文鮮明先生のみ言集
訓教経(下)


天国の拠点はどこか

一九七一年八月二十九日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第四十七巻』


 きょうは「天国の拠点はどこか」という題目でお話ししたいと思います。今日私たちが生きているこの世界は、誰もが希望として願ってきた世界ではないことを私たちは知っています。個人が置かれた立場もそうですが、国家と世界全般を見ても、私たちが要求する国家と世界にはなれませんでした。

◆分かれ道に置かれている現時点

 さらに現在のこの世界は、最後の絶壁に当面しています。このように行くべきか、あのように行くべきかという問題に対して、誰も決定的ないかなる方向も提示できない事情に置かれているのです。こういう世界を新しい方向に導いて、善の結果と連結できる希望を迎えることができるかというのです。このように見ると、誰でもこの世界は絶望の世界だと見ざるを得ないのです。

 人間として自分なりの考えをもっている人はいても、この世界の方向を新しく提示して、万国はもちろん、万民がこういう善なる世界に行かなければならないといって、世界の悲しみや苦痛、世界の心痛い事情を体験しながら絶叫する人がいるのかというと、そのような人はいません。

 人間として提示できる方向はみな提示してみましたが、その提示する方向が、人間により高い希望をもたらすことのできる方向になれなかったというのです。それで人間は、人類歴史を通じて現時代に至るまで、これを実現しようとしているのです。

 一つの国を見ても、国に責任を負った主権者ならば主権者が、今後国をどう導くべきかという問題に対して、現在の立場で自分を中心として方向を取っていくけれども、その路線が世界の現情勢を越えて、今後新しい立場で提示できる方向かというと、そうではないのです。また、民主世界を代表する先進国家があれば、その国家の指導者も同じでしょう。

 こういう観点で見ると、自分たちの方向が決定したように提示して主張していますが、現時代の複雑な立場を直視するとき、「今後の世界が行くべき方向はこうだ」と決定的に提示したとしても、それが正当で決定的な方向にはなれないのです。

 このように見ると、人間が提示する方向をもってしては、新しい面で世界を収拾できないのは間違いない事実です。

◆終末時代において神様が提示する方向とその拠点

 では人間以外に絶対者、すなわち神様がいらっしゃるならば、その方はこのような歴史的な終末時代において、いかなる方向を提示するのでしょうか。神様が今のこの世を、人間の心痛い事情と同じ立場で眺めていらっしゃるでしょうか。すなわち神様は、方向や代案のない悲しい立場で眺めていらっしゃるのでしょうか。あるいは、代案と方向を提示なさることはできるけれど、世界がその提示する内容を受け入れることのできない立場になったので、提示できずにいらっしゃるのでしょうか。

 この世界が神様の提示する方向を受け入れることができるならば、この世界は人間が願う新しい希望、新時代の一つの姿を描ける望みがあるのです。しかし、この世界がそれを受け入れる立場になれなかったなら、神様がそれを提示しても、人間はそれを見つけることができません。したがって、人間がそれを模索して探さなければ、この世界は悲惨な世界にならざるを得ないのです。

 神様がいらっしゃるならば、こういう悲惨な結果の世界を眺めて、ただ捨てておかれるのでしょうか。神様は真実であり、愛であるというならば、そのようなことはできないのです。神様は、それに対するある方向と対策を強く求めていらっしゃるはずです。

 そういう方向をもった神様ならば、その神様が接することのできる拠点はどこにあるのでしょうか。この世界自体は拠点になれない、ということは言うまでもありません。また、ある特定の国家を中心としても、やはり神様が内外の内縁を共にできないのです。

 では、ある特定の民族を中心としてはそうできるのかというと、大きい所からだんだん小さい所に下りていくようになるのが分かります。ある特定の一族がいれば、その一族を中心として方向を提示できる基台が残るでしょうか。一族が残らなければ、残る氏族はいるのでしょうか。すなわち、一族を代表できる氏族形態があるのでしょうか。それも自信がないのです。それゆえ神様は、もっと小さい範囲の立場まで下りていき、その立場で、そのような方向を提示するしかないのです。

 ある一族も氏族もなければ、どんな家庭があるのでしょうか。「私たちの家庭は、どんな家庭にも劣らない家庭だ」と、自信をもつ家庭があるかというのです。その家庭の主人が、天倫の新しい方向を提示できて、「神様のみ旨を受け継げる家庭は、私たちの家庭だ」と自信をもって立てるかというと、そのような主人をもった家庭があるとはいえないのです。ですから、神様が提示できる拠点は家庭でもないというのです。

 ではどこへ行くのでしょうか。個人を探すしかないのです。個人を中心として見ると、現在ある面に権威をもった人であるとか、金持ちであるとか、あるいは知識をたくさん備えた人がいれば、彼らに、神様が方向を提示できる内外の事情が整っているかということが問題です。

 その個人自身が、神様が提示する方向に一致できる立場になれず、自らの事情を中心として関係を結んでいる内容が何であっても、その方向に関係を結べない環境をもっている立場になっていれば、そのような人々を中心としては因縁を結ぶことが難しいのです。

 神様が上流層のある特定の個人を通じてその拠点を探すことができず、提示する方向に合う基台をもてなくなったらどうなるのでしょうか。神様の摂理が後退できない限り、中流層に下りていくのです。では、中流層にはそのようなことのできる人がいるでしょうか。自信をもって決定的なある決意をして、「自信があります、私でなければならない」という人がいれば分かりませんが、そのような人がいないときは、その中流層でもやはり、神様が方向を提示できる一人の個人を見つけることができないのです。

 中流層でも、神様が方向を提示できる個人を見つけることができなかったら、どのようにするのでしょうか。下流層に下りていくのです。ところが下流層に下りていって、特定の人を中心として方向を提示できる拠点を見つけようとしても、見つからないときはどうするのでしょうか。こういう私たちの立場で見ると、神様がそのような立場にいらっしゃるとしたら、神様はどうしなければならないのでしょうか。誰かを捕まえて、その事情を訴えることができるでしょうか。

 事情を訴えることのできる人とは、どのような人でしょうか。神様が男性を通じてそのような事情を解怨なさろうとしたのに、そのような個人に会えなかったなら、女性を通じてでもそのようなことができる個人に会う道を模索するしかない、ということはあまりにも当然の事実です。多くの男性の中で優れているといわれる人をみな押しやって、何の関係もない女性に対してこの途方もない方向を提示できる拠点を、神様が訪ねてこられるのです。ある一人の個人を通して方向を提示できる拠点を要求するようになるとき、ここでもまたその拠点を探せなければ、神様はどこへ行くのでしょうか。

 神様が願う人類は、どこに行ってそのような時運を迎えるのかという問題について、当然神様も心配なさるのであり、私たち人間も心配しているのです。

 このようなことを防備しなければならないと知っていらっしゃる神様ならば、神様に責任があるのです。これを防備できる道を模索しなければならないのが神様の責任なら、模索できる環境をすべて失って、誰も信じない女性を中心として、最後の望みの一念を提示できる拠点を願っている立場ならば、今日私たち人間は、それをいかなる立場で迎え入れるのかということが問題になります。

