文鮮明先生のみ言集
訓教経(下)


模範を打ち立てるべき地上時代

一九七一年十月十七日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第四十九巻』


 きょうは、「模範を打ち立てるべき地上時代」という内容について少しお話ししましょう。

◆宗教人が追求すること

 この地上に生きている人の中で、欲望をもっていない人はいません。どこの誰もが、きょうよりもあすがより良いことを願います。現在暮らしている環境よりも、あす生きていく環境がより良いことを願うのです。言い換えれば、漸進的な幸福の舞台を願うのが人間の欲望だということです。これは老若男女を問わず、また東西を超越しての願いなのです。過去においてもそのように願ってきたし、今もそのように願っており、未来においてもそのような立場を抜け出すことはできないでしょう。

 このように考えると、地上に生きている人間がそうであるように、霊界にいる数多くの霊人もそうであるはずです。別の言い方をすれば、人間がそのような立場に立っており、その人間を造った絶対者がいるとすれば、その絶対者もまた、そうに違いないということは言うまでもありません。

 私たちが欲望を中心として、きょうよりもあすが、より良いことを願いますが、その対象とは何かという問題について考えると、私たち人間世界では、何よりも物質をその対象としています。さらに黄金万能時代を叫ぶ現時代においては、お金というものを貴いものとして、お金さえあれば人間の生死も左右できるという時代に置かれているのです。このように、私たちが好む第一の対象を選ぶとすれば、物質を挙げることができます。その次に、人は権力を手に入れたがります。権力は、自らの権益を得るために必要とされます。人間が、より高い位置につくための価値を追求する立場に立つために願うのが、権力というものです。

 また、私たちは、高くて真なる人格を願っています。言い換えれば、物質や権力を喜びの対象とすると同時に、貴い真なる人を標準として願っているのです。

 しかし信仰の道を行く人は、人間よりも高い位置にある絶対者がいるならば、その絶対者を喜びの対象とするのです。この道を模索してきたのが宗教の道だということを私たちはよく知っています。

 このような人間的な立場を総合すると、宗教を知らない人々は物質、お金を喜びの対象とし、人を喜びの対象としています。一方、宗教を信じる人は、物質に対してももちろんそうであり、人に対してもそうでしょうが、それよりも天をより貴いものと考えようとします。天をより善の対象として、価値の中心に立てようとする群れが宗教人なのです。

 私たちがここで、世の中の人と宗教人とを比較すると、その差とは何でしょうか。世の中の人は自分なりの限界線を中心として、それを最高の善の標準、あるいは願いと欲望の標準としていますが、宗教人はここから一段階進んで、天を標準としているのです。世の中の人は、人が限界点ですが、宗教人は人の段階を越えているのです。お金を必要とし、人も必要としますが、それを基点とするのではなく、それを越えて天を基点にしようというのです。これが、この世の人と宗教人の違う点です。

 宗教人は物質世界に生きており、地上の人間とも関係を結んで生きていますが、ここにあるものを善の対象とするのでなく、これを越えて天という、私たちとは関係を結べないような基準を標準として出発すると同時に、そこで新しい対象の因縁を探してあえぐのです。このような群れが宗教人だということを、私たちはよく知っています。

 この世の人は自分の家族のために、あるいは自分の愛する人のために物質を得ようとあえいでいます。また、より真実なる人を慕い求めています。より真なる人間同士で因縁が結ばれ、一つとなる事情を中心として誇ろうとするのです。これが、一般の人が生涯路程で追求する欲望の帰結点です。

 しかし信仰者らが行く道は、そのような限界点を中心としたものではありません。これを越えなければならないのです。私たちの必要とする物質的要件を、第一条件として立てて、その物質的要件が基盤の条件として残り、神様との因縁を結ぶことができるでしょうか。そうできればいいのでしょうが、それができないのであれば、私たちは物質的な要件を切ってしまわなければなりません。越えなければならないのです。

 さらには、世の中の人が、宗教人の行く道に必然的な基盤、あるいは必然的な要件として因縁を結んだものを、そのまま生かしていくことができればいいのですが、人間を中心とした因縁から抜け出さなければならないのが宗教の道だとすると、これを抜け出さなければならないのです。

