文鮮明先生のみ言集
訓教経(下)


私たちの願い

一九七一年二月十二日
韓国の永登浦教会 『文鮮明先生み言選集第四十一巻』


 個人について見てみると、人はそれぞれ自分の家庭や職場で、自分が望む願いがあるのです。ところが、ここには個人の様々な事情があって、望むことはそれぞれ異なるはずです。そして家庭について見ても、家庭は父母を中心として動くために、親が計画したことが思いどおりにいくことが、その家族にとっての願いとなるはずです。

◆理想的な根拠地となっていないこの世

 このように、個人から世界に至るまで関連している人間にとって、その置かれている位置と立場の違いによって各自の願いも異なるのです。願いは互いに異なりますが、それが完全に成就されることを願っているのが、私たち人間の実情です。

 それでは、今日私たちが生きているこの世の中は、果たして私が願っている世の中でしょうか。果たして私は、自分が願っている世の中に生まれ、願いをかなえることのできる環境で生きているのか、という問題について考えてみると、今日私たちが生きているこの世界は、そのような世の中ではないということが分かります。この世に生まれて生きている私たちは、永遠なる幸福を味わうという立場とは相反する環境に置かれているということを、生活の中で常に感じることができるのです。

 職場ならば職場でも、様々な複雑な内容が一個人の自分と関係しているため問題が提議されるのであり、一つの家庭を中心として見ても、その家庭が一つの計画を立てていく過程で、果たして私たちが真の意味で願うことのできる家庭の基盤となり、理想的な家庭であると考えることができるのかといえば、そうなっていないという問題が提議されるのです。それゆえ私たちは、職場や家庭をめぐって望ましくない環境や、相反するすべての環境を除去しなければならない時に置かれているのです。

 また、社会団体を中心として見ても、その団体が現在この社会において、永遠に幸福を受けることができ、この社会で永遠なる希望の光だといえる団体であるのかというと、そうではないことを感じるようになります。

 大韓民国であれば、大韓民国自体について見ると、大韓民国は果たして国民たちが願っているような国でしょうか。言い換えると、大韓民国の環境が個々人に幸福をもたらし、私たちが願う平和や、あらゆる願いを成就できるようになっているのかというのです。そういう環境に整えられていないことを見ると、大韓民国自体も、永遠なる幸福の基盤であるとはいえないのです。

 この世界には多くの先進国家があります。その中でアメリカのような国を見ると、アメリカに住んでいる国民は、正に世界人類の羨望の的である、最高の先進国の国民であることは間違いありません。しかし、そのような環境であるとしても、果たしてその国家の環境が、国民が願う永遠の基盤であるといえるのかというと、そうではないというのです。そこにも必ず矛盾があり、相反することが介在しているのです。これが大きくは世界から、小さくは個人にまで連結しているのです。

 このような観点から、私という一個体を見ても、家庭を見ても、あるいは社会、国家、世界を見ても、私たちが願う理想的な環境の基盤とはなっていないというのです。この地こそ、私たちが永遠に住みたい所であり、この地こそ、私たちが願っていた所であるといえるのかという問題について考えると、この世界はそうではないということを切実に感じざるを得ません。

 ですから今日、私たちはより良い所を探すための希望をもって歩むのであり、それが正に私たちの人生なのです。

◆人間の願いと絶対者の願い

 人々は、「私」という存在がもう少しうまくいくべきであり、成功すべきであると願います。また、自分が置かれている環境の中で中心的なことをしようとし、さらには国家の中心人物になろうとします。世界的な学者や、政治家や、聖人になろうという各自の願いをもって生きています。ところがその願いは、現在自分が置かれている立場での願いではなく、現在の立場を離れた未来の願いなのです。現在より未来に、より高い願いをかけて生きているのです。それは、すべての個人はもちろんのこと、社会や国家も同様な立場です。

 私たちが生きているこの世は、世界人類が願っている希望と目的を成し遂げ得た終着点ではなく、それを成し遂げるための一つの過程なのです。最高の願いをかなえるための過程にとどまっているということを知らなければなりません。

 このように、私たち人間に願いがあるように、人間を創造なさった絶対者がいらっしゃるとすれば、その絶対者にも、やはり願いがあるはずです。個人に対する願いがあるのであり、家庭に対して、国家、世界に対しても絶対者としての願いがあるのです。大韓民国であれば大韓民国の国民に対して、絶対者としての願いがあるのであり、アメリカを中心とした先進国の権威と今の世界で与えられたすべての使命に関しても願いがあるのです。また、民主世界に対しても願いがあるはずです。

 ところが、個々人の願いが異なるといって、その願いが個人の願いとしてのみ残らなければならないのでしょうか。そうでなければ、世界人類が共に一方向を眺める願いとして残るべきでしょうか。もちろん、前後関係と高低の差はあるかもしれませんが、方向だけは一方向に、同じ道を正しく行かなければならないのです。もし、お互いに方向が異なる道を進んでいるとすれば、いかに自分の願いがあったとしても、理想世界とは関係を結ぶことができず、絶対者とも関係を結ぶことはできないのです。

 人々が置かれている立場はそれぞれ異なりますが、願いの終着点に到達することを願う心は、どこの誰に限らず、世界万民が共通してもっているのです。その願いの基準が、過去の人と、現在の人と、未来の人によって異なるのかということを考えてみると、もしそれが異なる場合には、真の幸福を迎えることはできないのです。

 その願いが絶対的な幸福の要素であるならば、過去の人が願ったことも、現在の人が願うことも、未来の人が願うことも、それは一つでなければなりません。その一つの目的、すなわち願いの母体とは、韓国人にだけ限られるものではありません。世界性を帯びて、過去、現在、未来の歴史性を超越しているのです。

 言い換えれば、ある特定の民族だけを基準とする願いではなく、氏族と、民族と、国家を超えた、普遍的妥当性をもった共通の目的と、共通の幸福の要因として、世界万民が追求することのできる終着点となる願いでなければならないというのです。そのようにならなければ、その願いは、人類が願う幸福になり得ません。

 それでは、その願いが人間の幸福だけのためのものであっていいでしょうか。人間だけ存在するのであれば、人間の幸福だけのための願いでもよいのです。しかし、人間以外に神様、すなわち絶対者がいらっしゃるとすれば、その絶対者の願いとは何でしょうか。もし絶対者の願いが、人間以外のものを中心とした願いであれば、人間とは何ら関係がないでしょう。しかし、人間と関係を結んでいる絶対者であれば、人間の願いと相反する終着点は願わないはずです。

 今日キリスト教徒の立場から見ると、神様の理想と願いもやはり、人間と次元が異なる立場では果たすことができないのです。あくまでも、神様の願いと人間の願いが一致できる立場に立ってこそ、神様の願いもかなうことができ、神様の願いがかなうことを願う人間の願いもかなえられるのです。それゆえ、その願いの成就に関しては、人間とは別途に絶対者だけが成就を願うのではなく、絶対者と人間が共にある立場で成就されることを願わなければなりません。このことを私たちは考えざるを得ないのです。

◆過去よりも現在、現在よりも未来が良ければ終着点に到達できる

 皆さん個人の良心についていえば、皆さんの良心は、どんなことでも最高のものを願うのです。良心は、大韓民国であれば大韓民国で一番になりたがります。さらには世界で一番になりたがります。たとえそのようになれない環境にあったとしても、心だけは一番になりたがり、世界を自分のものにしたがるのです。この世界よりも、もっと高い何かがあるとすれば、それとは関係ない立場に立つのではなく、高ければ高いほど、大きければ大きいほど、それと共に関係を結びたがるのが人間の欲求であり、人間の心であるということを否定できません。