 既に神様を裏切り、神様とは関係ない立場に立っている人間なので、当然処罰を受けるべき立場ですが、世界的なみ旨を残さなければならない基台が人類であるがゆえに、人間を処罰することもできないのです。その心痛い事情を解決する拠点を整えることのできない神様、か弱い未熟な女性を通じて拠点を見つけるのを待ち望む立場にいらっしゃる神様、その神様の心はいかばかりでしょうか。

 「誰も振り返らない老年期の女性を通して神様が訪ねてこられている」と、誰かが自信をもって公布したとして、その女性を信じられる人だと、歓迎する人がいるでしょうか。また、現在、老いた女性の言うことを聞いて、果たして世界を代表する天の話だと受け入れることができるでしょうか。このような問題を考えてみると、これがどれほど難しい問題かということを、私たちが現在生きている環境の中で推察してみても、よく分かることです。

◆天の方向を受け継ぐ拠点になろうとするなら

 私たちは、それがどんなに正しい道だとしても、それを内外共に推察してみて、一つ一つ比較して自分の利益になる道ではないとき、それと関係を結ぶのを嫌がるものです。こういう私たち個人の習慣を見ると、今日私たち個人を訪ねて世界的な内容を訴えようとされる神様の事情が、私たち個人に利益になる条件として合う内容か、ということが問題なのです。

 神様が提示する内容は、十ならば十人、百ならば百人に利益になる結果を残してくれるのではなく、すべて損をするしかないようになっているのです。誰も否定的条件を経ずには、神様が提示する内容を受け入れることはできません。環境的にもそれを認めることができないことが分かるようになるとき、果たしてそれを永遠なものとして相続し、「自分自らの生涯とともにその基台を残す」と言って、責任を負える若者がいるでしょうか。それは、もっと難しいのではないかというのです。

 このように見ると、神様はどこへ行くのでしょうか。老年期の人もそうですが、壮年期の人も神様が手の施しようがないというときは、どうするのでしょうか。世間知らずの青年期の人々を通して、そのようなことを再びしなければならないのではないでしょうか。天の苦しみを知って、自分自身は全体のために千回、万回犠牲になっても、それを感謝し、いかなる受難の道も責任を負って進んでいける若者、特に結婚前の娘たちの中に、そのような人が存在し得るでしょうか。もし、その場を受け継いで進んでいけるか弱い一人の女性がいれば、その女性が立つ立場は、極めて孤独な立場であり、無力な立場でしょう。

 女性の立場を見ると、その立場は非常に孤独な立場です。女性が将来行く道は、自分一人、自主的な立場に立って、行こうとして行ける道ではありません。女性は、どっちみち一人の男性を迎えなければならないし、父母の保護のもとで自由な環境を許されて生きることのできない立場ではありませんか。

 もし天のみ旨の方向を知って、その拠点を受け継ごうとする一人の少女がいれば、その少女は自らの命全体を犠牲にする覚悟をせずには、その拠点を受け継げないということは当然の道理です。それで、すぐに死地に入っていく立場にあっても、すぐに自分の一身の体面と権威が地に落ちて踏みにじられても、その拠点を堂々と受け継ぐという心をもった少女がいるかというのです。

 これはみ旨を知っている男性も受け継ぎ難い立場であり、み旨を知っている女性も受け継ぎ難い立場にもかかわらず、一人の少女がそれを受け継ぐ立場に立ったからには、その場は百回生きるという決意よりも、千回死ぬという決意をしなければならない立場なのです。

 同様に、国も一つの希望の国になるためには、多くの犠牲の代価を払わなければなりません。あすの願いを受け継ぐためには、私が永遠に生きるというよりも、現在の生活の中で千の犠牲、万の犠牲を誓って、これを選んでいける道があれば、それを探し出そうと決意できる人にならなければなりません。

 今日、人間に対して手を引こうにも引けずにいる神様の事情を考えるとき、そういう事情を抱いている神様は私たち人類が迎えるべき世界を代表した主人公であり、国であれば国を代表する主人公であり、家庭であれば家庭を代表する主人公であり、命であれば命を代表する父だというのです。

 しかし、こういう立場にいらっしゃる神様は、どれほど孤独でしょうか。そのような立場にいらっしゃる神様は、幸福ではなく悲惨であり、その立場は無限に孤独な立場に違いありません。誰にも、その孤独の恨の絶頂を推察でき得ない悲惨な立場だというのです。

 そのような悲惨な内情を抱いた神様が、歴史路程において誰にも打ち明けられず、この時代の誰にも吐露できない内容を、一人の少女に心を開いて言える立場を探すしかないとするならば、これは何とも言えないほど悔しい立場であり、言いようのない凄惨な立場ではありませんか。

 もし、全世界が反発する立場にそのような一人の少女がいれば、神様は今まで背信の逆路を耐えてきたそのすべての悔しい心情をさらけ出して、その少女と共に行くと、この世で今まで流したことなかったような涙を流せる瞬間が残るでしょう。そういう瞬間は昼ならば昼、夜ならば夜といういかなる時間も越えて、宇宙の心情をえぐられるような悲しさが行き交う時間であり、その場は誰も同情せざるを得ない悲惨な立場なのです。

 けれども少女自身が神様の内情がそうであることを知って慰労できる立場まで行けなかったので、神様はその少女をつかんで、再び立ち上がって走らなければならない立場に立つようになるのです。こういうことを考えるとき、そういう神様を迎えるために行く道が宗教の道であり、そういう神様に侍ることのできる安息の一日を開拓するために闘っていく生活が、宗教人の生活です。

◆やるせない神様に侍ろうとすれば

 このように見ると、今日宗教人がこの地上で幸福を慕うという事実はあり得ないことです。この地上で肯定的な生活条件を探すということは認められないのです。否定の因縁を尋ねていきながら、否定の極、自分のすべてを犠牲にする最先端に立たなければなりません。自らの命が左右に揺れ動く立場に立って、それを決断できる瞬間を経ていかなければならないのです。そのような決意をもたなければならない人々が宗教人であることは言うまでもありません。

 そのように深刻な神様であれば、自分がその深刻な神様に侍ることのできる息子となり、やるせない神様であれば、私がそのやるせない神様に侍って慰労できる孝子になるという心をもった人がいれば、その人は何を誓わなければならないでしょうか。

 イエス・キリストは福音を伝える過程で、何をその中心の骨子として残したかというと、「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」という言葉を残しました。こういうことを語られたイエス様の悲運の姿勢を、私たちはたどってみなければなりません。誰も推察できない運命の道を、深く追求する心が激しければ激しいほど、神様の内情の因縁が加重すればするほど、天地を抱き締めて誰よりも痛哭できる立場を体 恤した人でなければ、そのようなことを語れないのです。

 今日、この地上に世界的な主権をもって世界を動かす国家があれば、その国家がただ「あすの希望を抱いて自分の国のみ生きる」と言ったなら、その国家は神様と相反する立場に立つようになるのです。またある民族がそうならば、その民族もやはり神様と相反する立場に立つようになり、氏族、家庭、個人がそうならば、その氏族、家庭、個人もやはりそうなるということは言うまでもありません。この世界が悪の世界であることを知るようになるとき、それを抱いて未練を残した立場は、神様が拠点とすることはできないというのは当然のことです。

