文鮮明先生のみ言集
訓教経(下)


真の人々

一九七一年二月十一日
韓国の麻浦教会 『文鮮明先生み言選集第四十巻』


 きょう、この時間にお話しする内容は「真の人々」という主題です。

◆人々は自分を中心として善し悪しを判断する

 世界中のすべての人々は誰彼を問わず、個人を中心として見ても、全体を中心として見ても、自分を尊重視しないで生きている人は一人もいません。良かったり悪かったり、悲しかったりうれしかったりするような事情を語るとき、第三者を中心として語る人はいません。

 「良い」と言うとき、その中心は誰かと言えば、自分自身なのです。あるいは「悲しい」と言うときも、その中心は誰かといえば、あくまでも自分自身だというのです。その自分というものがいつも主体となり、自分の生涯における幸か不幸かを左右しているのです。このような問題について考えてみるとき、その「自分」という位置が正しい所に立ったならば良いのですが、そうでなく誤った所に立って「良い」とか「悪い」とか言うのであれば、その一生は悲惨なものになるしかないのです。

 もし、歴史的なある「善」があって、悪を批判することができ、真実でないものを除去することができるとするなら、その力は、真実でないものは受け入れないで、除去する作用をするはずです。自分を中心とした主体的な立場で善し悪しの判断を下す立場にあるときは、「真」を擁護できる宇宙的な力は、自分に平安をもたらすのではなく、むしろ反対であり、相反する力として作用するでしょう。

 人間は自分が「良し」とする場に立つようになるとき、「良し」とするその場が真の意味で良い所なのか、そうでなければ悪い所なのかという問題については考えません。ただ、自分自身を中心として一日を生活するとき、すべての人々が日常的に考えるのと同様に「このようなことは、こういう時に良いのであり、あのような時には悪いのだ」と、漠然と判断する立場にあるというのです。しかし、このように漠然とした主体性をもって判断してはならないのです。

 私は、ある位置関係の中心にいます。ある社会団体ならば社会団体も、必ずある中心に侍り、関係をもった環境が連結されて、一つの社会団体を形成しています。国家の一つの中心に侍る国民たちは誰もが、ある地域ならば地域、ある環境ならば環境で、その位置と置かれている立場を必ず設定しているのです。

 その中心を基準として、それが南の方なのか、西の方なのか、あるいは東の方なのか、北の方なのかという方向があるでしょうし、その次には、それが中央からどれほどの距離に位置しているのかという問題が必ず設定されているでしょう。そうしてこそ、そこで自分が主体と関係を結ぶとき、その関係が正しい関係となることができ、四方が公認する関係となることができるのです。

 私たち人間自体について見るときにも、私自体が中心的な立場で一日一日の生活を営む中にあって、良いこと悪いこと、あるいは善なること悪なることを批判しているのです。このような立場で考えてみるとき、今日、ある「真なる中心」があるとするならば、その中心に対して私がどんな方向と内容を中心として良い悪いと判断しなければならないのでしょうか。これは、簡単な問題ではありません。

◆真の人の標準

 自分が国家に代わる中心的な立場で、真なる姿で主体性をもっているという自信をもって自らを判断するとしても、それがその国において果たして「真なる中心」となることができるのかということも問題になるのです。さらには、世界を中心として見るとき、世界には数多くの国があります。数多くの国家は経てきた歴史が異なるため、形成された文化や環境が異なりますが、各々その国家の環境を中心とする主権者がいます。しかし、その主権者がその国を代表しているからといって、彼がその国の「真なる中心」となるのかというとき、それもそのように認めることはできないのです。このように個々の国家を中心として見ても、その一人の主権者を真なる中心存在であると認めることができないとすると、今日、全世界について見るときも同じなのです。

 私たちの人生を中心として、「真なる中心」になり得るのは、どのような人なのかと考えるとき、私たちが現在常識として知っている世界的に有名な人、あるいはある学問的な分野において世界的な権威をもった人だといっても、彼が本当の意味で「真なる人」なのかと考えるとき、これも問題になるのです。天と地において真なる人生として「これが正しい、これが間違っている」という一つの標準的で、中心的でまた価値的な存在は、どのような存在なのかと考えてみるとき、これは深刻な問題なのです。

 ある学校の学生たちの中で、最も真なる学生は誰だというとき、それはあくまでもその学校での話なのです。その学校について見るとき、そこには過去もあり、未来もあります。それなら、その学校で現在最も真であるという学生が、過去も代表することができるのでしょうか。現在の数多くの学校の学生たちの中で、最上を行く中心となることができるでしょうか。ひいては、未来の数多くの学生たちの前に中心になることができるだろうかという問題について考えてみるとき、自信をもつことができないのです。

