文鮮明先生のみ言集
訓教経(下)


興亡の分岐点

一九七一年三月二十一日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第四十二巻』


 皆さんは、み旨の道を行く人々です。私たちの願いは、み旨のためになければならないし、私たちの毎日毎日の生活は、み旨をえり分けていく生活にならなければなりません。これは、み旨の道を行く人として当然しなければならない義務だというのです。

◆絶対者の願い

 統一教会が今まで戦ってきた歴史があるならば、その歴史はある特定の個人のための戦いの歴史として残ってはならないのです。人類が願うただ一つのみ旨を中心として、誰でもこのみ旨と共に行かなければならないという、そのような絶対的なみ旨と共に歩んでこそ統一教会の歴史は輝くのです。

 今日統一教会が、ある特定の民族だけのためにみ旨の道を行くのではなく、今までの人類歴史が願い、現時代に生きている万民が願い、さらには未来の子孫が追求できる、そのようなただ一つしかないみ旨を中心として行くならば、統一教会は決して、この時代の環境とともに流れてはいかないはずです。

 統一教会が未来世界において幸福の旗手となり、新しい歴史を創建する勇士として現れることができるかという問題は、統一教会がもっている理念が人類の願っていることと一致する立場に立てるか立てないかというところにかかっています。これを中心に統一教会が歴史的に輝くことができるのかという問題が決定される、という事実を私たちは推し量ることができます。

 こういう観点から、このみ旨というものは人類だけが願うみ旨ではありません。この人類を支配し生み出している歴史的な主人がいるならば、その主人が願うみ旨でないはずがないし、現在の歴史を支配しているある絶対者がいるとするならば、その絶対者が願うみ旨でないはずがないというのです。人類の歴史過程を中心として考えてみるときも、時代の変遷とともに流れいく人間の群像は、私たちは見ることができるかもしれません。しかし、み旨を中心として考えてみるときには、み旨と共に行く人は背後で絶対者が支えになり、時代的な中心としてはっきりと立っているというときには、その人は決して滅びることはないでしょう。

 絶対者の願いは、この世界に善を成し遂げることです。その願いを成就するためには、それと反対になるすべての条件を除去し、勝利できる条件を準備することだという事実を推し量ってみましょう。そのとき、そのみ旨と共に行く人の過程がどんなに険しくて悲惨であっても、それは一つの過程的な現象にすぎないのであって、それが全体に代わることのできる一つの決定的な姿だとは見ることができないのです。

 み旨の道を行く人は、どんなに悲惨な環境に落ちたとしても、むしろそれが自分の発展できる刺激になって、将来に願いの基盤を広めることのできる一つの基盤になるという事実を知らなければなりません。いかなる悲しみの峠があったとしても、それが未来のみ旨を邪魔し、み旨が行く道を崩してしまう動機にはならないのです。

 そのような観点で今日、摂理歴史路程を考えてみるとき、そこには屈曲が多かったことを知っています。ある時代には後退したし、ある時は上がっていく反面、ある時は下りていった事実を私たちは知るようになります。今まで歴史がそのような過程を経てきたし、私たちも一生を通して、やはりそのような過程を経ていくでしょう。私たちがみ旨を中心として一日一日の生活について考えてみても、信念を自ら誓う強い面もあるかと思えば、その反対の立場に立つ場合もあるということを感じるはずです。

 ここから上がっていくその時を喜んでばかりいてもいけないし、下りていく時に寂しく思ってもいけないのです。したがって下りていく時があるならば、そこにあすの希望を確かめ合うことができる一つの安息期間としてこれを消化し、吸収できなければなりません。私たちがそのような生活理念をもつならば、どんなに低い立場にあったとしても自身をより低い立場に引き下ろすのではなく、あすのために誓うことのできる一つの肥料として、一つの基盤として、それを吸収するでしょう。こういう歩みをしなければならないということを知らなければならないのです。

 一日を見てみると、夜があれば昼もあるのです。夜は昼を輝かせるための準備をする期間であり、休息の期間であり、再度錬磨する期間です。これを推測してみるときに、受難の過程には屈曲があるということが分かります。

◆発展できる人

 では、滅びない立場に立つためには、どのようにしなければならないでしょうか。

 ある位置から上がっていくことのできる立場にあるとき、下りていくときもあるということを忘れてしまったなら、下りていく立場に立つようになったとき、上がることのできる道を失ってしまった人になってしまうので、あすの願いに向かって再び出発できる大切なかなめを失った立場になります。そのような立場に立てば、そこで停止状態にならざるを得ないのです。停止状態になると、自分自ら発展できる道もふさがれてしまうのです。

 もしふさがれたその立場が神様の願わない立場になったときには、彼はそこから除去されてしまうのです。これは天理の法度の前に当然の道理だ、ということを私たちは考えざるを得ません。

 したがって私たちが下りていくときになって、その環境に囲まれるようになっても気落ちするのではなく、下りていけば下りていくほど、その内的環境の難しさにぶつかるほど、私たちの内心はみ旨を集約して核心的な基準を心に抱き、所信をもって外的環境に対し押し進んでいくことのできる、根性のある自分をもっていかなければなりません。そのような期間が一年、十年、あるいは一生の間続くとしても、根性のある内的な心をもって押し進んでいくような基盤が残っているならば、いつの時でもその基盤を中心として、再びみ旨の道に向けて出発することのできる道があるのです。