 神様が拠点とする国よりは民族のほうが簡単であり、民族よりは氏族が簡単であり、氏族よりは家庭が簡単であり、家庭よりは個人が簡単です。個人の中でも頑固な人より、軟弱な人が簡単なのです。また、主管力の強い男性より、主管力の弱い女性が簡単です。女性の中でも生活において苦しめられ傷を負ったそのような年のいった女性よりも、何も知らず純情に花を咲かせ、善に花を咲かせることのできる年若い女性のほうが易しいと見ることができます。

 一つの拠点を見つけることができたとしても、拠点を見つけた時間からその場においてみ旨を成就していけるかという問題を見るとき、か弱い少女に責任を負わせて一緒に行く神様の立場なら、それは悲惨な歩みなのです。その少女を通してその少女のおばあさんとお母さんを動かし、そのおばあさんとお母さんを通して女性を動かし、その女性を通して男性を動かし、その男性を通して家庭を動かし、その家庭を通して国を動かし、その国を通して世界を動かしていくのです。そのような孤独な悲運の歴史を経て、天国に向かう神様の歩みが、どれほど哀れで痛々しいでしょうか。

 それで、いかなる宗教でも、現在生きている環境であすの希望の内容を提示するとき、その環境でただそのまま生きなさいと教える宗教はありません。現実を否定して、社会制度を否定して、自分の生活の基盤を否定して、自らの生活を否定しなさいと教えるのです。

 悪が世界的な版図を占拠している現時点で、真実というものは悪と関係があるはずがないのです。相対的な条件も求めることのできない立場が、真の基準だと考えるとき、真の基準の人は、今日悪が占拠している社会の条件に歩調を合わせる立場ではあり得ないのです。

 真の宗教は、今日人間が生きている悪の環境で、肯定的な条件を一切要求しません。否定の中でも絶対的な否定をします。絶対否定する立場で、崇高で絶対的な真の根を下ろしたいし、一つの環境をもちたいのが、絶対的な真の立場に立った神様の心です。そのような立場が神様の住みかになるのです。それゆえ、「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」という逆説的な論法が出てくるのです。これを好む人は誰もいません。

◆天国の拠点はどこか

 では、天国の拠点はどこにあるのでしょうか。キリスト教の信徒の中には、「イエス様を信じて天国に行く」と言う人が多いのです。そのような天国の拠点は、どこにあるのでしょうか。イエス様は、天国がどこにあるのかと聞くペテロに、「神の国は、実にあなたがたのただ中にある」(ルカ一七・二一)と言ったのですが、その天国の拠点はどこにあるのでしょうか。悲しむ心が天国の拠点になれるでしょうか、自分を前面に押し出そうという心が天国の拠点になれるでしょうか、社会を否定する心が天国の拠点になれるでしょうか。これらは、私たちが願う内容をもった拠点ではないのであり、神様が賛同できる天国の拠点でもありません。

 こういうことを考えると、天国の拠点を探す人は、この地上の誰よりも孤独な立場にぶつからなければならないという結論が出てくるのです。それはなぜでしょうか。神様が孤独だからその人も孤独でなければならず、神様が克服の歴史を経てきたので、その人も克服の歴史路程を通過しなければならないのです。

 では天地に悲しみが満ちたとして、人間がその悲しみのみを感じて、悔い改めて痛哭し、涙を流すその場が、天国の拠点になれるでしょうか。それをもってしても駄目です。新しい喜びを享受できる時を願いながら、教団をあがめる反面、この世の罪悪を解決しなければならないという心の決意ができなければなりません。そのような責任を誓える一つの姿を、えり分ける方向がなくては天の拠点はあり得ません。それは言うまでもありません。

 その拠点、天国の拠点はどこでしょうか。人々の中には、「自分は良心的な人間で、社会的に相当な位置であって人々が仰ぎ見る立場にいるので、天国は自分から始まる」と堂々と主張する人がいますが、その人が善と悪が共に出発するという認識をもっているならば、そのような考えも通じるかもしれせまん。しかし、善と悪は同時に出発できません。悪が東に行けば、善は西の方に行かなければならないし、悪が動けば、善は停止しなければならないのです。また、悪が欲望をもてば、善は欲望をもってはならないのです。善と悪は反対です。

 こういう立場で考えるとき、神様が人間世界を訪ねてこられるとき、誰よりも希望をもって天国に因縁を結ぶことができるのかというのです。天国の出発は、人間世界に対する希望をすべて失ってしまったところから始まりました。それゆえ、現実生活で満足している人々の中には、真の宗教人はあり得ないのです。それは、皆さんもよく知っているはずです。

 それゆえ、生死が行き交う運命にぶつかり、悲しみの絶頂に入っていき、自分の存在を認識できない絶望の塗炭の苦しみの中に立つようになるとき、その人生の方向は当然あすを描く習慣的な人生行路に立つのではなく、自らの命までも否定する立場に立って新しい価値をたどっていかなければならないのです。このような論拠から真の善の出発の拠点はあり得るということを、私たちは認めざるを得ないのです。

 こういう観点で見るとき、私の人格が天の拠点だと自信をもてる人がいるでしょうか。いないというのです。また、「私が今抱えている家庭が天の拠点だ。神様がいらっしゃるなら、私たちの家庭を知らないとは言えない」と、自信をもって言える家庭もやはりないというのです。あるいは、私たちの氏族はこれこれの歴史的な善の功績をもっているので、神様が私たちの氏族に知らないふりをできないと、自信をもてる氏族がこの世界のどこにいるでしょうか。そういう民族、国家、主義、思想がどこにあるのかといえば、あきれ返ってしまうというのです。それで、「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」というのです。

 その言葉には、どんな意味があるのでしょうか。千年生きることを願う人は、悪の世界において、自分自身を千年以上守るために努力する人であってこそ、千年生きるという夢を見ることができるし、万年生きることを願う人は、自分自身を万年以上犠牲にしてもそれを有り難く考えることのできる心をもってこそ、万年生きることのできる希望の拠点を見つけることができます。

 同様に、永遠の命、永遠の幸福、永遠の天国を叫ぶ人がいるならば、彼は永遠を中心として現時点を克服しなければならず、現時点において自分を犠牲にして耐え忍び、乗り越えることのできる立場に立たなければなりません。このような立場に立ってこそ、永遠の拠点が生じるのです。

◆天の拠点になれる一人を探してこられた神様

 では、神様のみ旨はいつ成し遂げられるのでしょうか。そのような人がいれば、そのみ旨はいつ成し遂げられるのでしょうか。そのような人がいなかったために、今日まで神様のみ旨は成し遂げられずにいるのです。

 今まで歴史路程で、この地上に来ては去っていった人の中には、数多くの聖賢たちがいました。今日の文化世界は、その聖賢たちの教えが世界化されていることは言うまでもありません。各国の憲法も、やはり聖賢たちの教えの中の重要な骨子を中心として作られています。

 歴史路程において多くの立派な人々が、この地上に生まれて逝ったのですが、いつ神様がそのような立派な人々と手を取り合って内外の生活理念を相談したことがあったでしょうか。なかったというのです。生活理念といえば、家庭、社会、国家に対するものがあるでしょう。神様が生活理念を相談できる子女がいたなら、神様はこれほど哀れではなかったのです。