 また、ある人に対して、「あの人は私たちの村だけでなく、我が国の誰であっても真なる人であると認めることができる」と言うとき、果たしてその人が、過去を代表することができるのか、現在を代表することができるのか、また未来を代表することができるのか、という問題につながっていくのです。

 それでは、一つの真なる主体になろうとするならば、どのようにしなければならないでしょうか。きょう一日だけ主体となることを願う人は誰もいません。真なる主体というのは、きょうだけでなくあすも変わることがなく、未来と連結することにおいても相反したり、遮られたりすることがあってはなりません。真なる存在とは、今日の現実を代表しても真とならなければならず、未来を代表しても真にならなければなりません。ここでいう未来とは、時間的な限界を超えて無限の世界までを指しています。

 このような問題について考えるとき、私たち人間が真になるというのは、どこに標準をおいて言う言葉なのでしょうか。それ自体も私たちは知らなければなりません。今、世界には数十億の人類が生きています。そして、各国ごとに主権者がいます。その主権者の中で、数十億の人類全体を代表できる真の主権者は誰でしょうか。主権者というのは、その国の民族性によって異なります。その国が通過してきた歴史過程、その国の文化的背景や、風習や、環境によって主権者の立場が変わってくるのです。その主権者が唱える政策とか、思想的な方向が歴史の発展とともに変化するというのです。このような漸進的な発展現象を私たちは、歴史過程の中に探し出すことができます。

◆人間の感情は時間と環境の変化によって変わる

 私たち人間は誰でも、真なる人になることを願っています。皆さんは良心の呵責がなければ、誰に対しても堂々とした態度をもって接するようになります。「私が何を間違ったのか」と言って、堂々とその環境において自らの立場を主張するのです。自分の立場を否定すれば、否定するその条件と闘うのです。それでは、そのような立場で主張するその場が、果たして歴史が保障し、時代が保障し、未来が立証できる真なる立場であるのか、という問題になってくるのです。

 一日に関していえば、朝があって、昼があって、夕方があって、夜があります。ところが、朝の気分と、昼の気分と、夕方の気分と、夜の気分は異なります。その人自体は同じであるのに、感じる感情は変化するのです。

 太陽が朝、東の空に昇るとき、その光明な光を眺める気分は、夕陽を眺める時の気分とは違います。その時の自分の心と、自分のすべての感情は、その太陽とともに変化していくのです。自分自体は変わらず、また私の姿は変化することはないけれども、環境の変化によって自分の感情が変化することを感じるようになります。

 昼ならば昼を中心として異なり、夕方ならば夕方を中心として異なり、夜ならば夜を中心として異なります。また、普通の環境で感じる感情と、名勝地に行って感じる感情とは、異なるのです。あるいは山頂で感じる感情、山の谷間で感じる感情、平地で感じる感情、荒野で感じる感情は異なります。

 このようなことから、自分を中心として絶対視し、良い悪いを判断することのできる主体性を主張したがるその人が立っている場所と、その根がどこにあるのかということが問題になるのです。

 人が、今日のこの時代に生きているといって、突然、飛躍的な存在として生まれたのではありません。そこには必ず歴史性があるのです。それは否定することはできません。過去から歴史性を帯び、きょう現在の自分という存在が形成されたのです。自分という存在について考えるとき、ここには必ず自分と関係している世界があるのですが、その世界を抜け出すことはできません。さらには、その因縁をもつ世界を否定することはできません。

 「私」という存在は、必ず父母の因縁に従っていくようになります。また、私を中心として見るとき、ここには親戚が連結されています。兄弟の因縁を中心として、親戚という縁が形成されているというのです。その因縁を広げていくとき、それが一つの氏族となり、民族となり、国家となり、またもっと広げていくと世界になるということを知らなければなりません。

 それで自分を主張するときは、そういう因縁を否定し、そういう関係を否定する立場で主張するのではなく、その因縁と関係のある席上で主張しなければなりません。

◆千態万状の人間の考え

 善なるものとは何であり、悪なるものとは何であるのかという問題を考えるとき、「善とは何であり、悪とは何であるかなど知って何になる。そんなことは宗教家たちが言うことではないか」と言う人々がいるでしょう。また、「今晩先生が語られる話も同じだろう。どうせ、ほかの牧師の話も同じだ」と話す人もいるかもしれません。