 もしそうできなくて、孤独と困難と試練にぶつかるようになるとき、その環境的な条件に巻き込まれていって、み旨を忘れ、み旨を捨てて、今まで歩んできたみ旨の生活のすべてを新しく批判しながら放棄する立場に立てば、そこでみ旨に対する道が終わりを結ぶようになるというのです。これは間違いない事実です。

 それゆえ信仰者は、み旨の道を行くにおいて滅びるという観念、あるいはみ旨の道を離れるというそのような考えを、絶対もってはならないのです。み旨に対するようになるときには、最高の時があるはずです。どんな人よりも心霊の高い人がいるならば、彼がまずみ旨に対することができるのです。例えて話せば、アンテナが高ければ高いほど遠方で発生する結果をよく受け取ることができるのと同様に、心霊が高い人であるほど、誰よりもまず新しいみ旨を知るようになるというのです。

 ところで、誰よりも先にみ旨を知ったとしても、先に知ったということが問題ではありません。み旨を先に知ったからには、そのみ旨を中心としてどれだけ長い間価値をもって進むのかということが問題なのです。

 そのみ旨を中心として進むにおいて、自分の生活に屈曲があるといって下りていくときにはそのみ旨を捨てて下りていき、上がるときには再びそのみ旨を抱いていこうと思ってはいけません。どんなに上がることのできるときになったとしても、下りていくときにみ旨を抱いていった動機がなければ、その時を自分の時として迎えることができないのです。

 例えば、春夏秋冬という四季が巡っているということを私たちは知っています。春が過ぎれば夏が来るのであり、夏が過ぎれば秋が来るのであり、秋が過ぎれば冬が来るのであり、冬が過ぎれば再び春が来るようになっています。この時、生命をもった種とか、生命をもった草ならば、再び春を迎えるようになる時に、彼らはその前の春よりも、大きくて太くなった姿で新しい出発をすることができます。

 このようにみ旨の道を行くことも、やはり同じです。秋になったといって完全に死んでしまう立場に立つようになれば、それで終わってしまうのです。それ自体がどんなに大きいとしても、それ自体のみでは何の使い道もなくなるのです。

 しかし、秋になって外的にやせこけた枝だけ残ったとしても、そのような環境に支配されるのではなく、それ自体の内芯に集約された生命力を自ら保って、外的な環境を克服できる準備態勢を備えたとしましょう。そうすれば、その木は再び春になった時、その生命力によって天地の前に新しく現れるということを私たちは知っています。

 そのようにして新しい生命として再び息を吹き返す時は、前の年より小さくなるのではなく、より大きくなるというのです。ここには新しい一つの年輪が生まれるというのです。新しい一つの皮が生じて、誰も犯すことのできない確固たる防備の基盤が築かれます。これは誰でも分かる事実です。

 それゆえ、試練というものは人生行路において、あるいはみ旨の道を行くにおいて必ずあるのです。どんなに幸福な人であっても、生まれたその日から死ぬその日まで幸福な人はいないのです。必ず屈曲があるというのです。

◆栄える立場と滅びる立場

 ここで皆さんは、興亡の分岐点について知らなければなりません。滅びる人々はどのようにして滅びるのでしょうか。滅びる人は善ならば善、栄えることのできる道ならばその道を中心として行く途中で、試練と苦痛にぶつかったとき、完全にあきらめてしまう人です。そのような人々は、そこで終わってしまうのです。

 しかし、自分がそれを貴いものだと思って希望に思い、目標として行く過程においていかなる試練や苦痛にぶつかっても、それを克服できる内情的な集約点を結集させて、その土台の上に出発を誓うことのできる自らの準備態勢を備えた人の前には、滅びる道はないはずです。

 善が行く道の前では、時になれば必ず力が加重されるのです。これが善なる道です。善なる人はいつも失望する立場にはいません。一つの峠を越えれば必ず、再逢春する(再び春に逢う)時があるというのです。その時を迎えれば、天が再び善を引っ張ってくれるようになるというのです。したがって、どんなに悲しくて難しくて苦痛な時があったとしても、天の行く道、み旨の行く道、善の行く道は必ず再生できる道だというのです。したがって、神様が訪ねてきて私を導いていくという事実を、いつも心に刻まなければなりません。

 それゆえ油断するのではなく、その時のためには、どんなに苦しくて孤独でも、心を整えて準備し、「その日がいつ来るだろうか」と願う心が切実でなければなりません。どんなに低い立場にあるとしても、その時を願う心をもって進むようになれば、必ずその善の時に会うことができるというのです。このようなことは今日、神秘的な体験をしたことのある人においても、私たちの日常生活でも体験してみることができることです。

 それゆえ、いつも希望の心をもたなければなりません。自分が死地に入っていっても、み旨に対する心、あるいは善に対するその心を中心として行かなければなりません。もし死んで犠牲になる恨があるとしても、そのように進んでいくならば、彼は犠牲になったとしても、彼が抱いたみ旨は残るということを皆さんは知らなければなりません。