 ですから、神様は神様が事情の通じ得る一人を探すために、今まで苦労してこられたのです。その一人に会うために神様は、この地上にイエス・キリストを送るまで、イスラエルの四千年の歴史で多くの預言者を通して、真の一人の男性を標準に立てて収拾するために努力なさったのです。真正の神様は、内心が通じることができ、事情が通じることができ、内的な因縁が一つの共同的な決意とともに、一つの歩みを整える拠点をこの地上で探すことを願う心から受難の道を歩いてこられたのです。

 この地上には人が多いけれど、その人々の中に神様の事情の分かる特定の一人を探してこられたのです。そのような人を探してくるには、歴史路程において平坦な道を通して探してくるのではありません。最も悲惨な歴史過程を通じて探してこられるのです。

 神様と一度話してみることができる男性がいれば、神様はそういう一人の男性を探して初めて、話を一度してみようというのです。その男性と話してみて、その一言によって喜び、その一言を通して一つの因縁をたどって幅を広げ、環境をえり分けて一人の生活圏を一度もってみようというのが、神様の願いだというのです。それで神様は、今までその一人を探してきたのです。

 今日多くの宗教人は、「天国は自分の宗教を通してこそできる」と言います。それはすべて妄想的なことです。数多くの宗教が、それぞれの教祖を中心として、その教祖が教える教理を通して天国ができると言います。キリスト教だけ見ても、数十の宗派に分かれています。自分の宗派でなければ異端視し、サタン視するのが現実です。その教団が神様から公証を受けた立場でそのように言うならば分かりますが、ただ自分の宗派を立て、自分の宗派を残すための欲心からそう言っているのです。動機が純粋ではありません。そういう宗団はいけません。

 宗教の使命において先決問題とは何でしょうか。天国を成し遂げることではありません。それは一次的な目的ではありません。天国が出てくる前に、天国を受け継げる一つの特定の民族が必要なのです。神様はそういう民族をつくるために、選民を選別して選んだのです。歴史上にこういう選民思想があるという事実は、悪の世界に善の一派を残すための主導的な思潮が歴史の背後に残っているということを証しています。

 悪の世界から選民が出てくるようになれば、天国はできます。ところが天国の民が出てくる前に、まず天国の子孫が出てこなければなりません。民と国が出てくる前に、天国を成し遂げることができる家庭が出てこなければなりません。家庭が出てくるには、天が生涯をかけて保障できる一人の男性が出てこなければならず、一人の女性が出てこなければなりません。

 では、そういう男性と女性だけ出てくればいいのでしょうか。そうではありません。その男性と女性を通じて、息子、娘が出てこなければなりません。そうして神様が永遠の息子、娘だと保障できる一つの家庭が出てこなければなりません。このような家庭がなくて、氏族、民族を成し遂げられず、そのような民族なくして国家と世界は成し遂げられないということは極めて当然の事実です。

 したがって、神様が訪ねてこられる拠点は個人です。個人に垣根をつくっているのです。それで今まで宗教は、個人の救いを目的としてきたのです。しかし、神様が探している救いの目的は個人ではありません。家庭です。したがって、天国家庭の基盤を探し立てなければ、天国氏族、天国民族、天国国家、天国世界はあり得ません。

◆神様が探してこられた一人とはどんな人なのか

 では、神様が探している男性とはどんな人でしょうか。どんな姿をしているのでしょうか。聖書に記録されたエリヤの預言を見れば、「この世の終わりの日には悪の世界に浸っている人間を救うことができる主人公が来る」とあります。新しい人間世界の主人公が来るということです。エゼキエル、イザヤ、エレミヤなど四大預言者が預言するのを見れば、すべてその内容です。ではその人とは誰なのでしょうか。今日のキリスト教徒はイエス様だといいます。

 男性の中で、それでも神様が関心をもてる男性とはどんな人でしょうか。聖人です。聖人は世界主義者です。世界主義者でなければ、聖人の位に入っていけません。聖人を見れば、孔子も世界主義者であり、釈迦も世界主義者です。ガリラヤの海辺を歩き回りながら三十三歳の独身男性として、み旨を成し遂げることができずに死んでしまいましたが、イエス様も世界主義者です。マホメットも世界主義者です。

 しかし、ソクラテスは聖人の仲間に入れません。ソクラテスは哲人であって、聖人ではないのです。哲人は真理の王にはなれますが、命を主管できません。違うのです。では、何が命を主管するのでしょうか。宗教のみが命を主管します。宗教の中でもどんな宗教でしょうか。神様に侍る宗教です。聖人には命を動かせる能力があります。聖人は、世界的な主義、思想をもっています。また、神を否定した聖人は一人もいません。

 工場に行ってみれば鋳型を作っています。丸い形や四角形の鋳型を作るのですが、これにお金が一番かかります。ここには精誠を込めなければなりません。ほかの部分は、スイッチを一度押せば、自動的に物が出てきますが、一番難しいのがこの鋳型、日本語で「型」というものです。この鋳型はどんなに堅い金属で、どんなに強い力で押しても形が変わってはいけません。どんなものによっても変形しない堅いものでなければなりません。その鋳型を削るのも、穴だけ開けて置いてはなりません。外側の穴があれば内側があります。この内側が穴にちょうど合わなければならないのです。これが難しいのです。穴を開けることは誰でもできる簡単なことですが、ここに自由に出たり入ったりできる型を作るのが、最も難しいのです。

 神様がこのような型を作ったとすれば、その型にちょうど合って出たり入ったりするものを作るのはもっと大変なことでしょう。それが人なら、神様がそのような人を探すはずです。昼も夜も出たり入ったりしなければならないのですが、神様が「間違いない」と言えるものがなければならないのです。できなくても、それがなければならないのです。神様が完全なことを計画なさるならば、それがなくてはならないのです。神様の心にぴったり合うもの、神様が「そのくらいなら百点だ。満点だ」と言えるものがなければなりません。

 それがきっちり合えば、水や油を注いだとき、流れるでしょうか。水や油を注いでどんなに揺れてもこぼれない、それを見つけるのです。神様は絶対的な方なので、絶対的なものを探すのではないでしょうか。この地上に、そういう男性の型がなければならないのです。そのような男性を神様がつくらなければなりません。

◆聖人のモデルがもつべき三つの条件

 聖人なら聖人のモデルがなければなりません。フランスのパリにあるメートル原器のような原形がなければなりません。その原形の基準は何でしょうか。

 皆さん、好きな服があるとき、それが自分の気に入ってさえいれば良いでしょうか。気にも入るし、体にも合わなければなりません。気に入って着てみて、体にもちょうど合えば気分がいいけれど、体に合わなければがっかりします。その服を着ることはできません。また、体に合っても気に入らず、その服を着て歩けない、合うには合うのですが腕がきつくて動かせず、活動するのに不便だったら、その服は着ることはできません。ですから服は心にも合い、体にも合って、活動するのにも合わなければなりません。三段階ですべて合わなければなりません。そうしてこそいいのです。目的の世界はそこで成されるのです。目的もなく、喜びが生まれるはずがありません。

 皆さんが神様の心に合い、体に合い、生活に合う男性を、聖書の中から「この人だ」と描き出すことができますか。聖書で、神様が探す形の男性を見つけることができるかというと、見つけることはできないのです。

 イエス様はなぜ死んだのでしょうか。そのモデルにぴったり合う人がいるのに「死んだ」と言っては話になりません。ピラトがイエス様を信じたなら、イエス様を殺したでしょうか。祭司長がイエス様を信じたなら、イエス様を殺したでしょうか。彼らの願うモデルがイエス様が願うモデルと同じだったら、イエス様を殺さなかったはずです。