 ところで、人間にはどうして善だけが必要であり、悪は必要ないのかということが問題となります。皆さんが生活習性として知っているように、「泣くことが好きな人がいれば、手を挙げてみなさい」と言えば、「そんなことを尋ねる必要があるのか。そんなこと尋ねるなんて、おかしな人だ」と言うでしょう。ただ顔をしかめて「ああ、自分は死んでしまう」と言いながら生きるのが好きな人がいるのかというとき、そのようなことを好む人は一人もいないのです。しかし、「笑って歌いながら暮らすのが好きな人は手を挙げなさい」と言えば、「手を挙げるな」と言っても挙げるようになっているのです。

 それでは、どうして泣くのは悪く、笑うのは良いのかという問題を考えてみるとき、これは千態万状なのです。甲という人は秋の冷たい風が吹いて何だか物寂しいとき、前庭の柿の木に柿が黄色く熟し、葉も黄色く紅葉していてその風景と交わるとき、冷たい風が吹いて柿の木の葉がばらばらと落ちれば、それを見ても涙を流すというのです。それを見て悲しむ人や、心が痛み涙する人がいるというのです。

 神様は詩的感情が豊かで、人間に柿の葉が落ちるのを見て、人生のわびしさを考えてみるように意図されたのです。「人生とは、最後になればあの落葉のように散っていくのだなあ」と言って人生の無常を感じて涙を流す人と、自分の我を通して夫から殴られ痛くて泣く人とでは、千態万状の差があるのです。

 夫にむちで打たれて泣くのにも、千態万状の差があります。夫人たちの中には、夫から打たれて泣きながら「ああ、悔しくて死にそうだ。私はこんな目に遭うために嫁に来たのか」と言う人もいるでしょうし、その反面、むちで打たれながらも「自分はそれでもかまわないけれど、あなたは私にこのようなことをしてうれしいはずがないでしょう」と言いながら、夫のために同情の涙を流す人もいるでしょう。このように、涙を流すのにも種類が異なるのです。

 例えば、三日間飢えるしかない、とてもわびしくて、貧しくて、かわいそうな家庭があるとしましょう。食べる物がなくて、三日間も食べないでいなければならない立場は、どれほど哀れでしょうか。その家庭には息子もいるでしょうし、父親もいるでしょうし、母親もいるでしょうし、孫もいるでしょう。十人家族であれば、十人全員が三日間飢えたのですから、不幸の中の不幸であると感じるでしょう。そうかといって、その家族が三日間だけ食べないでいればどうにかなるという希望があるわけでもなく、そのまま死んでしまうかもしれないとしたら、どうでしょうか。どうすることもできないでしょう。

 しかし、そこでも涙の色が、家族ごとに全部異なるのです。修養をたくさん積んだおじいさんは、「自分が八十余年の生涯で、腹のすいた人の事情が分からなかったけれど、このように三日間御飯を食べることのできない境遇に立ってみて、人生にこのような谷間もあるんだな。ああ、本当に良い教訓を体験した」と言いながら、そのような立場でも立派な考え方をすることもあるでしょう。

 そうかと思えば、おばあさんはそのようなおじいさんを見て、「このじいさん、気が狂ったのか。食べる物がなくて死にそうなのに、黙って座って何を空想しているの」と言って、大騒ぎをするかもしれません。また、その他の家族たちも、各自いろいろな思いをするはずです。

 その十人すべてを並べると、そこには世界的な思いがみな開かれるのです。おなかがすいたというのはみな同じ事情なのですが、その内的な深さや、模様や、事情は十人十色です。

 外形的に見るときは、全員が涙を流して嘆きと絶望の中で、今や最後の時だと号泣しなければならないような事情であるけれども、ある人はかえって、そこで人生の深い谷間の味、人情の深い因縁を見つけることのできる一つの良いチャンスだと考えるでしょう。普通の社会では発見することのできない深い情緒的な流れが、ここで根を下ろせる唯一の貴いチャンスとして消化する契機になるかもしれません。

 しかし自分がそのような立場にあるときに、「生きていられない」と言って身もだえし、それを呪いと恨みのもとだと考え、忌み嫌う人もいるでしょう。このように千態万状だというのです。

◆真の本質

 それでは、真なる人とはどのような人でしょうか。真というのは、流れる水辺にあるものではないということを皆さんは知らなければなりません。水がどんなに勢いよく流れているとしても、磐石の角を一瞬にして丸くするようなことはできません。千年の間ずっと水が流れ続けて、角が削られて丸くなるかもしれませんが、一日にして丸くなるのではないというのです。

 「流れる水と磐石のうち、どちらになるか」と皆さんに聞いたならば、「磐石になる」とは答えても、「流れる水になる」と答える人は誰もいないでしょう。磐石がなぜ良いのですか。揺れることがなく、変わらないからなのです。どんなに歳月が過ぎても変わることがないからなのです。このように考えてみるとき、貴くて良いのはどちらでしょうか。一度良ければそれが流れてしまうのではなく、永続するのです。永遠に持続することを願うのが、人間が願う「真なる幸福」なのです。