 歴史過程に生まれてきて死んでいった聖人、賢哲たちは、世界が反目し、ねたむ不遇な環境に追い込まれるとき、その難しい環境の中で自分の所信を全部あきらめてしまう人々ではありませんでした。難しい環境が迫れば迫るほど、その環境に備えて内心に集約された心をもち、あすの希望がこの時代に実現されないならば、未来時代に再び来るというはっきりとした信念をもって進んだのです。そのような人々が歴史が過ぎるに従って、歴史に偉人や聖人として登場した事実を私たちは知っています。

 したがって、どんなに難しい環境に下りていっても、自暴自棄になる立場に立ってはなりません。善は永遠なのです。善は、必ず発展するのですが、一方的に発展するのではなく、下りていったり上がっていったりしながら発展するのです。一つの峠を越えれば、平地に出会うのであり、平地を過ぎれば、また新しい峠があるのです。このように全部が上がっていったり下りていったりと、授受しながら発展していくというのです。すべては、こういう形で発展していくということを私たちが知らなければなりません。直行することは難しいというのです。

 それゆえ、信仰生活において上下関係や左右に偏る関係があったとしても、気落ちしてはなりません。どんなに環境が偏る恨があったとしても、内心ではみ旨に対する心が変わってはならないし、「私が対するみ旨は必ずなされるはずだ。私が行くみ旨には必ず試練が来るはずだ」という心をもっていかなければなりません。だから難しければ難しいほど、その難しさに備えなければならないし、追い込まれれば追い込まれるほど、その追い込まれることに比例して内心的にその場を譲歩してはならないのです。その難しい環境をもう一度追い出し得る時になれば、皆さんは新しい出発をすることができるということを知らなければならないのです。

 では、滅びてしまう立場とは、どんな立場でしょうか。善を中心として進んでいる途中で自暴自棄になってしまう立場です。善の道を完全に切って背を向ける立場です。そのような人は滅びるのです。

 では、滅びない立場は、どんな立場でしょうか。どんなに難しくても、「私の行ってきたことは善であり、今まで生きてきたことも、真実に違いない」と自信をもっていく立場です。現在否定する環境に出会っても、過去の歴史的な実証を抱いて「私がしたそれだけは、間違いなく真実だ」という信念を中心として行かなければなりません。そこで自ら感じられなかったことを感じた時を中心として、その因縁を失わない立場で精誠を尽くし、自ら時を願う心をもっていくようになれば、必ずその人には春が来るのです。

 それでは、私たちの前にそのような屈曲の時が来る前に、それを任意的に防ぐことのできる方法はないでしょうか。私たちの信仰生活や私たちの一生の行路がそのような屈曲によって発展し、前進していくのですが、これを防ぐ道があるというのです。

 自分自らその問題を解決するために苦心する立場で、今まで内心の因縁を中心としてきたそのことを捨てずに、克服する因縁をもっていけば、その時を迎えることができます。けれども自ら難しい環境にぶつかるようになるとき、それを越えることのできるただ一つの方法があるとするならば、それはどんな方法でしょうか。それは同役者や同志がいなければならないし、師の指導を受けなければならないのです。それが必要だというのです。

◆滅びる立場を避けて行くことのできる道

 皆さんがある絶壁にぶつかったとき、それを克服するにはどのようにしなければならないでしょうか。個人的に解決するのが難しい人は、自分よりも信仰的な面において高い人、自分よりも上にいる人を訪ねて率直に打ち明けて話すことです。「私は私として存在するのではなく、彼についていく人として存在します」と言わなければなりません。彼が「右へ行け」と言えば右に行き、「左に行け」と言えば左に行くのです。また、「上がっていけ」と言えば上がっていき、「下りていけ」と言えば下りていくのです。「私のためでなく、指導する人に代わって存在します」と言うようになれば、その環境を避けていくことのできる道があるというのです。

 それゆえ信仰生活においては同志が必要なのです。同志がいない人は孤独な人です。同志がいればお互いに補充し合い保護することができるというのです。そうすることによって環境の難しさを克服できる道も生じるのです。もし同志がいなければ独断的にみな解決しなければならないのですが、前後関係を一人で解決できる能力がないときには、甚だ難しいことなのです。

 ゆえに、屈曲にぶつかったときは必ず同志や師を訪ねて、私の全体をその人に任せ、生命までも委託できる立場で完全に彼の身代わりとして行くようになるときには、屈曲を克服できるというのです。

 それで私たちが寂しい時とか悲しい時、あるいは孤独な時は、私が身代わりとして行くことのできる人を訪ねてみたり、その道を解決していくために経書を読んだり、有名な人の説教を聞くことが必要だというのです。

 難しい道を避けていくために、このように指導者を先に立たせて道を行くことももちろんですが、その次に、滅びないで避けていくことができる道とは、どんな道でしょうか。十ほどの難しさにぶつかったときに、その十ほどの難しさを中心として心配するなというのです。十ほどの難しさを心配せず、百ぐらいの難しさを探して突進していけというのです。そうすると、十ぐらいの試練は甘受できるだけでなく、それ以上の百ぐらいの試練も受けていくことができるのです。言い換えれば、その問題をジャンピングして飛び込んでいくのです。そうすると、反作用のような作用が起こるようになります。十ぐらいの力をもっていけば立つことができるのですが、百ぐらいの力をもっていってぶつかれば、そこには反作用が起こるというのです。高い所から飛び降りれば、その高さに比例して反作用する力が生じるのと同じ現象が起こるというのです。