◆すべてを否定せよ

 この世の人が必要とするのは、物質や、権力や、人です。宗教人もこのようなものが中心となった世の中に生きていることには違いないのですが、この環境が、新しい跳躍の希望をもって出発するための基台となり得ないならば、どうすべきでしょうか。捨てなければなりません。捨てるのに、私が否定すべきなのか、向こうから私を否定すべきなのかというと、向こうから否定してくればともかくとして、そうでない場合は私が否定しなければならないのです。ここに苦衷があるのです。

 それゆえ聖書で見ればイエス様が、「あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」(マタイ六・二四)、「家の者が、その人の敵となるであろう」(同一〇・三六)、「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである」(同一〇・三四)、「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである」(ルカ一七・三三)と言われたのです。これは全部、逆説的な論理です。私たちは、この環境圏内で、順応の条件を絶対に肯定できない立場に立っているということを、このような教えを通じてかいま見ることができるのです。

 家族が怨 讐だというのですから、その人は世の中で最も哀れな人だといえます。物質は死亡の動機となるという教えを受けたのですから、死亡の陰に対する立場に立つべき宗教人の立場は、物質の前では悲惨な立場ではないでしょうか。切り難く、離れ難い環境を切って出発しなければならないということは、どれほど悲惨なことでしょうか。しかし、悲惨さを感じれば感じるほど、その悲惨さは私を破綻させるものではなく、むしろ私を解放する動機となり得るならば、私たちは断固としてその道を選んで行かなければならないのです。

 神様に欲望があるとするならば、神様もやはり人を願い、万物を願うのではないでしょうか。人を必要とするときは、人に必要な物質も必要とすべき立場にあるにもかかわらず、天が人にこれを拒否せよという条件を提示した原因はどこにあるのでしょうか。因縁を結び、関係はしているけれど、その因縁をもち、関係を結んだことを、再び元に戻し、新しい次元で関係を結ぼうという、ある内的な欲望と念願が神様にあるがゆえに、神様が私たちの前に提示するその欲望の道を設定するために、否定的要因を提示されるのです。これは、自然的な結果なのです。

 それで聖書に「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである」(ルカ一七・三三)、「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」という言葉があるのです。これはある内容を残して否定しろという話でなく、絶対否定しろというのです。この地で欲望をもって生きようとする人間の前に、死のうとしなさいということです。完全に否定しなさいというのです。置かれている環境とは違う環境に立てというのです。言い換えれば、境界線を越えろということです。その境界線を越える限界線というのは、死です。したがって、死以上の立場を越えろということです。

◆自ら死の場を求めていけ

 しかし、生きるための道を求めていくのが人生の道であるのに、「死の道を行け」と言われて行く人がいるでしょうか。皆さんの一生について考えてみてください。八十、九十を過ぎて死ぬ時が迫ると、「死にたくない」と言いながら死ぬ人が大半です。

 それでも、志願してその場を求めていかなければならないのです。そして、その場に希望をもって進むのか、絶望をもっていくのかといえば、大多数の人が絶望をもっていく道であるはずなのに、希望をもっていかなければならないのです。

 神様は、なぜこのような条件を提示されるのでしょうか。それはこの世界においては、私たちの生きている人間像と、私たちの願う欲望圏が相応的となり得ずに、相克的な立場にあるからです。

 神様と人間との関係において神様の願う基点、基調、あるいは出発点がどこかというと、この世の圏内からは出発したくないのです。人間の欲望圏ではありません。人間の欲望とともに、こうでもいいし、ああでもいいというものではありません。きれいに清算したところから出発しようというのです。人に対する関係において、きれいに清算したところから出発しようということなのです。

 それが、神様の人間の前に提示した、真の信仰の伝統的な道となるのです。言い換えれば、そこで模範となる一つの原則的基準を設定しようというのです。このように見るとき、皆さんが目で見て、耳で聞いて、口で話して、笑って良いというこれが問題なのです。

◆信仰の道では、なぜ低くなり死のうとしなければならないか

 ですから信仰の道では、「自分を高めよ」とは教えません。高まろうとする者は低くなり、低くあろうとする者は高まるといわれています。信仰の道を行く人は、総じて死のうとした人です。この世で希望の中で生きてきて、信仰の道に入った人はほとんどいません。絶望した人や、人間世界の落伍者のような人が求めてくるのが信仰の道です。

