文鮮明先生のみ言集
訓教経(下)


前進と停止

一九七一年二月二十一日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第四十二巻』


 私たちが信仰生活をするときに、最も問題になることとは何かといえば、自分自身を中心として、願う目的に一歩近づくのか、そうでなければ後退するのかということです。

◆前進の一路を歩んでこられた神様の復帰摂理

 自分自身が、きょうよりも勝るあすを迎えるために、より価値的な何かを追求すれば追求するほど、そして追求するその内容が大きければ大きいほど、それだけ前進できる速度を倍加させるという気持ちをもたなければ、その追求する目的を成就することは困難です。

 もしそういう目的を中心として進まなければならない立場であるにもかかわらず、進むことができず停止するとしたら、後退の一路を避けることはできません。このような事実を、私たちは日常生活の中でしばしば感じます。

 例えば、ある友人に会って対話をするとき、きのうやりとりした会話よりもきょう交わした話の中に、自らの心を新たに誓うことができる激励の言葉と、より価値ある内容の言葉があったとすれば、そこでは必ず内的に前進を決意することができるのであり、その決意によって生活の中で自らの環境を一歩前進させることができるのです。

 しかし、二人の間の会話の内容が、きのうよりもかえって気落ちさせるような内容であったとすれば、後退するしかない内的事情が残るようになるのです。そのような時には、二人の仲が遠ざかるのはもちろんのこと、自分自身も、対話しなかったよりも悪い結果に陥るようになることを、私たちは日常生活を通じてよく感じます。

 一つの国の運命も同様です。どの国を中心として見ても、その国が前進しているか、停止状態であるか、あるいは後退しているかということが最も大きい問題に違いないのです。このような観点から今日の世界を見ても同様なのです。

 いかなる主義や思想であったとしても、前進の一路を繰り返して、最後には世界の全人類がそこで一つとなり、また一つとなった人類がそれを一代で終えるのでなく、自らの子孫にまで連結する伝統として残すとき、それは歴史の流れの中で、より一層輝くことができるのです。そのような立体的な内容をもっている主義、主張や思想体系は、発展の一路を行くまいとしても行かざるを得ないのです。

 言い換えれば、発展するためには、今までの歴史過程で少しずつ発展してきたあらゆる要件をそのまま消耗させるのではなく、それを生命の要所として、そこで新しい枝と葉が出るようにし、何かを補ってあげなければならないというのです。そうでなければ前進することができないのです。

 このような観点で神様の摂理を見るとき、神様は、過去、現在、未来を通した立場で今までの摂理を発展させているのであり、過去よりも一歩進んだ前進の一路を現在も歩んでいらっしゃることは間違いありません。

 それでは、今まで歩んできて、ある程度まで前進しましたが、これから進むべき未来を前にし、ここからずっと前進できるだろうかと考えるとき、「これ以上前進できない」と言うようになれば、そこから停止状態になるでしょうし、またそこには必ず後退の一路が待ち受けているという事実を知らなければなりません。

◆ずっと前進できるかということが問題

 人は誰でも、失敗することを願わず、成功することを願うのです。すべての人々は、心と体で成功する日を願って追い求めます。失敗は誰も願いません。環境自体もそれを願いませんが、私たちの日常生活においては、成功よりも失敗の度合いが多く漂っているという事実を否定できません。

 さらに私たちは、今日日常生活でそれを体 恤し、痛感する立場にあるということを考えるとき、後退するということは、私たちにとって怨 讐のようなものです。したがって、これを打開してしまい、後退は私とは関係ないという絶対的な立場を固守しなければならないのが、あすへの望みと、希望をもって進む人たちの必然的な要件に違いないということを私たちは知るようになるのです。したがって、きょう勝利の基点をもったとしても、それを自慢するのではなく、あすに控えているかもしれない停止と後退のことを考えて、きょうの勝利を分析し批判することができなければなりません。

 それで、きょういかなる勝利を収めたとしても、その勝利を喜んでばかりはいられない立場にあるのが、きょうよりもより勝ることを願い前進していく人たちの立場ではないかというのです。したがって、きょうの勝利があるならば、その勝利はあすの新しい基盤となるべきであり、きょうの一歩進んだ基盤があるならば、それは一歩前進したことで終わるのではなく、あすの生活的な基盤となり思想的な要件とならなければならないのです。

 そうして、きょう私たちがある勝利を収めたとすれば、それを基盤としてより広い意味のあすを開拓し得る一つの母体、一つの動機として消化し得る自らの能力や自主力をもたなければならないというのです。そうできないならば、現在どんなに勝利をし、前進的な路程を歩んでいるとしても、願いをかなえることはできず、より大きな目的を達成させることは難しいという事実を知らなければなりません。

 私たちは、過去と、現在、そして未来への過程をたどりながら、出たり入ったりする瞬間を連結させているのです。したがって、きょうという日がいかに貴く、現在がいかに貴いかを知らなければなりません。

◆喜びは前進する中で感じるもの

 私たちが生命を維持するためには、呼吸を続けなければなりません。また、そこに相応して栄養を補給しなければなりません。このように、補給した栄養素が循環器を通し互いに交わるとき、きのうと異なるならば、私たちの体の調子は悪くなります。

 しかし正常な体のリズムと歩調を合わせ、きのうよりもきょう、少しでも栄養を与えたとすれば、私たちの体は自然に健康になるのです。そこから新しい前進の基盤が広がっていくことを知ることができるのです。