 皆さんもそうです。皆さんが心情に打撃を受けて、その場で気落ちして自暴自棄になれば滅びるのです。けれども、ぶつかった問題よりも、もっと大きい問題を自ら進んで迎えられる行動を提示すれば、神様は彼を捨てません。私が当然運命的に行くべき道であるにもかかわらず、神様を中心として真実のために、より犠牲的な立場に立つようになる時、神様が胸に抱いてくださるのです。

 したがって、皆さんが心霊生活において枯渇を感じるようになったとき、これを収拾する方法は、指導者を訪ね、わだかまりなく自分自身のすべての問題を提示して、彼の身代わりとしてついていく姿勢をもたなければなりません。もう一つの方法は、自分が今歩んでいる立場以上の悲惨な立場を探していくことです。そして、自分が今日統一教会で信仰生活をしている基準は、どうなのかを考えてみなければなりません。ただ教会だけを行ったり来たりしていたのか、でなければ家族から試練を受けながら信仰生活をしたのかということです。

 試練が訪れたとき、そこから抜け出すためには、第一にみ旨のための切実な心をもたなければなりません。以前にみ旨のための切実な心をもったならばその心を再び延長して、試練がどんなにつらいとしてもその環境に心を絶対奪われずに、麹になることのできる種を残しておけというのです。もしその心をなくした日には、収拾する道理がないというのです

◆後退する立場を収拾しようと思えば

 このような方法でも解決できないときは、自らの生命に責任を負うことのできる指導者、あるいは師を訪ねて、あるがままに伝えなさい。残さず率直に話せというのです。相談するのに、「自分に有利なことは話し、自分に有利でないことは話せない」と言ってはいけません。率直にさらけ出せというのです。「あなたが私の代わりになって、私のものを担って導いてください」と、このように率直に伝えて、彼が指導するとおりについていくのです。そうすると私は、私になるのではなくて、彼の身代わりになるのです。その道しかないのです。

 もしそれでも駄目ならば、断行して行くのです。現在ある十字架以上の道を、自ら進んで行けというのです。

 伝道をしているときに打撃を受けた心情を、後方に戻っていって収拾しようとする人がいるならば、その人は、愚かな人です。そのようにしては絶対収拾できません。そのような人は、み旨のために一線に立ってから、天の許しなく後退したという心が、いつも自分の環境を支配するのです。伝道に出掛けて自分が心情に打撃を受けて帰ってきたならば、それを収拾できる道とは何でしょうか。再び伝道に行かなければならないという心を維持し、また行かなければなりません。

 そのように伝道しに出掛けたのに、収拾する道理がなければ、どうするのでしょうか。その次には、伝道に行って後退しなかった人に聞いてみることです。自分が後退して帰ってきたならば、後退しなかった人に、「あなたはどのように闘ったのですか。私に教えてください」と聞かなければなりません。そうすると、こうこうこのように闘えと指示してくれるでしょう。そうすれば、そこに絶対従順しなければなりません。自分の願うとおりにしては、答えが出てきません。ですから、自分を否定してこそ答えが出てくるのです。それが強ければ強いほど、収拾できる道が近づくというのです。

 その次に、収拾する方法は何でしょうか。甲という地域ならば地域、地区ならば地区、区域ならば区域ごとに伝道に行ったのですが、そこで反対する人がいるならば、その人より何倍も暴悪で執拗に反対する人を進んで訪ねていくのです。その方法以外にはありません。

 では、最も賢い方法があるとするならば、どのような方法でしょうか。人が信仰生活をするにおいて試練がないはずがありません。暗い夜のようなものが必ずあるというのです。これを防止できる方法とそういう試練、屈曲が来ることを避けていくことのできる方法がないのかというのです。こういう問題について考えてみるとき、避けていける方法があるというのです。それはどんな方法でしょうか。私が神様に代わって生きる方法です。では、神様に代わって生きる方法とは何でしょうか。人を愛することです。

 ある受難にぶつかった時、そこから抜け出そうとするなら、自分自らの内心的な信仰心を抱いていかなければならないし、次には指導者の指導を受けなければならないし、その次にはそれ以上の十字架の道も自ら進んで行かなければなりません。

 では、そのような屈曲が訪れることを未然に防止できる道はないのでしょうか。道があるならばただ一つ、人を愛することです。人のために生きることです。

 十人いる時、その十人のために生きる人は賢明な人です。その人は自分の思いをもって生きる人ではなく、十人の思いに従っていくのです。従っていく人には迫害がないのです。従っていく人は打ちません。もし十人のために犠牲になれば、十人がみな引っ掛かる前には引っ掛からないのです。

◆他人のために生きるならば滅びるはずがない

 このような意味から、イエス様が十二弟子を率いて三年公生涯路程で準備したものとは何でしょうか。イエス様自身が「ため」に生きてもらう生活ではなく、弟子のための生活をしたというのです。