 それゆえ信仰の道で高くあろうとする者は、最も愚かな人です。信仰の道を歩みながら高くなろうとあえぐ人は、この世のどんな悪人よりも悪い人です。

 ではなぜ高まろうとすれば低くなり、低くあろうとすれば高まるのでしょうか。ここには境界線があるということです。三十八度線のような境界線があるということをいっているのです。

 我が国と怨 讐の国との間には境界線があります。ここでは生死の決戦が続いているのです。三十八度線は熾烈な戦闘と交戦が続いている所です。もし、こちら側の人が見つかった日には、死ぬか、そうでなければ利用の祭物となるのです。このような時に生きようとすれば、彼はその国の逆賊となるのです。

 怨 讐の捕虜になって生きようとするならば、怨讐に自分の国のすべての秘密を渡さなければならないのです。そうするくらいなら死ぬべきです。死のうと打たれれば、怨讐は殴るには殴るけれども、誤って殴れば、私たちが怨讐を打つことができるのです。私たちが打つ時には、何百倍にもして返すことができます。このように見れば、死によって滅びるのではなく、怨讐がその一人を誤って打つことによって、その何千倍にもして私たちが怨讐を打つことができるのです。そうすると、それはもっともな話です。

 このように見ると、三十八度線はあるということになります。ところで、その死亡の三十八度線は、一箇所にだけあるのではありません。私たちが一生の間、生きている瞬間瞬間、日々、年々の中でこれが慢性的についているとすれば、どうしますか。私がそうで、妻がそうで、息子がそうで、父母がそうで、愛する国がそうで、人類がそうだということが分かれば、どうしますか。あきらめますか。そうすることはできません。億千万年かかったとしても、それを越えなければならないのです。

 知ってみると、その三十八度線というのは、一定の区間に設定されているような三十八度線ではありません。皆さんが五官を通して感じる、その感覚を通じて全部が行き交うのです。自身の骨髄と共に、自身の感情と共に激動しているのです。

 このような皆さんであることを考えれば、生きようとする人は愚かな人です。宗教をもち、その国の国民であるという意識をもった人がそのように考えるとすれば、その人は正常な人ではないという結論が出ます。これをはっきりと知っている人がいるならば、生きようとしても「生きる」とは言えないことでしょう。生きようとする人は死ぬのであり、死のうとする人だけが生きるのです。

 その時は、死ぬことがその国に忠となるのです。なぜでしょうか。悪が善を誤って打った場合には、神様が何百倍も悪を打つことができるからです。一人が犠牲になれば、その代わりに十人を連れ戻す道があります。罰金をもらってくるのです。一人が死ねば、三人以上連れ戻すことができるということです。

◆いつも生活の中でねらっているサタン

 サタンは、どこにいるのでしょうか。サタンは、特定の所にだけいるのではありません。サタンは皆さんの生活舞台にとりついた大王として、皆さんを攻撃しているのです。サタンを屈服させるためには、生きようとしてはなりません。

 皆さんは、サタンが実存するということをはっきりと知っていますか。「言葉では、いそうなものだが、いるのかいないのか私は分からない」という人は、神様が見て期待をかける人にはなれないでしょう。サタンがいることを確実に知る人であってこそ、神様が期待をかけることができるのです。期待をかけたとしても、それが神様のみ旨に対しプラスになるかならないかは、過ぎてみなければ分からないでしょうが、サタンがいることをはっきりと知っている人にだけ、神様は願いをかけることができるのです。

 それゆえ聖書に「死のうとする者は生きる」とあります。死ぬ覚悟をせずには、抜け出す道理はないのです。怨讐サタンが銃口を向けているのに、死ぬ覚悟もせずに免れることができるでしょうか。「えい、どうにでもなれ。どうせ死ぬのだから、一度非常手段を取ってみてから死のう」としなければならないのです。そうするには、サタンのねらいとサタンの動く方向と、反対の道に進んで、サタンを打たなければなりません。

 その時に知恵が浮かばなかったら、「ああ、私たち愛する国民よ、主権者よ、私に知恵を与え給え。この体が全体を代表してサタンを屈服しなければなりません」と言って非常の対策を取らなければなりません。皆さん、映画の中でそのようなスリルある場面を時々見るでしょう。皆さんは、そのように心身を死亡線に置いて、サタンと一大激戦をして勝負をつけるという決心をしなければなりません。

