文鮮明先生のみ言集
訓教経(下)


人間の価値と天国の起源

一九七一年十一月二十一日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第五十一巻』


 人は誰でも価値ある存在になろうとします。誰でも名のある人となり、権威ある人となり、重みのある人になることを願うのです。すなわち、価値ある存在になることを願うのです。

◆神様と人間の願いが実現される場

 では、私たちが願うその価値はいかなる所で見つけられるのでしょうか。これが重要な問題にならざるを得ません。さらに宗教人の願いはどこに帰結するのかといえば、天国に入っていき、天国の人になることです。それが彼らの願いなのです。価値ある人間になったのちにとどまろうとする所が、天国だというのです。

 ところが、その天国も段階的になっています。この社会において上中下の階層があるのと同様に、霊界にも上中下があるというのです。パウロが三層の天を見たという、そのような体験的な内容を見ても、聖書で教えている太陽の栄光、月の栄光、また星と星の栄光もそれぞれ違うということを見るときにも、そこにはいろいろな階層があるということが分かります。

 ところで、一つの関係を結ぶためには必ず組織的な秩序がなければなりません。秩序を抜け出すことはできないのです。秩序というのは、前後関係を通じなければ成立しないのです。このような観点から考えてみるとき、私たちは前後関係、上下関係、左右関係を中心とした上中下の階層が存在することが分かります。このように考えてみるとき、天国に入っていく人にもいろいろな階層があるのです。

 では、そういう階層は何によって左右されるのですか。それは価値の問題です。その人がどれだけ価値ある存在かということが、その階層を決定する要因になるというのです。

 人間の願うより価値ある人間の基準と、天が願う基準が一致しなければならないのではないでしょうか。もし、天が願う価値の基準と人間が願う価値の基準が違うときは、天が喜ぶことのできる世界になり得ないのです。天が喜び、私たち人間が喜ぼうとするなら、天が願うことと人間が願うことが一致して、成されなければならないのです。

 そうして私たち人間も喜び天も喜べる、両面の喜びで和して一つの喜びとして連結すれば、そこで初めて幸福の基台が起こるのです。

 幸福というものは、一人ではあり得ないのです。どんなにこの上ない権威をもったとしても、権威をもったその立場が孤独単身の立場であるときには、彼は幸福な人ではないのです。

 自分が中心の立場に立っていれば、その中心と関係している分野が広く、大きければ大きいほど、その広さと大きさによって彼の幸福の基準が左右されるのです。それゆえ人々は、より多くのものを所有しようとするのです。より貴いものを所有することを願うのです。また、より価値あることと関係を結ぼうと、日常生活で努力しているのです。それはなぜでしょうか。より幸福であり得る環境と接するためです。

 それゆえ幸福とは、独りでいる孤独な場にはあり得ないのです。幸福は、相対的関係を結ぶところにのみあり得るのです。そして、その相対的関係は相反的関係ではなく、相応的関係でなければなりません。お互いが和して、お互いを慈しむ相対的関係を結ぶところに幸福があるのです。

 どんなに相対的な関係をもったとしても、お互いが自己中心的な立場にあるならば、幸福はあり得ないのです。お互いが相手のためという、その場があからさまになればなるほど、表面化すれば表面化するほど、それが全体に及べば及ぶほど、その幸福の刺激が全体に高く展開するのです。もし、その場が縮小するときには、幸福も縮小した限界線に制限されて入ってくるのです。

◆人間が追求する人格基準

 それでは、神様御自身について見ると、神様はどうしてこの広大無辺な大宇宙を創造なさったのでしょうか。神様が広大無辺な宇宙を創造されたのは、小さな分野で幸福を探し出そうとしたのではなく、より広大な幸福圏を要求されたからです。この広大無辺な宇宙を、創造主であられる神様と被造物が誰にも永遠に侵犯されない場で、お互いに授け受けることのできる幸福の要因として造ったのではないかというのです。

 その造られた被造物と造った創造主が互いに相克ではなく相応できて、被造物がその価値を発揮するようになれば、創造主もその価値を発揮するようになり、被造物が喜び幸福になるときには、創造主も喜び幸福を味わうことができるのです。そのような場でこそ、創造理想の喜びが実現するのではないかと考えるようになるのです。

 神様がそういう因縁によって人間を造られたがゆえに、人間自身もそのようなことを願うのです。大きいとすると、どれほど大きいことを願いますか。無限なことを願います。もし、自分の相対的人格を追求する何かがあるというなら、それは私たちが考え得る圏内の人格ではないというのです。何千年、何万年かかっても考えられない、それ以上の大きな人格を我知らず待っているのです。

 言い換えれば、私たち人間は我知らず他人の考えも到達し得ず、自身の考えも到達し得ない、それ以上の価値的な人格を追求しているというのです。

 それゆえ、そういう人格を追求する人間自体であるために、そういう人間が主体になったとすれば、その人間が主体として願う相対物も無限に大きいものに違いないのです。この世界全体を自分のものにしたとしても、その世界以上のものまでも願う心が、私たち人間にあるというのです。

 言い換えれば、自分の考えでは追求できない、それ以上の人格の基準を心で描いているがゆえに、相対的世界を願うにも、そのように願うという事実を考えざるを得ないのです。

 このように考えてみるとき、私たち人間の人格の価値の基準はどこにあるのでしょうか。その価値の基準は、制限された時間や空間圏内に一定の、一つの標的のように現れたものに対して、「これだ」と言えますか。もちろん「これだ」と言うことはできても、ある線内に、あるいはある圏内に包まれたものを「これだ」と言いたくはないのです。

 無限と連結した、大宇宙の中心的な立場に立った自分自体として認められる基準を願っているのです。言い換えれば「これだ」と言っても、ある線内でなく、全体が連結したときに「これだ」と言うことができるようにと願うのです。

 それゆえ人間の欲望が無限ならば、その人間が願う人格の基準も無限と通じるのです。ある限界線内でなく、その限界線を出入りすることのできる基準まで拡張するのではないかというのです。

 では、その人格の基準がそのように膨大に拡張していくならば、その中心になることのできる核とは何でしょうか。それが「私」だと考えるかもしれませんが、私自体だけでは核になれないのです。膨大な大宇宙圏内で、私一人であっては中心になれないのです。ここには、私と一緒に相対的価値を追求できる何かがなければなりません。