 学生たちについていえば、自分の学校で最高の成績を出すのが願いなのです。過去から現在に至るまで、学校の歴史的な基盤を超えることができる、最高の成績を出したいと思うのが学生たちの欲望なのです。このように、最高の記録を出すことができる基準を中心として、学校は新しい歴史的な伝統が立ち、発展するのです。

 その最高の成績を修めることができる基準になる点数が何点かによって、その基準の点数が上がれば上がるほど、その学校は有名になり、発展するのです。十年前に勉強がよくできるある学生が最高の成績を修めたのですが、もし、その学生の成績の記録を現在までも破ることができなかったとすれば、その学校は発展する学校ではないというのです。すなわち、過去を回想する立場では、未来の新しい記録に向かって前進することのできる立場に立つことができないのです。そういう学校は発展しないのです。しかし、きのうよりきょうのこの時間がもっと良く、きょうこの時間より、あすがますます良くなるならば、その学校は無限に発展するのです。そのような学校になれば、その学校は大韓民国のすべての学校を代表することができるのです。それは、いかなる社会団体でも同じです。

 家庭を中心として見ると、家庭も同様です。ある家庭が、「私たちの家庭は、大韓民国で一番良い家庭になろう。父母を中心として愛によって生きる生活が、すべての家庭の標本となり、大韓民国の中心となることができる」と言うならば、その家庭は過去を振り返る家庭ではなく、すべての家庭の先頭に立って、今後、大韓民国に訪れる天運を受ける家庭となるのです。


◆自分を発展させようとすれば

 個人の欲望も同様です。人間は、世の中に貴いものがあれば、その貴いものを自分のものにしたがります。それが人間の欲望です。それでは、この世で最も貴いものとは何でしょうか。絶対者であられる神様がいないという立場から見れば、この世で最も貴いものとは果たして何でしょうか。お金でしょうか。物質と人間を比較すれば、物質よりも人間が貴いのです。人間の中で誰が最も貴いのかといえば、「自分が最も貴い」と考えざるを得ないのです。したがって、人間の中でも正に自分自身が最も貴いというのです。どこの誰を問わず、「自分が最も貴い」と考えるのです。年を取り、もうすぐ死を迎える年齢の老人たちも、「自分自身が最も貴い」と考えるのです。それは、幼い子供たちであっても、青年たちであっても、みな同じなのです。壮年たちも、やはり同じです。人は誰であっても、自分が他人から侵害を受けて萎縮するような環境に置かれることを好まないのです。

 自分を中心に、あらゆる関係が結ばれ、自分が他に影響を及ぼすことができることを願っているのです。それが家庭を越えて社会、国家、世界にまで連結されて、関係が結ばれることを願うのです。

 そのように、関係を結ぶことができる位置に入っていきたければ、その願いに比例する試練を克服し、耐えて越えていかなければなりません。その困難な過程をたどってこそ、普遍的妥当性をもった主体性を備えることができるのです。もしそうでない中で、自分の願いが成就されることを願うならば混乱が生じるのです。

 それゆえ、国家ならば国家を中心として、国民を指導する原則的な指導の要件と方向を提示する規則、すなわち、国民生活のあらゆる指針を提示してくれる憲法があるのです。その法に違反しては進むことができないのです。法がなくては願う位置に進むことができないため、願う位置に進むことができるように、方向を法に一致するようにしてみると、三千万の国民が置かれている立場はそれぞれ異なりますが、同じ法の支配を受けて従わなければならないというのです。

◆ある位置に進もうとすればそこに比例する困難を克服せねば

 皆さん自身が、きょうよりもあすの生活がもっと良くなるように、現実的に決意して歩むことができるかという問題について考えると、その基準が国家が期待する以上の基準になるときには、国家に責任をもって歩むことができるのです。また、世界以上の基準の価値をもって現れるようになる時には、誰が願わなくても世の中の人々は、自動的に皆さんの指導を受けるようになるのです。

 人々は、いかなる人になることを願うのかといえば、偉大な人物、または聖人になりたがるのです。偉大な人になることを願うのです。ところが、偉大な人になろうとすれば、じっとしていてはいけません。必ず、そこに比例する困難を克服しなければなりません。

 国家について見ても、ある国家が先進国の権威をもつことのできる基準にまで進むためには、その国家の国民がじっとしていては絶対にいけないのです。そこには、数多くの困難を克服しなければなりません。どんな国家の国民も克服できない分野で困難を克服し、その難関に比例する勝利の基盤を築かなければならないのです。そのように漸進的にその価値を確かにし、その結果が世界の様々な国家の前に著しく現れるようになれば、初めてその国家の国民は先進国の権威や位置を占めることができる国民になるのです。

 このように見ると、絶対者がいらっしゃるとすれば、絶対者が人間に対して願うことは、人間との関係から抜け出そうとしても抜け出すことができないというのです。言い換えれば、人間の先祖が出発当時から絶対者と共に生活していたならば、その絶対者と人間の先祖は、その時から完全に一致していたはずなのです。そのような立場で、絶対者が人間の先祖に願うことは個人にすぎないことですが、その個人が願うことは正に世界的であり、宇宙的な願いであらざるを得ないというのです。

 皆さんは一人の個人ですが、皆さん個人の欲望は宇宙的なのです。世界のすべてのことが私の欲望と一致するのです。宇宙的な主人がいるとすれば、その主人に侍ることができる、相対的な存在がいるべきなのに、そのためには宇宙的な主人と度胸の合う対象とならなければなりません。

 私たちの先祖を中心として見れば、その先祖も私たちの考えと同様に、全天下を自分の所有として生きたいと願うことは間違いありません。もし、私たちの先祖が絶対者の前で完全にやりとりをすることができ、その絶対者の願いを成し遂げることができるように行動していたなら、今日の人類はどのようになっていたでしょうか。そのようにしたとすれば、その時から人類の願いはかなえられ始めていたのです。

 神様は、人間と関係を結ぶところにおいて、いかなる立場で関係を結ぼうとされるのでしょうか。神様が人間のためを思い、人間を幸福にしてくださろうとするのは、人間だけを幸福にしようというのではなく、そのようにすることで神様も幸福になろうとされるのです。

◆神様と一つになっていたならば

 それでは、神様と人間の関係を中心として見ると、人間は神様の前に果たしていかなる立場にあるのでしょうか。言い換えれば、僕の立場なのか、養子の立場なのか、あるいは息子の立場なのでしょうか。神様が人間を愛するとすれば、いかなる立場で人間に接したいと思うでしょうか。人間の欲望を中心として見ると、僕の立場で接すれば「嫌だ」と言うのであり、養子の立場で接しても「嫌だ」と言うのです。

 人間が、絶対的に神様の前に願うことのできる、最高の価値をもった位置にいるならば、それは「あなたは私の父であり、私はあなたの息子です」と言うことができる立場なのです。また、女性たちは、「あなたは私の父であり、私はあなたの娘です」と言うことのできる立場なのです。人間としては、それ以上願う位置はないのです。

 このような立場から見ると、この宇宙に絶対的な神様がいらっしゃるとすれば、神様と人間はいかなる関係を結びたがるのかといえば、ただ一つの位置を願うというのです。僕の位置でもなく、養子の位置でもなく、息子、娘の位置を願うのです。それが、私たち人間の願いではないでしょうか。

 言い換えれば、絶対者である神様に対して、人間の最高の願いがあるとすれば、それは絶対者の息子になり、娘になる位置に上がるということです。

 それでは、神様の息子、娘になったのちには、どのようにすべきでしょうか。父母の前に親不孝をし、父母の気に入らない立場で、父母のとがめを受ける息子、娘になるべきでしょうか。そうであってはなりません。父母に孝の道理をみな果たして、父母が息子、娘が好きでたまらず、愛さずにはいられないような息子、娘にならなければなりません。人間が願うことは、それしかないのです。それゆえ、人間は神様の愛を受ける息子、娘にならなければならないのです。