 皆さんは、神様がいらっしゃるということがはっきりと分かりますか。サタンがいるということがはっきりと分かりますか。神様も分からずに、サタンも分からずに生きているのではありませんか。もし知らないのならば、それは皆さんが置かれている位置が、不干渉圏内にあるからです。

 ですから北に行けばサタンで、南に行けば神様なのに、これはその境界線にぶつかなければ分からないのです。「そのような立場にあるのが今の人生だ」と言っても間違いはないでしょう。

 かといって、緩衝地帯で、温水を水で埋めたようにぬるくてはいけません。冷たいなり、熱いなり、はっきりしなさい。中途半端なのは、むしろしないにも劣ります。冷たいなり、熱いなり極端に立てというのです。

 宗教圏とは何かというと、緩衝地帯圏です。神様を中心とした宗教圏は、天国の眷属としてその国を中心とした個人を代表しており、サタン世界の人はサタンの国を中心としてだんだんこの宗教圏を包囲しているのです。宗教を信じる者の中にも、いまだサタンの居場所を清算していない人は多くいます。

 私たちの人生行路で、そのような熾烈な戦闘が行われているのです。私たちが生活圏内で対する人の中で、決闘戦が行われているということを実感する人がいますか。

◆聖書の教え

 こういうことを目で真っすぐ見つめるイエス様が来られたとするなら、そのイエス様が、「生きようとする者は生き、死のうとする者は死ぬ」と教育するでしょうか。皆さんがこういう立場ならば、どんな教育の標準を立てなければならないでしょうか。何も知らない皆さんであるとしても「生きようとする者は死ぬ」と言わざるを得ないのです。そして、「家の者が最も近い」というのではなく、「家の者が、その人の敵となるであろう」と教育するしかありません。

 先生が今まで話したことの中で、他のことはみな忘れたとしても、三十八度線があるということだけは忘れないでください。死亡の地獄である三十八度線があるというのです。そのような観点から聖書を見るべきなのです。ですから聖書で教えていることは、死亡圏内にあるこの世界のことを得るための教えではなく、新しい国に入国することのできる合格者とならしめ、国民とならしめるための教えです。

 この教えは、有り難い教えです。さあ、皆さんは今までそれを有り難く思っていましたか。イエス様は、民族の反逆者として追われに追われて死にました。その社会で家庭破綻分子であり、社会騒乱分子であり、国家狂乱分子扱いをされて、十字架にくぎづけにされて死んだのです。そのような敗者であるとするならば、敗者の代表者がどうして世界を支配する文化圏を形成するようになったかというのです。イエス様が死んで洪吉童(注:小説の主人公。魔法を操って金持ちから財を奪い、貧民たちに分け与えた義賊)のようなことをして、そうなったのではありません。イエス様を死の場に押し出したのは、その背後に絶対的な力が介在したからです。これは、私たちがその結果を打診してみれば、否定できない事実です。

 なぜ、こういう方が聖人になったのでしょうか。イエス様が死ぬとき、聖人という立て札を立てて死にましたか。「ユダヤ人の王だ、民族の反逆者だ」と、共産党式に言えば「反動分子」として追い詰められて死んだのです。

 イエス様はそのように死んだのですが、死んだ境界線とはどこでしょうか。すなわち、いかなる立場で死んだかというと、神様を代表して、天の志操と忠節を代表した立場で死んだがゆえに、神様はイエス様が死んだ価値を伝統として残して、その思想を思想的基調として立てなければならないのです。神様が生きていらっしゃるならば、そうしなければならないのです。そうしてこそ、初めてその国の国民性と伝統が立つのであり、天国の新しい出発の起源がつくられるからです。その基台が残っているのが、今日のキリスト教文化圏です。これは当然のことです。

 皆さんが誰かに会うとき、そこは三十八度線を中心として相手と交戦する立場にあるのです。したがって、「私が彼に捕らわれるか、私が彼を捕まえるか、悪の侵犯を受けるか善の影響を及ぼすか」という観点で万事を解決しなければならないのです。私が汚されてはならないのです。そのような深刻な立場にあるのです。

 サタン世界で生きるために、自分の体一つ保護するのにどれほど大変かというと、国を統治することよりも大変です。サタンの国を統治することよりも難しいというのです。この道がそのように難しい道だというのです。

