、皆さんは知らなければなりません。

◆心を純粋にして最初の感じを見極め心霊を開発せよ

 ゆえに、一日の生活をそのようにし、接することには何気なく対してはいけないのです。それはすべて、天が実際の生活を中心として天国を成すための一つの材料であり、一つの教材として私に接近させてくれるものです。そうであるほど、それを良い結果として昇華させることができる主体的な自我をどのように発見するか、ということに力を注がなければなりません。

 それを発見するためには、皆さんの感じ、その最初の感じを父の前に常に相談し、共鳴体とならなければなりません。心を開け放ち、昼夜を問わず、いつでも天に対することができるそのような基準にさえなれば、必ず霊波が来るというのです。

 私たちはアンテナと同じです。ゆえに、純粋なアンテナのような立場に立って、霊界の波長を感知することができなければなりません。霊界は常に霊的な波長を送信しています。したがって、私が何かのことをするときにおいて、必ず関係を結んでいるので、どんなことが主体と対象の前に、必要な二重目的の価値となるのかならないのかということが、おのずと分かるようになるのです。

 それを皆さんが、最初の感じを通して分析し、発展させることに努力すれば、自然と自分自らが実際の生活に神様を迎えて生きるようになります。観念的な神様でなく、生活的な神様として侍って暮らせば、この険悪なる世の中で初めて、堕落しないで天国に適した人格を完成することができるのです。

 祈祷を通して、神霊の役事を通して、恩恵の基準に行けるかもしれませんが、それは霊界から霊人たちの協助を受けて成されることです。しかし、本来私たち人間は、生命体だとか生霊体を成すようになっています。私自体に霊があるというのです。ゆえに、霊力を中心として霊の作用を開発してさえおけば、霊人たちが指導してくれなくても、私自体の生霊体において感知することができる能力が生まれてくるのです。

 このようにある基準にまで達するようになれば、神様が悲しまれるとき、私にも形容することができない悲しみが伝わってきます。ある人に会ってから別れて送るとき、言葉に表せない悲しみを感じるようになれば、その人の行く道は、祭物の道でなければ、神様が哀れまれる道です。二つのうちの一つの道であることに間違いありません。そのようなことを実際に感じ、生活圏内で刺激を受けることができる立場に立った人であってこそ、体 恤的な人です。

 それゆえに、体恤信仰というものは霊界から協助してするというよりも、生活圏内で鑑定し、発展させていかなければなりません。自分が被害を受けることなく前進的な信仰過程と生活過程を具備できる人は、間違いなく神様が共にあらざるを得ません。そのように発展した人には、教えてあげれば間違いないので、その人が願わなくても神様が訪ねてこられるのです。

 その反面、祈祷だけして行動できない人には、神様が訪ねてこられても、また離れていくのです。それゆえに、体恤的信仰の基盤を私たちの生活圏内で立てることが、何よりも重要であるということを知らなければなりません。

















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