 人類の始祖が神様の一人息子になり、一人娘となり、神様の愛を受けていたとすれば、父母である神様と子供である人間とは、離れようにも離れることのできない血縁的な関係が結ばれていたのです。父母の愛を受けることのできる息子、娘となれば、父母のものはすなわち息子、娘のものなのです。例えば、自分が住んでいる家が両親が建てた家であったとしても、「自分の家だ」と話すのと同じなのです。

 それと同様に、神様が天地万物を創造なさったのを見ることもできず、あるいはその関係を知らなくても、それを造られた父である神様がいらっしゃるので、人間が息子、娘であれば、その天地万物は父である神様のものであり、また誰のものでしょうか。息子、娘である人間のものなのです。息子、娘である人間が、その天地万物を「私のものだ」と言えば、父が気分を悪くするでしょうか。父が責任をもって主管するよりも、「自分が責任をもてば、もっと良くすることができる」と息子、娘が言ったとすれば、父母は「おい、お前、そうはさせないぞ」とは言わないのです。

 ヨセフについて見ても、ヨセフが兄弟に「夢で太陽と月と十一の星が自分にひざまずいた」と言ったとき、兄弟たちはその言葉が生意気だと言ってねたんだのですが、両親は気分を悪くしませんでした。ただ「さあ、どうだか」と言いました。これが父母の心情です。

 神様が人間の父母となり、人間は神様の息子、娘となっていたなら、神様が造られた被造世界、すなわち神様が主管なさるすべての被造世界は、神様のものでもあり、人間のものともなるというのです。そのようになっていたならば、人間の価値がどれほど途方もないほどでしょうか。神様をうらやむ必要がないのです。神様が私の心の中にいらっしゃり、私の体の中にいらっしゃり、生活の中にいらっしゃるのです。神様がいらっしゃるのか、いらっしゃらないのかという問題は、考える必要もないのです。

 そのようになっていたなら、神様は観念的に追求する神様ではなく、生活の中で感じる神様、生活の中で合わせていくことのできる神様になるのです。したがって、人間は世界を支配しようとする必要がないのです。

 人間がそのようになっていたなら、現在皆さんが追求する欲望、皆さんが追求する心の作用は必要ないのです。本来皆さんは、今のような立場で願うのではなく、神様を所有し、所有したその基盤の上で出発しなければならなかったのです。そうすれば、皆さんが生まれた立場は、不幸な立場ではなく、幸福な立場になっていたのです。

 両親がいる人は、かわいそうな人ではありません。父母から永遠の愛を受けることができ、生活の中で少しの試練も受けない、自由な環境をもった息子、娘は、幸福な人なのです。人間が初めからこのような環境で出発していたなら、どのようになったでしょうか。人間が出世を願ったり、世界を自分のものにしようというようなことは考えなくても、すべてが果たされたのです。世界よりももっと高いものと関係を結ぼうと考えなくても、既にすべての関係が結ばれていたはずなのです。

◆故障した人間

 ところが、人間がそのような立場で出発することができなかったために、それらをすべてなくしてしまったのです。歴史時代をたどりながら、より良い世界、より価値ある世界を追求するために、数多くの預言者や烈士たちが命を懸けて、押し寄せる闘いの道を進み続けてきたことを私たちはよく知っています。しかし、彼らが願い続けてきた希望の時は、いまだ成されていないのです。それゆえ、皆さんには、より価値あること、より輝かしい人生、より価値ある世界を追求するために努力しようという思いがあるのです。

 人間の最終目的は、世界を占領することではなく、神様を占領することなのです。神様を占領することで終わるのではなく、神様の愛を受けることができる位置にまで行こうとするのです。したがって人間の最高の願いとは何かといえば、そのような位置に立つことのできない人間が、そのような位置に立つことなのです。そのような位置に立つことが、人間の最高の願いなのです。

 それでは、人間を愛する心をもたれた神様の願いとは何でしょうか。このサタン世界から人間を救い出すことなのです。神様は、地獄の世界で呻吟し、苦痛を受けている人間を見たがるような方ではないのです。神様は、万民と父子の関係を結んで愛することができ、万民と共に生きたいと思われるのです。そういう父の立場で、私たちを救うことが、神様の願いなのです。したがって、神様の願いは、人間の願いと一致しているのです。願いが一致しているということは、すなわち父子の関係なのです。

 ここで問題になることとは何でしょうか。私たち自身をじっと見てみると、心と体が一つになれず、常に闘っているのです。私の一個体の中で、心と体がお互いに別の目的を追求しているのです。もし神様が人間を創造なさるとき、二つの目的に向かっていくことができる人間として創造なさったとすれば、神様は絶対者ではありません。一つの思想をもって、一つの目的に向かっていくことができる存在として、絶対的な目的をもって創造なさったとするなら、二つの目的をもつことのできる存在として生まれることはできないのです。

 それなのに、このように矛盾した結果に置かれている事実を見ると、人間は良い意味で、正常に出発したのではありません。私たち自身が故障した立場にあるのか、あるいは神様がいらっしゃらないために、本来このような結果を招くようになっていたのかという、この二つのうちの一つなのです。二つのうちの一つが問題だというのです。しかし、神様がいらっしゃるのにこういう結果が現れたとすれば、それは人間が過ったといえるのです。人間が故障したというのです。それで、故障したところを修理しなければなりません。

 それゆえ、神様は歴史路程を通じて、今まで故障したところを修理することのできる修理工場を建ててこられたのです。それが何かといえば、宗教です。修理工場を建てたなら、技術者が必要となるのですが、その技術者が正に宗教の教祖たちです。

 今日の人間は、故障したラジオと同じです。それゆえ、正常な人となるように修理しなければなりません。そのためには、必ず修理工場に入らなければなりません。必ず修理工場を経てこなければならないのです。

 今までの歴史を見れば、世界文化圏は宗教文化圏内へと吸収されてきています。民主世界を中心としたキリスト教文化圏や、極東アジアを中心とした儒仏仙(儒教、仏教、仙教)文化圏、インドを中心としたヒンズー教文化圏、イスラム教文化圏などの文化圏が形成されたことを見ると、数千年の間、人々は宗教文化圏内に押し入ってきたということが分かります。

 これは修理工場が建てられれば、そこに必要なすべての付属の材料が修理工場の周辺に集まるのと同じです。このような事実を見ると、神様が役事されているということを、皆さんは明確に知らなくてはなりません。

 皆さんが現在の立場で願っていること、人間が願うことのできる最後の願いの基点とは、神様と同じ位置に存在することなのです。すなわち、神様の願いが人間の願いであり、人間の願いが神様の願いとならなければならず、神様のものは私のものであり、私のものは神様のものとならなければなりません。また、「神様の愛は私の愛であり、私の愛は神様の愛である」と言うことができる立場を願うのです。

 そのように一致することのできる関係を結んだならば、人間にこれ以上の願いはありません。しかし先に話したように、人間は故障したラジオのように、既に病にかかっているのです。

◆人間の完成は神様の願い

 もし、人間が神様から永遠の愛を受けることができる息子、娘となっていたならば、すなわち、人類始祖が神様と完全に一つとなった立場で出発していたならば、その出発は、個人の出発であると同時に、宇宙的な存在の出発となることができたのです。

 また、人間が堕落せず最高の願いである神様の息子、娘として成長し、唯一の神様の愛を完全に受けて生きるようになったならば、人間はそれ以上願うことは何もありません。それで終わりだというのです。その立場にいること自体が、個人ではあっても、宇宙的な個人であるというのです。天地万物が、創造なさった絶対者のものであるとしたら、人間はその方の息子、娘であるために、人間のものにもなるのです。

 したがって、人間がその立場に立っていたなら、個人完成をなすと同時に、神様の創造目的が完成されるのです。神様の息子、娘の完成であり、神様が創造なさった天地万物の完成です。そのようにすべてが完成するならば、神様はどうされるでしょうか。喜ばれるというのです。