 境界線があるということをはっきり知って初めて、聖書の内容が解かれます。そのように聖書を見なさいということです。だから犠牲となる立場を行けば、天にとって損となるのではなく、利益となるのです。皆さんは、そのような観点から聖書を見るべきです。

 神様が人間の世の中と因縁を結ぶためには、必ず人間の前に矛盾した条件を提示せざるを得ないのです。その提示条件を持ち出すことなくして、人間が生きるための因縁を結ぶ道理がないのです。他に方法はありません。このような観点から見て、イエス様の教えは境界線を前に、生死の岐路に立っている人間にとっては、それこそ真理です。

◆地上で打ち立てるべき模範の立場

 模範を打ち立てるべき地上時代。今日、人間の世の中で、人間として永遠に残ることができ、歴史時代に光を放つことができる模範を打ち立てようとするときに、生きようとする立場で立てた模範は、崩れていくのです。死のうとする立場で立てたものだけが、模範として残るのです。

 そうなのか、そうではないのか、見てみましょう。孝子の中でも第一の孝子にならなければ、孝子の模範として残ることはできません。ところがその孝子の模範は、より悲惨な立場で設定されるのです。より悲惨な立場というのは、死の場です。死の場でも、最も悲惨に死ぬというような立場で模範が設定されるのです。

 では、模範はどこで立てるのでしょうか。神様が人間を愛しているのならば、「その模範は霊界に行って立てろ」と言われればいいのに、なぜ「地上で立てろ」とおっしゃるのでしょうか。霊界の霊人ならば殺そうとしても死なないでしょうから、死なない体をつくってそのようなことをすれば良いのに、なぜ地上でするようにしたかというのです。おかしくはないですか。しかし、霊界に行ってからでは駄目なのです。生まれる時に、よく生まれなければならないのです。

 人は最初生まれる時は、最も深い水中から生まれるのです。腹中時代は、水中時代です。赤ん坊がお母さんの胎中にいるときは、水中にふわふわ浮いているでしょう。それを考えれば、「わあ、息もできないのにどうやって生きるのか」と言うことでしょう。そのように水の中で生きているので、水を飲み込んで送り出すことになるので、赤ん坊はホースを腹につけて生きているのです。

 また、赤ん坊の栄養分はどこから供給されるのでしょうか。へそから受けます。へそが腹の口です。ですからそれをないがしろにしてはなりません。「へそよ、お前は昔苦労しただろう」と軽くたたいてやりなさい。そのように、へその運動をたくさんすれば健康になるのです。どんなに寒い部屋で寝たとしても、へそさえ出さずに覆って寝れば、下痢をしません。

 ですから水中の時代があり、その次には陸地の時代があります。その次には飛ぶ時代があります。今日人間は飛ぶことをどれほど待ち望みましたか。飛んだというと、世界で最も注目の的となり、世界が飛ぶことで初めて統一されました。アポロ十一号を中心として、飛ぶことにおいて統一されたことがあったのです。

◆三段階の世界を経る人間

 人は水の世界で生き、地の世界で生きました。皆さんが腹中から生まれるとき、「私は陸の世に出て、口から蜜も食べて、餅も食べて、御飯も食べて、牛肉も食べて、何でも食べる」と考えたことがありますか。そのように考えたことがありますか。ここを出ると死んでしまうと思って、へそで息を吸って生きていたことでしょう。それを思うと、どれほど歯がゆいですか。

 それでも、腹の中から外に出ることを案じては、「ああ、出たくない」と思うのです。出ていかないとはいうものの、時が来ればみな出ていくのです。水が流れていくときに、水がぱあっと出ていくのについて外に出れば安産となるのです。ちんと生まれるのです。

 赤ん坊が生まれれば、食べる口が変化します。腹の中にいるときは、へその緒で栄養供給を受け、へその緒で息をしていた赤ん坊が、生まれてからは鼻で息をするのです。そして口で食べます。変わるのです。そうして地上で七十年、八十年生きて死ぬのです。

 地上生活は空気中で、胎内で泳ぎながら生きていたように生きるのです。空気のふろしきの中で生きているのです。では死ぬというのは何でしょうか。死ぬというのは特別なことではなく、第三の人生に出生することなのです。その瞬間が死ぬ時です。