 では、イエス様は志願して死んだのでしょうか、どうしようもなくて死んだのでしょうか。「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ二六・三九)と祈祷したのを見れば、イエス様は志願して死んだのではありません。そういう祈祷を一度ではなく、三度もしました。この地に死ぬために来たとしたら、そのような祈祷をする必要はないはずであり、楽しく死んでいくことを決意して、その場に立ったはずです。イエス様は、死が恐ろしくてそのような祈祷をしたなら、救世主の資格がないのです。イスラエル民族が、イエス様のみ意と合わなかったから死んだのです。

 こういうことを見ると、イエス様がしたかったその生活、イエス様が会いたかったその人、イエス様が共に話しながら計画して歴史を新しく編成したかった、その背後の前後関係がどうだったかが大きな問題だというのです。

 それは誰も知らないことです。それゆえイエス様は、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない」(ヨハネ一六・一二)、「わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか」(同三・一二)、「わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか」(ルカ一二・四九)と言ったのです。イエス様がこの地上に火を投げたけれど、火はつかなかったのです。

 では、天国に入っていける人とはどんな人でしょうか。まず、神様の心に合う人でなければなりません。どのくらい合わなければならないでしょうか。神様が永遠の目的を中心として、永遠の理念を描いていく方ならば、永遠に合わなければなりません。永遠なる神様に、永遠に心を合わせなければなりません。そうするにはどうしなければならないでしょうか。永遠に心を合わせることができて、永遠にお互いに好むことのできる父の息子にならなければなりません。そのような息子になろうとすれば、悲しみの対象として現れてはなりません。そこに天国があるはずです。

 その次は、神様の体に合わなければなりません。体には方向性があります。方向性として現れるのです。考えは四方の中心点に代わるけれど、体は方向性として現れるのです。神様の体が東に行くといえば、神様の心に合う息子になろうとするなら、神様と共に東に行かなければならないのです。外的な体を中心として現れるすべてのものが一致しなければなりません。

 それだけでいいのでしょうか。そうではありません。神様は和気あいあいとすることを好むのに、かちかちになっていてはいけません。神様が和気あいあいとしているときは、和気あいあいとしなければなりません。内外が合わなければなりません。このように内外さえ合えば良いのでしょうか。そうではありません。

 その次には、神様がなさることと一致しなければなりません。そうしようとするならば、心にないことがあり得るでしょうか。体が嫌がることがあり得ますか。体と心が好むことをしなければならないのです。神様がいらっしゃるならば、神様が喜ぶことがあるというのです。またイエス様が神様の息子ならば、イエス様もそのようなことを喜ばなければなりません。

 そのような立場で体と心を中心として行動が一致しなければならないのですが、その行動が家の中で一致するだけでいいのでしょうか。それは大社会、大世界にも現れなければなりません。その大社会、大世界に対して現れるようになるときは、世界的な権威を備えなければならないし、世界的な法令と威信を備えなければなりません。厳然とすべきときは厳然と行動すべきであり、厳粛にすべきときは厳粛にすべきで、権威をもたなければならないのです。

◆愛と心情の教えが最高の教え

 男性として生まれてきた歴史的聖人のうち、誰が聖人の中の聖人でしょうか。私が好きな人といえばいろいろいます。法学を研究する人は、その法学を中心として好むように、自らの専門分野を中心として好む人がいます。過去にしたことを中心として、好む人がいろいろと違うのです。それはその分野を超えて、全体の分野に適用できないのです。しかし、私が愛する人であれば四方的です。

 このように見ると、神様が一番好きな聖人とは誰でしょうか。簡単です。神様は、何を基準として好まれるのでしょうか。愛をもって好むことのできる人だというのです。そのような方向を中心とした聖人の教えは、どういうものでなければならないのでしょうか。神様の愛を中心として慕い、そこについていきますと、歯を食いしばり、必死になって果たす内容を教えなければならないし、そのように身もだえした事実を残さなければなりません。

 イエス・キリストはこのような点で世界のトップです。彼は、「神様は私たちの主人である。神様は私の父である」と言いました。これは驚くべき結論です。神様は私の父だというのです。そして、自分はその父の骨髄を受け継いだというのです。それゆえ、父が悲しくなれば息子も自動的に悲しくなるのです。父が悲しむときは、それを尋ねてでも共に悲しむのです。

 イエス様は、愛という情緒的な問題を中心として、最高をつかんだのです。最高を手中に入れたというのです。そのうえイエス様は、「私は神様のひとり子だ」と言いました。ひとり子とは何でしょうか。愛があれば、その愛を分けてもつというのではなく、独り占めするというのです。

 それを見ると、イエス様は欲張りだったのです。また、イエス様は世の中の多くの男性の中でも、神様によって初めて生まれた息子でした。つまらない息子、娘はみな必要なくて、本物の息子が必要なのです。絶対者の本物の息子が必要でした。

 では、神様の本物の息子になって何をしようというのでしょうか。神様の暮らしを受け持つ息子になってどうしますか。御飯でも腹いっぱいになるまで思い切り食べて、油気が流れるくらい愛される息子になりたい人がいますか。御飯を食べられず苦労をしても、父のしりについていきながら父の懐に深く隠されている熱い愛情を独占するという息子、そのような息子が最も恐ろしい息子です。

◆神様が願うことは真の家庭を成すこと

 イエス様がこの地上で神様を「父」と呼び、神様の愛を「私の愛だ」と言い、神様が「私(イエス様)なくしては愛することができない」と言ったのを見れば、イエス様は聖人になれる資格があるのです。他の聖人の教えは人倫、すなわち人間の生活圏に入っていきましたが、イエス様の教えのように心情圏にまでは入っていけませんでした。またイエス様は、「私は新郎であり、あなた方は新婦だ」と言いました。自分につき従う者とその主体が関係を結ぶなら、新郎新婦以上の関係を結ぶ立場はありません。相対的な因縁をもてば、それ以上の関係がないのです。そのような意味でイエス様は、「私は新郎であり、あなた方は新婦だ」と語ったのです。

 新郎新婦の関係ですが、今は愛を結んではなりません。終わりの日に、きれいに準備をして迎えようというのです。それで終わりの日に、イエス様が新郎として来る時に、キリスト教徒は新婦になるというのです。また、イエス様は信者に対して、「僕」と言わずに「兄弟」と言いました。

 このように最も情緒的な問題を全部糾合して、どこにくぎを打ったのかというと、家庭にくぎを打ち込みました。これは否定できません。したがって、イエス様が願う根拠地は家庭です。家庭を中心としたのです。

 神様が探している真の息子が出てきたなら、真の娘が出てきて真の夫婦となり、その真の夫婦を通して真の息子、娘が出てきて、その次に真の兄弟が出てくるのです。それは誰が願う基準でしょうか。イエス様が願われる基準です。これをもてなかったなら落第です。孝子になれないのです。その願いの基準は、イエス様が願う基準にもなるでしょうが、イエス様が願う前に、神様が願われる絶対的な基準なのです。