 では、相対的価値を追求できるその何かとは何ですか。それは私のようなものでなければなりません。私と同じようなものであるけれども、それは相対性をもたなければならないのです。それゆえ人には、男性と女性があるのです。男性もそういう価値の基準を願うと同時に、女性もそういう価値の基準を願わなければならないのです。そのような価値の出発というのは、私を離れてはあり得ないのです。

 では私と一緒に関係を結ぼうとするなら、その関係を結ぶところにおいて一番の基準とは何でしょうか。私と同じものです。したがって、どんなに大きな人格基準をもった人においても、その一番の基準とは結局、自分のような人でなければならないというのです。

◆愛の立場

 人間の世の中には、男性があって女性があります。その男性と女性は価値的な存在であるというのは間違いありませんが、その価値的な存在がどこを根拠にしているかというときに、それは彼を中心として、また、私を中心として決定されるのです。では、彼と私の中心だといえる立場はどんな立場でしょうか。これが問題になります。彼も「その場に置けば良い」と言い、私も「その場に置けば良い」と言える立場とはどんな立場でしょうか。その場を追求してみるとき、それはただ良いという漠然とした立場ではないはずです。

 では、その場とはどこなのかという問題について考えてみましょう。今日私たちが「良い」という名詞をここに適用させてみれば、それは心の奥底だというのです。心の中の深い所に善があれば、その善なる位置が中心になるのです。その心の中の深い位置は、私たちは見ることができません。

 では、その心の中の深い位置はどんな所でしょうか。私一人でいる所ではありません。彼も共にいることのできる位置でなければなりません。そのような位置ならば、彼も私の心の中に入っているべきであり、私も彼の心の中に入っていなければなりません。それが二つではなく、一つでなければなりません。

 そのような場はどこになるのかというとき、その場は愛の場に違いないという結論が出てくるようになります。それゆえ、愛する人同士では心の奥深く愛しているのか、心の中で本当に、真なる心の中で愛しているのかということを追求するのです。

 皆さんが「良い」と言うとき、ただ良いというだけでは何の味もしません。けれども「私の心の底から本当に愛している」と、こう言えば味があるというのです。そのため、お互いが境界線を打破してしまい、二つでなく一つに結束しなければなりません。その結束点は、お互いに静かに向かい合う場ではありません。互いに和して、内外が一つなのか二つなのかも分からない立場です。

 もし、そのような場が繰り広げられたとするなら、それはどんな場でしょうか。先ほど話した、人間が願う価値の基準と天が願う基準、天国が出発することのできるその基準が一致する場です。もしこれがどこか一箇所でも合わないならば、喜びの世界にはならないのです。そこには喜ぶことのできる起源が、喜ぶことのできる動機がないのです。

 では、それがどこから出発して一つに結束するのでしょうか。その結束点とはどこでしょうか。そこは彼が私の中に、私がその中に存在できる場です。皆さん、聖書のヨハネによる福音書第十四章二十節を見ると「わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおる」という言葉があります。その話は、何を中心として述べた言葉でしょうか。

 私たちが「善」というとき、その善というものも相対的な観念ですが、「愛」というときにはその感じはどうですか。「愛」といえば、私と共に一度にぶつかる感じがするというのです。したがってその言葉は、愛を中心として述べた言葉だというのです。愛は愛ですが、どんな愛でしょうか。神様が願う愛に標準をおいて述べた言葉だというのです。心と心の境界線を打破して一致させ、一つに結束させる麹のようなもの、すなわち原因であり、動機であり、母体が愛だというのです。

 その愛は、小さいといえば極めて小さいのであり、大きいといえば極めて大きいのです。愛する人の間ではそうではないですか。この上なく愛する人が一度瞬きしただけでも、ちらっと横目で見ただけでも、それは天地がひっくり返ることのように感じられるのです。また、愛する人がにっこりと一度笑う表情をしただけでも、天地が出たり入ったりするのです。敏感であればそんなにも敏感で、小さいならばそんなにも小さく、大きいならばそんなにも大きくて、見えるといえば見えて、見えないといえば見えないのです。その境界線を壊すことができるのは愛しかないのです。

 それゆえ、愛する人は自身の心に占領されているのです。言葉一つも愛する人を中心として始めようとします。そうではありませんか。愛する人を中心として与えたいのであり、愛する人を中心として受けたいのであり、愛する人を中心としてささやきたいのであり、愛する人を中心として万事を因縁づけたいのです。そうしているうちに愛する人との関係が切れるようになれば、この宇宙全体がみな煩わしくなるのです。

◆幸福の出発地

 幸福や不幸などのすべてのことも、愛する人を中心に繰り広げられるのです。そうなのかそうでないのか、私たちの実際の生活から一例を挙げてみましょう。

 億万長者のおじいさんがいるとしましょう。世俗的に見るときには、みな備えたおじいさんです。息子、娘もあり、お金もあり、権力もあり、外的に見ると人をうらやむことが一つもないほどにあらゆるものがそろっています。ところが、そのおじいさんがやもめだとすれば、そのおじいさんを見て、「ああ、あのおじいさんは天下を代表できる幸福なおじいさんだ」と言えますか。そうなのか、考えてみなさい。そうではないというのです。世の中にどんなにかっこいい男性、女性がいたとしても、その美男美女が一人で暮らすならば、その人は哀れな人なのです。それには、とやかく言う必要がありません。

 では幸福の出発はどこからでしょうか。これは極めて重大な問題に違いありません。幸福というものは価値的基準が成立せずには現れないのです。その価値の基準は、どこから立てられるのでしょうか。私からですか。私からはできないのです。

 価値の基準は、私からは立てられません。私とあなたの間から立てられるのです。私と同じ人がいて、私が彼を完全に愛することができ、彼から完全に愛を受けることのできる場所、完全に与えることができて完全に受けることのできる場所から始まるというのです。

 こういう問題について考えてみるとき、どんなに一人洞窟の中に閉じ込められた体であっても、自分のために命を捧げ、死の道を歩みながらも自分を愛してくれる人がいたならば、その場所で、その愛する人のことを考えるその時間は不幸ではありません。どんなに孤独で、悲惨で生死の行き交う場にあってもその場を克服し、そのすべての環境を制圧できるのです。愛する人が間違いなく私のために努力しており、私がこの道を行くことによって彼が幸福になれるとするならば、死の道でも越えていくことができるのです。