 私たちは誰でも、真なる人になることを願っています。ところがその真の人になろうとする思いは、最初から出発したのでしょうか、あるいは中間ぐらいから出発したのでしょうか。または、一番最後に出発したのでしょうか。それを探してみようというのです。私が真の人になろうとする前に、まずは真の人を探してみようというのです。

 歴史時代の中における真の人とは誰なのかと探していくときに、今日という現在だけで探すことはできません。今日は歴史の産物です。過去の真の人とは誰だったでしょうか。また今日の真の人とは誰でしょうか。そして、未来の真の人として残り得る人は誰でしょうか。それらを知らずして、真の人になることができますか。それを知らない人は、どんなに「真の人だ」と主張しても、真の人にはなれないのです。「未来の真の人はこうでなければならない」と言うことができなければならないのです。

 真とは、地域的な条件によって変わったり、環境的な支配を受けるものではありません。それで人々は、金や純金を好むのです。皆さんも純金が好きではないですか。黄金の塊が好きではないですか。金の中でも純金を好むというのです。なぜ純金を好むのでしょうか。それは、環境に支配を受けない超越的な価値をもっているからなのです。過去、現在、未来の環境に支配を受けない超越的な所にあるというのです。過去にもそうであり、現在にもそうで、未来にもそうだというのです。悲しい人が見たとしても、その輝きであり、うれしい人が見ても、その輝きは変わらないのです。昼でも夜でも、変わることがありません。

 「真」であるということは、その属性を追求してみるとき、まず変化してはいけません。変化するものは宝物となることはできません。人造のダイヤモンドと本物のダイヤモンドを比較してみれば、むしろ人造ダイヤモンドが傷もなく、ひびも入っていない場合があります。それでその場では、人造のダイヤモンドのほうがより人気があるのです。しかし、それは時によって変色することがあり、形が変わることがあるのです。しかし、本物のダイヤモンドはそうではありません。環境の条件に支配を受けない、超越的な内容をもっています。

 それで、真の本質を打診するとき、まず変わるものであってはならないのです。その次に、「真」のというのは、どんなに真であるとしても、それが一年ぐらいすればなくなるとしたならどうでしょうか。真の本質には、必ず不変性とともに永遠性がなければなりません。不変性もなければなりませんが、永遠性もなければならないのです。

 また、その次には唯一性がなければなりません。言い換えれば、絶対的でなければならないというのです。絶対的とはどのようなことでしょうか。それだけが主体であるということなのです。それだけが主体であるというのは、どういう意味でしょうか。すべての比較の源泉になり得るということです。言い換えると、正しいとか間違っているということを判断することのできる、決定的な立場であるということなのです。そうではないですか。純金を標準として、偽りの金に純金が何パーセントだと言うではないですか。それだけがもっている場は、二つではなく一つなのです。

 「原器」というものは、フランスの国際度量衡局にたった一つしかありません。世界の数多くの国家で、長さや距離を測定するある道具を作り、「自分の物が良い」とどんなに大声を張り上げて言っても、それをメートルの原器で鑑定したとき、何千分の一、何万分の一でも違っていれば、それは偽物だというのです。「そのくらいかまわないのではないか」と考えるかもしれませんが、厳格に問い詰めれば、何億万分の一でなく、何十億万分の一だけでも違っていれば、それは偽物だというのです。

◆幸福の基準

 それでは、統一教会自体も、真の人、真の宗教人として結びついているか、どうかが問題です。それゆえ、真とは何であるのかをはっきりと知らなければなりません。「真の人」とは、どのような人でしょうか。今日この地上でどんなに優秀な人であったとしても、すべて信じることはできません。世界的な技術者がいるといっても、彼はその分野においては専門家かもしれませんが、人間全体を代表した中心的価値と比較してみるとき、中心となることはできません。「真だ」と言うことができないのです。

 こういう観点で、過去、現在、未来を統合し、真に近い人を推測して見るとき、偉人は真の人となることはできません。聖人は、それでも次元が高く、真の人の部類に入れるだけのことはあります。なぜですか。その人々の主張は、世界的だからです。良い人生を送るとしても、自分だけがそのように生きるのではなく、世界全体が一緒に良い人生を送ろう、幸福に生きるとしても、全体が幸福に生きようというものなのです。

 全体が幸福になろうというときに、自分はじっとしていて、他の人々が幸福になったなら、その時にこっそり入って幸福になろうというような人ではないのです。受動的な人ではないのです。全体が幸福になるにおいて、自分が主導的な役割を果たそうという人なのです。そのために、自らの生命をその目的に投入し、生死を懸けていった人々が、聖人であるということを皆さんは知らなければなりません。