◆天国にはどんな人が行くのか

 親に孝行する時、生まれてから死ぬまで孝行して、歴史の道が孝子の標準を残したとしても、神様を中心として親子の関係にあるイエス様がゲッセマネの園で、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と深刻に、神様と決定的な問題を解決したその基準を代表できる親思いの祈祷をできる人がいたでしょうか。いなかったのです。

 では、天国に行くためにはどうしなければならないのでしょうか。世の中で楽しみながら生きる夫婦になるよりも、神様の公認のもとで楽しみながら暮らす夫婦にならなければなりません。また、子供を生んで育てるのにも、自分たち同士で関係を結んで、子供を生んで育ててはならないというのです。神様の公認のもとで、世の中の人々がうらやむ親子の絆を結んで、父母ならば父母として息子をより愛さなければならないし、夫婦ならば夫婦間でより愛さなければならないし、兄弟ならば兄弟間でより愛さなければならないのです。

 なぜでしょうか。今日のこの世界が、サタン世界であるからです。悪の世界です。悪の世界で誇る愛と善なる世界で誇る愛とは、次元が違うからです。悪の世界は平面的であり、善の世界は立体的です。それゆえ霊界にいる数多くの天使天軍や千万の霊人たちも、また今まで生まれて逝った歴史的な聖人、賢哲たちも、みなその愛で結ばれているのです。

 したがって、天国に行ける人は、神様を、妻よりももっと愛さなければならないのであり、父母よりももっと愛さなければならないのであり、子供よりももっと愛さなければなりません。そのように愛さなければ、天国に行けないのです。これは絶対的です。それでイエス様は、「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイ一〇・三七)と言いました。またそこにつけ加えて、「また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない」(同
一〇・三八)と言ったのです。この話は、イエス様と一番近い人になるよう強調したことにもなりますが、本人の責任感を最も強調したことにもなるのです。

◆イエス様がこの地上に来て探そうとしたもの

 では、天国の拠点とはどこでしょうか。イエス様が、天国はあなたの心にあると言った言葉と、イエス様が求めてきた願いの拠点とが一致するかというと、どうでしょうか。これは聖書のみ見れば、矛盾であり、相反するのです。では、その過程を誰が連結させるのでしょうか。今日、このキリスト教と、イエス様と、聖霊が連結されなければならないのです。ところが、これを知りませんでした。

 イエス様が求めてきたものとは何でしょうか。心の中に天国をもてる男性として、そのようにできる女性を迎えて相対的圏に天国の平面基準圏を成立させずには、平面的な地上に天国は建設できないのです。イエス様が地上に来て個人的に一致した天国の基盤は完成したかもしれないけれど、相手の新婦の環境を中心とした天国の基盤は完成できなかったので、それを願いとしてキリスト教が多くの犠牲の代価を払って道をつくってきたのです。これは、終わりの日まで待ち望むことができるのです。

 したがって、男性が行くべき道とはどんな道でしょうか。最初は自分が完全な人間になることであり、その次に相手に出会うことであり、その次に家庭を成し遂げて息子、娘を生むことです。息子、娘を生んで何になるのかといえば、自分の氏族の族長になるのであり、族長になって善の族長を率いることができる民族長になるのであり、民族長になって主権者になるのであり、主権者になって天のお父様との相対的関係において世界を主管できる最高の勝利者になることです。これが男性の行く道です。

 それで、世界を自分のものにしたいという欲望のない男性はいません。そのような欲望をもっていない男性は男性ではありません。人の仲間にも入っていけない男性です。そういう願いがかなう可能性がないので表現したりしませんが、何も知らない人でも世界を自分のものにしたいのは当然なことなのです。そのような欲望は、人類歴史始まって以来、未来まで永遠に続くのです。そのような欲望がなければ、神様の息子になれません。そのような欲望があるので、神様の息子が宇宙の一番の大王です。言い換えれば、偉大な方だというのです。神様の息子になるなら、世界的なチャンピオンにならなければならないのです。

 そのような男性、世界的な男性になって世界的な最高の相手を探そうとする夢、そのような夢をもたなければなりません。大学に行って学士、博士になって何かの「長」になれば、孤独単身でも良いというかもしれませんが、一人では幸福であるはずがありません。幸福というのは相対的な条件のもとで成立するものです。

 イエス様は、かわいそうな男性です。神様がイエス様に、「天地をお前の思いどおりにしなさい。天も自分勝手にし、地も自分勝手にしなさい」と言ったなら、イエス様はどのようにしたでしょうか。簡単です。天地に不足することのない内外の人格を備えて、「おい! 天下よ、私はこうしたいのだが、お前はどうか」と聞くと、天下が「はーい! そうしてください」という立場を願ったでしょうか、願わなかったでしょうか。

 聖書を見れば、イエス様の当時のイスラエルはローマの植民地だったのですが、税吏は人としての扱いを受けられませんでした。税吏は、国のお金を搾り取ってローマに捧げる、国をむしばむ人でした。そういう税吏とローマ人に対して、イエス様は、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、分からずにいるのです」(ルカ二三・三四)と祈祷しました。それは、イエス様が彼らの僕になるためにそう言ったのでしょうか、彼らをイエス様の僕にするためにそう言ったのでしょうか。彼らをイエス様の僕にしようとして、そう言ったと思います。

 天国を建設しようとするなら、頭の良い人が必要です。天国を設計しようとするなら、頭が良くなければなりません。頭をもった文化人が必要だというのです。イエス様当時は、ローマが必要だったのです。その時ローマ帝国は、すべての文化が集中している地でした。そのようなローマ帝国が必要だったのです。イエス様はローマ帝国がもっている文化圏、それ以上の基盤を夢見ていたのですが、イスラエル民族には到底望めなかったので、この次に使えるという望みをもって彼らの罪に対して赦しをこうたのです。この次に僕にするために、その時は、それしか方法がなかったのです。

 イエス様が天地を思いどおりにできたなら、天下の第一人者になったはずです。ところがそのようにするときは、暴君のように銃や刀で威嚇して強制的に屈服させてはいけません。それが何なのかも知らず、万民が屈服できる人格の圏をもって成されるのです。

 そうして第一人者になれば、その次はどこへ行くのでしょうか。世界の国王になってすべての国の大統領に会い、役人を従えて毎日朝礼をし、国家を治める、そこを中心として教えようとすることで終わるのでしょうか。もしそうであれば、イエス様は孤独な人です。ですから、その次はどこへ行かなければならないのでしょうか。相手を訪ねなければなりません。

 男性が生まれる時、女性がいないのではないかと心配しながら生まれますか。女性がいるということを知って男性として生まれるのです。それを心配して生まれる人はいません。男性として生まれる時には、女性がいるということを知って生まれてくるのです。それゆえ、男性がそのような形をしているのです。また、女性も既に男性がいることを知って生まれるのです。そのように生まれるのは何をするためでしょうか。相手に会うためです。

 イエス様は聖人ですが、聖人の行くべき道とはどこでしょうか。世界を治めることのできる人格者になって、弟子たちを中心として率いて、その次は家庭をもつ男性として生まれたので家庭を訪ねるのではないかというのです。ですから、イエス様の恨とは何かというと、男性としてすることができなかったことです。イエス様は家庭をもつことができませんでした。家庭の主人としてのイエス様になれませんでした。新婦を迎えるための新郎としてのイエス様にはなったけれども、家庭の家長としてのイエス様にはなれなかったのです。