◆愛と生命

 このように考えてみるとき、生命の動機とは何なのかということが問題になるのです。今日、哲学界でも生命と存在が問題になっています。存在が先か、生命が先かということが問題になっているというのです。生命がなくては存在できません。

 ところで、生命は必ず相対的因縁を通じなくては生まれません。相対的因縁を通じることなくして生命が生まれないのです。生命のある前に、相対的因縁がなければならないというのです。それでは、その相対的因縁とはどんな因縁でしょうか。愛の因縁です。相対的な愛の因縁を通じてこそ生命が生まれるというのです。したがって、生命のある前に愛がなければなりません。

 皆さんが生命をもつにも、そういう相対的な因縁があったのです。その相対的因縁とは何かといえば、父母の愛です。その父母の因縁をずーっとさかのぼれば、アダムとエバまで上がっていきます。アダムとエバまで上がっていくと、どのようになるでしょうか。

 アダムとエバもやはり生命をもって存在しようとすれば、そこに相対的因縁である何かがなければなりません。愛そうとする、愛らしくて愛さざるを得ない、そのような内的な因縁をたどることのできる相対的な何かがなければならないのです。このように因縁を結べる相対的な存在を「神様」と言うのです。それゆえ、統一教会で話す「二性性相」という言葉でなくては説明ができません。

 その二性性相は別々にあるのではなく、愛を中心として永遠に一つとなった絶対的な価値の基準を決めなければならないのです。二性性相の中和的主体としていらっしゃる神様です。その神様は漠然と独りでいる方ではありません。相対と共に一致するための、主体的な立場にいらっしゃる方です。では、その神様と一致するための相対的立場にいる存在とは何ですか。人です。

 その神様と人が完全に一つになるべきなのですが、そのようにできる糾合点とはどこですか。言い換えれば、三つが一つに合わさることのできる所とはどこですか。一つに和し、お互いが「彼が私であり、私が彼だ」ということのできる場とはどこですか。こういう問題について考えてみるとき、「隣り人を愛すことを、私の体を愛すようにする愛」、これより大きい愛はないと見るのです

 では、私の体のように愛することのできるその愛の場とはどこですか。一人で暮らしている男性、あるいは一人で暮らしている女性の中には神様の愛が臨在することができないのです。完全な価値を備えた愛を中心として、完全な価値の決定を下したという先端に立ち、完全に一つになり得るその場に神様の愛は臨むのです。

 イエス・キリストが話した新郎新婦という言葉も、そこに基点をおいて述べた言葉です。彼らが愛で結合するとき、横的な主体と対象である男性と女性の愛に、縦的な神様の愛が介入していくことによって初めて、立体的な愛の圏が成立するのです。このような愛の起源を見いだすことができなかったこと、これが堕落というものです。

◆人間が追求しなければならない価値の基準

 このように見るときに、人間の価値基準は何にならなければならないでしょうか。知識でしょうか。私がある人を愛しているというとき、「彼が修士学位や博士の地位をもっているがゆえに愛している」と言いますか。愛するときには、そのようなものはみななくなるのです。愛するのに、そのようなものは必要ないというのです。その人自体を愛するのです。彼の目が知識より良いのであり、彼の姿が知識より良いのです。その人自体が何よりも良いというのです。そうでなければなりません。

 その場は、知識とか権力のような相対的世界で要求するものより、より価値的な基準の場なのです。それゆえ、その人以外のものが見える場は、真の愛の場ではありません。

 お金によって結婚し、権力によって結婚し、知識によって結婚するのは真の愛ではないというのです。知識が愛の前に立ち、権力が愛の前に立ち、お金が愛の前に立ってはならないのです。直接的な関係は愛が先立たなければならないのです。

 こういう問題について考えてみるとき、人間の価値基準とは何でしょうか。愛を通さずには価値基準が設定されないのです。「愛」という言葉は、相対的観念圏内で成立することであるゆえに、お互いの価値基準も相対的観念圏内で成立するのです。ところで、神様の愛は絶対的であると同時に、変わらぬものであるがゆえに一途です。一つの道を行くのです。ただ一つの道です。それゆえに、垂直を中心として一致することができるのですが、そのように一致するには男性と女性が互いに愛する点で一致するのです。夫婦ならば夫婦間で互いに愛して結合しなければなりません。その結合点がどちらか片方に偏ってはなりません。垂直線にちょうど合って三点がくっつく場、そのような場があったはずです。

 もし昔、アダムとエバが、そのような立場に立っていたならどうだったでしょうか。そうであったならば、神様は多くの力を注ぐ必要はなかったのです。そのようになっていたなら、新しい力を出すための作用は必要なかったでしょう。そのまま結びついているので、少しだけ動いても全体に影響を与えることができるのです。その二人が少しだけ持ち上げれば全体が持ち上がり、少しだけ緩めれば全体が下りていき、広くなれば上がっていき、狭くなれば下りていくようになっているというのです。ところがそれが傾けば、全体がねじれるのです。そのような垂直線と平面的な中心が接することのできる、その基準があるのでないかというのです。

 それが、神様が人間を中心として見る価値基準なのです。そのような価値基準があるはずです。それは知識でもなく、権力でもありません。外的なものではありません。それ自体だけですべてのものを手に入れたように感じ、「その他のことは願わない」と言えるのです。

 それを手にしたのちに、それを成したのちに、より強い垣根となり、より喜べる因縁を全体に適応させるために、もう一つの相対的な感動の世界を拡張させるために外のものが必要かもしれませんが、一番の条件はそれです。それで男性は女性を求めていくのであり、女性は男性を求めていくのです。

 アダムとエバを中心として、そのようになっているのです。アダムはエバを求めていき、エバはアダムを求めていくというのです。では、アダムがエバを求めていくにおいて、エバを中心として求めていきますか。違います。神様を中心として求めていくのです。神様を仰ぎ見て求めていくのです。また、エバがアダムを求めていくにおいても、アダムを中心として求めていくのでなく、神様を中心として求めていくのです。

 言い換えれば、神様の垂直線を中心として相対的立場でお互いを訪ねるというのです。三点が接する場を探していくのです。それゆえ人格の基準、価値の基準というのは、神様を中心とした愛の結合点で初めて出発するのです。これが間違いない原則である、ということを皆さんは知らなければなりません。これが一番の基準です。