 見てください。ソクラテスは聖人の部類に入っていますか。ソクラテスは、「哲人である」とは言い得ても、聖人にはなり得ません。彼は、「知識と知恵の王子」とは言えるかもしれませんが、「生命の王子である」とは言えないのです。知識と生命とは、別個の問題なのです。今日、知識面において唯物論で生命の価値の有無を主張する部類がありますが、そのような主張は過ぎ去っていくのです。審判を受けなければならない内容なのです。

 今日は、知識を中心としてすべての人を判断するでしょう。大学の総長であれば一番である、というようにです。今後は、知識の比重を中心として人間を判断する時代は過ぎ去っていくのです。それでは、何が貴いのですか。人間にとっては、生命が最も貴いのです。生命が脅威を受けるようになるときが、最も不幸なのです。そのような不幸の場から解放されるときが、最もうれしいのです。

 幸福の基準には、何が左右するのですか。皆さん、知識だと答える人がいますか。幸福の主軸は生命が左右するのです。生命が、より価値的な内容をもっているというのです。その生命の価値が、国と民族を超えて、世界人類を超えるようになれば、その人は聖人となるのです。そのように考えてみると、聖人の中に博士という人はいないのです。そうではありませんか。聖人は、「博士」という言葉すら知らないのです。

 聖人たちは、人ゆえに死んだのであって、知識ゆえに死んだのではありません。それは間違いありません。国のために死んだのではありません。ある国を懸けて死ぬのではなく、真の人間を懸けて死ぬというのです。そのことを皆さんは知らなければなりません。真の人間を懸けて死ぬのですが、真の人間の知識を懸けて死ぬのではなく、真の人間の生命を懸けて死ぬというのです。聖人は、それが違うのです。

◆聖人の道理

 聖人は、何について主張したのでしょうか。聖人が強調した内容は、知識ではありません。より価値があり、より甲斐のある生命を中心とし、国家的ではなく、世界的な宇宙を主管することのできる超環境的な生命の価値を描きながら、それを実践したのです。周囲の環境の中で生命を失うかもしれない中で、世界的な国家を願い死んでいったならば、その人は聖人となることができるのです。

 したがって、ソクラテスは聖人の部類には入らないのです。今日の思潮は、何が動かしているのですか。哲学が動かしています。しかし、哲学は生命とは関係がありません。皆さんは、それを知らなければなりません。哲学は、生命を左右できる根源的な立場にはなれません。生命の対象的な立場に立つことのできる知識の起源にはなるけれども、生命の内容を決定することのできる存在にはなり得ないのです。したがって、哲学は生命を救うことができないという結論を下すことができるのです。

 それでは、聖人たちは何をもって生きたのでしょうか。何かの知識をもって生きたのではありません。もちろん知識を教えてはくれました。人生の道理の一面を教えてはくれましたが、その内容は異なります。

 知識は、知れば知るほど占領していくのです。今日の西欧哲学は、占領的な哲学です。知れば知るほど占領していくというのです。たくさん知れば知るほど自分を超えて、その版図を世界化させようとするのです。何を中心としてですか。自分を中心としてです。

 「世界のための道を追っていく」と言いますが、それはどこまでも自分自身を中心としてなのです。それゆえ、その結果は必ず唯物思想に結集してしまうのです。自分が中心だというのです。哲学は、人生の生命問題を根本的に解決できないために、対象的な価値には属するかもしれませんが、根本的な決定要因にはなり得ないのです。

 聖人たちは、そのようなことを知っていたために知識を追求しませんでした。知識を探求しなかったのです。知識を探求したとしても、平面的なことだけなく、一方的なことだけでなく、両面的な面で探求しようとしました。

 それゆえ聖人の道理は、自分が中心となってはいません。ところが、哲学は何が中心になっているのでしょうか。学(学問)ですが、その学を主張する人を中心としています。これが問題です。聖人は主張はしますが、主張するその人が中心ではないのです。これが違います。

 哲学というのは、主張した人が、いつも問題になるのです。マルクス主義であれば、マルクス主義を主張した人が、主動的な役割をするのです。その思想圏内に全体を融合させるために、世界へと発展させて出ていくのです。そこでは、中心は誰かといえば、人間なのです。人間を中心とした環境的な内容を結束させるにおいて、内在的な作用をするものが、今日の哲学思潮です。

 しかし、聖人の道理はそうではありません。聖人の道理の中心は、人ではなく神様なのです。ここが違うのです。したがって、神様を紹介することのできない人は、聖人の隊列に入ることはできないのです。