 それから、父としてのイエス様になれませんでした。世の中の人々はイエス様と呼ぶけれど、イエス様を「お父さん」と呼びながら、ひげを抜いたり、背中に上がったり、頭にも上がったりする息子がいませんでした。父親としてのイエス様になれなかったのです。

 イエス様が父親になったら、その次は婿を迎えたかったでしょうか、迎えたくなかったでしょうか。嫁も迎えたかったでしょうか、迎えたくなかったでしょうか。このように考えると、「イエス様と私たちと違うところが何かありますか」と言うかもしれませんが、家系が違うのです。それだけです。ほかに違うところはありません。イエス様が息子を育て、嫁をもらい、その嫁を愛したくなかったでしょうか。また、婿を迎えて愛したかったでしょうか、棍棒で頭を殴りたかったでしょうか。愛するのです。そのような義理の父としてのイエス様になれなかったのです。

 このように考えると、イエス様が探す新婦は、どうしなければならないでしょうか。イエス様が探す兄弟は、どうしなければならないのでしょうか。イエス様には息子、娘がいませんから、私たちが息子、娘になるためには、イエス様に接ぎ木されて養子になるのです。偽物を免れた息子と兄弟にしかなれないというのです。

◆天国の拠点を確立するために行く道

 では天国はどこでしょうか。「あなたの心にある」と言った、その天国とはどこにあるのでしょうか。それがイエス様の探してこられた環境的天国と相反する内容でしょうか、順応できる内容でしょうか。相反してはいけません。順応の道理に合わなければならないのです。環境的な天国が成されることによって、地上天国が形成されるのです。

 地上天国を成そうとするなら、絶対的に必要なものとは何かというと、家庭です。小羊の婚宴とは何でしょうか。神様の計画書どおり、一人の男性と一人の女性が、ぴったり合う理想の実体として現れて、神様が初めて「良し」と言える一人の男性と一人の女性を抱いて「よしよし、私の愛する息子、娘だ」と宣布式をすることです。それが小羊の婚宴です。すなわち、結婚式です。新婦の道理によってえり分けていくのです。

 それはどのようにしなければならないのでしょうか。人間が堕落することによって、本然の基準を失ったので、救いを受けなければなりません。救いとは、病んだ人を病気になる前の本然の立場に復帰させることと同じです。それゆえ、本来神様がなさろうとしたことをしなければなりません。では、神様がしようとされたこととは何でしょうか。両手をにぎって愛に酔い、永遠に離せなくて、昼でも夜でも地獄でも天国でも、どこに行っても「我が娘、我が息子、さあ、来なさい、来なさい」と言える息子、娘をもとうとなされたのです。

 父母には子女を探していく権利があるし、夫には妻を探していく権利があるのです。また、お兄さんには弟、妹を探す権利があるのです。なぜなら、血統が同じで、愛の絆があるからです。それはすべて、初恋の因縁に関係しているのです。お父さん、お母さんも初恋に関係しているし、夫婦も初恋に関係しているし、兄弟も初恋に関係しています。そこには主管の権利があります。

 では、その初恋は誰を中心として関係を結ばなければならないのでしょうか。神様です。人間は神様を中心として初恋を結ばなければならないのに、これができなかったので、今日の世の中が動揺する時勢になってしまったのです。それゆえ動揺する局面になったこの世を、公式の法則を通して押し出さなければなりません。こういう悪の世の中に一つの拠点をつくって、悪の世界と一勝負をするために出発したのが統一教会です。

 先生が出世しようとするのではありません。神様を出世させようというのです。神様を解放しようというのです。イエス様を解放しようというのです。これが「統一思想」です。私たちはそのために決意をし、そのために開拓者になり、そのために受難の路程を克服していこうというのです。それゆえ皆さんは、そのために国境を越え、教派を超えて、ただ一つの目的基準に帰一すべき共同的な責任があるのです。

◆神様を中心として体と心が水平を成す時に天国が成される

 皆さん、心の天国になるためにはどうしなければならないでしょうか。皆さんは、もう心の天国を成しましたか。天国は永遠なる所です。永遠に行く所です。そこに永遠に行こうとするなら、自体が水平にならなければなりません。千年、万年過ぎても水平にならなければなりません。傾いてはなりません。永遠に水平にならなければならないのです。

 では世の中の人を中心として見ると、その水平基準は何でしょうか。私たちの体と心が水平になっていますか。これが問題です。イエス様は、「あなたの心に天国がある」と言いました。天国は永遠の国なので、永遠の国になるためには水平基盤にならなければなりません。水平基盤になるためには、心が水平にならなければならないし、体も水平にならなければなりません。心の水平基準が高く、体の水平基準が低くてはいけないのです。

 一つにならなければなりません。体と心が永遠において、完全に、絶対的に一つになる所で天国が生じるのです。では絶対的に一つになるには、誰を中心としてならなければならないのでしょうか。天国の基準とは誰でしょうか。イエス様が現れたがゆえに、イエス様を中心として一つにならなければなりません。そうするには、どうしなければならないのでしょうか。情緒的な問題から、心と体の問題、生活的な問題にまで一つにならなければなりません。天国は、そこでできるのです。人は、このような内容の目的を成すために生まれたのです。

 こういう観点で自分自身を中心として見ると、天国の拠点とはどこでしょうか。家庭でしょうか。そうではありません。家庭が天国の拠点になる前に、私自身がそれにならなければなりません。私は私なのですが、私のどこでしょうか。心です。その心が神様と水平にならなければなりません。心が神様と水平になったその基準を拠点として、体も水平にならなければなりません。イエス様はこれを失わないために闘ったのです。それゆえ祈祷も、神様の心と自らの心の一致点を中心として祈祷したのです。

 イエス様の心が神様の心に一致したら、その一致点を中心として、その基台の上で神様のみ旨がイエス様の心に移るのです。神様の理念がイエス様の心に移るのです。言い換えれば、神様の心とイエス様の心が一つになったところでは、神様の内的な天国思想がイエス様の心の中に移されるというのです。そのような意味で「夫婦一体」、「親子一体」という言葉が出てくるのです。

 「一体」、一つになるには何がなければならないのでしょうか。お金でもないし、他の何かでもありません。それは情緒的な問題です。「お父様が私を愛し、私はお父様を愛する」ということは、愛の問題でなければ、一つに結べません。そういう基準、イエス様が神様の思想と一致したその思想を受け継いだ心でなければなりません。そうなれば、神様の思想が絶対的ならば、イエス様の思想も千万年の世界の歴史がどんなに詰め寄っても、へし折ることのできない思想になるのです。そのような思想的基盤を中心として、体を一体化させなければならないのです。

◆宗教の道

 私たちの体と心には、主人が二人います。異なります。それで天国を成せないのです。二人の主人が闘っているのに、天国ができるでしょうか。使徒パウロも、「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」(ローマ七・二三、二四)と慨嘆しました。「なんというみじめな人間なのだろう」と苦しむ人が、天国のできることを願っているのですが、話になりますか。天国は闘いが評定されてこそできるのです。それゆえ、この闘いをしています。では、ここで何が怨 讐なのでしょうか。心を中心として体が怨讐です。体が怨讐だというのです。それで宗教は、この体を打って正す方法を教えるのです。