 その十二弟子は特別な型です。人類歴史の過程において数多くの人類を代表した十二の型なのです。彼らはその時代にいた人々ですが、時代を超えて縦的な歴史時代の人類全体を代表できる標準型です。イエス様はこのような十二弟子を立てて三年間侍る生活をしたのです。三年間の侍る生活はどんなものなのでしょうか。種を蒔いて出てくる芽を育てる生活です。自分のための生活ではなく、人のための生活です。

 そのように大事にしていた弟子たちが勢いをくじかれて出て行くようになれば、イエス様は失望するようになるのです。その十二弟子がイエス様を捨てて行くようになる時、イエス様は自分自ら決断を下し「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と、自分を主張しながら神様の前に十字架について談判祈祷を捧げたのです。

 その前には三弟子のために祈ったのです。イエス様が祈った内容は何でしょうか。まずイスラエルの国の未来の興亡問題に対する祈りであったはずです。その次には自分に三年間従って精誠を尽くしてきたその弟子たちのために祈ったのです。そして三弟子のために祈ったことは、イエス様と共に夜を明かして祈る三弟子が、み旨を中心として滅びる立場に入っていかないように祈ったことでしょう。

 言い換えれば、イエス様は自分のために祈ったのではなく、国のために祈り、国の代表者格の三弟子のために涙を流して祈ったというのです。しかし、それがみな駄目になったとき、十字架への道が決定されたのです。そうしてイエス様は、自分の責任として十字架の談判をせざるを得なかったというのです。こういう問題を考えなければならないのです。

 それゆえ、人のために生きる人、すなわち十人のために生きれば、九人が反対しても一人は自分の味方になってくれます。十人中の半分の人が自分に反対しても、残り半分は自分の味方になってくれるのです。いつも垣根になってくれるというのです。私が侵略されることがあれば、私を保護する責任があるのであり、私が苦労をしてあげたならばそれに責任をもつようになるというのです。なぜなら慈しみを受けたからです。

 そのように「ため」に生きる人は、屈曲があったとしても一度にぐっと下りてはいかないのです。上がっていったり下りていったりする人がいるという時、上がっていく人を胸に抱いて、私が彼のために生き、同調するようになれば、暗黒の時を防備できるのです。

 宗教生活において「温柔謙遜で人のために犠牲になりなさい」という話は、私が侵犯を受けずに屈曲を抜け出し、いつでも発展できるように神様が私たちに与えてくださった、限りない愛の道理だということを私たちは知らなければなりません。

 それゆえ、人のために生きていて滅びる人はありません。町内に、本人は一銭もないかわいそうな境遇にありながらも、町内全体の人々に恩徳を施す人がいるとしましょう。その人の一日一日の生活が悲惨だということは、町内の人々もみな知っているはずです。そのような悲惨な人が、もし外部からより悲惨な侵害を受けるようになった時には、近所の人々が団結してそれを防止してくれるというのです。人情を中心とした私たちの生活圏でも、そのようなことが起こるのではないかというのです。

◆何も知らない人間を悟らせてこられた神様

 それは何を意味するのでしょうか。そのような人が、外部から侵害を受けるようにしてはならないというのです。それゆえ、その環境が保護育成してくれて善を中心として眺める希望になるのであり、残すことのできる一つの基盤になるのです。これはみなおのずと知っているので、そのような心が発動してその人を保護しようとするのです。同様に、人のために生きる人は絶対に滅びません。滅びるわけがないのです。滅びようとしても滅びないのです。

 そのようにするとなぜ滅びないのでしょうか。それは父のような生活圏に賛同しているからです。また、神様が行く道がそのようなものだからです。全知全能の神様自身も人間に対し「お前たちは私のために生き、私に絶対服従しなさい」というのではありません。その反対なのです。人間が何も知らないがゆえに悟らせてあげなければならないというのです。どうやって道を行ったらいいか知らないので、教えてあげなければならないのです。

 皆さんは自分の息子一人を教育するのも難しいでしょう?
 その息子は自分の血肉を受け継いだ息子、娘です。お母さんが涙を流せば心が動いて共に涙を流すことのできる息子、娘です。父が涙を流して悲しめば、共に悲しむことのできる心が自然に動く息子、娘であるにもかかわらず、彼らを指導し、育成しようとすると極めて難しくないですか。

 それを考えるとき、今日私たち人間は神様の息子、娘ではないのです。神様がどんなに悲しんでも知らん顔をするのです。これは、人間がサタンの血肉を受けて生まれたためです。むしろ神様が悲しむことを見て賛美します。滅びるのを見れば、喜んで笑うというのです。神様がこういう人間に対して指導し、開拓の方向を教えようというのですから、どれほど苦労の多いことでしょうか。

 しかし、一から百、千、万まで「ため」に生きる心、かわいそうに思う心が神様になかったならば、神様が今まで摂理歴史を胸に抱いてくることができたでしょうか。

 今日まで摂理歴史を導いてこられた神様のその事情と立場は、私たち人間を哀れに思う心から、「私でなければ彼らは滅びる。滅びることが本然の人間に与えられた目的ではないということを確実に知っている私によってでなければ滅びる」というのです。神様は、人間には神様が絶対必要だということを御存じであるために、これを教えるために今までの歴史過程で受難の道も気にも留めずに開拓してこられ、数多くの人間を教育してこられたのです。これが神様の立場です。