 ある作家が精誠を込めて作品を完成したとすれば、その作家は、作品を大切にし、後世に残したくなるのです。その作品を永遠に保管したいと思うのです。まして、私たち人間が神様の息子、娘になり、神様の愛を受けることのできる立場にいるなら、神様が数カ月間、あるいは何年間だけ愛してくださったあと捨ててしまわれるでしょうか。人間が百年ほど生きるとすれば、百年間だけ愛し、それ以降は必要ないと捨ててしまわれるでしょうか。そうではありません。永遠に愛そうとされるのです。

 それゆえ、人間が完成して神様の愛を永遠に受けることができるならば、神様は人間を永遠に傍らに置いておきたいと思わずにはいられないのです。絶対者がそのように喜ぶことのできる立場に立たなければならないため、人間も永生しなければなりません。

 人類の先祖であるアダムとエバがそのようになっていたなら、アダムとエバの完成はもちろん、神様のすべての願いが果たされるのです。アダムとエバが完成するということは、神様が創造なさった万物の中心である人間に対して願ったことが、すべて完結することを意味します。そのようになっていたならば、神様がどれほど喜ばれたでしょうか。

 そのように喜ばれる父に侍る息子、娘であれば、どのようにすべきでしょうか。喜ぶべきだというのです。どの程度喜ぶべきかといえば、六・二五動乱(韓国動乱)の時に別れた親子が、数十年ぶりに会って「お父さん!」「息子よ!」と叫びながら抱き合って、涙を流す時の喜び以上でしょうか。それ以下でしょうか。比較する必要もありません。最高の喜びなのです。その喜びを占領するのは、神様のほかには誰もいないのです。したがって、私たちが幸福でなければならないのです。

◆宗教は故障した人間を直す修理工場

 夫婦完成は、家庭完成の出発となります。すなわち、家庭完成は息子、娘の完成であり、夫婦完成が成されることです。父母が神様の愛のもとで、楽しく良い生活をしているのに、その父母から生まれた息子、娘が、泣きながら苦しい生活をすることはないのです。だから夫婦完成は家庭完成なのです。四位基台の完成です。

 このように完成した家庭から、また完成した家庭が現れるのです。そのようになれば、その家庭が氏族を成し、氏族完成をするのであり、その次には民族完成を成し、さらには国家完成と世界完成を成し遂げるのです。その位置は、皆さんが世界で一番になると願う位置ではなく、皆さんが完全に成し遂げて消化しなければならない位置なのです。

 人間はなぜ、世界で一番の位置を願うようになったのでしょうか。それは、人間が故障したからなのです。今日私たちが生きているこの世界は、私たちが願う世界ではありません。ここには私たちが是正し、解決すべき与件がたくさん残っています。したがってこの世界は、私たちが願う理想的な世界ではないのです。

 本来、人類始祖が絶対者であられる神様を中心として一つになっていたならば、そこから夫婦完成とともに、家庭完成、国家完成、世界完成が成されたのです。個性完成だけでなく、宇宙完成までも成されていたのです。これらを失ってしまったので、人間の本然の心は、それを懐かしく思うのです。

 故障したラジオは、その本来の機能を発揮することはなくても、流れてくる電波を受信すれば、「ザー」という音を出すのです。同様に、人間にも本心があり、その作用によってどこかに行こうとするのです。そこが、正に最高の位置です。

 それで、人間が故障したというのです。故障した私たちだというのです。分解して再び手入れをしなければなりません。皆さんの立場がそのようだというのです。

 したがって、宗教とは何かといえば、故障した人間を直す修理工場です。ところで、この修理工場が終末においては、付属品だけを取り替える修理では駄目なのです。それで総合修理工場を造って、総合的に修理をしようというのが統一教会なのです。総合修理工場だけではいけません。総合修理工場の技術者がいなければならないのです。この技術者とは誰かといえば、キリスト教でいう再臨主です。こういう観点から見ると、今日世界のすべての宗教がみな終わりの時に来たので、今日統一教会が総合修理工場としての内容を備えて現れたならば、統一宗教を願う世界万民は、私たちを歓迎しなければならないのです。

◆直すべき人間

 故障したラジオやテレビは、故障した箇所が分かる人が直したなら、一回だけ直せばよいのです。そうすれば、新しいラジオやテレビのように、放送局から送ってくる放送はみな同じように聞くことができ、見ることができます。それが百台であり、千台であったとしても変わりはありません。一億台であっても全く同じなのです。

 同様に、人間の心に神様が入られ喜ばれるとき、それ自体を映し出すことのできるテレビがあり、そのうれしい心を感じることができるようになったならば、万民がみな感じることができるのです。また、神様が悲しまれるとすれば、悲しい声が聞こえるようになるというのです。すべての人々がみなそのようになったとしたなら、この世はどれほど素晴らしい世の中でしょうか。ところが、そのようになっていないので、皆さんを修理しなければならないのです。

 それでは、皆さんは修理工場に入って、ゆっくりと修理されることを望みますか。あるいは早く修理されることを望みますか。それは、皆さん各自の心にかかっています。ある人は、一年かけて修理されることもあるでしょうし、またある人は、十年かかって修理される人もいるでしょう。あるいは、修理工場に入って一生の間修理されて、やがて捨てられてしまう場合もあるでしょう。

 人間始祖が神様と一つになっていたならば、このような問題は起きなかったのです。それは個人完成であると同時に、世界完成であり、個人の喜びであると同時に、世界の喜びなのです。

 そのようになれば一度に天国になっていたのです。ところが、これを成せなかったので再び成さなければなりません。そのようになれば家庭、氏族、民族、国家、世界は自然と完成するようになるのです。家庭完成だけ成されたならば、自然にすべてが成されるようになっているのです。

 神様が真の松の種を蒔いたとすれば、真の松の芽が出てくるのです。永遠に真の松の木として残るのです。ところが、人間はそのようになれなかったのです。真の松の種になるべきなのに、別の種になってしまったのです。

 今日人間は、野性のオリーブの木になったというのです。本来は真のオリーブの木になるべきなのですが、野性のオリーブの木になったのです。そのような木の実は、からすのえさにしかなりません。それでは、真のオリーブの木になるにはどうしなければならないでしょうか。接ぎ木をしなければなりません。野性のオリーブを切って、真のオリーブの木に接ぎ木をするのです。それゆえ、今日人間も再生所に入って接ぎ木されなければなりません。

 真のオリーブの木になれない人間を中心として見ると、人間は理想的な世界を失ってしまったのです。理想的な国を失ったのです。大韓民国は理想的な国ではありません。悪が優勢の国です。この世界も悪が優勢な世界です。善と悪が入り乱れている状況にあるのです。このようになっているものを、解剖して切ってしまわなければなりません。善と悪がお互いに争う立場で、理想的な国や世界を成すことはできないのです。


◆真の息子と娘の結婚式を待つ歴史

 今日、人間が願う理想的な世界と、理想的な国家や、民族や、氏族が生じましたか。生じなかったのです。また理想的な家庭が生じましたか。生じなかったというのです。それは完成した一人の男性と、一人の女性がいなかったからなのです。

 宗教は修理工場であり、失った本郷の道を訪ねていく道です。それで、今まで宗教が何を探し求めてきたのかといえば、理想的な一人の男性と、理想的な一人の女性を探し求めてきたのです。神様が、「この人は私の愛のすべてだ」と言うことのできる一人の男性と、一人の女性を探してきたのです。

 キリスト教で、イエス様は新郎であり、信徒は新婦であるというのは、すなわち世界をすべて収めて、神様の愛を受けることのできる一人の男性と、一人の女性を探すということをいっているのです。完成した一人の男性、一人の女性がこの地上で出会い、婚姻の祝宴をして初めて、新しい世界が開かれるのです。