 このように、皆さんが信仰生活をするときにも、必ず栄養剤のようなものが必要です。また、正常に呼吸をするのと同じような生活態度が必要なのです。すなわち、「私はこのようにして行くべきだ」という独自の信仰基準を中心として、呼吸するように信仰路程を歩まなければならないのです。呼吸するように、生命力を補給することのできる正常な基準がなければならないのです。

 そうすることで、それに相応して栄養を補給することができます。そのようになれば栄養剤をどのように補給するか、正常な信仰基準の前に、正常な栄養剤を補給することのできる補給路を、いかにして補強するかということが前方でも後方でも、前後、左右、四方で問題となるのです。きのうよりもきょう、この時間よりも次の時間に、いかにしてより良い価値ある栄養を補給させるかということが問題だというのです。

 皆さんの信仰生活で、喜びというものは必ず前進して発展をするところでのみ感じることができるのです。それゆえ、いかにすればそのような内容を補強することができるのかということをいつも考えなければなりません。

 人が仕事をするときにも、その仕事をする前よりも、したあとがより悪かったとすれば、そこでは必ず打撃を受けるのです。悪いということは一歩後退したということであり、良いということは一歩前進したということを意味します。

 こういう立場から見るとき、この地に生きている私たち人間は、罪悪の世界で生きているがゆえに、自分が生活する全分野において、「きょう一日の生活は喜ばしかった」と言うことのできる結果を残すのは、極めて困難であることを知らなければなりません。

◆現実問題をどのように処理するかが重要

 十人に接したとすれば、その中で、果たして何人が私に希望をもたらしてくれるだろうかという問題について考えるとき、十人全部がプラス的な結果よりはマイナス的な結果をもたらすことが多いということを、私たちは日常生活で頻繁に感じます。

 では、このマイナス的な結果を、いかに補強することができるでしょうか。それを補強する道がないならば、私たちが活動する環境では、私たちの信仰生活や、進んでいく道に前進的な結果をもたらすことができず、かえって後退の一路にぶつかるしかないということを皆さんは知らなければなりません。

 それゆえ、いつも周知しなければならないことは、私が過去にどのようにしてきたかが問題ではなく、きょうこの時間からが問題だというのです。きょう私が置かれている現実的な問題を中心として、いかに処理していくかが、極めて重要だということを皆さんは知らなければならないのです。

 心で願わない人に接するとき、どのように接すべきであり、また、接したのちに現れた結果をどうすべきかという問題を、まず考えてみなければなりません。それで、どんなに悲しくて孤独な立場にあったとしても、それ以上は下りていかず、それ以上は打撃を受けないという線を引き、それを越えない対人関係をもたなければならないのです。

 職場であれば職場で仕事をする時にも、仕事をする自分自身がいかなる立場にいるのかを知らなければなりません。その職場で自分が一歩前進するのか、後退するのかを考えてみなければならないのです。自分が置かれている職場を中心として、その職場自体が私にとってあすの希望の基盤を確約することができ、きょうにおいても、なくてはならない関係として残り得るのか、という問題を考えてみなければならないのです。

 ところが、もし仕事と私の間に結ばれた関係が、私の信仰生活において必要で適切な内容として残ることができず、ただ安心するぐらいの内容ならば、それは停止でもなく後退の一歩を踏むようになるのです。それゆえ、今現在の立場が、皆さんの生死の問題を左右しているという事実をはっきりと知らなければなりません。

◆目的が明確で動機が良ければ前進

 職場でペンを握って一文字を書くときも、誰のために書いているのかという目的観が明確でなければなりません。自分が自分自身のために生きるよりも、天のみ旨と関係を結び、天のみ旨のために生きることがもっと効果的な結果をもたらします。

 それゆえ、私が生きていくことが私のこととして結論づけられるよりも、天のものとして結果づけられ、天が喜んでこそ私たち自身もうれしいのです。どこまでも私が主体ではなく、天が主体であるため、天が喜ぶことができる内容を立ててこそ、相対的立場にある私たちが喜びを感じることができるというのです。これは自然の原則です。

 あらゆるものの動機は自分と関係していますが、その結果は自分自体を中心としたものではなく、より大きな目的を中心として、その目的にプラスとなる要件にならなければならないのです。一日一日仕事をして生活をする中で、そのような要素をどれだけ残すかということが重要です。きのうよりもきょう、またきょうよりもあす、より高く、より多くそのような要素が積み重なって、それが高くなれば高くなるほど、希望の度数もそれだけ高まるではありませんか。

 私たちがいかなることをするときも、そうだというのです。きのうの心と、きょうの心が出発する時から異なっていなければならないのです。言い換えれば、「過去にはこのような思いで出ていったが、きょうは新しい気持ちで行こう」という覚悟で、出発の動機からそのように正して出るとすれば、間違いなく良い結果をもたらすようになるのです。

 しかしそのようにできず、以前よりも低い立場で、きのうよりも劣る思いで出発したとするなら、必ず後退の一路を歩むようになるのです。そのような環境の中で継続して仕事をすればするほど、そこでは自ら破局を招くようになるのです。

 また、それが一つの方向だけでなく、四方でそのような後退の感情を引き起こしていくならば、いくら目的が大きく、いくら自ら固く決意したとしても、それは停止状態となり、動こうとしても動くことができない、完全に固定された立場となることを私たちは体験するようになるのです。