 体を打って正す方法は、心に何倍もの強い力を入れて体を引っ張っていくようにするのです。体に子供がくっついていたとしても引っ張っていくのです。かえるに電気を通せば、かえるが四肢を広げるように、そのような力の世界があります。その力さえ受けるようになれば、じっとしていても細胞が破裂していくような力が生じるのです。そういう膨大な発電所があると、この発電所に配線だけしておけば電灯に灯がつくのです。線だけ連結しておけば、その接触によって電気は、あっという間につくのです。そのような力の発源地があるのです。

 その力の発源地に体が接するようになると、その体がいくら悪くて反対しても、その反対するものを導いていくことができるのです。導いていくつかの峠を越えて初めて、そこであきらめさせることができるのです。そうできなかった人は、どうしなければならないのでしょうか。体を強制的に打って正さなければなりません。食べさせず、着せずに、苦労をさせろというのです。宗教の修行の方法は、この二種類しかありません。

 こういう立場にある皆さんが、最も闘わなければならない対象とは何でしょうか。サタンが問題ではありません。サタンの大王とは誰かといえば、自分の体です。良心は天国の見張りなのですが、体は天国の見張りではありません。サタンの国の王宮です。サタンは、この世界の一番になろうとしています。そういう体を打って正すためには、この世界に勝てる力をもたなければなりません。国に勝てる力をもたなければならないし、民族、家庭、自らの情緒的な問題、世の中で起こるすべてのことに、勝てる力をもたなければならないのです。そういう心をもたなければ不安なのです。それゆえ、宗教の道は肉身を中心とするのではなく、肉身を完全に否定するのです。

 「体が嫌だということを、すべてせよ」というのです。「体を否定せよ」というのです。これが真の宗教です。体はサタン世界の拠点です。天国の拠点があって、サタン世界の拠点があれば、その二つが、戦いでも何でもしてこそ、前進あるいは後退が起こるはずです。体は世の中を中心とした悪の立場であるがゆえに、何を中心とするのでしょうか。自分を前面に押し出す主義です。自分を前面に押し出すことが、堕落の第一歩です。

 では天の法度とは何でしょうか。公義を前面に押し出すことです。私的なものはサタンのものであり、公的なものは神様のものです。公義のために行かなければなりません。そのような路程において、あらゆる人がどんなに反対しても、そこに侵害されず、困難な道も生命力をもって行く人がいれば、彼は春を迎える天国人になるでしょう。それゆえ、皆さんは何かの腐敗のにおいが漂っても、そこに侵犯されない群れになりなさい。これが「統一思想」です。

 こういう思想をもつことによって、侵犯されないようにするのはもちろん、新しい時代において一つの種、すなわち中身をもって、自分自らの姿をその環境に如実に表せる自分になろうというのです。そういう愛を植えたので、そういう愛を刈り取らなければならないのです。秋の季節は、刈り取る時です。

◆天国の拠点は人間の心

 では統一の方案は、どこにあるのでしょうか。世界主義では駄目です。世界の民主主義でもってどんなにつくろうとしてもできません。完全な製品を作ろうとするなら、まず付属品を正しく作らなければなりません。ですから、皆さん自体を完全な人としてつくることができる完全な工場をつくらなければなりません。それが何でしょうか。完全な宗教です。完全な宗教を探してくることです。

 統一の方案とは、大韓民国の南北で成されるのが統一の法案なのではありません。人間自身の中で闘っている体と心を、どのようにして闘わないようにさせるか、心が体に対して主導権をとって、平和の基準を維持させるかということです。その体を連結させれば世界になるのです。

 イエス様のみ言を聞いて従う弟子たちは、イエス様がローマ帝国を一時に占領し、イスラエルの国王に君臨するようになれば、自分たちは位を一つずつもらえると思っていたのです。けれども、そんなことは問題ではありません。まず、自分の心の中に天国の基盤を築かなければならないし、その心を中心として体が神様と一つになれる基盤を築かなければなりません。これが一番大きい問題なのです。天国は自分自身から始まるのです。したがって、天国の拠点は自分の心だというのです。

 では、自分が幸福にならなければならないと思い、幸福になろうとするならどのようにしなければならないのでしょうか。体と心が一つにならなければなりません。体は安らかであっても、心は深刻になってみてください。そのような立場で肉を食べて、人より豪華な生活をするからといって、「このくらいで良い」と言えますか。体と心が一つになって、眺めるものすべてを欲しがって踊りたくならなければなりません。心と体、中と外の違う人が人格者ですか。そうではありません。中の形と外の格好が同じでなければならないのです。それゆえ、天国の拠点は私たち自身だというのです。ですから、体と心が一つになれというのです。

◆体と心の統一方案

 体と心を統一する方案とは何でしょうか。人間がどのように堕落したのかというと、信じることができなかったためです。誰を中心として信じることができなかったのでしょうか。自分を中心として信じることができませんでした。「ただイエス様だけを信じれば天国に行く」と言いますが、どこが中心でしょうか。「ただ信じる」と言うけれど、何を中心として「信じる」と言うのでしょうか。自分を中心としてイエス様を信じてはなりません。イエス様を中心として信じなければなりません。イエス様の思想を中心として自分が決心しなければなりません。イエス様の愛を中心として自分が決心をしなければならないし、イエス様の心情を中心として自分が決心をしなければなりません。

 そのように信じて、何をするのでしょうか。一つになろうというのです。その目的観がそのようになっています。それゆえ、最初は信じなければなりません。誰を中心として信じなければならないのでしょうか。主体を中心として信じなければなりません。絶対的にその主体と一つにならなければなりません。

 なぜそのように信じなければならないのでしょうか。どうして信仰を強調するのでしょうか。神様は高い位置にいて、人間はあまりにも低い位置にいるので、人間が条件的に妥当性のある何かを橋として置いたのでは、神様の前に上がっていく道がありません。聖書の上では六千年といいますが、何千万年にもなる距離があるので、今日の堕落した人間が神様を訪ねていくには、あまりにも遠い距離です。行くに行けない道なので、神様は私たちを愛してくださって、ひとり子を送られたのです。

 国家的な次元において、一国家が世界のために三分の一を投入できる立場に立って、このような三カ国が協助すれば、一つの国の予算を越えるのです。そうして十カ国が協助すれば、三カ国を解放できるというのです。そういう世界を成し遂げることができるという目的をもって行くのが、統一の道です。統一の道は、神様が願われる天国への道を待ち望んでいることなので、その道でのみ天国へ行くことが可能なのです。その道以外にはありません。

 自分を中心としたこの世界的な思潮の終末期においては、その道がふさがれてしまったので、他人を中心として行ける一つの方法しかありません。背を向けるしかありません。神様は、これを御存じであられるので、今までこの道を克服してこられながら、個人からそういう思想を願い、家庭、氏族、民族、国家、世界まで動員して、この地球上に天国を建設しようとなさったのです。

 したがって、徹頭徹尾自分から、家庭基盤を模索してみ旨を連結させて、同胞愛を超えた心情のつながりを世界化させる国があるならば、その国は間違いなく、神様が君臨なさる天国になるはずです。その国には悲しみがある前に、喜びと希望があふれるであろうし、苦痛がある前に、苦痛に責任を負える世界の人がいるので、苦痛を感じないでしょう。

 皆さんは、このような世界が天国になれるということを知って、天国の拠点が皆さんの心、心情世界から連結するということを確実に知らなければなりません。



















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