◆まず人を愛せよ

 では私たち堕落した人間は、お互いが何を願っていかなければならないでしょうか。神様を願い、神様の愛を願っていかなければなりません。神様の愛が垂直線になっていれば、その垂直線を中心として男性や女性を求めていかなければならないのです。求めていくにおいて、人がここに立っていれば、彼の願う方向と神様の願う方向が直線上になければなりません。そうでしょう。いつも直線上に立っていなければなりません。そうしてこそ発展するのです。それが一日になり、一年になり、十年になり、あるいは一生になって死んでいくのです。

 人格の基準とは何かというとき、今までは哲人とか聖賢が基準になりました。しかし、彼らが主張する思想や世界観は、時代によって変わってきました。彼らが主張した内容は、何でしょうか。価値基準において彼らは、何を中心として話しましたか。それは外的な国だとか、世界を中心として話しました。それで漠然としているのです。私が国を直接愛すことができますか。世界を直接愛すことができますか。できないというのです。では、国を愛するにおいて、代表的な中心とは何でしょうか。世界を愛するにおいては、誰から先に愛さなければなりませんか。個人から愛さなければなりません。

 個人から愛するには、どのように愛さなければなりませんか。男性ならば男性同士が愛するというとき、それはある目的観を中心として、ある結果を追求するために愛するのであって、その他の意味はないのです。男性同士、お互いが愛しますか。その意図が合うからそうなのでしょう。友人はそうしてできるのです。目的を中心とした立場で、お互いに愛するのです。女性同士が好むのも、ある目的観を中心として愛するというのです。もしそれがないならば、愛しはしないのです。好みもしないというのです。

 けれども、男性と女性が愛するにおいては、ある目的観を中心として愛するのではありません。目的観なくお互いに愛するのです。それゆえ、それは動機的愛だといえます。

 こういう立場で考えるとき、世界を愛するには、世界を本当に愛するにおいては、まず人を本当に愛さなければなりません。人を本当に愛するには自らの相手を本当に愛さなければなりません。男性は女性を愛し、女性は男性を愛さなければなりません。それが夫婦です。夫婦になった人々は、自分の相手を愛する心で世界を愛さなければなりません。

 言い換えれば、女性は自分の相手を愛する心で世界の男性を愛し、また自分が男性から愛される価値的な存在であることを知って、世界の女性をそのように愛さなければならないのです。男性も同じです。世界の女性を自分の妻のように貴い女性として愛し、また世界の男性を妻の愛する自分の代身として立てて、妻のために愛さなければならないのです。愛の道は、このようにたどっていかなければなりません。漠然としていてはいけません。

 それで、家庭が国家形成の基準になるのです。どんなに大きな世界を形成するにしても、家庭が基準になるのです。こういう立場で、今日統一教会は天宙主義を叫ぶのです。「天の家庭主義」だというのです。

 お母さん、お父さんが、そのように愛するのです。そのように神様が愛したので、エバが堕落しなかったならば、そのお母さん、お父さんの愛は、絶対的愛になったことでしょう。絶対的愛の場に入っていくというのです。なぜですか。絶対的な神様の愛が垂直になっている、その線に接することのできる相対的立場に入っていき、絶対と一つになり得る相対的愛の圏内に入っていったので、それも絶対になるというのです。

 女性は良い結婚をすれば、夫の権威ある立場に何の功労もなく立つことができるのです。小学校しか行けなかった女性でも、夫が大統領ならば、その夫が行く所はどこでも無事通過するというのです。このように対等な価値を何の条件もなく一度に占領できる手法が、知識世界にありますか。権力世界にありますか。それは、愛の世界にだけあるのです。愛の世界にだけ飛躍的に上がることができる方法があるというのです。

 このように考えるとき、神様の愛を受けるならば、天国へも直行なのです。すべての全体の価値圏に直行でき、干渉するにおいて無理なことを提示できないようにする方法が、愛の世界にあるというのです。

 したがって、アダムとエバが、もしこういう立場で神様を中心として完全に一つになったとすれば、相対的立場でも絶対者と一つになったゆえに、彼らの愛は絶対的な愛になったことでしょう。そのようになったとすれば、そのような絶対的な愛の圏内で生まれた息子、娘も絶対的な愛を受けるようになるので、自然に絶対的な相対圏内に存在するようになるのです。

 絶対的な相対圏で矛盾、相反がなく順応する立場に入っていくようになれば、そこには絶対的な愛が共にあるのであり、彼らは絶対的な愛の道理を受けるようになるのです。そうしてその息子、娘は、平和な愛の垣根圏内で育つのです。そういう雰囲気の中では父母と子女がお互いに和合でき、神様の愛をほめたたえることができるのであり、そこで今日統一教会で話す四位基台の基準、すなわち理想的な家庭の形態が繰り広げられるのです。

 人間の価値基準とは何かというときに、今日の世の中ではその基準を知識におき、思想世界におきました。その思想世界の価値の内容は、目的を中心として追求することはできますが、その目的が成されたのちには、その世界はどこへ行くのでしょうか。全部が、その世界の最高の頂上をかけて戦うのですか。そのようになれば大変です。

 目的を成し遂げたその世界に行ったならば、そこから戻ってくることができなければなりません。それが家庭だというのです。それゆえ家庭は、天国の母国とみなすことができるのです。このような内容をもって出発した宗教が、統一教会です。統一教会は、家庭救援を要求するのです。イエス様について考えてみるとき、それは新郎新婦の名前を通じて尋ねきた道です。

 それゆえ、人間の価値基準はどこにおかなければなりませんか。理想世界に、理想的な世界におくのではありません。理想的な人におかなければなりません。それで、世界を愛そうとするならば人を愛すべきだ、このようになるのです。

◆父母から愛の教育を受けなければ

 それでは人を愛するには、どのように愛さなければなりませんか。その方法を知っていますか。どのように愛さなくてはなりませんか。ただ愛するのではないのです。その愛する方法とは何でしょうか。男性が女性を愛すように、女性が男性を愛すように愛せよというのです。家庭を見れば、女性の前にはお父さんがいて、夫がいて、お兄さんがいます。また、男性の前にはお母さんがいて、妻がいて、妹がいるのです。世界の人をそのように愛しなさい。