◆前進させたり後退させるのは自分自身

 私たちが前進と停止の問題について考えてみるとき、これを誰が刺激するのかが問題です。ある外的な環境が私を前進させてくれることは絶対にありません。また、ある外的な事柄が私を後退させることも絶対にありません。

 私を前進させ、あるいは後退させる母体とは誰でしょうか。ある相対的な要件ではなく、まさしく私自身だというのです。あくまでも私自身が問題です。私が相手をした、ある人が悪かったためにそうなるのではなく、私自身に問題があるためなのです。

 したがって皆さんは、自分自身が後退するのも自分ゆえであり、前進するのも自分ゆえであるということをいつも感じなければなりません。自分自身を前進させ、あるいは後退させる母体が、正に自分自身であるというのです。そのような問題が、相手によって生じる問題だと考えてはいけません。自分とは関係なく生じる問題だと考えてはいけないのです。

 自分に生じるあらゆる問題は、必ず自分と関係があるために生じるということを知らなければなりません。そのような問題が、私の生涯においてやりがいのある価値を決定づけるか、あるいはそうでない結実を結ぶかというのも自分自身にかかっているのです。したがって皆さんは、このような問題を清算するための一つの解決方法を考えなければならないのです。

 こういう観点から見るとき、皆さんはあくまでも、自分が主体的な立場で対するあらゆる問題と関係を結び、それを処理して必ず勝利の結果として収めなければなりません。

 私たちが信仰生活において、このような態度と立場を取ることなくして、その生活がどんなに立派だとしても、そこでは受動的な結果しか収められないのです。受動的な結果をもっては、直接的な勝利を収めることができないということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。それゆえ、「私は誰によって後退し、また誰ゆえにこのようになった」と言ってはいけません。

◆悲しみも喜びとして消化せよ

 大きな結実を収めるためには、必ずそこに対応する否定的な環境を通過しなければなりません。なぜでしょうか。この世が堕落した世の中であるためです。それゆえ恩恵を受ける前には、必ずサタンの役事が起きるのです。試練の期間が過ぎれば、必ず恩恵を受ける日が来るのです。これはイスラエルの歴史を見ても分かります。

 したがって、悲しいことが迫ったとしても、悲しんでばかりいてはなりません。悲しみで出発したからといって、悲しみで終わりを結ぶのであれば、その人の人生には悲しみが続くのです。しかし、始まりは悲しみであったとしても、終わりを喜びで収拾したとするならば、そこから喜びが出発するのです。

 また、いかに大きな悲しみが襲ったとしても、出発の時からその悲しみを喜びで消化していくならば、その人は過去の悲しみと現実の悲しみを勝利で実らせることができるのです。喜んで環境に対するようになるとき、歴史的な希望の基盤がそこに結実するというのです。

 それゆえ、私たちの前に迫る悲しみの路程を、悲しみで対するなというのです。たとえ悲しみで出発しても、結果を喜びで結ぶようになるときには、あすには喜びの出発を私たちの前にもたらすことができるのです。また出発から喜んで最後まで行くならば、私たちは、過去、現在、未来に喜びを連結させることができる中心的な主体になるのです。このような場に立つとき、神様が干渉せざるを得なくなるのです。

 神様は、過去の勝利だけを考える方ではなく、また未来の勝利だけを誓う方でもありません。過去の勝利をきょうの現実と対比してはいけないのです。神様は、未来の勝利の基盤を現実で準備しようとなさるので、皆さんは、その現実の環境を悲しみの中に追い込んではいけません。

 出発から喜び、良い気分の立場に立って、結果までも喜びで消化することができる立場に立つようになれば、その過程にいかに大きな悲しみがぶつかってきても、それを喜びと恵みで消化することができるのです。ここに関係した立体的な範囲、すなわち霊界と自分を中心とした過去、現在、未来を、天の前に勝利の結果として収めることができるというのです。

 このような事実について考えるとき、そういう峠が多ければ多いほど、「輝く前進をしている」と言うことができるのです。その困難な峠を過ぎれば、私がいかにしてそれを越えたのか自ら考えるようになり、また過ぎ去ったその日が、いつも自分にとって一つの新しい動機となり、激励の材料となって、希望にあふれたあすの強固な基盤になるという事実を、私たちは信仰生活を通じて頻繁に体験するようになるのです。

 きょう皆さんは、自分が前進し後退するすべての因縁は、相対的な要件によってなるのではなく、主体的な自分によってなされるということを明確に知らなくてはなりません。

 それゆえ、イエス様も十字架を背負わなければならなくなったとき「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかしわたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と祈祷したのです。そこでの中心は神様でした。すなわち、イエス様は自分を中心としたのではなく、神様を中心として祈祷したのです。

 神様はいかなる道を行かれるのでしょうか。神様は、悲しみの道から喜びの道を訪ねていかれるのです。神様は、悲しみの日から出発したので、復帰路程において、いつもまず悲しみの路程をたどらなければならないのです。このような神様の立場を、皆さんは知らなければなりません。

 悪と善が闘争するとき、どちらが損害を被らなければならないでしょうか。悪が損害を被るのではなく、善が損害を被らなければならないのです。それは、損害を被って出発した行路が善の行路だからです。すなわち、神様は損害を被る立場であるために、いつも悲しい歴史を経てから、それを清算しなければならないのです。