 それで再び来られる再臨主を何と呼ぶべきでしょうか。新郎と呼ばなければなりません。その新郎が一人の新婦を探し出し、二人が共に小羊の婚宴をしなければならないのです。小羊の婚宴とは何でしょうか。本来、人間始祖は善なる父母として出発すべきでしたが、悪なる父母として出発したために、すべての人間は悪なる父母の血統を受け継いで生まれたのです。

 それゆえ、神様の愛を洗いざらい私の愛のように受け、神様の懐に抱かれて、神様の直系の愛を通した血族として残ることのできる息子、娘になるべきなのに、なれなかったのです。ですから本来の姿に戻らなければなりません。これが正に、新郎新婦を迎える小羊の婚宴なのです。主がこの地上に新郎として来られ、一人の新婦を探して、ある基準の上に接ぎ木しなければならないというのです。それが、キリスト教が主張する内容です。

 宗教の中で代表的な宗教は、キリスト教です。その基準を設定し、確固たる目的を立てた宗教がキリスト教なのです。それで、神様が立てられた宗教はキリスト教であるというのです。それで今日、民主世界がキリスト教文化圏内で発展するのです。真の父母を迎えようとすれば、そのように発展しなければならないのです。

 それでは、今まで宗教は何をしてきたのでしょうか。一人の真の息子を立てるための努力をしてきたのです。神様は一人の真の息子を探し出すために、今まで御苦労なさったのです。それゆえ宗教の教祖の中に女性はいないのです。これは、一人の真の息子を立てるために連結してきたことを意味します。一段階、二段階、三段階、このように上がって最後のバトンを引き受けて勝敗を決定することのできる、一人の主人公である息子を探し求めてきたのです。これが今までの歴史です。

 それで真の息子が現れ、真の娘に出会うようになれば神様が結婚式をしてくださるのです。自分の家の中だけで認められるような結婚式ではありません。

 神様と息子と娘しかいなければ、誰が結婚式をしてくれるでしょうか。神様に対し「結婚式をしてくれ」と言わなくても、時になればすべてを神様が喜ばれて、結婚式をしてくださるのです。最初の主礼は神様なのです。神様がされるしかないのです。

 神様が主礼に立たれれば、気分が良いでしょうか、悪いでしょうか。また主礼に立つのに、息子の結婚式で主礼をされたいでしょうか。僕の結婚式で主礼をされたいでしょうか。あるいは、養子の結婚式で主礼をされたいでしょうか。

 それは尋ねるまでもなく、息子、娘の結婚式で主礼として立ちたいのです。しかし神様は、いまだ息子、娘の結婚式に主礼として立つことができません。

 主礼をされるためには、今後この地を訪ねて来られる再臨主を中心として、決定的な生活基準を設定し、新郎新婦が出会えるようにしなければなりません。そのようになる時、初めて神様が結婚式をなさることができるのです。それでは、神様が結婚式をしてくださるとき、泣きながらされるでしょうか。喜んで笑いながらされるでしょうか。喜んで笑いながらされるのです。

 結婚式とは、男性と女性に分かれているものが、完全に一つになることなのです。そのようになればその男性と女性は、男性の中でも最高の男性となり、女性の中でも最高の女性となるのです。人間は神様と絶対的な関係を結び、神様が「これは私の愛の中の愛であり、骨の中の骨であり、肉の中の肉である」と言うことのできる息子、娘とならなければなりません。そのように、神様が見れば見るほど、愛さざるを得ない息子、娘となり、成長したならば、彼らが「結婚式をしてほしい」と言わなくても、神様のほうからしてくださったはずです。

 そのようになっていたならばどうなっていたでしょうか。神様が彼らの結婚式をしてくださり、どこへ行かれるでしょうか。「二人だけで楽しく暮らしなさい」と言われるでしょうか。あるいは、一緒に暮らそうとされるでしょうか。一緒に暮らすとするならば、どうすべきでしょうか。それが問題です。神様と共に生きようとすれば、人間が喜ぶと同時に、神様も喜ばなくてはなりません。

◆人間の体は外的な神様

 皆さんが神様の息子、娘であれば、父子の関係です。父子の関係とは、父は上であり息子は下にある関係です。上下関係です。ところが息子、娘がよく考えてみると、父母は上座にのみ座っているのです。それで自分も上座に座ってみたいと欲張るようになれば、父母と子が争うようになるのです。そのようなことは、あってはならないのです。それゆえ神様は、上下関係である父子の関係だけを考えられたのではありません。

 私とお前は同じ位置、すなわち夫婦一心、父子一心という位置です。一心になろうとすれば、一人は上にいて、一人は下にいるという状況では成すことができません。父は上にいて息子、娘が下にいては、一心となることはできないというのです。同等な立場で、平面的に位置していてこそ一心となることができます。内的、外的関係が平面線上の位置に立ってこそ一心になることができるのです。夫婦も同じです。横的関係で内外関係、前後関係の位置に立ってこそ、一心となることができるのであり、上下関係では絶対に一心になることはできないのです。

 神様はこのようなことを考えて、人間をどの位置にまで上げておこうとなさったかといえば、神様は内的な父であり、人間は外的な父であるため、神様は内的な父であり、人間は外的な父として一致するようにされたのです。神様は、人間をそのような位置にまで立てようとされたのです。したがって、人間の体は神様の体になるのです。

 もし皆さんが、今この世で最も貴い物をもっているとして、その物をどのように良く保管することができるかを考えてみてください。百重以上の鉄の櫃を作って、その中に隠したとしても、誰かが隠したことを知っていたとすれば安心できるでしょうか。百重以上の鉄の櫃を作った自分よりも、もっと賢い人がいるとしたら、それらを取り出して盗み出す可能性があるというのです。それでは、土を深々と掘り、その中にそれを隠すべきでしょうか。山の頂上に隠すべきでしょうか。

◆神様に侍ることのできる所

 貴い物をもっていれば、毎日のように見て、触って、抱き締めたいのが人間の心です。ここにいるおばさんたちも、愛する息子、娘を仕方なく置いて出掛けたとすれば、安心していられますか。市場に行くとか、どこに行くにしても、しっかりと抱いて出掛けたいのです。赤ん坊のほおに触れながら出掛けたいと思うのです。

 なぜかといえば、自分の肉の中の肉であり、骨の中の骨であるために、一つとなるところに置いておきたいのです。

 それでは、神様が宇宙で最も貴い方であるとすれば、どこで侍らなければならないでしょうか。ある人は、世の中で最も貴い方であるその方を他の人が見たとすれば、「気分が悪い」と言います。他の人が見るようになれば、あなたのものにも、自分のものにも、みんなのものになるようで気分が悪いというのです。他の人には絶対に見えず、私の目にだけ見ることができる所があるとしたら、そこに隠しておきたいのです。そのような場所を研究し、探すというのです。私だけが見ることのできる所に隠しておいて、他の人は絶対に見ることのできない所があればいい、と考えるのです。

 それでは、大きな神様をどこに隠すことができますか。天地を主管される神様を隠すことができる家、あるいはそれぐらいのふろしきがなくてはならないのです。しかし神様をふろしきに包んで、高い空中に置いておきたくはないというのです。私の中に置いておきたいのです。それで、そのようなふろしきがあるのかといえば、それは心のふろしきしかありません。

 心は、十人に侍ったとしても余るぐらいです。心が狭くて神様に侍ることができないという人がいますか。神様を丸ごと占有したいと欲張ったとしても、問題なく、侍っても余るようになっているのです。

 それで自分の心の中に、目に見えない神様を自分だけが知っていて、他の人には見ることができないように隠すというのです。すなわち、神様と私の二人だけで喜ぶことのできる所で侍りたいというのです。人間の欲とは、みなそうなのです。ですから、神様が目に見える方であれば、大変なことになるのです。目に見えない方であるのが理想的なのです。目に見えないため、私がある人を見ても神様が入っていらっしゃるのか、入っていらっしゃらないのか分からないのです。