 したがって、皆さんは聖人と哲人がどのような人であるのかをはっきりと知り、区別することができなければなりません。哲人は、人間の五官を中心として、本体論や認識論を主張しながら今まで来ました。それはすべて、人間を中心として話していることであり、人間の限界点を超えることはできないのです。

 孔子の教えを見れば、漠然とではありますが、天を中心として教えています。「善のために生きる者は、天が福をもってこれに報い、不善のために生きる者は、天が 禍 をもってこれに報いる」と教えています。この言葉は、善なることをする者には、天が福でそれに報い、悪事を働く者には、天が災難でこれに報いるという意味です。天が介在しているというのです。しかし、具体的なものではありません。具体的な時代に、具体的な神の摂理を追求できる時が来れば、具体的でないものはみな過ぎ去るようになります。

 釈迦も漠然とではありますが、天学に対する膨大な内容を紹介しました。イスラム教は、総合宗教です。それもやはり天を中心として、神様を中心として出てきたものです。イエス様もやはり、神様を中心として来られたのです。彼の教えは、神様を抜きにはしませんでした。ここが違うのです。その教えの中心は人倫ではありません。天倫を中心として道を広めようとしてきたのです。

 では、「天」とは何でしょうか。天を中心として教えて進めば聖人となるのですが、その聖人の道理は何に従おうとするのでしょうか。人意の道理に従おうとするのではなく、天意の道理に従おうとするのです。

 それでは、絶対的な神様がいるとすれば、その神様が願うみ旨とは何でしょうか。一つの国だけを救うことでしょうか。そうではないのです。そのみ旨は世界的なものです。それゆえ聖人の教えは、世界的でなくてはならないという結論が出てくるのです。

 このような観点で、宗教人は天倫を中心として歩まなければなりません。皆さんが知っているように、人倫と天倫があります。人倫道徳という問題は重要ではありますが、物質だけでは駄目なのです。人倫があれば人情があり、天倫があれば天情がなければなりません。

◆幸福は情緒を離れてはあり得ない

 幸福は、情緒的な分野を離れてはあり得ないのです。幸福とは、相対的な事柄を尊重する場でのみ味わえるものであり、独りでは幸福を味わうことはできません。「ああ、私は百万長者であるから独りであっても幸せだ」などと言う人は、狂った人です。必ず情緒的立場を議論することのできる相対条件が必要です。自分が天下を得たとしても、どんなに文化的な生活をしたとしても、必ず相対的要件を中心として、情緒的な感情が通じてこそ価値があるのです。もっている物がどれほど多いとしても、そこに情緒的な内容が欠如していたとすると、それは価値がないのです。流れていってしまうのです。

 それゆえ、人倫道徳にも情緒的な問題がなければなりません。今日人倫を中心として見るとき、私たちは人情の内容をくまなく感じ、感知することのできる環境に生きていますが、人倫の根本というのは人情ではありません。人情が根本ではないのです。情の動機は、人の中にあるのではありません。

 私という存在は、あくまでも結果なのです。その動機とは何であるかと言えば、天なのです。天倫が人倫の動機となり、天情が人情の動機となるのです。ところが、天情について教えてくれた聖人は、多くありません。それゆえ、天を中心として情緒的な問題を教えてくれた内容いかんによって、聖人の価値を決定することができるのです。

 皆さん、幸福な人とはどんな人なのかを考えてみましょう。男性がいれば必ず女性がいなければなりません。それは絶対的です。夫婦がいれば、息子、娘がいなければなりません。それでこそ、人倫を中心とした道徳観念が生まれてくるのです。道徳観念というのは、一人で成立することはありません。前後、左右、上下の因縁を結んでいくとき、道徳観念が成立するのです。

 ある老夫婦がいるとすると、「私たち二人は仲睦まじく出会ったのだから、二人だけで仲睦まじく生きて死んでいったらいい」。そうですか。それでは滅びてしまうのです。そのようにして死ぬのであれば、自らの未来を考えて、しくしくと涙を流すことになります。ですから、息子、娘がいなければなりません。何人ぐらいいなければなりませんか。「息子、娘が多ければ何だと言うのだ。息子一人に、娘一人で十分だ」と、そのように考えますか。それとも、大勢いるのがいいですか。

 木に枝が多いのがいいのですか。それとも、少ないのがいいのですか。良い材木を手に入れようとするのに、枝が少ない木から良い材木が得られると思いますか。枝が多いほど材木が得られる確率が高くなるのです。

 ところが、今私たちの生活が苦しいから、仕方なく息子、娘を少しだけ生もうというのです。食べる物が天地の間にたっぷりとあれば、息子、娘を大勢もちたいと思うのが人間の欲なのです。「そうでない」と言えば、うそになります。それは結局、どういう話なのかといえば、多いのが良いということなのです。