 しかし、結果的には悲しみを取り除きながら、あすの喜びの一時を願って進むのが天の復帰摂理です。それにもかかわらず、その結果が喜びの結果をもたらすことができず、出発したときよりももっと大きな悲しみとなったならば、その悲しみの結果をもたらした人は、そこでへし折られ二度と立ち上がることができない、ということを皆さんは知らなければなりません。それが、復帰摂理路程において、み旨に対してきた責任者たちのたどってきた歴史過程なのです。

◆悲しい神様を慰労してさしあげようとすれば

 神様は喜びで出発したのではなく、悲しみから出発したので、その神様が私たちを訪ねてこられるのは、悲しみの日を迎えるために来られるのではなく、喜びの日を迎えるために来られるのは間違いない事実なのです。

 ところが、今日私たちが悲しい立場で出発し、悲しい結果を結んだなら、それこそ私たちが神様を目の前で全面的に裏切り、追い出す結果にしかならないのです。したがって私たちは、いかなる困難があったとしても、悲しみで訪ねてこられる神様を喜びで迎える心の姿勢をもたなければなりません。

 私たちがこのような心の姿勢を備えるならば、悲しみから出発して人間を訪ねてこられる神様であるとしても、私たちに対する瞬間、悲しみを忘れ、喜びの結果をもたらすことができるようになるでしょう。またそのようになれば、その喜びの基準が上昇することによって、ここから復帰されるのです。喜びの心で対するその場から、創造的で新しい前進の歴史が出発できるというのです。

 神様はそのような基盤を敷き広げて、そのような環境を用意しようという人を中心として摂理の基盤を広めようとされるのです。これが、復帰摂理を勝利で終えようとされる神様の避けられない欲求であり、要求に違いないという事実を私たちは知らなければなりません。

 今日多くの人たちは、信仰の道を行くのに「孤独な私に、天よ、福を与えてください。私が困難な道を歩んでいるので、天よ、この道を阻み、私を楽な道に導いてください」と祈ってきました。しかし私たちは、神様がどこの誰よりももっと困難な立場で、この時間にも、私よりももっと大きな苦痛にあえいでいらっしゃることを知り、かえって神様に「あなたの困難を私に分けてください」と言って、偉大なる神様の苦痛を慰労する立場に立たなければなりません。

 ある母親に愛する息子がいて、その息子が死んだとしたなら、その母親は言うに言えないほど悲しむことでしょう。そのような時のその母親の心は、それ以上の悲しみを感じることなくして理解することができません。そのお母さんが味わった悲しみよりも劣る悲しみを味わった人が、その母親を慰労したとしても、その母親は慰労されません。しかし、その母親以上の悲しみを味わった人が慰めながら「私もこのようなことがあった。このような時は、こうすれば損だから、このようにしたらいい」と言うときには、その母親は、そこで自分の悲しい心を収拾することができるのです。

 しかし、その母親の別の息子が母親よりも悲しみながら、「私がお母さんの悲しみを代わってあげることができるなら、どんな困難も克服する」と言ってきたなら、その母親はその息子によって新しい希望を得て、かえってその息子を慰労する立場に立つようになるのです。

 それと同じように、神様がそのような立場で悲しみを受けたとしたなら、私たちは神様が受けられた悲しみがいかに大きいだろうかと、神様のことを考えて涙し、神様に「あまり悲しまないでください」と言うことのできる立場に立たなければなりません。自らの都合は差し置いて、神様を慰めることのできる立場に立たなければならないというのです。そのようになるとき、神様は悲しい立場でも、かえって私たちを慰労なさるのです。

 神様よりももっと苦労する立場に立って、「私がすべての責任を負う」と言って最善を尽くし、迫害と苦痛を受けることを自らの使命とし、それを克服していく人がいるとしたなら、神様はそこから慰労を受けるだろうし、神様のあらゆる事情を打ち明け、その人と共になさろうとするのです。このような事実は私たち人間の心情世界、すなわち情の世界から推測してみても分かるのです。

 したがって、今日私たちがみ旨を歩むうえで常に、悲しい神様をいかに慰労してさしあげるかということを考え、神様を慰労してさしあげるために神様よりももっと苦労しようという心をもたなければなりません。そのようになれば、かえって神様が私たちを慰めてくださる立場に立つようになるし、また私たちを慰める立場に立った神様は、悲しみを忘れて喜びの思いで私たちに接するようになるのです。

 私たちは神様の悲しみを知ったので、神様の悲しみを代わってさしあげるという心で不憫に思い、間接的にでも慰労することのできる立場に立ったならば、神様はそういう私たちの姿を見て、むしろ私たちを慰めてくださる立場に立たれるのです。そのような立場に立つことによって、その瞬間は神様が悲しみを越えることができ、悲しみを忘れることのできる瞬間ではないかというのです。

 このような事実を見るとき、信仰生活において、そのような態度がいかに貴重かということを皆さんは知らなければならないのです。

 私たちが祈祷する時間は、自慢する時間ではなく、祭物を捧げる時間であるということを知らなければなりません。「神様、あなたに悲しみがあるならば、その悲しみを私に蕩減させてください。それだけでなく、私たちの教会のあらゆる悲しみまでも私によって蕩減させてください」と言って、祭物となることを誓い、そのような立場を訪ねていく人がいるならば、彼がいくら遠のこうとしても、神様はその人を訪ねてこられるのです。彼が願わなくても、神様は必ずその人を中心として因縁を結ぼうとなさるのです。