 もし神様が目に見える方であり、あの人にも神様がいらっしゃり、私の中にも神様がいらっしゃるとすれば、どれほど気分が悪いでしょうか。神様が目に見えないことが、いかに良いことでしょうか。ですから絶対価値だというのです。いかに研究をするとしても、それ以上研究することができないのです。

 見えない神様に、私の中心である心の中で侍っているので、誰かが奪うことができるでしょうか。占領する人がいるでしょうか。いないというのです。それでは、神様は誰のものですか。すべて私のものになるのです。それが一時的ですか、永遠ですか。永遠に私のものであるというのです。それゆえ最も貴く、最も価値ある中心存在であるその方は、永遠であるというのです。その方とは誰でしょうか。自分の中の人です。天地を創造なさった神様は内的神様であり、私たちの体は外的神様であるというのです。

◆人間は目に見える神様

 人類始祖のアダムとエバが堕落しなかったならば、人間は万物の神様、すなわち外的神様になることができました。目に見えない神様は、万物を主管することはできません。それで、目に見える体をもった、神様格に立った人間を造られました。その人とは誰かといえば、堕落せず神様と一体となることのできる、神様の愛のもとで夫婦の因縁を結ぶことのできる人間でした。

 その人間が、外的に現れた神様であったのです。アダムとエバが堕落しなければ、神様はアダムとエバの心の中にいらっしゃるのです。アダムとエバは外的夫婦であると同時に、内的な夫婦であるというのです。したがって、神様と内外共に一つとなった体から生まれた息子、娘は、誰の息子、娘となるでしょうか。外的神様の息子、娘になると同時に、内的神様の息子、娘になるのです。それでは、エバはアダムの妻にだけなるのでしょうか。アダムの妻であり、内的な神様の妻ともならなければならないのです。そのようになったとすれば、人間に堕落はあり得ないのです。これが正に宇宙の秘密なのです。

 コリント人への第一の手紙第三章十六節には、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」という内容があります。人間は神様の宮であり、人間の心の中に神様のみ霊が臨在しているというのです。人間がそのような立場にいるとすれば、神様は人間にとっていかなる方でしょうか。正に父であられるのです。ところが人間の堕落によってそのようになれませんでした。それで故障した箇所をすべて直し、新しく再生する総合修理工場の使命を担うために統一教会が現れたのです。

 もし神様が目に見えるとしたならば、アメリカとソ連が神様を奪うための争いをするでしょうか、しないでしょうか。人間は数千年間土地を奪う争いを続け、近ごろは唯心論や唯物論という思想を中心に、人の奪い合いを続けています。こういうもののために熾烈な奪い合いをしているのに、宇宙の主人である神様が人間の目に見えるとしたら、奪い合いの争いをしないでしょうか。それゆえ、神様は人間の目に見えないのが良いことであるというのです。

 神様が目に見えたとすれば大変なことになるのです。神様は目に見えないけれども、自分の心の中で侍っているので、自分には神様がいらっしゃることが分かります。神様と自分が一つになれば、幸福であるというのです。天地を眺めれば、すべてが自分の庭園のように感じられるのです。花を眺めれば、最高の美的境地に到達するようになり、創造なさった当時の喜びを歌いながら生きることができるのです。宇宙のすべてが花畑になり、宇宙のすべてが踊ることのできる園になるというのです。そうして神様の愛がそこに和し、宇宙が喜ぶことのできる音調に合わせて、非常に楽しい一時を過ごすことができるのです。そのようにしていたならば、そのように始まった民族は永遠に持続していたのです。

 宇宙に浮いている人工衛星は、一軌道を回り始めれば、その軌道を永遠に回るようになります。同様に、神様の愛を中心として宇宙が一度喜ぶようになれば、それは終わりを知らず、永遠に続くのです。それで皆さんの心も、神様と一つになろうとするのです。神様のものであり、私のものとなることを願うのです。人間の心は堕落して故障してしまいましたが、このような本性の基準は残っているために希望があるのです。

◆善の道は何倍も大変な道

 その上、被造世界の本体である神様が、私たちを中心としていつも相対関係の立場にいらっしゃるので、私たちの心は常に神様に向かって進もうとするのです。これが正に良心作用です。それで、人間が堕落したことは間違いないのです。

 本来人間は、すべてのことを兼ね備えた基盤の上で出発しなければならなかったのですが、すべてを失ったまま落ちてしまったのです。今日、世界に人類が生きていますが、その多くの人を合わせて分けるとしたら、男性と女性の二つに区分することができます。それでは、大勢の世界人類の中で真の人は誰でしょうか。世界的な聖人は誰かというのです。人々は、世界的な聖人を中心として、彼に似ることを願うのです。

 今や、残された問題とは何でしょうか。人間が堕落してすべてを失ってしまい、下に落ちてしまったのです。男性と女性の二人とも落ちてしまったのです。神様は、落ちてしまった彼らをそのままにしておいてはいけないと考えられ、救いの摂理を進めてこられたのです。人間がこのような神様の救いの摂理を知るようになれば、そこに上がろうとするはずです。

 したがって、真の男性と真の女性を探さなければなりません。これが、正に六千年間宗教が探し求めてきたものなのです。しかし、いまだすべてを成し遂げてはいません。真の男性と真の女性がいなかったために、結婚式をすることができなかったのです。これが人間の歴史です。

 それでは、このようになったこの世界は善なる世界でしょうか、悪なる世界でしょうか。悪なる世界であるので、いつかは滅びてしまわなければなりません。それで「審判」という言葉があるのです。

 皆さん、悪人が悪なる所にいれば、宗教をもつことができるでしょうか、できないでしょうか。もつことができなければ、いかなる道を行かなければならないでしょうか。善なる道を行かなければなりません。悪の世界で生きていたままの状態で生き続ければ、善の道を行くことができるでしょうか。自分を中心としては行くことができないのです。今歩んでいる悪の世界の道から早く戻って、善の道へと進まなければなりません。それゆえ真の宗教は「この世の縁を切りなさい。この世を否定しなさい」と言うのです。真の宗教は否定から出発するのです。

 ところが、今まで私たちはこれをはっきりと知りませんでした。悪の世界で生きている人を見ると、全員が自分を中心として喜ぼうとしています。「お前も私のために喜べ」と、このようにです。このように他人を利用して、国を利用して、世界を利用して、全部利用しようとします。そのようになっています。それが悪の世界の局面だというのです。

 それでは、悪なる人々が悪の世界で、善の道を行くにはどのようにすべきでしょうか。悪なる人々が他人を利用しようとするときに、同じように他人を利用しようとすれば善なる人となることができるでしょうか。ここで悪をけ飛ばし、再び善を立てて行かずには、いくら切実な願いであったとしても善なる人になることができません。善は神様のものであると同時に私のものであり、悪はサタンのものであると同時に怨 讐のものであるため、悪を追い出し、善のみを追求しなければなりません。これが難しいことなのです。

 皆さんがこのような境界線にいるということを知らなければなりません。一歩だけ前に進めば死亡の道へと進み、一歩後ろに後退すれば生命の道へと進むことのできる境界線にいるというのです。落ちる時は、頭が重いために逆さに落ちたはずなので、再び反対に上がる時は、反対方向に上がってこなくてはならないのです。逆に落ちたので、元の位置に戻り本来の姿に戻ることが、いかに難しいことかを皆さんはよく知らなければなりません。道の道を行こうとすれば、このように何倍も困難な道を歩まなければならないのです。