 それゆえ、人倫を中心として見るとき、人情というのは一人で成立するものではないということです。人情というものは、前後、左右、上下の関係で、同僚も多くなければならないし、豊かな情緒的基礎がなければならないのです。それでこそ「幸福だ」と言えます。

◆天情を教えてくれたイエス様

 それでは、人倫と人情だけでよいのでしょうか。駄目です。そのため、聖人たちは天倫について教えてくれたのです。その次には、天情について教えてくれたのです。ところで、今まで生まれて死んでいった聖人たちの中で、天情を教えてくれた人は多くありません。唯一、イエス・キリストだけが天情を教えてくれました。

 イエス様は、三十代の青年になるまで大工の助手をしていました。服を着たとしても、皆さんの着ているような服を着ていたと思いますか。麻や木綿の布地で作ったユダヤの国の服を着ていたことでしょう。そのような青年の身分でした。皆さんはよく知らないでしょうが、イエス様の両親がイエス様をかわいがって育てたと思いますか。義父のひざ元で育ったということを皆さんは考えなければなりません。イエス様は、義父のもとで大工の助手として働きながら、哀れな状況のもとで育ったというのです。三十歳まで結婚することもできなかったのですから、どんなに哀れなことでしょうか。

 しかし、イエス様はとても肝っ玉の大きい方でした。多くのことを考えてこられた方です。「私は今後何をすべきなのか」と考えたのです。その答えは、世界で一番の人の花婿にならなければ、息子になろうということでした。その考えは、素晴らしくありませんか。皆さんも、できないからそうですが、現在の大統領の姪の花婿になっただけでも大騒ぎするでしょう。

 その国の主権者と、情緒的に最も近い立場に立とうとするのが民衆の欲望です。そのようなことを考えるとき、イエス様も天宙の大主宰であられ、天地で最も立派な方があれば、その方を他の人に譲歩することはできないと考えたのです。

◆真の起源と真の人

 もし、ここに年を取った人と、若い人の二人が座って、お互いに自分が真の人であると言い合いをしたとしましょう。私たち人間の立場で見ると、同じ値であるならば年齢の多い人を真の人として迎えなければならないのです。

 しかし、真なる人の顔を一日でも長く見たいと願うのに、年齢が高い人は早く死ぬので困ると条件をつけるときには、若い人であってもいくらでも迎えられるでしょう。仕事をしても若い人がより長く仕事をするという理由で、若い人を迎える要因もあるのです。このように考えてみることもできるのです。

 では、どこから真が出発しなければならないでしょうか。絶対的な神様から出発しなければなりません。絶対的な神様を中心として、天倫を中心とし、人倫の内容を提示した天情と人情が対面できる結合点を見つけなければならないのです。その場は、神様が喜ぶことができ、私たち人間が喜ぶことができる場なのです。その場を探して出会うようになるときには、人間の幸福であり、神様の幸福となるというのです。したがって、天意と人意が合わさって、天倫と人倫が合わさって、天情と人情が合わさる時にだけ、すべてが決定されるのです。

 それでは、真の人とはどのような人でしょうか。真の人は、唯一の神様を自分のものとして完全に占領した人です。神様は絶対者であられるので、神様を完全に占領するようになれば、絶対者にはなることができなくとも、相対的な絶対者にはなることはできるのです。

 「神様は絶対者である」と言いますが、神様御自身も一人では喜ぶことはできません。どんなに天下をすべて手に入れたとしても、一人「ほほほ……」と笑うことができるでしょうか。

 皆さん、世界で一番の大統領が部屋に一人座って、誰もいないのに笑っていたとすれば、何と言うでしょうか。しかし、小さな写真一枚でも、それを眺めて笑うならば、誰も何を言うこともできないのです。このように、相手があれば無限の価値を決定することができるけれども、相手がなければ何にもならないのです。神様も相手が必要なのです。ところが、神様が必要とする相手とは誰なのかといえば、人間しかいないのです。

 それでは、神様が人間に対して何をしようというのでしょうか。ただ眺めてばかりいるのではなく、一緒に暮らそうというのです。暮らすにおいては、愛しながら暮らそうというのです。そのようになれば、神様は父になり、私は息子になるのです。

 このような観点から見るとき、真の人とはどのような人でしょうか。歴史始まって以来、神様を完全に占領した人です。孔子、釈迦、イエス様のような方々も、神様を占領しようとしている途中で死んでいきました。完全に占領することはできませんでした。内容を発表しようとはしましたが、実践はみなできませんでした。完全に実践をして「こうだ」と言えるところまで行ったならば、真の人になるのです。