 とんぼも、初めは幼虫として水中で泳ぎ、地上に上がってからもしばらくは這っています。その次に、すいすいと飛び回り、陸地では食べるとは思いもしなかった虫を捕って食べます。天下を自分の舞台として飛び回るのです。昆虫もこのように水で、陸地で、空中で生きるのに、万物の霊長である私たち人間が、地上でだけ生きるのでしょうか。そのようには創造されませんでした。人間には次元の高い翼があるのです。

 宇宙を見てみましょう。皆さんが夜中に起きて、外に出て夜空の天の川を眺めてみてください。眺めれば星が無数にあります。数億の星がいっぱいです。

 光は、一秒間に三十万キロメートル、すなわち一秒に地球を七回り半も回ります。光は、そのように速いのです。そのように速い速度で光が出発して一年かかっていく道を一光年といって、これを一つの単位と定めているのです。ところで、何億光年以上の遠い所にも星があるのです。その星から光が出発してから何億年以上たっても、いまだに地球に到達していない、それほど遠い所にある星もあるのです。

 それほど広大無辺な数億の星があります。この地球のようなものは、ほこりにすぎないくらいです。そうではありませんか。

 あの星の国には、どんなものがあるのでしょうか。ダイヤモンド星があるでしょうか、ないでしょうか。全知全能なる神様が宇宙を造ったとするならば、そのどこかにダイヤモンドの標本となる星が一つくらいあることでしょう。そのように考えることもできる問題です。また純金の星も一つあるでしょうし、ひすい星も一つあることでしょう。宝石の名前をもったのは、みなあることでしょう。神様が知っている宝石は、どれほど多いでしょうか。人間の世の中では見られない宝石星が、宇宙にはどっさりとはめ込まれていることでしょう。

◆万物は神様が人間のために造ってくださったもの

 では、それはすべて何のためにそのように造っておいたのでしょうか。神様のために造ったのではありません。もし人のために造ったとするならば、どうでしょうか。人の運命を変えるのです。

 そのような世界を、朝な夕な行きたい時に行き、来たい時に来て、触りたい時に触り、見たい時に見ることのできる自由な活動舞台として、そのような自然的な姿でそこを舞台に生きることのできる私に一度なってみたいと、誰もが思うものです。

 それでは、この肉身をもってその世界へ行くことができますか。肉身をもっていては苦しいので、牛車を造り、自転車を造って、次にはオートバイを造って、タクシーを造って、ジェット機を造って、人工衛星を造っては大騒ぎするのです。

 皆さん、月の国へ行くのに幾日もかかりますが、さっと行ってさっと来る、そのようなことができる何かをつくることができるとすれば、つくりたいですか、つくりたくありませんか。つくりたいのです。神様は、このような人間の欲を知っているために、神様であるとすれば、そのようなものをみな準備しておかなければならないのです。

 では、それが可能になる時はいつなのでしょうか。この国でそれをつくるための道があるとするならば、国民は千年、万年空中に浮いて踊りますか、踊りませんか。そのようにできる舞台が私たち人間のために準備した大宇宙だとするならば、それを一度占領してみたいのが人間の欲望です。この地上にダイヤモンドがあるのは、本宮の世界に行って拍子を合わせることができるようにするためです。

 では、それをいつ実践できるのでしょうか。死んで初めてできるのです。この肉身をもってはできません。一つの世界を抜け出せば、この宇宙の東の境界線から西の境界線まで、あっという間に行くことができます。「その圏内にある金銀宝石でいっぱいの星は私のものだ」と言って、痛快に宇宙の王子の座から見下ろす時の気分はどれほど良いでしょうか。叫ぶにしても、生前には出したことのない声で叫ぶことでしょう。笑うにしても、今までそれほどまでに笑ったことがないほど、笑うことができるのです。四肢五体がすべて喜びでいっぱいとなり、和動することでしょう。そこは生きては行けない所です。死んで初めて行くことのできる所です。

 統一教会の文先生も、一時そのように考えていました。「ああ、あの星はきれいだろうな。天のお父様が全知全能であられるから……」、もしそういう星がなければ神様の前に行って、「私が願っていたダイヤモンド星はなぜないのですか」と言うと、神様もどうすることもできません。「信じるままになる」と言ったので、神様も約束を履行するしかないのです。