 そういう人を通じてのみ前進できるのが天の役事であるため、神様はそういう基盤をもって進む人に対さずにはいられないのです。

 私たちが信仰生活をするとき、前進の一路を行くためには、悲しい神様を慰労することができる立場に立たなければなりません。悲しい神様を慰労するためには、悲しい立場にあってはなりません。悲しい立場では、悲しい神様を慰労することができないのです。

 したがって、常に感謝する心をもたなければなりません。不平や、不満の思いをもってはいけないのです。み旨のためならば、千回、万回死んだとしても感謝することができ、千回、万回また犠牲になり、天のみ旨のために死ぬことができるならば、これ以上の願いはないという心の姿勢をもたなければなりません。そのような心をもった人は、自分の一代で数十人、あるいは数百人を身代わりすることができるのです。

 そのような心をもって今まで歩んできた道を振り返り、「私は神様を慰労し、神様の喜びのために生きた」と言うことができるならば、その人は死んだとしても死んだ人ではありません。そのように個人的な戦場でのみ戦うのではなく、そのような心をもって範囲を広めて家庭的な戦場で戦っていかなければなりません。私個人が過去にそのような心をもって家庭を抱いて戦ったならば、再び氏族を抱いて戦い、その次には民族、国家、世界を抱きながら戦っていかなければならないのです。

 このように蕩減の段階を広げながら進むならば、私たちが前進できる分野はますます四方にその範囲を広めていくことができるし、それによって私たちは、ずっと発展していくことができるのです。しかし、み旨に対し過去よりもきょうが、きょうよりもあすへと進めば進むほど、だんだんその目標が減少していく立場に立っていれば、それは間違いなく停止する立場を越え、後退する場となるのです。このことを皆さんは知らなければなりません。

◆後退する人は神様も好まれない

 後退する人は世の中の人も嫌いますが、神様も嫌われます。後退する人の後ろには必ずサタンがついてきて、その人の前進をあらゆる方向から阻もうとするのです。そのような立場に立つために、その人は後退の一路を歩むようになるのです。したがって、一歩後退する人は善の立場ではなく、悪なるサタンの立場に立つようになるのです。

 信仰生活には、時代が重要です。自分がいかに信仰生活を堂々となし、み旨の道を力強く歩み、個人的な摂理時代に勝利したとしても、その時代が家庭的な摂理時代圏内に一段階前進し、家庭的な責任を担うべき時には再びそれに合わせて行かなければならないのです。個人的な時代に勝利した結果をもって、家庭的な摂理時代にまで勝利を押し通すことはできないのです。

 過去の信仰生活と現在の信仰生活を見るとき、その様子や領域が同じであるとしても、そこには差があるのです。より前進した時代圏内においては、自分自身も前進しなければならないのです。それにもかかわらず、個人的な使命だけをしていた時のような立場に立っていれば、これは前進しているのではなく、後退しているのです。

 それゆえ、み旨の道を歩む人は、不平不満を言ってはならないのです。いつも体を曲げて大きな罪を犯した罪人のような立場、祭物の立場を取るしかないのです。こういうことが恨めしい復帰の路程なのです。このように恨めしい復帰路程の蕩減は、きょうのある瞬間に完了するものではなく、あす完了するものでもありません。現実、正にきょうのこの時間を中心として完結していかなければなりません。

 それゆえ、私たちは現在を無意味に送ることはできないのです。現実こそ生きるか死ぬかという、私の生死を判決する岐路であり、分岐点として常に私の生命をねらっているのです。このような現実の場があるということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。

 現実で敗者となっては、未来においても勝者になれません。また現実で敗者のわびしさを味わった人は、それを「過去の勝利の結果である」とは言えないのです。それゆえ、現実に私たちの怨 讐の中の怨讐が現れることもあり、幸福の中の幸福が覆されたりもするのです。ここで、どのようにすればこの怨讐を捕まえて、幸福の要因を模索することができるのかということは深刻な問題なのです。

 もし我知らず一峠、二峠、三峠と後退の道に落ちていったなら、これを再び前進の道に戻そうとすれば、どれほど大変であるか知れません。また、自分の心にひびが入っているという事実を知って、それを回復しようとするときには、身もだえするほど苦闘しても、独りでは難しいのです。

 それゆえ、信仰の道を行くにおいて、自分が愛することができる息子や、指導者がいるということは、いかに大きな幸福か知れません。そのようなときに、もし自分の主張や主観を唱えては、永遠に行く道がふさがってしまうのです。それゆえ、自分に愛する息子や娘がいれば、彼らに自身のすべての事情を打ち明けて、「これをどのように考え、またいかにすれば良いのか」と相談しなければなりません。

 また師がいるならば、その師にすべての事情を率直に打ち明けて、師はどのように考えるのかと相談をしなければなりません。このように、上下関係で問題を収拾することのできる第二の対象を探さずには、自分一人では難しいのです。

 後退する立場では、どのようにして一歩前進できる動機を探すのでしょうか。自分自身で探すのではなく、第三の対象を通じて探さなければならないのです。それゆえ父母が必要であり、師が必要であり、愛する息子、娘が必要だというのです。こういうことを、皆さんは明確に知らなければなりません。

 このような人がいないときには、天に談判しなければなりません。ところが、既に打撃を受けて後退した所で談判をしようとすれば、過去に前進していたときより何倍もの困難が伴ってくるのです。何倍の精誠を込めても収拾することのできないのが、私たちの信仰の道であるということを皆さんは知らなければなりなせん。