 それでは、神様だけ完全に占領すれば、それで終わるのでしょうか。違います。神様を占領するだけでなく、神様の中にあるたった一つしかない愛まで完全に占領しなければなりません。そののちに、人情と天情を自分の一身で結束させなければなりません。そのような人だけが、真の人間になれるのです。

 ところが、人間の間だけで真の人であると判定した人についていくとすれば、神様を占領でき、神様の愛を自分のものにすることができるでしょうか。できないのです。それを超えて神様を占領し、神様の愛を占領できる人であってこそ、真の人なのです。

◆真の人と天国建設

 皆さん、蜂が蜜の味を知ったならば、どのようになるのか知っていますか。蜂は、冬には、うまくいっても砂糖水しか口にできません。ところが、雪解けの時が過ぎて、春に蜜の味を知るようになると、どんなにしりをつかんで引っ張っても離れません。昆虫もそうなのに、ましてや神様の愛を中心として死ぬか生きるかという局面に、誰かが命を奪っていこうとしても、分かると思いますか。そのような見事な道があるのです。

 皆さんは愛し合うとき、三人ではなく、二人だけでいるのを願うでしょう。そのため、神様が私の心にいらっしゃり、私とは内外関係であるというのです。私たちの体は、神様の家なのです。

 このように考えてみるとき、人間の先祖アダムとエバとは、どのような人なのでしょうか。体をもった神様なのです。その心に、神様がいらっしゃるというのです。このように内的な主人と、外的な主人の二人が、お互いに万事が一致して、宇宙の平和の基準となり、幸福の絶対安定基準となり、そこから天下の幸福を測るようになっているのです。

 私たち人間の先祖が堕落しなかったならば、どのようになっていたでしょうか。実体をもった神様と内的な神様が一つになって、お互いが愛し合い、み旨が一致する場で生活していくのです。そうして死ぬようになれば、心の世界へと戻っていくのです。

 死ぬとはどういうことかといえば、心の世界へ戻ることなのです。神様と私たちが制限を受ける世界ではなく、無限の活動舞台を相続するために戻るのです。この体を脱ぐ時が、死ぬ時です。よって、死の恐怖を超越することができるのです。

 そういう場に立った人になってこそ、真の人となるのです。ところで、男性だけでいるのは駄目です。男性一人だけでは駄目だというのです。今まで、宗教の教祖の中に女性がいましたか。これからは、教祖の中に女性も出てこなければなりません。男性の教祖と女性の教祖が現れ、互いに自分のほうが偉いと戦うのではなく、二人が一つとならなければなりません。そのようにできる時が理想世界であり、天下が鼻歌を歌うことのできる出発の起源となるということを知らなければなりません。

 このように「真なる人」とは、神様の息子と娘となって、神様と内外の関係を立てて内外が一つとなった、そのような場に立った人なのです。「夫婦一心」という言葉があるでしょう。内外一心というのは、四位基台が一致することのできる一つの決定的な立場なのです。

 人倫と天倫、人情と天情で結束した真の人々によって、この地上に家庭が造成されるようになるとき、真の家庭が現れ、その真の家庭によって真の氏族、真の民族、真の国家、真の世界が現れるのです。真の個人が現れるだけでは、絶対に駄目なのです。

 今日、イエス様を信じる人々は、信仰を通して天国に行こうと考えています。しかし、イエス様の教えはそうではありません。それゆえ、地上に来られるのです。聖書を見ると、地で解かれれば天でも解かれるであろうとあります。イエス様も真の家庭を成し遂げることができなかったために、楽園にいらっしゃいます。天国に入っていくことができなかったというのです。

 本来、人間がこのような場で、善なる家庭を築き、生活をし、そのまま家庭全体が入っていく所が天国であって、父は地獄に行き、母は天国に行き、息子は地獄に行き、娘は天国に行ったとしたなら、そこが何の天国でしょうか。

 天国は、このように家族を率い、家庭だけでなく、法度に一致することのできる民族と国家全体が入っていける所です。今日、そのような国がこの地上に現れていないために、天の国もいまだに天国となっていないのです。

 それで、私たち統一教会では天国をつくろうというのです。神様の愛に一致した真の人々で成された家庭によって、氏族編成、民族編成、世界編成をして、神様を中心とする天国をつくり上げようというのです。この地上で天国をつくってこそ、あの世の天国に行くことができるのです。

 これを標準として生きていく人々だけが、初めて歴史上のすべてを超越した立場に立ち、勝利の権限を立て、天の前に、全人類の前に立つのに不足がないはずです。これが真の人として行かなければならない道である、ということを皆さんは知らなければなりません。



















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