 太陽の光よりも速いのが、私たちの心です。心は、神様よりも大きいのです。それくらいの度胸と基台が私たち人間にあるがゆえ、その尺度を地上につくっておいたのです。では、ここでパスするために誰がサインをしてくれるのでしょうか。「神様、あなたがサインしてくれなければ私は死にます」と言う度胸のある男が先生なのです。それゆえ、宗教を統一して霊界を統一しようというのです。

◆宇宙の所有権と主管圏は地上で決定される

 人がダイヤモンドを貴び、金銀宝石を貴び、すべてを貴んだとしても、一人では幸福にはなれません。ですから人をダイヤモンド以上に貴く思いなさいということです。そうしてこそ神様の理想的な呼吸に合うのです。

 その世界に一度行ってみたいですか。どんなにこの大宇宙の果てが遠くても、東の果てから西の果てまで、あっという間に往来できる素性をもっているのが人間であるゆえに、「万物之衆惟人最貴(注:万物の中で人が最も貴いの意)」というのです。

 そういう世界の所有権と活動舞台の権限と特権の基準を、地上のこの生涯で決定するのです。この地上で私が苦労すること、食べたいものを食べず、着たいものを着ず、したいことをせず、耐えることを拡大することで、その何百倍、何万倍、何億千万倍喜ぶことができ、食べることができ、着ることができ、生きることのできる舞台が一時に展開するのです。

 そのような本然の世界に、実験の責任者としてだけではなく、全体を管理する責任者として登場することのできる喜びの一日が、私たちの人生の道の終わりの日にあることを考えると、死の道が悲しいでしょうか。その代わりに、準備をしなければならないのです。ですから忙しいのです。その準備をどのようにするのですか。その方法を知らなければならないのです。

 世界において今この時代に、このような問題を中心として問題視している人は統一教会の文先生のほかにはいません。いくら著名な博士が多くても、神学博士が多くても、この問題に関しては統一教会の文先生から指導を受けなければならないのです。それは決定的です。また絶対的です。

 では、模範を立てなければならない地上時代において、どんな模範を立てなければならないので
しょうか。この国の歴史に名を残したところで、どうなりますか。一つの本然の原則的な世界を標準にして、そこに合格できるようになるのが重要なのです。そのすべてのケースの規格に合うようにするには、今日孝子の中の孝子にならねばならず、忠臣の中の忠臣にならねばならず、烈女の中の烈女にならねばならないという言葉が出てくるのです。

 ですから天国に行こうとするならば、悲惨に生き、悲惨に行けというのです。人のために命を捨てろというのです。自分のためではなく、人のために、世界のために、天下のために命を捨てろというのです。そうすれば、この天下が大宇宙の主人として立ててくれるのです。

 それで統一教会に来れば、地上で良い暮らしをしようとはしません。ひどい暮らしをして、ひどく苦労して死んで道端に倒れ、犬もくわえていかないような死骸を残したとしても、いつかその場には花の咲く一日が来るのです。そうして結局、そこにはすべての偉大な人々が集まり、都を造ることでしょう。

 それで統一教会員を国のために、世界のためにうんざりするほどの苦労をさせて、孝子、忠臣にしようというのが先生の考えです。

 それゆえ、み旨のために孝子、忠臣の道理を尽くしなさいというのです。聖書を見れば、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ二二・三七)というのが第一の戒めだとあります。その次に、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(同二二・三九)とあります。あなたの隣り人というのは誰のことでしょうか。世界万民が私の隣り人であり、私の兄弟です。ですから、この話は世界万民のために心を尽くし、思いを尽して、命を捧げなさいということです。命を捧げれば尽くしたことになります。

 そうです、み旨のために一度死んでみようということです。どこで死にますか。各自が自分の死ぬ所を探さなければならないのです。一つの爆弾として生まれたならば、爆破するときにはきれいに岩に落ちなさい。どぶに落ちるなということです。「私たちは弾丸のごとく打ち放たれた爆弾だ。岩の上に落ちよう!」というのです。こういう決心をしたがゆえに、今日統一教会の文先生の行くべき道は、いまだ遠いのです。躊 躇することはできません。

 あすの願いの実現者となり、その世界を管理する責任を負う人のいない歴史上で、私がそれを眺めて精誠を尽くして涙を流し、それに対して努力と精誠を、熱と誠を尽くしてこの標準の前に合った一つの帰一点、その一点を求めなければなりません。そのために、生命を惜しみなく捨てる覚悟をして行こうというのが、統一教会の先生がもっている主流的な思想です。ここでは、冒険が内外に連結されています。また、無慈悲な決闘戦を展開しなければならない場面を通り過ぎるのです。