◆堕落した立場では自分を否定しなさい

 自分が善なる道を歩もうとすると、鉄材の下に落ちた状態から、自分を中心として上がることができるでしょうか。自分自身を中心としては上がる道がありません。それで最後となるのです。それでは、どうしなければならないでしょうか。まず、自分自身を否定して、自分より優れた人と絶対的に一つにならなければなりません。自分を前面に立てる人は、絶対に善なる所に行くことはできないのです。

 堕落した立場で自分を主張する人は、堕落した状態にそのまま残るしかありません。しかし、自分を否定して善なる立場に上がれば良いのに、そうするにはどうすべきでしょうか。自分より善なる人に対して絶対服従しなければなりません。ところで、人々は他人に服従することを好むでしょうか。一番嫌います。

 誰かに主管されることを願いません。自分が全部を主管したいと思うのです。それが人間の欲望です。本来、人間が堕落しなければ、世界を主管し万物を主管することが原則です。しかし堕落したために、主管を受けなければならない立場になりました。心は主管することを願うけれども、体は反対の行動をしなければ帰っていく道がないのです。

 人生路程において、より善の実績を残していくことが聖人の道理なのです。人間は、この世界で率先して歩む聖人の教えを受けて、その聖人を中心として、そのみ言と一つとならなければなりません。絶対服従し、絶対従順しなければなりません。生命が途絶えるようなことがあったとしても、そのように生きてきたというとき、その人と共に栄光の場に賛同することができるのです。それは野性のオリーブを、真のオリーブの木に接ぎ木をすることと同じです。

 人が願いを成し遂げようとすれば善の道を模索しなければならないのに、その善の道を探し求めていくのに、自分自身を主張する立場に立っては絶対になりません。

 個人が善なる道、犠牲の道を探していくことは、個人のために行くのではありません。家庭のために探し求めていくのです。個人が犠牲になってこそ家庭が残るのであり、家庭が犠牲になってこそ氏族が残り、氏族が犠牲になってこそ民族が残り、民族が犠牲になってこそ国家が残り、国家が犠牲になってこそ世界が残るようになるのです。私一個人が犠牲となることで、家庭、氏族、民族、国家、世界を探し立てることができるのです。それゆえ、私自身を前面に立てては、絶対に上がることはできないのです。それでこそ善なる道に行くことができるのです。言い換えれば、望ましい家庭を成すためには、自らのすべてを犠牲としなければならないということです。

◆善なる道は「ため」に生きる道

 幼いにもかかわらず、家族の誰よりも自分を犠牲にするようになれば、自然に父よりも、家の中の中心存在としての待遇を受けるようになるのです。家庭のために、誰よりも代表的な立場で犠牲になる立場に立つようになれば、その家庭の父母に代わる中心存在となることができるのです。皆さんは、今まで自分が犠牲になることを悪いとだけ思い、このような事実を知らなかったのです。

 人のために犠牲になれば、その人は犠牲となった人を貴く感じるようになるのです。中心存在にならないように逃げたとしても、中心存在として立てられるのです。中心存在として立てられるだけでなく、人々を主管して指導してあげる立場に立つようになるのです。皆さんはこういうことを知りませんでした。それゆえ「善を積みなさい」という言葉があるのです。善の道に、自分を中心に引っ張り込むことがあるでしょうか。他人のポケットにある物を、私の物だということが善を積むことになるでしょうか。「私の物は私の物で、あなたの物も私の物だ」ということが善でしょうか。そのようなことが善であるのかというのです。もし人間が堕落しなかったならば、それが善となることができたでしょう。人類始祖が堕落しなかったならば、この世界がすべて私のものであるといっても、それは善になるというのです。

 しかし残念なことに、人間始祖が堕落することによって一番下に落ちてしまったため、それが善となることはできないのです。しかし、その法は私たちの心に残っているので、ひたすら善に向かって動こうとするのです。したがって、私が良い所に入ろうとすれば、「私の物はあなたの物であり、あなたの物は国のものであり、国の物は世界の物であり、世界の物は神様の物である」と言えなければなりません。そのようになれば結局、私の物はあなたの物であり、あなたの物は神様の物になるというのです。それを皆さんはよく知らなければなりません。

 今日、人間はそのような立場に立てなかったために、私の物は私の物であり、あなたの物も私の物であるというような悪なる生活をするようになったのです。悪とは何であるかといえば、自分を中心として生活することです。悪はいつかは滅びるものなのです。しかし、私の物はあなたの物であり、あなたの物は神様の物であるという善なる立場に立つならば、神様の物もすべて手に入れることができるようになるのです。どれほど欲をかきたてられる話でしょうか。神様が「必要ない」と言っても、何も心配することはないのです。それゆえ、「私が生きるのはあなたのためだ」ということが、正に善の道であるというのです。

 皆さん、友人も自分を好んでくれて、「ために生きる友達が良い」と言うでしょう。ところが、自分を寂しくさせ続ける友人はどうですか。お互いに「別れるな」と言っても、別れるようになっているのです。そうして、のちに滅びてしまうのです。その反面、「ため」に生きる友人には、けられても、くっついていこうとするのです。自分がくっつくだけでなく、その周囲にいる友人たちもくっつこうとします。そのような人は残るようになるのです。残ることができるのでうれしくなるのです。これが原則です。

 このように、善は自分が他人のために犠牲になるところから発生します。温柔で謙遜なところから善が始まるのであり、犠牲となるところから実が結ばれるのです。

 イエス様も「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(ヨハネ一五・一三)と語られました。このような愛は、神様の愛より大きいということですか、小さいということですか。それは神様の愛よりも大きいというのです。なぜかといえば、善のために自分を犠牲にしたためです。

 善の道を行くのに自分を主張すれば偽者であり、そのような偽者は滅びていくのです。永遠に滅びるのです。それゆえ、神様がこの地上の人間を救うために一つの方案を模索されたのですが、それが何かといえば、自分を脱皮することのできる分岐点を探して、それを踏み台として反対に上がっていくことなのです。

 言い換えれば、自分のために生きるのではなく、他のために生きなさいというのです。相手が悪人であってもいいというのです。悪人に善を施したにもかかわらず、その人が受け入れなければ、その結実は再び私のもとに帰ってくるのです。悪人にも善はあるのです。したがって、戻ってくるときには、その人の善までも合わせて戻ってきます。善はマイナスになることがありません。必ず、大きくなって戻ってくるのであって、小さくなって戻ってくることはないのです。

 イエス様がおっしゃるには、「死のうとする者」はどうなると語られましたか。「生きる」と語られました。「生きようとするものは死ぬだろう」と語られたのです。これは逆説的な論理です。生きようとする人は、生きることができないのです。滅びるようになっています。また死ぬ覚悟をしている人は、生きることができるのです。このような結果が現れるのです。このように逆説的な論理ではありますが、人生の本然の行路においては、逆説的な論理を取り入れざるを得ないのが、堕落した人間であるということを皆さんは知らなければなりません。

◆まず家庭のために犠牲になりなさい

 人間が本然の状態に戻ろうとすれば、血族を通じていかなければなりません。善なる道を行こうとすれば、善なる父母を通じてのみ行くことができます。それで「両親に孝行しなさい」と言うのです。家庭のために犠牲になることは、悪にはできないことなのです。

 この地に生きているどんな悪人であっても、自分の子供に対する父母の愛の中には種子が残っているのです。父母が自分の子供に「お前も私のように悪人とならなければならない」と教える人がいるでしょうか。自分は殺人強盗犯であったとしても、子供には「お前は絶対に殺人強盗犯になってはならない」と教えるのです。それは反対であるというのです。

 このように人間は堕落しましたが、父母と子の関係においてだけは愛が残っており、本然の愛の形態が同じなので、その愛を通じて本然の位置に戻ることができるのです。もしその愛さえもなければ、人間は本然の位置に戻ることができません。それゆえ、父母の前に孝行しなければならず、家庭のために自分を犠牲にしなければなりません。