◆今この瞬間がいかに重要であるかを知れ

 このように一刻を争いながら戦う生活をした経験がある人は、一時間がいかに恐ろしいかということをよく知っているはずです。どこの誰かが、でんと現れて語ったとしても、その一言が私をとらえるのか、あるいは私を一歩前進させる動機になるのかということを既に心の中で知るというのです。喜べる対象なのか、そうでなければ悲しむべき対象なのかを知ることができるというのです。こういうことが、今日の信仰生活において重要な問題です。

 このような生活をするには、ただいい加減に動いてはなりません。私を中心として動くのです。それゆえ信仰者は、いかなることがあっても打撃を受けてはなりません。どんなに衝激的な話を聞いたとしても打撃を受けてはならないのです。仮に打撃を受けることが起こり、自分が悔しい立場に立つようになったとしても、それは私を滅ぼすためのものではなく、私を生かすためのものであると考えなければなりません。そのようなことが生じれば生じるほど、未来の時が、私の時が近くに来ていることを知らなければなりません。そしてその環境を越えるために、謙遜な心であらゆる精誠を尽くして祈祷しなければなりません。

 ピラトの法廷で、イエス様にユダヤ人の王かと尋ねたとき、イエス様は堂々と答えることのできる内容が十分にありましたが、自身の今の立場がいかなる立場であるかを知って、またいかなる弁解をしても、その場では受け入れられないことを知っていたために弁解しなかったのです。イエス様がそこで軽率なことを言ったとしたら、天を不信する結果を招くことになったために、天の氏族をいかにつくっていくことができるのかを冷静に考えたのです。

 周囲の環境からの反対が強ければ強いほど、天の氏族はそこに比例して大きくなるのです。それゆえ、み旨を中心として歴史的な伝統を立てるために適切な内容の言葉を残したのです。イエス様がピラトの法廷で、お前がユダヤ人の王かという問いに対し、「そうだ」と答えたのがそれなのです。

 そのような内容は歴史的な勝利を決定し、時代的な中心を決定し、未来の方向を提示した内容なのです。そのような場で責任を全うすることができなかったとしたら、イエス・キリストが立てようとした正常な福音の基盤は築くことができないというのです。したがって、私たちがいつも考えるべきことは、この時間、きょうのこの時間が重要だというのです。

◆神様はどれほど孤独で哀れなお方か

 ある指導者になったならば、壇上に立って多くの大衆の前でみ言を伝えるその時間は、深刻な時間です。指導者が壇上に立ってみ言を伝えるとき、いかにして多くの人々に命の因縁を結び、天と連結してあげるかを考えなければなりません。それが指導者の責任です。

 そしてその場で自分が後退したのか、そうでなければ一歩前進したのかをはっきりと知らなければなりません。後退したにもかかわらず、それをわきまえずそのままでいれば、それを再び収拾する道がないのです。それゆえ、指導者の行く道がいかに深刻で寂しい道であるかということは、自分がそのような生活をしてみない人には分からないのです。

 指導者は個々人の生命に対し責任を負うべき立場であると同時に、あらゆることの先端に立つべき開拓者の立場なのです。弱い立場にいる人には、命の保護者であり、指導者だというのです。きょうの基盤よりも、あすの相対的な基盤をいつも比較する、かわいそうな立場に立っているのが指導者だということを皆さんは知らなければなりません。

 人間の指導者がそうであるのに、ましてこの宇宙に責任を負っている神様の立場はどうでしょうか。未来について知っていらっしゃる神様ですが、同時に人間の父の立場で、地上の人間とお互いに相応的にすべてをわきまえながら決定していかなければ、前進することのできない立場でもあるのです。それゆえ、地上の一人を訪ねて来られる神様の心は、どれほどもどかしいでしょうか。

 皆さんは、指導者の生活がいかに孤独で寂しいものであるかということを感じることで、神様も孤独でかわいそうな方であるということを感じなければなりません。

 それでは、堕落はいつ起きるのでしょうか。堕落は、過去のことではありません。ある瞬間、正にきょうのこの時間に私を引っ掛けて倒す小さな問題が、私の生死を決定するかもしれないのです。堕落は怒涛のように一度に押し寄せてくるものではありません。ある動機から始まり、小さな隙間から知らず知らずにしみ込み、前進の道が破綻する結果をもたらすようになるのです。

 このような恐ろしいことが、過去ではなく、今日現実的に起きているということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。

 天とサタンが共に死活を懸けてねらっている場が現実であるということを、皆さんは知らなければなりません。もし現実において一歩前進することができず、後退する立場に立つようになるときには、友人であれ、息子であれ、隣人であれ、家族であれ、全部なくなるのです。それゆえ、この基盤を何としても正しく立てなければなりません。

◆神様が協助できる内容

 天は必ず善であれば上がるようにし、悪であれば下がるようにします。これはやむを得ないのです。上がったり、下がったりする動きがあるのです。したがって、信仰路程では水平線を基準として、善を中心として次第に進んでいくことが、極めて重要な問題なのです。

 一歩前進するために行き、また何かを得るために進んでいくとき、そのためにはどのようにすべきでしょうか。きのうよりも価値ある人になるためには、態度から変わらなければならないのです。