 生命を尽くして成しても死なずに残る基台になったとすれば、これは人類歴史に模範となり、万民の幸福の基調となることでしょう。全天下が、それを和動の基点として大運動を展開するための軸となり得る立場で、神様を動かして人類の願いの基台をすべて結束できる立場に立って、私が動けば動き、私が静ずれば静ずるという宇宙史的な責任感を感じながら生きる男であるとするならば、決して「小さな男」と言えないのではないでしょうか。

 そうして、行きたがらない道へと追い立てるのです。自分のために生まれたと考えているのに、「人のために死ね」と言うなんて、行きたがる人がどこにいるでしょうか。ですから追い立てるのです。この道が個人を超え、家庭を超え、宗族を超え、民族を超え、国家を超えて、旗を掲げて天下に新しい国をもつということのできるような時代圏にまで私たちは行くのです。

 神様はそれを準備するために、イエス様を送るために、イスラエル民族を選民としてユダヤ教を立て、四千年間準備しててきたのですが、その道が閉ざされてしまったがゆえに摂理が延長して、今日このキリスト教を中心として、これを再び訪ねてきたのです。ここで実質的な決定は統一教会がすべきであるので、統一教会は普通の教会ではありません。

◆私たちが打ち立てるべき模範の道

 皆さんがこの途方もない宇宙を主管し得る模範の基準を、この短い地上の生涯路程で立てることができるのです。では、それはいつ立てるのでしょうか。先生もそのような深刻な生活を今でもしており、残る余生が尽きるまでするのです。それで私が死ぬ日、「どんな立場に倒れたとしても、私はこれ以上できません。お父様、私の誠と熱を尽くしました」と言うことができるのです。過去を振り返ると、「これ以上に、このようにすればよかった」というような思いを残したくないのです。いつでも深刻な立場で、生涯を確かめつつ歩んでいるのです。それゆえ、神様は私を愛するのです。

 私が涙することがあれば、霊界に通じる何も知らない人々に涙を流させ、私が苦痛な立場に立つことを案じて、思いもかけない人にその苦痛を分担させる事実を見て、「神様が私を離れているのではなくて、私のためにいらっしゃるのだ」と考えては、きょうもあすも感謝して、余生を大切に迎えようとするのが先生の人生観です。このような思想の前に、皆さんは自分勝手に生活をしてはなりません。天倫が願う歴史的な基準を中心として犠牲となり、霊界にいる私たちの先祖が、私があの世に行くときに隊列を備えて諸手を挙げて歓迎するか、讒訴するかという問題を考えると、聖賢君子が諸手を挙げて、「ようこそいらっしゃいました」と歓迎するその日のために、今準備する道を急がなければならないということを皆さんが知らなければなりません。

 皆さんも先生と同様に、この地上でそのような途方もない宇宙的な基盤を磨くべきことを知って、残る余生を真に価値あるものとして送らなければなりません。ですから年を取った人は、青春時代をただ逃してしまったことを恨めしく感じなければなりません。恨めしく感じなければならないのです。この体が汚されていない純潔な純情が燃え上がる思春期、若い青少年の時期をこのような立場で神様の前に立つことができず、正常な道を行けないということがどれほど恨めしいでしょうか。このようなことを考えれば、その道を行くことのできなかったこの体に賎待とむちが臨み、蔑視と苦役の道が臨んだとしても、それを当然のものとして受けなければならない運命の道と知って、厳粛についていくべき路程が統一教会の道であり、人生の道であるということを皆さんは知らなければなりません。

 それをみな犠牲にさせる恨みがあっても、模範を立てていくべきだというその基準が、鉄石のように残っているということを銘記して、皆さんは今後、どんな終結が結ばれるかを考えてみなければなりません。複雑多端な世界情勢の中で、国家の運命が動搖する国家情勢の中で、あすの願いとあすの希望を中心としたみ旨の前において、私はどんな道を行くべきかという問題を置いて、誰よりも深刻でなければならないのです。誰にでも与えて余りある心をもっていかずしては、正常なみ旨の軌道に乗っているとみなすことができない、ということを皆さんは知らなければなりません。


















SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送