 私が生まれるには父母がいなければなりません。では、父母だけいればいいのですか。いいえ。相手がいなければなりません。相手がいなければ永遠に終わりになるのです。そのようになれば、神様に似ることができません。それゆえ父母があると同時に相手がいなければならないし、相手がいると同時に息子、娘がいなければならないのです。

 それで、女性の前にはお父さん、夫、お兄さん、もしくは弟がいるのです。アダムをエバより先に造ったから、アダムがお兄さんになるでしょう。アダムの前には誰がいなければなりませんか。お母さんがいなければならないし、その次には妻がいなければならないし、その次には妹がいなければならないのです。

 では生まれるときは、どのように生まれますか。お母さん、お父さんを中心として生まれるとき、新郎新婦として生まれるのではありません。息子、娘として生まれ、愛の教育を受けるのです。そうではないですか。愛の教育を受けなければなりません。その父母は、息子、娘にどんな教育をしなければなりませんか。知識教育をするのではありません。愛の教育をしなければならないのです。お母さん、お父さんがけんかをすることが愛の教育ですか。

 お互いが一つになる教育をしなければならないのです。天が好むお母さん、お父さんであり、また、お母さんが好むお父さん、お父さんが好むお母さんです。二人とも好むと同時に、私が好むお母さん、お父さんであり、お母さん、お父さんが好む私だというのです。

 そう見るようになれば、神様を中心として見ても、アダムとエバを中心として見ても、四位基台でしょう。全部四位基台だというのです。このように見ても、あのように見ても、みな四位基台だというのです。それゆえ神様の愛を中心として、神様の前に愛の教育を受けなければならないのです。

 それでは、その起源はどこですか。人間から始まるのではありません。神様が父母であるがゆえに、アダムとエバは神様から愛の教育を受けなければならないのです。そのアダムとエバの価値基準の設定はどこから成されるのですか。神様の愛の教育からです。

 では、愛の教育はいつまで受けるのでしょうか。お父さんが知っているすべての価値の基準を推し量ることができるときまで、言い換えれば、成熟する時までは父母の愛を受けて育たなければならないのです。ところで、アダムとエバが神様の愛を受けて育ったという記録が聖書にありますか。愛を受けたという話はなくて、堕落したという話から始まったというのです。

◆神様の愛の教育

 では、愛の神様を中心として愛の教育を受けなければならなかったアダムとエバの、愛の教育基準があったでしょうか、なかったでしょうか。なかったとすれば、神様の理想というものはあり得ないというのです。その愛の教育基準とは何か、ということが問題なのです。

 皆さん、天国に行きたいでしょう。しかし天国に行ってからは、そのような教育を受けることができません。この地で教育を受けて暮らしてから、行かなければならないのです。この地でその教育をしなければ大変なことになるのです。

 では、アダムとエバが教育を受けようとするなら、どのような姿勢をもたなければなりませんか。父母と子の間柄ですから、父母が行く所にはいつもついていかなければならないのです。父母が行くようになれば、どこまでも、いつもついていかなければならないのです。父母が山に登れば山についていき、谷間に下りていけば谷間についていき、洞窟の中に入っていけば洞窟の中についていかなければなりません。いつも、父母と共にいなければならないのです。

 もし神様が息子と離れなければならないなら、離れられるでしょうか。神様は絶対的な方であられるので、絶対的に会いたがるというのです。絶対的な方なので、好むのも絶対的に好むというのです。「何、神様。来たいなら来て、嫌ならやめて、どこかにいたいならいればいい……」、それでいいですか。絶対的でなければなりません。

 それゆえ、神様は子供たちの生命の母体です。そうではないですか。父母はその子供の生命の母体でしょう。生命を育てるのです。生命の母体であり、愛の母体であり、保護の母体です。生命を保護してあげ、育ててあげ、愛してあげるというのです。

 それゆえ、幸福はどこから出てくるのですか。保護圏が成立しなければ生命が脅かされるようになるのです。生命が脅威を受ければ、愛も成立しないのです。今死ぬようになったのに、愛が成立しますか。駄目なのです。それゆえ保護圏がなければならないのです。それで保護圏をつくったのですが、誰から保護を受けなければならないかといえば、天使長だというのです。アダムとエバは生命の起源であられる神様から生命を受け、天使長の保護を受けて愛の教育を受けている途中だったのです。

 アダムとエバがその教育をみな受けていたならば、神様はどのようになさったでしょうか。「私がお前たちをこのように愛したから、エバもこのように愛し、アダムもこのように愛しなさい。お前たちは互いに、私がお前たちを愛したよりももっと愛しなさい」と言われたことでしょう。

 それでは、アダムとエバが二人で、神様が彼らを愛したよりも愛することのできる道とは、どのような道でしょうか。彼らが成熟して二人がお互いを愛する道のほかには、神様よりも愛す道がないのです。

 ではなぜ、神様より自分たちの間でもっと愛さなければならないのですか。お互いがより愛しているからといって、神様をあまり愛さないのではありません。お互いをより愛することによって、その家庭がうまくいき、より愛することによって、神様の主体的な愛がどれほど偉大で、どれほど大きいかということをより一層感じることができるのです。

 神様は、「私があなたを愛するよりも、あなたが私をより愛しなさい」と言うのではなく、「私よりも君たちの間でより愛しなさい」と言われるのです。そのようにできる道を教えてくださるというのです。それが新郎新婦の愛です。結局、その愛は、父母が息子を愛するその愛に劣らない愛なのです。

 そこで子供が父母を愛したこと、すなわち縦的な愛が初めて横的な因縁の愛として出発するのです。かといって、縦的な愛が弱まるのではありません。縦は主体であり、横は相対であるがゆえに、この相対的な価値がより価値あるようになれば、その主体はより大きな価値を感じるのです。

 それゆえ、アダムとエバ自体が互いに成熟し、神様が愛する以上に自分たちの間でより愛することを神様は喜ばれるのです。なぜでしょうか。神様は主体であられるがゆえに、相対がすてきな愛の実体として和すれば、主体はより大きな愛の価値を感じることができるので、神様はそこで幸福を感じるのです。こういう面で神様は、アダムとエバがお互いに愛することをどれほど願われたでしょうか。