 したがって、明け方から仕事をしなさい。教会に来るときにも、「ただ行く」という心で来てはならず、雑談もしてはなりません。一片丹心、一つの場所に精誠を込めなければならないのです。皆さんが電車に乗ったりタクシーに乗ったりして教会に来る途中で、行き来する多くの人を目にすることでしょう。そのようなとき、彼らに現れたすべての姿をただ見過ごすことなく、それを分別し鑑定して自らの行く道にプラスとなる材料とし、栄養素として吸収できるようにしなければならないのです。

 皆さんが道を行くとき、ありとあらゆる人を見掛けるようになります。それらの人々を見掛けるのは、無言の教えなのです。したがって、皆さんはそのような姿を見るときには、いかなる説教者の説教よりももっと多くを感じ取り、悟らなければなりません。それらはみな、自らの行く道を見せてくれるものであることを知らなければなりません。

 そして自分自身は、み旨のためにあのように全身全霊、全力を尽くしてみたのかを考えてみなければなりません。そのようなことを見るとき、その一時を中心として、一歩前進することのできる材料として、また自身を飛躍させることができる相対的な材料として受け入れることを急がなければなりません。

 皆さんが祈祷するとき「お父様」と言うのは、既にある一人の個人、すなわち金なにがしや朴なにがしの言葉ではありません。神様は金なにがし、朴なにがしに対し公的な摂理路程を歩んだ数多くの先祖たちが、最後に成就しようとしたその目的を中心として、彼らが迎えようとした決定的な瞬間を通じて、気をもませながら祈祷するようにさせるのです。それはすなわち、神様の願いであり要請なのです。

 したがって皆さんは、「いかにすればそういう父の前に公認される人となり、使命を全うすることができるのか」ということを常に考えなければなりません。そうしながら、自分自身を忘れて、天に代わることができる本然の立場で祈祷しなければなりません。

 そうすれば、その祈祷は自分の口を通して出てきたものですが、自分の祈祷ではないというのです。祈祷を通じて自分が恩恵を受けることができるのです。皆さんは自分が感動せずには、絶対に相手を感動させることができないことを知るべきです。

◆前進する信仰者の生活態度

 今日、私たちが置かれている現在というものが、いかに貴重かを知らなければなりません。ところで、ここで皆さんは前進しているのでしょうか、停止しているのでしょうか。停止してはなりません。停止は絶対に願いません。停止とは瞬間的に起きるものです。急傾斜を上るとき、少しでも停止するようになれば間違いなく転がり落ちるのです。信仰の道も同じです。

 皆さんは、いつもこういうことを考えて緊張していなければなりません。急傾斜を上るとき、一歩一歩上がっていくその歩みは、天倫に代わることができる、最も貴いものです。一歩上っていくことは簡単なことではありません。七号目、八号目、九号目を越えて頂上に向かっていくときは、他のことを考えることはできません。一片丹心、頂上だけに向かって上っていかなければなりません。

 そうしていったん頂上に上れば、世の中はすべて自分のものになるのです。自らの視野に入ってくるあらゆる存在も、自らの懐に抱くことがことができ、目の前に展開するあらゆる存在も、主体である自分の前に相対的な因縁を結ぶようになるのです。そうして、それらは自分の前に喜びの対象、栄光の対象として入ってくるのです。そのようなことを感じる場、生涯の中でそのような喜びを神様と共に分かち合い、そのような勝利を体 恤する場には、神様が共にしないわけにはいかないのです。

 そのような時間、そのような時をたくさんもつ人には、神様が共にせずにはいられないのです。自らの歴史的な一代を中心として、私が百という基準をもった者であるのに、二百という基準を備えたとするならば、その人はいかに堕落した道を行ったとしても、二百を備えたその基準が常に彼を守ってくれるのです。困難なところを訪ね、難しいことをしようとするとき、既にそれがうまくいくのかいかないのかは彼の心と霊、すなわち彼の中で分かるというのです。

 皆さんが生命体になる前に、その生命体はどこで育ちますか。その生命体は空中で育つのではなく、自分の心で育っているのです。霊形体と生霊体も空中で育つのではなく、自分の胸中で育っているというのです。それゆえ私たちには、生霊体の感覚、生命体の感覚、あるいは霊形体が感知する何かがあるというのです。したがって皆さんは、それを知り、み旨の道を歩む中で、自分が前進しているか後退しているかを見分けることができなければなりません。

 それを見分けることができなければ、皆さんは停止するようになるでしょう。そのように停止する群れが多ければ多いほど、彼らは新しく入った人々の前に怨 讐となるのです。

 そういう生活、そういう信仰態度が習慣化し伝統化すれば、新しいみ旨の前に大きく使うべき人々が入ってきても、彼らの前に見本となることができず、刺激を与えることができなくなります。先に入った人たちが、生活面や信仰面で新しく入った人たちの前に見本となり、その基盤を築くべきであるにもかかわらず、そうできないときには大審判を受けるようになるということを知らなければなりません。

 それゆえ、私たちは現実で戦わなければなりません。前進するためには、見て、聞いて、感じるというあらゆる感覚、すなわち五感を通じて自分が前進しているのか後退しているのかを感知しなければなりません。五感を通じて入ってくるその感覚の一切は、自分がどんなことをしようが、それが前進できることか、後退することなのかが分かるのです。