 では、今日「人のために犠牲となり奉仕する生活をしなさい」というのは、どんな意味なのでしょうか。かわいそうに思う心をもとうというのです。愛国者がいるとすると、その愛国者は民族が圧迫され苦痛に遭うことに対し、かわいそうだと心にしみて胸痛く思い、その民の痛みを自身の痛みとして直結する人です。その民の悲しみを自身の悲しみとして受け止めるのです。こういう心がなくてはその国に残ることのできる愛国者になることができません。したがって、人のために犠牲となり、人のために生きる人にならなければなりません。

◆真の愛

 今日統一教会員は、「国を愛し、み旨を愛そう」と言います。ここで国を狂ったように愛そうとするなら、個人を狂ったように愛してみなさい。国の善は大きな善であるゆえに、大きな善を見つける前に個人的な小さな善を見つけなさいというのです。個人と個人の善を合わせて大きな善に糾合する前には、国の善の目的を達成することができません。それゆえ、問題は個人です。

 皆さんは、統一教会に通いながら、誰かをどれくらい愛してみましたか。これが問題です。皆さんが何年、何十年間教会に通いながら、自分の心深くにしみた愛をもって、父が同調する心情の立場に立って人々をどれほど愛したかというのです。この問題が、皆さんがあの世に行って神様の愛をどれほど受けられるかということを決定づけるのです。

 一つの生命のために何日間も断食をしてみたし、その生命のために数カ月間も血の汗を流してみたでしょうか。問題はそこにあるというのです。言葉では「神様を愛している、国を愛している」と言うには言います。では、それが私と何の関係があるのか、というのです。そのような話は宙に浮いた話です。

 愛は、自分を中心とした立場で愛すれば成立しません。その人に代わって、その人の立場を擁護し、その人の立場を敬いながら、その人の立場を立てるところで初めて愛という言葉が成立するのです。そうではないですか。愛する人に「お前は私の僕だ」と言いますか。彼を誰よりも敬ってあげ、ほかの誰よりも大切にしてあげ、彼のために存在しようとする立場で愛が成立するのです。そうしないで私を中心として「お前は私がしろと言うとおりしなさい」と言うなら、それは愛ではないのです。

 赤ん坊を愛する父母の愛は、純潔な愛です。その愛は、何も知らない赤ん坊に対して全体を知っている父母が、赤ん坊よりも知らないという立場で、その赤ん坊のために生きる愛です。

 十人のために生きた人がいるならば、その十人が福を受けるようになるとき、その福は自分の福になるのです。町内の隣の家で祭りをするとき、その町内で貧しく暮らしながらお手伝いする人は、その隣の家の祭りが自分の祭りになるのです。そのようなことが自分の喜びの基盤になることが分かるのです。ゆえに十人が福を受けるようになれば、十人のために生きたその人は福を受けることができないとしても、福の影は味わうことができるというのです。恵沢を受けることがあるというのです。

 それゆえ、人のために生きる思想とは、怖い思想です。善は全体のために生き、全体の中心になります。全体のために一つの愛で縛ろうとする立場は、全体の中心が決定される立場なので、善が臨在するというのです。そうでなくて、私を中心として「良い」と言うと、それで終わってしまうのです。「きょうは良かった。腹がいっぱいだ」と言うと、そこからは空腹が始まるのです。「自分のために良かった」と言うと終わってしまうけれど、人のために良いことであるというときには、終わりがないというのです。それゆえ滅びないのです。

◆善の本性と悪の本性

 皆さんが信仰生活をするにおいて、暗闇が訪れるのは事実ですが、その暗闇を防止するためには「ため」に生きなさいというのです。皆さんは、早朝祈祷に行って熱心に祈祷するのですが、早朝祈祷に行くことができなくても、祈祷するその時間に信仰の同志のために、三家庭の門の前で祈ってくるのです。一分でもいいのです。これが早朝祈祷を何時間するよりもいいのです。それが福を受けることです。こういう思想がなければ世界を一つにすることはできません。

 信仰の道はより高く、より貴い立場ですが、えり分けていくことのできない道なので、今日信仰生活をするには、漠然とでもこういう内容を中心として犠牲と奉仕を強調していくというのです。これを皆さんが知らなければなりません。これは何を意味するかというと、私たちの信仰生活において必ず暗黒がやって来るのですが、犠牲と奉仕はその暗黒を防備するための自然的な橋頭堡(注:橋を守るために対岸から橋の通過点を守るもの)であり、一つの要塞的な作用をするので、私たちを愛される神様がこのような道理を教えてくださったのです。では、それがなぜ暗黒を防止する道になるのでしょうか。サタンの本質と反対だからです。