 神様御自身は一つの体です。ところで、二性性相の主体としていらっしゃるので、自体内で愛するといいますが、「男性的主体の立場だ。女性的対象だ」といって愛を感じることができるのでしょうか。できるかもしれませんが、男性と女性が分立した立場では刺激的な衝撃を感じることはできないというのです。したがって、アダムとエバが神様自身を差し置いて、自分たちだけでもっと衝撃的に愛するのを見るとき、愛の主体であられる神様は、それを「悪い」とは言われないのです。

 その二人が一つとなったその場を相対として、喜びを感じることのできる主体者であられるので、その相対がより価値的な愛を感じるとき、神様も幸福を感じるというのです。それが、神様の人間創造を中心とした、愛の一番の法度ではないかというのです。したがって、そういう愛の教育を受けずには、その場に行くことができないのです。

◆再臨主はどんな方として来なければならないか

 それでは今日、エデンの園でアダムとエバが堕落せずに受けなければならなかった愛の教育をなし得る、心情的内縁が宿っている宗教がありますか。そのような宗教があるならば、これは「世界的な宗教になるな」と言っても、なるでしょう。

 統一教会に入れば、そのような何かを感じるのです。では、どのように感じますか。女性は最高のお父さんを見つけたという喜びを感じるのです。最高の相手の価値になったら良いのに、という願いの基準を感じるというのです。その次にはお兄さんの中で、世界で一番のお兄さんを見つけた喜びを感じるのです。

 そういう方として来られる方とは誰ですか。再臨主です。皆さんは再臨主がいいですか、初臨主がいいですか。「再臨主」という言葉は、初臨主がみ旨を成就して出てきたのですか、できなくて出てきたのですか。できなくて出てきたのです。したがって、再臨主はどのような方として来なければならないのかといえば、人間の世の中において最高の父として来なければなりません。

 そうでなくては、世の中を救う道理がありません。愛の世界の理想として天国を成し遂げるべきなのですが、そうするには、そういう価値の内容をもたなければなりません。父として、新郎として、兄として、この三大の心情的内容を完全に縦的に、横的に、そして四五度で展開できる、そういう立場の価値を総合した内容をもって来なければならないというのです。そうでなくては、主になることはできないのです。

 人間は、堕落することによって何を失ったのですか。父の真の愛を受けることができませんでした。その次には夫の真の愛を受けることができませんでした。お兄さんの真の愛を受けることができませんでした。これを誰が壊したのでしょうか。誰がそれを壊す動機となったのでしょうか。女性です。エバがそうしたのです。

 それゆえ、女性は歴史過程で再臨主を探し出す時まで、ひどく苦労してきたのです。女性たちが涙を流す時には、すべて愛が踏みにじられて涙を流してきたのです。愛の蕩減をしなくてはなりません。どういう女性の涙なのかといえば、愛の行き違いから流れて出てくるのが女性の涙だった、このようになっているのです。

◆節概と志操

 今日、人類歴史において節概(注:操)に対して話せば、男性が節概をより守らなければなりません。ところで、女性は節概を守らなければならないといいますが、男性は何ですか。男性も志操がなくてはなりません。それはみ旨のための節概をいうのです。目的のための節概がなければならないのです。そして女性の節概は、愛のための節概です。

 それでは、目的のための愛がいいですか、愛のための愛がいいですか。先ほど、「男性同士では目的を中心として愛する」と言いました。そして男性と女性、すなわち夫婦間では愛を中心として愛するといいましたが、このうちでどちらの愛が先ですか。目的を中心とした愛はあとで、愛を中心とした愛が先です。

 したがって、女性は節概を守らなければならないのですから、一つの愛だけを知らなければなりません。また、男性は志操をもたなければならないのですから、一つの目的だけに向かっていかなければなりません。こうしたり、ああしたりしては駄目なのです。一度定めれば、男の一言は千金の重みがあるのですから、一度「やる」と言ったなら、滅びてでもやらなければならないのです。それが道理です。

 なぜですか。アダムとエバを中心として見るとき、天使長は志操を守らなければなりませんでした。自分の行く道を知って志操を守らなければならなかったのです。僕ならば僕の志操を守らなければならないのです。ところがその志操を守れなかったために堕落しました。女性は節概を守れなかったために堕落したというのです。そうではないですか。本来の夫はアダムであるにもかかわらず、天使長に引っ張っていかれたのではないですか。

 ですから、統一教会の原理は、愛を中心として話すのです。このように見るとき、神様が最も嫌うこととは何でしょうか。歴史を通して見るとき、淫乱がはびこれば、必ずその国は滅びました。神様が最も嫌うこととは何かといえば、淫乱です。淫乱を最も嫌われるというのです。これは何ですか。志操を破り節概を破り、食べたところから亡運が芽生えたために、このようになれば風雨が吹き込むのです。今日、この世界も倫理関係が何とも言えないほど紊乱しており、淫乱が膨脹しているので、打ちのめされる時が来るはずだと見るのです。

 では皆さん、「初臨主」が良いですか、「再臨主」が良いですか。初臨主が良いでしょう。「仕方がなく二番目の妻をめとるようになった。婚約をしようとしたけれども、みな線を引いてしまい、やむを得ず二番目にした」と、それが良いですか。二番目の結婚をする人は、最初の愛の十字架を越えなければなりません。それゆえ来られる主は、初臨主が失敗した愛の十字架を越えて、天の前に勝利した立場に立たなくてはならないのです。

 それゆえ十字架で亡くなった主が再び来る時には、栄光の姿で来ることはできないのです。十字架の道に来られなければならないのです。今日、既成教会の信徒は「主は栄光の姿で来られる」と思っているでしょう。十字架に来られ勝利したのちに、初めて栄光の主になるのです。

◆天の父母に侍ろうとするなら

 世界を愛そうとするなら、人間を愛さなければなりません。人間を愛さずして、世界を愛することはできないのです。では、人間を愛するには、どのように愛すればよいのでしょうか。どこから愛さなければならないでしょうか。根から愛さなければなりません。根はどこでしょうか。神様です。その次の根はどこでしょうか。アダムとエバです。その次の根はどこでしょうか。アダムとエバの息子、娘です。

 これを皆さん自身を中心として見れば、皆さんは堕落した人間の子孫として生まれたために、皆さんの父母にそのまますがっていれば、天の父母は入ってくる場所がないのです。それゆえ天の父母に侍り、入ってきてもらおうと思えば、皆さんの父母を移しておかなければなりません。