 それゆえ、私たちの信仰基準となるのは、祭物となる生活をすることです。祭物となる生活をしなければなりません。したがって、信仰をする私たちがいつも楽しくうれしい日だけを迎えていては、自分を自慢することができる気迫とか、自慢することができる立場を備えることができないのです。なぜでしょうか。個人的な復帰段階を越えれば、家庭的な復帰段階が待っており、家庭的な復帰段階を過ぎれば氏族的な復帰段階が待っており、それを越えれば国家的な復帰段階、世界的な復帰段階が待っているからなのです。

 それゆえ、私たちは天の前に自分の生涯を捧げることができなければなりません。過去よりも迫りくる未来において、より加重された十字架の道を行かなければなりません。祭物となった立場で、自らの生涯のすべてを謙遜に捧げることができる生活態度こそ、信仰路程でより段階を高め前進できる一つの動機となるのです。もし、そのような生活態度をとらなければ、後退の道を繰り返していくしかないということを皆さんは明確に知らなければなりません。

◆天が同情できる基準

 きょうがどれほど貴いかということを皆さんは知らなければなりません。怨讐も、きょうの怨讐が一番怖いのです。過去の怨讐が怖いのでなく、あすに迫りくる怨讐が怖いのではありません。きょう接している怨讐が怖いというのです。皆さんは互いに審判しているということを知らなければなりません。したがって、皆さんは互いに審判の対象であることを知り、そのような審判の途上でお互いに協力して発展することができる動機をつくらなければなりません。

 死亡の限界点と生命の限界点が、きょうこの現実の焦点を中心としてひっくり返っています。したがって、ここで生命と因縁を結ぶか、あるいは死亡と因縁を結ぶかということが問題です。言い換えれば、天と因縁を結んでいくか、あるいはサタンと因縁を結んでいくかという問題が、現実的な基盤で決定されるというのです。こういうことを考えるとき、現実以上に怖いものはないということを皆さんは知らなければなりません。

 そのようなことが生活化した人は、どんなことを見ても、それがサタン的なことなのか、天的なことなのか分かるようになるのです。そうして、もし天が願わないことであれば無慈悲に切ってしまうのです。そこには少しも躊 躇する必要がありません。そのようにできない人は、表面では威勢高々に息巻いていますが、実際はその反対に行動するのです。しかし、自分がなぜそのようなことをするのかは分からないのです。分かるわけがありません。天の摂理を根本的に曲げてしまう行動をしながら、自分がなぜそうなのかが分からないというのです。

 皆さんは個人的な栄光や、栄華をみな捨て去り、十字架にかかって「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と言ったイエス様のような立場に立たなければなりません。自分を放棄することのできる動機をもつことにより、また自分を捨て去ってしまうことによって、天が同情することができる基準を立てなさいというのです。その道しかないのです。信仰生活を通じて得ることができる教訓とは、そのような土台の上で、そのような公式路程をたどってこそ収拾することができるのです。またそのように収拾された基盤の上に天の願いが届き、前進の起源を再び設けることができるというのです。このようなことを見るとき、きょうの現実がどれほど恐ろしいかということを知らなければなりません。

 朝、きょうは何をしようかと考えることがあるでしょう。自分が考えることがいかなることであろうと、現実生活で解決しなければなりません。それゆえ一日も安心して生きられないのです。

 先生は一言だけ聞いても、その人が話そうという内容が悲しいことなのか、うれしいことなのか直ちに分かります。誰かが報告しに入ってくれば、ぱっと見るなり心で知ることができます。悲しい知らせであれば、冷たい風がさっと通り過ぎていきます。それがどのようなことなのかは分からないけれど、正常な内容ではないというのです。反応が返ってくるというのです。うれしい知らせもそうです。それも、報告を聞くや否や、直ちに分かります。反応が返ってくるのです。それゆえ、皆さんがきょうの現実の戦いで敗れれば、前進することができません。必ず後退の道を歩むようになるということを明確に知らなければなりません。

 しかし、信仰の道で停止する時間は長くはありません。停止し始めることは飽和状態が迫っていることを意味します。飽和状態というのは、私が私としてこれ以上のことができないというときのことであり、また私の力がこれ以上影響を及ぼすことができないというときのことを意味します。そういうときに停止するようになるのです。そのようなときは、相続をしなければなりません。イサクがヤコブに相続してあげたように、相続する準備をしなければならないというのです。

 名もない末席で、自らのすべてを他人に譲ってあげながら、彼らを祝福してあげ、手ぶらで帰っていく客のような心をもたなければなりません。貴いものを持ってある家に入っていき、すべてを分け与えていく旅人のような心をもつことができなければなりません。

 そのような人は、天が見て同情することのできる人です。自分の所有しているものまでも全部分け与える人を、天は同情なさるというのです。そのような人には、運命上にもって生まれた福の基準があるため、みな分け与え、何もないようでも、天はその人に一時に、それよりも多くの福を与えるのです。自らのすべてをみな分け与えたならば、それ以上に補充されるのです。結局、与えることは損することではなく、利益が残ることなのです。

 したがって飽和状態になれば、すべてを分け与える準備をしなさい。分けてあげるときにも、何かを残しながら分け与えてはなりません。自分がもっている貴い物を、すべて分け与えてあげなければなりません。そうすれば神様が哀れに思われ、皆さんを同情なさるのです。

 そうして、皆さんが手にする福の量を再び満たしてくださることでしょう。それゆえ結局、損をすることではなく、利益を得る立場であるというのです。それゆえ、絶対におごり高ぶってはならないのです。人のために犠牲になりなさいというのです。


















SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送