 悪の本質と反対だからです。悪の本質は、自分のために生きろというのです。十人いるならば十人全部を自らの足元に追い込んで利用しようとするのです。そのようにすると一時は従うでしょうが、少し過ぎればみな逃げてしまうというのです。逃げる時は、ただ逃げてはいかないのです。奪っていくのです。全部こそげ落としていくから滅びるのです。落ちて出ていくときは、すべてはぎ取っていくので滅びるようになっているのです。しかし、善のために生きる人には、来るたびに何か持ってきてあげたいというのです。心がそうだというのです。ですから栄えるのです。したがって、皆さんは興亡の分岐点をはっきりと知らなければなりません。これが信仰生活で最も必要なのです。

 皆さんは心霊が暗い時があっても自分を中心として「お父様、私を哀れに思って私の暗闇を除去してください」と祈ってはいけません。かえって人のために奉仕しなさい。統一教会員の中で誰が一番哀れかと探してみて、そのような人がいるならば、彼は私より哀れだなと思う心で、彼のために涙を流せば暗かった心霊が再び生き返るのです。

 こういう調整方法を皆さんは知らなければなりません。結局、人のために生きる心です。神様が同調なさることができて、神様が今進行している作戦の動向とともに、その方向に合わせて同じ形態の立場を取ることのできる立場は、人のためにある立場です。それゆえ人のために生きなければならないのです。

 人について考えてみるとき、漢方医学で四象があるというように、陽質の人と陰質の人がいます。人の体質には東西南北のようなものがあり、また中間性質の人もいます。すべてが違います。ある人は「あの人が嫌いだ」と言うけれど、ある人は「あの人が好きだ」と言うのです。私はその人を見るだけでも嫌なのに、他の人は見るだけでも喜ぶというのです。みな違うのです。それゆえ、醜い女性もお嫁に行くし、みっともない男性も妻をめとるというのです。

 「私はその人が嫌だ」と言うけれど、それは一方的なのであって、全部ではないのです。他の人はその人を好むというのです。ですから人というのは自分の考えのようにすべて一方的ではなく、四方性をもっているために、お互いが違うのです。したがって、私たちは四方性を中心として「ため」に生きる立場にいなければなりません。

 イエス様も十二弟子を中心として「ため」に生きる立場にありました。「ため」に生きるのにおいて、外側から「ため」に生きるのか、内側から「ため」に生きるのか、これが問題です。それなら私たちも外側から「ため」に生きる者になるのか、内側から「ため」に生きる者になるのでしょうか。いわば愛されながら「ため」に生きるのか、愛しながら「ため」に生きるのか、彼を哀れに思いながら「ため」に生きるのか、彼に愛されながら「ため」に生きるのか、これが問題です。ところで、愛されながら「ため」に生きる道理はないというのです。愛されながら「ため」に生きるのは僕です。それは形は「ため」に生きているようですが、「ため」に生きることではないのです。

◆どんな立場で「ため」に生きなければならないのか

 したがって、人のために生きる時は外側から「ため」に生きるのか、内側から「ため」に生きるのかということが全部違います。信仰生活をしようとするなら外側からするよりも内側からしなさいというのです。それでイエス様は、十二弟子を中心としてあなた方のためにするのは、私の良いものをあなた方に分けてあげたくてそうするのだというのです。悪いものがあれば覆ってあげ、悲しいときには慰労してあげるというのです。私がお前たちよりももっと苦労しているではないかというのです。正してあげるのです。これが父母なのです。

 父母は、子供のために生きるのです。父母が子供のために生きるのは、外側から「ため」に生きるのではなく、内側から「ため」に与えるのです。子供が困難な目に遭ったときに、いたわってあげてこそ価値があるのです。高い位置、中心の立場にありながら、「ため」に与えるということが貴いのです。

 それゆえ、皆さんも主人になった立場で統一教会の信徒を愛しなさいというのです。イエス様が貴いのは、その心です。「ため」に生きなくてもいい立場にあるその方が「ため」に生きたので、そこから父母の心が出てくるし、神様の心が芽生えるのです。それは、人間の心ではありません。自分のための心ではないというのです。次元が高いのです。こういうことを皆さんが考えてみなければなりません。

 そのような心をもって進む立場は、神様が動く立場です。神様の代わりに世界人類の中心に立って数多くの人のために生き、福を祈ってあげながら万民が喜ぶことのできることをしてあげるので、万民が彼を好むのです。そのように人に対していると、冬になっても自分の前には春、夏、秋の三つの季節に該当する人がいるのです。どんなに気落ちした立場でも、その人さえ見れば喜ぶというのです。

 したがって「私が中心になって芽をつくる」という心をもって、進んで全体の代わりに乗り出さなければなりません。そのように乗り出していくときに、その人は芽のように苦衷を受けるとしても、それが問題にはなりません。

 このように考えてみるとき、一面では新芽が出てくるというのです。統一教会は一面を見れば停止していているようですが、他の一面では相変わらず新芽が出ているのです。そうすると、それは春の季節になるのです。新芽が出てくるその春の季節を訪ねていくことができ、そこに対して関心をもつ人は滅びません。それとともに生きることができるというのです。道理がそうだというのです。