 国を中心として見ると、先駆けて涙の道を行かなかった愛国者はおらず、家庭を中心として見ると、先駆けて涙の道を甘受しない孝子はいないというのです。結局、死ななければならないというのです。私を否定する道を行かなければなりません。これを明確に知らなければなりません。このように行く道が善の道です。民族は国のために犠牲になり、国は世界のために犠牲になるべきです。

 本来人間は、家庭の主人であり、氏族の主人であり、国家の主人であり、世界の主人です。ところが、堕落によってこのようなことをすべて失ったために、この原則を探してその過程を通過せずには、そのような位置に上がることができないのです。いかなる環境であっても、時間の長短の差はありますが、この公式を通過しなければならないことは間違いないというのです。

◆聖人になろうとすれば国家と民族を超越すべし

 ここに集まった皆さんは、善なる人とならなければなりませんが、善なる人になる方法は何でしょうか。善なる人になるために、六千年という飽き飽きするほどの歳月がかかったのに、早く善人になる方法はないのでしょうか。そうするには思想が必要なのです。世界主義、国家主義、民族主義、このような言葉を多く使うのですが、民族主義者となるか、世界主義者となるかが問題なのです。

 聖人とはいかなる方でしょうか。聖人は民族主義者とは違うのです。聖人は世界的な方です。聖人は、国家の限界圏内で忠誠を捧げて生きていく人ではないのです。国家的に追い込まれ、追われる人の中に聖人が現れたのです。それはどういうことかと言うと、自分の国を超えて、世界のために努力する人の中に聖人が現れたということです。

 聖人は国家と民族を超越し、世界のために自分の命を投入し、受難の路程も喜びとし、世界的な理念とともに生きようとする信念をもち、命を懸けるという条件を立てて、理想世界を探し求めていく人なのです。世界だけでなく、世界までも超越するのです。

 聖人たちを見てみると、全員が宗教の教祖であるということが分かります。イエス様も聖人です。イエス様は、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ三・一六)と語られました。この教えの主流思想は人ですか、神様ですか。神様なのです。仏教の釈迦、イスラム教のマホメットも同じです。彼らはみな、神様を中心とした宗教の教祖として出発しました。

 世界の四大聖人を挙げるとき、ソクラテスを聖人として挙げることはできないのです。ソクラテスは知識の王子です。知識は人間の生命を支配することはできません。生命は神様だけが支配することができるのです。生命の価値を探し求めて歩むのが人生であるために、知識を通しては探すことができないのです。博士になったといって、それが人生において価値のあることだと考えるのは、非常に大きな誤算です。その人がもっている知識が、天下がみな認めるだけの知識であるとしても、幼い子供の生命にも満たないものでしかないのです。

 宗教は、生命を支配することのできる権限をもって現れたものであり、哲学は知識を追求するものです。それで、ソクラテスは聖人となることはできないのです。知識は、人の命を解決することができないのです。その事実を皆さんは知らなければなりません。


◆神様と人間が好む主義、思想、宗教

 神様を抜きにして聖人はいないということを考えると、聖人は、神様がいることを象徴したものでしょうか、いないことを象徴したものでしょうか。神様がいるということを象徴したものなのです。世界文化圏は、宗教を中心としてすべて形成されるでしょう?
 いくら立派な政治家や、偉大な民族がいたとしても、やがてみな滅びてしまいました。しかし、宗教だけは数千年間、その伝統を守りながら一歩ずつ発展してきたのです。そうして世界のあらゆる国家が、宗教文化圏内に入ってきたのです。そのような歴史的な事実は、否定することができないのです。このことを見ると、歴史的な主体である神様が存在しないとは主張できないのです。

 皆さんは、民族主義者になりますか、世界主義者になりますか。宗教は世界主義だけではありません。人間にだけ良くしようという主義ではなく、神様にまでも良くしようという主義なのです。しかし、共産主義や民主主義は、人間だけを良くしようという主義なのです。

 それでは、神様だけが好まれる主義であれば良いのでしょうか。原則的にいうと、神様だけが好まれても駄目なのです。神様も好み、人間も好まなければならないのです。共産主義者たちが主張するのを見ると、「神はいない」と言います。彼らは「物質がすなわち生命である」と言うのです。多分「地獄にも行かない」と言うでしょう。共産主義は、結局最後には滅びてしまうのです。

 宗教も、神様だけを中心とする宗教は滅びます。また、人間だけを中心とする宗教や主義思想も滅びるのです。

 それでは、神様と人間にとって良い主義を、神様の世界では歓迎するでしょうか、しないでしょうか。また、人間の世界でも歓迎するでしょうか、しないでしょうか。歓迎するのです。したがって地上天国を成し遂げようというのです。地上天国を成し遂げずに、天上天国に入っていくことはできないのです。

◆私たちの願いは宇宙を主管する立場で神様に侍ること

 神様がいらっしゃるとしたら、神様がアメリカの国民だけを世界の主人にしたいと思われるでしょうか。全世界の人々を、すべて主人にしたいと思われるのではないでしょうか。そのため、国家を中心とする思想は、すべて流れていってしまうのです。どんなに世界を震動させ得る主義があるとしても、自らの民族性を超越できなければ、結局は滅びてしまうのです。

 聖人たちは世界主義を叫びながら死んでいきましたが、その世界主義という思想とともに地上で生きたため、地上に解放の時が来るようになれば、霊界でも解放の時を迎えるようになり、それによって初めて自らの時を迎え、栄光の座につくようになるのです。イエス様は、十字架上で怨 讐たちの福を祈りながら、自分はたとえ死んでいく立場であっても、気概をもって死の道を堂々と行かれたでしょう?
 イスラエル民族の反対を受けながらも、ひたすら天と地のために死んでいかれたのです。

 そのように死んでいったなら、そのような世界が来る時までは、その人を中心として侍っていくのです。その人を主人として、侍りながら生きたいのが天理の原則なのです。それで人間たちは、「善を行いなさい」と教育するのです。ここで善を行いなさいというのは、犠牲になりなさいという意味です。

 言葉なく国のために犠牲になる人は、国運を受けることのできる子孫を残すでしょうし、言葉なく世界のために犠牲となる人は、世界の運勢を受けることのできる子孫を残すでしょう。

 それでは、この世界は何のために犠牲にならなければならないでしょうか。神様のためにです。それでは、神様は何のために犠牲にならなければならないのでしょうか。神様の愛のために犠牲にならなければならないのです。信仰、希望、愛、この三つが常にあるというなら、その中で一番は愛であるという結論は既に出されたのです。神様も愛であるために、愛なくしては生きていくことができないのです。

 神様は愛する息子、娘を失ってしまったために、愛することのできる息子、娘を探し求めてこられました。それで、世界は神様のために犠牲とならなければならず、神様は息子、娘のために犠牲とならなければならないというのです。それでは、神様が息子、娘に会って何をされようというのでしょうか。一つしかない愛の因縁を残そうというです。それを残さずには、後継者が現れることはないのです。そこから初めて、横的にすべてが因縁づくようになるのです。

 それで私たち自身も神様に似なければなりません。神様に似ることなくして、この世界を率いて神様の前に行くことはできません。すなわち、神様と一致することのできる立場に立ってこそ、私たちの願いが成就されるのです。

 それゆえ、先にお話ししたように、真の父母の因縁を中心として、人間を代表することのできる家庭の思想が氏族の思想となるのです。また、そのような氏族の思想は、民族の思想として発展するのであり、民族の思想は、国家の思想として発展するのであり、また国家の思想は、世界の思想として発展していくのです。そうして、世界の思想は神様の思想として、あらゆる生活の中に展開し、発展していくのです。

 このように、ただ神様の愛だけを中心として、全宇宙を主管することのできる立場で神様に侍りながら存在しようとするのが、すべての被造物の願いであり、人間の願いであるということを皆さんは明確に知らなければなりません。


















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