 皆さんは、皆さんの父母よりももっと良い父母を教えてあげて、それが間違いなければ、今の父母よりも良い父母に侍りますか、侍りませんか。これが問題になるのです。

 さて、一人のお兄さんがいるとしましょう。そのお兄さんが腕白だとします。こうしてもおどけ、ああしてもおどけ、夢に考えてもうんざりするお兄さん。そのようなお兄さんと、天地間に一人だけというおしゃれなお兄さんがいるとすれば取り換えますか、どうしますか。ところで、もしそのお兄さんが泣きわめくならば、どうしますか。お兄さんが「ええっ! お前は私の妹ではないか。私はお前と共に暮らしたいから、頼むからそのようにしないでくれ」と、こう言いながら泣きわめくならば、どうしますか。「うーん、そうしよう」と、こうすればいいですか。足でけってしまわなければなりません。

 ところが、足でけってしまってもすがりついてきたなら、どうしますか。問題は簡単ではないのです。より良い新郎、より良い新婦ができるかもしれないのに、今の新郎や新婦が自分をつかんで放さないとすれば、どうしますか。また、お母さん、お父さんが「やー、こいつ!
 この不孝甚大なやつ、私がお前を生んだのに、お前を生んだ父母に反逆できるか」と言えば、どうしますか。問題は簡単でないというのです。

◆来られる主の思想で愛の秩序を立てなければ

 堕落したのなら、故障が起きたなら、直さなければなりません。直そうとすれば分解しなければなりません。分解せずに直すことができますか。分解しなくてはならないでしょう。では、分解するというのはどうすることですか。現在のお兄さんとの因縁をそのままにしておくというのですか、切ってしまうというのですか。また、今の新郎新婦の因縁を壊すというのですか、そのままにしておくというのですか。分解とは、今までの因縁を壊すことです。

 今日、個人主義の世界の歴史は、全部壊してきた歴史です。今日の民主世界は、キリスト教文化圏であり、キリスト教文化圏は統一文化圏なのですが、博愛主義の世界になり、人類全体が互いに愛さなければならないにもかかわらず、その反対の思潮である個人主義が世界化してしまったというのです。彼らの前に国というものがあるでしょうか。国をみな壊してしまったのです。国がどこにあり、民族がどこにあり、父母と家庭がどこにありますか。みな途絶えたというのです。

 したがって、米国のような国では滅びの行為が繰り広げられているのです。一つのアパートに十軒が住んでいるならば、そこで自分たちの間で夫を取り替えて暮らす遊びをしています。そうしながら「この人は私の妻だ」と線を引くことは独裁だというのです。「何、そんなことがあるのか。それは昔、先祖の考えが足りなくて、楽しく暮らす方法を知らずに定めたのだ。それは独裁である。つまらなくないのか」と言うのです。「一カ月に一回ずつ替えて暮らせば、一年間楽しく暮らせるではないか」と言う、そのような輩がいるというのです。あらゆる歴史が繰り広げられているというのです。全部壊してしまったのです。彼らのお父さん、お母さんがどこにいて、兄弟がどこにいるでしょうか。すべて壊してきたというのです。

 このように自分勝手に分解したことを、私たちが再び作り直さなければなりません。削って磨いて組み立てなければなりません。こういう面で私たち統一教会は、組立工の訓練場所です。

 修理工場に入っていけば分解しなければならないのですが、なぜそうしなければならないのですか。堕落することによってどのようになったのかといえば、一番に真の父を失いました。二番目は真の夫を失い、三番目は真の子女を失いました。みな失ったのです。誰のせいですか。エバのせいかといえば、天使長のせいです。

 今日、この地上にいる人々を見れば、真の父と、真の夫と、真の兄がいないというのです。この地上に生まれた男性は天使長だけだというのです。天使長である父、天使長である夫、天使長である兄、このように天使長だけしかいないというのです。これまで女性は、彼らにくっついて生きていたのです。ですから女性は悲惨だというのです。

 例えて言うと、金持ちの高名なお嬢さんが、作男について暮らしているのと同じだというのです。何の話か分かりますか。そのようになったというのです。男性は、作男の血筋を受けて生まれたというのです。したがって、本来の父の愛、本来の夫の愛、本来のお兄さんの愛を受けてみたことのない女性なのです。

 それゆえ主は父の代わりに、夫の代わりに、そしてお兄さんの代わりに、その三種類の愛をもって来られるのです。この三種類の愛の因縁をエデンで完成できなかったがゆえに、そこで幸福な娘としての位置に落ち着けなかったことが堕落であるがゆえに、主がその三つの愛を総合して、この地上に尋ねこられなければならないというのです。

 では、今日の男性は何でしょうか。すべて天使長の輩です。また、詐欺師だというのです。どんな詐欺師でしょうか。女性をだまし取る詐欺師です。「そうでない」と言う人々は、まだその場に行っていないがゆえに、知らないから、そう言うのです。男性は、そのようになる性格が濃厚なのです。

 さて、イエス様が自分のお母さんに「あなたと私と何の関係がありますか」と言いました。その言葉は良かったですか、良くなかったですか。イエス様は、「天情を立てなければならないマリヤ、あなたは人情を追って、天情を立てなければならない息子の道に反しているのか。あなたと私に何の関係があるのか」と言ったのですが、その言葉は、良かったでしょう。天情と人情は行き違うのです。人が「良い」と言うところには天はないのであり、天が「良い」と言う所には人はいないのです。

 それゆえ、世の中が「良い」と言うところに色目を送り、拍子を合わせていく宗教は長くもたないのです。死の賭けをして、血を流して倒れたりする宗教は、世界の終わりを越えていくのです。それでキリスト教は、今まで死を引き継ぎ、殉教した先烈たちの血の功績によって発展してきたのです。そうする時に、天が共にあるのです。したがって、過激な怨 讐が過激に動員されてぶつかる立場をけ飛ばして、突き上がらなければならないのです。

 そうすれば、そこに天が共にあるのです。その場を通して、その道を通して本然の父母、本然の夫婦、本然の兄弟、本然の子女になれるので、その道を尋ねいくようになれば、世の中がすべて遮るようになるのです。ですから、世の中を捨てなさいというのです。