◆暗闇圏を打開していこうとするならば

 統一教会の文先生も同じです。食口がいなくて寂しいときには山にも行くというのです。また、心が乾ききった時には、昔、み旨のために歩んできたときに受けた迫害と、今日の迫害を比較するのです。昔の苦衷と、今日の苦衷を比較するのです。そのように昔と比較すると、今日は何でもないことが分かるようになります。では、なぜ何でもないことゆえに私の気力が抜けてしまうのでしょうか。それは自分自身を考えたからです。自身ゆえに気力が抜けているという結論が出てくるのです。そのようなときには自分を修正しなければなりません。こういう様々な問題を皆さんが信仰生活でえり分けていくことができなければなりません。

 暗やみが来る時には、必ずみ旨に対する心の種、すなわち麹を失ってはいけません。過去に自分がみ旨のために精誠を尽くしたその心をもって、一度時になれば間違いなく蒔き、格好良く収めるのだという心をもたなければなりません。そのために準備する心、そのために暗闇を切り開いていく心をもたなければなりません。そのような心をもてば、み旨が離れないのです。

 では、暗闇が来る時、どのようにするのでしょうか。自分一人では大変なのです。ですから相手を探して相談をしなさい。では、自らの同伴者や師がいなければどのようにするのでしょうか。子供に教訓を与えるのです。

 イエス様と三弟子の場合が、正にそのような場合でした。イエス様が孤独なとき涙を流すようになれば、彼らが共に涙を流してくれるというのです。自分一人でもなく、三人が共に涙を流すようになれば慰労になるのです。そこで回復するのです。それゆえ必ずそのような相対的な同志が必要であり、師が必要だというのです。これを皆さんは、いつも心に刻まなければなりません。

 その次には、私が十ぐらいの迫害を受けて暗やみが来たなら、百ぐらいの迫害のある立場に入っていきなさいというのです。冒険を断行しなさいというのです。十ほどの受難の立場にあるとき神様が私から離れたとするなら、百ほどの受難の立場に入っていけば、神様は私を再び胸に抱いてくれるというのです。そうではないですか。親不孝な息子が家を出ると、父母は「出ていっても再び帰ってくるだろう」と言って気にも留めないのです。しかし、その息子が死にに行くと、「私は今行けば間違いなく死にます」と言えば、その父母はその息子が行く道を妨げるでしょうか、妨げないでしょうか。「ああ! こいつは!」と言って、行くことができないように邪魔をして抱き抱えるというのです。

 それゆえ、十ほどの迫害によって暗闇に入っていったとするならば、百ほどの試練に向けて死のうが死ぬまいが命を懸けて堂々と行けば、回復することがあるというのです。その次に、皆さんに暗闇が来るのを未然に防止できる方法は、人のために生きることです。十人のために、百人のために生きていけというのです。

 私がこのようにしてこそ祝福を受け、このようにして神様の恵みを受けようとは考えてはいけません。神様がそのように行くので、私もそのように行かなければならないのではないか、という心を中心として粘り強く精誠を捧げる心をもちなさい。そのような心で一生を生きて、手ぶらで霊界に行ったとしても、彼の助けを受けた十人が天国に行ったときには、彼を地獄のどん底にいるようにはできないというのです。その十人が合わさって神様の前に「彼は私たちの生命の中心であり、生命の恩人であり、父母のような方なので、その方を私たちより栄光の席に迎えなければなりません」と言って手を合わせて祈るようになるのです。ですから、彼らの栄光が私の栄光になり得るというのです。

◆滅びない人になろうとすれば

 このような道を行く統一教会員であるならば、統一教会は滅びても、その人は滅びないのです。行っているうちに全部離れてしまって一人残っても、その一人のために生きようという心をもってその一人と相談し、その一人のために犠牲になり、その一人と共に関係を結んでいかなければならないという心をもっていかなければなりません。そのような心をもっていけば、統一教会が滅びても残るものがあるというのです。

 滅びたものを全部処理していけば、滅びるといってもみななくなるのではありません。残るものがあるというのです。一番後ろから行く人は、滅びた切り株を自分のものにしていくというのです。何の話か分かりますか。滅びたとしても、まだお金が残っているならそれを相続していくのです。そうしたとしても誰も反対することはできません。持っていくようになっているのです。こういう人が怖い人です。

 しかし、中間で自分勝手に行動する人は、誰も認めてくれません。しかし、最後まで我慢して耐える人は滅びる立場でも福を受けることができるのです。避難をしても、商売の資本を持っていくことができるのです。

 では、滅びない方法があるならば、それは何でしょうか。もし統一教会の文先生が滅びる人ならば統一教会の文先生よりも忠誠を尽くしなさい。私の思想よりももっと善なる功績の思想をもてというのです。そうすると、今まで統一教会の文先生がつくっておいたすべての功績が、その人を通して終わりを結ぶようになるのです。その人の善のための心が絶対的ならば、神様も「お前だけは使い物になる」と言いながら、より良い道に案内してくださるというのです。悪い道に案内するのではありません。したがって、全体のために動く人は滅びないということを皆さんは知らなければなりません。

 自分だけを中心として行くようになるときは、孤独が訪れてくるのであり、滅亡が訪れてくるのです。しかし、闘ったとしても人のために犠牲になり奉仕すれば、必ず栄えます。犠牲になり奉仕すれば、必ず栄えるようになっています。それで統一教会は、国を探し出すまでこういう作戦を取るのです。これは極めて賢明な作戦です。


















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