◆天国の起源

 では、きょうの題目は「人間の価値と天国の起源」なのですが、その起源とはどこでしょうか。家庭です。言い換えれば、お父さん、相対、お兄さん、この三つの愛です。エバが堕落することによって蹂 躙され、失ったこの三大愛を、私の一代にどのように実現させますか。神様のように人類を愛し、死んでいったイエス様のように人類を愛し、生きていらっしゃるときのイエス様のように人類を愛さなければならないのです。

 独身時のイエス様の立場で、その次には霊的な新郎新婦であるイエス様と聖霊の霊的な父母の立場で人類を愛さなければならず、神様の立場で人類を愛さなければならないのです。これが霊肉を中心とした相対基盤です。

 これがアダムとエバと神様が一致できる、三点が結合できる、天情と人情が出合える核心的な決定点です。この決定点を見ることができなかったがゆえに、この終わりの日に初めて新郎新婦の因縁を中心として、天情と人情が結束しなければならないのです。

 そうして、そこで天が探していた真の父母、真の父、真の夫、真の子女の立場を決定しなければならないのです。それが天国の起源になるのです。その天国の起源というのは、人格的基準の愛を中心として決定されなければなりません。これを確実に知らなければなりません。皆さんが天国に行けるか行けないかということは、漠然とはしていないのです。

 では天国に行くためには、どのようにしなければなりませんか。イエス様のようにしなければなりません。イエス様は、十二人の心を合わせるために三年の公生涯路程を歩まれ、死んでも行く道を行くことができず、復活して四十日間でそれを収拾していったのです。これと同様に、皆さんも十二人を糾合させなければなりません。十二人の心を合わせることができる資格者になれなければ、春夏秋冬の四季のある十二カ月を越せないのです。四位基台を中心として、そのようにしなければならないのです。父母を中心として、子女の立場で十二人の心を合わせなければならないのです。

 天国はどこにありますか。天国は他の所にあるのではありません。イエス様も「天国はあなたの中にある」と言いました。「天国は私の心にある」と言いました。それは、どういうことかといえば愛について述べた言葉です。神様の愛を中心として述べた言葉なのです。お前は独りでいるけれども、神様が人を愛してくださるので、独りではないというのです。

 絶対的な愛の基準から見るとき、愛だけがあなたを占領し、あなたの心と道とすべての空間世界を超越し、共にあり得る絶対的要因ではないかというのです。そのような基準で、「天国は私の心にある」と言ったのです。心が恋しがる天国をもっていない人は、実際に暮らせる天国を見ることはできないのです。

 天国は皆さんの中からです。兄弟間にあるのです。これはお母さん、お父さんの代身なのです。それゆえ女性に対するときには、お母さん、お父さんの贈り物であり、その方々の他の面を私に見せてくださるための贈り物として考えなければならないのです。男性を見るときも、お母さん、お父さんの他の面を見せてくれる贈り物として考えなければならないのです。そうしてこそ、それがすべての幸福の起源が宿ることのできる宇宙史的な一つのかなめになるのです。「統一基盤確保」というのも、その基盤の上で行われるのです。

 それゆえ、十二人を狂うように愛してみることのできなかった人は、天国に十二の真珠門があるといいますが、その門を自由に通過できないのです。十二人を狂うように、大人なのか子供なのかも分からず愛して暮らした人間は、どの門の前に行ってもふさがらないのです。それゆえ、狂ってみなければならないというのです。世の中の愛を中心としても狂うのに、天の愛を中心としてはもっと狂わなければならないのです。夜が昼のように恋しく、昼が夜のように恋しくあり得る、昼夜を動かせる情緒的な心情の基準を、神様を中心としてどのように体得するかということが大きな問題です。

◆天国を中心とした人格の価値

 天国の起源はどこですか。まず私が、私の心で父母を誰よりも愛さなければならず、兄弟を誰よりも愛さなければなりません。また家庭をもてば、お互いに最高に愛さなければなりません。

 そうして、花の中の花であり、香りの中で一番の芳香を放つ香りとして、宇宙を代表した価値がそこで結実することを望みながら、お互いが一つに結集するその因縁が強固にならなければなりません。そうしてこそ、そこで完全な種が勃発するのではないかというのです。生命の起源も、そのような愛から、存在価値の起源も、そのような内在的な愛を基盤とするところから始まるのです。

 人格的な価値は、相対を中心として決定されるのです。したがって、夫になった人は妻の前に神様よりも立派な方だと記憶されなければなりません。妻は「私は神様を見ることはできませんでしたが、私の夫を通して神様を見たし、世の中の純粋な愛を知りませんでしたが、夫を通じて世の中の純粋な愛がどのようなものかを知りました。また、夫を通じてお兄さんの愛がどのようなものかを知りました。また、夫を通じて兄弟の愛を私は知りました。夫は、すべての愛を教えてくれた中心者です」と言える女性にならなければなりません。また、夫もそういうお母さんの代表であり、新婦の代表であり、お姉さんの代表の心情を誘発することのできる愛の因縁を体 恤しながら生きていく男性にならなければなりません。

 そういう教育を受けて、「そういう教育でなくては窒息しそうだ」と言うほど、それが生活習慣になり、どんな社会でも年齢の多い人に対するとき、私のおじいさんであり、そうでなければ私のお父さん、お母さんであり、私のお兄さん、お姉さんであると考え、年下の人は私の妹だと考えることのできる心情をもたなければなりません。

 そういう心情が世界の随所に普遍化されれば、そういう家庭での心情が普遍化され得る環境が展開する所ならば、そこは間違いなく天国です。そのように暮らす人は、どこに行っても反対を受けません。彼がどこに行こうが、神様は彼と共にあるのです。それゆえ、彼はどこに行っても孤独ではないのであり、どこに行っても滅びないのです。

 人間の価値基準は、神様の愛を中心として決定されるのです。「天国の起源」は、堕落した人間の世の中の情緒的なすべての問題を超越した基準で、神様を中心として父母の愛、夫婦の愛、子女の愛をより生命線に接近させて、より全体の価値に一致させることのできる立場で、私がどのように体 恤したかというところで展開するのです。私が生きていることは世界のためだという心情と、私の愛の泣き叫びが世界に波及するという心情を感じなければなりません。

 そうして、歴史的なすべての聖人の生活感情と通じることのできる立場に立ったというとき、その一人は歴史の完成であり、時代の完成であり、未来の起源になることができるのです。そのようになるとき初めて、天国を中心とした人格の価値で暮らす人生になる、ということを記憶してくださるようお願いします。


















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